白雲去来

蜷川正大の日々是口実

天ぷらのこと。

2022-11-30 16:43:37 | 日記

11月26日(土)雨のち曇り。

昼食を兼ねた朝食は、チヂミ、サバの文化干し、ワンタンスープ。夜は、上の子供の誕生日の食事会を家族で関内の「天七」へ。このお店と、関内駅前の、サザンオールスターズの「原坊」の実家である「天吉」と共に横浜では有名なお店。「天七」のカウンターに座り、目の前で板前さんが揚げてくれる旬の物を食す。しかしながら、安くはないので、こういったハレの時にしか行けないのが残念。

天ぷらと言えば、京急の日ノ出町駅から伊勢佐木町へ向かう大岡川にかかる橋のすぐ手前に、野村先生のご家族御用達の天ぷら屋「天作」があった。私も何度か連れて行って貰ったことがある。先生がプロデュースした映画「撃てばかげろう」の横浜ロケの際、先生と川谷拓三さんと一緒に「天作」に行った。その折に川谷さんが、「良い映画があるんですが、小屋(映画館)にかからないのですが」。そのビデオ持っていると言うことで、食後に私が当時住んでいた磯子区のマンションでその映画を皆で見た。特攻隊、「敷島隊」を追視したセミドキュメンタリーの「北緯15度のデュオ」である。その映画を見た先生は、その場から西武のT氏に電話を入れて、西武系の映画館で上映が決まったといういきさつがある。

先生は、天ぷらを食べる時は、小皿に塩や抹茶塩、味の素、七味をミックスしたものに天ぷらにつけて食べた。余り「天つゆ」を使わなかった。私も、たまに天ぷら屋に行くと、思い出して、そうして食べることがある。先生も川谷さんも亡くなられてしまい、一緒に何度かお供をした「天作」のあった場所もビルが建ち、随分と様変わりしてしまった。「天作」のあった目の前に「瞼の母」や「一本刀土俵入り」を書いた「長谷川伸誕生の碑」がある。※写真は「撃てばかげろう」の横浜ロケの際、野村先生と川谷拓三さん。お二人とも亡くなられてしまった。


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52年目の憂国忌。

2022-11-30 16:24:37 | 日記

11月25日(金)晴れ。憂国忌。

朝食は抜いた。昼は、緑のたぬき、焼きおにぎり1個。夜は、久しぶりに下の子供が帰って来たので自宅で「やきまる」を使って焼肉。レタスとほうれん草のナムル、玉ねぎのマリネ。お供は「黒霧島」。酔狂亭で団らんの一献。

今日は、三島由紀夫、森田必勝両烈士追悼の「憂国忌」である。日本学生同盟関係の人たちが毎年、この日に追悼祭を開催している。早いもので、あの市ヶ谷義挙から52年が過ぎた。思えばこの事件があったからこそ民族派運動に目覚めた。言い換えるのならば、その事件がなければ私は間違いなく民族派運動には入っていなかっただろう。そういった意味では両烈士の義挙は私の人生のターニングポイントだったと言える。

三島由紀夫の本を初めて読んだのは高校生の頃で「潮騒」だった。十九歳でこの運動に入った頃に、いわゆる文学作品を読んでみたが、ほとんど頭に入らなかった。野村先生と知り合った頃、是非読めと言われたのが「蘭陵王」だった。本を読むのにも基礎体力が必要と思って乱読の時代を経て、ようやく三島の本と向き合えるようになったのは三十を過ぎた頃だった。

若い頃に一度だけ「憂国忌」に参加したことがあったが、何か違和感を感じて、会場を後にしたことがあった。もう四十年も前のことだ。それでも両烈士を敬愛し、尊敬する気持ちには変わりがない。何と言っても私の思想の原点でもあるのだから。

野村先生の『銀河蒼茫』の中に、「三島由紀夫、森田必勝自決一句」として「茫然と轟然と秋の夕日堕つ」がある。※写真は、もう30年ぐらい前、故阿部勉さんの主催した「尾崎士郎を偲ぶ会」。左から故四宮正貴さん。鈴木邦男さん。蜷川。犬塚博英さん。尾崎士郎ゆかりの柴又「川甚」にて。


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