白雲去来

蜷川正大の日々是口実

茂吉の愛した「うなぎ」。

2022-12-07 15:50:58 | 日記

12月6日(火)曇り。

「断食」に行っていると、「ああ、あれも食べたい、これも食べたい」と頭の中が食べ物のことで一杯になる。若い頃はそうでもなかったが、歳を取るにつれて「ふぐ」や「鰻」が好物となった。と言っても、浪人暮らしの身としては「ふぐ」に「うなぎ」は贅沢品である。呑兵衛なので、この時期には、熱燗のヒレ酒をやりつつ、フグ刺しで、浮世離れをするのが楽しみだが、幕末の志士、梅田雲浜の歌ではないが「妻は病床に臥し、子は飢えに泣く」という状態(大げさですが)で、一人こっそりふぐを食べに行くと言うのも、罪悪感に苛まれる。「うなぎ」もそうだ。ちょっとした鰻屋で、肝焼き、う巻、白焼きで一杯やった後に、うな重となると、諭吉つぁんが二枚近く出て行ってしまう。はぁー。とため息が五回ほど出るので、それを考えると二の足を踏む。

昨日の昼間に、お世話になっている方に、その「うなぎ」をご馳走になった。お店は、横浜の「うなぎ」の名店の「八十八」。「蒲焼」も当然美味しいが、「肝の山椒煮」もいい。日本酒を二合くらい、と喉まで出かけたが、さすがに昼間で、更に午後から挨拶に行く予定があるので、ぐっとこらえた。

「週刊文春」の平松洋子さんのコラム「この味」で知ったのだが、歌人の斉藤茂吉は大の鰻好きだったそうだ。その証拠に、斉藤茂吉記念館の運営に尽力した、林谷廣氏の著書『文献 茂吉と鰻』という本もある。「ゆふぐれし机の前にひとり居りて鰻を食ふは楽しかりけり」と詠んだ昭和三年には、実に六十八回も鰻を食べている。何と五日に一回の割合で食べているのだ。自宅他、銀座の「竹葉亭」、青山「佐阿徳」、浅草「前川」など都内のあちこちの店に行く。この三店の内、青山の「佐阿徳」は閉店してしまったが、「竹葉亭」と「前川」は営業している。戦時中も鰻の缶詰を幾つもストックしていたと言う。「もろびとのふかきこころにわが食みし鰻のかずをおもふことあり」と詠んだ。


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尊敬する先輩のこと。

2022-12-07 14:54:55 | 日記

12月5日(月)曇り。

私が役員の末席を汚している団体に民族革新会議(民革)がある。初期の民革のメンバーは、大先輩ばかりが加盟していた。初期の人たちで、現役で活躍しているのは、山口申先生のみだ。衛藤豊久、達豊、松本効三、高松正吉、小早川久之、矢代和剣、石川進、岡田尚平といった諸先輩は、皆鬼籍に入られてしまった。若い頃、この民革に追いつけと言うことで、「虎の会」を結成したが、何の運動の成果を見出すこともなく、有名無実、自然消滅になってしまった。そのメンバーの中で、国防青年隊初代会長の渡邉康司、内海政久、折本満の三氏が若くして亡くなられた。

現在の民革の議長は、民族派では珍しい国立大学(長崎大)出身の犬塚博英氏であるが、考えることがあって(多分)今年いっぱいで議長を退任する。犬塚氏は私よりも二つ年上の昭和23年生まれである。所謂、団塊の世代の方だ。大学在学中より、全学連など左翼の学生に対して反対運動を展開し、全国的な民族派の学生組織、全国学生自治体協議会(全国学協)で中心的な活動をした。卒業を期に上京し、以後は、「民族派の良心」と言われた中村武彦先生の門下となり、一水会の結成に関わったり(現在は退会)、常に指導的立場で運動の第一線で活躍している。

私が、初めて犬塚氏とお会いしたのは、昭和50年頃で、核拡散防止条約批准の反対運動を通じてである。当時、大場俊賢先生の学純同や一水会、そして個人的な参加では、笠原正敏氏、笹井宏次郎氏、私などが共闘して反対運動を展開した。確か、日本主義学生青年協議会(日青協)とかいう臨時の名前の会を作ったと記憶している。事務局長は、亡くなられた阿部勉さんだった。

考えてみれば、以後、私は、尊敬する先輩として、犬塚氏の背中を追い続けて来た。「経団連事件」の支援、参議院選挙「風の会」での事務局、「戦跡慰霊」、そして野村先生の追悼祭の群青忌も第一回からご指導を賜り、何度も追悼講演を行って貰った。教わったことはとても多い。民革の議長を退任するからと言って、運動から引退する訳ではないだろうが、一抹の寂しさを覚えるのは、歳のせいかもしれない。

 


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