12月6日(火)曇り。
「断食」に行っていると、「ああ、あれも食べたい、これも食べたい」と頭の中が食べ物のことで一杯になる。若い頃はそうでもなかったが、歳を取るにつれて「ふぐ」や「鰻」が好物となった。と言っても、浪人暮らしの身としては「ふぐ」に「うなぎ」は贅沢品である。呑兵衛なので、この時期には、熱燗のヒレ酒をやりつつ、フグ刺しで、浮世離れをするのが楽しみだが、幕末の志士、梅田雲浜の歌ではないが「妻は病床に臥し、子は飢えに泣く」という状態(大げさですが)で、一人こっそりふぐを食べに行くと言うのも、罪悪感に苛まれる。「うなぎ」もそうだ。ちょっとした鰻屋で、肝焼き、う巻、白焼きで一杯やった後に、うな重となると、諭吉つぁんが二枚近く出て行ってしまう。はぁー。とため息が五回ほど出るので、それを考えると二の足を踏む。
昨日の昼間に、お世話になっている方に、その「うなぎ」をご馳走になった。お店は、横浜の「うなぎ」の名店の「八十八」。「蒲焼」も当然美味しいが、「肝の山椒煮」もいい。日本酒を二合くらい、と喉まで出かけたが、さすがに昼間で、更に午後から挨拶に行く予定があるので、ぐっとこらえた。
「週刊文春」の平松洋子さんのコラム「この味」で知ったのだが、歌人の斉藤茂吉は大の鰻好きだったそうだ。その証拠に、斉藤茂吉記念館の運営に尽力した、林谷廣氏の著書『文献 茂吉と鰻』という本もある。「ゆふぐれし机の前にひとり居りて鰻を食ふは楽しかりけり」と詠んだ昭和三年には、実に六十八回も鰻を食べている。何と五日に一回の割合で食べているのだ。自宅他、銀座の「竹葉亭」、青山「佐阿徳」、浅草「前川」など都内のあちこちの店に行く。この三店の内、青山の「佐阿徳」は閉店してしまったが、「竹葉亭」と「前川」は営業している。戦時中も鰻の缶詰を幾つもストックしていたと言う。「もろびとのふかきこころにわが食みし鰻のかずをおもふことあり」と詠んだ。