白雲去来

蜷川正大の日々是口実

蜷川の男の料理、その1

2009-05-20 09:50:59 | インポート

五月十七日(日)曇りのち小雨。

 朝歩きに出ようと思ったら生憎小雨模様。仕方が無いので、自宅の掃除を済ませた後に、お世話になっている「実話ナックルズ」への原稿に取り掛かる。考えたら、今日が締め切りである。四百字で十枚。調子が良いときなら二時間ぐらいで書くことができるが、最近は、いつも、うーん、うーんと呻吟しつつパソコンに向かっている。知識は、ガソリンなどの燃料と一緒で、補給しなければ、どんどん出て行ってしまう。頑張らなくては・・・。

 夕方から、横浜駅に近い、松原商店街へ買い物。まぐろの専門店へ行き、晩酌の仕度。安いのか高いのか分からないが、まあスーパーよりは良いものが、安く買えるのは間違いない。まぐろとカンパチを買った。値段はヒミツ。その他、手作りのシューマイ、ラッキョウ、チャーシューなどを買ってから帰宅。

 私は、ネギが好きである。そのネギを使った簡単な男の料理がある。我が家に来たことのある人ならば、一度は食べたことのある料理、いや、酒のつまみである。

 まず「タコネギ」。スーパーで売っている刺身用のタコ(輸入物)をスライスしたものを、半分に切る。あまり大きく切らない方が良い。それに、斜めにスライスした多めのネギを載せる。味付けは、ごま油と醤油(ゴマ油8に対して醤油は2くらい)と味の素少々。好みで七味を入れても良い。それを混ぜると出来上がり。

 次は、ネギチャーシュー。これも「タコネギ」と同じ味付けだが、チャシューは、太目の千切り程度が良い。また、チャシューが冷えて硬い場合は、ビニール袋に入れて、湯煎するといい。ごま油にこだわるならば、日清食品から、カロリーゼロの物が出ているし、やはり上質なものが美味しい。

 そんな訳で、夜は、社友会の松本佳展君と小枝ちゃんのお二人が酔狂亭(我が家です)に来訪しての一献会。今日は、めずらしくワインを少々飲んだ。原稿はどうなったって。もちろん九分九厘書きました。大丈夫ですよ久田さん。


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国家と国民のためではなく「家名」の戦いなのか・・・。

2009-05-17 10:40:55 | インポート

五月十六日(土)曇り。岐阜から帰宅。

 七時起床。昨夜、早く寝たにもかかわらず、どうもベッドは苦手である。熟睡したつもりだが、どうも体がだるい。こんな時は、ゆっくり風呂に浸かるのが疲労回復の方法だが、ビジネスホテルの悲しさは、ユニットバスでのんびり入るには狭すぎる。まあその分安いのだから仕方が無い。九時に、木村代表と待ち合わせて帰路へ。山平氏は昨晩遅かったらしく、部屋に電話したら「ウーン、ウーン」といううめき声の後に、やっと普通の会話が聞こえてきたと、木村代表が言っていた。朝食をとっていなかったので、名古屋駅で「味噌カツ、えびふりゃー弁当」というものを買ったが、さすがに、朝食には重かった。十時丁度の「のぞみ」で新横浜へ。十一時二十四分着。横浜線に乗る木村代表と別れて、迎えの車で我が家へ。

 午後から事務所へ。沢山の郵便物の中に、五月一日の朝日新聞の夕刊が届いていた。この夕刊には、例の週刊新潮の謝罪文が掲載されているのだが、朝日は取っていないので、送って頂いたもの。これで、週刊新潮の「赤報隊実名報道」に関連した、週刊誌、新聞記事のスクラップが終了した。いずれ、整理表を作成して機関誌に掲載してみたい。

 六時から、久し振りに、神奈川県維新協議会(略称・神維協)の定例会に参加した。此の度、任期切れをもって執行部が一新するとのことで、ご挨拶を兼ねて出席したのである。神維協は、県単位の協議体としては全国初のもので、もう三十年以上も運動を続けている。かつて私も議長を経験したことがある。新執行部のこれからご活躍を期待する次第です。

 民主党の代表選挙で、下馬評どおり鳩山由紀夫が勝利し、新代表となった。民主党の鳩山VS自民党の麻生。歴史は繰り返す、と言うが本当だ。しかしこんな所で繰り返して欲しくない、と言うのが本音である。その昔、自由党総裁であった、鳩山由紀夫の祖父、鳩山一郎がGHQにより公職追放となり、後を、麻生太郎の祖父である吉田茂に託す。その後、鳩山一郎は五年間の髀肉の嘆をかこつ。追放解除となった鳩山は、吉田茂に政権の移譲を迫るが、吉田はこれを拒否。これが鳩山と吉田の確執となり、昭和二十九年、鳩山は岸信介、三木武吉などと日本民主党を結成する。(このことは、水木陽氏が書いた三木武吉のノンフィクション「誠心誠意嘘をつく」日本経済新聞社刊が面白い) 十七日の「産経抄」によれば、「外交官出身の吉田は自由主義者として知られ、日米関係を重視。経済優先、軽武装、憲法改正を拒否。生粋の政党人の鳩山は、憲法改正による再軍備となえた。共に、日本の将来の路線をめぐって命懸けの政治闘争を行った」と書く。

 今日は、その子の、その孫が、強く雄雄しい地盤を継いで、日本を混迷に導こうとしている。国家よりも正に「家」の戦いで、吉田の血を継いだ麻生が、改憲論者で、鳩山の孫が、かつての吉田の路線に似ていることが、皮肉と言えば皮肉である。議員の「世襲制」が問題となっている。子供が親を凌駕することもある。弟子が師匠よりすぐれる「出藍の誉れ」という喩えもある。それならば、親の選挙区以外から子や孫を出して、選挙民の洗礼を受けさすべきである。そんな厳しさに耐えられなくて、国家の舵取りが出来るのだろうか。

 「自民党をぶっ壊す」と言って大見得を切った小泉純一郎元総理が、引退する事は、正に引き際を知る、という美学に相当するが、子供に後を継がせるのはいただけない。「言う事とやっている事が違う」という評価が、特に政治家には、最低の評価である、ということが、分からなくなるほど「親バカ」ではあるまい。

 夜は、休肝日として、「そば飯チャーハン」のみとして早めに寝た。


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五・一五事件から七十七年。岐阜護国神社へ。

2009-05-16 23:34:35 | インポート

五月十五日(金)晴れ。岐阜へ。

 七時に起床。朝食を済ませてから新横浜駅へ。今日は、昭和七年の五・一五事件から七十七年の記念日、三上卓先生の門下生である花房東洋先輩の肝いりで、岐阜の護国神社にて「大夢祭」(注・「大夢」と「大悲」は三上先生の号)と「青年日本の歌・関係資料奉納式典」が行われる。九時半に、木村三浩代表と新横浜駅にて待ち合わせて、一路岐阜へ。

Cimg6194_2木村三浩代表。

 正午少し前に、岐阜駅着。ホテルに荷物を預けて、蕎麦の老舗「吉照庵」へ。昼食を兼ねて、早々と、蕎麦屋で一杯。一時、護国神社へ。頭山興助先生や伊藤好雄先輩、針谷大輔義勇軍議長や奥田親宗氏、大日本赤誠会の長谷川裕行氏などにご挨拶。一時半に本殿にて「大夢祭」を行った。終了後、花房先輩が奉納した三上卓先生が書かれた「青年日本の歌」の歌碑の前で、記念撮影。

Cimg6199 頭山先生を囲んで。

Cimg6214 青年日本の歌の歌碑の前で。

 その後、隣接している「せいらん会館」にて直会。この「せいらん会館」は、野村先生が「経団連事件にて復帰なされた直後に、お供で訪れたことがある。夜、風に乗って支那そばの笛の音が聞こえてきたので、先生が、「蜷川買って来い」と言うので、外に出たら、何と、長良川の向こう岸に、その笛の音のソバ屋はいたのである。先生は、自分の事を棚に上げて「お前は、そそっかしいねぇー」と呵呵大笑。その頃と、建物は変わっているが、思い出は色褪せない。

 全員で「昭和維新の歌」を斉唱して解散。ここ岐阜の護国神社には胡蘭成先生の「大八洲」の文字が刻まれた大石がある。

Cimg6206  

胡蘭成(こ らんせい、1906年(光緒32年)2月28日 - 1981年7月25日)は、中国の作家・思想家。中国の浙江省に生まれる。燕京大学を国民革命軍の北伐中に中退後、やがて政治に関わり、汪兆銘政府法制局長官に就くも、汪と意見の対立あって辞職。ジャーナリストとして漢口大楚報社長をつとめた。中国の著名な小説家、張愛玲と1944年に結婚するも1947年に離婚し、1950年に日本に政治亡命。上海黒社会の大物呉四宝の未亡人であった余愛珍と再婚した。一時期、台湾の中国文化学院(現在の中国文化大学)で教えて台湾の文壇にも影響を与え、同大学から永世教授の称号を受けたが、1976年に台湾からも追われる。日本では筑波山に居を構え、数学者の岡潔や物理学者の湯川秀樹、日本浪漫派の保田與重郎、川端康成等々と親交を結んだとされる。1981年、東京で永眠。(Wikipedia)より抜粋。

 その後、「大夢館」に移動して、二次会。大好きな「黒霧島」があった。一時間ぐらいでお暇して、柳ケ瀬の料理屋へ。朝が早かったのと、昼間からの酒で、もう限界。木村代表や山平重樹、細川嘉彦の両氏にご挨拶をして、ホテルに戻って、すぐにベッドに入った。


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田園調布の「鳥瑛」へ。

2009-05-16 22:40:54 | インポート

五月十四日(木)晴れ。

 六時半起床。朝食の後は、東京行き。郡山から下山した佐久間五郎氏と待ち合わせて、お世話になっている方へご挨拶。いつもとても大切なお話を伺い、感謝する次第です。終了後に、佐久間氏とお茶。

 十一時前に、秋葉原へ。実は、午後二時四十分に隠岐康氏と、電気街口で待ち合わせをしている。内視鏡検査の病院を紹介して頂くためである。一度、自宅に戻ろうかとも思ったが、やりかけの原稿があったので、どこか静かなコーヒーショップにでも入って仕事をしよと思って、そのまま秋葉原に向かった。随分前、「メイド喫茶」などが有名になる前の秋葉原には来たことがある。マッキントッシュの対応のプリンターを探しに来たのだった。

 十年以上前のことだから、その様変わりには、思わず「萌えー」。いやはや、平日だというのに凄い人出である。外国人も沢山いる。それも添乗員に連れられたツアー客が何組もいるのには驚いた。店に並んでいる品物が余りにも専門的な物が多いので、安いのか高いのか良く分からん。結局、二時間余りも、キョロキョロ、ウロウロしていた。マクドナルドに入って、百二十円のコーヒー一杯で、一時間以上も仕事をした。すまんマクドナルドさん。

 三時近くに、隠岐氏と合流。病院へ。内視鏡検査の権威との事で、待合室は、訪れる人がひっきりなしである。自分の番になって、問診の後に、血液検査を行い、検査の日を予約した。その後、隠岐氏と共に、田園調布へ。五時に、佐久間五郎氏と待ち合わせて、長嶋茂雄さんの馴染みの「鳥瑛」へ。ここを訪れるのも久し振りである。五時少し前だったが、佐久間氏の「顔」で、お店に入れてもらい、いざ我が友よ、まず一献。ここの「ハツ」と「モツの煮込み」「鳥のもも焼」は絶品。佐久間氏流で、ニンニクをたっぷりつけて食べる。焼酎は「三岳」である。いやはや美味いの何のって、マイッタ。

 その後、スナック「Be奈」へ転戦するのが決まり。ここでもしたたか飲んで、九時過ぎに解散。千葉に帰る隠岐氏が、一旦、横浜へ出る、というので、東横線で横浜へ。別れがたく、そのまま「サリー」の店へ、また転戦。十一時に解散した。小沢辞任も豚インフルも何処吹く風の大破・轟沈でした。


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二木啓孝氏の論文に・・・。

2009-05-13 22:11:09 | インポート

五月十三日(水)曇り。

 いゃー、ヒデェー二日酔いだ。昨日、それほど鯨飲した訳でもないのに、九時に起こされた時には、まだ酒が残っていて、布団から出ることが出来なかった。十時に床屋さんに予約をしてあるのだが、いやはや後悔した。ぎりぎり九時四十五分まで寝ていて、やっとの思いで床屋へ。オヤジに「酒のニオイがしますよ」と言われた。洗髪をして貰うときなど、下を向くので、気持ち悪いこと、この上もない。帰宅してから、二時近くまで、また布団に入った。

 三時に、軽くご飯を食べて、歯医者へ。さすがにこの時間になれば酒は抜けたが、今日は絶対に休肝日にしようと固い決意をした。

 犬塚哲爾先輩から、貴重な文章をメールで頂いた。それは、元「日刊ゲンダイ」の編集長だった二木啓孝氏が、評論家の高野孟氏の「THE JARNAL」という雑誌に書いた、「野武士ジャーナリズムの衰退を憂う」という文章である。添付で頂いたものを、少々長いが転載させて頂く。

野武士ジャーナリズムの衰退を憂う(二木啓孝)THE JARNAL5/11
 
 「本が売れない」--活字離れがいわれて随分たつが、昨年からの不況が追い討ちをかけて、月刊誌が相次いで廃刊になった。店頭から消えた「論座」や「諸君」などとともに、一番残念だったのが「月刊現代」の休刊(廃刊)である。3月末、この「月刊現代」を舞台に書いてきたライター69人が、それぞれの思いを執筆した「現代と私たち」という本を自主出版した。声をかけていただいた私は、大要、こんな内容を寄稿した。
 <週刊誌記者から夕刊紙編集記者、そしてフリーで仕事をしてきた個人的な体験からいえば、月刊誌はライターの腕を磨く「道場」のようなものである。週刊誌や新聞の行数では書き切れない、あるいは記事からこぼれてしまった取材内容や論評を数十枚の原稿にまとめるのは“出稽古”にも似た作業である。一方、雑誌の編集者は道場主の立場だ。あらゆるテーマで稽古を行い、一定の実力がついたなら、「もう真剣勝負も大丈夫だ」と単行本に挑戦させたり。そう、月刊誌は書籍で一本立ちできるまでのジャーナリストの登竜門であり、出版社にとってはライター養成の“武者溜り”のような場所である。その道場が失われることの損失は計り知れない>
 そんな雑誌ジャーナリズムの危機に、さらに追い打ちをかける出来事がおこった。週刊新潮で今年1月から4回にわたって掲載された「実名告白手記 私は朝日新聞『阪神支局』を襲撃した!」だ。連載では、1987年に朝日新聞阪神支局が襲撃されて記者の一人散弾銃で撃たれて死亡した事件について、その実行犯を名乗る島村征憲氏なる男の告白手記を掲載したのだが、これがまったくの虚偽だったのだ。
 連載開始当初から、マスコミ関係者では内容に疑問を呈されていた。そもそも、手記には刑事事件でいう「秘密の暴露」がほとんどなく、新事実についても確認の取れないものばかり。しかも、最後には告白を行った島村氏が、週刊文春や朝日新聞、毎日新聞などのインタビューに対して手記の内容を否定する発言をした。これで、週刊新潮の虚報は確定した。
 島村氏の一連の言動にはたしかに疑問を持たざるをえないが、この問題の本質は、週刊新潮が手記についての裏付け取材をした形跡がほとんどみられないところにある。たとえば、事件後に送られてきた犯行声明について、島村氏は新右翼活動家として知られる故・野村秋介氏に頼んだと語っている。だが、生前の野村氏の側近であった蜷川正大氏によると、島村なる男が野村氏の周辺に現れた事実はない。また、島村氏が右翼を自称してるので、島村氏が所属していた右翼団体の人間とも話をしたところ、犯行時は島村氏は北海道にいたと証言したという。
 蜷川氏が驚いたのはこれだけではない。島村氏が児玉誉士夫の門下生だったという証言について確認するため、週刊新潮に行って事実関係を問いただしに行ったところ、編集部の担当者が持ってきた児玉誉士夫の資料として、ウィキペディアのコピーがあったという。児玉について書かれた書物は世にあふれるほど出版されているにもかかわらず、インターネットの資料が使われていることに、蜷川氏は愕然としたそうだ。
 週刊新潮は、「島村が実際にそうしゃべっているから」ということで掲載したと言っている。だが、これは何ともおかしな理屈である。であるならば、週刊新潮は詐欺師の話でも裏付けなしで掲載するのか。私も正直に言えば、過去には週刊誌と夕刊紙でずいぶんと飛ばし記事を書いてきた。しかし、少なくとも死者の出た話や、歴史的な新事実について書く場合は念入りな取材をしたものだ。
 私が週刊誌記者だった当時、週刊新潮は徹底した取材を行う雑誌として業界内でも一目置かれていた。仲間内では「週刊新潮が取材した後はペンペン草も生えない」と言われるほどで、それゆえに週刊新潮のステータスは高かった。が、こんなことでは雑誌ジャーナリズムが世間から「どうせ週刊誌だから」と思われ、信頼が失わてしまう。冒頭に書いた『月刊現代』の休刊が道場閉鎖による書き手育成の場が失われることの危機とするならば、週刊新潮の虚報は雑誌ジャーナリズムの取材力、ひいては読者からの信頼性の危機である。
 雑誌記者の間では、「新聞は総理をつくり、雑誌は総理を引きずりおろす」というセリフがよく使われる。事実、1974年に『月刊文春』で発表された立花隆氏の「田中金脈研究」が、最終的に現職首相を追い詰めたという実績があるからだ。雑誌ジャーナリズムの神髄とは、ゲリラジャーナリズムとして乾坤一擲を放ち、ときには「一国のリーダーでも引きずりおろす」という気概にある。また、これこそが雑誌ジャーナリズムが持っている大手メディアの発表ジャーナリズムとは異なる“矜持”である。
 であるがゆえに、雑誌メディアにとって『月刊現代』が終止符を打ったことと、週刊新潮のこの雑駁な連載の影響は大きい。日本では数少ない野武士集団によるジャーナリズムが衰退の道をたどらないことを祈るばかりだ。
 

 
このように、まだ例の「週刊新潮」の虚報の余波が収まらない。私も、新聞、週刊誌や月刊誌に掲載された、今回の、新潮社の虚報問題のスクラップを続けている。いずれ、総括の記事を書いてみたいと思っている。


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