八月二十四日(水)曇りのち雨。
朝食の後に、三時過ぎまで事務所にて仕事。ニュースでは、日曜日にお台場で行なわれた、韓流偏重のフジテレビに対する市民団体の抗議デモに五千人もの人たちが集まったという。そのほとんどが組織動員された人たちではなく、ネットなどを見て参加した、ごく普通(普通というのは、既成の民族派団体などに属していないという意味)の人たちや主婦や子供連れの若い人たちが多かったことを知り、大いに考えさせられた。
五千人と言うのが本当であるならば、これは大変な、そしてある意味で、歴史的なことではないのだろうか。翻って、いわゆる現在の民族派の力で果たしてそれだけの動員が可能なのかと考えてしまうのだ。恐らく、五千人もの動員をかけるとするならば、発起人や実行委員会を立ち上げて、三分の一程度の基礎動員を確保し、そのための会議や根回しなどに大変な労力を必要とするのに違いあるまい。
詳しい事は分からぬが、その集会に参加した人たちのブログなどを拝見すると、そういった従来的な煩わしい段階を経ずして、ネットを中心とした呼びかけのみで、あれほどの人が集ったという。様々な意見があると思うが、私は、個人的に、これは戦後の民族派運動のターニングポイントとなりうる出来事であり、敢えて批判を承知で言えば、行動右翼・民族派を自負してきた我々世代の敗北であるかもしれない。
かつて歴史的には七十年代と言われた頃に、全国の大学で学生運動の嵐が吹き荒れ、日本中が赤旗の波に席巻された時代があった。その頃、左翼の学生運動に対して、民族派の学生運動が勃興した。代表的なものとして、日本学生同盟(日学同)や全国学生自治体連絡協議会(全国学協)などである。その二大勢力は既成の右翼運動を批判しつつ、「戦後体制の打倒」という新しい運動の流れを模索したが、左翼学生運動の衰退と共に、民族派の学生運動も、新しい政治潮流を構築できぬまま共に衰退してしまった。
全国学協などは生長の家というバックボーンがあったとはいえ、一時は三千、五千人という規模の集会を幾度も行なった。日学同も同様である。当時は、左翼の革命運動に対する目前の危機感があり、倒すべき敵もハッキリしていた。左翼の数に対して右も数を意識し戦ったのである。
お台場のデモに参加していた人たちは、かつてのような物理的な危機というよりも、日本人の魂の危機に対する怒りの発露のような気がする。これは私の勝手な思い込みかもしれないが、彼等の潜在意識の中に、戦後の右翼・民族派運動が、眼前の左翼に対する〈反共〉運動に没頭する余り、本来的な〈尊皇〉に起因する反体制運動から逸脱してしまったことへの失望感と嫌悪感があるのかもしれない。
そういった彼等の正義感の受け皿に我々がなり得ぬことへの真摯な反省は、我々の運動を阻害することにはなるまい。
保守系市民運動(というのが正しいか分からないが)が、一過性のものではなく、新しい民族派運動、いや維新運動への方向へ大きな波となって欲しいものだと思っている。
夜は、明日の陸自の総合火力演習を見学するために横浜に泊した大熊雄次、隠岐康、横山孝平の社友諸氏に加えて、栃木から人見仁氏等が来訪。中華街の「中華飯店」にて腹ごしらえをしたのちに関内へ転戦。最後は「サリーズバー」で高歌放吟して解散。