三月二十五日(日)晴れ。
明日から、愚妻の母が青森から上京し、一週間ほど我が家に泊まるので、朝から二階を大掃除。私は、一人で一階に寝ているが(トイレが一階にしかなく、降りてくるのがめんどうなので)、義母がいる間は、私が二階に寝て、愚妻は母と仲良く一階で寝ることになる。私の布団を二階に上げたりと、ちょっとしたお引越し。
午後から、事務所へ。日曜日とあってさすがに郵便物はないが、私の機関誌の準備をするために資料の整理をした。もう少し暖かなったら、本格的に資料の整理を行おうと思っている。事務所の引き出しには、野村先生に関する資料が、ただガサッと入れてあるが、それをスクラップブックに入れたり、テーマ別にパソコンに入力をするつもり。
「河野邸焼き討ち事件」関係の、引き出しを見ていたら、その事件にて野村先生が千葉刑務所に下獄中に、三上卓、毛呂清輝、葦津珍彦の諸先生らが出した手紙が出てきた。残念なことに、三上先生の物は、手紙の中身がなく、封筒だけである。しかし三上先生が亡くなられる前年に出した手紙の表面には、当時千葉刑務所の看守が書いた、先生の称呼番号(94番)や工場(3工)、そして居房番号(八下10房)などが書かれていた。
野村先生の獄中句集「銀河蒼茫」の春の句の中に、「八下独居はいかにも古めかし?い造りなり」と前書きして一句、「菜種梅雨 寒し便器は桶である」とあ?る。尾籠な話で恐縮だが、当時の古い刑務所の独房などでは、水洗の設備がなく、桶で用を足して、朝の出役の際に廊下に出しておく、という前近代的なものだった。もちろんそれを洗って戻すのも懲役の仕事だった。従って、連休など休みが続くと、房の中は臭気でたまらなかった。
そういった環境の中で先生は十二年もの歳月を獄中に過ごし、学び、書き、思索したのである。自堕落な日々を過ごしている私に、この三上先生が野村先生に宛てた手紙の封筒は、ガツンと心に響いた。