八月二十二日(水)晴れ。
三時までパソコンの前に座ってひたすら仕事。といっても暑いので、原稿を書いていても、あっちへクリックしたり、こっちへクリックしたり、つい寄り道をしてしまい、肝心な原稿の方は遅々として進まない。とりあえず溜まっている写真ファイルの整理をした。
三時から猛暑の中を東京行き。三時五十分の横須賀線で新橋へ。SL広場にて、大熊雄次、隠岐康の両氏と待ち合わせた。今日は、愛宕山にある愛宕神社にて行われる「尊攘義軍・殉皇十二烈士女」の慰霊祭がある。民族革新会議の犬塚博英議長が世話人になって毎年行われているものだが、以前のように大々的な呼びかけはせず、この日を「記憶にある」人のみが参加している。
尊攘義軍とは大東亜戦争の終戦に際し、降伏に反対し徹底抗戦を主張してゐた尊攘同志会は、昭和二十年八月十六、十七日に木戸邸を襲撃するが目的を果たせず愛宕山に篭城。特高が解散の説得を試みるも、篭城した尊攘同志会十名は、二十二日の午後六時に「天皇陛下万歳」を叫び手榴弾で自決したのである。そして、その五日後、尊攘同志会自決現場で夫人二名が夫のあとを追ひ拳銃自決。この十二名が「尊攘義軍十二烈士女」である。
尊攘義軍十二烈士女弔魂祭の神事は午後五時から執り行はれて、自決の時間である六時に黙祷を捧げ、「海行かば」を斉唱し、そして尊攘義軍の誓願詞「尊皇絶対 生命奉還 神州恢復 朝敵撃滅」を唱和し、最後に陛下の万歳を三唱した。この慰霊祭に初めて参加したのは、もう二十年以上も前のことだ。野村先生と一緒に参加したこともある。
今回の慰霊祭には、この慰霊祭を始められた故中村武彦先生のお嬢さんやお孫さんも参加し、挨拶をなされた。世話人代表の犬塚博英議長の肺腑を抉る「檄」にも感動した。流れ落ちる汗が己の怠惰を反省する良い機会となった。
※慰霊碑の前で神事、慰霊祭を斎行した。
愛宕神社は徳川家康公が江戸に幕府を開くにあたり江戸の防火・防災の守り神として将軍の命を受け創建された。江戸大火災、関東大震災、東京大空襲の度に焼失したが昭和三十三年に再建さた。寛永十一年(一六三四年)三代将軍家光公の御前にて、四国九亀藩の曲垣平九郎盛澄が騎馬にて正面男坂(八十六段)を駆け上がり、お社に国家安寧の祈願をし、その後境内に咲き誇る源平の梅を手折り将軍に献上した事から日本一の馬術の名人として名を馳せ「出世の石段」の名が全国に広まった。万延元年には水戸の浪士がご神前にて祈念の後、桜田門へ出向き大老井伊直弼を討ちその目的を果たした世に言う「桜田門外の変」の集合場所でもあった。「伊勢へ七度 熊野へ三度 芝の愛宕へ月まいり」の歌も詠まれている。(神社の資料から)
終了後は、大熊、隠岐の両氏のお世話にて、新橋駅近くの「おでん屋」にて直会。最終電車で帰宅。