白雲去来

蜷川正大の日々是口実

「三丁目の夕日」の時代は、決して良い時代ではなかった。

2012-08-14 08:57:33 | インポート

八月十三日(月)曇り。

曇り、といっても暑いのは変わりがない。それでも日中はクーラーを使用せずに、扇風機で我慢している。お陰様で我が家は風通しが良いので、無料の涼風に助けられている。

「三丁目の夕日」がヒットしている。我が家でも家族揃って見た。私は、いわゆる「社会派」なんて言われている映画が好きではない。ただ単純に「面白い」だけでいいと思っている。大体、「社会派」何て言われている映画を作るのは、曲学阿世の左巻きの連中が多い。映画を見て、疲れても仕方がない。

「三丁目の夕日」の時代は、昭和三十年代で西暦でいえば一九六〇年代だ。無い物ねだりで、「懐かしい」あるいは、その時代を知らない人たちは、「羨ましい」などと思うかもしれないが、それほど良い時代ではなかった。もし、若い人たちが、その時代の暮らしをしてみろと言われても、到底無理だと思う。まず、暑くてもクーラーなどない。トイレも水洗の所などほとんどなく、「落とし」のもので、夏になれば、その匂いに辟易したものだ。ゲームもないし、車どころか、冷蔵庫も洗濯機も、庶民には普及していなかった。もちろんコンビニもない。

下町の道路はまだ舗装が行き届いてなく、雨が降れば「長靴」が必需品だった。海外旅行なんて一部の特権階級(古い言葉だ)の人たちだけで、持ち出せる外貨(ドル)も制限され、沖縄に行くのも渡航証(パスポート)が必要で通貨はドルだった。

思想的にも、敗戦の反動で左翼の全盛時代で、「左翼にあらずんば、人にあらず」という風潮がはびこっていた。その頃、学者はもとより、評論家や作家に至るまで、その人たちを貶める最強の言葉が、「あいつは右翼」だった。当時使われていた「ゆるふん」「ダラ幹」「貞操」「操」何ていう言葉は、もう死語となっている。

まあ、それでも不便な分、人々がいたわり合い、助け合って生きていた。たとえば、醤油がきれると、隣に借りに行ったり、何か頂き物があれば、「おすそ分け」をした。「頂いた物が入っていた皿や器を、空で返してはいけない」と言うことや、出かけるときは、隣近所に声を掛けてから、何ていうのは当たり前のことだった。

午後、遊んでいて、風呂屋の煙突から煙が上がると三時。豆腐屋のラッパが聞こえると、大体四時頃で、近くの工場のサイレンが鳴ると五時で、「カエルが鳴くから、かぁーえろー」と歌って家に戻った。時折、そんな昔のことを思い出す時があるが、ただ懐かしいと思うだけで、戻りたいなどとは思ったことがない。

六時から、歯医者。帰宅してからは、送って頂いた「赤霧島」で、軽く家飲み。録画しておいた山田洋次が選ぶ「喜劇」の中から、昭和三十一年に公開された「台風騒動記」を見た。いやはや面白かった。その中で、小学校新築の資金繰りを話す町議会で、ある町議が、「町長、そんなことでは保全経済界も金を貸さんぞ」という台詞があった。当時、戦後最大の金融経済事件と言われた「保全経済界事件」(ウイキベディアで調べてみてね)の主犯の伊藤斗福氏と野村先生は、千葉刑務所で一時期同房だったことがある。後日、野村先生の使いで、伊藤氏に会いに行ったことなどを懐かしく思い出した。


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