白雲去来

蜷川正大の日々是口実

本場金沢八景の「わかめ」。

2013-05-13 12:23:58 | インポート

五月十一日(土)曇りのち雨。

午前中に、修学旅行の打ち合わせと荷物を学校に運ばなければならないと言う子供と、その友達を車で学校に送って行った。四泊五日で北海道に行くとか。函館、札幌、小樽、旭川と豪華なものだ。ちなみに子供の行っている学校は、三選択制とかで、北海道の他に、沖縄、語学クラスは、何とカナダというコースもあるとのこと。

たかが(失礼)修学旅行で親も行ったことのないカナダなど論外だが、沖縄はこの時期は梅雨。北海道の選択は大正解である。最も、昨年の六月に沖縄には一緒に行っているので、北海道を選んだとのこと。下の子供も、来週から修学旅行で京都と奈良に行く。私が中学生の頃は、やはり京都と奈良に行った。上の子供が、中学生の頃に京都奈良へ行った折の写真を見たが、二条城などでは、私の時代に撮ったほとんど同じ場所で記念写真を撮っていたのには感慨深かった。高校の時は、九州だったが行かなかった。

高校と言えば、昨日、金沢八景に住む同級生の木川勲氏より、地元金沢の「わかめ」をご恵送頂いた。毎年、この時期に頂くのだが、私はこの金沢の「わかめ」が大好物である。知らない人は、えっ金沢八景や文庫の海で「わかめ」が獲れるのと驚くが、八景や文庫は私が中学生の頃までは遠浅の海があった。ほとんど埋め立てられてしまったが、今でも海はある。

確かに、北陸のわかめと比べると、少々見てくれが悪いが、何の何の、味は独特で美味しい。北陸のわかめが、公立の進学校ならば、「金沢のわかめ」は、横浜高校が、私たちの時代には、「横高」をもじって「ヨタ高」と呼ばれていた時代の不良の面影がある。とにかく気取らず飾らず、懐かしさとワイルド感がいいのである。早速味噌汁に入れたり、今日はわかめたっぷりのうどんを作った。

木川氏は、高校時代も有名で、学生服の下にダボシャツ、雪駄姿で登校していた。私と一緒に港で夜勤のアルバイトをやってから学校に行き、教室で寝ているということを何度も繰り返した。確か実家は魚屋さんだった。現在は、金沢の神輿会の重鎮として活躍している。最近は歳のせいか高血圧で調子が悪いようだが、健康に留意して頑張って貰いたいものだ。

P1000539 ※「本場金沢八景のわかめ」です。

夜まで、「大吼」の校正。もう一息である。一段落をしてから松原商店街へ買い物。マグロのブツを買ってきて酔狂亭で独酌。


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母の命日。

2013-05-13 10:36:08 | インポート

五月十日(金)曇り。

今日は母の命日である。朝食後に様々な支払いを兼ねて、仏壇のお花や供物を買いに出た。私の母は、大正八(1919)年生まれであるから、元気ならば九十四歳となる。十二年前に脳こうそくが原因で亡くなった。従って今年で十三回忌となる。

亡くなる三年前から寝たきりとなり、いわゆる植物人間のようになり、父がつきっきりで母の世話をしていた。週に一度ぐらい、母の所へ見舞に行ったが、父の介護には一切反応をしない母だったが、私が耳元で「バアバ」と声を掛けると、体をビクッとさせた。

それを見ていた父が、「俺には全く反応しないのに、息子が来ると分かるんだなぁー」と嘆息した。父は、私の実の父親ではなく、私が結婚して家を出た後に、母と一緒になった。職人気質のまっすぐな人で、私の子供たちを実の孫のようにかわいがってくれた。母が倒れてから父の献身ぶりは、実に大したもので、週に一二度来訪するヘルパーさんの間でも有名だった。母が亡くなった日に来た医者と看護師が、私に向かって「三年も寝たきりで床ずれのない人は珍しいですよ」と、実の息子であるにも関わらず、ただ声を掛けることしかできなかった私へ、少々非難じみた感じで言った。

母が亡くなってからも、三日に一度伊勢原にあるお墓に行き、駅前のお花屋さんとも親しくなっていた。母が亡くなってから三年後に父も他界したが、その折に、父が行っていた伊勢原のお花屋さんに、父の写真を見せたら、「えっ亡くなられたのですか」と非常に驚いていた。

我が家の御仏壇に、母の好きだった花、「母の日」が近いので、今日はカーネーションを沢山飾った。前述したように、母は大正八年の生まれである。西暦は一九一九年。母が生まれた年と言うのはどんな時代であったのか、調べてみた。  白ロシア・ソビエト社会主義共和国樹立、 ドイツのミュンヘンでドイツ労働者党(後の国家社会主義ドイツ労働者党)が結党、 第一次世界大戦の終結に関するパリ講和会議開催、イタリアでベニート・ムッソリーニが「戦士のファッショ(後のファシスト党)」を結成、ドイツが連合国とヴェルサイユ条約を締結、孫文らが中国国民党を創立、アメリカ合衆国でボルステッド法(禁酒法)制定。そしてこの年に日本で カルピスの販売が開始された。そうかアメリカでアル・カポネが暴れまわったのは、母が生まれた時代だったのか・・・。

余談だが、「桜田門外の変」が起きたのは安政七(一八六〇)年のこと。母が生まれる五十九年前のことである。当然ながら、母の父、すなわち私の祖父は明治生まれ。(我が家には二十人ほどの名前が書かれた過去帳があるが、法名と没年のみが記載されていて俗名や母との関係が記されていない) 母の祖父は、間違いなく江戸時代の人となる。私にとっては曾祖父となる人である。母までは、皆富山県は滑川の出身であるから、「桜田門外ノ変」には遭遇されていないだろうが、もし東京にいたならば、生々しい話を母は聞いていたかもしれない。

何を言いたいかと言えば、近代史において、高々百五十年くらいは、つい昨日、と言えば大げさかもしれないが、私が小学生の頃であったならば、そういった話をリアルタイムで聞けたかもしれないのだ。ちなみに母は、昭和十一年には東京の渋谷にいて、二二六事件のことを覚えていた。母が十七歳の時の出来事である。

正午から松本佳展君に迎えに来て頂き、川崎の野村先生の家に行く。先日、奥様から連絡があり、野村先生の本を私にくれるということで、頂きに行った。まずお仏壇に手を合わせてから、押し入れにあった本の片づけをしたが、嬉しいことに、先生の読んでいた本は、ほとんど私も読んでいる。何か先生の息吹が感じられて、少しほろっと来た。松本君が「大右翼史」を欲しいと言うのでプレゼント。

奥様にお礼を言ってお暇した。本は、そのまま事務所へ。整理するのが楽しみである。

夜は、久しぶりに、自宅近くの焼肉屋「清水苑」へ行った。最近は歳のせいかあまり肉を食べたいと言う欲求がない。それでもご近所付き合いも大切。その後、すぐ近くの「魚くま」へ転戦してから帰宅。


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茄子の活け造り?

2013-05-12 15:43:25 | インポート

五月九日(木)曇り。

世の中に「食通」を自任する人は数多いるだろうが、先日読んだ嵐山光三郎先生の「素人包丁記」(講談社)の中に書いてあった「ナスの活け造り」にはぶっ飛んだ。それは、鉢植えの茄子の実を、枝になったままぬか漬けにしてしまうというもの。茄子は山形や高山の小茄子を使うそうだが、「茄子のおしんこです」といって、鉢植えのまま食卓に出されたら、お客さんはさぞ驚くに違いあるまい。また枝になったままの梅を塩漬けしてしまったり、目からウロコの本である。こういった本を読んでいる時が一番楽しい。

午後一番で、友人が来訪。資料を提供するために事務所へ。この年下の友人氏。たまに来訪するときに決まって「メンチカツ」を手土産に持って来てくれる。初めてこのメンチカツを頂いた時には、世の中にこんな美味しいメンチカツがあるのかと唸ってしまった。それは大和市の福田という所にある「太田屋」という肉屋さんが作るメンチカツである。神奈川県の高座豚と言われる「ヨークシャー種」を使用しているそうだ。冷凍で頂くので揚げ方にコツがあるが慣れてしまえば何のことない。一個百円とお手軽だし、興味のある方はどうぞ。

Photo ※新聞にも取り上げられました。

車のカギを愚妻が持って出かけてしまったので身動きできずに一日自宅待機。夜は、酔狂亭で月下独酌。


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シュリーマンの「清国・日本」の滞在記が面白い。

2013-05-11 17:20:38 | インポート

五月八日(水)曇り。

みなとみらい(横浜以外の方のために「みなとみらい」とは、桜木町から海に面した再開発地区。ランドマークタワーやホテル、国際会議場、赤レンガ倉庫などあって横浜きっての観光スポットとなっている)へ行く用事があったので、ついでにタワーの中の書店に寄り書籍浴。

講談社学術文庫の中に欲しい本が幾冊かあったが、その中で「トロイアの遺跡」の発掘で知られているハインリッヒ・シュリーマンが、幕末に中国と日本を訪れた時の旅行記、「シュリーマン旅行記、清国・日本」(石井和子訳・800円)を購入した。奥付を見ると1998年の初版から昨年の10月まで、何と42回も版を重ねている。すごい。しかし、とっくに著作権は失われているだろうし、印税は誰の所に行くのだろうか。訳者かそれとも誰か版権を持っている人にだろうか・・・。まっそんなことはどうでもいいことで、これが本当に面白い。日本が、明治と変わる三年前の滞在記だが、その観察眼には正に脱帽。どこかの国に行くときは、ビデオやカメラに頼らずに、貪欲に、かつ冷静に人々の生活を眺めながら旅をしたら面白いかも。

当時の中国のどの都市もそうだが、汚さ不衛生さは訪れた人たちが異口同音に書いているが、シュリーマンが紫禁城を見た時の印象が感慨深かった。それは、その後に崩壊する清帝国を象徴するような文章でつづられている。

「城壁のなかを見ようと、隣の塔に登った。二階建ての宮殿、それよりやや小さいいくつかの宮殿、寺々、そしてどっしりとしたあずまやを配した広大な庭園を見ることが出来た。すべてがまったく顧みられず、いままさに朽ちようとしていた。伸びるがままの草木が、宮殿の青や緑の瓦や寺々、あずまやを埋め尽くしている。庭にしつらえられた大理石の橋も、多少とも壊れていないものは一つもない。(中略)途方もない費用をかけて建設したこの壮大な建築物を、いまや頽廃し堕落した民族が崩壊するするにまかせているのを目の当たりにするのは、じつに悲しく、心痛むことだ。」と書いている。

ちなみにシュリーマンが中国と日本を訪れたのは1865年で日本は慶応元年である。シュリーマンが「頽廃と、堕落した民族が崩壊するにまかせている」清帝国は、彼が訪れた47年後に辛亥革命によって約270年の歴史の幕を閉じる。まだ途中までしか読んでいないが、面白いのなっんのって。しばらく楽しめそうだ。

夜は、恒例の「蜷川政経懇」を開催。場所は、地下鉄吉野町駅の上にある「一銭」。ここで食事の後に、有志らと関内に転戦。二軒ほど転戦してから帰宅。

Photo ※面白いです。


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東洋文庫のこと。

2013-05-08 11:30:53 | インポート

五月七日(火)晴れ。

ゴールデンウイークが終わって巷は仕事モードになって、東証は約五年ぶりに一万四千円台を回復し、円安もすすみ一ドルが百円に迫ろうとしている。アホノミクスではなかったアベノミクスとか言うものの効果かもしれないが、良く考えてみれば、何か効果的な経済政策を行ったのか・・・?。何もしていないにも関わらず、このとりあえずの景気の上向きはいったいなんだ。まあ東証も円安も、我が家と私には何の恩恵もないので、関係ないか。

ゴールデンウイーク終盤になると、何処のニュースも、帰国でごった返す成田空港や新幹線、渋滞する高速道路を映す。貧乏人の僻みではないが、ゴールデンウイークは、旅行費がべラボーに高い。そんな中で家族で旅行に行っていた子供が、インタビューに答えて、「ハワイに行ってました。楽しかった」何て言うのを見ると、コノ、コノ、ウンニャロメー!と、独りごちる。こちとら、いつもゴールデンウイークや盆暮れ正月の三が日を避けて旅をするのに。まあ、普段の日に休めない人たちの方が多いのだから仕方がない。

午前中に、「実話ドキュメント」へ第百三十回目の連載原稿を送る。今回のテーマは「東洋文庫を読む」である。東洋文庫を初めて読んだのは、宮崎滔天の「三十三年の夢」だった。旅行記が好きなので以来、何冊か読んだが、東洋文庫は、平凡社だけではなく、日本と日本人が誇る叢書シリーズであると思っている。

東洋文庫の大きな特徴は、日本、中国、朝鮮、北アジア、東南アジア、南アジア、中央アジア、西アジアなどを含むアジア全域の各地域に関する古典作品を日本語によって提供するもので、時代は古代から現代にまで及び、扱う刊行分野の特色も文学、歴史、宗教、思想、芸術、旅行記、自然科学などの伝統的分野のみならず、紀元前の古代から二十世紀までの(日本から地中海までの)外国人によるアジア地域研究や、ユーラシア・アジア紀行探検などもある。「東洋」という名に象徴されるように、東洋の古典的遺産を日本・中国・韓国はもちろん、インドや中近東、中央アジアまで広く紹介しようという意図で創刊された。

夜は、「チヂミ」と頂き物の「山芋」を「鬼おろし」で荒くおろした中にマグロのブツ切りを入れて、練りワサビをたっぷり利かせた「マグロのやまかけ」に玉ねぎを甘酢に漬けたものを肴に酔狂亭で月下独酌。九時過ぎに眠くなり早めに布団に入った。

411rzx2989l_sl500_aa300_1 ※宮崎滔天の「三十三年の夢」。


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