白雲去来

蜷川正大の日々是口実

五・一五記念、大夢祭へ。

2013-05-17 15:36:56 | インポート

五月十五日(水)晴れ。岐阜にて。

良い天気である。昨年に続き、「大夢祭」に出席。本当は、三上卓先生に関する、贔屓の引き倒し、みたいな本が出たのを読んでむかついたのでやめようかとも思ったが、花房先輩とは直接関係ないので、考え直して参加することにした。門下生と言うのは、その志を継ぐことが責務である。同じ事などは到底できないが、恩師の思想と行動を風化させないように努力することが、門下生としての最低の仕事である。

ゆえに花房先輩は、恩師の資料館「大夢館」を作り、毎年、五月一五日には、追悼祭である「大夢祭」を行い、この度、河野邸焼き討ち事件にて三上卓先生が証人出廷した記録を小冊子にして出版された。二度の長い懲役、最後は自決する、というある意味では三上精神を体現した野村先生を、会ってもいない奴が批判したりするのはとんでもないことだ。じゃあお前がやってみろ。というと、必ず「ただの物書きですから」と逃げるに違いない。自分に都合の良い、また耳触りの良い情報だけを集めた、ルポルタージュとしては最低の本。私は、どんな本でも大事にするが、生まれて初めて買った本をごみ箱に捨てた。

岐阜の駅に着いたのは、午前十時。まだ十一時半の開会まで時間があるので、駅でコーヒーを飲みながら、過日ご恵送された「プロメテウスの罠」を読んだ。煙草の煙が気になったので、コーヒーショップを出たが、まだ早い。いつもなら知らぬ土地で路線バスなど乗らないのだが、天気もいいことだし、案内所で聞いてバスに乗った。横浜は乗る時に支払うが、こちらは降りる時に払う。護国神社の近くまでは十五分ほど。二百円だった。私が岐阜に来た頃は、路面電車が走っていた。残しておけば良いものを・・・。と思っているのは旅人としての私だけだろうか。護国神社のある公園を散策していたら「満蒙開拓団」の慰霊碑があった。次は必ずお参りするつもり。

正午に、大夢祭(「大夢」は三上卓先生の号)開始。厳粛な神道の儀式。胸を打つ「祭文」と「大楠公」の琵琶の弾き語りにはとても感動した。一時間ほどで大夢祭は終了し、その後直会。ほとんどが知っている人たちばかりなので、楽しい時間だった。その後、大夢館に場所を移して二次会。一時間ほどでお暇して、五時過ぎの新幹線で横浜へ。

帰宅後は、疲れていたので、早めに寝た。

Dsc_0519 ※護国神社にある「昭和維新の歌」の歌碑の前で。


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小野田寛郎「私が見た従軍慰安婦の正体」

2013-05-16 11:20:39 | インポート

五月十四日の特別。

私が見た従軍慰安婦の正体

 首相の靖国神社参拝や従軍慰安婦の問題は、全く理由のない他国からの言いがかりで、多くの方々が論じているところだ。南京大虐殺と同様多言を弄することもあるまいと感じていたのだが、未だに妄言・暴言が消え去らない馬鹿さ加減に呆れている。
戦後六十年、大東亜戦争に出征し戦場に生きた者たちが少なくなりつつある現今、私は証言として、「慰安婦」は完全な「商行為」であったことを書き残そうと考えた。
外地に出動して駐屯する部隊にとって、治安維持と宣撫工作上最も障害になる問題は、兵士による強姦と略奪・放火である。そのためにどこの国もそれなりの対策を講じていることは周知の通りである。大東亜戦争時、戦場には「慰安婦」は確かに存在した。当時は公娼が認められている時代だったのだから至極当然である。
野戦に出征した将兵でなくとも、一般に誰でも「従軍看護婦」と言う言葉は常識として知っていたが、「従軍慰安婦」と言う言葉は聞いた者も、また、使った者もいまい。それは日本を貶める為に後日作った造語であることは確かだ。
 淫らな言葉だが、中国戦線では「ツンコ・ピー」「チョウセン・ピー」と呼んでいた筈であるが、他の人の見ている所でする筈のないことだけに、「慰安所」のことも「慰安婦」のことも、公の場で自己の見聞を正確に発表する人が少ない。あまり詳しいと「よく知ってるね」と冷笑されるのが落ちだろう。
 では何故、君は、と私に聞かれるだろうが、幸い私はその実態を外から観察出来る立場にあったから、何も臆することなく、世の誤解を解くために発表することが出来るのだ。

 ◆漢口の「慰安所」を見学

 商社員として十七歳の春、中国揚子江中流の漢口(現武漢)に渡った私は、日本軍が占領してまだ五カ月しか経っていない、言わば硝煙のにおいが残っている様な街に住むことになった。当時、漢口の街は難民区・中華区・日華区・フランス租界・日本租界・旧ドイツ租界・旧ロシア租界・旧英国租界に分かれていて地区ごとにそれぞれ事情に合った警備体制が敷かれていた。
日華区とは日本人と中国人とが混じって住んでいる地区で、そこに住む中国人は中華区に住む者と同様「良民証」を携帯しており、そうでない者は警備上難民区に住まされていた。
難民区は日本兵も出入りを禁止されていて、私たち在留邦人は届け出て許可を得なければ出入り出来なかった。それだけ危険な場所だった。
 私は、仕事が貿易商だから、難民区以外はよく歩いた。ある日、汚れた軍服を着た兵士に「慰安所はどこか知りませんか」と路上で尋ねられ、一瞬思い当たらず戸惑った。しかし看板に黒々と「漢口特殊慰安所」と書いて壁に掲げていて、その前に歩哨と「憲兵」の腕章をつけた兵隊が立っている場所を思い出したのでその通り教えてあげた。映画館と同様に日華区にあった。汚れた軍服から推測して、作戦から帰ってきた兵士に間違いない。街を警備している兵士は、そんな汚れた軍服で外出してないからだ。
私は「特殊慰安所」か、なるほど作戦から帰った兵士には慰安が必要だろう、小遣い銭もないだろうから無料で餅・饅頭・うどん他がサービスされるのだろうと早合点していた。
ところが、私の知人が営む商社は日用品雑貨の他に畳の輸入もしていて、それを「慰安所」にコンドームなどと一緒に納入していたので「慰安所」の出入りが自由であった。彼に誘われて一般在留邦人が入れない場所だから、これ幸いと見学に行った。
 私たちは、憲兵に集金の用件を話してまず仕事を済ませた。日が暮れていたので「お茶っぴき」(客の無い遊女)が大勢出てきて、経営者と私たちの雑談に入ろうとしてきたが追い払われた。そこには内地人も鮮人も中国人もいた(現在、鮮人は差別用語とみなされ、使われない。しかし朝鮮半島が日本統治だった当時は「日本人、朝鮮人」などと言おうものなら彼らに猛烈に反駁された。彼らも日本人なのだからと言う理由である)。
 群がってきた彼女たちは商売熱心に私たちに媚びてきた。憲兵は特別な事情の時以外は、部屋の中まで調べに来ないからである。料金は女性の出身地によって上中下がある。また、利用時間も兵士は外出の門限が日没までだから日中に限られるが、下士官は門限が長く、将校になれば終夜利用出来る。料金も階級の上の方が割高で、女性たちは当然、同じ時間で多く稼げることになる。
半島出身者に「コチョ(伍長─下士官)かと思ったらヘイチョウ(兵長─兵士)か」、「精神決めてトットと上がれネタン(値段)は寝間でペンキョウ(勉強)する」とか、笑うどころではない涙ぐましいまでの努力をしているのも聞いた。内地人のある娼妓は「内地ではなかなか足を洗えないが、ここで働けば半年か一年で洗える」といい、中には「一日に二十七人の客の相手をした」と豪語するつわものもいた。

◆どこにもいなかった「性的奴隷」
 
ここで親しくなった経営者の話を紹介しよう。「体力的に大差がない筈なのに、内地人は兵士たちと言葉が通じるために情が通うのか、本気でサービスして商売を忘れ健康を害してしまう。そのために送り返さねぱならず、経営者にとって利益が少ない。兵隊さんには内地人ばかりで営業するのが本当だが」と本音を漏らしていた。
私の育った街には花柳界があったので、芸妓と酌婦をよく眼にしたが、当時は玄人女と呼ばれた彼女たちの外出姿でも一般の女性と見分けることが出来た。その目で見れば漢口の街でも同様だったが、特に朝鮮人の女たちは特色があった。というのは彼女たちは数人で外出してくるのだが、民族衣装ではなく、着慣れないツーピースの洋装のせいで着こなしが悪く、また歩き方にも特徴があって一目で見分けられた。
彼女たちは実に明るく楽しそうだった。その姿からは今どきおおげさに騒がれている「性的奴隷」に該当する様な影はどこにも見いだせなかった。確かに、昔からの言葉に、「高利貸しと女郎屋の亭主は畳の上で往生出来ぬ」というのがあった。明治時代になって人身売買が禁止され「前借」と形は変わったが、娘にとっては売り飛ばされた」ことに変わりはなかった。
先述の「足を洗う」とは前借の完済を終えて自由の身になることを言うのだが、半島ではあくどく詐欺的な手段で女を集めた者がいると言う話はしばしば聞いた。騙された女性は本当に気の毒だが、中にはこんな話もある。「『従軍看護婦募集』と騙されて慰安婦にされた。私は高等女学校出身なのに」と兵士や下士官を涙で騙して規定の料金以外に金をせしめているしたたかな女もいた。またそれを信じ込んでいた純な兵士もいたことも事実である。日本統治で日本語が通じた故の笑えない喜劇でもある。
 ところで、その「慰安所」にどれだけの金が流れたのだろうか。これが「慰安婦」が「商行為」であった確かな事実である。私の次兄が主計将校で、漢口にある軍司令部に直接関係ある野戦衣糧廠にいたので「慰安所」について次のような統計があると教えてくれた。
当時、漢口周辺には約三十三万人という兵力が駐屯していたが、ある理由で全軍の兵士の金銭出納帖を調べた。三分の一が飲食費、三分の一が郵便貯金、三分の一が「慰安所」への支出だった。貯金は給料の僅かな兵士たちにとって嬉しいことではなかったが、上司から躾として教えられている手前せざるを得なかったのが実情だった。私も初年兵として一ケ年、江西省南昌にいたが、食べたいのを我慢して貯金した。
一人の兵士がそれぞれ三等分して使った訳ではないだろうが、人間の三大欲は食欲、睡眠欲と性欲と言われるだけに、貯金を睡眠に置き換えると全く物差しで測った様な数字である。ちなみに当時の給料は兵は一カ月平均十三円程で、その三分の一を約四円として計算すると三十三万人で総額約百三十二万円になる。「零戦」など戦闘機一機の価格は三万円と言われたが、実に四十四機分にも相当する。
 サラリーマンの初任給が四十円そこそこの頃だったのだから、経理部の驚くのも無理のない話である。

 以上が、私が商社員として約三年半の間、外部から眺め、また聞き得た「慰安所」と「慰安婦」の実態である。
私が漢口を去った昭和十七年夏以降に、漢口兵站(作戦軍の後方にあって車両・軍需品の前送・補給・修理・後方連絡線の確保などに任ずる機関)の副官で「慰安所」等を監督した将校の著した『漢口兵站』と照合してみたが、地名・位置等について多少の相違点は見いだしたが、本題の「慰安所」について相違はなく、より内情が詳しく記されていた。これでは誰がどう考えても「商行為」であるとしか言いようがないだろう。
「商行為」ではない、軍による「性的奴隷」であるとそれでも強弁するとすれば、知らな過ぎるのか、愚かで騙されているのか、そうでなければ関西人が冗談めかして言う「いくらか貰うてんの?」なのかもしれないが、あまりにも馬鹿げた話である。

◆問題にして騒ぎ出す者たちの狙い

 次に、軍関与の暴論について証言する。 私は二十歳で現役兵として入隊、直ちに中支の江西省南昌の部隊に出征した。初年兵教育が終わって作戦参加、次いで幹部候補生教育、途中また作戦と、一ケ年一度の外出も貰えずに久留米の予備士官学校に入校してしまったから、外出して「慰安所」の門を潜る機会に恵まれなかった。
だが初年兵教育中、古い兵士には外出がある。外出の度にお土産をくれる四年兵の上等兵に「外出でありますか」と挨拶したら「オー、金が溜ったから朝鮮銀行に預金に行くんだ」と笑って返事をしてくれた。周りは周知の隠語だからクスリと笑うだけだった。
南昌には師団司令部があった。「慰安所」には内地人も朝鮮人も中国人もいて、兵士は懐次第で相手を選んで遊んだのだろう。私は幹部候補生の教育を、南昌から三十キロ以上も離れた田舎の連隊本部で受けた。
「慰安所」は連隊本部の守備陣地の一隅に鉄条網で囲まれて営業していた。教育の末期に候補生だけで本部の衛兵勤務につくことになった。もちろん勤務は二十四時間である。
 私は営舎係だったので歩哨に立たないから何度も歩哨を引率して巡察に出た。巡察区域の中に「慰安所」も含まれていた。前線の歩哨は常時戦闘準備をしている。兵舎内の不寝番でさえ同様だ。鉄帽を被り、銃には弾を装填し夜間はもちろん着剣である。その姿で「慰安所」の周囲だけならまだしも、屋内も巡察し、責任者の差し出す現在の利用者数の記録を確認する。軍規の維持とゲリラの奇襲攻撃を警戒しているからである。

 考えてみるまでもない、そこで遊んでいる兵士は丸腰どころではない。もっと無防備で不用心な姿の筈である。その将兵を守るべき責任は部隊にあるのは当然だ。それに性病予防の問題もある。そんな田舎に医師や病院がある筈がない。性病予防のため軍医や衛生兵が検査を実施するしかない。
「慰安所」の経営者は中国人だったし、日本では当時公認の娼妓と呼ばれた女たちも中国人だった。彼らも食料やその他の生活用品が必要だ。大人数なのだから、それなりの輸送手段もいる。辺鄙な場所だから部隊に頼る以外方法がない。部隊が移動する時もそうなるだろう。
 私の話す湖北省の言葉もだいたい通じたので、経営者と立ち話をして彼女たちについてそれなりの様子も聞き出せた。今でも「慰安所」の両側に部屋のある中廊下を巡察した不粋な自分の姿を思い出すが、こんな漫画にもならない風景が現実にあったのだ。これは私の部隊だけではないと思う。
 もう六十年も昔のことである。時代が変わり、また平時と戦時の違いもある。したがって娼妓(ここでは慰安婦に相当する)に対する解釈も当然変化している。そうであるにもかかわらず、すでに証拠も不完全になっていることを幸いに、今更これを問題にして騒ぎ出す者たちの狙いは何なのか。言えることはただ一つ、不完全だからこそ喚き散らしていれぱ、何かが得られると狙っているということだ。 戦場に身を曝し、敵弾の洗礼を受けた者として最後に言っておく。このことだけは確かだ。野戦に出ている軍隊は、誰が守ってくれるのだろうか。周囲がすべて敵、または敵意を抱く住民だから警戒を怠れないのだ。自分以上に強く頼れるものが他に存在するとでも言うのならまた話は別だが、自分で自分を守るしか方法はないのだ。
軍は「慰安所」に関与したのではなく、自分たちの身を守るための行為で、それから一歩も出ていない。
「異常に多く実を結んだ果樹は枯れる前兆」で「種の保存の摂理の働き」と説明されるが、明日の命も知れぬ殺伐とした戦場の兵士たちにもこの「自然の摂理」の心理が働くと言われる。彼らに聖人君子か、禅宗の悟りを開いた法師の真似をしろと要求することが可能なのだろうか。
 現実は少ない給料の中から、その三分の一を「慰安所」に持って行ったことで証明されている。有り余った金ではなかったのだ。
「兵隊さん」と郷里の人々に旗を振って戦場に送られた名誉の兵士も、やはり若い人間なのだし、一方にはそうまでしてでも金を稼がねばならない貧しい不幸な立場の女性のいる社会が実際に存在していたのだ。買うから売るのか売るから買うのかはともかく、地球上に人が存在する限り、誰も止めることの出来ないこの行為は続くだろう。根源に人間が生存し続けるために必要とする性さがが存在するからだ。
「従軍慰安婦」なるものは存在せず、ただ戦場で「春を売る女性とそれを仕切る業者」が軍の弱みにつけ込んで利益率のいい仕事をしていたと言うだけのことである。こんなことで騒がれては、被害者はむしろ高い料金を払った兵士と軍の方ではないのか。
「正論」一月号より


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七十年も前のことで、ガタガタ言うな!

2013-05-16 10:59:52 | インポート

五月十四日(火)晴れ。

大阪の橋下市長の、いわゆる「慰安婦」発言が波紋を広げている。まあ長い発言の中で、その部分のみを切り取って、都合の良い所だけを、繰り返し放送する。これは怖いことだ。

「慰安婦」が良いか、悪いかって・・・。良いも、悪いもない。当時では、そんなことは善悪の対象ではなかった。今は、止めましょう、ということで良いではないか。そういう職業を選ぶことしかできなかった当時の世相、倫理観が問題であって、別に「体を売る」という行為が、当時は是認されていたのだから、がたがた言われる筋合いはない。当時のことも認めない・・・。笑わせんじゃない。

昭和三十三年に、我が国で「赤線」が廃止されるまで、売春は合法だった。お隣の韓国だってつい最近まで「妓生」(キーセン)という職業の女性がいて春を売っていた。

かつて韓国には国営妓生と呼ばれる制度があり、更なる外貨獲得を目指して、一時はベトナム戦争時など海外にも派遣された。日本が復興し、海外旅行が再開されると、日本からの観光客に対しても、国営妓生が使われた。1990年代まで、キーセン旅行と呼ばれるほど韓国旅行が風俗旅行と同等の意味を持っていたのはこのためである。漢江の奇跡を経て、1980年代に韓国経済が軌道に乗り始めると、国営妓生の志望者は減少した。不足を埋める形で成長した民間の妓生では、フィリピンやインドネシアなどの東南アジアから女性を誘致するようになった。ソ連崩壊後は、ロシア人女性も誘致の対象となった。
だが、やがて外国人娼婦に対する違法行為が頻発し、一部で社会問題化する。そして2004年に、韓国の議会は、全ての売春施設を閉鎖し、売春行為を違法とする法改正を行った。これによって、妓生は大韓民国では事実上廃止された。(ウイキベディア)

この時に、韓国で売春婦が堂々と売春施設の閉鎖反対のデモ行進を行って、世界から顰蹙をかったことは記憶に新しい。

アメリカでも、戦後、日本に対して「特殊慰安施設協会」の設立を要請し、連合国軍占領下の日本に作られた同軍兵士の相手をする売春婦(慰安婦)がいた慰安所があった。その背景には、ヨーロッパの戦場で、米軍によるレイプの被害者が一万四千人(ドイツ人女性一万千四十人)いたことや、沖縄戦においても米軍上陸後、強姦が多発した。米軍兵士により強姦された女性数を一万人と推定する見解もある。更に、アメリカ軍が日本に進駐した際、最初の十日間、神奈川県下では一三三六件の強姦事件が発生したこと。

そういったことを防ぐために、軍隊では慰安所は必要だった。もしそれが現代の倫理観に照らしてけしからんと言うのならば、戦国時代に日本人同士が「国盗り」で争って、首を褒美の対象にしたことも、その遺族から損害賠償を要求されてもおかしくない。

大体、七十年も前の出来事を、いつまで外交カードに使われるのか。「うるせぇ!」と怒鳴りつけてやればいいだけだ。


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李瞬臣とニミッツか・・・。複雑だ。

2013-05-14 12:58:43 | インポート

五月十三日(月)曇り後晴れ。

今日から上の子供が修学旅行に行く。荷物が多いので最寄りの駅まで送って行った。函館、札幌、小樽から旭川。皆過去に何度も行ったことのある場所で、それぞれの街に、それぞれの人との思い出がある。函館に初めて行ったのは野村先生とだった。随分前にそのことを原稿に書いたことがある。土方歳三終焉の地に行き、記念の写真を撮った。後年、再びそこを訪れたが、記念碑のある場所が移動していた。確か「函館山」とかいう居酒屋の料理が美味しかったことを覚えている。

午後から事務所にて仕事。天気が良いので気持ちがいい。知り合いの朝日の記者氏から本が届いていた。朝日新聞の特別報道部が取材した福島原発事故を扱った本である。題名は「プロメテウスの罠ー福島原発事故、新たなる真実・3」(Gakken・¥1238)。この本は、第三冊目で、累計で十六万部も売れていそうだ。さらに日本新聞協会賞、早稲田ジャーナリズム大賞も受賞している。心して読むつもり。

Photo ※是非ご一読を。

今日から米韓海上合同演習が始まったそうだ。その演習に参加するのがアメリカの空母「ニミッツ」や韓国の駆逐艦「李瞬臣」と聞いて思わず笑ってしまった。ニミツツも李瞬臣も日本と戦った将軍。特に李 舜臣は、文禄・慶長の役においては、朝鮮水軍を率いて日本軍と戦った。韓国に行くと、必ず李瞬臣の銅像を見かける。一説によればその銅像は、皆日本の方を向いて立っているそうだ。

ニミッツは、先の大戦中のアメリカ太平洋艦隊司令長官および連合国軍の中部太平洋方面の陸海空三軍の最高司令官として日本海軍と対峙した。アメリカ海軍最後の元帥で、その将軍の名前をとったのが「空母ニミッツ」である。戦時中、このニミッツとマッカサーは、日本軍の不倶戴天の敵。昭和十九年に作られた「比島決戦の歌」の中では、こう歌われている。
「決戦かがやく アジアの曙 生命惜しまぬ若櫻 いま咲き競う フイリッピン いざ来いニミッツ、マッカーサー 出てくりゃ地獄へ逆落とし」と。

日本のイージス艦に「トージョー」とかいう名前を付けたら、彼の国がどんな顔をするのか見てみたいものだ。

夜は、真面目に酔狂亭で月下独酌。肴は早速昨日買った「圧力鍋」を使って作った「ガツ刺し」に伊勢原のJAで買ったキャベツを千切りにして、カニカマを混ぜてマヨネーズで合えたサラダ。そしてカツオの刺身。「八重の桜」を見たが、京都での場面は面白いが、八重の家のことになるとトーンが落ちてつまらないと感じてしまう。でも好きなメイサが出ているからいいか。


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お墓参り。

2013-05-13 12:50:37 | インポート

五月十二日(日)晴れ。母の日。

十日が私の母の命日だったので、家族でお墓参りに出かけた。東名高速はガラガラ。海老名のSAで「メロンパン」を買うのはお約束。途中の農協の生協で野村先生のお墓と私の両親のお墓に供える花を買う。

野村先生のお墓にはまだ新しい花があった。今日に限らず、いつも先生のお墓には花が添えてあり、誰かが訪れている。有難いことだ。両親のお墓を時間をかけて清掃して、カーネーションを供えて家族で手を合わせた。

帰宅途中に、近くのホームセンターに寄り、圧力鍋を買った。古いものが壊れてから久しいので、ようやく購入した。これで「牛筋煮込み」や「牛のハチノス」などの料理が簡単にできる。

五時半まで仕事をしてから、いつものお友達、カメ&アコちゃんとヒデちゃんと「颯」へ。しばらく飲んでら「やまと」に転戦。近々、洋光台のSさんもお誘いするつもり。

P1000535 ※野村先生のお墓。


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