白雲去来

蜷川正大の日々是口実

初雪か。

2016-01-13 10:53:17 | 日記
一月十二日(火)曇り。初雪。

寒いと思ったら、横浜は早朝に雪が降ったとのこと。昨年より五日遅い初雪だとニュースで言っていた。あんまり寒いので外に出かけるのをやめようかとも思ったが、額縁屋さんに行く用事を思い出して出かけた。「吹き上ぐる獄の寒風敗けてならじ」と野村先生が詠んだ冬の獄。それを思ったら何のこれしきと思うのだが・・・。歳はとりたくないものだ。

事務所に寄り郵便物のチェック。山本氏の「訃報通知」が届いていた。同じマンションに住む、盟友の古谷喜久男氏とバッタリ会い、途中まで同行する。

自宅に戻ってから、連載させて頂いている『実話ドキュメント』の第一六二回を脱稿して入稿。ホッとする。その他、明日の名前だけ立派な「蜷川政経懇」の連絡をしたり、手紙の整理をしているうちに、何処に仕舞ったのか分からなかった、先日急逝した山元眞一朗氏からの手紙が出てきてちょっと安心した。

頂いた手紙を捨てられない。印刷物は別だが、手書きの物は丁寧に保存してある。野村先生の所に来たものは勿論、私への個人的な手紙や葉書きはきちんとスクラップブックに整理してある。政治家や実業家、任侠の大物の方々といった物もある。手書きの物は、その人の魂がこもっているようでなかなか捨てられないのだ。だから事務所は段々狭くなって行く。

夜は、酔狂亭で久しぶりに「黒霧島」の水割りを二杯とレモンスライス入りのお湯割りを二杯飲んでリハビリに励んだ。※写真は山本真一朗氏の訃報を知らせる葉書き。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

成人式かよ。

2016-01-12 17:20:41 | 日記
一月十一日(月)晴れ。成人の日らしい。

年が改まって新しいカレンダーを掛けたら、ん、十一日が休日となっている。家族に、十一日は何の日なの、と聞いた。「成人の日だよ」とのこと。へえー。十五日じゃなかったっけ。調べてみたら一月十五日が「成人の日」だったのは平成十一年までだそうだ。もう十七年も前のことだが、当時年頃の子供がいなかったこともあり、関心が無かった。

しかしニュースで見る成人式の会場の一部のサルではなかったアホは何とかならないものなのか。マスコミもいちいち写さないで無視すればいい。低能児がテレビに映ることを面白がって、騒ぐ。無視をすれば段々アホなことをやるサルは少なくなるのに違いあるまい。靖国神社や地域の護国神社にでも参拝させた方が、よっぽど成人の日にふさわしいと思うのだが。

風邪がまだ尾を引いている。と言っても熱があったり、横にならなければいられないようなことはないのだが、今は、多少の咳と痰が絡み声も少し風邪声となっている。調子の良い時を百とすると、まだ八十五%ぐらいの体調である。

久しぶりに事務所へ。しかし事務所は底冷えがするので早めに退散。『燃えよ祖国』の購読料を入金頂いた方にお礼の手紙と、平成二年にTBSの「報道特集」にて放映された『現代の右翼』の映像を資料としてお送りさせて頂いた。この不況の折に定期購読をして頂いている読者には感謝するのみである。夜は、我が酔狂亭で梅干入りのお湯割りを二杯飲んで早めに寝た。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

同志の訃報に接する。

2016-01-12 12:19:04 | 日記
一月十日(日)晴れ。

昨日、古いお付き合いであり県央地区で活発な民族派運動を展開をしている帝會の若い人たちから連絡があり、「報告があるのでお会いしたい」という連絡を頂いた。帝會の会長である山本眞一朗氏とは、彼がまだ伊藤満氏や故瀬野壽夫氏らと一緒に瑞穂塾という団体で運動をしている頃からのお付き合いなので、思えば長い付き合いとなる。暮の私の忘年会にも東海林、中村の両氏を参加させて頂き、山本会長からは丁寧な手紙を頂いたばかりである。(その手紙が何処を探しても見つからない)

長い付き合いと言っても、山本会長は下戸である。従ってほとんど酒席を共にすることはなかった。もう六七年も前だろうか、中華街の「安記」で郡山のS氏と共に親しく食事をしたのが最後ぐらいか。その間、皇居や靖国神社でお会いしたり、それなりの距離を保ってのお付き合いは続いていた。

十一時に、自宅近くのファミレスにて帝會の中村、東海林氏らと待ち合わせた。何の報告かと思ったら、彼らの口から出たのは山本氏の訃報だった。何でも、年末から体調を崩し、明けて正月の三日にどうしても具合が悪いと言うので、家族が救急車を呼んで病院に向かったが、その途中で意識が無くなった。病名はくも膜下とのこと。享年五十四歳。あまりにも突然のことと、早すぎる彼の死に、頭の整理がつかなかった。歳のせいか思わず落涙しそうになり、かろうじてこらえた。一人の同志の死と言うよりも、神奈川県の大切な活動家を失ってしまったと言う喪失感の方が大きい。頑固なほど、民族派運動には真面目な人だった。ご冥福を、などと言う言葉では彼の死を惜しむに余りある。残念でならない。

暮に頂き物をした方々に、お礼状が遅滞したことのお詫びとお礼の手紙を書いたり、午後からは机に向かっていたが、人生の無常観を考えたり、色々な意味で感慨深い一日だった。※写真は、在りし日の山本会長。写真提供・帝會。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最強の「キムチ」療法。

2016-01-11 18:16:22 | 日記
一月九日(土)晴れ。

まだ完全に体調が恢復しない。熱があったり、怠かったり、ということはないのだが、イマイチ本調子ではないのだ。その証拠に酒が不味い。ビール一本程度でリハビリに励んでいるが、もう少しかかりそうだ。

お世話になっている人の手配で、大好きな錦糸町は「223」のキムチが届いた。よぉーしここで一発起死回生の食事療法を試みようと、夕食は、豚肉と茄子とキムチの炒め物に「ズンドウブチゲ」を作って食べた。汗と辛さとスタミナで、風邪を追い払おうと思ったが、やはりビール二本が限界だった。明日も「キムチ療法」で体力の回復に努めるとするか。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

満州の「ニキ」「三スケ」。

2016-01-11 17:36:23 | 日記
一月八日(金)晴れ。

中々風邪が抜けないので、かかりつけの医者に行き定期検診。血糖値の検査を行ったら二百もあって、たいした食事をしていないにもかかわらず、ちょっと残念である。耳鼻科とは違う薬をもらったが、効き目はどうか・・・。

相変わらず酒が美味しいと感じられない。もう八日間も休肝日を余儀なくされており、少々げんなりしている。医者の帰りに頑張って食事。天ぷらそばであるが、冷たい蕎麦に温かいつけ汁に天ぷら。「天せいろ」とも言うそうだが、これが好きだ。蕎麦が美味しい店と言うのは、大体、「もり」か「ざる」。温かい蕎麦が美味しい店と言うのはあまり聞かない。温かい蕎麦は、高級店よりもいわゆる「立ち食いソバ」の方が美味しい時もある。しかし蕎麦屋に入って酒が飲めずに蕎麦だけで帰ってくるほど寂しいものはない。早く直さなければ。

船戸与一の『満州国演義』の文庫版の第四巻が出たと言うので早速買った。『炎の回廊』というタイトルである。いわゆる戦前の「上海」や「満州」を題材にした読み物が好きである。そう言った意味では『満州国演義』は最近の読み物ではワクワク感があり、イッキに読まずに、そろーり、そろーりと楽しんでいる。

かつての満州国に影響のあった人物に「ニキ、三スケ」と言う人たちがいたことをご存じだろうか。当時、関東軍参謀長であった東條英機と満州国の国務院総務長官の星野直樹の「ニキ」に、満州重工業開発株式会社社長の鮎川義介、総務庁次長の岸信介、満鉄総裁の松岡洋右の「三スケ」である。「ニキ・三スケ」と言っても、当時の満州国での実力者を並べ称したものであり、彼ら全員が仲が良かったというわけではない。その証拠に、岸は東條内閣の閣僚となったが、倒閣工作を行い閣内不一致で東條内閣を退陣に追い込んでいる。また、大東亜戦争終結後、五人ともA級戦犯容疑者として逮捕された。鮎川・岸の二人は不起訴となったが、東條・星野・松岡の三人は起訴された。東京裁判において、松岡は公判中に病死し、東條には死刑、星野には終身刑の判決が下ったが、後に釈放された。

そう言った人たちの時代背景を参考にしながら『満州国演義』を読むと、様々な視点から歴史が学べて楽しい。夜はリハビリのために、「黒霧島」をお湯割りで飲んだが、やはり味が分からず、一杯で止めた。残念。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする