白雲去来

蜷川正大の日々是口実

へそ祭り

2019-11-08 11:39:39 | 日記
十一月四日(月)晴れ。振替休日。

良い天気である。九時過ぎまで寝ていた。やや遅い朝食は、チャーハン、餃子、ウェイパーで卵スープ。午後から、サリーファミリーが集まる藤棚商店街の「へそ祭り」に行く。

へそ祭りとは、藤棚が西区の中心に位置する事から、この名が付けられたとの事。普段静ずかな商店街もこの日ばかりは大盛況で、西谷囃子・生麦囃子の車両2台と台輪五尺弱の大神輿を筆頭に様々な神輿が出る。いつも天狗会の鈴木会長が、商店街の酒屋を貸し切って、皆と飲んでいる。私は、神輿は担がないが、神輿会に友人が多い。一時前に酒屋さんに着けば、鈴木会長を囲んで仲良しさんが沢山。

三時近くになって日が陰って来て寒くなったので解散。志村馨君、カメ&アコちゃんたちと藤棚商店街の「大千居」という中華料理屋へ。しばらく飲んでら「オアジ」に転戦するが、ほとんど寝ていて記憶なし。帰宅後にすぐ寝てしまった。怒涛の三日間が終った。※左から石川さん、蜷川、鈴木会長、伊藤さん、志村君

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日本一早い忘年会へ。

2019-11-08 11:21:37 | 日記
十一月三日(日)晴れ。明治節。

今日は、戦前は明治節。すなわち明治天皇の生誕の日である。戦後はこの日を文化の日として国民の祝日となった。しかし、まったく意味不明な祝日に意味と意義を見出す国民がどのくらいいるのだろうか。

朝食は、紅鮭、「まさし」の餃子にシジミの味噌汁。昼は抜いた。夜は、主催者曰く「日本一早い忘年会」に出席するために東京行き。夕方、保土ヶ谷駅にて志村馨君と待ち合わせて池袋へ。新宿ラインで乗り換えもなく一本で行けるから便利である。会場となっている駅近くの中華料理屋へ。神輿関係の人たちが多く、民族派は十名ほど。阿形充規先生のご祝辞の後に、乾杯の音頭を取らせて頂いた。昨日は「献杯」で今日は「乾杯」。これから忙しい日々続く。

終了後に、池袋駅近くの「ふ〇ろ」という居酒屋に行ったが、一階が満席で二階に行ったが、ここのカウンターに入っている女がとても愛想の悪い女で、仕事が面倒なのか我々三人を三階へ行けと言う。階段が面倒なので空いているのでここで良いと言っても、ぶつぶつ言って、極端に無愛想である。仕事が面倒ならば、こんな仕事を辞めれば良いのにと、ムカッとしたが、歳のせいか怒らずにそのまま二十分ほど飲んで店を出た。笑顔はただである。客商売をしていて、そのただの笑顔さえ振舞えないと言うのは、人間的にダメな証拠。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

五十年、国を憂いて草莽の。

2019-11-07 11:36:19 | 日記
十一月二日(土)晴れ。

そう言えば、昨日、友人と近くの「浜一」で飲んでいたら、盟友のO氏とI氏から「調布でラグビーの準決勝の観戦が終ったので横浜に向かいます」。と連絡が入った。止せば良いのに一杯入っている勢いで、迷わず「OK牧場!」と二つ返事。夕方は、背広ショックでトボトボと向かったが、今度はイソイソと関内へ進撃。

ラグビー帰りのお二人さんは、揃いの日本のユニフォームで盛り上がり、私もラグビーなど良く分からんが傾城と傾国も交えて一緒に盛り上がり、コリャコリャ状態。(私のせいではありません)。その後、サリーズバーに転戦。そこから、久しぶりに「写楽」へ。半年も前の私のボトルが置いてあったのには感激。盟友らにスペシャル・サンクス。そーっと自宅のドアを開けた。

そんな前日を反省して、朝食は、新潟は村上の「塩引き鮭」、清風楼の焼売。昼は抜いた。夜は、上野の中華料理店にて、青年思想研究会主催の「先憂を偲ぶ会」に大熊雄次氏と共に出席。受付を済ませてから白菊を頂いて、祭壇へ。祭壇には、戦後の民族派運動を語る上では欠かすことのできない重鎮の方々の遺影がある。児玉誉士夫、高橋正義、中村武彦、遠井司山、筑紫次郎、北上清五郎の諸先生の遺影に白菊を捧げた。私は、児玉先生の謦咳に接したことはないが、他の先生には公私共にお世話になった。

諸先輩のご挨拶の後に指名されて「献杯」の音頭を取らさせて頂いた。北上清五郎先生から教えて頂いた、黒龍会の内田良平先生の歌、五十年 国を憂いて草莽の 野に彷徨いて 泣きに泣きたり。を披露して献杯した。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ムシューダよ頼んだぞ。

2019-11-07 11:16:55 | 日記
十一月一日(金)晴れ。

朝食は、昨日の残りの「おでん」。おでんはご飯のおかずにはならないと言う人がいるが、私は十分おかずになる。私が若い頃、横浜の繁華街の福富町に「相川」というおでん屋さんがあって良く通った。運動仲間も誘って、勉強会の打ち上げも、そのお店だった。長い時間が経って、親父さんもおかみさんも亡くなり、息子さん夫婦が少し離れた場所で、お店をやっているが、もう十年以上顔を出していない。おでんを作ると、福富町の相川のお母さんを思い出す。

そう言えば、衣替えをしようと思って、冬用の背広を納戸から出してクリーニングに出した。翌日、クリーニング屋さんが私の背広を持って来て、「虫に食われています」。ジェジェジェ。肩、胸のあたり、膝、何と四着もの背広が虫に食われていた。いつもならば、しまう時に、必ずクリーニングに出してからしまうのだが、これらの背広に限って、二シーズンほど箪笥に入れたままだった。中には気に入った物もあったのに、大ショックである。泣く泣く四着の背広をゴミに出した。

納戸のドアや箪笥を開けっ放しにして風を入れ、「ムシューダ」を沢山買ってきて入れた。コートやセーターどは、今は見る気がしない。もし虫に食われていたら、ショックが大きすぎるからだ。

夜は、自宅近くの「浜一」にて友人と食事。トボトボと向かった。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

首里城の火災。

2019-11-06 17:44:37 | 日記
十月尽(木)晴れ。

随分と、陽が短くなった。秋の日は釣瓶(つるべ)落としとか。「釣瓶」とは、水を汲むために竿や縄の先につけて、井戸の中におろす桶のこと。その釣瓶が井戸に滑り落ちるように、秋の日は一気に日があっという間に暮れるということをいう。一杯やるのには丁度良い季節である。

朝、六時前に起きてテレビを点けたら、なにやら火災の模様が映っていた。ん、何処だ。何と首里城が燃えているではないか。驚いて画面に釘付けとなった。何が原因かは分からないが、とてもショックだ。沖縄に初めて行ったのは、昭和五十七年の七月の事だった。その頃は、まだ首里城は再建されておらず、守礼門の前で写真を撮った。平成四年十一月二日には正殿を中心とする建築物群、そこへ至る門の数々と城郭が再建され首里城公園が開園した。再建されてから二度ほど首里城を訪れたことがある。

果たして、令和の火災で焼失したものを再建するのには、どれほどの年月と費用が掛かるのだろうか。二度の台風の被害も傷跡も癒えぬうちに、またこの災害か。皆で力を合わせて、この苦境を乗り切って貰いたいものだ。

少し寒くなったので、夜はおでんの鍋を囲んだ。サイドには、小籠包に餃子。お供は「黒霧島」。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする