白雲去来

蜷川正大の日々是口実

情報の海に溺れない。

2023-05-19 15:47:27 | 日記

5月11日(木)晴れ後雨。

余り食欲がなかったので朝食は抜いた。昼近くになって、愚妻の青森のお土産の「煮干しラーメン」、買っておいた好きなメンマを沢山入れた。夜は、ミスジ肉、いつものようにニンニクのスライスとマッシュルームのスライスをたっぷりと添えた。後は、昔ながらのナポリタン、キャベツのごま油と塩昆布で和えたもの。お供は、久しぶりに「三岳」、酔狂亭にて独酌。

ニュースも次から次に起こる事件と事故に天変地異や戦争に追われ、トルコの地震も石川県能登半島、千葉の地震のことも遠い過去の出来事のようだ。自衛隊のブラック・ホークの墜落も「ブラックボックス」の回収と解析は出来たのか・・・。

毎年行っている伊豆高原での断食。最近は3泊4日だが、以前は一週間行っていた。一度、テレビも見ない、新聞も読まずにひたすら読書とウォーキングに過ごしたことがあった。もちろん携帯の電源も切った。2、3日は、空腹で落ち着かず辛かったが、4日目ぐらいから、とても楽になり、良く読み、良く眠れるようになった。

国家が危殆に瀕しているウクライナの人達や地震で被害を受けている人たちには申し訳ないが、年に一度くらいは、すべての情報を遮断して、自然の中に身を置くことも大切と、その時に思った。高所恐怖症なので、断食を行っている宿のすぐ近くの大室山に登ったことはないが、次は意を決して登ってみたいと思っている。その一週間の断食の時、晴れているのに雪を見た。風花である。雪片が桜の花びらのように空に舞うところからこの言葉が出来たのだろうが、気象的には、遠方の山岳付近に風雪が起こっていて、それが上層の風に送られて、風下の山麓の地方に飛来するのだという。横浜などでは、あまり遭遇することはない。


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『ハマのドン』を観た。

2023-05-18 17:44:23 | 日記

5月10日(水)晴れ。

朝食は、「ちまき」、アサリの味噌汁。昼は抜いた。夜は、鶏手羽の蒸し物、から揚げ、トマトと新玉ねぎのサラダ。お供は「黒霧島」。酔狂亭にて独酌。

午後から、伊勢佐木町にある「シネマリン」と言う映画館に『ハマのドン』を見に行く。平日の午後二時からと言うことでゆっくり観ることが出来ると思っていたら、とんでもなかった。120席ばかりの小劇場だったが満員で、もう少し遅かったら席が無くなる所だった。お客さんの殆どが私と同じシニア世代。入場券を買うときに、何も言わないのに「シニア料金ですね」。1200円なり。一目でジジイと見られたことに、まあ当たり前なのだが、ちょっと複雑な気持ちになった。60代の初めの頃は、「シニア料金で」と言うと、「証明するものはありますか」などと聞かれることもあったが、今では、こちらが何にも言わなくても、黙ってシニア料金にしてくれる。

映画は、2019年8月、"ハマのドン”こと藤木幸夫が横浜港をめぐるカジノ阻止に向けて立ち上がった。御年91歳。地元政財界に顔が効き、歴代総理経験者や自民党幹部との人脈、田岡一雄・山口組三代目組長ともつながりがあり、隠然たる政治力をもつとされる保守の重鎮だ。その藤木が、カジノを推し進める政権中枢に対して、真っ向から反旗を翻した。今の時代が、戦前の「ものを言えない空気」に似てきたと警鐘を鳴らし、時の最高権力者、菅総理と全面対決した。決戦の場となったのは横浜市長選。藤木が賭けたのは、住民投票を求める署名を法定数の3倍をも集めた市民の力だった。裏の権力者とされる藤木が、市民とカジノ反対の一点で手を結び、時の総理と官房長官が推し進めた「カジノ誘致」の国策阻止を成し遂げた。(解説より)

映画は、藤木先生の人となりを良く描いたものであり、とても見ごたえがあった。驚いたのは、映画が終了した時に、多くの観客から拍手が起こったことだ。映画で拍手が起こるなんて本当に久しぶりの事だ。覚えている限りでは「健さん」の任侠映画以来だ。パンフを買ったが、中華街の「清風楼」の社長さんの「港が愛したシウマイ」という文章がとても良かった。監督が松原文枝さんというテレビ朝日の「ニュースステーション」「報道特集」のプロデューサーという才媛ゆえか、コメントを寄せている人の多くが、前川喜平、望月衣塑子、金平茂紀といった札付き、いや筋金入りのリベラルばかりなのは、むべなるかな。それでも藤木先生の何物にも動じない反骨、反権力の姿に、リベラルの人達も魅了されたのに違いない。いい映画だった。


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「ぼてふり」を知っていますか。

2023-05-16 15:40:57 | 日記

5月9日(火)晴れ。

朝食は抜いた。昼は、コロッケ2個、目玉焼きにキャベツの千切り、シジミの味噌汁。夜は、ポークソテー、チヂミ。お供は「黒霧島」。酔狂亭にて独酌。

私が子供の頃には、早朝から色々な物を売りに来る人達がいた。リヤカーであったり「ぼてふり」(棒手振・魚や野菜などを天秤棒で担ぎ、売り声を上げながら売り歩くこと)の人達だ。確か、朝が一番早かったのは、新聞配達。これは今でも一緒だ。次が「納豆売り」。「なあっとーう、なあっとーう」という掛け声を今でも覚えている。夕方は、豆腐屋さん。そのラッパの音を聞くと、「ああ、もうすぐご飯だから帰らなければ」と思ったものだ。後は、「金魚屋さん」と「アサリとシジミ」売り。この売り声も覚えている。「あっさりぃー、シッジミィー」。これをもじって「あっさり、死んじめぇー」と言って怒られたことがある。20年ほど前までは、夏になると関内の繁華街に風鈴の行商が出ていて、何度か買ったことがあった。こういった物売りが来ると、時計の普及していない頃でも、時間が分かったものだ。そこで「先々の時計となりや、小商人(こあきんど)」という川柳が出来た。

銭湯も随分と少なくなった。子供の頃は、各町内に一軒ぐらい銭湯があったものだ。そのお風呂屋さんの煙突から煙が上がると2時頃で、近所の工場からサイレンが聞こえると5時。外で遊んでいた私たち悪童は「カエルが泣くから、かぁーえろう」と言って自宅に戻った。まだ家にお風呂のある家庭も少なく、銭湯も子供たちの遊び場。シャワーなどなく、皆、桶にお湯を入れて頭を洗っていた。風呂屋の下駄箱の番号も、長嶋の3番と、王選手の1番、両方ない時は、川上の16番が取り合いになった。道路も下町の路地などは、舗装がされておらず、雨が降れば水たまりに嵌って、良く靴を汚した。小学生の低学年の頃は、学校から帰ってくると、下駄に履き替えて遊びに行った。昭和の30年代の半ばの頃の話。最近はスーパーに行くと、シジミの値段を見ると驚くほど高い。そしてアサリはほとんど中国からの輸入品だ。どうなってんだか。

 


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「核なき世界」と「愛なき世界」。

2023-05-16 13:24:50 | 日記

5月8日(月)雨。

朝食は、エビ沢山の「エビチャーハン」、きくらとタマゴの炒め物、大根の味噌汁。昼は、小カップ麺と朝の残りのエビチャーハン。夜は、子供が残業、愚妻は青森と言うことで、一人飯。ミスジ肉にたっぷりのニンニクのスライスとスライス・マッシュルームを乗せたものと、こんにゃくの炒め物、さっと湯がいたレタスに、紹興酒、ごま油、醤油で味付けた温サラダ。盟友のO氏より以前いただいた「森伊蔵」の4合瓶を開けた。一週間分録画しておいた朝ドラを見ながら、ふふふと不敵な笑いの中で、酔狂亭にて独酌。

広島でG7とやらの会合があるらしい。「蜷川さん。何か取り組みはしますか」とはオマワリサン。小島よしおのギャグが浮かんだ。「岸田さんに、皆さんと仲良くやるようにと伝えて」と言ったら苦笑いをされた。岸田さんが、「核なき世界」を皆さんに言うそうだ。その「核なき世界」という言葉を聞くと、自然に、ピーターとゴードンの「愛なき世界」という歌が浮かぶ。当然両者に関連性などある訳もない。

その歌が流行ったのは昭和39(1964)年。私は中学の二年生だった。中学生になった頃から、洋楽に興味を持つようになって、随分とレコードを買った。当時のヒット曲は、ビートルズの「プリーズ・プリーズ・ミー」「抱きしめたい」やヴィレッジ・ストンパーズの「ワシントン広場の夜は更けて」、アストロノウツの「太陽の彼方に」、キングストン・トリオの「花はどこへ行ったの」など。リフレーンばかりの歌詞が続く「花はどこへ行ったの」は、英語で歌える唯一のものだった。ああG7とは何も小島よしおか。とにかく、岸田さんの「核なき世界」と聞くと「愛なき世界」の曲が頭の中に流れてくる不謹慎な私です。そうそう、その歌の作詞・作曲は、ビートルズの、ポール・マッカトニーです。まあ皆さん、とりあえずはロシア包囲網で仲良くやって下さい。


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恒例のサリーズバーのパーティー。

2023-05-16 12:39:11 | 日記

5月7日(日)雨。

雨戸を叩く雨の音を目覚まし代わりにして起きる。雨か・・・。花の雨 けむる祖国のさみしさよ。という野村先生の句が浮かんだ。そういえば野村先生が師と仰いだ五・一五事件の指導者であった三上卓先生の句集『無韻』の中に「秘めしこと一つありけり 花の雨」という句がある。いわゆる「海烈号事件」にて、逮捕され横浜刑務所に在獄中の作である。この句が収められている『無韻』は、現在ほとんど手に入らない。三上先生の資料館のある岐阜の大夢館で是非とも再刊してほしいと思っている。クラウドファンディングという方法もある。今では、単行本を作るのも昔ほど経費は掛からないはずだ。ご一考を。

午後から、お世話になっている社友に迎えに来て頂き、中華街のローズホテルにて毎年行われているサリーズバーのパーティーへ行く。開会前に「菜香」にて、岐阜から参加のドクター細川先生と、千鳥足会のロングトール竹田の両氏と、ごあいさつ代わりの「青島ビール」で乾杯。毎年、サリーズバーのパーティーには400人以上の人たちが集まる。知っている人は2割程度だが、ほとんどがシニア世代。私は、ホールで踊ることもないので、もっぱら懐かしい人たちとの挨拶と「乾杯」の連続。山平重樹先生も合流。ちょっと飲みすぎて7時過ぎに中座した。

 


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