3日に指された第18期マイナビ女子オープン挑戦者決定戦。対戦成績は福間香奈女流五冠が47勝,加藤桃子女流四段が14勝。これはNHK杯の予選を含んだものです。
振駒で福間女流五冠の先手となり,5筋位取り中飛車。後手の加藤女流四段が角道を開けないうちに仕掛けるという意欲的な作戦を用いました。

ここで後手は☖9九角成と香車を取りました。玉の懐を広げて駒得するという点では大きな手ですが,☗7七桂で馬の働きは鈍くなるので,それほど有効ではありませんでした。この手が有効ではないとすればすでに後手が苦しそうですが,☖6三金と歩を取っておくのがよかったのではないでしょうか。
後手は☖9八馬と指しました。仕方がないとはいえ手番を先手に渡しました。
先手は☗5三歩成。形は☖同金直ですがそれには☗6二歩成があるので☖同金左。ここで☗6二歩成☖同金としてから☗6四角と銀を取ったのが好手順。☖同飛に☗7五銀と打ったとき,飛車が引けなくなっています。

これは駒の働きと玉の固さが違いすぎて先手が大優勢。もう後手は収拾がつきませんでした。
福間女流五冠が勝って挑戦権を獲得。マイナビ女子オープンの五番勝負は第15期以来の出場。第一局は来月8日に指される予定です。
感情の模倣affectum imitatioの原理が共感sympathiaであって反感antipathiaではないというのは,原理的には共感は反感に先行することを意味します。少なくとも感情的に中立である人に対しては,共感が反感に絶対的な意味で先行すると解して間違いありません。僕たちは感情的に中立な人,分かりやすくいえば見ず知らずの人に対して,その人が喜んでいるのを表象して憎らしく感じることはありませんし,逆にその人が悲しんでいると表象するimaginariことによって喜びlaetitiaを感じることはないのです。
吉田はそうした説明は加えていませんが,このことは第三部定理二七に訴えるだけでなく,『エチカ』のほかの部分からも論証することができます。スピノザは第三部定理二三備考で,第三部定理二三の様式で僕たちのうちに生じる喜びは,あまり基礎の固い喜びではないといい,さらに心情の葛藤animi conflictusを伴なわないわけにはいかないといっています。そしてその根拠として,この時点ではまだ証明されていない第三部定理二七に訴求しているのです。つまり僕たちは自身と似たところがあるという了解が成立している者に対しては,その人が悲しんでいると表象する限りは自身も悲しみtristitiaを感じるのだから,いくら自分が憎んでいる人が悲しんでいるのを表象することによって喜びを感じるとしても,同じ人間として自身と似たところがあるという了解は成立し得るので,この喜びは基礎が固いものではないといわれるのであり,心情の葛藤,つまり喜びと悲しみの両方を感じることになるといわれるのです。すなわちたとえ憎しみodiumを感じている人に対してであっても,その人が自分と似たところがある,スピノザのいい方だと同類であると了解するなら,憎しみによる反感よりも同類であることによる共感が,原理的には先行するのです。
この後で吉田は,僕にとって重要なことをいっています。それはこうした感情の模倣は,人間に対してだけ発動するというわけではないということです。僕はきっとスピノザはそのようなことは考えていなかったろうと推測しているのですが,僕は吉田がいっていることの方が正しいと考えています。ただしここではこの点に関する僕の見解opinioを示すのは,吉田の探究をすべてみた後にします。
振駒で福間女流五冠の先手となり,5筋位取り中飛車。後手の加藤女流四段が角道を開けないうちに仕掛けるという意欲的な作戦を用いました。

ここで後手は☖9九角成と香車を取りました。玉の懐を広げて駒得するという点では大きな手ですが,☗7七桂で馬の働きは鈍くなるので,それほど有効ではありませんでした。この手が有効ではないとすればすでに後手が苦しそうですが,☖6三金と歩を取っておくのがよかったのではないでしょうか。
後手は☖9八馬と指しました。仕方がないとはいえ手番を先手に渡しました。
先手は☗5三歩成。形は☖同金直ですがそれには☗6二歩成があるので☖同金左。ここで☗6二歩成☖同金としてから☗6四角と銀を取ったのが好手順。☖同飛に☗7五銀と打ったとき,飛車が引けなくなっています。

これは駒の働きと玉の固さが違いすぎて先手が大優勢。もう後手は収拾がつきませんでした。
福間女流五冠が勝って挑戦権を獲得。マイナビ女子オープンの五番勝負は第15期以来の出場。第一局は来月8日に指される予定です。
感情の模倣affectum imitatioの原理が共感sympathiaであって反感antipathiaではないというのは,原理的には共感は反感に先行することを意味します。少なくとも感情的に中立である人に対しては,共感が反感に絶対的な意味で先行すると解して間違いありません。僕たちは感情的に中立な人,分かりやすくいえば見ず知らずの人に対して,その人が喜んでいるのを表象して憎らしく感じることはありませんし,逆にその人が悲しんでいると表象するimaginariことによって喜びlaetitiaを感じることはないのです。
吉田はそうした説明は加えていませんが,このことは第三部定理二七に訴えるだけでなく,『エチカ』のほかの部分からも論証することができます。スピノザは第三部定理二三備考で,第三部定理二三の様式で僕たちのうちに生じる喜びは,あまり基礎の固い喜びではないといい,さらに心情の葛藤animi conflictusを伴なわないわけにはいかないといっています。そしてその根拠として,この時点ではまだ証明されていない第三部定理二七に訴求しているのです。つまり僕たちは自身と似たところがあるという了解が成立している者に対しては,その人が悲しんでいると表象する限りは自身も悲しみtristitiaを感じるのだから,いくら自分が憎んでいる人が悲しんでいるのを表象することによって喜びを感じるとしても,同じ人間として自身と似たところがあるという了解は成立し得るので,この喜びは基礎が固いものではないといわれるのであり,心情の葛藤,つまり喜びと悲しみの両方を感じることになるといわれるのです。すなわちたとえ憎しみodiumを感じている人に対してであっても,その人が自分と似たところがある,スピノザのいい方だと同類であると了解するなら,憎しみによる反感よりも同類であることによる共感が,原理的には先行するのです。
この後で吉田は,僕にとって重要なことをいっています。それはこうした感情の模倣は,人間に対してだけ発動するというわけではないということです。僕はきっとスピノザはそのようなことは考えていなかったろうと推測しているのですが,僕は吉田がいっていることの方が正しいと考えています。ただしここではこの点に関する僕の見解opinioを示すのは,吉田の探究をすべてみた後にします。