阿部健治郎四段が王手をかけて迎えた第41回新人王戦三番勝負第二局。
加來博洋アマの先手。相矢倉を感じさせる序盤からかなり変則的な手順となり,先手が雁木から右玉で袖飛車,後手が棒銀という戦型に。
将棋の有名な格言に玉飛接近すべからずというのがありますが,右玉は自ら玉が飛車に近づいて行く戦法。それでも桂馬を跳ねて飛車を引くというのがひとつの形ですが,第1図で▲3八飛と寄ったのはそれが間に合わないから。なのでこの局面自体は後手の作戦勝ちといえるかもしれません。
この後,後手が快調に攻めたのですが,踏み込めば優勢とされた局面で躊躇したため,互角に戻りました。そして第2図へ。
後手優勢とされていた局面から少し進んだところ。ここで△3八歩▲同飛としてから△2五桂と跳ねたのですが,どうも最終的な敗着となった模様。以下▲5四馬△2二玉に▲3一銀。△同玉▲4二銀△2二玉▲3三銀成△同玉の局面で▲4三馬とされたとき,△2四玉では先手の飛車が働く筋で後手が駄目。飛車を3筋に呼んだのが後手にとって最悪の結果となり逆転しました。
加來アマが返して1勝1敗に。アマの棋戦制覇の望みをつないで決戦の第三局は22日です。
この日は僕は終日オフにしてありました。入院の受け入れが一段落したのが午後の2時過ぎ。みなと赤十字病院は1階に食堂がありますので,そこでやや遅めの昼食を摂りました。
この日は水曜日ですが,水曜は妹の仕事の終了が通常より1時間早くて午後3時。つまり昼食を終えたらもう迎えに行かなければならない時間が迫っていたわけです。担当になった看護師とのやり取りの中で,また必要なものが増えましたので,母は妹を迎えに行った後,また病院に来なければならなくなっていました。そこで僕は病院の方で待っていようと思ったのですが,そうなると妹を病院に連れて来なければならないことになります。日常的な介助はほぼ不要でしたが,やはりひとりで家に残しておくということには不安があったためです。しかし妹が病院に来たいと思うかどうかは分かりません。そこで大事をとり,病院には伯母の方を残して僕は母と一緒に妹の迎えに行きました。結局,妹は病院には行きたがりませんでしたので,僕もそのまま一緒に家に残り,病院には母だけが行くことになりました。
このような形で入院となったわけですが,見舞いの方はやはり自宅療養時とほぼ変わらずに大勢にきていただきました。といっても,僕自身はこの後,銀行回りを中心にいろいろあったこともあり,4日間は病院には行かれませんでした。訪問看護師の判断ではあと1日か2日ということだったのですが,状態はほとんど変わることなく推移していったのです。そんな中,父は不意に母に対して,8月4日までは頑張りますと言ったのだそうです。どこからその日付が出てきたのか知りませんが,父によればその日がふっと頭に浮かんできたとのこと。もっとも,入院するために救急車で運ばれるときの救急隊員とのやり取りでは,父はその日の正確な日付すら分かっていませんでしたし,この入院後は,それまではトイレでしていた排尿についても看護師の介助のもとにベッド上で尿瓶を使ってするようになっていましたから,ベッドから出るということもまったくなくなっていたわけで,日付の感覚などはますます混濁している筈に思えましたから,僕はあまり気にも留めませんでした。
加來博洋アマの先手。相矢倉を感じさせる序盤からかなり変則的な手順となり,先手が雁木から右玉で袖飛車,後手が棒銀という戦型に。
将棋の有名な格言に玉飛接近すべからずというのがありますが,右玉は自ら玉が飛車に近づいて行く戦法。それでも桂馬を跳ねて飛車を引くというのがひとつの形ですが,第1図で▲3八飛と寄ったのはそれが間に合わないから。なのでこの局面自体は後手の作戦勝ちといえるかもしれません。
この後,後手が快調に攻めたのですが,踏み込めば優勢とされた局面で躊躇したため,互角に戻りました。そして第2図へ。
後手優勢とされていた局面から少し進んだところ。ここで△3八歩▲同飛としてから△2五桂と跳ねたのですが,どうも最終的な敗着となった模様。以下▲5四馬△2二玉に▲3一銀。△同玉▲4二銀△2二玉▲3三銀成△同玉の局面で▲4三馬とされたとき,△2四玉では先手の飛車が働く筋で後手が駄目。飛車を3筋に呼んだのが後手にとって最悪の結果となり逆転しました。
加來アマが返して1勝1敗に。アマの棋戦制覇の望みをつないで決戦の第三局は22日です。
この日は僕は終日オフにしてありました。入院の受け入れが一段落したのが午後の2時過ぎ。みなと赤十字病院は1階に食堂がありますので,そこでやや遅めの昼食を摂りました。
この日は水曜日ですが,水曜は妹の仕事の終了が通常より1時間早くて午後3時。つまり昼食を終えたらもう迎えに行かなければならない時間が迫っていたわけです。担当になった看護師とのやり取りの中で,また必要なものが増えましたので,母は妹を迎えに行った後,また病院に来なければならなくなっていました。そこで僕は病院の方で待っていようと思ったのですが,そうなると妹を病院に連れて来なければならないことになります。日常的な介助はほぼ不要でしたが,やはりひとりで家に残しておくということには不安があったためです。しかし妹が病院に来たいと思うかどうかは分かりません。そこで大事をとり,病院には伯母の方を残して僕は母と一緒に妹の迎えに行きました。結局,妹は病院には行きたがりませんでしたので,僕もそのまま一緒に家に残り,病院には母だけが行くことになりました。
このような形で入院となったわけですが,見舞いの方はやはり自宅療養時とほぼ変わらずに大勢にきていただきました。といっても,僕自身はこの後,銀行回りを中心にいろいろあったこともあり,4日間は病院には行かれませんでした。訪問看護師の判断ではあと1日か2日ということだったのですが,状態はほとんど変わることなく推移していったのです。そんな中,父は不意に母に対して,8月4日までは頑張りますと言ったのだそうです。どこからその日付が出てきたのか知りませんが,父によればその日がふっと頭に浮かんできたとのこと。もっとも,入院するために救急車で運ばれるときの救急隊員とのやり取りでは,父はその日の正確な日付すら分かっていませんでしたし,この入院後は,それまではトイレでしていた排尿についても看護師の介助のもとにベッド上で尿瓶を使ってするようになっていましたから,ベッドから出るということもまったくなくなっていたわけで,日付の感覚などはますます混濁している筈に思えましたから,僕はあまり気にも留めませんでした。