番組の改正により今年で最後となる共同通信社杯秋本番は松阪競輪場を舞台に争われ,決勝は体育の日でした。並びは武田-飯嶋-岡田の関東,深谷-浅井の中部,友定には現在は岡山でも練習している岡部,松岡-小野の九州。
外から被せるようにして飯嶋が誘導の後ろに入り武田の前受け。4番手には友定が入り6番手に松岡,8番手から深谷で周回。残り2周から深谷が上昇。バックで武田を抑えにかかりましたが打鐘から武田が突っ張り先行争い。これがバックまで続きましたがずっと外を回った深谷が一杯に。ここで浅井が並んでいた飯嶋と深谷の間を割るように自力発進。これに続いたのが松岡で,直線は松岡の後ろから踏み込んだ小野が浅井を捕えて優勝。浅井が2着で3着に松岡。
優勝した大分の小野俊之選手は2008年4月の高知記念以来となる久々のグレード制覇で,ビッグは2004年の競輪グランプリ以来となる3勝目。このシリーズは調子の良さを感じてはいましたが,記念競輪でも優勝から遠ざかり,ビッグも2年半以上決勝にも進出できていませんでしたので,正直なところ優勝には驚きました。脚力的には中部勢が圧倒的に優位でしたが,関東勢が頑張って,展開に助けられたのは確か。年齢的にはまだ戦える筈ですから,復活ということもあるいはあるのかもしれません。
まず最初に僕自身の考え方を改めて説明しておきましょう。
僕は人間の精神によるあらゆる思惟作用に関して,それを能動と受動のどちらかに分節することが可能であると考えます。一方,第二部定理三八も第二部定理三九も,とくに人間の精神と言及がなされているわけではありませんが,これがある思惟作用についての言及であるという点には異論は生じないところだと思います。
よって僕はこの思惟作用もまた能動と受動のどちらかに分節することができると考えるわけですが,ではどちらに分節するのかと問われるなら,迷わずにこれは人間の精神の能動であると答えます。そしてそのように考える理由はただひとつです。第二部定理三八も第二部定理三九も,こうして発生する観念は妥当である,つまり十全な観念であると示していますが,僕は人間の精神のうちに何らかの十全な観念が発生するのなら,これはこの人間の精神の能動であると考えるからです。このことは今回の考察の主題のうち,第一のものの中で詳しく説明してきたことですからここでは繰り返しませんが,これを『エチカ』に訴えるのであれば,第三部定理三を援用するのが最適であろうと考えます。
ただし,これは僕がそれを精神の能動であるとみなすときの根拠です。いい換えれば僕は,それを人間の精神の能動であるか受動であるかを判断する際には,それがその人間の純粋な思惟作用であるか否かということについては眼中に置きません。そこでもしもマシュレが,それが人間の精神による能動か受動かを峻別する根拠としてではなく,単にこれらふたつの定理における人間の精神による共通概念の獲得はその人間の精神による純粋な思惟作用とはみなし得ないと主張するのであれば,僕はそのことに関しては肯定することができます。というか肯定します。僕が否定するのは,このことをもってマシュレがそのゆえにこれは人間の精神による能動ではない,受動であるか,能動でも受動でもないような思惟作用であると主張する点だけです。実際に後で詳しく分析することになるでしょうが,この認識作用というのは,確かに人間の精神の純粋な思惟作用であるとはいい難い一面があると僕も考えるからです。
外から被せるようにして飯嶋が誘導の後ろに入り武田の前受け。4番手には友定が入り6番手に松岡,8番手から深谷で周回。残り2周から深谷が上昇。バックで武田を抑えにかかりましたが打鐘から武田が突っ張り先行争い。これがバックまで続きましたがずっと外を回った深谷が一杯に。ここで浅井が並んでいた飯嶋と深谷の間を割るように自力発進。これに続いたのが松岡で,直線は松岡の後ろから踏み込んだ小野が浅井を捕えて優勝。浅井が2着で3着に松岡。
優勝した大分の小野俊之選手は2008年4月の高知記念以来となる久々のグレード制覇で,ビッグは2004年の競輪グランプリ以来となる3勝目。このシリーズは調子の良さを感じてはいましたが,記念競輪でも優勝から遠ざかり,ビッグも2年半以上決勝にも進出できていませんでしたので,正直なところ優勝には驚きました。脚力的には中部勢が圧倒的に優位でしたが,関東勢が頑張って,展開に助けられたのは確か。年齢的にはまだ戦える筈ですから,復活ということもあるいはあるのかもしれません。
まず最初に僕自身の考え方を改めて説明しておきましょう。
僕は人間の精神によるあらゆる思惟作用に関して,それを能動と受動のどちらかに分節することが可能であると考えます。一方,第二部定理三八も第二部定理三九も,とくに人間の精神と言及がなされているわけではありませんが,これがある思惟作用についての言及であるという点には異論は生じないところだと思います。
よって僕はこの思惟作用もまた能動と受動のどちらかに分節することができると考えるわけですが,ではどちらに分節するのかと問われるなら,迷わずにこれは人間の精神の能動であると答えます。そしてそのように考える理由はただひとつです。第二部定理三八も第二部定理三九も,こうして発生する観念は妥当である,つまり十全な観念であると示していますが,僕は人間の精神のうちに何らかの十全な観念が発生するのなら,これはこの人間の精神の能動であると考えるからです。このことは今回の考察の主題のうち,第一のものの中で詳しく説明してきたことですからここでは繰り返しませんが,これを『エチカ』に訴えるのであれば,第三部定理三を援用するのが最適であろうと考えます。
ただし,これは僕がそれを精神の能動であるとみなすときの根拠です。いい換えれば僕は,それを人間の精神の能動であるか受動であるかを判断する際には,それがその人間の純粋な思惟作用であるか否かということについては眼中に置きません。そこでもしもマシュレが,それが人間の精神による能動か受動かを峻別する根拠としてではなく,単にこれらふたつの定理における人間の精神による共通概念の獲得はその人間の精神による純粋な思惟作用とはみなし得ないと主張するのであれば,僕はそのことに関しては肯定することができます。というか肯定します。僕が否定するのは,このことをもってマシュレがそのゆえにこれは人間の精神による能動ではない,受動であるか,能動でも受動でもないような思惟作用であると主張する点だけです。実際に後で詳しく分析することになるでしょうが,この認識作用というのは,確かに人間の精神の純粋な思惟作用であるとはいい難い一面があると僕も考えるからです。