無理攻めとも思える仕掛けで府知事選と市長選が同時に行われることになった大阪。第24期竜王戦七番勝負第二局はその大阪府吹田市での対局となりました。
丸山忠久九段の先手での十八番は角換り。渡辺明竜王は戦型選択は相手任せのところがありますから,角換り相腰掛銀は予想されたところ。後手が早めに6筋の位を取り,先手が飛車を4筋に回ってその4筋から仕掛ける将棋になりました。封じ手の段階で先手は攻めるほかなく,後手はその攻めを受けきるか,それともどこかで攻め合いに転じるかですが,渡辺竜王はこういった二者択一では大概は後者を選択します。この将棋もそうなりました。

両取り逃げるべからずで先手は☗5三桂成。銀を取るのも有力かもしれませんが,☖8九飛成と桂馬の方を取って王手。☗7七玉☖8六龍までは必然で,☗6七玉と横に逃げました。そこで☖6五歩と叩き☗同銀引に☖5三金と成桂を取ることに成功。

ここでの第一感は☗7一角かと思いますが,☗3ニ銀と打ち込み,☖同金☗同歩成☖同王としてから☗7一角。☖5三金と逃げた手に☗6一角ともう1枚打っていきましたが,☖8九龍とした手が決め手でした。

銀をもらったので☖5八銀が発生しています。したがって第2図で単に☗7一角なら別の展開になっていました。それでも先手が苦しく,致し方なかったのかもしれませんが,第2図以降の後手の指し回しは見事というほかありません。
渡辺竜王が連勝。第三局は来月8日と9日です。
これでマシュレと僕との間にどれほどの溝があり,なぜそれ以上は僕がマシュレに対して歩み寄ることができないのかということまで,十分に示すことができたと思います。よって今回の考察の主題の第二のものについても,これで完了したといっていいでしょう。そこで最後に,このマシュレと僕との間にあると考えられる相違についての考察というものが,スピノザの哲学の全体を俯瞰してみた場合に,どのような位置を占めるのかということを考えておくことにします。
スピノザの哲学というのは,能動actioというものを力potentiaと等置してこれを全面的に肯定します。一方で受動passioないしは反動については無力impotentiaとみなされ,徹底的に否定されます。これはスピノザの哲学とニーチェFriedrich Wilhelm Nietzscheの哲学の近似性を構成する要素のひとつです。ニーチェの哲学において反動的な力のひとつとして,ルサンチマンという概念が示されることは非常に有名ですが,これはことばとしてはそう表現されていないとしても,すでにスピノザの哲学の中に先取りされていたものであると僕は考えています。たとえば第五部定理一〇備考でスピノザが示している考察は,その現れであるといえるのではないでしょうか。
したがってスピノザは,何が人間の精神mens humanaの能動でありまた人間の精神の受動であるのかということ,あるいはもっと一般的な意味で能動とはどんな事柄であり受動とはどんな事柄であるのかということを明らかにすることに関しては,ある意欲を有していたのだと思います。しかしその意欲の契機となっているのは,単なる哲学的探究心であったというよりは,むしろ政治学とか国家論,あるいは神学や宗教論の方にむしろ深い関係があったと思うのです。たとえば封建制や独裁制といった政治ないしは国家Imperiumの制度,あるいは迷信や妄信といった類の信心と,そうした信心を強要するような宗教的制度に対する批判的精神の表出が,能動の絶対的肯定と受動および反動の全面的否定とに結実したのではないかと思います。ドゥルーズGille Deleuzeは『実践の哲学Spinoza : philosophie pratique』という表題の著書を出版しましたが,そういう意味においては,スピノザの哲学というのは形而上学的な哲学であるよりも,実践的な哲学であるということになるのでしょう。
丸山忠久九段の先手での十八番は角換り。渡辺明竜王は戦型選択は相手任せのところがありますから,角換り相腰掛銀は予想されたところ。後手が早めに6筋の位を取り,先手が飛車を4筋に回ってその4筋から仕掛ける将棋になりました。封じ手の段階で先手は攻めるほかなく,後手はその攻めを受けきるか,それともどこかで攻め合いに転じるかですが,渡辺竜王はこういった二者択一では大概は後者を選択します。この将棋もそうなりました。

両取り逃げるべからずで先手は☗5三桂成。銀を取るのも有力かもしれませんが,☖8九飛成と桂馬の方を取って王手。☗7七玉☖8六龍までは必然で,☗6七玉と横に逃げました。そこで☖6五歩と叩き☗同銀引に☖5三金と成桂を取ることに成功。

ここでの第一感は☗7一角かと思いますが,☗3ニ銀と打ち込み,☖同金☗同歩成☖同王としてから☗7一角。☖5三金と逃げた手に☗6一角ともう1枚打っていきましたが,☖8九龍とした手が決め手でした。

銀をもらったので☖5八銀が発生しています。したがって第2図で単に☗7一角なら別の展開になっていました。それでも先手が苦しく,致し方なかったのかもしれませんが,第2図以降の後手の指し回しは見事というほかありません。
渡辺竜王が連勝。第三局は来月8日と9日です。
これでマシュレと僕との間にどれほどの溝があり,なぜそれ以上は僕がマシュレに対して歩み寄ることができないのかということまで,十分に示すことができたと思います。よって今回の考察の主題の第二のものについても,これで完了したといっていいでしょう。そこで最後に,このマシュレと僕との間にあると考えられる相違についての考察というものが,スピノザの哲学の全体を俯瞰してみた場合に,どのような位置を占めるのかということを考えておくことにします。
スピノザの哲学というのは,能動actioというものを力potentiaと等置してこれを全面的に肯定します。一方で受動passioないしは反動については無力impotentiaとみなされ,徹底的に否定されます。これはスピノザの哲学とニーチェFriedrich Wilhelm Nietzscheの哲学の近似性を構成する要素のひとつです。ニーチェの哲学において反動的な力のひとつとして,ルサンチマンという概念が示されることは非常に有名ですが,これはことばとしてはそう表現されていないとしても,すでにスピノザの哲学の中に先取りされていたものであると僕は考えています。たとえば第五部定理一〇備考でスピノザが示している考察は,その現れであるといえるのではないでしょうか。
したがってスピノザは,何が人間の精神mens humanaの能動でありまた人間の精神の受動であるのかということ,あるいはもっと一般的な意味で能動とはどんな事柄であり受動とはどんな事柄であるのかということを明らかにすることに関しては,ある意欲を有していたのだと思います。しかしその意欲の契機となっているのは,単なる哲学的探究心であったというよりは,むしろ政治学とか国家論,あるいは神学や宗教論の方にむしろ深い関係があったと思うのです。たとえば封建制や独裁制といった政治ないしは国家Imperiumの制度,あるいは迷信や妄信といった類の信心と,そうした信心を強要するような宗教的制度に対する批判的精神の表出が,能動の絶対的肯定と受動および反動の全面的否定とに結実したのではないかと思います。ドゥルーズGille Deleuzeは『実践の哲学Spinoza : philosophie pratique』という表題の著書を出版しましたが,そういう意味においては,スピノザの哲学というのは形而上学的な哲学であるよりも,実践的な哲学であるということになるのでしょう。
