JBC協会が協賛するヴィクトワールピサ賞として行われた昨晩の第62回東京ダービー。ラブレオが左前脚の球節を打撲して出走取消となり15頭。
サブノクロヒョウが少しだけ遅れました。最内からディーズプリモが出ていき外連味のない逃げに。向正面に入るあたりでリードは2馬身ほど。単独の2番手にウワサノモンジロウ。4馬身ほどあってタービランスは単独の3番手。1馬身差でアンサンブルライフとスアデラ。1馬身差でモリデンルンバ。あとはそれぞれ半馬身差でリンダリンダ,グランユニヴェール,トロヴァオと続き1馬身差でガーニーフラップとバルダッサーレ。さらに1馬身差でジャーニーマンとモダンウーマン。また1馬身差でプレイザゲームという隊列に。前半の1000mは61秒0で超ハイペース。
3コーナー手前で並んでいたガーニーフラップとバルダッサーレが上昇していきました。これらが追いついてくる前にタービランスも動き,3コーナーではタービランスが単独の先頭に。この外から並んでいったのがバルダッサーレで,バルダッサーレの方がコーナーの途中では前に。直線の入口ではまだ2頭にさほどの差はありませんでしたが,ここからバルダッサーレがタービランスを置き去りにするとあとは独走。7馬身もの差をつけて圧勝。コーナーでは外を捲りあげ,直線は内から2頭目に進路を取ったプレイザゲームがインからタービランスを交わして2着。プレイザゲームより先に外を回って追い上げたトロヴァオは直線の入口でやや外に振られたこともありそのまま外を伸びてタービランスに迫りましたが,これはタービランスがぎりぎりで凌いで4分の3馬身差の3着。トロヴァオはハナ差で4着。トロヴァオのさらに外を伸びたクビ差で5着のジャーニーマンまで,2着は熾烈な争いでした。
優勝したバルダッサーレはこれがJRAからの転入初戦。この時期の3歳馬は古馬の1000万条件級の能力があるとオープンで好走できます。この馬は前走で500万を勝ったときのタイムが翌日の古馬500万より1秒早かったので,時計面での下地はあり,南関東重賞なら上位という判断も可能でした。ですがこれほど圧勝できる能力があるとは僕には分かりませんでした。2着争いは実績がある馬たちによるものなので,このまま南関東で競馬を続けるなら,この世代では屈指の存在になるでしょう。ここを狙っての転入だったと思いますが,関係者の判断が正しかったということになります。父はバレークイーンの仔で2009年の皐月賞を勝ったアンライバルド。その父がネオユニヴァース。母の父はフジキセキ。従兄に2012年の勝島王冠を勝っている現役のプーラヴィーダ。Baldassareは人名。イタリア人外交官でラファエロによる肖像画があります。
騎乗した金沢の吉原寛人騎手は先週のさきたま杯を勝ったばかり。第60回以来2年ぶりの東京ダービー2勝目。管理することになった大井の中道啓二調教師は開業から約1年半。東京ダービーはおろかこれが南関東重賞初挑戦でした。
8月23日,日曜日。母の同窓会がありまして母と妹で出かけました。ボーリングをやって,カラオケをやってとのことでしたので,妹には存分に楽しめたことでしょう。ふたりが帰宅したのは午後3時20分でした。
8月24日,月曜日。僕はこの日は磯子で,午後4時35分に帰りました。夜になって叔父から連絡が入りまして,無事に福江島に到着したとのことでした。横浜を出たのが22日でしたから,2泊3日でのドライブだったことになります。ただ,送った荷物はこの日までには届いていなかったようで,少し不便が生じたようです。翌25日は台風の影響があって福江島への便は欠航になったようですので,生活用品が十分に揃ったのは26日になってからだったのではないかと思います。
8月28日,金曜日。母が不動産屋へ行きました。これは借りていたアパートの契約を解約するためです。最初は母の母を同居させるにあたって借りたもので,祖母の死の後は叔父が住むようになりました。その叔父も福江島に引越しましたので,もう借り続ける必要性が皆無になっていたのです。最初に賃貸契約を結んだときの関係から賃貸人の名義は最後まで母になっていましたので,実際に住んでいた叔父が出向く必要はありませんでした。この日のうちに解約は完了しています。僕はこの日は午前中だけ本牧で,午後はオフでした。
8月29日,土曜日。ピアノのレッスンがありました。これが午後6時から。これは異例といっていいくらい遅い時間です。ただ,実際に先生がお見えになったのは午後5時45分でしたので,予定よりは早く始まっています。
8月30日,日曜日。ガイドヘルパーを利用。ボーリングでした。
9月2日,水曜日。妹の歯科検診がありました。僕は前夜から体調の悪化を感じていたのですが,この日は非常に悪く,休むことにしました。食事は摂れましたのでインスリンの注射には支障を来しませんでしたが,それ以外の時間はほぼ横になっていました。
9月3日,木曜日。この日はさらに体調が悪く,布団を出たのは午後1時20分になってから。食べることはできましたので,二食だけは摂りました。
サブノクロヒョウが少しだけ遅れました。最内からディーズプリモが出ていき外連味のない逃げに。向正面に入るあたりでリードは2馬身ほど。単独の2番手にウワサノモンジロウ。4馬身ほどあってタービランスは単独の3番手。1馬身差でアンサンブルライフとスアデラ。1馬身差でモリデンルンバ。あとはそれぞれ半馬身差でリンダリンダ,グランユニヴェール,トロヴァオと続き1馬身差でガーニーフラップとバルダッサーレ。さらに1馬身差でジャーニーマンとモダンウーマン。また1馬身差でプレイザゲームという隊列に。前半の1000mは61秒0で超ハイペース。
3コーナー手前で並んでいたガーニーフラップとバルダッサーレが上昇していきました。これらが追いついてくる前にタービランスも動き,3コーナーではタービランスが単独の先頭に。この外から並んでいったのがバルダッサーレで,バルダッサーレの方がコーナーの途中では前に。直線の入口ではまだ2頭にさほどの差はありませんでしたが,ここからバルダッサーレがタービランスを置き去りにするとあとは独走。7馬身もの差をつけて圧勝。コーナーでは外を捲りあげ,直線は内から2頭目に進路を取ったプレイザゲームがインからタービランスを交わして2着。プレイザゲームより先に外を回って追い上げたトロヴァオは直線の入口でやや外に振られたこともありそのまま外を伸びてタービランスに迫りましたが,これはタービランスがぎりぎりで凌いで4分の3馬身差の3着。トロヴァオはハナ差で4着。トロヴァオのさらに外を伸びたクビ差で5着のジャーニーマンまで,2着は熾烈な争いでした。
優勝したバルダッサーレはこれがJRAからの転入初戦。この時期の3歳馬は古馬の1000万条件級の能力があるとオープンで好走できます。この馬は前走で500万を勝ったときのタイムが翌日の古馬500万より1秒早かったので,時計面での下地はあり,南関東重賞なら上位という判断も可能でした。ですがこれほど圧勝できる能力があるとは僕には分かりませんでした。2着争いは実績がある馬たちによるものなので,このまま南関東で競馬を続けるなら,この世代では屈指の存在になるでしょう。ここを狙っての転入だったと思いますが,関係者の判断が正しかったということになります。父はバレークイーンの仔で2009年の皐月賞を勝ったアンライバルド。その父がネオユニヴァース。母の父はフジキセキ。従兄に2012年の勝島王冠を勝っている現役のプーラヴィーダ。Baldassareは人名。イタリア人外交官でラファエロによる肖像画があります。
騎乗した金沢の吉原寛人騎手は先週のさきたま杯を勝ったばかり。第60回以来2年ぶりの東京ダービー2勝目。管理することになった大井の中道啓二調教師は開業から約1年半。東京ダービーはおろかこれが南関東重賞初挑戦でした。
8月23日,日曜日。母の同窓会がありまして母と妹で出かけました。ボーリングをやって,カラオケをやってとのことでしたので,妹には存分に楽しめたことでしょう。ふたりが帰宅したのは午後3時20分でした。
8月24日,月曜日。僕はこの日は磯子で,午後4時35分に帰りました。夜になって叔父から連絡が入りまして,無事に福江島に到着したとのことでした。横浜を出たのが22日でしたから,2泊3日でのドライブだったことになります。ただ,送った荷物はこの日までには届いていなかったようで,少し不便が生じたようです。翌25日は台風の影響があって福江島への便は欠航になったようですので,生活用品が十分に揃ったのは26日になってからだったのではないかと思います。
8月28日,金曜日。母が不動産屋へ行きました。これは借りていたアパートの契約を解約するためです。最初は母の母を同居させるにあたって借りたもので,祖母の死の後は叔父が住むようになりました。その叔父も福江島に引越しましたので,もう借り続ける必要性が皆無になっていたのです。最初に賃貸契約を結んだときの関係から賃貸人の名義は最後まで母になっていましたので,実際に住んでいた叔父が出向く必要はありませんでした。この日のうちに解約は完了しています。僕はこの日は午前中だけ本牧で,午後はオフでした。
8月29日,土曜日。ピアノのレッスンがありました。これが午後6時から。これは異例といっていいくらい遅い時間です。ただ,実際に先生がお見えになったのは午後5時45分でしたので,予定よりは早く始まっています。
8月30日,日曜日。ガイドヘルパーを利用。ボーリングでした。
9月2日,水曜日。妹の歯科検診がありました。僕は前夜から体調の悪化を感じていたのですが,この日は非常に悪く,休むことにしました。食事は摂れましたのでインスリンの注射には支障を来しませんでしたが,それ以外の時間はほぼ横になっていました。
9月3日,木曜日。この日はさらに体調が悪く,布団を出たのは午後1時20分になってから。食べることはできましたので,二食だけは摂りました。