先週の京成盃グランドマイラーズを逃げ切って南関東重賞初制覇を達成したレガルスイの母の父はサクラチトセオーです。
祖母はクレアーブリッジ。半妹にサクラキャンドル。
2歳10月にデビューすると新馬,特別と連勝。この後,レースを使うことができず3歳5月にダービーのトライアルだったNHK杯で復帰。3着で出走権を得てダービーに出走するも11着。ここから長期の休養に入りました。
4歳2月に復帰。復帰戦は3着でしたが2戦目に勝つと中山記念に格上挑戦。見事に重賞制覇を達成しました。距離適性から天皇賞(春)は目指さず,オープンを連戦して2着,1着。そして春最大の目標とした宝塚記念に出走しましたがこれは6着でした。
秋は京王杯オータムハンデキャップから復帰。レコードタイムで重賞2勝目。このまま天皇賞(秋)に直行するも6着。ジャパンカップではなくオープンに出走して勝つと有馬記念に参戦。これは6着でした。
休養せず1月のアメリカジョッキークラブカップに出て重賞3勝目。連覇を狙った中山記念は2着。続く安田記念も外国馬の2着。宝塚記念は1番人気に推されましたが7着でした。
秋は毎日王冠からで4着。これは重馬場が影響したのかもしれません。良馬場になった天皇賞(秋)は先行して抜け出した馬を外から差し切り,大レースを手中に。ジャパンカップをパスして挑んだ有馬記念はマヤノトップガンの3着に入り,競走生活を終えました。この年のJRA賞最優秀4歳以上牡馬に選出されています。
派手な活躍をした馬ではありませんが,成績が安定していたこともあり,100頭以上の種付けをした年もありました。ただ重賞の勝ち馬が2頭出ただけで,成功とはいえなかったかもしれません。産駒のうち1999年のラジオたんぱ杯3歳ステークスを勝ったラガーレグルスはかなり能力が高かったと思うのですが,ゲート難で競走馬生活を棒に振ってしまったのが残念です。
『スピノザ哲学研究』は膨大な量を有しますから,僕が気になった点についてそのすべてを説明するわけにはいきません。ですがこれを手掛かりとして考えておきたいいくつかの事柄がありますので,ここからはそれらについて詳しく探求していくことにします。
まず,この本には,ほかのスピノザの哲学の論考とははっきりと一線を画すような特徴があります。それはオルデンブルクHeinrich Ordenburgを介して交わされたロバート・ボイルRobert Boyleとスピノザとの間の論争について,ひとつの章を割いて綿密に考察しているという点です。少なくともこの論争をここまで多量に考察した論考というのを僕はほかに知りません。
このことについてほかの研究者がさほど重視しない理由というのは僕には理解できます。科学者という観点からみるなら,ロバート・ボイルは一流のプロです。ボイルと比較していうならスピノザはアマチュアといって過言ではないでしょう。論争のテーマは硝石に関するものですが,硝石に関する研究に関しては,やはりボイルとスピノザとの間にはプロとアマほどの違いが存在するのであり,それを殊更に探求する必要はないからです。むしろその論争の中で,スピノザが哲学的見解を表明している点にだけ多くの研究者が着目するのはいわば当然といえると僕は思います。
ただ,スピノザはアマチュア科学者であるといっても,実験に関して創意工夫はしているのであって,その点だけは評価の対象にしてもよいと思います。これは『ある哲学者の人生』などに典型的にみられる評価です。けれど工藤がこの論争を重点的に考察している理由というのは,そういう点にあるのではありません。スピノザの哲学にはスピノザに特有の粒子論というものがあるのであって,しかしその粒子論というのは,ボイルと論争している時代にはまだ確たるものとはなってなく,後に『エチカ』で自然学について言及するようになったときに完成したのだというのが工藤の見解です。いい換えればスピノザの粒子論というのは,ボイルと論争している時代と,『エチカ』を執筆している時期では,異なったものになっているということを工藤はここで論証しようとしているのです。
祖母はクレアーブリッジ。半妹にサクラキャンドル。
2歳10月にデビューすると新馬,特別と連勝。この後,レースを使うことができず3歳5月にダービーのトライアルだったNHK杯で復帰。3着で出走権を得てダービーに出走するも11着。ここから長期の休養に入りました。
4歳2月に復帰。復帰戦は3着でしたが2戦目に勝つと中山記念に格上挑戦。見事に重賞制覇を達成しました。距離適性から天皇賞(春)は目指さず,オープンを連戦して2着,1着。そして春最大の目標とした宝塚記念に出走しましたがこれは6着でした。
秋は京王杯オータムハンデキャップから復帰。レコードタイムで重賞2勝目。このまま天皇賞(秋)に直行するも6着。ジャパンカップではなくオープンに出走して勝つと有馬記念に参戦。これは6着でした。
休養せず1月のアメリカジョッキークラブカップに出て重賞3勝目。連覇を狙った中山記念は2着。続く安田記念も外国馬の2着。宝塚記念は1番人気に推されましたが7着でした。
秋は毎日王冠からで4着。これは重馬場が影響したのかもしれません。良馬場になった天皇賞(秋)は先行して抜け出した馬を外から差し切り,大レースを手中に。ジャパンカップをパスして挑んだ有馬記念はマヤノトップガンの3着に入り,競走生活を終えました。この年のJRA賞最優秀4歳以上牡馬に選出されています。
派手な活躍をした馬ではありませんが,成績が安定していたこともあり,100頭以上の種付けをした年もありました。ただ重賞の勝ち馬が2頭出ただけで,成功とはいえなかったかもしれません。産駒のうち1999年のラジオたんぱ杯3歳ステークスを勝ったラガーレグルスはかなり能力が高かったと思うのですが,ゲート難で競走馬生活を棒に振ってしまったのが残念です。
『スピノザ哲学研究』は膨大な量を有しますから,僕が気になった点についてそのすべてを説明するわけにはいきません。ですがこれを手掛かりとして考えておきたいいくつかの事柄がありますので,ここからはそれらについて詳しく探求していくことにします。
まず,この本には,ほかのスピノザの哲学の論考とははっきりと一線を画すような特徴があります。それはオルデンブルクHeinrich Ordenburgを介して交わされたロバート・ボイルRobert Boyleとスピノザとの間の論争について,ひとつの章を割いて綿密に考察しているという点です。少なくともこの論争をここまで多量に考察した論考というのを僕はほかに知りません。
このことについてほかの研究者がさほど重視しない理由というのは僕には理解できます。科学者という観点からみるなら,ロバート・ボイルは一流のプロです。ボイルと比較していうならスピノザはアマチュアといって過言ではないでしょう。論争のテーマは硝石に関するものですが,硝石に関する研究に関しては,やはりボイルとスピノザとの間にはプロとアマほどの違いが存在するのであり,それを殊更に探求する必要はないからです。むしろその論争の中で,スピノザが哲学的見解を表明している点にだけ多くの研究者が着目するのはいわば当然といえると僕は思います。
ただ,スピノザはアマチュア科学者であるといっても,実験に関して創意工夫はしているのであって,その点だけは評価の対象にしてもよいと思います。これは『ある哲学者の人生』などに典型的にみられる評価です。けれど工藤がこの論争を重点的に考察している理由というのは,そういう点にあるのではありません。スピノザの哲学にはスピノザに特有の粒子論というものがあるのであって,しかしその粒子論というのは,ボイルと論争している時代にはまだ確たるものとはなってなく,後に『エチカ』で自然学について言及するようになったときに完成したのだというのが工藤の見解です。いい換えればスピノザの粒子論というのは,ボイルと論争している時代と,『エチカ』を執筆している時期では,異なったものになっているということを工藤はここで論証しようとしているのです。