スヴィドリガイロフの部屋で当人と対峙したドゥーニャは,忍ばせておいたピストルを取り出し,銃口をスヴィドリガイロフに向けます。『『罪と罰』を読まない』の読後の感想会では,この部分の描写は不自然であるという指摘があります。いわれてみればなるほどと思える内容です。
銃口を向けられたスヴィドリガイロフは,そのピストルがかつて自分が所持していて,遺失してしまったものであることに気付きます。つまりそれがドゥニャによって盗まれていたということがこのときに判明するのです。そしてそれは,スヴィドリガイロフがドゥーニャに射撃のレッスンをしたから生じたことでした。
これに対してドゥーニャは,このピストルはスヴィドリガイロフのものではなく,彼の妻のマルファ,ドゥーニャはスヴィドリガイロフによって殺されたと確信しているマルファのものであると答え,家にはスヴィドリガイロフのものなどは何もなかったといっています。これは要するに,スヴィドリガイロフは財産を目当てとしてマルファと結婚したのだとドゥーニャは思っていることを匂わせます。
こうした事柄のすべてが,この場面のスヴィドリガイロフとドゥーニャの会話によって明らかになります。いい換えれば読者はその会話によってこれらの事実を初めて知ることになります。ですが小説の手法としていえばこれは作為的すぎて,こうした事実があるのであれば,それは事前に伏線を張っておくべきではないかというのが,この部分の不自然さについて指摘されている内容です。
確かに銃口を向けられている人間と向けている人間が,その銃がどのような銃であるのかについて会話を交わすというのは不自然どころか間抜けであるとさえいえるでしょう。ですからこの部分は,小説の全体としていえば,穴とか失敗に属する部分であるといえるのではないでしょうか。
ある属性attributumの直接無限様態と,それと同じ属性の間接無限様態の間には,因果関係が発生しています。これは第一部定理二二から明白だといわなければなりません。この定理Propositioが意味しているところは,ある属性の間接無限様態の起成原因causa efficiensは,それと同じ属性の直接無限様態であるということだからです。すなわち,同一の属性である場合,直接無限様態と間接無限様態の関係は,直接無限様態が原因であり,間接無限様態は結果effectusであるということになります。したがって,ある属性において直接無限様態と間接無限様態が同一のものであるという主張は,その属性においては,原因となるものと結果になるものが同一であると主張していることになります。しかしこれは不条理です。少なくともスピノザの哲学においては,成立するということはあり得ません。
スピノザは第一部定理一七備考で,原因から生じたもの,すなわち結果は,原因から受けたものにおいてその原因とは異なるという主旨のことをいっています。これは端的にいえば,結果は原因とは異なるものであるがゆえに結果といわれるのである,という意味のことをいっていると解さなければなりません。要するにスピノザは原因と結果は異なるものであると考えているのです。したがって,スピノザの哲学においては,原因なるものと結果なるものが同一であるということはないのです。
ただし,これについては次のことに注意しておいてください。
スピノザの哲学では,原因というのは自己原因causa suiから派生する概念notioであると解するのが適切です。ここでいう原因というのは,自己原因ではない原因,すなわち結果を外部に産出するproducere原因のことです。僕たちはこの原因という概念から自己原因を解してしまいがちです。つまり,自己原因とは原因のようなものであると解してしまいがちなのです。ですがスピノザの哲学ではこれを逆に解する必要があります。つまり,自己原因が原因に類するものであるのではなく,原因,外部に結果を産出する原因とは,自己原因に類するものなのです。
一方,スピノザが原因というとき,それは起成原因を一律に意味します。そして自己原因は起成原因の一種ではあるのです。
銃口を向けられたスヴィドリガイロフは,そのピストルがかつて自分が所持していて,遺失してしまったものであることに気付きます。つまりそれがドゥニャによって盗まれていたということがこのときに判明するのです。そしてそれは,スヴィドリガイロフがドゥーニャに射撃のレッスンをしたから生じたことでした。
これに対してドゥーニャは,このピストルはスヴィドリガイロフのものではなく,彼の妻のマルファ,ドゥーニャはスヴィドリガイロフによって殺されたと確信しているマルファのものであると答え,家にはスヴィドリガイロフのものなどは何もなかったといっています。これは要するに,スヴィドリガイロフは財産を目当てとしてマルファと結婚したのだとドゥーニャは思っていることを匂わせます。
こうした事柄のすべてが,この場面のスヴィドリガイロフとドゥーニャの会話によって明らかになります。いい換えれば読者はその会話によってこれらの事実を初めて知ることになります。ですが小説の手法としていえばこれは作為的すぎて,こうした事実があるのであれば,それは事前に伏線を張っておくべきではないかというのが,この部分の不自然さについて指摘されている内容です。
確かに銃口を向けられている人間と向けている人間が,その銃がどのような銃であるのかについて会話を交わすというのは不自然どころか間抜けであるとさえいえるでしょう。ですからこの部分は,小説の全体としていえば,穴とか失敗に属する部分であるといえるのではないでしょうか。
ある属性attributumの直接無限様態と,それと同じ属性の間接無限様態の間には,因果関係が発生しています。これは第一部定理二二から明白だといわなければなりません。この定理Propositioが意味しているところは,ある属性の間接無限様態の起成原因causa efficiensは,それと同じ属性の直接無限様態であるということだからです。すなわち,同一の属性である場合,直接無限様態と間接無限様態の関係は,直接無限様態が原因であり,間接無限様態は結果effectusであるということになります。したがって,ある属性において直接無限様態と間接無限様態が同一のものであるという主張は,その属性においては,原因となるものと結果になるものが同一であると主張していることになります。しかしこれは不条理です。少なくともスピノザの哲学においては,成立するということはあり得ません。
スピノザは第一部定理一七備考で,原因から生じたもの,すなわち結果は,原因から受けたものにおいてその原因とは異なるという主旨のことをいっています。これは端的にいえば,結果は原因とは異なるものであるがゆえに結果といわれるのである,という意味のことをいっていると解さなければなりません。要するにスピノザは原因と結果は異なるものであると考えているのです。したがって,スピノザの哲学においては,原因なるものと結果なるものが同一であるということはないのです。
ただし,これについては次のことに注意しておいてください。
スピノザの哲学では,原因というのは自己原因causa suiから派生する概念notioであると解するのが適切です。ここでいう原因というのは,自己原因ではない原因,すなわち結果を外部に産出するproducere原因のことです。僕たちはこの原因という概念から自己原因を解してしまいがちです。つまり,自己原因とは原因のようなものであると解してしまいがちなのです。ですがスピノザの哲学ではこれを逆に解する必要があります。つまり,自己原因が原因に類するものであるのではなく,原因,外部に結果を産出する原因とは,自己原因に類するものなのです。
一方,スピノザが原因というとき,それは起成原因を一律に意味します。そして自己原因は起成原因の一種ではあるのです。