昨日の第10期女流王座戦挑戦者決定戦。対戦成績は里見香奈女流名人が17勝,伊藤沙恵女流三段が6勝。
振駒で里見名人の先手。序盤から駆け引きがあり,双方が居玉のままで戦いに。戦型としていえば先手の雁木に後手の中飛車ですが,これは成行き上そうなったというほかありません。中盤で先手がうまく捌いて大優勢に。しかし後手の端攻めをまったく受けずに攻め合ったので,その影響で差が大きく縮まりました。
第1図で後手は☖3九飛と王手を掛けました。先手は駒は使わずに☗6八王。後手は一旦は☖6二金と逃げて先手は☗6三銀。そこで☖4六桂と打ったのですが,これが詰めろになっていないなかったので☗6二銀成で先手の勝ちの局面となりました。
第1図では同じようでも☖4九飛なら同じように進んだときに☖4六桂の局面が先手玉に対する詰めろになっていたので,先手は受ける必要が生じています。それで後手の勝ちという局面ではないのですが,互角には近い局面であったように思います。
里見名人が挑戦者に。前期に失ったタイトルに挑戦。第一局は来月28日に指される予定です。
これで僕の見解opinioを説明するためのふたつの前提が出揃いました。繰り返せば,ひとつはスピノザの哲学における知性intellectusとは,個々の観念ideaの集積であるということです。そしてもうひとつは,実体substantiaや属性attributumは部分に分割するということができないけれども,無限様態modus infinitusは部分に分割することができる,少なくとも思惟作用の上ではできるということです。いい換えれば,思惟作用の上では,ある有限様態すなわち個物res singularisが,無限様態の一部を構成すると解して構わないということです。
このふたつのことから帰結するのは,無限知性intellectus infinitusも個々の観念の集積でなければならないということです。いい換えれば個物の観念すなわち思惟の様態cogitandi modiの個物の集積であると解して構わないということです。そして同時にそれは,無限知性であるからには,有限個の個物の観念の集積であることはできず,無限に多くのinfinita思惟の様態の個物の集積でなければならないでしょう。すなわち無限知性とは,無限に多くの観念の集積にほかならないことになります。
近藤は思惟の属性Cogitationis attributumの間接無限様態について,諸観念の総体といういい方をしていました。しかるに諸観念の総体とは,無限に多くの観念の集積にほかならないと僕は解します。というか,それ以外には解することができないといっていいでしょう。よって,諸観念の総体とは,無限知性のことです。近藤は思惟の属性の直接無限様態については,スピノザに倣って無限知性といい,思惟の属性の間接無限様態については,根拠は示さずに諸観念の総体といっているのですから,おそらく近藤自身の中では,無限知性と諸観念の総体は.異なった思惟の様態なのでしょう。ですがここで僕が示したことによれば,そのふたつを異なった思惟の様態と解するのは無理があるといえます、ですから実際に近藤がいっているのは,思惟の属性の直接無限様態も間接無限様態も無限知性であるというように僕は解するのです。これは著しく不条理です。
このことが不条理であることは,とくに説明するまでもないかもしれません。ですがここでは念のために,直接無限様態と間接無限様態が同一のものであることはできないことを,論理的にも明らかにしておきます。
振駒で里見名人の先手。序盤から駆け引きがあり,双方が居玉のままで戦いに。戦型としていえば先手の雁木に後手の中飛車ですが,これは成行き上そうなったというほかありません。中盤で先手がうまく捌いて大優勢に。しかし後手の端攻めをまったく受けずに攻め合ったので,その影響で差が大きく縮まりました。
第1図で後手は☖3九飛と王手を掛けました。先手は駒は使わずに☗6八王。後手は一旦は☖6二金と逃げて先手は☗6三銀。そこで☖4六桂と打ったのですが,これが詰めろになっていないなかったので☗6二銀成で先手の勝ちの局面となりました。
第1図では同じようでも☖4九飛なら同じように進んだときに☖4六桂の局面が先手玉に対する詰めろになっていたので,先手は受ける必要が生じています。それで後手の勝ちという局面ではないのですが,互角には近い局面であったように思います。
里見名人が挑戦者に。前期に失ったタイトルに挑戦。第一局は来月28日に指される予定です。
これで僕の見解opinioを説明するためのふたつの前提が出揃いました。繰り返せば,ひとつはスピノザの哲学における知性intellectusとは,個々の観念ideaの集積であるということです。そしてもうひとつは,実体substantiaや属性attributumは部分に分割するということができないけれども,無限様態modus infinitusは部分に分割することができる,少なくとも思惟作用の上ではできるということです。いい換えれば,思惟作用の上では,ある有限様態すなわち個物res singularisが,無限様態の一部を構成すると解して構わないということです。
このふたつのことから帰結するのは,無限知性intellectus infinitusも個々の観念の集積でなければならないということです。いい換えれば個物の観念すなわち思惟の様態cogitandi modiの個物の集積であると解して構わないということです。そして同時にそれは,無限知性であるからには,有限個の個物の観念の集積であることはできず,無限に多くのinfinita思惟の様態の個物の集積でなければならないでしょう。すなわち無限知性とは,無限に多くの観念の集積にほかならないことになります。
近藤は思惟の属性Cogitationis attributumの間接無限様態について,諸観念の総体といういい方をしていました。しかるに諸観念の総体とは,無限に多くの観念の集積にほかならないと僕は解します。というか,それ以外には解することができないといっていいでしょう。よって,諸観念の総体とは,無限知性のことです。近藤は思惟の属性の直接無限様態については,スピノザに倣って無限知性といい,思惟の属性の間接無限様態については,根拠は示さずに諸観念の総体といっているのですから,おそらく近藤自身の中では,無限知性と諸観念の総体は.異なった思惟の様態なのでしょう。ですがここで僕が示したことによれば,そのふたつを異なった思惟の様態と解するのは無理があるといえます、ですから実際に近藤がいっているのは,思惟の属性の直接無限様態も間接無限様態も無限知性であるというように僕は解するのです。これは著しく不条理です。
このことが不条理であることは,とくに説明するまでもないかもしれません。ですがここでは念のために,直接無限様態と間接無限様態が同一のものであることはできないことを,論理的にも明らかにしておきます。