立川記念の決勝。並びは郡司‐岡村の南関東,藤井‐山口‐清水の中部近畿,取鳥‐園田の西国で平原と高橋は単騎。
平原,山口,郡司の3人が飛び出したのですが,その後で牽制に。誘導の後ろに入ったのは山口で藤井の前受けに。4番手に郡司,6番手に平原,7番手に高橋,8番手に取鳥の周回に。残り3周のバックから取鳥が上昇していき,ホームで藤井を叩こうとしましたが,藤井が突っ張りました。取鳥はあっさりと引いたので周回中と同じ隊列に戻って打鐘。この一列棒状のままホームを通過し,バックに入るところから郡司が発進。藤井との車間を開けていた山口が番手捲りで対応。郡司は捲れないとみて,清水が離れていたので山口の後ろに入りました。ここで平原が郡司の後ろを奪う形に。直線に入ってまた郡司が山口を抜きにいきましたが,山口が粘って優勝。郡司が4分の3車輪差で2着。郡司を追った平原が1車身半差で3着。
優勝した岐阜の山口拳矢選手は一昨年7月の名古屋記念以来の記念競輪2勝目。GⅢは3勝目。一昨年は日本選手権を優勝したので昨年はS班でしたが優勝はありませんでした。このレースは藤井の先行が有力で,その番手から発進するであろう山口を,郡司が捲れるかというのが最大の焦点。山口の番手捲りがあるとはいえ,郡司はそのラインの4番手追走と,作戦面は悪かったわけではありません。藤井の後ろから山口に番手捲りをされると,郡司の力ではやや及ばないということなのでしょう。
これをいうときには必ずいっておかなければならないことなので,ここでもいっておくことにしますが,デカルトRené Descartesのこの考え方は,スピノザによって否定されるいくつかのデカルトの考え方のうちのひとつであって,そういってよければその代表的なもののひとつです。つまりこれはあくまでもデカルトの考え方の説明なのであって,スピノザがそれに同意しているわけではありません。確実性certitudoの問題は真理veritasのしるしsignumの問題に還元されることになるのですが,スピノザにとって真理のしるしとは真理それ自身にほかなりません。スピノザの哲学における真理というのは,真の観念idea veraの総体を意味しますから,思惟の様態cogitandi modiであって,かつ個々の真の観念が個々の真理のしるしである,あるいは同じことですが真の観念が個々の真理の確実性を保証するのです。このために神Deusが存在している必要はありませんし,神を十全に認識している必要もありません。ただ現実的に存在するある人間の精神mens humanaのうちにXの真の観念があるのであれば,それ以外の何も必要とせず,その人間はXについて確実であることができます。これは,Xの真の観念が現実的に存在するある人間の精神のうちにあるのであれば,その同じ人間の精神のうちにXの真の観念の観念idea ideaeもあるとスピノザは主張するからです。よって現実的に存在するある人間の精神のうちにXの真の観念があれば,その人間はXの真の観念を知っているということを知ることができるので,Xについて確実であることができるということです。スピノザはこのような考え方を,デカルトの哲学の解説書である筈の『デカルトの哲学原理Renati des Cartes principiorum philosophiae pars Ⅰ,et Ⅱ, more geometrico demonstratae』の中ですでに仄めかしているということは,かつて検討した通りです。
デカルトはスピノザのように考えるconcipereことができなかったので,考えている自分自身に対して,世界の確実性を保証してくれる存在existentiaとしての神すなわち完全な存在を必要としたのでした。ただし,知の確実性をこのような仕方で根拠づけようとすると,別の問題が生じてくると吉田は指摘しています。というのも,個々の真理を神によって根拠づけるなら,その真理は自ずからそうなっているから真理であるということはできなくなるからです。
平原,山口,郡司の3人が飛び出したのですが,その後で牽制に。誘導の後ろに入ったのは山口で藤井の前受けに。4番手に郡司,6番手に平原,7番手に高橋,8番手に取鳥の周回に。残り3周のバックから取鳥が上昇していき,ホームで藤井を叩こうとしましたが,藤井が突っ張りました。取鳥はあっさりと引いたので周回中と同じ隊列に戻って打鐘。この一列棒状のままホームを通過し,バックに入るところから郡司が発進。藤井との車間を開けていた山口が番手捲りで対応。郡司は捲れないとみて,清水が離れていたので山口の後ろに入りました。ここで平原が郡司の後ろを奪う形に。直線に入ってまた郡司が山口を抜きにいきましたが,山口が粘って優勝。郡司が4分の3車輪差で2着。郡司を追った平原が1車身半差で3着。
優勝した岐阜の山口拳矢選手は一昨年7月の名古屋記念以来の記念競輪2勝目。GⅢは3勝目。一昨年は日本選手権を優勝したので昨年はS班でしたが優勝はありませんでした。このレースは藤井の先行が有力で,その番手から発進するであろう山口を,郡司が捲れるかというのが最大の焦点。山口の番手捲りがあるとはいえ,郡司はそのラインの4番手追走と,作戦面は悪かったわけではありません。藤井の後ろから山口に番手捲りをされると,郡司の力ではやや及ばないということなのでしょう。
これをいうときには必ずいっておかなければならないことなので,ここでもいっておくことにしますが,デカルトRené Descartesのこの考え方は,スピノザによって否定されるいくつかのデカルトの考え方のうちのひとつであって,そういってよければその代表的なもののひとつです。つまりこれはあくまでもデカルトの考え方の説明なのであって,スピノザがそれに同意しているわけではありません。確実性certitudoの問題は真理veritasのしるしsignumの問題に還元されることになるのですが,スピノザにとって真理のしるしとは真理それ自身にほかなりません。スピノザの哲学における真理というのは,真の観念idea veraの総体を意味しますから,思惟の様態cogitandi modiであって,かつ個々の真の観念が個々の真理のしるしである,あるいは同じことですが真の観念が個々の真理の確実性を保証するのです。このために神Deusが存在している必要はありませんし,神を十全に認識している必要もありません。ただ現実的に存在するある人間の精神mens humanaのうちにXの真の観念があるのであれば,それ以外の何も必要とせず,その人間はXについて確実であることができます。これは,Xの真の観念が現実的に存在するある人間の精神のうちにあるのであれば,その同じ人間の精神のうちにXの真の観念の観念idea ideaeもあるとスピノザは主張するからです。よって現実的に存在するある人間の精神のうちにXの真の観念があれば,その人間はXの真の観念を知っているということを知ることができるので,Xについて確実であることができるということです。スピノザはこのような考え方を,デカルトの哲学の解説書である筈の『デカルトの哲学原理Renati des Cartes principiorum philosophiae pars Ⅰ,et Ⅱ, more geometrico demonstratae』の中ですでに仄めかしているということは,かつて検討した通りです。
デカルトはスピノザのように考えるconcipereことができなかったので,考えている自分自身に対して,世界の確実性を保証してくれる存在existentiaとしての神すなわち完全な存在を必要としたのでした。ただし,知の確実性をこのような仕方で根拠づけようとすると,別の問題が生じてくると吉田は指摘しています。というのも,個々の真理を神によって根拠づけるなら,その真理は自ずからそうなっているから真理であるということはできなくなるからです。