書簡二十八は1665年6月にスピノザがバウメーステルJohannes BouwmeesterにフォールブルフVoorburgから送ったものです。遺稿集Opera Posthumaには掲載されていません。これは個人的な私信という意味合いが強かったからだと思われます。
冒頭部分では自分のことをバウメーステルが忘れてしまったのではないかとスピノザが疑っています。アムステルダムAmsterdamでバウメーステルから招待されていたので,フォールブルフに戻る前にお別れの挨拶をしようと思っていたけれども,その間にバウメーステルがハーグDen Haagに旅立ってしまったので会えなかったこと。ハーグからアムステルダムに戻る途中でフォールブルフのスピノザの家をバウメーステルが訪ねてくると思っていたのに訪ねなかったこと。そしてこうしたことについてバウメーステルが手紙を送ってこなかったことがその理由として列挙されています。
この後で,バウメーステルは自身の才能について不信を抱いていているようだといっています。もし自身の手紙をだれかが読んで笑うようなことを心配しているなら,他人に見せるようなことはしないと約束しています。冒頭部分とこの部分はおそらく関連しています。バウメーステルはスピノザやその友人たちと比べて,自身の能力が劣っていると思っていたので,スピノザと接触することに自身を失っていたのでしょう。スピノザはそんなバウメーステルに対して,変わらぬ友情を示したのがこの書簡の内容です。
赤バラの砂糖漬けを送ってほしいという依頼はこの書簡の中にみられます。コレルスの伝記Levens-beschrijving van Benedictus de Spinozaの中に出てくる老いた鶏のスープというのは医療的な意味合いがあったのか単にスピノザの好物であったのかは分かりませんが,この赤バラの砂糖漬けは医療的な意味があり,この当時は肺カタルに効果があるとされていました。スピノザは肺の病が原因で死ぬことになるのですが,すでにこの時期には症状が出ていたということになります。
考えている自分がいるということ,したがって考えている限りでの自分が存在するということを確実で疑い得ないこととしたデカルトRené Descartesは,そのことを基にして神Deusが存在するということを論証しました。なぜデカルトがこのことを論証しなければならなかったのかといえば,それは考えている自分自身の確実さと,自分自身が考えている世界を接続するためであったと吉田はいっています。それがデカルトの当初の目的finisであったかどうかはともかく,神の存在が論証されることによって,自分が考えている世界の確実性certitudoも論証されることになるということは間違いありません。すなわち,もし完全なものとしての神が存在するのであれば,自分が考えていること,あるいは自分の精神mensが認識している世界についても,その確実さを神が保証してくれるというわけです。
吉田がいっている通り,デカルトのこの論証Demonstratioあるいは神による保証は,二段構えになっています。第一に,もしも神が人を騙すようなことがあれば,神は完全であるとはいえなくなります。よって神が自分を騙しているのではないか,いい換えれば自分が考えていることについて神が自分をペテンにかけているのではないかというような心配をする必要はありません。そして第二に,もしも自分が考えていることが完全であるのであれば,それは不完全である自分が産出したものではないのですから,完全な存在existentiaである神から産出されたものであるということになります。よってもしも自分が何かを完全に理解している,認識しているとしたら,それは何もないところから何かを認識している,たとえば空想しているとかいうわけではなくて,完全な存在である神から産出されたこの世界の真理veritasを神が産出したように,辿っているということになるのです。
ここから分かるように,デカルトの哲学における神というのは,僕たちが世界を確実に知るということを,考えている僕たちに対して保証してくれる存在です。いい換えれば僕たちの確実性の根拠となる存在です。だからそれはなくてはならない存在であることになります。神が存在しないならば,僕たちはどんな事物に対しても確実であることができないからです。
冒頭部分では自分のことをバウメーステルが忘れてしまったのではないかとスピノザが疑っています。アムステルダムAmsterdamでバウメーステルから招待されていたので,フォールブルフに戻る前にお別れの挨拶をしようと思っていたけれども,その間にバウメーステルがハーグDen Haagに旅立ってしまったので会えなかったこと。ハーグからアムステルダムに戻る途中でフォールブルフのスピノザの家をバウメーステルが訪ねてくると思っていたのに訪ねなかったこと。そしてこうしたことについてバウメーステルが手紙を送ってこなかったことがその理由として列挙されています。
この後で,バウメーステルは自身の才能について不信を抱いていているようだといっています。もし自身の手紙をだれかが読んで笑うようなことを心配しているなら,他人に見せるようなことはしないと約束しています。冒頭部分とこの部分はおそらく関連しています。バウメーステルはスピノザやその友人たちと比べて,自身の能力が劣っていると思っていたので,スピノザと接触することに自身を失っていたのでしょう。スピノザはそんなバウメーステルに対して,変わらぬ友情を示したのがこの書簡の内容です。
赤バラの砂糖漬けを送ってほしいという依頼はこの書簡の中にみられます。コレルスの伝記Levens-beschrijving van Benedictus de Spinozaの中に出てくる老いた鶏のスープというのは医療的な意味合いがあったのか単にスピノザの好物であったのかは分かりませんが,この赤バラの砂糖漬けは医療的な意味があり,この当時は肺カタルに効果があるとされていました。スピノザは肺の病が原因で死ぬことになるのですが,すでにこの時期には症状が出ていたということになります。
考えている自分がいるということ,したがって考えている限りでの自分が存在するということを確実で疑い得ないこととしたデカルトRené Descartesは,そのことを基にして神Deusが存在するということを論証しました。なぜデカルトがこのことを論証しなければならなかったのかといえば,それは考えている自分自身の確実さと,自分自身が考えている世界を接続するためであったと吉田はいっています。それがデカルトの当初の目的finisであったかどうかはともかく,神の存在が論証されることによって,自分が考えている世界の確実性certitudoも論証されることになるということは間違いありません。すなわち,もし完全なものとしての神が存在するのであれば,自分が考えていること,あるいは自分の精神mensが認識している世界についても,その確実さを神が保証してくれるというわけです。
吉田がいっている通り,デカルトのこの論証Demonstratioあるいは神による保証は,二段構えになっています。第一に,もしも神が人を騙すようなことがあれば,神は完全であるとはいえなくなります。よって神が自分を騙しているのではないか,いい換えれば自分が考えていることについて神が自分をペテンにかけているのではないかというような心配をする必要はありません。そして第二に,もしも自分が考えていることが完全であるのであれば,それは不完全である自分が産出したものではないのですから,完全な存在existentiaである神から産出されたものであるということになります。よってもしも自分が何かを完全に理解している,認識しているとしたら,それは何もないところから何かを認識している,たとえば空想しているとかいうわけではなくて,完全な存在である神から産出されたこの世界の真理veritasを神が産出したように,辿っているということになるのです。
ここから分かるように,デカルトの哲学における神というのは,僕たちが世界を確実に知るということを,考えている僕たちに対して保証してくれる存在です。いい換えれば僕たちの確実性の根拠となる存在です。だからそれはなくてはならない存在であることになります。神が存在しないならば,僕たちはどんな事物に対しても確実であることができないからです。
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