スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

伊藤園お~いお茶杯王位戦&良心

2024-07-08 19:08:26 | 将棋
 6日と7日に徳川園で指された第65期王位戦七番勝負第一局。対戦成績は藤井聡太王位が20勝,渡辺明九段が4勝。
 振駒で藤井王位が先手となり,力戦相居飛車。先手が右四間飛車にして仕掛けを窺いましたが,仕掛けることができず,7日の午後に千日手が成立しました。時間で優位に立った上で後手番で千日手に持ち込みましたので,この将棋は後手の渡辺九段がうまくやったものと思います。
 指し直し局は渡辺九段の先手で相掛り。終盤に入って局面は先手がリードしました。
                                        
 最初のポイントが第1図。後手は☖6一歩と打つ予定でした。これは☗同角成なら先手玉が詰みという読みだったのですが,☖3七銀☗1七玉でぎりぎりですが逃れていることを発見。1分将棋まで考え,王手の連続から受けて,8三の角と9二の龍を抜く手順に進めました。
 終局後の先手の第一声は,ここで☖6一歩なら負けだったのではないかというものだったので,先手も☖6一歩☗同玉は自分の玉が詰みと判断していたと思われます。指されれば詰まないことに気付いたかもしれませんが,☖6一歩には☗同角成とはできなかったかもしれません。なのでそのまま後手が勝ったという可能性もあり,どのように勝負のあやを求めるのかというのは難しいところがあります。
 実戦は9二の龍を抜かれたところで先手の手番となり,後手玉を詰ましにいくことに。
                                        
 ここで☗4一同龍と取ってしまい,☖同金は☗2二銀で簡単な詰み。☖同王も5二で清算して☗6四桂と打てば詰みでした。しかし☗3二銀と打って詰ましにいったために逆転。第2図は実戦の☗3二銀や☗2二銀から詰ましにいくことを考えそうですが,どちらも詰まず,詰む手順が☗同龍だけだったことが逆転を呼んだといえそうです。この後,正確には後手に一失あったのですが,それは先手が9二の馬を抜いて受けに回った後,☗3一角と打てるかどうかの差となる手で,先手は後手玉を詰ましにいっているわけですから,この将棋の勝負には大きく影響しませんでした。
 藤井王位が先勝。第二局は渡辺九段の先手で17日と18日に指される予定です。

 現実的に存在する諸個人が認識するcognoscere善bonumと悪malumが,それを認識する人間の良心conscientiaと関係するということについてはとくに説明する必要はないでしょう。このために,良心と意識conscientiaについて前に考察したときには,『エチカ』の中でそれと最も関連する定理Propositioとして僕は第四部定理八をあげておいたのです。
 善と悪の認識cognitioが一般に良心といわれるのであれば,意識と良心は同じではないかと國分はいっていますが,僕はこの点については同意しません。この定理は意識と良心を関連付けているのは間違いありませんが,もしこの定理が意識と良心が同じであるということをいっているとすれば,一般的に意識されるのは喜びlaetitiaか悲しみtristitiaだけであってそれ以外のものではないといわなければならないでしょう。しかしそれをいうのは無理があるのであって,僕たちは喜びでも悲しみでもない事柄を意識します。このことは経験的に明らかだといわなければならないのではないでしょうか。ですからこの定理が意識と良心の関係について何かをいっているとすれば,良心は意識にほかならないけれど,意識は良心とは限らないということです。つまり意識というのは良心よりも広くわたる思惟の様態cogitandi modiであって,良心はその意識という思惟の様態の一部であるということになると思います。もっともこれは,この定理の文言の解釈はそうでなければならないということであって,実際にスピノザがそのように考えていたということを僕がいいたいというわけではありません。
 良心がどのように形成されるのかといえば,幼い頃から培われてきた善と悪についての認識だということになるでしょう。たとえばそうして培われてきた悪に属することを僕たちがなしたとき,良心の呵責conscientiae morsusが生じるとか良心が咎めるといういい方を僕たちはするのであって,そのような良心の働きactioによって僕たちはある種の苦しみを感じることになるのです。なお,ここで良心の呵責といっているのは僕たちが通常そのようにいうということであって,第三部諸感情の定義一七の落胆conscientiae morsusのことではありません。
 ところが第四部定理八は,良心をこのようなものとして理解することを否定しています。それは錯覚だといっているのです。

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