スピノザがアムステルダムAmsterdamのユダヤ教会から破門の宣告を受け,その宣告に従って当地のユダヤ人共同体から離脱したことは,アムステルダムのユダヤ人にとってだけでなく,オランダ人にとってもスキャンダルとして受け止められていました。オルデンブルクHeinrich Ordenburgが訪問したのは,そういう時期のアムステルダムであったことになります。
オルデンブルクは前々からスピノザのことを知っていたというわけではなくて,アムステルダムで情報を収集しているうちに,スピノザのことを知ったのです。これは史実としてほぼ確定的にいえることですが,仮にそうでなかったとしても,ここでは書簡三十三との関係で,オルデンブルクはスピノザがユダヤ人共同体から追放されたユダヤ人であるということを知らなかったのではないかという疑問を解決するために考察しているのですから,このことを史実であるとしておいた方が,考察としての意義は上がります。前々から知っていたのであれば,スピノザがどのような人であるのかということについてはオルデンブルクは知っていたということになりますから,問題としている点は解決されるからです。
スピノザを知らずにオルデンブルクがアムステルダムを訪問し,アムステルダムで情報を収集しているうちにスピノザのことを知ったとするならば,スピノザの破門とその受諾が当地のスキャンダルであった以上,オルデンブルクはそのこともその時点で聞き及ぶに至ったとするのが自然です。オルデンブルクは学術関係の情報を収集していたのですから,スピノザの出自はオルデンブルクにとってはどうでもよいことだったでしょう。他面からいえば,スピノザがそういう出自をもつ人であったからオルデンブルクがレインスブルフRijnsburgまで出掛けていったという可能性はありません。それらの情報を収集しているうちに,スピノザという哲学に秀でた人間であるということを知ったから,オルデンブルクはレインスブルフまで行ってスピノザに会ったのです。しかし,哲学に秀でた人間であるという情報だけがオルデンブルクに収集され,出自については何も情報を集められなかったとするのは著しく不自然です。オルデンブルクに情報を供給した人は,スピノザの出自についても教えるであろうからです。だからオルデンブルクはスピノザと会う以前に,出自について知っていたというのが,可能性としてはきわめて高いといわなければなりません。
5月22日,月曜日。電気のメーターの交換がありました。これは業者が行うものですから無料です。ただ,僕が在宅している時間に交換する必要があったようで,日時については事前に通知がありました。
5月25日,木曜日。総講でお寺に行きました。25日は本門仏立宗の開祖の命日にあたるので総講が催されることになっています。
5月26日,金曜日。О眼科に網膜症の検査に行きました。この日は網膜症の検査だけでなく,視野の検査も行いました。順序は視力および眼圧の検査の後に視野の検査,それから散瞳のための目薬を挿して,瞳孔が開くのを待った上で医師による診察となり,この診察の間に網膜症の検査が行われます。網膜症も緑内障も変化はありませんでした。なので検査を継続してくこととなり,治療には入っていません。
5月31日,水曜日。昨年度の妹の預かり金精算書が送付されてきました。
6月1日,木曜日。妹の預り金精算書というのは僕の同意書を必要とする書類です。ですからこの日に同意書を郵送しました。
6月2日,金曜日。妹を通所施設に迎えに行きました。そのままО眼科で診察を受けました。妹の視力ですが,最初にこの眼科を受診したときと変わっていません。これは白内障が進行していないことを意味します。ですからこのまま経過を観察していくことになりました。実はこの日は横浜に台風の影響があって,強風の上に大雨という悪天候でした。たぶんこの天候が関係したものと思いますが,いつも混雑しているО眼科がこの日はとても空いていました。僕もО眼科で網膜症の検査などを受けているわけですが,この日くらい空いていたことはありません。妹が診察を受ける場合は午後7時ごろに帰宅するということもあるのですが,この日は午後5時40分には帰ることができました。通所施設から直に帰ってくると帰宅時間は概ね午後4時20分になります。眼科で目薬の処方箋を出してもらう場合は午後5時から午後5時半の間になります。それと比べればどれほどすぐに検査ができたのかがお分かりいただけると思います。
6月4日,日曜日。妹をグループホームに送りました。
オルデンブルクは前々からスピノザのことを知っていたというわけではなくて,アムステルダムで情報を収集しているうちに,スピノザのことを知ったのです。これは史実としてほぼ確定的にいえることですが,仮にそうでなかったとしても,ここでは書簡三十三との関係で,オルデンブルクはスピノザがユダヤ人共同体から追放されたユダヤ人であるということを知らなかったのではないかという疑問を解決するために考察しているのですから,このことを史実であるとしておいた方が,考察としての意義は上がります。前々から知っていたのであれば,スピノザがどのような人であるのかということについてはオルデンブルクは知っていたということになりますから,問題としている点は解決されるからです。
スピノザを知らずにオルデンブルクがアムステルダムを訪問し,アムステルダムで情報を収集しているうちにスピノザのことを知ったとするならば,スピノザの破門とその受諾が当地のスキャンダルであった以上,オルデンブルクはそのこともその時点で聞き及ぶに至ったとするのが自然です。オルデンブルクは学術関係の情報を収集していたのですから,スピノザの出自はオルデンブルクにとってはどうでもよいことだったでしょう。他面からいえば,スピノザがそういう出自をもつ人であったからオルデンブルクがレインスブルフRijnsburgまで出掛けていったという可能性はありません。それらの情報を収集しているうちに,スピノザという哲学に秀でた人間であるということを知ったから,オルデンブルクはレインスブルフまで行ってスピノザに会ったのです。しかし,哲学に秀でた人間であるという情報だけがオルデンブルクに収集され,出自については何も情報を集められなかったとするのは著しく不自然です。オルデンブルクに情報を供給した人は,スピノザの出自についても教えるであろうからです。だからオルデンブルクはスピノザと会う以前に,出自について知っていたというのが,可能性としてはきわめて高いといわなければなりません。
5月22日,月曜日。電気のメーターの交換がありました。これは業者が行うものですから無料です。ただ,僕が在宅している時間に交換する必要があったようで,日時については事前に通知がありました。
5月25日,木曜日。総講でお寺に行きました。25日は本門仏立宗の開祖の命日にあたるので総講が催されることになっています。
5月26日,金曜日。О眼科に網膜症の検査に行きました。この日は網膜症の検査だけでなく,視野の検査も行いました。順序は視力および眼圧の検査の後に視野の検査,それから散瞳のための目薬を挿して,瞳孔が開くのを待った上で医師による診察となり,この診察の間に網膜症の検査が行われます。網膜症も緑内障も変化はありませんでした。なので検査を継続してくこととなり,治療には入っていません。
5月31日,水曜日。昨年度の妹の預かり金精算書が送付されてきました。
6月1日,木曜日。妹の預り金精算書というのは僕の同意書を必要とする書類です。ですからこの日に同意書を郵送しました。
6月2日,金曜日。妹を通所施設に迎えに行きました。そのままО眼科で診察を受けました。妹の視力ですが,最初にこの眼科を受診したときと変わっていません。これは白内障が進行していないことを意味します。ですからこのまま経過を観察していくことになりました。実はこの日は横浜に台風の影響があって,強風の上に大雨という悪天候でした。たぶんこの天候が関係したものと思いますが,いつも混雑しているО眼科がこの日はとても空いていました。僕もО眼科で網膜症の検査などを受けているわけですが,この日くらい空いていたことはありません。妹が診察を受ける場合は午後7時ごろに帰宅するということもあるのですが,この日は午後5時40分には帰ることができました。通所施設から直に帰ってくると帰宅時間は概ね午後4時20分になります。眼科で目薬の処方箋を出してもらう場合は午後5時から午後5時半の間になります。それと比べればどれほどすぐに検査ができたのかがお分かりいただけると思います。
6月4日,日曜日。妹をグループホームに送りました。
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