『門』の中で,宗助と御米の過去が詳しく語られるのは第十四節です。そこで宗助が御米を友人から奪ったことが明かされます。この友人は安井といい,宗助は最初は御米を安井の妹として紹介されるのですが,そうでないことはすぐにはっきりとしました。安井が病気になって回復したということ以外に詳しいことは語られないので,実際に安井と宗助,そして御米の間に具体的に何があったのかは分かりません。とにかく後に宗助と御米は結婚し,各地を転々とした後,物語が進捗していく時点では東京に住んでいます。
このときに宗助と御米が住んでいた家の裏に,坂井という人が住んでいました。宗助と坂井は仲良くなって,宗助が坂井の家に出入りするようになります。第十三節の中で,宗助が坂井の家を訪ねたときに,織屋がいて,宗助もその織屋から御米のための銘仙を3円で買って帰るというプロットがあります。これは坂井が織屋と交渉してかなり値引きさせた金額でした。銘仙をもって帰った御米に事の顛末を話し,品のよい銘仙が3円とは安いといって笑います。
このプロットの中の安いというのは,安井にかかっていて,このことによって宗助と御米が安井のことを想起する契機となっているのだと,『なぜ漱石は終わらないのか』の第九章の中で小森が指摘しています。実際にこの日の夜,御米が宗助にある告白をします。これは,自分は子どもを産むことができないということを,易者に指摘されたというものです。この易者は,御米は人に対して済まないことをした記憶があって,その罪が祟っているから子どもはできないといったのです。結婚後の6年間で,これまでに実際に御米は何度か懐妊はしていたのですが,子どもを産むことはできませんでした。
済まないことというのが安井と関係しているのは疑い得ません。そして確かに安いと笑ったときに御米が安井のことを思い出したから,この晩の告白に繋がったのかもしれません。
道徳的命令を発していないような道徳に対して何か不満を感じることがあるとすれば,それは命令を要求しているからにすぎません。國分はスピノザの道徳は一切の命令を発することはないというようにいっていますが,僕は自己の利益suum utilisに準ずるような命令は,まったく発しないというようには考えません。実際に國分自身も,第四部定理一八備考でいわれていることは,一種の道徳的命令として解することができるといっているように思えます。もちろん実際にはこれは命令ではないのですが,仮に命令というものがあるとしても,『エチカ』においてはすべてこのような類のものになります。しかしそれは僕たちが道徳的命令として理解しているものとはあまりに異なっているといわざるを得ないでしょう。ですから國分がいっているように,『エチカ』はあるいはスピノザの哲学は,一切の道徳命令を発することはないというように解して間違いありませんし,とくに,たとえば他人を殴打するなというような類の命令を道徳に求めているのであれば,スピノザの哲学からはそのような命令は生じ得ないと解しておく方がよいでしょう。これはスピノザが,第四部定理八において,善bonumと悪malumをそれぞれ意識された喜びlaetitia,意識された悲しみtristitiaと規定していることからの必然的な帰結です。この意識conscientiaを超越したような善悪が存在するということをスピノザは認めないのですから,自己の意識を超越したような善悪に関する道徳的命令は発令されようがないのです。
念のためにいっておきますが,第四部定理四系により,現実的に存在する人間は常に受動passioに隷属するのですから,スピノザは超越的規範の有用性,あるいはそうした超越的規範から発せられるような道徳的命令の有用性を否定するnegareことはありません。そうした命令が受動的な人間を,理性ratioに従っている人間がなすのと同じように行為させる限り,その規範および命令は有用であるとしかいいようがないからです。これは受動的な人間を敬虔pietasにさせるような規範や命令は有益utileであるという意味なのであって,たとえば聖書が神Deusを愛することと隣人を愛することについて服従することを命令するのは有用であるというのが一例になります。
このときに宗助と御米が住んでいた家の裏に,坂井という人が住んでいました。宗助と坂井は仲良くなって,宗助が坂井の家に出入りするようになります。第十三節の中で,宗助が坂井の家を訪ねたときに,織屋がいて,宗助もその織屋から御米のための銘仙を3円で買って帰るというプロットがあります。これは坂井が織屋と交渉してかなり値引きさせた金額でした。銘仙をもって帰った御米に事の顛末を話し,品のよい銘仙が3円とは安いといって笑います。
このプロットの中の安いというのは,安井にかかっていて,このことによって宗助と御米が安井のことを想起する契機となっているのだと,『なぜ漱石は終わらないのか』の第九章の中で小森が指摘しています。実際にこの日の夜,御米が宗助にある告白をします。これは,自分は子どもを産むことができないということを,易者に指摘されたというものです。この易者は,御米は人に対して済まないことをした記憶があって,その罪が祟っているから子どもはできないといったのです。結婚後の6年間で,これまでに実際に御米は何度か懐妊はしていたのですが,子どもを産むことはできませんでした。
済まないことというのが安井と関係しているのは疑い得ません。そして確かに安いと笑ったときに御米が安井のことを思い出したから,この晩の告白に繋がったのかもしれません。
道徳的命令を発していないような道徳に対して何か不満を感じることがあるとすれば,それは命令を要求しているからにすぎません。國分はスピノザの道徳は一切の命令を発することはないというようにいっていますが,僕は自己の利益suum utilisに準ずるような命令は,まったく発しないというようには考えません。実際に國分自身も,第四部定理一八備考でいわれていることは,一種の道徳的命令として解することができるといっているように思えます。もちろん実際にはこれは命令ではないのですが,仮に命令というものがあるとしても,『エチカ』においてはすべてこのような類のものになります。しかしそれは僕たちが道徳的命令として理解しているものとはあまりに異なっているといわざるを得ないでしょう。ですから國分がいっているように,『エチカ』はあるいはスピノザの哲学は,一切の道徳命令を発することはないというように解して間違いありませんし,とくに,たとえば他人を殴打するなというような類の命令を道徳に求めているのであれば,スピノザの哲学からはそのような命令は生じ得ないと解しておく方がよいでしょう。これはスピノザが,第四部定理八において,善bonumと悪malumをそれぞれ意識された喜びlaetitia,意識された悲しみtristitiaと規定していることからの必然的な帰結です。この意識conscientiaを超越したような善悪が存在するということをスピノザは認めないのですから,自己の意識を超越したような善悪に関する道徳的命令は発令されようがないのです。
念のためにいっておきますが,第四部定理四系により,現実的に存在する人間は常に受動passioに隷属するのですから,スピノザは超越的規範の有用性,あるいはそうした超越的規範から発せられるような道徳的命令の有用性を否定するnegareことはありません。そうした命令が受動的な人間を,理性ratioに従っている人間がなすのと同じように行為させる限り,その規範および命令は有用であるとしかいいようがないからです。これは受動的な人間を敬虔pietasにさせるような規範や命令は有益utileであるという意味なのであって,たとえば聖書が神Deusを愛することと隣人を愛することについて服従することを命令するのは有用であるというのが一例になります。
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