スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

サンケイスポーツ盃戸塚記念&受動形

2023-09-15 19:29:31 | 地方競馬
 昨晩の第52回戸塚記念
                                        
 ローアヴァンフレアが逃げて2番手にヒーローコール。3番手にマイキーマジックとナンセイホワイト。5番手にドラケン。6番手にマンダリンヒーロー。7番手にナガタエースとライズゾーンとコルドゥアン。この後ろは離れてタイガーチャージとヴァレンティヌス。最後尾にコロンバージュという隊列。スローペースでした。
 2周目の向正面に入るとすぐにヒーローコールがローアヴァンフレアに並び掛けていき,3コーナーでは単独の先頭に。ここから後ろを引き離していきました。2番手まで追い上げてきたのはナンセイホワイトでその外からマンダリンヒーロー。しかし直線に入ってもヒーローコールとの差は詰まらず,向正面先頭のヒーローコールが快勝。マンダリンヒーローが6馬身差で2着。ナンセイホワイトは一杯になり,最内を突いたドラケンが一旦は3番手に上がり,やはり内を回ってドラケンの外から伸びたタイガーチャージが急追。2頭はほぼ並んでフィニッシュ。タイガーチャージが5馬身差の3着でドラケンがアタマ差の4着。
 優勝したヒーローコール黒潮盃から連勝。南関東重賞4勝目。ここもマンダリンヒーローとの対決。上積みは前走がアメリカからの帰国初戦だったマンダリンヒーローの方が大きかったと思うのですが,差はむしろ開きました。これはおそらく川崎コースへの適性の差が大きかったからだと思われます。3着争いをした2頭がナンセイホワイトと共に力量上位の2頭に次ぐ存在でしたから,順当な決着といえ,着差はともかく概ね現状の力量が表された結果だったとみてよいでしょう。父はホッコータルマエフロリースカップサンマリノの分枝で母の2つ上の半兄に2001年の函館2歳ステークスを勝ったサダムブルースカイ
 騎乗した船橋の森泰斗騎手は黒潮盃以来の南関東重賞55勝目。第47回以来となる5年ぶりの戸塚記念2勝目。管理している浦和の小久保智調教師は南関東重賞64勝目。戸塚記念は初勝利。

 河井の真意を歪曲しているかもしれませんが,僕は僕の解釈でさらに河井の論述を追っていきます。
 第二部定理三二のラテン語の全文は,Omnes ideae, quatenus ad Deum referuntur, verae sunt.です。このうち,畠中が関係すると訳している部分はreferunturで,これはreferreという動詞の受動形とのことです。これは河井がいっていることであり,ここではそのままそれが正しいとします。つまりこの受動形を畠中は,神に関係する,と訳したわけです。関係するというのは受動形とはいえないと僕は思いますが,神に関係する,といういい方は,神に関係づけられるという意味でなければなりませんので,事実上は受動形であると僕は解します。これは正確な説明になるかどうか分かりませんが,たとえば神と関係するといわれるなら僕はそれは受動形ではないと解するのですが,神に関係するといわれるなら.関係するそのもの.この定理Propositioの場合でいえば観念にとっての受動形であると解するというような意味です。よって河井はここで畠中がこの部分を受動形で訳したといっているのですが,そのことには僕は同意します。
 河井によれば,この部分はカーリーEdwin CurleyもカイヨワRoger Cailloisも受動的に訳しているようです。日本語にすれば,神に関係づけられる限りとなっているとのことですから,これは文法的にも受動形であるといえます。アウエルバッハErich Auerbachの訳は,神に関係する限り,となっていて,これは畠中の訳と同じです。ですから文法的には受動形ではないかもしれませんが,事実上は受動形です。河井がもうひとつあげているのはアッピューンCharles Appuhnの訳で,これは,神との関係でみる限り,となっていて,これは能動形とはいえないまでも,受動形ともいえないでしょう。そしてこの訳については,河井はスピノザの意図に近いと評価しています。
 スピノザの意図に近いというのは,河井がこの定理を誤った観念idea falsaから真の観念idea veraへのターニングポイントとなっているというように解している点からみるより,たぶん僕が修正した第二部定理三二の意味という観点からみた方が,より明瞭になると思います。
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スポーツニッポン杯若武者賞&河井の真意

2023-09-14 18:57:47 | 地方競馬
 鎌倉記念トライアルの昨晩の第1回若武者賞。コルベットが競走除外となって7頭。
                                       
 大外のデーレーラプターが内に切れ込んでハナへ。これを行かせた後で外から追い上げてきたグラッシーズマンが2番手。3番手にミスティライラック,4番手にホークマン,5番手にアジアミッション。2馬身差でパンセ。6馬身差でウインアザレアで発走後の正面を通過。向正面に入って3番手と4番手が入れ替わりました。ハイペース。
 3コーナーからデーレーラプターとグラッシーズマンが雁行。グラッシーズマンが前に出るとデーレーラプターは一杯になりホークマンが2番手に。直線に入るとホークマンがデーレーラプターについていかれなくなり,その外からアジアミッションとパンセが追ってきました。しかし直線先頭のグラッシーズマンが追い上げを封じて優勝。大外のパンセが半馬身差で2着。アジアミッションが4分の3馬身差で3着。
 優勝したグラッシーズマンは新馬戦からの連勝で南関東重賞制覇。このレースはこの馬以外には無敗という馬は不在だったのですが,それでも2勝馬が2頭いた中で,新馬を勝った直後に勝ったということは評価しなければなりません。当然ながら出走馬の中で最も上積みがあるのはこの馬でしょうから,ここで一緒に走った馬たちに対しては,逆転を許す可能性は少ないのではないかと思います。全体のレベルはそこまで高くなかったと思われますから,もっと強い馬を相手にどこまで走れるのかはまだ分からないところもあります。父はアジアエクスプレス。母の父はアサクサデンエン。祖母の父がゴールドアリュール。母は2013年のNARグランプリで2歳最優秀牝馬に選出されたブルーセレブ。Glassesは眼鏡。
 騎乗した大井の和田譲治騎手はフリオーソレジェンドカップ以来の南関東重賞14勝目。管理している船橋の林幻調教師は開業から4年10ヶ月で南関東重賞初勝利。

 河井はこのことを検討しているわけではありませんから,それについて何かをいっているわけではありません。なので河井が田島説に近いか,僕の立場に近いかは明示することができません。ただし,田島説に近い立場にいるのではないかと僕は解しています。
 河井は,誤った観念idea falsaもその原因causa,またその原因といった具合に第一原因causa primaとしての神Deusまで辿り着けば,その第一原因としての神の結果effectus,またその結果という具合に立ち戻ることによって,真の観念idea veraになるといっていたのでした。すでに示したように僕はこのこと自体は大いに疑問を感じますが,そのために河井の主張を修正してありますから,ここではそのことについては何もいいません。ただこの主張は,現実的に存在する人間の精神mens humanaのうちに誤った観念があるとき,その人間がその誤った観念を第一原因としての神まで遡り,そこからまた立ち戻ってくるのであれば,真の観念になるというように解することができるのであって,それでみれば河井は,誤った観念が真の観念になるという田島説に近い立場であると考えられるのです。
 したがって,僕は河井が示したこの部分について,『エチカ』の視点が第二部定理三二をターニングポイントとして誤った観念から真の観念へと移行するというように解したのですが,もしこれを河井の主張そのものの解釈としていうなら,僕が河井のいわんとしていることを歪曲しているという可能性があります。むしろ河井はここで,第二部定理三二をターニングポイントとして,Xの誤った観念がXの真の観念になるのだというようなことをいっているのかもしれません。ただ僕がその解釈を採用しないのは,僕自身がそのことに対して否定的な立場であるからなのです。『エチカ』は確かに第二部定理三二を境として,論述の対象が誤った観念から真の観念へと移行していきます。だからこういわれているのであれば僕はそれを受け入れることができるのです。つまり僕がここで河井がいっていることをこう解釈しているのは,僕の考察の上での都合を含んでいるものなのであって,河井がいわんとしていることの真意がどこにあるのかということは無視していると理解してください。
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霧島酒造杯女流王将戦&重要な観点

2023-09-13 18:55:19 | 将棋
 9日に放映された第45期女流王将戦挑戦者決定戦。収録されたのは8月17日。その時点での対戦成績は香川愛生女流四段が8勝,渡部愛女流三段が7勝。
 香川女流四段の振り歩先となる振駒で渡辺女流三段の先手となり,香川女流四段のノーマル三間飛車。先手が居飛車穴熊に組むところで後手から仕掛ける将棋になりました。仕掛けた後手が一旦は優位に立ったものの,先手の反撃を許す展開に。
                                        
 第1図から先手は☗7二銀と打って攻めを続けました。これには☖5一金と逃げるのが好手。☗2四馬には☖3三金と当てます。☗2五馬が王手になりますがこれにも馬取りに☖3四銀。先手は反対側から☗6二歩成☖同金☗6三歩と攻め続けますが☖7二金☗同香成に☖4三王と早逃げしました。
                                        
 第2図となって,まだ難しいものの正しく受ければ後手が勝つという局面になっていて,そのまま間違えなかったので,穴熊の姿焼きが焼き上がることになりました。第1図は☗6二銀と打つ方がよく,☖同金なら☗同歩成☖同王☗4一馬,☖6三馬なら☗6一銀成☖同王に☗7二銀か☗7四銀で攻めていくのがよく,それならむしろ先手が有望でした。
 香川女流四段が勝って挑戦者に。第38期以来となる7年ぶりの三番勝負出場。第一局は10月7日に指される予定です。

 この部分は『スピノザーナ11号』の巻頭言の中でわずか3行を占めているだけです。そして河井が指摘している第二部定理三二の訳と大きな関係を有するわけではありません。ただ,スピノザの哲学の解釈にとって重要な観点を含んでいますので,探求の対象にします。
 これは何度かいっていることですので,ご承知の方も多いかと思いますが,現実的に存在するある人間の精神mens humanaのうちにXの誤った観念idea falsaがあるというとき,この誤った観念が真の観念idea veraに変化するということを僕は認めません。ただし,だからこの人間がXの真の観念を有することができないというわけではなくて,Xの誤った観念を有していても,Xの真の観念をもつこともできると僕は考えます。すなわち,同じ人間の精神のうちで,Xの誤った観念がXの真の観念になるということは認めませんが,Xの誤った観念を有しつつXの真の観念を有するということは認めるのです。これは,第四部定理一の意味を綜合すれば,スピノザはそのようにいっていると僕が考えているからです。
 しかし,ある人間の精神のうちにあるXの誤った観念がXの真の観念になるということを肯定する識者というのもいます。代表的なのは観念をパズルのピースに喩えている田島正樹です。田島によれば,観念というのはパズルのピースのようなものであって,それ単独では何であるか分からないような誤った観念であるけれども,ほかのピースと合わさってひとつの完成したパズルを形成するならば,明瞭な真の観念となるのです。これは同じピースが誤った観念であったり真の観念であったりするわけですから,ある人間の精神のうちにあるXの観念が,誤った観念にもなるし真の観念にもなるといっているのと同じです。つまり田島は明らかに,ある人間の精神のうちにあるXの誤った観念がXの真の観念になるということを肯定しているのであって,ドゥルーズGille Deleuzeもこの田島説に近い見解opinioを有しています。また,『スピノザ『エチカ』の研究』は基本的にこの路線から論述されているといっていいのですが,著者の福居純は,後の『スピノザ「共通概念」試論』ではこれを修正し,僕が示している見解の方に近くなっています。
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ヒューリック杯白玲戦&第二部定理四〇備考二

2023-09-12 19:19:50 | 将棋
 9日に指宿温泉で指された第3期白玲戦七番勝負第二局。
 里見香奈白玲の先手で中飛車左玉。後手の西山朋佳女流三冠が向飛車にしたので先手は2筋に飛車を戻し,対抗形の5筋位取りのような形になりました。先手が歩を交換したタイミングで後手が仕掛け,その後の展開で先手の金が2五に進む形に。先手が押さえ込むか,後手が飛車を捌くかという勝負になるかと思われましたが,後手が飛車こそ捌けなかったものの金を相手にしないように攻めていき,そのあたりは有利になっていたのではないかと思います。ただもたついている間に先手の2五の金が5三まで進出するという先手にとっては望外ともいえるような進展となり,ここは逆転していたと思います。
                                        
 第1図からの進展が勝負を分ける最大のポイントでした。
 実戦は☗5八金と,飛車の成り込みを受けました。ところが☖9三香☗同歩成と取って☖5七角が痛打。取ると飛車を成られてしまうので☗6九王と逃げましたが☖9三角成と戻られ,☗4二金と飛車を取ったところで☖5七香☗6八金☖6六歩と猛反撃されて局面が混沌としてきました。
                                        
 第2図から☗5一飛と王手をしたのも位置が悪く,打つなら☗4一飛で,これで難しいながらも後手がよくなっているようです。
 第1図は☗3二歩成が正着で,☖4六角☗6八金☖8八桂成☗同王☖6八角成と進め,☗4二と☖9三香のとき,☗3一飛成ではなく☗5一飛と打てば先手が勝てていたようです。
 西山女流三冠が勝って1勝1敗。第三局は16日に指される予定です。

 第二部定理四〇備考二では,第三種の認識cognitio tertii generisが次のようにいわれています。
 「この種の認識は神のいくつかの属性の形相的本質の妥当な観念(essentia formalis quorundam Dei attributorum)から事物の本質の妥当な認識(rerumque proprietatum ideas adaequatas)へ進むものである
」。
 ここでいわれている事物の本質を,個物res singularisの現実的本性actualis essentiaと考えること,あるいは個物の現実的本性を含むものと解することはできます。ですから,もし僕たちが第三種の認識で事物を認識するcognoscereことについて何事かを例示したいのであれば,現実的に存在する個物,つまりそれに特有の現実的本性を有するものとしての個物を例材にすることに意味がないわけではありません。しかし理性ratioによる認識は,個物の現実的本性についての認識ではありませんから,それについて例示するときに現実的に存在する個物を例材として用いること自体が,適切ではないということができるでしょう。
 これでこの部分の考察は終えることにします。前もっていっておいたように,この部分は僕自身の探求という観点からは不要でしたので,河井が示している事例がスピノザの哲学にとって不適切であるとしても,それを修正するという必要はありません。なので河井の主張をさらに先に進めていきます。
 この後で河井がいっているのは,第二部定理三二は,第二部定理四〇まで追っていくと,混乱した認識から十全な認識へ移行するターニングポイントとなる定理Propositioであるということです。そのゆえに河井にとって,第二部定理三二の訳業が気になるのです。
 ここで河井がいわんとしていることは,ここでは,第二部定理三二まではスピノザは主に人間の精神mens humanaのうちにある誤った観念idea falsa,とりわけ表象像imaginesについて議論していたものが,第二部定理三二から第二部定理四〇に至る過程で,人間の精神のうちにある真の観念idea veraについてスピノザが主に語るようになる,そのターニングポイントであるという意味に解します。ここに河井が示している文章自体は,現実的に存在する人間の精神のうちにあるXの誤った観念が,同じ人間の精神のうちでXの真の観念に移行するターニングポイントとなる定理が第二部定理三二であるというようにも解釈することができるのですが,その解釈は採用しません。
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韓国国際競走&不適切になる理由

2023-09-11 19:04:48 | 海外競馬
 昨日の午後に韓国のソウル競馬場で行われた国際競走に日本馬が遠征しました。
 コリアスプリントGⅢダート1200m。バスラットレオンが2番手,リメイクが8番手からのレース。各馬が内目を開ける中でリメイクは内から進出し,直線入口では6番手付近。直線も逃げた馬が内を開けて走ったので,リメイクはそのまま内から伸び,残り150m付近でその逃げ馬を差して抜け出し優勝。バスラットレオンは逃げた馬にはむしろ差を広げられる形になって3着。
 優勝したリメイククラスターカップからの連勝で重賞3勝目。父は2016年にUAEダービーを勝ったラニでその母がヘヴンリーロマンス。母の父はキングカメハメハ。日本馬による海外重賞制覇はドバイワールドカップ以来。韓国がパートⅡになってからの重賞を日本馬が制覇したのは初めて。
                                        
 騎乗した川田将雅騎手はドバイワールドカップ以来の海外重賞4勝目。管理している新谷功一調教師は昨年のUAEダービー以来の海外重賞2勝目。
 コリアカップGⅢダート1800m。クラウンプライドは2番手追走から向正面で単独の先頭になり,そこからは逃げる競馬。グロリアムンディは7番手の外から漸進していき,3コーナーでは2番手。直線の入口ではこの2頭が雁行になりました。しかし叩き合いにはならず,途中から逃げたクラウンプライドの方が一方的に突き放していって快勝。グロリアムンディはクラウンプライドには離されたものの2着は確保。
 優勝したクラウンプライドは昨年のUAEダービー以来の優勝で重賞2勝目。父は2009年にきさらぎ賞,2010年にマイラーズカップを勝ったリーチザクラウンでその父がスペシャルウィーク。母の父がキングカメハメハで祖母の父がアグネスタキオン。母の3つ上の半姉に2012年にロジータ記念を勝ったエミーズパラダイス
 騎乗した川田将雅騎手は直前のコリアスプリントに続く海外重賞5勝目。管理している新谷功一調教師もコリアスプリントに続いて海外重賞3勝目。

 前もっていっておいたように,河井が示している事例に従えば,コンパスを用いて正確な円を描くことは,円の真の観念idea veraを有することに模されなければなりません。しかし実際に僕たちがコンパスを用いて円を描く行為は,円の表象像imagoを僕たちが有することには資するといえますが,円の真の観念を有することにはそれと同じ意味で資するということはできません。よってこの観点からも,河井が示している事例というのは不適切であるように僕には思えるのです。
 このことが不適切となってしまうのは,以下の理由によります。
 もし現実的に円が存在するのであれば,この円の観念は,第二部定理八系でいわれているように,持続するdurareといわれる存在existentiaを含むことになります。よってこの円,これは現実的に存在するあるひとつの円を前提としますが,この円の本性essentiaというのはこの円に固有の現実的本性actualis essentiaです。これに対して,一端が固定されもう一端が運動する直線によって形成される図形というのを円の形相的本性essentia formalisとしてみた場合は,この円の観念というのは,同じ系Corollariumでいわれているところの,神Deusの無限な観念が存在する限りにおいて存在するといわれる観念です。このことは,こうした観念が僕たちによって認識されるとするならば,僕たちの理性ratioによって認識されるのであって,第二部定理四四系二によって,それは永遠の相aeternitatis specieの下に認識される円の形相的本性であるということからも説明することができますし,一般に事物の本性というのは永遠のaeternus真理veritasであって,持続するものではないということ,つまり昨日も真理で今日も真理で明日も真理であるというように継続していくものではないということからも説明することができるでしょう。そして円の形相的本性がそうしたものであり,そうしたものとして僕たちに認識されるから,この形相的本性は存在するすべての円に妥当するということになるのです。
 このことから容易に理解することができるように,僕たちがある事物の形相的本性を認識するcognoscereということを,そもそもある事物の現実的本性に対して適用するということ自体に無理があるのです。そしてその無理が,河井が示している事例の中では犯されているのです。
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鳳凰賞典レース&円の表象像

2023-09-10 19:11:56 | 競輪
 立川記念の決勝。並びは新山‐守沢の北日本,真杉‐森田‐平原‐佐々木‐高橋の関東で北井と犬伏は単騎。
 佐々木がスタートを取って真杉の前受け。6番手に新山,8番手に犬伏,9番手に北井で周回。残り3周のバックを過ぎると北井が内から進出。5番手に入ったので6番手に新山,最後尾に犬伏という隊列に変化。ホームから真杉が駆けていくと打鐘から新山が発進。何とか前に迫ろうとしましたが,牽制もあってバックで浮いてしまいました。このタイミングで森田が番手から発進。最後尾から犬伏が追い上げてきましたがこちらもコーナーで一杯。番手捲りを決めた森田が優勝。平原の後ろから佐々木が外を伸びて半車輪差で2着。森田マークの平原が半車身差の3着で関東ラインの上位独占。
 優勝した埼玉の森田優弥選手は昨年12月に名古屋でのFⅠを優勝して以来の優勝。記念競輪は初制覇。このレースはラインの構成に偏りがあった上,分断策に出られそうな選手がいなかったため,よほどのことがない限り関東ラインで決まるだろうとみていました。森田の発進のタイミングによって,森田か平原かが決まると思っていたのですが,残り半周くらいまで真杉が頑張りましたので,森田の方が有利になることに。平原が佐々木に差されてしまったのは意外でしたが,これは早い段階からハイペースのレースになったことが影響したのだと思います。

 一端が固定しもう一端が運動する直線によって形成される図形という命題は,知性intellectusが円の真の観念idea veraを有するのに資する命題です。実際にこの命題でいわれていることをなすことによって,それをなした人間が円の形相的本性essentia formalisを正しく認識するcognoscereことがあり得るということは僕は否定しません。だからそのようにして実際に円を描いてみることが,知性が円を正しく認識するために無益であるとはいいません。しかしこの命題が知性が円を正しく認識するのに資するというのと同じ意味で,そうした認識cognitioに資するということはできないのです。これは一般に円を描くことすべてに妥当する事柄ですから,コンパスを用いて正確な円を描いてみる場合も成立します。つまりコンパスを用いて正確な円を描くことは,知性が円の真の観念を有するために無益であるとは僕はいいませんが,そのことに資するともいえないといいます。
                                   
 さらに,これは方法は問わないのですが,実際に円を描くという行為のうちにはもうひとつの問題点があります。それは,現実的に存在する人間が実際に円を描くなら,描かれたその円によって描いた人間の身体humanum corpusは刺激されるafficiので,この人間の精神mens humanaのうちには描いた円の表象像imagoが発生するという点です。このことは第二部定理一七から明白であるといえるでしょう。これは円の表象像なのですから,その円の真の観念であるどころか誤った観念idea falsaです。そしてこうしたことが生じるということは,すでにこの人間が円の真の観念を有しているかいないかということと関係ありません。第四部定理一がいっているのはそういうことだからです。
 したがって,どのような方法であれ,現実的に存在する人間が円を実際に描くということは,その人間が円の表象像を有するということには資する行為であるといわなければなりません。いい換えれば,現実的に存在する人間は,何らかの方法で円を描いたなら,そのことによって円の真の観念を有するようになるということは必然的necessariusであるといえないのですが,円の表象像いい換えれば円の誤った観念を有するということは必然的といえるのです。なので実際に円を描くことを,円の真の観念と結びつけることはできません。
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リコー杯女流王座戦&円を描くこと

2023-09-09 18:54:00 | 将棋
 5日に指された第13期女流王座戦挑戦者決定戦。対戦成績は西山朋佳女流三冠が11勝,加藤桃子女流四段が10勝。NHK杯の女流予選が公式戦であったときの記録を含んでいます。
 振駒で加藤女流四段の先手となって西山女流三冠のノーマル三間飛車。相穴熊の将棋になりました。互いに9筋を突いていたのですが,これが先手に有利に作用し,端を攻めたところでは先手が指しやすくなっていたものと思われます。
                                        
 ここから後手は☖7七歩成☗同金と捨てて☖7五歩と受けに回りました。先手は☗3七角と転換。飛車が成りたいところですが6四の銀が浮いてしまうためここも☖4六歩と辛抱しました。
                                        
 第2図となってむしろ差が開いてしまい,逆転の目がなくなってしまいました。第1図はもう後手が苦しそうですが,☖9七歩とか☖3五角などと開き直ってしまった方がよかったということになるでしょう。
 加藤女流四段が勝って挑戦者に。前期に続いての五番勝負出場。第一局は10月25日に指される予定です。

 ここまでのふたつの点に留意して,コンパスを用いて正確な円を描くという場合を考えていきます。
 僕たちがコンパスを用いて円を正確に描くとき,この方法がスピノザの哲学における円の定義Definitioに見合った方法であると僕は考えます。確かにコンパスを用いて円を描くということは,一端が固定されもう一端が運動する直線の運動motusとは異なるのですが,中心に置かれた針に対してもう一方の端が運動するのですから,単にその間には直線が存在しないというだけであって,運動のあり方としては同じであると僕は考えるからです。したがってもし僕たちの知性intellectusがこうしたコンパスの運動を概念するconcipereことができるのであれば,僕たちは円の真の観念idea veraを有することになるということについては僕は肯定します。
 ただしこのときに注意しなければならないのは,僕たちがそのことを概念するということと,僕たちがコンパスを用いて円を描くということとは別のことであるということです。別のことというのは,その間には因果関係を認めることができないということを含みます。実際のところ,一端が固定され一端が運動する直線によって形成される図形という円の定義は,僕たちがそのことを概念することができるのであればよいのであって,実際に直線を用いてこのような運動をさせるという必要はありません。実際に直線を用いた運動をしなくとも,僕たちの知性はこのことを概念することはできるからです。一方,実際に直線を用いてこのような運動をさせれば,僕たちが円の真の観念を有するようになるのかといえば,そういうわけでもありません。現実的に存在するある人間がこうした運動を直線にさせることによって,円の真の観念とは,一端が固定されもう一端が運動することによって形成される図形であるということを知ることができるというわけでもないからです。
 これと同じことが,僕たちがコンパスを用いて円を実際に描くということにも成立します。僕たちの知性は実際に円を描くことなしに円の真の観念を概念するということができますし,コンパスを用いて円を描いたからといって,それで円の真の観念を有することができるというものでもないからです。
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スポニチ盃アフター5スター賞&虚構

2023-09-08 19:06:10 | 地方競馬
 昨晩の第30回アフター5スター賞。キモンルビーは右前脚の蹄の底の内出血のために出走取消となり13頭。ライアン・クアトロ騎手が4日の12レースで落馬して左の肩甲骨を骨折したためマックスはキモンルビーに騎乗する予定だった御神本騎手に変更。
 ポーチュラカとプライルードが並んで逃げるようなレース。2馬身差でジャスティンとギシギシ。2馬身差でサダムスキャット。その後ろはミチノギャングとロードラズライトとマックスとシゲルタイタンの集団。2馬身差でブラックストーム。4馬身差でマースインディとマムティキング。ナムラカメタローは大きく取り残されました。前半の600mは33秒1の超ハイペース。
 3コーナーを回っても前の2頭は併走。そこにジャスティンが追い付いてきて,3頭が雁行で直線に。手応えが楽だったジャスティンがすぐに抜け出して単独の先頭に。外からギシギシが追ってきて大外からはマックス。この3頭の争いからはギシギシがジャスティンを差して優勝。マックスにも迫られましたがジャスティンが残ってクビ差で3着。マックスがハナ差で3着。
                                   
 優勝したギシギシは昨年の習志野きらっとスプリント以来の勝利で南関東重賞2勝目。このレースはジャスティンとギシギシの能力が上で,3歳で49キロのポーラチュカが対抗できるかという図式と考えていました。ポーラチュカはペースが速すぎたとはいえ最下位でしたから,ここで勝負になる力はなかったということでしょう。なので現に能力上位であった馬による順当な結果だったといっていいと思います。この馬はあまり大きく崩れずに走っている馬ですが,ここ最近のレースぶりからすると,もう少し距離が延びても対応できるようになっているのではないかと感じます。母の父はハーツクライ
 騎乗した大井の笹川翼騎手はニューイヤーカップ以来の南関東重賞17勝目。5月にさきたま杯も勝っています。アフター5スター賞は初勝利。管理している大井の栗田裕光調教師は南関東重賞7勝目。第19回以来となる11年ぶりのアフター5スター賞2勝目。

 一端が固定されもう一端が運動することによって形成される図形というのは,円の形相的本性essentia formalisで,円の発生を含んでいる命題であるということには問題ありません。しかしこの命題を円の定義Definitioとしてみたときには,ある虚構が含まれていると理解できます。知性intellectusは直線を概念したならその直線がこの命題にある運動motusをなすということを必然的にnecessario認識するcognoscereわけではないのであって,こうした直線の運動の認識cognitioというのは,知性がその知性自身を十全な原因causa adaequataとして認識する任意の思惟作用であるとしかいいようがないからです。
 ただし,このような虚構が定義の中に含まれているということは,スピノザの哲学においては否定的な材料を構成しません。定義というのはその命題によって知性が定義されたものを正しく認識することに資すればよいからです。そしてこの命題は知性が円を概念するconcipereのに資するようになっています。つまりこの定義は円の定義として正当であるということになります。なので虚構が含まれているからといってそれが円の定義の命題として否定されるということはありません。むしろこの種の虚構が含まれているということは,定義として推奨される材料になるのです。
 こうした虚構が含まれているということが,さらにもうひとつの注意点を生みます。この命題は円の発生を含んでいるのですが,だからといって現実的に円が存在するという場合に,円はこの命題にあるような仕方で存在するようになるというわけではありません。もちろんこのような仕方で円が現実的に存在するようにならないとは僕はいいませんが,これとは異なった仕方で円が現実的に存在するようになるという場合もあるでしょう。現実的に存在する円の起成原因causa efficiensというのは,第一部定理二八を現実的に存在する円に適用することによって説明されなければなりません。したがって,あの円この円といわれるような個々の円についてそれぞれ説明されなければならないのです。したがってそうした円の観念ideaは,第二部定理九の様式で説明されなければなりません。つまりあの円の観念,この円の観念といった具合に,個別の円の観念の起成原因がそれぞれ説明されなければならないのです。
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報知盃東京記念&円の形相的本性

2023-09-07 18:59:15 | 地方競馬
 昨晩の第60回東京記念。ライアン・クアトロ騎手が4日の12レースで落馬し左の肩甲骨を骨折したためコバルトウィングは張田昂騎手に変更。
 隊列が決まるのはわりと早く,逃げたのはランリョウオー。2番手に控えたのがウェイキー。3番手にヴェルテックス。4番手はセイカメテオポリスとレッドソルダード。6番手にミヤギザオウとフレッチャビアンカ。8番手にハデスキーパーとカイル。10番手にコバルトウィング。11番手にコスモポポラリタとフォルベルール。13番手にトーセンブル。6馬身差の最後尾にマンガン。最初の1000mは64秒4の超スローペース。
 3コーナーではヴェルテックスが2番手に。レッドソルダードが外から追い上げてきて内からはフレッチャビアンカ。直線に入っても楽な逃げだったランリョウオーは楽で,ヴェルテックスが必死に追い掛ける形。そのヴェルテックスの外からセイカメテオポリスが伸びてきて,逃げ粘るランリョウオーを差し切って優勝。ランリョウオーが4分の3馬身差で2着。向正面から追い上げを開始したマンガンが一旦は3番手に上がったのですが,ヴェルテックスとマンガンの間を突いたミヤギザオウがフィニッシュ直前でマンガンを差して1馬身半差で3着。マンガンはハナ差で4着。
 優勝したセイカメテオポリスはここが大井記念以来のレースで南関東重賞3勝目。このレースはランリョウオー,セイカメテオポリス,マンガンの3頭の能力が上でしたから,結果としては順当なもの。馬場状態とペースは逃げたランリョウオーに有利でしたから,それを差し切ったのは地力の違いとみることができます。つまりほかの馬に対して能力が上回るようになったとみてよいのではないでしょうか。母の父はディープスカイ
 騎乗した金沢の吉原寛人騎手スパーキングサマーカップ以来の南関東重賞32勝目。第53回,56回に続き4年ぶりの東京記念3勝目。管理している大井の渡辺和雄調教師は南関東重賞10勝目。第51回,53回に続く7年ぶりの東京記念3勝目。

 スピノザの哲学において現実的に存在する人間が円の真の観念idea veraを有するとは,その人間の精神mens humanaが,円の発生を正しく認識するcognoscereということを意味します。この場合は,円の発生を正しく理解することは,円の定義Definitioを正しく理解することと同じです。いい換えれば,円の正しい定義というのは,円の発生を含むようなものであるということです。
                                   
 では円の発生を精神が正しく認識するというとき,何を認識すればよいのかといえば,一端が固定し一端が運動する直線によって形成される図形であるということです。この命題が円の発生を示しているということはそれ自体で明らかでしょう。よってこれはスピノザの哲学における,円の正しい定義であることになります。そしてこのことを精神が正しく認識すれば,その精神は,このように発生する図形つまり円から流出するすべての事柄を正しく認識することができます。あるいはこれはほとんど同じ意味ですが,円という図形が有しているすべての性質を正しく認識することができるのです。これはちょうど,事物の本性essentiaからその事物の特質proprietasが必然的にnecessario流出するということに対応します。すなわち,一端が固定しもう一端が運動する直線によって形成される図形という命題は,円の発生を示し,また円の定義であるだけでなく,円の本性でもあるということになります。そしてとくにこの本性は,現実的に存在する人間の精神によって認識されるということを前提していますので,円の形相的本性essentia formalisということになります。つまり,円の形相的本性は円の定義であって,その中に円の発生を含んでいるということです。
 ここの部分にはしかし,注意しなければならないことが含まれています。まず,このことは,現実的に存在する人間がいかにして円の真の観念を有するかということだけを説明しています。ですから,円の真の観念を有するための,一端が固定されもう一端が運動する直線の運動の観念というのは,円の真の観念であるから意味があるのであって,単に直線の観念としてみるなら真の観念ではあり得ません。直線の本性の中には一端が固定されてもう一端が運動するということが含まれているというわけではないからです。
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成功体験&正確な円

2023-09-06 19:01:59 | 歌・小説
 先生はKの人間らしさを取り戻すことを目的としてKを自分と同居させました。その人間性の回復の中には,恋愛感情とか性的欲望といったものも含まれていたと僕は考えます。なぜならそうしたものをこの時点での先生は,すでにお嬢さんに対して抱いていたと僕は解するからです。
                                        
 Kを同居させることによって,先生のお嬢さんに対する恋愛感情とか性的欲望といったものは,増大したと僕は考えます。これは感情の模倣affectum imitatioというものが先生には生じたであろうからです。しかし,Kを同居させなければ先生はお嬢さんに恋愛感情を抱かなかったのかといえば,そんなことはありません。むしろKとの同居が始まる前から,先生にはお嬢さんに対するそうした感情があったのだと僕は解します。たとえば,お嬢さんの美貌に関連するような記述は,Kとの同居が始まる以前のものであって,それは先生がそのことをその時点で意識はしていたがゆえの記述でしょう。また,戸棚の中に先生の着物とお嬢さんの反物が重ねておいてあったというような記述は,明らかにその時点で先生がお嬢さんとの結婚を意識していたことを匂わせるものであって,おそらくその前提にはお嬢さんへの恋愛感情や,お嬢さんに対して感じていた性的魅力が反映されているがゆえのものであったといえるでしょう。
 だから,Kがを開けてお嬢さんが好きだという告白を先生にしたとき,先生はKが自分と同様にお嬢さんを好きなのだと解したと僕は考えます。つまりKはお嬢さんに対して恋愛感情を抱き,また性的欲望を抱いているのだと先生は認識したのだと思います。つまり,天罰の条件というものは,この時点で先生のうちで充足していたのだと解するのです。
 ある意味ではこの件は,先生の成功体験です。Kの人間らしさを回復させるために同居したら,確かにKの人間性は回復したというように読めるからです。ただその成功体験は,同時に先生の人生にとっては重大な失敗体験のひとつでもあったといえるでしょう。

 さらに僕は河井が示していることは,別の観点からも適切性を欠いているように思えます。これは河井の主張に対する適切性ではなく,主張自体のスピノザの哲学に対する適切性です。
 河井の主張では,コンパスを用いて円を描くとき,その中心がずれてしまって歪んだ円が描かれるとき,中心がずれるということは,歪んだ円が描かれることに対して十全な原因causa adaequataをなすので,中心がずれてしまった原因,これは具体的な事象としてはそれぞれでしょうが,そのときに中心がずれてしまった原因が認識されるなら,歪んだ円の観念ideaも真の観念idea veraになるというようになっています。このことそのものが本当に正しいかということについて僕は疑問に感じますが,そのことについては問いません。このことは河井がひとつの事例として出しているだけで,この事例自体は河井がいわんとしていること,すなわち僕が第二部定理三二の意味を修正する以前に示した河井の主張の事例として適合しているからです。
 ただ,こうしたことを事例として出すことができるのは,中心がずれるという事象が生じるからといえます。だから,中心がずれることの原因となったことの真の認識cognitioが,歪んだ円の真の観念のために必要となってくるのです。したがって,もしもそうしたことが生じないのであれば,そうした原因の認識は必要とされないでしょう。その場合はそのこと自体で直ちに事物が真に認識されるといわなければならないことになるのです。
 したがって,コンパスを用いて正確な円が描かれるならば,そのコンパスの運動motus,実際にはコンパスはそれ自体で運動するわけではなく,コンパスが運動する原因というのがまたあるのですが,そのことは無視するとして,このコンパスの運動が描かれた正確な円の十全な原因ですから,そのことが認識されるだけで円の真の観念が発生すると,河井は主張しなければならなくなると考えられます。しかしこのような考え方は,スピノザの哲学において事物が真に認識されるということの事例として適切ではないと僕は考えます。このようにして円が描かれるということと,円が真に認識されるということとの間には実際は何の関係もないからです。
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スキャンダル&最近原因としての神

2023-09-05 19:42:31 | 哲学
 オルデンブルクによるスピノザ訪問の目的は,学術的なものでした。だからスピノザがユダヤ教会から破門されたユダヤ人であるということを知らずにオルデンブルクがスピノザに会いにいったというのは,可能性としてはないわけではありません。ないわけではありませんが,きわめて低かったという想定はできます。オルデンブルクはスピノザを訪ねる前に,アムステルダムAmsterdamで情報を収集していましたから,この頃のアムステルダムの状況を再確認しておきます。
 1623年に,アムステルダムのユダヤ教会はウリエル・ダ・コスタUriel Da Costaを破門しました。この破門は1633年に解かれています。これは驚くようなことではなくて,当時のアムステルダムのユダヤ人社会において破門というのは一種の警告であって,解かれることが前提であったのです。むしろこれほど長く破門が継続したのが異例でした。これはユダヤ人社会には政治的権力というものがあったわけではないので,宗教的方法に依拠しなければ,ユダヤ人社会の内部の問題には対処できなかったためです。
 ところがダ・コスタは甥の告発でまたすぐに破門されてしまいます。この破門は1940年まで続きました。ダ・コスタは破門を解いてもらうために,会堂の中央で懺悔文を読まされた後,裸で柱に縛り付けられ革の鞭で39回叩かれました。最後に会堂の入口に伏して,会衆が跨いでいき,破門は解かれました。スピノザは1632年に産まれていますから,この儀式があったときには少年で,これを目撃していたかもしれないということが『破門の哲学』には記されています。
                                        
 ダ・コスタはこの復帰の儀式の屈辱によって,復帰してすぐにピストル自殺しています。この一連の出来事はアムステルダムにおけるひとつのスキャンダルでした。これはユダヤ人社会におけるスキャンダルということではなく,アムステルダムの住人であればユダヤ人であるか否かを問わずスキャンダルであったという意味です。ですから,スピノザが1656年に破門され,オルデンブルクがアムステルダムを訪れた1661年の時点でまだそれが解かれていなかったということは,ダ・コスタの一件ほどではなかったにしても,ひとつのスキャンダルとして広く知れ渡っていたと思われるのです。

 観念ideaの秩序ordoと観念対象ideatumの秩序は一致します。自然の秩序ordo naturaeと知性の秩序ordo intellectusは異なった秩序です。ですから,現実的に存在する人間の精神mens humanaのうちに,Xの真の観念idea veraが発生するときの秩序と,Xの誤った観念idea falsaが発生するときの秩序は,自然の秩序と知性の秩序が異なっている分だけ異なっているといわなければなりません。この秩序が異なっているがゆえに,Xの真の観念とXの誤った観念が,現実的に存在する人間の精神のうちに,同時にあることができるのです。
 このことから理解できるように,現実的に存在するある人間の精神のうちにあるXの真の観念もXの誤った観念も,同じように神Deusを最近原因causa proximaとしているのですが,各々は異なった秩序で人間の精神のうちに発生するのですから,異なった神を最近原因としているといわなければなりません。すなわち,ある人間の精神のうちにXの真の観念が発生するときの最近原因は,その人間の精神の本性naturaを構成する限りでの神であり,同じ人間の精神のうちにXの誤った観念が発生するという場合の最近原因は,その人間の精神の本性を構成するとともにほかのものの観念を有する限りでの神です。無限知性intellectus infinitusのうちではどちらもXの真の観念ではあるのですが,この人間の精神のうちでは,前者は神に関係させることができるけれど,後者は神に関係させることができませんから,前者はXの真の観念で後者はXの誤った観念であることになり,このふたつが同時に同じ人間の精神のうちにあることができるようになります。
 よってまず,この観点から河井が示している事例は,河井が主張しようとしていることに対して適切性を欠いていると僕には思えます。歪んだ円の観念に対する最近原因としての神のあり方は,それが真の観念であるのか誤った観念であるかのかということによって異なるといわれなければならないのに,河井の示し方では,最近原因としての神が認識されることによって,歪んだ円の観念が真verumになるというようにしか解せないからです。確かに最近原因としての神が認識されるのであれば,それはどのような観念であれ真ではあるでしょうが,最近原因としての神は真の観念に対してだけあるわけではありません。
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ヒューリック杯白玲戦&河井の事例

2023-09-04 18:57:39 | 将棋
 2日に台場で指された第3期白玲戦七番勝負第一局。対戦成績は里見香奈白玲が32勝,西山朋佳女流三冠が27勝。これはNHK敗戦の女流予選が公式戦であったときの対局を含んでいます。
 ヒューリックの会長による振駒で西山女流三冠の先手となって三間飛車。後手の里見白玲が向飛車にしての相振飛車。後手が居玉のまま中盤の戦いになりました。
                                        
 第1図から☗2七歩と打ち,☖1五角に☗4四歩と取り込みました。☖同金に☗6五歩☖4二飛☗4七歩。部分的に収めにいった順ですが,この判断がよくなく,玉の自由度が高い後手の方がよくなりました。
 第1図では☗1六歩と突いて角を捕獲しにいけば,先手が有望だったようです。
 里見白玲が先勝。第二局は9日に指される予定です。

 まず最初に次のことをいっておきます。僕が修正した第二部定理三二の意味は,現実的に存在する人間の精神mens humanaのうちに何らかの誤った観念idea falsa,河井の事例に合わせていえば歪んだ円の誤った観念があるにしても,それは神Deusと関係していないから誤った観念であるだけで,無限知性intellectus infinitusのうちでは神と関係させることができるから真の観念idea veraであるということでした。よって,現実的に存在する人間の精神のうちにある歪んだ円の観念が,真の観念であろうと誤った観念であろうと成立します。それが真の観念であるのならその歪んだ円の観念はその人間の精神だけによって神と関係しているということであり,誤った観念であるのならそれはその人間の精神だけによっては神と関係していないというだけのことだからです。よって,河井が示している事例は,僕の考察にとって不要です。つまり,僕の考察を継続するということだけでいえば,この部分を無視して先に進むことができます。
 それでも僕がこの点について触れたのは,ここで河井が示している事例が,河井そのものの主張に対してもあまり適していないのではないかと考えるからです。なぜなら,歪んだ円の誤った観念と歪んだ円の真の観念というのは,第四部定理一から分かるように,現実的に存在する人間の精神のうちに同時に存在し得るからです。他面からいえば,現実的に存在するある人間の精神のうちに,歪んだ円の真の観念が発生したからといって,それで歪んだ円の誤った観念がその人間の精神のうちから排除されるというわけではありませんし,歪んだ円の観念がその人間の精神のうちに発生することを妨げるというわけでもないからです。
 このことは一般的には次のように考えることができます。もしも現実的に存在するある人間の精神のうちに何らかの真の観念が発生するのであれば,それは知性の秩序ordo intellectusによって発生するのです。一方,ある人間の精神のうちに何らかの誤った観念が発生するのであれば,それは自然の秩序ordo naturaeによって発生するのです。このことは第二部定理二九備考でスピノザが示していることです。
 このとき,第二部定理七によって,観念の秩序というのは観念対象ideatumの秩序と一致します。
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平安賞&歪んだ円

2023-09-03 20:14:20 | 競輪
 向日町記念の決勝。並びは坂井に和田,北井に佐藤,山田‐村上‐川村の京都,太田に尾形。
 尾形がスタートを取って太田の前受け。3番手に坂井,5番手に北井,7番手に山田で周回。残り3周のバックから山田が上昇していくと,ホームの入口から坂井が合わせて出て,ホームは3つのラインが併走。残り2周となって太田を叩いたのは山田。山田が前に出たのを見て後ろで様子を窺っていた北井が外を上昇。バックで山田を叩いて打鐘からの先行になりました。3番手に山田,6番手に坂井,8番手に太田の一列棒状になったのですが,ホームで佐藤と山田の車間が開いてしまい,この時点で前のふたりの争いに。捲ってくる選手はなかったので佐藤はただついていけばいいというだけのレースになったのですが,あまり差を詰めることができず,逃げ切った北井が優勝。マークの佐藤が1車輪差の2着でこのラインのワンツー。差を詰めきれなかった山田を外から差した村上が2車身差で3着。山田が半車輪差で4着。
 優勝した神奈川の北井佑季選手は5月の西武園のFⅠを完全優勝して以来の優勝。記念競輪は初制覇。このレースは地元勢が3人いたのですが,山田の先行は考えにくいので北井の先行が有力。自力選手としての脚力では他を上回っていることが歴然としていましたので,このラインでの優勝争いが濃厚とみていました。残り1周半からの先行になった上に,2番手と3番手の差が早々に開いてしまいましたから,他のラインが手も足も出なくなってしまったのは仕方ありません。とはいえ番手の佐藤も振り切っての優勝は立派で,内容は文句なしです。119期ですから新鋭の部類には入るのですが,すでに33歳ですから,ビッグの優勝まで狙うというのなら,ここ数年が正念場になるでしょう。

 無限知性intellectus infinitusのうちではあらゆる観念ideaが神Deusと関係させられます。よって無限知性のうちにある限り,あらゆる観念は真の観念idea veraです。これに対して,観念が限定された知性,たとえば現実的に存在する人間の精神mens humanaのような有限なfinitum知性のうちにあるとみられる限りでは,神と関係させることができる観念もあるのですが,神と関係させることがその知性によっては不可能な観念もあります。したがって,ある観念がたとえば現実的に存在する人間の知性のうちにあるとみられる限りでは,誤った観念idea falsaもあるといわなければなりません。しかしそうした誤った観念も,無限知性のうちにあるとみられる限りでは神と関係させることができるので,その場合は真の観念となるのです。おそらくこうしたことが第二部定理三二の背後にはあるのであって,これがスピノザがこの定理Propositioに託したことであると僕は解します。いい換えれば,このように河井の主張を修正するということです。
                                   
 それではその後の河井の主張を追っていきましょう。
 河井は次にこのような例をあげています。コンパスを用いて円を描くとしましょう。このとき,もし描く過程でコンパスの中心がずれてしまうと,正確な円を描くことができません。何らかの歪んだ図形が描かれることになります。しかし,コンパスの中心がずれてしまったということは,結果effectusとして歪んだ図形が描かれることの原因causaは構成しています。これはコンパスの中心がずれずに円が描かれたときに,このコンパスの運動motusが描かれた円の原因を構成しているというのと同じことですから明白でしょう。しかしコンパスの中心がずれてしまったのであれば,中心がずれてしまった何らかの原因というのがあった筈です。河井は,そのずれの原因となった視点に立つことによって,歪んだ図形が描かれたことの十全な原因causa adaequataをなすといっています。これは原因,原因の原因というように辿り,反省的で包括的な視点に立つことによって,現実的に存在する人間の精神の能動actio Mentisが語られることになるという主旨のことをいっています。
 ここまでの僕の考察から理解してもらえると思いますが,僕はこの部分に関する主張も,全面的には受け入れることはできません。
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王座戦&限定的な知性

2023-09-02 19:07:14 | 将棋
 8月31日に鶴巻温泉で指された第71期王座戦五番勝負第一局。対戦成績は永瀬拓矢王座が5勝,藤井聡太竜王・名人が11勝。千日手が2局あります。
 振駒で藤井竜王・名人が先手となり,角換わり。後手の永瀬王座が4一玉の形で早繰り銀にしました。先に角を打った先手が攻めていってリードを奪ったのですが,きわめて細い攻めであったために,後手が辛抱しながら駒を蓄えて反撃を狙うという将棋に。
 勝負を分けた大きなポイントとなったのはおそらく第1図以下の手順であったと思われます。
                                        
 ここで後手は☖2六香とただのところに打ちました。先手が☗同飛と応じたので☖6九角の王手金取り。これが厳しい反撃で逆転しました。
 ☖2六香の局面は詰めろではありませんし,☖2九香成と取られても詰めろとなるわけではありません。なのでその局面で先手は飛車を見捨てて攻めなければ勝ちを掴むことができなかったということになります。
 永瀬王座が先勝。第二局は12日に指される予定です。

 Deusと関係させること,これはもちろん知性intellectusが関係させるのですが,神と関係させることができない観念ideaというのは存在しません。したがってこの限りでは,第二部定理三二は,すべての観念は真veraeであるということを意味します。しかし,ある観念は神と関係させることができるということと,その観念を実際に神と関係させるということは異なります。無限知性intellectus infinitusであれば,どのような観念であっても神と関係させることができるでしょう。これは,知性というのが個々の観念の集積であるということに注意すれば明白です。しかしもし知性が限定的である場合には,神と関係させることができる観念もあるでしょうが,神とは関係させることがその知性の力potentiaを超越しているがゆえに,神と関係させることができない観念があるという場合も大いに考えられます。そして実際にそうした観念があるのです。
 第二部定理一七は,現実的に存在するある人間,たとえばAの身体corpusが,現実的に存在する外部の物体corpus,たとえばXに刺激されるafficiと,Aの精神mensのうちにXの表象像imagoが発生するといっています。このとき,Aの精神のうちにあるXの表象像は,Aの身体の本性essentiaを構成するとともにXの観念を有する限りで神のうちにあるという仕方で神と関係させることができます。ですから無限知性のうちでは,あるいは神のうちではこの観念は真です。しかし,Aの精神つまりAの知性にだけ注目するなら,Aはこのような仕方でXの観念を神と関係させることはできません。これは,Aの精神というのがAの身体の観念であるということに注目すれば明らかです。すなわち,Aの身体の本性を構成する観念というのはAの精神という意味になりますから,Xの観念を有する限りでの神といわれる場合の観念は,Aの知性のうちには存在していないからです。したがって,Aは自身の身体がXによって刺激されればXの表象像を自身の精神のうちに発生させるのですが,この表象像を神と関係させることはできないので,Aの精神のうちにあるとみられる限りではXの観念は真ではあり得ません。真ではないということは偽falsitasであるという意味ですから,これはXの誤った観念idea falsaであるということになります。
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農林水産大臣賞典サマーチャンピオン&第二部定理三二の意味

2023-09-01 19:33:22 | 地方競馬
 昨晩の第23回サマーチャンピオン
 一旦はヘリオスが先頭に立ちましたが,外から押していったサンライズホークが追い抜いてこの馬の逃げになりました。2番手にヘリオスで3番手にマテラユウキ。4番手のレディバグまでは差がなく続きました。2馬身差でデンコウリジエール。6番手にオマツリオトコで7番手のハナブサまでが集団。3馬身差でエスケイファースト。ここからは離れてキタカラキタムスメ,離れてウノピアットブリオ,また離れた最後尾にクレールアドレ。前半の600mは37秒3の超スローペース。
 逃げたサンライズホークは3コーナーからヘリオスとの差を広げていくと,そのまま楽に逃げ切って優勝。懸命に追うヘリオスの内からデンコウリジエールで外からレディバグ。3頭で2番手を争うところレディバグのさらに外からオマツリオトコが追い込み,2馬身半差で2着。レディバグが半馬身差の3着。デンコウリジエールがクビ差の4着でヘリオスがハナ差で5着。
 優勝したサンライズホークは重賞初制覇。デビューが3歳の6月と遅かった馬で,9月に2戦目を勝つとそのまま4連勝してオープン入り。ただオープンに入ってからの3戦は結果を残せていませんでした。ここはブリンカーを装着して逃げるという競馬を選択。これが最も力を出せるということなのでしょう。最善の策を見つけたのは大きいですが,相手が強力であったというわけではない上に,かなり楽なペースでの逃げになりましたので,恵まれた部分もあったのではないかと思います。父はリオンディーズ
                                        
 騎乗したミルコ・デムーロ騎手と管理している牧浦充徳調教師はサマーチャンピオン初制覇。

 すべての観念ideaは神Deusを内在的原因causa immanensとして神のうちに存在し,かつ神を最近原因causa proximaとして存在します。したがって,因果関係において神と関係させることができない観念は存在しません。このように考えれば,第二部定理三二でいわれているのは,実際には存在するすべての観念は真verumであるということになってきます。
 ではスピノザがこの定理Propositioでそのようにいいたかったのかといえば,このように解するのも無理があると僕は思います。というのは,もしこの定理の証明において,本来的特徴denominatio intrinsecaからみたときに十全な観念idea adaequataである観念は,外来的特徴denominatio extrinsecaからみた場合には真の観念idea veraであるということをいいたいのであれば,第二部定理七系の中に,神のうちにある観念はすべて十全な観念であるという意味を含めればよかったのですが,スピノザはそうしませんでした。これが,スピノザはそのことをいいたかったわけではないということの理由です。よってこれと同じように,存在するすべての観念は真であるということがいいたいのであれば,定理の文言をそのようにすればいいだけのことであって,スピノザはしかしそのようにはしていないのです。つまり,存在するすべての観念は真であるということは,第二部定理三二の先に,神が観念に対して内在的原因であり最近原因であるという手順を経て説明されることであって,第二部定理三二自体はその手前にあるのです。いい換えれば,すべての観念は真であるということは第二部定理三二においては想定されていないと解釈するべきだと僕は考えます。
 よって,第二部定理三二はその文言の通り,すべての観念は神に関係する限りで真であると解するべきであって,その裏には,そうでない観念,つまり神と関係してはいない観念があるということがスピノザの念頭には置かれているのだと僕は考えます。これは消極的ないい方であって,積極的にいい換えるのであれば,この定理を示したスピノザの念頭には,神とは関係しない偽の観念があるということ,これはつまり真の観念に対しては誤った観念idea falsaのことですが,そういう偽falsitasである誤った観念もあるということがあったと僕は考えるということです。そしてそのような解釈が可能です。
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