大阪・関西万博協賛競輪in大垣の決勝。並びは佐藤‐永沢‐阿部の北日本,橋本‐鈴木の関東,志田‐山口の岐阜で山本と市橋は単騎。
鈴木がスタートを取って橋本の前受け。3番手に志田,5番手に佐藤,8番手に山本,最後尾に市橋で周回。残り3周のバックを回ったコーナーから佐藤が上昇。山本はこのラインを追走し,市橋は続かなかったので,ホームで佐藤が橋本を叩くと4番手に山本となり5番手は内の橋本と外の志田で併走に。インが開いたので橋本は上昇。永沢の内に並んだあたりで打鐘。佐藤がペースを上げなかったので外から志田がかまして発進。ホームで楽に佐藤を叩いて先行。マークの山口が離れて追走し,山口と橋本の車間は大きく開きました。かました志田はこのまま後ろを寄せ付けずに圧勝。山口は追走に一杯で,早めに発進した山本が5車身差の2着。山本を追うような形になった市橋が半車輪差で3着。
優勝した岐阜の志田龍星選手は前回出走の京王閣のFⅠから連続優勝。グレードレースは初優勝。この開催はウィナーズカップの選出に漏れた選手での争いで,なおかつGⅢの同時開催となっていましたから,FⅠと変わらないレベル。志田はF1の優勝直後でしたから候補のひとりで,力量は鈴木と永沢が上ではあるものの自力の競走ではないため,僕は最有力と考えていました。圧勝になったのはかましのタイミングが抜群であったからですが,2着と3着に単騎の選手が入っているように,こういうレベルの争いでは自力を使う方がマークの競走より圧倒的に有利だと僕は考えています。
デカルトRené Descartesが実際にそのことを認めるかどうかは別として,デカルトの哲学の枠内でも,ネコや馬,地蔵が感情affectusに触発されるという結論を出すことは可能です。それは以下のような論理に依拠します。

スピノザの哲学では第三部定義三から分かるように,感情は人間の精神mens humanaにも人間の身体humanum corpusにも関係します。しかしデカルトの哲学ではそうではなく,感情は人間の身体とだけ関係し,人間の精神とは無関係です。むしろ精神は感情を制御する立場を与えられているのであって,これがデカルトの倫理学の根底を構成します。したがって,スピノザの哲学では感情は身体の刺激状態とみるなら延長の様態modiですが,その観念ideaとみるなら思惟の様態cogitandi modiです。しかしデカルトの哲学では感情はもっぱら延長の様態であって,思惟の様態ではありません。よって仮にあるものが精神をもたないもの,すなわち思惟の様態ではないものであるとしても,延長の様態である限りはそれが感情に触発されるということは,論理的には可能です。デカルトは動物は自動機械automa spiritualeであって精神をもたない,単なる延長の様態であるとしているわけですが,論理的には延長の様態が感情に触発されるということは可能ですから,動物は感情に触発され得ることになります。そして地蔵も延長の様態ですから,地蔵が感情に刺激されるafficiと主張することは,デカルトの哲学の枠内でも可能です。前もっていっておいたように,実際にデカルトがそう主張するということではないのでその点は注意してください。
スピノザもまた地蔵が感情に触発されるということは主張しないでしょうが,すでにみたように,馬が感情に刺激されるということは肯定しているので,ネコが感情に刺激されるということも肯定するaffirmareのは疑い得ません。したがって僕たちは,何らかの感情に刺激されているネコというのを表象するimaginariことがあるということを否定するnegareことができないと僕は考えます。そこで再び第三部定理二七に注目すれば,もしもある人がネコを自分の同類とみなすならば,そのネコの感情を模倣することがあり得るということになります。いい換えれば論理的にはスピノザはそのことも否定することはできないことになります。
鈴木がスタートを取って橋本の前受け。3番手に志田,5番手に佐藤,8番手に山本,最後尾に市橋で周回。残り3周のバックを回ったコーナーから佐藤が上昇。山本はこのラインを追走し,市橋は続かなかったので,ホームで佐藤が橋本を叩くと4番手に山本となり5番手は内の橋本と外の志田で併走に。インが開いたので橋本は上昇。永沢の内に並んだあたりで打鐘。佐藤がペースを上げなかったので外から志田がかまして発進。ホームで楽に佐藤を叩いて先行。マークの山口が離れて追走し,山口と橋本の車間は大きく開きました。かました志田はこのまま後ろを寄せ付けずに圧勝。山口は追走に一杯で,早めに発進した山本が5車身差の2着。山本を追うような形になった市橋が半車輪差で3着。
優勝した岐阜の志田龍星選手は前回出走の京王閣のFⅠから連続優勝。グレードレースは初優勝。この開催はウィナーズカップの選出に漏れた選手での争いで,なおかつGⅢの同時開催となっていましたから,FⅠと変わらないレベル。志田はF1の優勝直後でしたから候補のひとりで,力量は鈴木と永沢が上ではあるものの自力の競走ではないため,僕は最有力と考えていました。圧勝になったのはかましのタイミングが抜群であったからですが,2着と3着に単騎の選手が入っているように,こういうレベルの争いでは自力を使う方がマークの競走より圧倒的に有利だと僕は考えています。
デカルトRené Descartesが実際にそのことを認めるかどうかは別として,デカルトの哲学の枠内でも,ネコや馬,地蔵が感情affectusに触発されるという結論を出すことは可能です。それは以下のような論理に依拠します。

スピノザの哲学では第三部定義三から分かるように,感情は人間の精神mens humanaにも人間の身体humanum corpusにも関係します。しかしデカルトの哲学ではそうではなく,感情は人間の身体とだけ関係し,人間の精神とは無関係です。むしろ精神は感情を制御する立場を与えられているのであって,これがデカルトの倫理学の根底を構成します。したがって,スピノザの哲学では感情は身体の刺激状態とみるなら延長の様態modiですが,その観念ideaとみるなら思惟の様態cogitandi modiです。しかしデカルトの哲学では感情はもっぱら延長の様態であって,思惟の様態ではありません。よって仮にあるものが精神をもたないもの,すなわち思惟の様態ではないものであるとしても,延長の様態である限りはそれが感情に触発されるということは,論理的には可能です。デカルトは動物は自動機械automa spiritualeであって精神をもたない,単なる延長の様態であるとしているわけですが,論理的には延長の様態が感情に触発されるということは可能ですから,動物は感情に触発され得ることになります。そして地蔵も延長の様態ですから,地蔵が感情に刺激されるafficiと主張することは,デカルトの哲学の枠内でも可能です。前もっていっておいたように,実際にデカルトがそう主張するということではないのでその点は注意してください。
スピノザもまた地蔵が感情に触発されるということは主張しないでしょうが,すでにみたように,馬が感情に刺激されるということは肯定しているので,ネコが感情に刺激されるということも肯定するaffirmareのは疑い得ません。したがって僕たちは,何らかの感情に刺激されているネコというのを表象するimaginariことがあるということを否定するnegareことができないと僕は考えます。そこで再び第三部定理二七に注目すれば,もしもある人がネコを自分の同類とみなすならば,そのネコの感情を模倣することがあり得るということになります。いい換えれば論理的にはスピノザはそのことも否定することはできないことになります。
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