書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

一括投稿。2

2012年02月27日 15時17分45秒 | 意識論関連
//一括投稿。

○集団生活を覚える。

 集団生活を覚えると称して本能的な社会形成習性を行動学習しても人間性が養われるわけではない。

 自分がイジメられないようにイジメに関与しないように無意識的に行動「学習。」することは、本質的な人間としての社会性にはならないのである。

 学校に集められた生徒の集団というものは、あくまで無作為に集められただけ集団であり。これが必ず人間としての社会性を育むわけではなく、むしろ子供達だけで放置しておけば動物的な暴力性を発揮しイジメを行うようになる。

 イジメを自律的に抑制できない子供達で集団生活を「覚える。」というのは、言い換えればイジメを自律的に抑制できない集団に迎合するという姑息で利己的選択を行動「学習。」するということでもある。

 集団に迎合しないと生命に関わるような状況を体験してしまうことによって、強迫観念的に集団に迎合することを無意識的に行動「学習。」してしまうことによって、むしろ自律的な責任判断をできなくなってしまうことに陥るのである。

 自律的に社会的責任判断を行う「人間としての社会性。」というのは、無意識的条件反射による集団迎合性によって不具にされるのである。こうした無意識性を無視して「集団生活を覚える。」などというのは根本的に間違いである。

 生徒子供に本当の意味における「人間としての社会性。」を身につけさせるためには、先ず子供達自身の自発性を尊重することによって、個人の個性を互いに尊重するようになり。それが目先の集団への迎合性に惑わされずに自律的責任判断を可能になる。

 更に、子供というのは産まれて来てからの時間的短さによる世界観の狭さが原理的につきまとう。故に人間性を持った大人によって、より広い世界観や論理的思考というものを促す必要性がある。

 これを行わなければ、子供達だけで集団生活をさせても。ヒトという種の生物が持つ本能的な社会形成習性によってイジメや排除といった動物的価値観だけが「学習。」されてしまうことになるのである。

 「自分達は子供時代に苦労した、辛い思いをした。」からといって、これを連鎖させている時点で無意識的条件反射の証明であり。既に存在している自己の事後正当化であり。固定観念という無意識に支配された無為無策に陥っているのである。

end;


○良い選択。

 「良い選択。」というと、文系観念上では社会的成功という利己的「結果。」につながる選択を指す。

 リンカーンが大統領になったという社会的成功を指して「良い選択。」であると規定するが。「大統領になった。」こと自体がリンカーンの社会的価値ではなく、リンカーンが人種差別を撤廃しようとしたことこそがリンカーンの社会的価値であり。単に大統領になったというだけでは社会的価値であるとは言えないのである。「権力を得ること。」自体に人間としての価値観があるのではなく、「何をしようとしたか。」が人間の価値なのである。

 ドイツの総統になれれば社会的成功だと言えるであろうか。カンボジアで虐殺を遂行できれば社会的成功であろうか。暴力によって権力を勝ち取ることは社会的成功であろう。「社会的成功。」とは言うことができるであろうが、それが短絡的に社会的価値であるとは言えない場合も多数存在するのである。

 ナチス政権に反対して社会的に失敗するからといって、ナチス政権に反対することは人間として間違いであると言えるであろうか。虐殺に反対することは社会的価値を持たないとでも言うのであろうか。ナチスの迎合して虐殺に加担しておけば生存に適するからといって人間の行動選択として「正しい。」と言えるであろうか。

 社会的成功というのは必ずしも社会的に普遍的価値になるわけではなく。あくまで時代に左右される環境依存的な「結果。」でしかない。社会的に排除されてでも「正しい選択。」をすることが、必ずしも自分の利権「社会的成功。」に寄与するわけではないのである。

 自分にとって世間的に成功する選択のことを、文系観念上では「良い選択。」であると規定しているが。これは必ずしも人間として「正しい選択。」を指してはいない。

 こうした人間としての「正しい選択。」と、世間的成功としての利己的な「良い選択。」を明確に区別していない時点で、文系の観念者達は本質的な「人間とは何か。」についての考えが全く存在していないのである。彼らは既に存在する自分を事後正当化することによって気分的満足を得ることにしか意識が働いておらず、気分的満足主体の無意識的条件反射行動としてヒステリックに固執するのである。

 「良い選択。」について言及している時に、人間として社会的責任判断を伴う「正しい選択。」に考えが及ばないのは、最初から「人間とは何か。」に対しての意識/感心がないからである。

 自分にとって利益になりそうな話だけを「良い選択。」であるという思い込みを鵜呑みにして主体的/自律的に「正しい選択。」に考えが及ばないというのは、どんなに学力が高くてもデクノボウに過ぎない。

 自分にとって利己的利益になるかどうかだけの価値観を提供されて、それ以外に考えが及ばないのは本能主体の文系観念による気分的満足によって論理思考を停止させている無意識性である。

 学問というのは本来利己的利益追及のための姑息な手段であってはならず、本質的な社会的公益性に寄与すべきものでなくてはならない。それを社会的成功だけに意識を奪われて思考停止に陥っているというのは単なるバカという以外に形容不能である。

 自発的論理思考が伴わないのであれば学問としての社会的価値は存在しない。

 自発性による思考探索ができないのであれば、そこから新しい原因の究明も対策も生み出されることはなく。糞の役にも立つことはない。

 教師講師の促す考え以外に何も考えないというのは、得点評価や成績という利己的欲望だけに意識を奪われているからであり。これこそが自発的思考を不具にする本能主体の無意識性というものである。

 無意識な者というのは自分の無能を事後正当化するための「取り繕い。」や「言い逃れ。」に執着する。無意識な者というのは「取り繕い。」や「言い逃れ。」といった外見に対しては異常に執着するものであるからだ。その代わりに自律的な思考というのは全く働くことはないのである。




 進化的な習性の説明からは本能的な行動の「結果。」以上の何にも原理的に言及不能である。既に存在している本能的な安全性以上には何も獲得することはできず、何が起きても「悪いのは本能。」というバカげた観念だけに帰結してしまう。

 「ヒトという種の生物が進化的に生存に適するかどうか。」と称して無為無策に陥るというのは。彼らの脳には最初から自発的「考え。」や、意識的目的行動選択というものが働いていないからである。進化生物学の神とは無意識的本能の「結果。」だけであり、そこに人間としての自律的「目的。」選択が伴わないのは本能習性だけで全てを説明可能であるという実証不能の観念に由来するものである。

 文系の論理思考のできない者にとって自律的目的選択などというものはあってはならない/あっては困るものであり。故に異常なまでの「取り繕い。」による体制維持ばかりに固執するのである。

 彼らは単に生物学的な文系観念の満足によって思考停止し、教えられたことを漫然と鵜呑みにして、自分が迎合した体制の維持に加担することだけにしか「意識。」が働かないのである。無論この「意識。」とは無意識のことである。

 思考探索性が働かないのは、それが無意識である以上必然というものである。

 本能的に体制維持によって保身を謀るというのは、生物学的な「生存価。」上においては「正しい。」選択であろう。しかし、こうした大局的には社会的公益性を伴わない無目的な体制維持こそが、生物本能的な社会形成習性として機能することになるのである。無論本能習性というのは無意識であり、本能習性の目的とは本能的な満足以上の何ももたらすことはないのである。

 本能習性のままに行動しておいても、本能習性は何ら「結果。」に対して保証することはない。なぜなら本能習性というのは結果的に生存していた「結果。」として自然選択的淘汰によるものであり、そこには何の「目的意識。」も介在してはいないからである。

 どんなに観念的に気分の良い話を枚挙しても、自分を含めたヒトという種の生物の無意識的本能の正当化にはならない。自分の本能というのは自分自身では制御不能である、しかし行動選択の全てが制御不可能であるわけではない。だからこそ本質的「意識。」が重要なのであり、これを無視して本能習性だけで何かを論証しようとすること自体が根本的に間違いなのである。そんなことは論理的に不可能なのである。



 一方では学力学歴に対して強迫観念的/無意識的に固執するが、その一方で「統計的に少ないこと、困難なこと。」を、あたかも論理的に不可能であるかのように無視するというのは、知能というものに対して論理的根拠を持たない多数による既存の固定観念という「思い込み。」という偏った価値観でしか測ることしかしていないからである。

 学力というものをビジネス(飯のタネ。)にしかしていない奴らにとって、知能=学力という短絡的大衆観念は都合が良い。本質的知能とは何か、社会における自己存在の価値観とは何か、そんな根源的で普遍的な価値観を意識せず。ただ目先の大学合格だの就職採用といった気分的安心だけに集中させておけばバカ学生は強迫観念的に従順に服従するであろう。しかし植え付けられた強迫観念に対して機械条件反射的に行動学習した学力である限り、それ以上の何ら新しい発見や発明に関わる本質的知能は発揮されることはない。それはチンパンジーの瞬間記憶能力と構造的には全く同じものでしかないからである。

 生物学者達が実証不能の観念にいつまでも固執するのは、彼らが自発的には何も論理検証する「意思。」がないからである。

 オウム真理教の幹部達が高学歴でありながら異常行動を自律的には止めることができなかったが。こうしたカルト宗教だけでなく、そもそもが文系観念による非科学/非論理性が科学に混入していたからである。



 マスコミは未だに養老孟司の非科学性や、脳トレ類の論拠とした脳血流増加の不毛さを認識していない。マスコミは既に報道してしまった内容を訂正することによって外見上の信頼性を損なうことを忌避して、生物学/脳科学の体制維持に加担共謀して大衆をペテンに陥れているのである。マスコミというのは社会安全性の確立よりも、目先の利己的利益が優先しているのである。

end;


○悪質

 松沢哲郎によるチンパンジーの利他行動を「話題になった。」などと祭り上げておきながら。これが理論的には何ら「行動習性から人間としての社会性の立証。」には原理的に結び付かない論証については生物学もマスコミも隠蔽黙殺しており。極めて一面的で偏った報道である。

 どんなに利他行動の抽出を枚挙しても、行動習性の全てが利他に結び付くことの証明にはならないからである。

 シエラレオネの少年ゲリラを鋼鉄とポリカーボネートのケージに閉じ込めておいて、一体彼らがどのような利他的行動を採れば既に行われた残虐行為を反証可能であるというのであろう。

 既に行われた残虐行為は、その後に仲間内における如何なる利他的行動によっても原理的に反証不能であり。松沢の言っていることには最初から論理的根拠がない実証不能の観念であり、嘘に過ぎない。

 これを「間違い。」とは言うことができない。間違っていることが論理的に立証可能であることを隠蔽黙殺しておいて生物学界内部だけの正義を振り回し続けているというのは、「間違い。」ではなく現状体制維持のための「嘘。」なのである。マスコミは権威の考えを鵜呑みにするばかりで、自律的な論理検証を全く行わない。こうした無責任性こそが社会的損失や崩壊を生み出すのである。

 生物学界というのは論理検証が不可能なペテン師の集まりであり。どのペテン師に検証を求めても論理的裏付けにはならないのは当然である。たとえ専門外であろうと物理/工学系研究者による論理検証をしなければ、科学としての社会的役割を担うことはできない。

 どんなに学歴があっても、論理検証ができないマスコミや生物学界というのは社会的に役に立たないばかりか、本質的な人間についての議論を撹乱するだけの社会的負担にしかなっていないからである。

 どんなに無意識本能的「仕組み。」を説明しても、ヒト=人間という短絡的方程式を正当化可能な論証には原理的にならない。これを無視して断片的に「人間らしい。」習性を枚挙しても、これは原理的に「概ね。」論にしかならないのである。

 「概ねヒトは安全である。」とか、「大体ヒトは人間らしい。」といった話は観念を満足させているだけであって、人間とは何かの論理的追及には結び付かないのである。

 進化的にどのような仕組みがあろうとも、進化的仕組み自体は個人の意識による意識的且つ論理的検証に基づく「目的。」のための選択とは無関係である。進化的仕組みの枚挙は論理的検証の放棄であり、文系の観念を気分的に満足させるだけの身勝手な思考放棄の言い逃れである。

 多くの大衆は、これを悪質であるとは「思わない。」であろう。こうした大衆の「思い込み。」を利用して体制維持をしていることこそが悪質なのである。

end;


○わけのわからぬ話。

 ニュートリノが光の速度よりも早い可能性が観測されたそうである。物理学においても「わけのわからないこと。」はたくさん報告されては来る。

 しかし物理学においては、「わけのわからないこと。」は様々な可能性の糸口として扱われるのだが。生物学においては、あたかも生物の意識とは無関係な超自然的目的意識の存在であると称して「生存戦略。」などという実証不能の観念を振り回して、勝手な「決め付け。」を行って思考を停止させてしまう。

 生物学における「わけのわからなさ。」というのは、物理学系における「わけのわからないこと。」の取り扱いとは全く異なり。あくまで解釈の仕方に論理的組み立てが成立していないことによる「わけのわからなさ。」なのである。

 のらりくらりと「生存のため。」だとか「種の保存のため。」といった、個体の本能とは無関係な超自然的目的意識が存在するかのような、その場限りの観念的「決め付け。」があまりに多すぎるのである。

 これは生物学者のほとんど全員が文系の観念に囚われ、理論的思考が成立していないことが原因である。文系の者の多くが「物理学は難しくてわからないが、生物学ならわかる。」というのも、あくまで生物学における観念に同調して「わかった。」ような錯覚に陥っているだけであって。何ら論理的理解を伴うものではない。

 文系の観念というのは大衆への迎合である。ヒトの多くは論理的思考よりも感覚的観念としての「安心。」を求める傾向習性があるからだ。ヒトとはそういうものなのである。

 そのため大衆迎合だけを目的としたマスコミは生物学の観念に同調し、大衆の大脳辺縁系を酔わせて気分的「安心。」を提供して科学的知見であるかのような生物学のプロパガンダに便乗するのである。


 愚かであることは罪である。振り込め詐欺師に騙され暴力団の資金提供をしてしまうことは社会的に正当な行為ではないからである。

 大衆観念的には騙されることは純粋で無垢な証明であるかのように取り扱われるが。これは論理的には何の根拠もない文系観念の「思い込み。」に過ぎない。

end;

 ◇追記:ニュートリノの速度が光速より早いという話は、どうも測定器の光ケーブルの接続不良による誤差らしい。



○生存戦略

 ゴマフアザラシの子供の体毛が白いのは、白い雪原での保護色に結果的になっているからである。しかし、こうしたアザラシの体毛の色というのは、アザラシ自身の意識的選択によって決定しているわけでもなければ、アザラシ以外の何者かの意識的選択によって決定している訳でもない。

 アザラシが子供のうちに体毛が白いというのは、子供のうちに体毛が白くない個体が自然選択によって淘汰された「結果。」に過ぎず。「誰。」の意図的選択も介在してはいない。

 従って「生存戦略。」などという概念は理論的に成立しえない。生物学者は「比喩である。」などと訳のわからぬ言い逃れをするが、喩え話を「支持する。」というのは支離滅裂な論理崩壊でしかない。

 理論的組み立てが出来ないのであれば科学者としてポンコツなのは明白である。

end;

○サルの正義

 遺伝的に組み込まれた行動習性というものは、自分自身では選択不可能なものである。自分自身の遺伝子は自分では選択することは原理的に不可能であり、結果的に生存だの種の保存に適したとしても、その結果に個体の選択が介在する余地はない。

 遺伝的に予め組み込まれた本能習性というのは、結果的に生存や種の保存に適した「結果。」しか導き出すことはなく。そこに個体の本能以上の「目的。」意識が存在することを立証することは原理的に不可能である。

 本能的目的というものが本質的には意識的選択による目的ではないことは既に述べてある。

 生殖行動を挙げれば、その行動の全てが種の保存に適することの証明にはならない。ボノボがのべつまくなしケツを振ることからも、その行動が結果的に個体の気分的満足を促すだけに過ぎず。ケダモノの狂暴性を正当化するための屁理屈をどんなに枚挙しても、ケダモノの正義以上の何も抽出することはできない。

 ヒトのオスがメスをレイプしておいて殺害するというのは、オスにとっては性行為自体が本能的な目的であって。そこに種の保存といった本能を超越した目的意識の存在を立証することは原理的に不可能である。

 ありていに言って、そんなものある訳なかろう。バカらしくて呆れるばかりだ。たとえ環境に依存して行動が限定される話を枚挙しても、環境に依存した結果であるという限定性からは逃れることはできず。何ら本能習性を超越した目的意識の存在を立証できるようなものではない。

 本能自体に目的など存在しない。本能というのは、その選択過程において誰の「意思。」も介在していないからである。

 何でこんな下らない原理すら誰も気付かないのであろう。それこそがヒトという種の生物における不思議であり怪異である。

 誰も問題意識を持たなければ、あらゆる社会の問題は原因も究明されず、当然対策も立てられない。犯罪者は再犯を繰り返し、重大事故は繰り返えされる。それを自分の身に直接関わらない限り気分的に行動学習できないというのであれば、当事者以外は誰も問題意識を持たないのは必然というものである。世代が代わるごとに戦争を体験しなければ戦争の悲惨さや無意味さを認識できないのであれば、これは単なるバカとしか形容不能である。一体何のための教育であるのか意味がわからない。

 過去の過失を教訓として世代間で受け継ぐことこそが、本当の教育の役割である。単なる学力だけでは学力ビジネスにおける損得勘定しか働かない。教育機関が学力を用いて生徒を選別するのは構わないが、教育者や研究者を学力だけで選別するというのは間違いである。自律的に間違いに気付かないバカを排除しないことには公益的に意味がなく税金の無駄遣いにしかならないからである。

end;


○他慰的

 夢だの憧れの全てが自発的であるわけではない。

 ヤクザに憧れることは純粋な自発性によるものではなく、強迫観念的依頼心が作り出す本能的価値観に過ぎない。

 夢と称して社会的成功を求めることも、これもまた既に社会的に成功している他者への憧れであり。共に「他人探し。」にしかなっていない。

 他人探しに執着し意識を奪われていれば自分が見えないのは当たり前である。こうした意識こそが無意識性なのである。

 ヒトは、その本能的な社会形成習性によって、他人からの見た目、外見上に固執する習性がある。大衆観念的には「多数他人からの評価がなければ金にならない。」という短絡的方程式に基づき、目先の評価ばかりに意識を奪われ、普遍的価値観について誰も考えなくなる傾向がある。当然公益性の優先順位も低くなる。


 現実というものは複数存在する。主観的価値観としての純粋行為というのは、あくまで個人的な価値観を満たすものであるが。個人的な価値観を満たせることによって、結果的に客観性を持った公益的価値観にも意識が働くようになるのである。

 しかし、こうした純粋な主観的価値観を蔑ろにし。世間的な評価報酬を先に求めるような不純な価値観に基づいていると、主観的価値観と社会的価値観の区別ができず。目先の社会的評価報酬が優先してしまい、結果的に公益的視点を喪失することに陥るのである。

 主観的価値観に基づく純粋行為に基づくことによって、自分自身で自分の欲望を満たすことが出来るようになり。結果的に公益的視点も持つことが可能となるのである。

 自己満足を自己自身で満たせないから、世間からの評価報酬を必要以上に求めるようになり。結果的に嘘やごまかしをしなければならなくなってしまうのである。

 他人を騙す者というのは、他人を騙す前に自分自身を騙しているのである。

 自分を大切にできない者は他人も大切にできない。これもまた定理である。嘘をつく者というのは、先ず自分自身をごまかして、理想を放棄して「意識から外して。」おかなければ他人を騙すことはできないのである。

 その意味において嘘つきは憐れである。業績のねつぞうをしてしまう研究者というのは、自分が今まで行ってきた行為を事後正当化しなければならなくなるという心理的な強迫観念が根底にある。多数他人からの評価報酬に反射的に従ってきた自分の行為を、事後的に正当化するためには、世間的な評価報酬を求めなければ自己自身では自己の精神的満足を得られないからである。

 多数他者への迎合ばかりに意識を奪われていれば、自律ができなくなるのは必然というものである。

 純粋行為としての自己満足を、「自慰的。」であると形容するのであれば。自己満足を自己自身で充足出来ずに多数他人という世間に求めることは一体何であろう。業績のねつぞう等というのは「他慰的。」行動に他ならず、これこそが社会的な負担、反社会的行動の根源となるのである。

 純粋な自己満足を満たすことができれば、多数他者からの評価報酬を過剰に求めることはなくなる。

 純粋行為を自慰的であると形容している時点で、そいつの脳は他人からの評価報酬以外に自分の脳を満たす術を知らないことの証明であり。極めて「不純。」なのである。そんな者が何を強弁しても公益的には全く無意味である。

 生物学界内部での多数決に迎合することしかできない、自律のない研究者が何を論じても公益的には無意味である。

 「人間について。」と標榜しておきながら、一方で「生存戦略。」を正当化するのであれば。これは二枚舌、ペテンでしかない。

 実質的に詐欺師に過ぎないのである。

end;



○KY

 チンパンジーやオオカミの群れの中では「空気を読まない。」或は「空気を読めない。」個体は排除の対象である。

 松沢哲郎がチンパンジーとコミュニケーションをとれるのは、いわばチンパンジー社会の「空気。」に合わせて迎合しているからである。

 もしチンパンジーの群れの中で、チンパンジーの習性に則ったコミュニケーションをとれなければ極めて危険な状況に陥る。これはカルト宗教やヤクザ、シエラレオネの少年ゲリラの内部においても同様のことが言える。

 チンパンジーやヤクザとコミュニケーションをとっても、人間としての社会性の論証にはならない。ゲリラに屈服して平和を獲得しても「成功。」とは言えないのである。

 子供達が勝手に作り出した「社会。」というものにおいても同様の傾向が見られ、子供達の内部における「空気。」を読まない子供が排除対象としてイジメに遭うのも、ヒトという種の生物における行動習性である。

 それに対して現在の生物学は、イジメの「程度。」を抑制する本能的習性を枚挙することによって、何が何でも習性だけで「ヒト=人間。」という方程式を正当化しようと試みる。しかし、どんなに本能習性的に「程度。」を抑制する仕組みを枚挙しても、その仕組みが常に働くことの論証にはならず。また、実際には働いていないことの方が圧倒的に多いのが実情である。

 どのような環境や状況において暴力性が抑制されるのかを発見しても、そもそも環境や状況に依存した行動習性である限り、結局自律的自発的に環境や状況を本能的に作り出すことができない以上、こうした暴力性の抑制本能の枚挙に意味はない。気分的に「暴力を振るいたい。」かどうかだけで行動が決定している限り、本能習性的には暴力性が常に働かないことの論証になど一切ならないからである。

 シエラレオネのゲリラに見られる残虐性というのは、ヒトという種の生物における「コミュニケーション能力。」「空気。」という、本能的な社会形成習性による強迫観念が作りだした暴走であり。本能的社会形成習性の純粋な発露でもある。



 「ゆとり教育。」の弊害というのは、子供達だけで集団社会を形成する時間的「ゆとり。」だけが増えたことによって、大人にとって扱い難い子供が増えたということであろう。詰め込み教育をしておけば大人にとって扱い易い従順な子供を増やすことは可能であろうが。現実には人間としての中身、自律的な社会的責任判断能力自体にさしたる違いはない。

 「ゆとり世代。」は大人にとっては扱い難いが、特に犯罪が多いわけでもないからである。

 大人にとって従順で扱い易いからといって、人間としての価値が高いわけではない。言い換えればバカな大人にとって扱い易いバカな子供に過ぎないからである。

 大人が作り出した社会に迎合するだけなら、大人が作り出した社会の問題を、問題とすら認識しないであろう。それなら問題は放置されるのは必然というものである。

 だが、ゆとり世代の多くは、単なる都合の良い放任主義によって放置された「ぷちゲリラ。」を量産しただけであり。子供の集団だけで「人間としての社会性。」を身につけることはできなかったのである。言い換えればバカな大人にとって扱い難いバカな子供にしかならなかったということである。大人にせよ子供にせよ、環境依存的に迎合するだけであるからバカのままなのである。自発的に環境を変えることができないのは、そもそも環境に迎合することばかりに意識を奪われ、何が問題なのかすら認識できないからである。

 学習内容の「量。」の問題や、ましてや服従性を無意識的強迫観念として植え付け刷り込み「学習。」させるための時間的な拘束によって「人間としての社会性。」が養われるわけではない。どんなに表面的に従順であろうと「人間としての社会性。」である自律的な社会的責任判断能力の論証にはならない。

 原発を暴走させた世代はゆとり世代ではない。年金を破綻させたのも同様である。バカな大人にとって従順で扱い易い子供をどんなに大量生産しても社会の問題が解決するわけではない。

 ゆとり世代が扱い難いからといって、あたかも学習内容の「量。」の問題にすりかえるのは短絡的であり。且つ論理的根拠が全く存在しない。

 強迫観念的に大人との「コミュニケーション能力。」を、権威や力を用いて強制することは簡単である。

 簡単なことしかやりたがらないから「バカ。」なのである。

 子供達に「人間としての社会性。」を養わせるためには、そこには教育を行う親大人の方に「人間としての社会性。」が不可欠である。子供は放置しておけば子供達内部での多数に迎合し、長時間拘束しておけば権威に服従するように刷り込み「学習。」させることも可能である。子供というのはヒトの本能習性が最も純粋に表面化するものなのである。

 とは言え、「大人。」の場合は表面的な取り繕いという「嘘。」が上手いだけであって、ゆとり世代は表面的に従順さを「アピール。」しないだけ「わかりやすい。」とも言える。



 「空気。」とは、社会環境や時代背景に依存した、大脳辺縁系によって促される本能的脅迫観念であり。野蛮な本能的社会形成習性によって促される「コミュニケーション能力。」の表出である。

 アイヒマン実験において被験者がどんなに権威に対して不平不満を強弁しても、それは自分の行動責任を権威に押し付けるための言い逃れ「布石。」や「防衛線。」のつもりで述べているだけであり。こうした気分的な行動だけに終始しているからこそ大多数の被験者(普通のヒト。)は権威に無意識的に服従してしまうのである。

 責任を負わなければならなくなるような恐怖心から「空気。」を読んだだけでは自律的な社会的責任判断にはならないのである。


 ヒトというのは進化的に他者との気分的関係性を維持することに固執するように「進化。」しており。本能的に多数他者に迎合することに強迫観念的に固執するような本能的仕組みが組み込まれている。それが「生存。」に直結していたからである。

 ヒトの進化過程においてシエラレオネの少年ゲリラのような社会状況があった場合。多数他者に迎合し、また暴力性を競って発揮するように淘汰「進化。」している可能性もある。無意味なお祭り騒ぎによって暴力性ホルモンを消費可能であることを論じても、お祭り騒ぎ自体が無意味であることに変わりはない。そもそもがホルモンによって行動が支配されていること自体が無意識的であり、経験則によって暴力性を抑制可能であるとしても、個体が本能自体を自律的に抑制できているわけではない。お祭り騒ぎをすればアイヒマン実験に引っ掛からなくなるようなものではない。お祭り騒ぎで原発の安全性が確保できるわけでもないのである。どのような「進化(変化)。」がヒトの習性として組み込まれているかはどうでもよろしい、最も重要なのは環境に左右されない論理検証性に基づく本質的な自律判断である。

 自然選択による「進化。」というのは、結果的に生存してさえいれば構わないのであって。そこに「人間。」にとって都合の良いような変化が必ず伴うことの論証にはならない。

 「概ね平和。」「概ね安全。」であることを枚挙しても、ホロコーストという残虐行為の反証にはならないのである。

 「概ね安全。」であることを断片的に立証しておけば、文系の理論的に考えられない大衆マスコミに気分的「安心。」を与え、思考を停止させておくことは簡単である。

 イジメによる子供の自殺というのは全体からすれば稀なことであり、「概ねイジメによる自殺は起きない。」のである。こうした大衆観念こそが社会安全性に対する「意識。」を奪う無意識性であることを、多くのヒトは認識したがらない。

 バカな大衆は「権威に服従しない社会は崩壊する。」などと平気で言い出し。また、多数の無思考な大衆も論理的検証を放棄して、大衆観念に迎合し気分的に「安心。」して満足してしまう。原発の暴走は権威に服従しなかったから起きたとでもいうのであろうか。懲役刑の再犯率の高さは権威への服従迎合の放置に他ならない。

 論理検証性が伴わないから社会の問題がいつまでも放置されるのである。論理的に検証を行うのは意識であり、決して気分(本能)によって論理的検証が行われるわけではない。

 文系生物学者達による撹乱に対し、大衆マスコミは全く論理検証も批判精神も発揮することはない。彼らは自分達の観念に気分に満足し、安心して「考え。」ることを放棄したいのである。


 本能習性的には、本質的意識である論理検証性というのは「概ね働かない。」。断片的にエサなどの本能的な報酬を与える環境を作り出せば、断片的に高度な特定能力として与えられた問題に対する論理検証は行えるようにはなっても。それはそもそも「エサ。」に対する条件反射による機能の先鋭化でしかなく。「エサ。」が直接与えられない問題に対して論理的検証は全く行われない。だから生物学の観念は放置されるのである。

 生物学の内部においては「ヒトは人間。」でなくてはならず。また環境依存的な本能習性だけで行動の全てを説明することが「常識。」である。これに対して学力が高いだけのバカ研究者や学生達は全く反論できないし、また、するつもりもない。権威に反論しても成績という抽象化された「エサ。」が得られる確証がないからである。

 松沢哲郎のようなオカルト研究者を権威として扱うのは、生物学という極めて特殊な集団の内部における観念だけによって維持されているからである。これが科学ではないことは何度も述べた。

 生物学者達は直接的には暴力的ではないが、ヒトの暴力性を習性から否定するというのは社会的には充分暴力に加担しているのと等価である。

 生物学者達が振り回す「ヒト=人間。」という観念が、犯罪被害者に対する冒涜であるとは、恐らく犯罪被害者の多くも認識できていないであろう。

 習性論を枚挙すると話は混乱しか招かない。そもそも習性というのは論理的には「断片的な結果の枚挙。」であって、論理的普遍性の論証ではないからだ。

 動物の場合、それこそ自然選択による淘汰によって行動習性の均一化の結果、特定種の行動はほとんど99.99%普遍「的。」に観測することが可能であるため。行動習性=普遍性証明であると勝手に解釈することが可能である。動物というのは予め本能的に組み込まれた運命論的行動以外を自律的には選択できない。しかし、この話をヒトにまで応用してしまえば、ヒトの行動の全ては自然選択的な淘汰以外に自律的には選択不可能であることになってしまう。

 生物学者にとって自律的行動選択などあってはならないものなのである。従って従来の生物学の観念を振り回す限りにおいて、「ヒトとはどのような習性を持っているか。」を枚挙することはできても、「人間とは何か。」には構造原理的に言及不可能なのである。

 ヒトが人間足りうるためには、本能習性に対する運命論的呪縛から脱する論理的検証による自律的判断が不可欠である。習性の枚挙からは論理的検証は原理的に不可能であり、自律も原理的に抽出不能である。そもそも環境依存的に「抽出された自律。」では意味がない。たとえ自律のように見えるとしても、環境依存である限り本質的には自律であるとは言えないからだ。アイヒマン実験においても権威に服従しなくなりやすい環境というのは観測されている。これを「自律。」であるとは言えない。

 習性という結果論を議論しても、そこから自律的な判断というものは抽出されることはない。現在の生物学は無意味な議論を漫然と繰り返すだけのオカルトにしかなっていないのである。




 傾向性として、頭髪を整髪料で逆立てているような、外見に固執する研究者程、「生存戦略。」の観念に固執する傾向が見られる。「型。」や「形式。」という固定観念に基づいた「格好良さ。」に固執していれば、従来の生物学の観念に対する論理的検証性が働かないのも必然というものであろう。「教えられたことを鵜呑みにする。」というのは固定観念以外の何物でもないからである。

 外見を取り繕うような者であれば、科学者としてはポンコツであると考えるべきである。澤口俊之がどんなに「科学的。」であると強弁しても、澤口は養老に迎合したオカルト脳科学者であることは変えられないのである。

 断片的な他人の研究結果を、どんなにたくさん「知って。」いようとも。論理検証が伴わない上に統一的考えに基づく一貫性のある理論が全く存在しないのであれば。それは単なる知識のひけらかしによる外見上の権威性の取り繕いに過ぎない。

 未だに脳血流増加を論拠にした脳トレ類を、世間的にウケが良いからといって垂れ流すマスコミは悪質である。利き手と逆の手で文字を書く練習をしても、振り込め詐欺への耐性は身につかないし。アイヒマン実験に引っ掛からない論拠にもならないのである。

 本質的意識というものは、こうした短絡的トレーニングによって身につくようなものではない。

end;



○「人間らしさ。」

 「らしい。」というのは観念であって、雰囲気ものであって、「~っぽい。」とか「~風味。」に過ぎない。そもそも生物種として「ヒト。」でありさえすれば社会的責任選択を自律的に行う「人間。」であることの論証にはならず、「人間らしさ。」をどんなにたくさん枚挙しても「人間。」とは具体的論理的な論証には結び付かない。

 無関係な話に固執して本質をはぐらかす愚かさは罪である。本気で「人間とは何か。」を論じるつもりがないにも関わらず表面的に大衆のウケ狙いで「人間について。」などと標榜するのは単なるペテンであるからだ。


 オキシトシンによる気分的な信頼というのが常に持続可能性を担保してくれる保障などない。信頼関係というのは気分的なものであり、これはナチス政権下の内部でも、オウム真理教内部においても働いていたものである。振り込め詐欺師の集団内部においても同様であろう。彼らはオキシトシンが作り出した信頼関係によって反社会的行動を行うようになったのである。

 むしろ過剰なまでの信頼関係の構築こそが社会の破壊の原因とも成りうるのである。信頼関係というのは観念であって論理的根拠ではないのである。

 つまり、本能的シーケンスによる抑制というのは、環境条件次第ではどのような結果をもたらすかは一定ではなく。持続可能性の保障には全くならないのである。




 荒川河川敷の歩道を自転車で走っていると、時折暴走自転車を見かけることがある。自転車を高速で走行させているとテストステロンなどの興奮系ホルモンによってノルアドレナリン系神経回路を刺激し、気分的に荒くなる傾向があり。これが自転車乗りをケダモノへと変えるメカニズムであると考えられる。

 自転車というのは健康にも良く、省エネルギーでクリーンな乗り物であり。これからますます重要性を持つべきでもある。しかし、その運用においてヒトの本能的暴力性を抑制できなければ本当の意味において安全に普及させることができなくなりかねない。


 それはさておき。進化的に自転車で高速走行をすると暴力的になるシステムが組み込まれているからといって、システム「仕組み。」のままに暴力性を発揮していて「人間。」や「知能。」などとは言うことができない。

 進化的に暴力性を発揮するメカニズムに依らず、自律的に行動抑制をして初めて「人間。」と言うことが可能なのである。従って本能メカニズムしか抽出したがらない現在の生物学の手法では、「人間とは何か。」について構造原理的に言及できないのである。

 このことを認識できないマスコミの頭の悪さも許されるものではない。



 「人間とは何か。」について言及したがる者の多くは、何故か大衆迎合的なウケ狙いばかり追及しており。「ヒト=人間。」という大衆ウケの良い話をベースに話をしたがるペテン師が多すぎる。

 ヒトは、単に遺伝的な生物種を指すものであり。ヒトの全てが常に人間であることの論証などない。普通のヒトが概ね安全であることをどんなにたくさん抽出枚挙しても、社会安全性を高めるための知識には結び付くことはない。あくまで気分的な安心感や満足感を提供することにより、むしろ社会安全性についての意識を損なうことすらある。

 先天的、本能的にヒトの安全性を枚挙することによって大衆のご機嫌をうかがうような手口はペテンとしか言いようがない。

 ヒトの本能習性という「結果。」をどんなに枚挙しても、「人間とは何か。」については原理的に言及不能である。そこには人間としての「目的。」意識が欠落しているからである。

end;
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2012年02月27日 14時46分35秒 | 意識論関連

○怪異

 「騙される方も悪い。」一般的にはこれを「酷いこと。」と認識しているようであるが、論理的には間違いではない。あくまで観念的に残酷なこと、大脳辺縁系にとって「嫌な話。」ではあろう。

 騙されるような愚かさが正義であるとは言えない。アイヒマン実験において権威に服従してしまうことを正義であるとは言えないからだ。

 騙す方に何らかの「意図。」がある場合には「騙された。」ことになるのだが、誰にも意図が存在しないままに封建的社会構造や権威性、「コミュニケーション能力。」によって多数派同調バイアスに無意識に流されている場合、命令を行っている方も多数派同調によって観念的に命令が決定している場合。この集団においては誰も騙していないにも関わらず「暴走。」を招くことにつながる。これが最も恐ろしい状態なのである。

 怪異というとお伽話を想起しがちであるが、現実に起きたホロコーストについては多くのヒトは怪異であるとすら認識せず、特定の指導者だけの異常性であると勝手に決め付け、本質的な原因究明も、当然それに伴う対策も一切行われない。

 むしろ本当の怪異とは、こうした大衆の無為無策な観念であり。怪物/化け物というのは多数のヒトの無意識的な本能習性に従うだけの機械手続き性によって作り出されるものなのである。

 怪物/化け物というと、文系の観念上においては社会の破壊を目的として用意周到に計画を実行するものであると考えがちであるが。実際の怪物/化け物に相当する人物というのは社会の破壊を目的とはしておらず、用意周到でもなければ深い思慮が伴うものでもない。

 怪物/化け物の正体というのは、実際には多数大衆の大脳辺縁系を酔わせ、撹乱することで自分自身までもが自分の観念に酔うことによって社会を暴走へと無意識に導いてしまう存在なのである。

 文系の観念上における天才的破壊者というのは、あくまで文系の観念におけるお伽話であり。現実の怪物/化け物の実態を捉えたものではない。文系観念上における天才的破壊者というのは、あくまで文系観念上における気分的高揚を煽るための想像上の産物であり、現実の怪物/化け物の実態を調査研究した結果ではない。

 600万のユダヤ人を殺害する異常性というものは、特定の誰か、ナチス政権中枢の最高責任者であるヒトラーだけが異常であると「思って。」おくことで思考を停止してしまう習性が、ヒトにはある。だが、現実には破滅に至るまで暴走しただけであって、何ら思慮も計画も存在しなかったのである。これはオウム真理教の教祖自身も「弟子に従っただけ。」と論じていることからも立証されている。

 怪物/化け物というのは、一人の異常者によって用意周到に計画的実行によって作り出されたものではなく。むしろ異常者を異常者であると認識せずに無為無策に服従し続ける多数の錯覚性によって結果的に「作り出されてしまう。」ものなのである。

 ナチス政権というものの存在を、多数の大衆観念/文系観念上においては時代だの社会「空気。」といった環境の所為であると錯覚し、個人の自律の重要性であるとは全く考えないように無視する。文学的満足感からは社会安全性は確立できないばかりか、むしろ遠避けるものであることを認識すべきである。

 本当の怪異とは、ヒトという種の生物の中に存在するのである。決してお伽話の中だけの話ではない。

end;

○マイケル:サンデル

 サンデルはアメリカ人の異常性をネタにして興味を持たせているだけであって、消防隊が消火活動を行わないなどという選択肢は最初から有り得ないのである。アメリカでは機械手続き的「お役所仕事。」を民間が代行しているだけである。

 サンデルというのは自分が提起したネタについてだけ議論させ、それ以外の人間の根源的異常性については全く議論しておらず。これは根本的な問題から意識を逸らし、提起した問題だけに議論をさせることによってあたかも「考えた。」ような錯覚に陥れているだけに過ぎない。

 文系のバカが良く言う、「考えさせられた。」という錯覚である。実際には何も考えてはおらず、何の問題解決にも結び付くことはない。

 サンデルというのは聴衆の興味を引くようなセンセーショナルな話をネタにして、聴衆に何かを考えさせたような錯覚に陥れることによって、バカな聴衆の多くを自分自身が何かを考えたような気分にさせているだけのペテンに過ぎない。

 文系の観念的気分を満足させるのが上手いだけなのであって、聴衆に考えたような錯覚に陥れる「環境。」を作り出すのが上手いだけであって、現実には環境依存的な気分的満足以上の何も提供してはいない。従ってサンデルの講義をどんなにたくさん受けても自律的に物事を考えるようには構造的にならない。

 サンデルが誘導している議論自体の「手法。」自体を客観視することが、多くのヒトにはできないことによって、多くのヒトはあたかも自分自身で考えたような錯覚に陥いり、サンデルの促す議論には全く有益性がないことには誰も気付かなのである。サンデルの講義特有の意識誘導による思考の限定性には誰も気付かない。限定された思考からは何ら有益な具体性のある「考え。」に到達することは原理的に不可能なのである。

 アメリカ人の異常性を枚挙するだけなら「松嶋×町山未公開映画を見るテレビ。」と同じである。そりゃ面白いのであろうが、個人の自律的判断に関わる意識変革を促すようなものではない。

 自分の国の異常な国民性を自慢しているだけのパラノイアであると言っても過言ではない。

 サンデル自身は議論や疑問をふっかけているだけで、自分自身の考えを全く提示しておらず。これは構造的にサンデルだけが特別に議論の中心的役割を担っているかのように誘導しているだけであり、サンデル自身に具体性のある考えがあるわけでも、またサンデルが提起した議論以外が全くなされない構造的な思考の限定性からは、多くの聴衆は逃れることができない。

 野球解説者の古田さんが言ってたけど、サンデルの提起する議論は荒唐無稽なのである。原発の場合責任者というのが存在するのであって、これを戦争と同等であると言う猪瀬副知事の論理は間違いである。戦争の場合は「他国の政治。」という介入不能な要素が存在するが、原発の場合は単なる技術者の無責任性によるものであり。現場の状況が戦争時下と類似していても、論理的には「事故。」であることに変わりはない。

 「市場原理が必ずしも幸福をもたらすわけではない。」程度の帰結であれば、こんなものはマトモな人なら普通の話、当然の帰結に過ぎない。これにもっともらしい音楽を付け加えて、あたかも尊大な結論であるかのように演出してもサンデルの価値には全くならない。

 どんなにバカ学生から「人気。」を得ているとしても、バカ学生達は自分の頭が良くなったような錯覚に陥って満足し、それによって同時に思考を停止していることには誰も気付かないのである。ヒトという種の生物の脳というのは気分的に満足すると何も考えなくなるように出来ているのである。

 サンデルは個人的主観と客観的論理を区別しない。議論において個人が主観を述べていても、それが客観性を持った論理的思考ではないことを全く指摘することはない。こうしたサンデルの大衆迎合性こそが、動物習性的な「コミュニケーション能力。」であり、「話を丸める。」ということなのである。

 サンデルは講義において、本当にややこしい話に対しては深く追及したりはしない。面倒臭くなると「大変面白い意見ですね。」などと観念的に形容するだけで、全く論理的追及や検証といったものを行わせないし、行わない。サンデルが行っているのは議論がスムースに進行するように意識誘導しているだけであって、これは田原総一郎の身勝手な「仕切り進行。」と全く同じものである。

 田原の場合、田原自身が述べるように結論など最初から求めるつもりはなく。あくまで制限時間内にそれぞれの意見を引き出すことを目的としているものであるが。サンデルの場合は議論の最後に「有意義な議論が出来ました。」などと言い張る。

 実際には何ら問題に対しての原因究明も、対策にも言及していないにも関わらず、サンデルの個人主観的な感想として「有意義。」であると身勝手に決め付けているだけであることを、多くのヒトは「ハーバード大学の人気教授。」という権威性によって意識から外してしまうのである。

 これに言及することはサンデルは行わないであろう。なぜなら従来の議論進行を妨げられ議論が混乱することによってバカ学生の気分を損ね、人気を失うことを避けたいからである。

 サンデルの講義というのはバカ学生達の気分を高揚させることはできても、何ら具体性のある論理的に「有意義。」な帰結に到達することは原理的にできない。


 サンデルの講義というのはセンセーショナルな「ネタ。」を素に、サンデルが規定した限定の内部においてのみ考えを述べさせるだけのものであり。あくまで「サンデルの講義。」という「環境。」においての「結果。」的思考しか導き出さない。従ってサンデルの講義をどんなに受けても、自発的に問題自体の発見や、問題に対する原因究明も対策も自発的に「考え。」るようにはならない。

 その場限りの気分的満足によって、むしろ思考停止を促されるだけである。

 大抵バカ学生の多くは、「やらないよりはマシ。」といった論理的根拠のない観念を振り回し、自分の意識がサンデルによって誘導されていた頭の悪さを意識から外し、自分の無思考性を事後正当化しようと試みる。

 ヒトの多くは自分が既に行った行動や判断といったものの全てを、自分自身の意識的な判断によるものであると錯覚するため。事後正当化のための論理的根拠のない屁理屈を陳列して「取り繕い。」や「言い逃れ。」にばかり意識を奪われる。これこそが「無意識。」的な条件反射行動であり本能的強迫観念による行動であることを自律的には認識することができないのである。

 どんなに強く「思って。」も、それは「考え。」ではないのである。この区別ができないことには「思考。」は成立しえない。

 論理的「考え。」「理性。」それだけであれば思考は促されることはないが。何が「思い。」で何が「考え。」であるのかを論理的に分別できないことには「思考。」にはならず、単なる固定観念の奴隷に過ぎない。「思考。」が成立しなければ新しい「考え。」は構造原理的に出て来ないのである。そこに残るのは単なる「思い込み。」でしかない。

end;



○脳血流や脳活性を短絡的に「脳に良い。」とするのは間違いである。

 これは何度も述べたはずであるが、マスコミは全く認識していないようである。

 そもそもほとんど全く効果のなかった脳トレ類における効果の論拠としたのが脳血流である。

 「左右バランス良く活性させることが脳に良い。」とするのも論理的には根拠がない。利き手と逆の手を用いるという普段と異なる「慣れていないこと。」を行えば脳血流の増加は必ず起こる。利き手と逆の手を用いる「学習。」をしたところで、論理的思考や論理検証性、自律的社会責任選択を行うことの論理的根拠は全く存在しない。

 自発的に興味を持たないトレーニングをしたところで、脳は無用な機能を無意識「学習。」するだけであって、何ら意識的/論理的思考が働くことにはならない。

 要するに脳トレ類の話を鵜呑みにしていること自体が論理的思考が全く働いていないからであり、これが最もバカへの近道なのである。

 「これさえやっときゃ頭が良くなる。」的な話を垂れ流すマスコミも無責任である。たとえそれが視聴率に反映するとしてもである。

end;



○本能的目的とは本質的な意識的目的ではない。

 本能的な目的というのは、予め本能的に組み込まれた快楽や安心を追及するだけの無意識的な目的であり、これは本質的には目的ではない。

 たとえ本能的な目的行動の結果が生存や種の保存に適しているとしても、それは生存や種の保存に適しなかった個体の淘汰の結果として適した種への自然選択の結果であって。本能的目的の結果である生存や種の保存というのは本能的目的とは無関係で構わない。個体の本能的な目的とは予め組み込まれた快楽や安心の追及だけであり、決して生存だの種の保存といった個体の本能的目的を超越した超自然科学的目的を立証することは不可能である。

 生存や種の保存に適する本能行動をどんなにたくさん抽出してきても、本能行動の全てが常に生存や種の保存に適することの論証にはならないし。また生存や種の保存を目的とした目的意識の存在も実証不能である。

 こうした簡単なことであっても説明しないと理解しないというのは、最初から自発的探究心自体が欠如しているからである。



 生物/脳科学者達の脳には、一種の正常性バイアスや多数派同調バイアスが働いているので、科学的に異常な観念であっても誰も疑うことをしなくなっているのである。東大の佐倉統が多数依存するのもこのためである。

 そもそも、本能的目的というものが本質的には意識的に選択された目的ではないなどという簡単な話も自分で判断できない時点で、彼らが充分に「高学力なバカ。」であることの証明でもある。教えられたことなら何でも答えることが可能であっても、教えられていないことは全く思慮が働かないバカを税金で雇う必要性はない。糞の役にも立たないからである。

end;


○色の識別能力。

 言語によって色の識別に違いが生ずるというのは無理がある。むしろ生活環境によって色の識別に違いが生じた結果として言語に違いが生じていると考えるべきであろう。

 縦縞の中で育ったネコが横縞を認識できないのと同様、生活環境によって認識できる色の差も違いが生ずるのではないか。その結果として言語上色の分類が異なるのも必然となる。

 先に言語上における色の差があって、その結果として実際の色の識別に影響するというのは順序に無理がある。

end;


○オセロ中島

 高齢女性がマインドコントロールにかかり易いらしい。

 女性の殺人事件の例も40代がピークである。

 女性の場合大脳辺縁系の活動は40代がピークであり、この世代が感情による自己制御を喪失しやすい傾向が見られる。

 ヒトというのは既に信じ込んだ観念を事後正当化しないといられなくなる性質がある。自分の感情的価値観を否定されると拒絶反応を示し、あらゆる非論理的取り繕いによって正当化しようとするのである。

 振り込め詐欺もマインドコントロールの一種である。養老孟司なんぞ信じているからバカげた観念が蔓延するのである。

end;


○phenotypic accommodation

 特定環境や条件の下において発現獲得する能力であっても、そもそもが遺伝的に発現可能性の上における結果であって。それが特定環境や条件以外において発現しないからといっても遺伝的に発現不可能な能力を獲得しているわけではない。

 ヤギは通常4本足で生まれてくる場合がほとんどであるが、足が4本あれば特に二本足で歩行する必要性がないから二本足歩行の能力を発現する必要性がないから発現しないのであって。ヤギが二足歩行能力を獲得したからといって特別遺伝的能力を超越しているわけでもなければ、遺伝要素を超越して進化しているわけでもない。

 そもそも遺伝要素の全ては結果であって、ヤギが必ずしも4本足で歩くためだけに何らかの方向性や意図といったものが介在して進化しているわけではなく自然淘汰の「結果。」に過ぎない。脳の可塑性も、骨格の可塑性も、筋肉の発達に関しても環境や状況における「結果。」以上の何物でもないのである。

 4本足で歩行する機能が発達しているとしても、それは4本足歩行が特定環境に適応した結果であって。そこに意図目的意識による選択が介在しているわけではない。

 「生存戦略。」と称して、あたかも個体の本能を超越した目的意識が存在するかのような観念自体が間違いであることを、多くの生物学者達は認識したがらない。それは、そもそも論理整合性に対する問題意識自体が存在しないからである。

問題意識自体が存在しないということは、科学的検証性自体が全く働いていない証拠である。「生存戦略。」云々を自律的に検証できなかった研究者というのは科学者としてポンコツであることは明白である。こんなバカを税金で温存しておくからバカなオカルト体制が維持されてしまうのである。学力だけで判定するような基準自体がそもそも間違いであり、自律的に何も気付かないようなバカであれば早々に廃棄処分すべきなのである。

end;


○タイトルを入力してください(必須)

 後天的形質変化が可能であること自体、先天的な後天的形質変化の可能性ありきの話であって。先天的遺伝要因以上に後天的な能力を獲得できるわけではない。

 チンパンジーの瞬間記憶も、ヤギの二足歩行も、速読暗記術であろうと先天的な潜在能力の発現に過ぎない。これらの能力において、あくまで環境依存的要因によって引き出されている限りにおいて、そこには自発的目的意識による行動選択が働いているとは言えない。それらは常に環境依存的な「結果。」であって、「目的。」ではないからである。

 チンパンジーが瞬間記憶能力を身につけるのはエサに対する機械条件反射としての学習の先鋭化の結果であり。ヤギの二足歩行も生活上での利便性の結果であり。速読暗記に関しては他人からの評価という具体性のない抽象的価値観に依る結果に過ぎない。

 人間としての自律的社会的責任判断においても、それはヒトの潜在的能力の一つではあるが。その必要性自体を認識可能かどうかは個人の意識によるものである。

 振り込め詐欺師集団やシエラレオネの少年ゲリラが発揮する生物本能的社会形成習性であっても、これもまたヒトという種の生物が持つ潜在的能力の一つである。搾取や暴力が横行する環境に適応したからといって、それがヒトという種の生物の優位性や知能であるなどとは言えないのである。

 現在の生物学会内部においては、生存に適するあらゆる屁理屈は業績として扱われるであろうが。これは生物学会という閉じた封建的社会内部だけに通用するオカルト観念に過ぎない。だから彼らは誰一人として自律的には論理検証を行わずに学会内部の多数決を無条件に受け入れるだけなのである。「大勢を占めていない。」だの「○○であると言われている。」という話の全ては、言っている奴の自律的論理検証性の欠如の証明にしかならない。


 「命は尊い。」と称して、社会的責任を放棄しておいた方が個体の生存価に適する場面においてまで生物的生存価を絶対的正義とするのは異常である。人間としての社会性に基づく価値観において生物的生存は意味を持たない。文学的快楽など意味がないのである。

 本質的尊厳に言及するのであれば生物的な生存とは無関係である。文系の観念というのは常に断片的でその場限りの気分的快楽しか追及していない。彼らにとって論理整合性には価値がないのである。

 論理整合性がないということは、言っていることに責任を持たないということであり、無責任だからである。マスコミの無責任さというのは文系の観念による身勝手でその場限りの決め付けが原因である。彼らにとって理論的原因究明も具体性対策にも興味はなく、その場限りに大衆迎合することだけが目的であるからだ。

end;



○扁桃核

 扁桃核には相手の表情に条件反射的好き嫌いが先天的に組み込まれているという。

 しかし、だからといって好き嫌いの全てが先天的に組み込まれていることの論証にはならない。単に相手の表情に対する反射的印象が無意識的に組み込まれていることだけを断片的に抽出してきても、何ら無意識性自体の正当性の論証になるわけでも何でもない。

 好き嫌いは所詮動物的な本能的行動選択しか作り出さない。

 生物学は一体何を論証したつもりになっているのか、さっぱり意味がわからない。

 先天的に何かが組み込まれているからといって、先天的機能が人間の行動として正しいことの論証になっているわけでも何でもない。

 先天的であれ後天的であれ、無意識的な条件反射行動の全ては本質的な意識的選択によるものではない。

 「好き嫌い。」という感情論で行動が決定するのは動物的には普通で正しい行動であると言えるかも知れないが。人間としては目先の感情論で行動が決定して良いというわけにはいかない。



 600万人のユダヤ人を死体に変換したのも、地下鉄に毒ガスを撒いたのも、原発を暴走させたのも。これらもまた協調行動「チームワーク。」や気分的共感性、共鳴による「コミュニケーション能力。」であり、また、その時代社会における社会的成功によるである。

 バカな大衆凡民を丸め込むだけなら、社会的成功を「エサ。」に意識を誘導し、特定の時代や社会における価値観だけに意識を狭窄化させることも簡単であろう。それによって時代や社会に左右されない普遍的価値観といったものを無視させることは非常に簡単なことなのである。

 簡単な話に簡単に引っ掛かるからバカなのである。

 「社会を変える。」だけなら詐欺でも事故でも社会は変わる。変わりさえすれば何でも良いという短絡的なものではなく、「どのように変えるべきであるか。」を選択できないことには本質的意識は介在していない。

 どのような社会であるべきか、自分が生きるに価する社会の姿とはどのようなものであるかを選択するのが「意思。」であり、意識的選択である。

 そこに主観的「気分。」を持ち込んでしまえば論理的追求は全くできなくなる。話にも何にもならない。

 本質的意識というものは感情本能には左右されない本質的合理性によって選択されるものであり。本能習性をどんなにたくさん抽出枚挙してきても本質的意識、「人間としての選択。」について言及することはできない。

 本能習性には悪いものも良いものも混在しており、常に「人間としての行動選択。」になることの保障がないからである。

 本質的な「人間としての行動選択。」とは、個人的主観的本能感情に左右されない本質的な合理性追求によって促されるものであり。冷静で客観的で論理的な判断選択が不可欠である。


 現在の生物学における、個体の本能習性を超越した超自然科学的目的意識の存在を正当化するような非科学的観念を振り回す限り、常にヒトの本能的行動習性の結果の全ては正当化されることになる。それはすなはち個人の主体的自律判断というものには意味を持たない動物習性万能論にしか至らないのである。

 それなら犯罪も事故も誰の責任でもないということである。そんなバカげた話が正当化されて良い訳がない。


 一人のヒトが自律的に社会的責任選択を行うかどうかについて、その原因を個人の自律的行動選択に求めない限り。全ては環境依存的な結果論にしか至ることはない。

 ヒトという種の生物は、本能や感情といった無意識によって行動を左右されがちである。だからといって個人の自律的な判断が不可能である論証にもならないし、また個人の自律的判断が不要であることの論証も成立しえない。


 「概ね。」ヒトが無意識的に行動選択していることを抽出枚挙陳列しても、無意識的行動の全てが人間として正しい行動選択になることの論証になどならない。


 無意識的な行動「結果。」をどんなにたくさん抽出枚挙してきても、こそからは無意識的傾向「習性。」以外の何も立証されることはなく。習性という無意識的な「流れ。」に抗う意識的行動選択を行動習性的に抽出枚挙することは原理的に不可能である。



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 本質的意識、本質的合理性追求、本質的自己自律選択というものは平均的ヒトの行動習性の枚挙によって立証されるようなものでは最初からない。現在の生物学では「本能的行動の結果=目的。」というオカルト的観念に基づいた立証方法が科学的立証方法であると刷り込まれ、バカになっているのである。

end;




○自己満足

 「ヒト=人間。」という方程式に都合の良い行動習性の多数抽出に。多くの論理的思考のできない多数大衆に気分的安心を与えるという大衆迎合、人気取りを。論理的検証性のない生物学/マスコミは行っているのである。

 こうした大衆人気取り、大衆迎合というのは科学的価値が全くない単なる気分的自己満足にしかならない。

 都合の良い行動習性の多数抽出というのは実際には「ヒトが人間たりうる所以。」とは無関係であるからだ。

 どんなに都合の良い行動習性を多数陳列したところで、「ヒトの全ては人間である。」ことの論証には全くならない。

 「ヒトの全ては無条件で人間。」であることにしておけば、多数の大衆にとっては気分的に満足するのであろう。それによって何も考えなくて済むと勝手に思い込むことができ、思考を停止することによる気分的満足、安心を得られるからである。

 こうした気分的満足を与えることは科学や哲学の役割ではない。

 現在の生物学/人文科学は科学としての社会的役割、社会的要請、社会的責任を全く果たしていないばかりか。「人間とは何か。」についての論理科学的検証を不具にし、宗教的盲目撹乱による社会的負担、負荷にまでなっているのである。

 マスコミはこうした生物学の無責任性を、大衆迎合、人気取り、金儲けのために助長こそすれ。全く批判するつもりはない。無論多くの大衆も、その無責任性を認識することはできない。

 これは完全に目的のない洗脳状態であり。最も危険な状態であることを認識すべきである。目的がない状態で気分的満足ばかりを追求していれば暴走以外に至る結末はない。

 暴走状態にある集団内部の気分は、とても安心であり。全く「恐く。」など感じない。だからこそ暴走を誰も止めることができないのである。暴走状態に恐怖を感じるのは集団の外の者だけであり、暴走している当人達は全く恐くなどないのである。

 とは言っても、本論はむやみに恐怖心を抱けと論じているわけではない。論理整合性のない話に気分的満足をすることで論理検証性を喪失することの危険性を論じているのである。

 「ヒトの行動習性=人間としての社会性。」という、大衆観念にとって都合の良い話で気分的満足していては科学としての価値。普遍性の論証にはならないことを認識することが肝要なのである。

 どんなに大衆観念的な満足をしても、振り込め詐欺が減るわけでもないし。通り魔が発生しなくなる論証にもならない。気分の問題では物理的、実質的には何の効果も存在しないのである。むしろ、論理的検証性を失うことによって、何も自律的に「考え。」なくなる危険性が増大するのである。

 「考え。」が成立しなければ危険性は回避できない。安全性というのは気分的「思い。」によって担保されるような安易で短絡的なものではないからである。

 マスコミが気分的安心と論理的安全性をむやみにセット販売したがるのは、気分的安心を提供しておけば大衆迎合による人気取りができるからである。

 気分的安心というのは主観である。論理的安全性の有無に関わらず、気分的安心を得られるかどうかは個人差があり、安全性とは無関係な気分の問題に過ぎない。問題なのは論理的安全性を追求せずに気分的に安心してしまう精神的怠惰である。


 気分的安心というものは、振り込め詐欺に騙される心理的「隙。」を与え。あらゆる問題解決に対する意識、「問題意識。」を奪う。

 「ヒトとは、概ね人間性を伴い。概ね安全な存在であり。概ね社会的責任を担保する傾向がある。」と思い込んでいれば、大衆観念的には安心なのであろう。だから現在の生物学の観念に誰も論理的検証も反論もしないのであろう。

 「概ね。」という傾向性さえ立証されておけば、全てが正しい方向に向かうと。大衆観念的に「思う。」のであろう。

 だが、現実にはそう簡単で短絡的なものではない。それは原発の暴走によって嫌という程経験しているはずである。「ヒトは概ね社会安全性を担保する傾向がある。」ことをどんなにたくさんのサンプリングから「立証。」しても、「ヒトの行うことの全てが常に論理的安全性が保障されている。」ことの論証にはならないのである。

 概ねヒトは詐欺師にならないとか、概ねヒトは通り魔にはならないとか。概ねヒトは原発を暴走させない。といった「概ね。」論では社会の安全性を高めるための論理的追求、論理的確立には寄与しないのである。

 概ねヒトは絶滅しない傾向性を挙げても、絶滅への傾向性の反証にはならないのである。

 概ねヒトが他者にも物を分け合う傾向性を陳列しても、社会公平性が築かれるわけでも何でもないのである。

 「概ね。」という習性、傾向性の枚挙というのは、現実には社会的に全く糞の役にも立たない気分的満足しか提供することはないのである。

 そして気分的満足を与えない大衆観念にとって都合の悪い、アイヒマン実験のような立証は「稀。」であるとして大衆の意識から外され、無視され、その重要性を蔑ろにされるのである。

 そうして多くの「ヒト。」はバカのシーケンスに浸って満足するのである。

 このことをここ一年程Weblog上で論じて来たが。ほとんど理解周知されないのは、世間の大多数のマスコミや学術的権威がよっぽどバカであるからとしか考えられない。まあ、養老孟司や松沢哲郎が一流国立大学の教授を勤め。室山哲也がNHKの解説委員を安穏と続けられているのであるから当然でもあろう。NHKでは室山以外にも現在の生物学のパラダイムに無批判なバカ解説委員が他にも大勢いるようである。

 「一匹見つけたら、一万匹はいると思え。」

 マスコミというのは大衆からの人気取りによる、社会的報酬利益という本能的目的以外に意識は働かない。学力が高いだけのバカというのは。顕在化した通り魔やテロリスト以外にも山ほどいると考えるべきである。むしろ「ほとんど全員。」だと考えた方が良い。

 そうでなければ論理的根拠の欠落した従来の生物学のパラダイムがこれほど科学的理論として温存されるはずがないのである。

 従来の生物学の観念。個体の意図を超越した、超自然的な目的意識の存在立証を温存しておけば。ヒトという種の生物がなぜ封建的社会に陥るのかも説明されえない。それはすなはち役所の縦割り意識が無意識であるということも。子供のイジメがなぜ発生するのかも、その構造や原因の究明、対策といったものが全くされないということである。

 子供が組織的に協調行動によってイジメを行うことであっても、それは生物学によって何らかの生体にとって必要とされる断片的「意味。」がこじつけられ観念的に正当化されてしまうからである。この点においてはスタンレー:ミルグラムも同様の間違いを冒している。それが「サイバネティクスの観点。」という「結果。」論である。

 そして、「ヒトはなぜイジメを行うのか。」についての探求は放棄され。「わからない。」の一言で済まされてしまうのである。環境条件において発生したりしなかったりする「再現性の悪い。」事柄というのは、傾向性によって「立証。」することができないからである。生物学者の脳というのは、傾向性によって何かを立証するという形式以外には意識が働かないように、脳がバカになっているのである。

 生物学者達にとって、真理は探求されない方が地位を脅かされないので安泰である。都合の良いことに大衆の多くは観念的な生物種としての正当化だけで気分的に満足し、何も論理的反論や追求をすることはない。

 ましてや本能的に権威に服従し、盲目的に信頼することで安心して何も考えない習性というものがあるなら。それはむしろ積極的に利用して権威性を維持するための手段にしておいた方が「得。」であると考えるであろう。

 それなら本論が隠蔽の対象にしかならないのは必然というものである。

end;




○稀なこと

 「稀なこと=些細なこと。」という方程式は身勝手な大衆観念である。

 重大事故は稀にしか発生しないから些細だとでもいうのであろうか。こんな論理矛盾こそが社会安全性の最大の敵であることを、多くの大衆は自律的には認識できない。

 「概ね起こらないこと。」には気分的な危機意識、観念的恐怖心が働かない「習性。」というのがヒトという種の生物にはある。こうした無意識的な「習性。」に流されるだけだから人間としての社会性を喪失することになるのである。

 特定の他人にだけ自律的に社会的責任判断を要求しておきながら、自分自身は自律的には社会的責任判断を無視し、放棄し、蔑ろにしているというのは身勝手以外の何物でもないことを、多くのヒトは意識からはずして気分的に満足する。

 気分的満足によって、自己の思考が停止していることには誰も自律的には気付くことができない頭の悪さを改善しない限り。何が間違いであるかを「誰か。」がいちいち、その都度説明しなければならない。こうした状態を「バカ。」と形容する以外に私は形容の仕方を知らないし、知りたいとも思わない。

 ヒトの多くは、イスラム教典の戒律のように、行動のいちいちを「誰か。」に予め決めておいてもらい。それを盲目的に「信頼。」しておくことで気分的満足を得ることによって盲目性を作り出すことが可能となる。サウジアラビアの入国審査において、何らかの神を持たない者の入国を拒否するのは。「神をも恐れぬ者は、何をしでかすかわからない。」という観念的恐怖心によるものである。そもそも「神がいなければ何をしても許される。」という観念自体、「許して。」もらうという他者に依存した自律の欠落を意味するものであり。中東由来の一神教特有の強迫観念に過ぎない。

 戒律や法律というのは、あくまでそれらの規則の基となった「主旨。」こそに意味があり。主旨を逸脱した盲目的、かつ機械条件反射的服従迎合に意味があるのではない。

 イスラム教に限らず。宗教の持つ危険性というのは、戒律に対する忠誠忠実性によって促される気分的満足や、「美しい。」という主観、感覚、観念によって自律的論理思考が停止してしまう盲目性にある。こうした盲目性というのは宗教に限らず法令遵守に対する異常な盲目性の基にもなるものであり、個人の自律的判断を不具にする盲目性の大きな要因である。気分感覚的満足こそが論理的思考を阻害するのである。

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 傾向性の陳列は犯罪や事故の抑止には何の影響も与えない。「ヒトとは、人間性を持つものである。」という勝手な決め付けは、あくまで「概ね。」の傾向性を述べているだけであって。傾向性をどんなに陳列してもヒトという種の生物が常に人間性を発揮することの論証にはならない。

 ヒトというのは、本質的な意識が働かなければ人間としての行動選択ができないのである。それは傾向性の陳列による一面的「立証。」とは無関係である。

 生物学者達は自分達の固定観念を保守することにばかり意識を奪われているが。それによって本質的な人間としての意識というものがどのように失われるのかについての研究が全くなされないという社会的損失を無視した傲慢な態度であることすら、彼らには自律的には認識できないのである。

 自分達の間違いを自律的に自浄することができないことを、多くの生物学者達は社会的負担/損失であるということすら認識したがらない。

 もはや何度も論じたが、チンパンジーの行動習性をどんなに陳列しても、人間としての社会性の立証になどならない。それを「些細なこと。」「つまらないこと。」だと勝手に「思う。」のであろう。松沢哲郎は生物種としてヒトでありさえすれば、あらゆるヒトは人間としての社会性を持っているなどと勝手な観念に基づいた屁理屈を陳列している。これは科学ではない。

 原理的に不可能な立証方法論をでっちあげておいて、それが大衆観念的にウケた、話題になったからといって。それが科学的に意味を持つわけではない。

 松沢は単なるチンパンジーマニアに過ぎないのである。過去に何をしたかが重要なのではない、今現在においてポンコツであるなら、それは早々にお払い箱にすべきなのである。ましてや税金を使うのであればなをのことである。

 マスコミ大衆や生物学系研究者達は、傾向性さえ立証すれば全ての問題が解決するかのような不毛な観念を本気にしているようだが。傾向性とは「概ね、そうした傾向がある。」ことしか立証していないのである。

 ヒトの多くが概ね詐欺をしないこと立証して、それで詐欺師を更正させることに影響があるであろうか。

 ヒトの多くが暴力的ではないことを立証したからといって、それで戦争が減らせるであろうか。

 ヒトの多くが他人にも金や食料を分け与える傾向性を立証して、それが社会の公平性を担保するであろうか。

 これらの傾向性の立証というのは、単に「ヒトという種の生物は、概ね人間性を持っている。」というだけの「概ね。」論に過ぎず。稀に生じうる重大事象について全く糞の役にも立たない勝手な自己満足に過ぎないのである。

 「ヒトの多くは、概ね人間性を持っている。」傾向性を提示しておけば、バカな大衆凡人達は気分的に満足して、「素晴らしい。」だの「美しい。」だのといった主観的形容という満足や安心のまどろみに浸って思考を停止する。これは大脳辺縁系を満足させることによって大脳新皮質を麻痺させているバカの論理である。

 ヒトは気分が優先するようにできている。大脳辺縁系の感情が優先するような「仕組み。」が脳にはあるからだ。ヒトというのは初期的には動物である。従ってヒトは人間としての行動を常にできるようにはできていない。

 それを「概ね。」可能であることを陳列しても、常にできない以上習性や傾向性自体に意味があるわけではない。

 こうした話を、多くのヒトは「嫌なこと。」であると称して、条件反射的に無視し、意識から外し、思考を停止させて満足する。これこそが「ヒト。」という種の生物に先天的に組み込まれた「バカのシーケンス。」である。

 多くのヒトは嫌な話を聞くと、その嫌な気分だけを行動学習してしまい。拒絶反応だけをシーケンシャルに記憶する。認知症の患者に見られる機械条件反射的な拒絶反応というのは、大脳辺縁系の気分だけが行動を「学習。」してしまうことによるものであり。これは認知症の症状の有無に関わらず、ヒト全般に見られる「習性。」「仕組み。」である。

 「仕組み。」というシーケンスに無為無策に流されるだけであれば、そこに自由意思など存在しない。それをただのバカと言うのである。

 習性だの傾向性がどうあろうとも、自律的に自分の行動を選択することによってのみ。ヒトは人間足りうるのである。

 そこに多数他人の意見だの、社会的成功といった既存の価値観は意味を成さない。世の中の間違いを人類が修正できないのは、間違いを間違いと認識できないからである。決して社会制度といった環境依存的な原因によって世の中の間違いが修正されないということではない。ましてや制度上は民主主義である日本においては、なをのことである。


 マイノリティとオカルトの区別がつかないのは、そこに論理的検証が介在しないからである。多数意見でありさえすれば多くの学者やマスコミは安心して「信頼。」することが可能であろう。その「信頼。」に論理的検証性が伴わないから盲目性なのである。

 オカルト生物学を鵜呑みにしていることの無責任性を、マスコミは認識しなくてはならない。それがマスコミの社会的責任であり、本質的な要請であるからだ。

end;





○感覚

 文科系学者が言い出す、本能感覚的「快楽。」というものを、あたかも論理的思考を超越した優れた知性であるかのように形容するのは。本能的気分、本能的感覚が促す快楽の程度や強度が促す錯覚に過ぎない。

 感覚は「知能。」ではない。知能とは感覚器官からの入力強度に依存せずに、論理的分析によって促される「考え。」である。

 錯覚というものは感覚が促すものである。錯覚を錯覚と認識するのが知能である。感覚を優先していれば知能は働かない。

 合理性というものを無視すれば、残るのは感覚だけであり。錯覚が促す気分的満足のまどろみだけである。

 文科系の者は合理性という言葉に異常な拒絶反応をするが、これは感覚が促す錯覚しか優先させない。感覚を優先させておけば気分的には「安心。」であろう、その「安心。」こそが論理的思考を阻害することの危険性は、感覚的には優先されないのが「ヒト。」という種の生物の習性である。

 これがヒトのバカたる所以であることは、マスコミは扱うことを拒絶するのである。


 ゲリラのように暴力的である場合、生存価に適するかどうかは環境次第である。暴力的な者同士による協調行動が生存に適しても何ら不思議ではない。どのような個体が生存に適したかを結果だけから決定することは原理的に不可能である。

 強姦されることに快楽を感じる個体の遺伝子が遺った「結果。」として、強姦されることに快楽を感じる習性があるとしても。それは個体の意識的目的とは無関係である。

 虐待を連鎖する習性も「結果。」である。結果的習性に抗い、無意識的条件反射である連鎖を止めるのが「目的。」意識である。

 「結果。」をどんなに枚挙しても、それが「目的。」意識を励起することにはならない。「結果。」に何を「感じて。」もである。

 アイヒマン実験の結果であっても、多くのヒトは自分自身の意識の問題であるとは「思わ。」ないのである。

 認識によって行動や思考を変えるのは論理的分析であり、「考え。」である。決して「思い。」や「感じ。」ではない。

 従って、本質的意識とは「思い。」や「感じ。」ではない。「思い。」や「感じ。」は固定観念や本能的拒絶反応しか生み出すことはなく、不毛である。

 アイヒマン実験においても、著者の分析では生物学的論証として意味のこじつけがなされている。「サイバネティクスの観点から。」と称して、断片的な有効性を枚挙しても無意識本能的服従習性が常に正しい結果しか導かないことの論証にはならないのである。

 アイヒマン実験の著者であるミルグラムでさえ、その分析段階では生物学的なこじつけをしてしまう程、ヒトとは短絡的なものなのである。

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phenotypic accommodation。

2012年02月05日 23時03分55秒 | 意識論関連
 環境要因による後天的形質変化というのも、結局は元々遺伝的に形質変化を生ずる要因ありきのものであり。遺伝要因の一つの後天的表現形に過ぎない。従って遺伝的要因と全く別物であるかのように論ずるのは根本的に間違いである。

 環境要因によって後天的変化が得ることが可能かどうか自体が遺伝的に決定しており。その変化自体が環境依存的であることからも、その変化には当人の「意図。」だの「戦略。」など全く働いていない論証でもある。

 頼むから誰か気付け。


 適応のための「戦略。」と生物学者達は言い張るが、遺伝的要因は「誰。」の意思も働いておらず。「誰。」も「戦略。」など立てていないのである。環境に適応出来るかどうか自体がそもそも遺伝的に決定しているのであり、どのような環境であれ、結局環境変化に対する限定的且つ環境依存的対応能力自体には「誰。」の意識的選択も介在する必要もなければ事実上介在していない。

 現在の生物学では起こったことの全てに意味があるとする、生存していた結果だけに着目して断片的に意味をこじつけており。結果的に生存できなかった圧倒的多数の個体種を無視した御都合主義に過ぎない。


 現在の生物学上においては生存という結果だけを絶対的正義とするが。この観念を振り回す限り、詐欺であろうが暴力であろうが、結果的に生存してさえいればどのような「戦略。」を採ろうとも正しいということになっているのである。

 単なる生物学上での生存だけであれば、個人の自律的な責任行動選択によって種の存続につながった場合においても、あたかも種の優位性であるかのように論じられてしまい、個人の自律的な責任意識自体は無視されてしまう。


 生物種としての「ヒト。」の結果だけを論じてしまえば、個人の自律であっても、あたかも種族全体の優位性の結果であるかのように論じられてしまうのである。

 詐欺や暴力があろうとも、結果的に生存してさえいれば生物学的には「生物として正しい。」ということになってしまうのである。

 生存に至るまでにおいて、どのような過程を経ていようとも、生存してさえいれば構わないのが生物学の正義である。こうした正義を振り回す限り生物学系の脳科学/認知科学/社会心理学において社会安全性など真面目に追及されることはない。

 脳科学/認知科学が効果もない脳トレだの特殊な特定能力といった大衆ウケの良さそうな話ばかりしているのは。そもそも社会安全性になど全く興味がないからである。

 従って現在の生物学が体制を維持する限り社会的には全く価値がない。

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糞マスコミ。

2012年02月03日 20時57分04秒 | 意識論関連
 生物的「コミュニケーション能力。」の有無と、自律的責任能力の有無とは等価ではない。

 生物的な外見上の「コミュニケーション能力。」が欠けていると、多数から気分的な嫌悪感を与えるからといって、これを短絡的に自律的責任能力の欠落と等価に決め付けるのは間違いである。

 生物的な「コミュニケーション能力。」というのは振り込め詐欺師であれば非常に高い。同時に服従による封建的社会形成習性によってシステマチックな行動役割分担も可能である。原発を暴走させた連中も同様であろう。

 ヒトの多くは気分的な「嫌悪感=危険。」という短絡的帰結を盲信しがちであり。論理的検証を全く行わずに「安心=安全性。」という短絡的観念を事後正当化するための一面的屁理屈を優先することによって、思考停止に陥るのである。

 ヒトは既に刷り込まれた固定観念にとって都合の良い、気分的に違和感のない観念に基づいた帰結に対し。論理的な検証という「考え。」を失う習性がある。

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 私はアナキストではない。しかし、権威はキチンと論理的検証によって選出される必要性を放棄すべきではない。

 文系の観念に寄り添った現在の生物学の非科学性は、科学としての役割を果たすことが原理的にできない。これは放置して良いものではない。

end;
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