幸福とは、脳科学的に言えば脳内麻薬による快楽のことである。
快楽の全てが正しいわけではない。快楽というのはあくまで個人的なものであり、主観的なものであるから、それは個人が個人的に追求すれば良いことである。
内部告発をしたが故に、社会的に排除されたとする。それは幸福なのか。
社会的には不幸な境遇であると言えるであろう。しかし、内部告発を諦め腐敗した体制に迎合した人生は個人的に充実した人生であると言えるであろうか。
目先の快楽を追求すれば、内部告発などしない方が物質的にも「幸福」であろう。腐敗した体制に迎合しておいた方が個人的にも生活は安泰であろう。
しかし、その人生は、人生全体から見て、個人的に「幸福」であると言えるであろうか。
人生全体を統合的に見る視点を持たなければ、目先の快楽は得られるであろう。
しかし、「個人的な生活の安泰」であっても、それは他人との比較によるものであって、本質的には個人的な価値ではない。
腐敗した体制に迎合して保身に走る者を、客観的に見て汚いと誰しも思うであろう。しかし、それすらも社会環境や時代のせいであると言い逃れすることも可能であろう。
言い逃れをするのは簡単である。言い逃れや取り繕いといったものは世の中にいくらでも氾濫しているからだ。機械的条件反射で口をついてその場限りに取り繕うことは、極めて簡単なことなのである。それは同時に「考え」ることを放棄しているということでもある。
「考え」なければ行動選択に影響はない。「考え」ない者にとっては自由意思など存在しないのである。
予め決まった本能や環境だけによって行動が決定し、それ以外の一切の選択を行わなければ。そこに本質的自己選択は全く存在しないのである。
仏教では「極悪人にも仏性はある。」とされる。他人から搾取略奪して笑う極悪人であっても、その「笑い。」には笑うべき人間性が何かを予め「知って」いるからである。知らなければ笑うことはない。
笑いには悪い笑いと良い笑いがある。悪い笑いをする者は、自分が何故笑っているのかを認識することはない。認識すれば自己自身のくだらなさを認めなければならないからである。彼らにとってそれは精神的に苦痛であるため、本質的自己選択などというものは「あってはならない。」ものなのである。ヤクザがヤクザをやめることができないのは、何よりそれが「恐い。」からである。
従って、極悪人は自己自身のくだらなさを認識しないように、自己の意識を意図的に狭窄にし続けなければならないのである。この「意図」には「意思」は介在してはおらず、ただ漫然と反射的に選択して「しまっている。」だけの本質的には選択とは言うことのできない「結果」的選択に過ぎず、そこには意識的「目的」は存在しない。
通り魔の屁理屈に論理整合性がないのと同じで、悪人の屁理屈の全てには論理整合性は成立し得ない。
それは論理整合性を担保するべき本質的「自己」がないからである。
生物学者が主張する「潜在知」などという取り繕いは、既に存在しているだけの自己を事後正当化するものであり。これは環境依存性を事後正当化するための屁理屈であり、通り魔の屁理屈を支えるだけの言い逃れ、取り繕いに過ぎない。
快楽の全てが正しいわけではない。快楽というのはあくまで個人的なものであり、主観的なものであるから、それは個人が個人的に追求すれば良いことである。
内部告発をしたが故に、社会的に排除されたとする。それは幸福なのか。
社会的には不幸な境遇であると言えるであろう。しかし、内部告発を諦め腐敗した体制に迎合した人生は個人的に充実した人生であると言えるであろうか。
目先の快楽を追求すれば、内部告発などしない方が物質的にも「幸福」であろう。腐敗した体制に迎合しておいた方が個人的にも生活は安泰であろう。
しかし、その人生は、人生全体から見て、個人的に「幸福」であると言えるであろうか。
人生全体を統合的に見る視点を持たなければ、目先の快楽は得られるであろう。
しかし、「個人的な生活の安泰」であっても、それは他人との比較によるものであって、本質的には個人的な価値ではない。
腐敗した体制に迎合して保身に走る者を、客観的に見て汚いと誰しも思うであろう。しかし、それすらも社会環境や時代のせいであると言い逃れすることも可能であろう。
言い逃れをするのは簡単である。言い逃れや取り繕いといったものは世の中にいくらでも氾濫しているからだ。機械的条件反射で口をついてその場限りに取り繕うことは、極めて簡単なことなのである。それは同時に「考え」ることを放棄しているということでもある。
「考え」なければ行動選択に影響はない。「考え」ない者にとっては自由意思など存在しないのである。
予め決まった本能や環境だけによって行動が決定し、それ以外の一切の選択を行わなければ。そこに本質的自己選択は全く存在しないのである。
仏教では「極悪人にも仏性はある。」とされる。他人から搾取略奪して笑う極悪人であっても、その「笑い。」には笑うべき人間性が何かを予め「知って」いるからである。知らなければ笑うことはない。
笑いには悪い笑いと良い笑いがある。悪い笑いをする者は、自分が何故笑っているのかを認識することはない。認識すれば自己自身のくだらなさを認めなければならないからである。彼らにとってそれは精神的に苦痛であるため、本質的自己選択などというものは「あってはならない。」ものなのである。ヤクザがヤクザをやめることができないのは、何よりそれが「恐い。」からである。
従って、極悪人は自己自身のくだらなさを認識しないように、自己の意識を意図的に狭窄にし続けなければならないのである。この「意図」には「意思」は介在してはおらず、ただ漫然と反射的に選択して「しまっている。」だけの本質的には選択とは言うことのできない「結果」的選択に過ぎず、そこには意識的「目的」は存在しない。
通り魔の屁理屈に論理整合性がないのと同じで、悪人の屁理屈の全てには論理整合性は成立し得ない。
それは論理整合性を担保するべき本質的「自己」がないからである。
生物学者が主張する「潜在知」などという取り繕いは、既に存在しているだけの自己を事後正当化するものであり。これは環境依存性を事後正当化するための屁理屈であり、通り魔の屁理屈を支えるだけの言い逃れ、取り繕いに過ぎない。