ネコが遺伝的な近親との交配を回避する行動は、その行動が結果的に生存に適した結果であり。その行動習性を持たなかった個体の淘汰によって結果的に残った行動習性である。
従って、近親交配を回避するネコ自身に、「近親を回避する。」という目的意識が存在する必要性はない。結果的に近親交配が回避されるような行動を採りさえすれば、ネコ自身にどのような心理的情動行動が発生しようとも結果的に生存してさえいれば構わないからである。
ヒトのメスが暴力的なオスを求める習性があるとしても、それが進化過程における環境適応の結果として組み込まれた結果であって。必ずしもメスにとって、或はは種にとって常に有効な行動習性であることの保証はない。
イヌが生育環境によって飼い主の手を噛むことも、それはあくまで行動習性という機械条件反射的に組み込まれた「仕組み。」以外には自律的に行動選択ができない結果である。
結果的に生存していなければ生物ではいられない。生物とは、あくまで結果的に生存しているものを指して分類しているのであって。生物自体に予め目的があるのではない。分類しているのはあくまで生物学者の脳であり、生物自体が分類を必要としている訳ではない。
ネコ自身が意識的、知能的に生存に至るための行動選択/生存戦略を行っている必要性は全くなく。現在のネコが生存に価するあらゆる行動においても、ネコ自身の意識的選択や目的意識を必要とはせず。結果的に生存する行動習性/本能的目的行動さえ組み込まれていれば良いのである。
そのため、予め組み込まれた行動習性が環境に適合しなくなった場合。それは大絶滅に至る場合もある。
砂時計の砂山が崩落するかのように、一時的に大きなピークを形成しているからといって、そのピークが常に高くなり続けるとは限らない。
その砂山がどんなに大きくても、である。
従って、現在の環境下において生存に適している習性をどんなに抽出枚挙しても。その習性が常に生存に適し続ける論証には原理的にならない。
しかし、人間の場合は他の動物とは異なり。予め組み込まれた「仕組み。」という本能習性だけに行動を左右され続けるだけのシーケンシャルな存在ではない。
予め組み込まれた「仕組み。」の中で、何が人類にとって有益であるか。何が害を為すのかを認識判断することによって「選択。」することが可能である。
しかし、こうした「選択。」を行うためには。自己自身に生物種として組み込まれた「仕組み。」を理解し、その「仕組み。」のままに流されることなく合理的に選択する「意識。」が必要不可欠である。
ヒトという種の生物が本能に抗うことが困難であることは、想定の範囲内である。だが、どんなに困難であることを抽出枚挙しても、実行不可能であることの論証には一切ならない。
現在の生物学というのは、個体に予め組み込まれた行動習性/本能的目的行動の全ては、個体の生存や種の存続といった「結果。」を前提として、あたかも個体が意図的に選択しているかのような観念に基づいた立証方法が蔓延しており。これは全く科学的とは言うことができない。
「遺伝子自体に目的意識が存在する。」などという、ドーキンスのお伽話に生物学者の誰も明確な反論をしないのは。個体に組み込まれた行動習性の全ては、個体の目的意識を超越した超自然的目的意識の存在を本気で信じ込んでいるためである。
これは非常に「文学的。」な観念に依るものであり。全く論理的/科学的な検証には適さない。
ネコが無意識に生存に適した行動を常に採ると信じ込んでいれば。ヒトの本能習性であっても全ては種にとって有益な結果をもたらすように自動的/無意識的に選択されると勝手に思い込むことは簡単である。自動的/無意識的に有利な行動に至らないのは、自分以外の外的要因によるものであるとしか考えられないのも必然であろう。彼らは自分達がバカであることには全く意識が働かないのである。
東大の佐倉統が、学会内部の多数決を論拠とするのも。自律的に個人が判断しなくても無意識的/自動的に正しい判断は勝手に導びかれるものであるという観念が働いている証拠であり。故に自律的には何も判断しないのである。
誰一人として自律的に合理性判断を行わない集団の多数決を集計しても、永遠に論理的判断は抽出されることはない。むしろ動物的な社会形成習性に則って多数他人のご機嫌取りによって、固定観念を共有して満足安心し。論理的思考探索は停止してしまうのである。
これを以って「体制腐敗。」と言う。
「チンパンジーの行動習性から、人間としての社会性が立証できるかも知れない。」と京都大学松沢哲郎は論じた。そもそも「人間としての社会性。」というのは、本論において「生物本能的な社会形成習性。」とは等価ではないと論じたことが発端であり。「ヒトという生物種の本能習性=人間としての社会性。」という従来の観念を正当化するためにでっちあげた論理撹乱に過ぎない。
論理的に検証できない文系マスコミは、これを「話題になった。」などと称して業績であるかのごとくプロパガンダするが。「ヒト=人間。」という大衆迎合的な気分的満足による思考停止を促しているだけであって。科学的には糞の役にも立つことはない。ヒトやチンパンジーの行動習性をどんなに調べ上げても、既に行われたシエラレオネの少年ゲリラの残虐行動の反証には絶対にならないからである。
このように社会的には無益で無駄な研究を、京都大学の教授という肩書だけでプロパガンダしておきながら、論理的反論に関しては一切報道しないのがNHKである。これは大衆迎合とコンセンサスの混同によるものである。
ヒトの行動習性において、大衆迎合的ウケの良い話と、ウケの悪い話のどちらが多いかという「程度問題。」を論じているのではない。ウケの良い話で思考を停止し、ウケの悪い話から意識を外してしまう意識狭窄性という、ヒトの習性によって論理的な社会安全性が失われることが問題なのである。
論理的社会安全性を高めるためには、大衆観念的に「嫌な話。」にこそ意識を持つべきであり。ヒトという種の生物における危険性を認識することが重要なのである。
現在の生物学には、工学/物理学のような一貫した統一的理論というものがなく。断片的立証の抽出による勝手な観念の羅列をしておいて「生物進化とは奇妙キテレツなものである。」などという単なる意識錯乱状態に陥っているだけである。これは現在の生物学者のほとんど全員に自律的な探究心が存在せず。ただ漫然と現在の体制に迎合するという「生物本能的な社会形成習性。」に従っているだけであるからだ。
本能習性を正当化していれば、無意識的に本能習性のままに行動しておいても何らかの業績に自動的に達することができると錯覚していても不思議ではない。
現在の生物学というのは、単なる動物好きが自分の好きな生物の存在価値を正当化しているだけであって。統一的な理論体系を構築することには全く感心がない。自然界のフィールドにおいて動物の行動習性を客観的に観測することには科学的意味は存在するが、体系化された統一的理論もなしに場当たり的に何かを立証したかのように主観的に錯覚することは科学的意味は存在しない。
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従って、近親交配を回避するネコ自身に、「近親を回避する。」という目的意識が存在する必要性はない。結果的に近親交配が回避されるような行動を採りさえすれば、ネコ自身にどのような心理的情動行動が発生しようとも結果的に生存してさえいれば構わないからである。
ヒトのメスが暴力的なオスを求める習性があるとしても、それが進化過程における環境適応の結果として組み込まれた結果であって。必ずしもメスにとって、或はは種にとって常に有効な行動習性であることの保証はない。
イヌが生育環境によって飼い主の手を噛むことも、それはあくまで行動習性という機械条件反射的に組み込まれた「仕組み。」以外には自律的に行動選択ができない結果である。
結果的に生存していなければ生物ではいられない。生物とは、あくまで結果的に生存しているものを指して分類しているのであって。生物自体に予め目的があるのではない。分類しているのはあくまで生物学者の脳であり、生物自体が分類を必要としている訳ではない。
ネコ自身が意識的、知能的に生存に至るための行動選択/生存戦略を行っている必要性は全くなく。現在のネコが生存に価するあらゆる行動においても、ネコ自身の意識的選択や目的意識を必要とはせず。結果的に生存する行動習性/本能的目的行動さえ組み込まれていれば良いのである。
そのため、予め組み込まれた行動習性が環境に適合しなくなった場合。それは大絶滅に至る場合もある。
砂時計の砂山が崩落するかのように、一時的に大きなピークを形成しているからといって、そのピークが常に高くなり続けるとは限らない。
その砂山がどんなに大きくても、である。
従って、現在の環境下において生存に適している習性をどんなに抽出枚挙しても。その習性が常に生存に適し続ける論証には原理的にならない。
しかし、人間の場合は他の動物とは異なり。予め組み込まれた「仕組み。」という本能習性だけに行動を左右され続けるだけのシーケンシャルな存在ではない。
予め組み込まれた「仕組み。」の中で、何が人類にとって有益であるか。何が害を為すのかを認識判断することによって「選択。」することが可能である。
しかし、こうした「選択。」を行うためには。自己自身に生物種として組み込まれた「仕組み。」を理解し、その「仕組み。」のままに流されることなく合理的に選択する「意識。」が必要不可欠である。
ヒトという種の生物が本能に抗うことが困難であることは、想定の範囲内である。だが、どんなに困難であることを抽出枚挙しても、実行不可能であることの論証には一切ならない。
現在の生物学というのは、個体に予め組み込まれた行動習性/本能的目的行動の全ては、個体の生存や種の存続といった「結果。」を前提として、あたかも個体が意図的に選択しているかのような観念に基づいた立証方法が蔓延しており。これは全く科学的とは言うことができない。
「遺伝子自体に目的意識が存在する。」などという、ドーキンスのお伽話に生物学者の誰も明確な反論をしないのは。個体に組み込まれた行動習性の全ては、個体の目的意識を超越した超自然的目的意識の存在を本気で信じ込んでいるためである。
これは非常に「文学的。」な観念に依るものであり。全く論理的/科学的な検証には適さない。
ネコが無意識に生存に適した行動を常に採ると信じ込んでいれば。ヒトの本能習性であっても全ては種にとって有益な結果をもたらすように自動的/無意識的に選択されると勝手に思い込むことは簡単である。自動的/無意識的に有利な行動に至らないのは、自分以外の外的要因によるものであるとしか考えられないのも必然であろう。彼らは自分達がバカであることには全く意識が働かないのである。
東大の佐倉統が、学会内部の多数決を論拠とするのも。自律的に個人が判断しなくても無意識的/自動的に正しい判断は勝手に導びかれるものであるという観念が働いている証拠であり。故に自律的には何も判断しないのである。
誰一人として自律的に合理性判断を行わない集団の多数決を集計しても、永遠に論理的判断は抽出されることはない。むしろ動物的な社会形成習性に則って多数他人のご機嫌取りによって、固定観念を共有して満足安心し。論理的思考探索は停止してしまうのである。
これを以って「体制腐敗。」と言う。
「チンパンジーの行動習性から、人間としての社会性が立証できるかも知れない。」と京都大学松沢哲郎は論じた。そもそも「人間としての社会性。」というのは、本論において「生物本能的な社会形成習性。」とは等価ではないと論じたことが発端であり。「ヒトという生物種の本能習性=人間としての社会性。」という従来の観念を正当化するためにでっちあげた論理撹乱に過ぎない。
論理的に検証できない文系マスコミは、これを「話題になった。」などと称して業績であるかのごとくプロパガンダするが。「ヒト=人間。」という大衆迎合的な気分的満足による思考停止を促しているだけであって。科学的には糞の役にも立つことはない。ヒトやチンパンジーの行動習性をどんなに調べ上げても、既に行われたシエラレオネの少年ゲリラの残虐行動の反証には絶対にならないからである。
このように社会的には無益で無駄な研究を、京都大学の教授という肩書だけでプロパガンダしておきながら、論理的反論に関しては一切報道しないのがNHKである。これは大衆迎合とコンセンサスの混同によるものである。
ヒトの行動習性において、大衆迎合的ウケの良い話と、ウケの悪い話のどちらが多いかという「程度問題。」を論じているのではない。ウケの良い話で思考を停止し、ウケの悪い話から意識を外してしまう意識狭窄性という、ヒトの習性によって論理的な社会安全性が失われることが問題なのである。
論理的社会安全性を高めるためには、大衆観念的に「嫌な話。」にこそ意識を持つべきであり。ヒトという種の生物における危険性を認識することが重要なのである。
現在の生物学には、工学/物理学のような一貫した統一的理論というものがなく。断片的立証の抽出による勝手な観念の羅列をしておいて「生物進化とは奇妙キテレツなものである。」などという単なる意識錯乱状態に陥っているだけである。これは現在の生物学者のほとんど全員に自律的な探究心が存在せず。ただ漫然と現在の体制に迎合するという「生物本能的な社会形成習性。」に従っているだけであるからだ。
本能習性を正当化していれば、無意識的に本能習性のままに行動しておいても何らかの業績に自動的に達することができると錯覚していても不思議ではない。
現在の生物学というのは、単なる動物好きが自分の好きな生物の存在価値を正当化しているだけであって。統一的な理論体系を構築することには全く感心がない。自然界のフィールドにおいて動物の行動習性を客観的に観測することには科学的意味は存在するが、体系化された統一的理論もなしに場当たり的に何かを立証したかのように主観的に錯覚することは科学的意味は存在しない。
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