書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

パワハラ自慢。

2013年06月24日 16時45分57秒 | 意識論関連
○パワハラ自慢。

 和田アキ子は後輩タレントに対するパワハラ自慢しているけど、頭がおかしい。

 和田アキ子のパワハラ自慢を鵜呑みにしている視聴者にも問題がある。パワハラというのは一種のイジメ差別であり、パワハラ自慢をマスコミで公然と自慢することを放置するというのは、差別を容認する「文化」に他ならない。

 結局、大衆人気というのは人格とは無関係なんだよね。


 そういえば先日の「ホンマでっかTV」の中で、「会話の最中やたらとうなずく奴は、薄っぺら。」って話をしていた直後に澤口俊之が激しくうなずきまくっていた。

 澤口ってやたらと「科学的に説明」したがるけど、学術論文の全てが科学的根拠に基づいているわけではなく、論文の内容を科学的/論理的に検証して初めて「科学的説明」になるんであって。何でもかんでも「科学的説明」だと言い張るのは科学の権威性を利用したペテンに他ならない。現状の生物学/脳神経科学における論理検証も出来ないバカを科学者として扱うのは大間違いである。北大っていうのは山岸敏男も含めてポンコツ科学者が多過ぎる。

 本来科学的検証というのは、論理的批判反証といったものに曝されなければならないのであって。「ホンマでっか」的に仲間内で話を丸めて視聴率を優先する研究者達は科学者としてはポンコツである。

 科学者の振る舞いとして、科学的検証性を優先すべきであって。大衆マスコミのウケ狙いを優先するのは科学者としての倫理に反する行為である。

 尾木ママが辞めちゃったのも、その辺りに理由があるんじゃないのかね。



Ende;
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違った。

2013年06月11日 15時52分01秒 | 日記
○違った。

 ヨドバシカメラの店員さんはSIGMA 60㎜ F2.8 DNとSIGMA DP-3のレンズは同じだって言ってたけど、調べてみたら微妙に違った。

Fig:60㎜F2.8


Fig:DP-3専用50㎜F2.8


 そもそも焦点距離自体が違うし、交換用レンズと組み込み専用レンズは設計上の制約が違うのかも知れない。

 最も違うのは至近倍率で、DP-3が3.33倍なのに対して60㎜F2.8DNは0.139倍と低い。



 DP-2やDP-1はDNシリーズと焦点距離は一緒なんだけど、やっぱり設計は違った。

Fig:19㎜F2.8


Fig:DP-1




Fig:30㎜F2.8


Fig:DP-2


 DPシリーズの組み込みレンズは後ろ側に大きなレンズが配置されている傾向があるので、このままだと交換式レンズにはならないので設計変更しているのかも知れない。

 19㎜はMTFの値が結構違うけど、30㎜や60㎜はあまり違いは見られない。



Ende;
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心とは。

2013年06月11日 15時48分24秒 | 意識論関連
○心とは。

 「気持ち」は短絡的に人間性を伴う「心。」にはならない。

 DV男に暴力を振るわれながらもバカな被害者女性が別れられない理由は、DV男というのは散々暴力を振るった後に急にやさしくなるのが原因の一つと言われる。

 気分的に「やさしい気持ち。」になるというのは、あくまで大脳辺縁系の反射であって。その場限りの環境依存的結果に過ぎず、主体的な意思による目的行動選択とは無関係である。

 散々暴力を振るい、脳内物質を消費した結果、大脳辺縁系からセロトニンが分泌されることで、急に行動が穏便になることを「やさしい気持ち。」だと勝手に妄想するのは簡単である。

 簡単な観念を鵜呑みにすることを、平たくいえば「バカ」と言う。



 あなたがもし、兵隊に徴用されてユダヤ人収容所に配属されたとしよう。そして上官から数百万人のユダヤ人殺害計画書を渡され、これを実行しなければならないと命令を受けたとしよう。

 こういった状況下において、「やさしい気持ち」でいることに何の意味があるだろうか。

 アイヒマン実験において、被験者が権威の命令に逆らう時に「やさしい気持ち。」などにはまずならない。それでも権威者に逆らい決別し、自律的に責任を負う判断を下す時に必要となるのは、「やさしい気持ち。」だとか「勇気。」だとか、「元気。」といった気分の問題ではなく、徹頭徹尾論理的合理性を追求する主体的判断である。

 原発の安全責任者が、上司から原発の危険性を放置するように命令された時に。気分的に平穏でいるためには服従しておいた方が「気持ちは楽。」に違いない。

 こうした気分的怠慢を指して、人間性を伴う「心。」と形容するのは、とんでもない大間違いである。


 人間にしか持ち得ない「心。」とは何かと言えば、これは固定観念に基づいた気分感情に流されることなく、自律的に社会的責任判断を選択する「意志。」を指す。

 現在の生物学者や脳神経認知科学者達のように、仲間内で話を丸めて何の批判精神も持たずに大衆マスコミにウケの良さそうな話だけ垂れ流して人気を得ていれば、きっと「気持ちは楽。」に違いない。

 権威や多数派に逆らう時、ヒトは恐怖を抱き、精神に恐慌をきたし、「恥ずかしい。」という感覚を抱く。これこそが先天的本能由来の社会形成習性が促す「感覚」であり、無意識が作り出す行動バイアスである。

 あらゆる「人災」の全ては、こういった無意識な本能由来の行動バイアスにより、自律的な論証検証性を喪失することが最も根源的原因となって生ずるものである。



 「大切な人のため。」などという観念も人間性を伴う「心。」の論証にはならない。「大切な人。」という特定人物だけを優先するということは、「大切でない人。」を蔑ろにするからである。

 原発の安全管理担当者が、自分の家族のために会社を辞めさせられないように上司の命令に従うことを「心。」と形容することは出来ない。

 特定の偏った集団組織の利益のためだけに選択される行動というのは合理性を「追求している。」ことにはならない。

 本当の合理性を「追求する。」からこそ、社会全体の安全性や持続可能性にまで配慮が働くのであって。気分感情とは無関係に合理性を徹底追求することこそが、本質的な人間としての「心。」ある行動を導くのである。



 文科系の大衆マスコミのほとんど全員は、「自分の気分感情こそが人間性を作り出すものである。」と勝手に勘違いしているが。自分自身で選択していない遺伝要素や脳の行動バイアスを本質的な自己だと勝手に錯覚していることが原因であって、こんなものは論理的思考検証の出来ないポンコツによる身勝手な勘違いに過ぎないのである。

 目先の「大切な人。」のために意識を奪われ、「そうでない人。」への配慮を喪失しておいて「心。」もすったくれもあったものではない。

 振り込め詐欺師が目先の仲間を「大切。」にして、飯を驕っても「心。」の証明には全くならない。

 「大切な人のため。」と称して戦争を煽ることこそが、人間としての「心」を喪失するのであって。大衆ウケの良さそうなバカげた観念を振り回して多数人気を得ることに価値はない。





Ende;
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近道。

2013年06月11日 15時47分21秒 | 意識論関連


 一日6000歩以上歩いていると前頭葉の萎縮を防げるらしい。

 歩くという「運動。」だけの問題ではなく、公道を歩くことによって周囲の交通への配慮をしたり、何かを思いついたり気がついたりするといった脳の働きを促すことが効果的なのではないかと考えられます。

 結局、前頭葉の萎縮を抑制するのは、主体的な意欲なんだそうです。

 強迫観念的に記憶力を鍛えておけば認知症にならないものだと思い込むのは簡単です。

 単なるペーパー試験での論理検証成績だけでは頭が良いとは言えず、あくまで自律的で自発的な論理検証によって人間性というのは築かれるのです。ボケちまったら人間性もすったくれもないでしょ。

 だから何度も言うように、「自律とは自発の中にあり、他にはない。」のです。

 試験の類で成績が良くても、社会的責任判断を自律的に出来なければ人間としての知能にはならないのです。

 大量の記憶力を獲得出来ても、記憶している内容から論理整合性の検証をするという「意欲」や「意識」は本質的な自発性がなければ出来ないのであり。単なる「記憶マニア。」は頭が良いことの証明には全くならないのです。

 記憶力コンテストで成績の良いヒトが認知症になりにくいといった統計でもあるんでしょうか。そんな話聞いたことありません。多分記憶力マニアの多くは認知症になりやすいのではないでしょうか。

 原発の技術者になれる程成績が良くても、毒ガス「サリン」の製造方法を開発出来ても、天下りが出来る程役所で成績が良くても、これらが短絡的に人間性の論証にはならないのです。彼らは臨床上は認知機能に障害があるとは判定されませんが、ありていに言って人間としての認知機能に障害があるから自律的な社会的責任判断を行えなかったんですよ。

 組織集団内部での偏った評価基準や価値観そのものに、論理検証的批判精神を持たない限り、本質的には人間としての「知能」とは言うことが出来ないのです。

 現在の認知科学者やマスコミがそそのかす「これさえやっときゃ、頭が良くなる。」的なペテンを鵜呑みにする頭の悪さを認識出来ずに、どうして「頭が良くなる。」と言えるのでしょうか。

 それこそが「バカになる。」ための最短ルートなんじゃないですかね。

 そりゃ「人災」も減らないっすよ。



Ende;
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危機感。

2013年06月11日 15時45分38秒 | 意識論関連
○危機意識と危機感は違います。

 気分的恐怖心や観念的猜疑心を危機意識と勘違いしているケースが多いように見受けられる。

 気分だの観念といったものを、意識の本質であるとヒトの多くは錯覚しているが。こういった気分や固定観念の「強度」というのは大脳辺縁系の反射であって無意識であり、本質的な意識である論理検証性とは無関係である。

 本当の意味での意識による危機管理能力というものは、先天的気分感情だの後天的に刷り込み学習した固定観念的価値観に由来する条件反射的「感覚」ではなく。あくまで自発的な論理検証でなければ「意識」ではない。

 単なる気分的「危機感」は「危機意識」ではないのである。

 そもそも振り込め詐欺に引っ掛かる被害者には、気分的「危機感」だけが先行してしまうからこそ「危機意識」としての論理検証性が失われるのであって。自己の無意識な行動バイアスに流されないようにするための自律的検証性がないからこそ、条件反射的に嘘を鵜呑みにしてしまうのである。

 ヒトは誰しも騙される可能性があって、絶対に騙されないヒトなど存在しないと考えるべきである。

 「ヒトとは、間違えるものである。」というのは危険学における基本的考えであり、間違える可能性を持っていることを前提にしないから合理性のある具体的対策につながらないのである。








Ende;
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本田圭佑。

2013年06月10日 13時14分29秒 | 意識論関連
○本田圭佑。

 本田は「組織より個人。」などと一言も言っていない。

 本田が言ったのは「組織は既に自分達が持っているものであり、それに加えて個人の能力がなければ世界は狙えない。」と言ったのであって、意味としては「どちらも重要だ。」とは言ったが、「組織より個人。」などとは全く言っていない。

 マスコミは人の言ったことを身勝手な解釈によって、勝手な脚色をし過ぎである。

 身勝手な解釈を根拠に人を誹謗中傷するのは犯罪である。

 こうした文科系特有の身勝手な観念的「解釈」というのは、論理的「理解」を伴わない無責任性を証明するものである。






Ende;
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頭が悪い。

2013年06月10日 13時13分17秒 | 意識論関連
○頭が悪くなる。

 マスコミは安易に「頭が良くなる。」というフレーズを使い過ぎである。

 暗記力や記憶力といった特定の能力向上を指して安易に「頭が良くなった。」ことにはならない。

 ましてや進学塾の講義というのは試験偏差値を上げることが目的であって、「偏差値=頭が良い。」などと短絡的に決め付けるのは「偏差値が高い無差別殺人犯。」の存在を無視した身勝手な観念に他ならない。

 そもそも「暗記記憶術を習得しておけば認知症になりずらい。」などといった統計があるわけでもないのに、短絡的に暗記記憶術を認知症予防だと言い張るのは科学的根拠以前に臨床上の根拠にもならない。

 このように自律的な論理検証をしないこと自体が頭の悪さの証明であり。現在の生物学や認知科学の無責任な見解を鵜呑みにするマスコミの論理検証性の欠落こそが、頭が悪くなる最も根源的原因と言える。

 「これさえやっときゃ、頭が良くなる。」的な嘘によって視聴率や発行部数を稼ぐというのは、合法的振り込め詐欺行為に過ぎず。極めて悪質である。

 「金儲けが出来た。」とか、「偏差値が上がった。」といった偏った「結果」だけを取り上げて「頭が良い。」と決め付けるのは、あまりに短絡的で無責任である。こういった短絡的な決め付けをしているからこそ、現在の生物学における断片的な「生存にとって有利。」性を、短絡的に種や個体の存在価値と履き違えてしまうのである。

 偏差値成績という抽象化された脳への報酬に対する無意識な条件反射的能力向上結果を、あたかも認知科学的根拠に基づいた本質的知能の証明であるかの如く勘違いしているからこそ、様々な社会的危険性が放置される原因であり。

 短絡的に「頭が良くなる。」などという安易な嘘による大衆迎合こそが、あらゆる「人災」を放置させるのである。

 バカが危険性を放置するのは当然の結果である。

 危険性を放置しているからこそバカなのであって、金儲けや偏差値といった断片的な能力結果は危険性を放置しないことの論理根拠には全くならない。

 自律的な社会的責任判断なくして、他のあらゆる特定能力がどんなに高くても、そんなものは人間としての本質的知能の論証には全くならないのである。

 マスコミが率先して振り込め詐欺的な嘘を垂れ流している以上、振り込め詐欺類が減らないのは当たり前の話である。



Ende;
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不耐。

2013年06月10日 13時11分55秒 | 意識論関連
○乳糖不耐。

 数百万年前までヒトは乳糖不耐体質だったと言われ、現在のヒトの大部分は乳糖への耐性を獲得しているのだが。

 現在の生物学上では、あたかもヒトが意識的に自らの遺伝要因を変化させ適応したなどと言い張る。

 如何なる生物個体であっても、自らの遺伝要因を自ら選択することは原理的に不可能であり。こうした極めて基礎的な論理検証すら出来ない現在の生物学界には、科学としての社会的役割を果たす能力はない。

 乳糖に対する耐性を獲得したメカニズムというのは、あくまで偶発的に耐性を持った個体子孫が環境に適応した「結果」以上の何もなく。遺伝による先天的体質というものは偶然という自然任せの「結果」以上の何の意味も持ち得ない。これが理解出来ていない時点で、科学者としてはポンコツ無能なのである。

 先天的遺伝要因自体を誰も選択することが出来ない以上、生物進化には目的など存在しないのである。こうした論理的原理すら理解せず、漫然と従来の生物学上の観念を振り回し続けるというのは。研究者自身に本質的な自発性が欠如しているための結果であり、自発性がないからこそ組織内部の多数大勢に迎合し、自律的判断を誰も出来ないという結果に陥るのである。

 科学というのは、構造的に閉鎖性を持ち合わせており。原発事故同様素人が介入すべきものではないのだが、こうした閉鎖性を利用される形で組織内部の腐敗に由来する閉鎖性を放置した結果が原発の暴走を招いたのであり。素人でも判る程の簡単な論理原理すら排除する現在の生物学というのは、東京電力同様に組織的体制腐敗に陥っている証拠である。

 経済学が素人を排除した結果、自律的には何も判断しないような無責任なキチガイが政府の有識者会議に出ている始末である。

 単なる知識の「量」だけを論じても、これは文科系大衆マスコミに気分的安心満足を与えているだけであって。統合的な論理検証性(人間としての本質的知能)の証明には全くならない。

 「ホンマでっかTV」で有名な北大の澤口俊之は、養老孟司を心酔していたオカルト研究者である。自律的論理検証性がないからこそ、養老のようなオカルトに心酔したりするのであり。脳科学研究者としてはポンコツである証明である。

 こうした権威性を持ったポンコツやオカルト、キチガイを放置しておいて、「社会がちぃとも良くならない。」のは当たり前の話である。素人でも指摘可能な間違いであれば、これは専門家でなくても指摘すべきであり。また専門家はこれを排除する権利もない。

 大学や研究機関も、自分達の組織内部に腐敗や不正、閉鎖性が存在するのであれば、「専門外」を根拠に腐敗を放置して良いことの理由にすべきではない。



 面倒臭いかも知れないが、畑村洋太郎は生物学/脳神経認知科学のオカルト性を排除する義務がある。

 あらゆる「人災」が、「人災」たりうる根源は。そこに「ヒト」が「人間」たり得ない原因があるからであり、これを放置しておいて危険学もすったくれも意味を全く為さないからである。

 自分の好きな研究だけに研究費を使っておいて、「専門外」を根拠に生物学の腐敗性を放置しておいて良いわけがない。




Ende;
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○。

2013年06月10日 13時10分45秒 | 意識論関連


 ヒトという種の生物は、既に存在している自分というものの全てを自分自身で制御可能なものであると錯覚しがちである。

 「自分だけは、絶対に大丈夫。」そう思っておくと安心。

 論理的根拠なんぞ要りません、必要なのは気分的安心や満足だけですから。

 ヒトはなぜ気分的安心満足ばかりを追求して論理的根拠を無視するのでしょうか、それは大脳辺縁系の構造がそう出来ているからです。

 大脳辺縁系の構造は、自分自身で選択していません。

 そもそも自分の遺伝子自体を自分で選択していないんですから、自分の脳の構造だって選択していないのは当たり前の話です。

 この話を持ち出すと、ヒトは幾つかの拒絶反応のパタンを示します。

 一つは「自由意思など実存しない。」などと勝手に決め付け、あたかも全ての行動は先天的/運命的に決定されており、個人が自律的に選択することなど出来ないことに「しておく。」パタンです。

 なぜ、自律選択が不可能に「しておかなければならない。」のかと言えば。そうしておけば自律的な論理検証を放棄出来ると勘違いしているからです。

 他にも「潜在知」などと称して、あたかも後天的に時代や社会から刷り込み学習された価値観こそが個人を個人たりうる根拠だと言い張るパタンもあります。

 もっと単純に、何も理解せずに無視するというパタンもあるでしょう。

 いずれにせよ、これらの拒絶反応というのは全て既存の自己の価値観や行動バイアスを事後正当化することによって、気分的な安心満足を得るための反射です。

 大脳辺縁系が促す行動バイアスがもたらす「結果」には目的がありません。そもそも大脳辺縁系の構造自体が結果的生存に適した結果以上の何も存在しないからです。

 多数派同調バイアスや、正常性バイアスといったものが、ヒトから危機管理能力を喪失させることは良く知られていますが。Cyberneticsの観点からは断片的には生存にとって有利と見える事象だけを抽出することによって、あたかも先天的本能に由来する行動バイアスや思考バイアスには「意味がある。」「目的がある。」などと言い張ることを、現在の生物学者達は平気で行います。

 偶発的に生存に適した結果だけを抽出して、これを「目的」だと言い張るのは科学的論証とは言えません。どんなにたくさんの「結果」を抽出サンプリングしてきても、そこからは「結果」以上の何も証明することは原理的に出来ないからです。

 「目的」とは何か。ヒトの多くは「目的」とは本能的な欲望を満たすことが出来る行動を選択することだと勘違いしていますが、そもそも自分では選択していない本能欲望のバイアスに流されておいて「目的」もすったくれもあったものではありません。

 本能や欲望を満たすことが目的だと言うのであれば、本能や欲望の追求によって破滅絶滅することも目的だと言うことになってしまうわけです。

 頭のイカレたNHKの解説委員が「人類は絶対に絶滅する。」と言い張ったのも、こうした無意識な思考バイアスが促したものだと言えるでしょう。

 「ヒト」の行動結果だけを抽出サンプリングしていれば、絶滅に至る可能性が高いことは否定出来ないかも知れませんが。「ヒト」には自律的に行動選択可能な性質があり、絶滅を回避することも絶対に不可能であるとは言い切れません。

 単に生存だけを目的だと勘違いしておけば、遺伝的にはゴキブリか何かの方が「適している。」と言えるでしょう。事実何億年もの間生存に適してきた種だからです。

 個体の生存は「結果」に過ぎません。その場限りに生存に適した行動を促す本能を正当化しても、それが環境と調和して持続可能性を必ず促すことの証明には一切なりません。

 持続可能でない行動ということは、結果的には種の保存にはつながらないことは明らかであり。生物学者達が立証したがる「生存にとって有利な行動を促す本能。」の全てが常に種の存続につながるわけでもありません。

 動物の多くは環境によって行動結果が大きく異なる性質があります。それは先天的に促される行動バイアスというものが、特定環境に適応する形で進化(変化)した結果だからです。

 生物学者の多くは、ヒトが現代社会の変化に適応出来ていない可能性を論じたがりますが。これは論理的根拠が全くない妄想に過ぎません。

 犯罪という概念自体が現代社会における価値観であって、アマゾンの密林の中で野生動物相手に犯罪防止を唱えることがどれだけ無意味かはバカでも判るでしょう。

 自然界というのは結果的に生存していた個体だけが生き延びるという過酷な世界ですから、犯罪だろうが卑怯だろうが公平でなかろうが一切お構いなしの世界であって。こうした自然界の結果的生存だけを絶対視しておけば、犯罪であっても「生存に有利な行動。」の一つとして扱われることになるのです。

 つまり、犯罪というのは「ヒト」の行動としては正常な平均的行動であって。「人間」としての異常性を指してはじめて犯罪と定義可能なわけです。

 ですから生存結果だけを絶対視する現在の進化生物学的な基準では犯罪というもの自体を定義することは出来ないのであって、「ヒト」の動物的な適応性云々で犯罪を語ることは極めて不毛な意味のない戯言に過ぎません。

 都市生活者特有の犯罪傾向などが抽出出来ているわけでも何でもないにも関わらず、ヒトが遺伝的に現代社会に適応出来ていないかどうかと犯罪とを結び付ける根拠など最初からないのです。

 そもそも犯罪というものは都市特有の現象などではなく、むしろどのような地域においても普遍的に見られるものであって。ヒトの現代社会への適応性とは全く相関性がなく、むしろ「ヒト」全般に見られる異常性だと言えるのです。

 「ヒト」は人工物ではありません。ですから人間にとって都合の良い存在などでは最初からないのです。

 あなたがもし、「自分は人間だ。」と言えるのであれば。その自分の「ヒト」由来の先天的本能欲望感情といったものや後天的に環境から刷り込み学習された価値観の全てはあなた自身で選択したものではないことを自覚していなければならないのです。

 自分の間違いを自分自身で修正出来て、はじめて「人間」だと言えるのであって。その前提として先ずは自分の間違いや愚かさを認識することが大前提なのです。

 自分の何が悪いのかを認識出来ないことには、それを修正することが出来ないのは当たり前の話だからです。

 「自分だけは絶対に大丈夫。」という身勝手な思い込みは、バカの典型的な言い分です。

 ヒトの多くは多数派と同じであるというだけで気分的に安心し、あたかもその気分的安心を論理的安全性であると錯覚することで論理検証性を喪失する習性があります。だからこそ「絶対」などという過剰な自信を持つことが出来るわけです。

 絶対だと思っていれば、論理的に検証しないのは当たり前でしょう。

 こうしたヒトの論理検証性の欠落こそが、原発の危険性を放置させたり、人類の救済と称してテロを行わせる暴走性の根源なのです。

 自律的な論理検証というブレーキが働かなければ暴走に至るのは当然の結果というものです。

 現在の生物学者達が「生物の目的は生存。」だと言い張るのも、目的が予め既に決定しておいた方が自律的に自己検証する必要性を放棄出来ると勘違いしているからに他なりません。

 それは自律的に論理検証出来ない頭の悪い研究者にとって、気分的安心を与える麻薬のようなものなのかも知れません。





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寺島実郎。

2013年06月08日 14時56分55秒 | 意識論関連
○寺島実郎。

 寺島は原発の稼動是非を経済効率と安全性を秤にかけて判断すべきと言っておきながら、寺島本人は何の判断もしないという支離滅裂な男である。

 これを理性的だと勘違いするのは簡単であろうが、寺島は単なる無責任なだけである。

 自律的判断をせず、多数派に判断を委ねているというのは、要するに無責任ということであって。こんな無責任男を政府の有識者として扱うというのは内閣政府の任命責任に問題がある。

 「単に知識が豊富。」「エネルギー問題に詳しい。」というだけで、自律的な責任判断を放棄するような無責任な者を有識者として扱うのは適切とは言えない。

 クイズの正解率が高いだけ、試験の成績が良いだけでは人格の保証には全くならないのと同じことである。

 知識の「量」だけで知能と判断する文科系大衆観念に基づいた人選をしているから、無責任なキチガイが責任者として扱われることになる。こうした知能基準というものは、「偏差値の高い無差別殺人犯。」を生み出すものであって、何ら人格者としての責任判断能力の基準には全くならない。

 短絡的に知識の「量」だけで責任判断を行う役職の人選をしているから政府のやることがおかしいのであって、「有識者」の基準自体が根本的に間違っているのである。




 そもそも社会安全性というものは経済効率と秤にかけるようなものではない。

 経済成長というものも他国との競争が目的ではなく、あくまで国民の生活や仕事の質を基準にすべきであって、国際競争そのものを目的と履き違えるべきでもない。



 後見人制度を悪用して詐欺を行った弁護士同様、特定の知識能力だけでは人格の保障には全くならず。あくまでやっている内容、言っている内容を検証する必要がある。

 経済効率と社会安全性を秤にかけ、自分では何も自律的には判断しない無責任な奴を、文科系大衆観念上での「有識者」として扱っているから社会安全性が蔑ろにされるのは当たり前の話である。

 マスコミの垂れ流しを無為に鵜呑みにすべきではない。何度も述べているはずだが、全く徹底されないのは、大衆の意識(論理検証性)の欠如によるものである。制度上は民主主義を導入している日本においては、大衆の意識的選択なくして社会安全性など向上するわけがないのである。







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見習うべきは。

2013年06月04日 20時32分05秒 | 日記
○漁火サーチャージ。

 イカ釣り漁船で使う漁火の燃料費がバカにならない件。

 効率の良いLEDとかHIDに取り替えるとか、アラノッドのアルミ反射鏡を使って効率を良くするとか、何か対策があるんじゃないかと思うんだけど、漁師さんからはそういった要望って出て来ないのかしら。

 最近では大手スーパーが直接漁船から水揚げを買い付けしたりするらしいから、そういった会社がイカ釣り漁船用に漁火節電ソリューションを開発したら良いんじゃないかと思う。



○座敷ゴイ。

 魚の鯉には、食用養殖用に輸入された外来種(カルピオ)と、日本古来(メラノータス)の2種類がいることが最近判明したらしい。

 日本古来の鯉を野ゴイと呼ぶらしい。

 でも外来種を座敷ゴイとは言わないらしい。

 この二つの種のコイは、琵琶湖では産卵時期がわずかに異なるので交雑しずらいそうだ。



○しょこたん。

 中川翔子がPixivにイラストを掲載しているらしいんだけど、本人なのかどうかは不明。

http://www.pixiv.net/member_illust.php?id=591717

 最も古い投稿が2009年。ユーザー名はまんま「しょこたん」だった。

 独特のケバい色遣いがしょこたんっぽいんだけど、お得意の精密リアル絵が掲載されていないのでなりすましの可能性も否定出来ない。

 しょこたんの公式ブログとかと連携していれば確認出来るのかな。

 その辺よくわからない。Webは苦手。

 「しょこたん Pixiv」とかで検索かければ何か情報があるかも知れない。

 ないかも知れない。



○ポリエチレンの静電容量。

 コンビニとかスーパーで貰うレジ袋ってあるでしょ、あれを何気なくカーペットの上に放置しておいたら、ホコリを吸ってゴミだらけになった。

 なので、何気なくカーペットにレジ袋を擦りつけてみたら、凄い勢いで塵芥を吸着したのです。

 要するに静電気が発生したってだけなんだけど、静電気っていうのは擦り合わせる素材によってかなり違うって話をどっかで聞いたことがあるので、偶然ウチのカーペットがレジ袋と相性が良かったっていうことらしい。

 レジ袋みたいな使い捨て的材料で静電気を発生してくれると、無電力空気清浄器が作れそうな気もする。



○SIGMA DP-3が結構凄い。

 メーカーサイトからダウンロード出来る実写サンプル画像を見比べてみた。

 画像の中央部分をDP-3はピクセル等倍で掲載してある。

SIGMA DP-3




FUJIFILM X-E1 X-60㎜ F2.4




NikonD7100 AF-S70-200㎜ F4 VR




 フジフイルムX-E1とニコンD7100は画素数が多いため、同列比較のためにXE-1とD7100の画像をDP-3に合わせて縮小しているのでXE-1やD7100の方が有利な比較であるにも関わらずDP-3の方が鮮明なのが驚き。



○「真面目」の履き違え。

 桑田真澄さんが東大野球部の指導に就いたそうだ。

 試合で負けるからといって、むやみに練習量を増やすのは間違いだそうで。短時間集中で中身の濃い練習を「考える」べきなんだそうだ。

 東大生は真面目過ぎて練習し過ぎるんだそうで。日本人の多くは「真面目」っていうものを精神論的努力辛抱根性だと錯覚しているところがある。それが根本的間違い。

 いわば精神論的にダラダラと長時間練習していると、間違った動きを身体が覚え「学習」してしまうことで、試合でも100%の力が出せなくなってしまうんだそうだ。

 それでも中学生くらいまでは軍隊式訓練でも試合には勝てるもんだから、それだけやっときゃメジャーリーグにも行けると思ったら大間違い。





 なんにせよ、桑田さんて言葉が優しくて良いな。

 「厳しい言葉」とか言っても、言葉が凄い優しい。

 人柄が温かいんだね。

 育ちが良いんだろうな。

 おいらと違ごて。(-.-)

 「無理矢理にでも勝たせよう。」っていう焦りがないんだろうね。選手本人達の意識が変わるまで見守る優しさがある。選手当人が「勝ちたい」って思うようになるまで待つ余裕がある。野球そのものへの愛がある。




 桑田さんが言っていた「やっぱり、意識のある選手は伸びるな。」って、この場合の「意識。」っていうのは、自発的意欲のことを指すんだと思う。

 気持ちの弱さっていうのは、自信を持つことで実現するものであって、強迫観念的に「やらされて」いる限り絶対に克服出来ない。

 フィギュアスケートでも、伊藤みどりはプレッシャーに負け、荒川静は楽しんで勝った。

 「勝ち負け」という結果に執着するよりも、なにより自分で納得できる試合を心掛けることが大切なんではないかな。

 どんなに実力を出せたとしても、どちらかが負けるのが試合だし。何より勝ったからって社会安全性にも持続可能性とも関係がないんだから、「結果」よりも大切なのは実力を出し切る自発的意欲であって。「実力を出し切った試合をすること。」こそが野球の本当の「目的」なんだと思う。

 野球そのものへの愛があるから、観客にも感動を与えるんだと思う。

 それは「野球が好き。」でないといけない。互いに全力を出し切ることで得られる充実感、それこそが野球の「目的」なんだろうな。

 おいらはそう思うのです。

 「自分のことを大切に出来ない人が、他人を大切になど出来ない。」これは定理です。

 もっと「自分の気持ち」を大切にしないといけないと、おいらは思うのです。

 自分の気持ちもわからない奴が、他人の気持ちをどうやって思い遣ることが出来るんでしょう。

 学力偏差値が高いだけの無差別殺人犯っていうのは、与えられた価値観に無意識に流されただけの結果であって。本当の自分の気持ちを見失っているから、他人の気持ちもわからない。

 本当の自分の気持ちっていうのは、単なるその場限りの優越感とは無関係な他者と比較不可能な本質的充実感であって。これは単なる入試ビジネスでは構造原理的に蔑ろにされるものなのです。




 入試ビジネスっていうのは、生徒自身の本質的自発性なんてどうでも良くて、単に偏差値の高い学校に受かれば良いだけですから。生徒が通り魔になろうが原発の危険性をほったらかそうが知ったこっちゃないんですよ。個体の生存価ばかりを追求した結果、社会の持続可能性や安全性が後回しにされるようになったんです。それを政治のせいにするのは間違いで、市民一人一人の意識の問題なんですよ。

 自制心がない奴が増えたからこそ渋谷のスクランブル交差点の交通規制なんかしなくちゃならなくなる。

 バカが増えると社会は窮屈にしかならない。窮屈な社会に自由はありませんから、益々バカが増えるという「バカスパイラル構造」があるんです。

 スパイラルというのは無意識が作り出す行動バイアスの「結果」ですから、こうしたスパイラルに陥らないようにするためには、市民一人一人が意識的に自制心を持つことが必要なのです。

 子供や部下に精神論的努力辛抱根性を強要したがる文科系大衆観念を捨てないと、社会は崩壊することになるのです。東大野球部だけ良くなれば良いっていう話じゃないんですよ、そこ勘違いしてはいけません。

 その場限りの反射的気分感情っていうのは、必ずしも本質的な「自分の気持ち」ではないんです。当然「心」にもならない。自分の中に刷り込み学習された固定観念的「常識」を疑う論理検証によって初めて「自分の気持ち」を知ることが出来、社会全体への配慮である「心」も養われる。

 東大野球部員の勘違い常識と同じものが、日本人全体に蔓延しているってことを、認識しなければならないのです。




 結論としては、「桑田真澄を見習おう。」って話です。





Ende;
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定義を間違えたままの議論に意味はない。

2013年06月03日 12時56分58秒 | 意識論関連
○感情強度。

 ヒトの多くは、気分感情の強度のことを意識の強度であると「思って」いるが。これは大きな間違いである。

 気分感情という大脳辺縁系が促す動物的な行動バイアスというのは無意識条件反射であり、これは医学的な意味においては「意識がある。」と言うが、これは生物的/動物的な意識機能を指しているに過ぎず。人間としての本質的意識のことを指してはいない。

 医学や生物学においては、生存こそが絶対的目的行動であるが、生存だけを絶対的目的とする限り犯罪であっても正当化されることは不可避となる。

 東京電力で原発の安全管理に携わっていた幹部社員が、保身のために社会的危険性を放置したことも、「生きるためには。」と言い逃れするであろう。

 医学というのは生物的な健康を追求しているだけであって、生物種としての「ヒト」の健全性しか論じることはない。だからこそ犯罪者の多くは「健康」なのである。

 通り魔には医学的意識があり、且つ健康だと見なされるが。これを人間として正常であると言い張ればただのキチガイである。

 時折「心身喪失」などと称して無罪になったりする判例があるが、それなら通り魔は自分自身の行動を自律的に制御出来ているとでも言うのであろうか。臨床心理学上の正常性というものは決して科学的根拠を伴うものではなく、臨床心理学上での規定、「見なし」に過ぎない。

 そもそも司法裁判が下す懲役罰というものが、再発再犯防止のための合理的根拠を伴わず。単なる被害者感情を根拠に報復感情を満たすことで満足しているだけに過ぎない。



○新自由主義。

 現在の新自由主義というものは、何を競争するのかを選択する自由が失われている。

 「自由主義」と標榜しながら、実際には競争対象自体には何の自由度もなく。既存の価値観に基づいた過当競争を強制されているだけなのである。

 個人が本当に主体的に望んでいる競争であれば、これは社会の多様性を拡げ社会全体を豊かにする可能性を持っていると言えるが。現状は既存の固定化された価値観に基づいて少ないパイの奪い合いをしているに過ぎず、こうした価値観の剛直化こそが殺伐とした貧しい社会を作り出すのである。

 価値観の剛直化の原因は、個人の主体的意志選択の欠如にあり。ただ漫然と多数他人の価値観に迎合服従することしかしなくなっているからである。

 多数大衆が作り出した価値観に迎合しておけば社会が豊かになるという根拠は全くない。多数大衆が作り出した価値観というものは個人が主体的/意識的に選択したものではなく、あくまで多数派迎合という気分的安心感に無意識に「流されて」いるに過ぎず。何ら社会持続可能性や安全性の根拠はない。

 本当の自由とはヒトという種の生物が持つ本能欲望からの解放であり、他者との比較による優位性の妄想からの決別である。しかし現在の「新自由主義」体制というのは欲望経済主導になっており、何ら本質的には「自由」にはなっていないのである。

 本質的な自由とは何かを分別認識出来ないまま、新自由主義を標榜するというのはとんでもない勘違いに他ならない。






○人格否定。

 「人格否定が一番辛い。」という意見があるが、「人格」と「固定観念」は別である。既存の自己に刷り込み学習された価値観は「人格」ではなく、本質的な人間としての「人格」は否定不可能な厳然としたものである。

 例えば原発の危険性を放置することを拒絶する場合、「辛い」などという気分感情の問題にすり替えること自体無意味であり。「辛い」だの「嫌」だの言っている時点で、それは本質的な「人格」について論じてはいないのである。

 無意識に刷り込み学習された価値観を、あたかも自分自身で選択した価値観であるかのように錯覚していることが根源的な間違いの源である。なんとなく無意識に多数派迎合する形で気分的安心に流され続けることで刷り込み学習された価値観を、事後正当化する形で取り繕うからこそ、本当の意味での主体的価値観も人格も認識出来なくなるのである。

 否定不能な本質的「人格」と、単なる個人的好き嫌いの区別も出来ないからこそ、ヒトの多くは本質的な目的をも簡単に見失うのであり。こうした無意識性こそが社会持続可能性や安全性からの意識をも喪失させるのである。

 「人格」というのは自律的に社会的責任を負うという人間性を指すのであって、これを否定すれば、むしろ否定した者自身の人格を放棄することになるのであり。本質的な「人格」は否定不可能なものなのである。


 体罰を繰り返すことを正当化する体育会系顧問なども、彼らは自分達が体罰を無為に受け入れて来たことを事後正当化するために、ヒステリックに「体罰は必要である。」と言い張るのであり。彼らは自分が無為に体罰を受け入れて来たことの否定を、あたかも「人格否定。」であるかのように錯覚しているからこそ、それを受け入れるのが「辛い」が故に拒絶するのである。

 自分の頭の悪さ、本質的には自己自身で選択していない成育環境から刷り込み学習された固定観念的価値観というものを、あたかも個人の人格であるかのように錯覚する習性がヒトにはあるため。むしろこうした固定観念こそが本質的な人間としての「人格」を喪失させる原因となるのである。

 オウム真理教幹部達が、教祖の命令を絶対であると勘違いし、自分達が命懸けで毒ガスを製造の「努力」を事後正当化する形でテロは実行されたのである。こうした「努力」というものは、言い換えれば「脳が鍛えられた。」ことの結果であり、努力辛抱根性的精神論によって脳に固定観念を植え付けることを「鍛える」と称して、むしろバカになっているからこそ自律的制動が全く効かず、暴走という結果を招くことになるのである。

 固定観念を事後正当化する話の方が大衆人気を得やすい。だからこそ養老孟司だのオカルトペテン占い師は人気がある。

 今までずっと続けてきたことを漫然と続け、あたかも論理的合理性に基づいた意識的選択による安全性であると勘違いする性質によって、安全と安心の履き違えをしておいた方が、自分の頭の悪さを認識せずにいられるために気分が良いのである。

 個人の内部における価値観というもの、好き嫌いというものには。成育環境から刷り込み学習された「文化」的強迫観念と、主体的に選択された本質的価値観というものの2種類があり。ヒトの多くは本能習性的に多数派によって刷り込み学習された「文化」の方を「社会性」であると錯覚する習性がある。

 自分が多数派迎合を優先している場合、多数派迎合こそが同質性均質性による気分的安心をもたらし、主体的な好き嫌いといったものの価値観を忌避するようになるのである。

 皆で仲良く自律がなければ安心であろう。バカ同士でバカを正当化しておけば本能的「社会性」を満足させることも簡単であろう。

 こうした簡単な行動バイアスに無為に流されているから、人類はいつまでもバカが治らないのである。


 人間としての「人格」というものは、「自律的に社会的責任を負うこと。」であって。「皆で仲良くバカになることで安心すること。」ではない。

 ヒトの多くは集団内部の外見的な均質性を、あたかも規範意識による抑圧的制御であると錯覚する。しかし、これは多数派による他律抑圧でこそあれ、自律には全くつながらない大衆観念的妄想に過ぎない。

 自律とは、本質的な自発的「選択」によって初めて促されるものであって。成育環境によって無意識に刷り込み学習されたあらゆる価値観好き嫌いといったものの全てを常に自己検証しておかなければ、本質的な自発性とは何かすらも認識分別することは出来ないのである。

 ひつこく述べるが、自分の遺伝子を自己選択していない以上、その遺伝子から作り出された脳も、その脳に社会や時代から刷り込み学習されたあらゆる価値観も、これは本質的には自己選択を介していない。

 本能的な強迫観念的多数派迎合による価値観というものを、「人格」であると勘違いして事後正当化しておいた方が気分感情的には楽であろう。

 自分自身が自律的な社会的責任判断が出来ないことを根拠に、他人にも規範意識的な強迫観念的抑圧を強制しておいた方が気分的には安心で満足であろう。

 しかし自律でない以上、多数派からの強迫観念的抑圧というものは、衆人環視下以外では全く無意味なのである。

 だから原発の危険性は放置されたのである。

 税金の無駄遣いも、振り込め詐欺も、無差別テロも、これらは集団内部に自律が全く働いていない故の結果であり。あらゆる「人災」の全ての根源には自律の欠如が潜んでいるのである。

 ヒトという種の生物がバカなのは天災であると言えるであろうか。克服可能性があるにも関わらず、単なる気分感情的怠慢が原因であるからこそ「人災。」なのであり。論理的合理性に対する本能気分的拒絶反応こそがあらゆる「人災」の根源なのである。

 ヒトの多くは気分感情の強度こそが意識強度であると勘違いする傾向がある。傾向というよりもほとんど全員が自分の気分感情こそを意識の本質であると思い込んでいる。

 自分の気分感情の根源が、一体何に由来しているのか。単なる自分の多数派迎合性を事後正当化するための強迫観念的拒絶反応に過ぎないのか、それとも論理的合理性に基づいた自律的判断であるのか。それを多くのヒトは自己検証することなく、漫然と無意識に、条件反射的に他者にも強制するのである。

 何せ気分感情に由来する行動バイアスであるために、その強制性は極めてヒステリックとなり。冷静さは伴わない。

 それに対して本質的な合理性に基づいて意識的に選択された行動というものには、感情がほとんど伴わないため、意見としての強制性も伴わない。そもそも自律判断というものは他者に強制されたものではないため、他者に強制することも構造的にないのである。

 つまり、感情的でヒステリックな強制を求めている時点で、そいつには自律というものが全くないことの顕れであると言えるのである。

 しかし、ヒトの多くは本能的な社会形成習性を先天的に持っているために、感情的でヒステリックな強迫観念的強制性ほど無為に受け入れてしまう性質がある。

 平たく言えば、「相手がヒステリックなモンスターである程服従迎合してしまう。」のである。

 ヒステリックなモンスター相手に論理的指摘はほとんど役に立たないため、気分感情的には服従迎合しておいた方が楽なのである。

 なにせ、「俺が謝ったのは、あんたが怒るからだ。」などと言い出すキチガイも少なくない。とりあえず謝っておけば相手のご機嫌取りが出来るから謝っただけであって、自分が悪いとは一切思ってもいないから、何度でも同じ過ちを繰り返すのがモンスターというものである。

 「自分だけは絶対に大丈夫。」だと、多くのヒトは勘違いして満足する。気分的に満足さえしておけば安心だからであり、こうした気分感情による思考バイアスこそが論理的自己検証性を喪失させ、結果的に社会安全性が喪失することに陥るのである。

 原発技術者の多くは、未だに「失敗を教訓として活用する。」などと言い張るが。経験した工学的失敗以外は教訓として活用することは出来ない。原発だけは「絶対に100%安全でなければならないもの。」であって、失敗を繰り返して安全性を高めるなどという行動学習的教訓というのは、言い換えれば「殺人を何度か繰り返すことで、殺人の可能性を低くする。」と言っているようなものである。

 現実には、殺人犯を何度懲役刑に処しても再犯率は極めて高い。

 航空機事故の場合、乗る方の自己責任に委ねる部分も少なからずあるが。原発事故に関しては地球規模での汚染を引き起こすものであって、自己責任の範疇には収まらない。

 「原発の危険性を経済効率と秤にかけて多数決で決定する。」などと自律判断放棄するようなキチガイを。ヒトの多くは「理性的」などと勘違いするであろう。自律判断しない多数に決定を委ねることは、単なる責任放棄であって、無責任に過ぎないのである。

 形式上は民主主義制度を導入している日本においては、最終決定が多数決になるのはやむを得ないものであって。経済効率と秤にかけている時点で、「社会安全性を優先していない。」という意味である。

 ヒトの多くは、こと金の話になると絶対に優先されるべきものであると錯覚しがちであるが。現在の経済構造や金融システムというものの構造的問題点すら指摘出来ない経済学者の言っていることなど信用するに値しない。





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