書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

教えて頂きたいこと

2020年05月30日 12時19分14秒 | 意識論関連

香港の民主化活動家達が国際社会に救助を求めているんだけど

デモと称して暴動なんぞやらかしているから警察による暴力的制圧を正当化されているのであって

民主化デモだからって暴力破壊が正当化できるわけじゃないだろ

周庭さん達が「暴動はやめて」って言わないとダメなんだと思うが

ヒトってのはどうしても暴力破壊で「革命」を起こそうとする性質があって 「懲罰(暴力)で相手の恐怖心を利用して屈服させる」ことを「解決」だと錯覚する先天的習性がある

ハマスとシオニストによる暴力の応酬も解決に全く貢献しないばかりか それによってむしろ悪化しか招かない

彼らが暴力で解決しようとするのは 彼らの主観的感覚であり ヒトという種の生物の先天的本能習性が原因なんであって 理性が欠けているから暴力などという不毛で非合理な行動に陥る

カントによる論理整合性のない純粋理性批判論を鵜呑みにし 頭ごなしに「理性は利己性」という短絡的解釈だけを根拠に「理性よりも主観や感覚が重要」などという非論理的主張で生物学界や哲学界は自分達のパラダイムを事後正当化し既得権を温存しようとしている

理性自体は本当は人畜無害であり 大脳辺縁系を損傷した人は別に利己的行動選択をするわけではない

むしろ大脳の前頭葉を損傷した場合にこそフィニアス:ゲイジのように利己的行動に陥るのである

事故で人間性を損傷した場合に罰を与えて「解決」するのは人道に反する行為だと認識可能だが

生育環境が悪いことで人間性を損傷しているクソDQN相手に罰で解決することに対しては誰も人道に反するとも合理性がないとも「思わ」ない

「思わ」ないというのは主観である

感覚的に「クソDQNは殴っておけ」という短絡的発想に理性が欠落し 人間性や倫理を喪失していることに気付くことができない

それを「バカ」と言う以外に形容詞があるなら むしろ教えて頂きたいくらいである

 

Ende;

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

上っ面な人間性

2020年05月28日 15時53分05秒 | 意識論関連

「死にたくない」というのは主観です

主観である以上どんなに強く「思って」も客観的には目的の論理証明にはなりません

脳を持つ生物というのは進化の過程で「死にたくない」という行動バイアスを持つようになりました

それは「死にたくない」と思わない個体種の全てが淘汰された結果に過ぎず 遺伝的進化におけるシーケンシャルな結果以上の意味はないのです

「死にたくない」と「思わ」ない個体種の場合 天敵に襲われても恐怖を感じないため 簡単に捕食されて死滅します

ですから より「死にたくない」と強く「思う」ような行動習性バイアスを持った個体種への淘汰圧力が働き 結果的に「死にたくない」と強く思うようになるわけです

遺伝的進化というものは 計算機上でのシミュレーションでも再現可能なものであり それはつまり機械的にシーケンシャルの生ずる単なる自然現象に過ぎないことを意味するのです

ヒトの先天的な行動バイアスの中には 暴力や懲罰を短絡的に解決だと錯覚する性質も含まれています

自然界の過酷な生存競争環境においては暴力性は必然的で合理性があると言えますが 人間社会においては意味が全くありません

たとえ凶悪な殺人犯やテロリストであっても 死刑にしておけば合理的な再発防止になるわけではないからです

錯覚というのは 進化の過程で何らかの必然性によって生じた主観的感覚が引き起こすものであり 客観的論理検証によって錯覚を錯覚であると認識できれば間違った認識に惑わされることはありません

ヒトが引き起こすあらゆる「人災」の多くは 主観的感覚が引き起こす錯覚などの誤認が原因です

「刑罰判決で解決だ」とか「地下鉄に毒ガスを撒き散らすことが人類の救済だ」などといった錯覚による誤認識によって ヒトは間違いを放置し 漫然と間違った行動に邁進し続ける習性があります

ヒトは間違えるものです

生まれてきてから一度も間違いを犯したことのないヒトなどというのはいません

間違えるという性質はヒトから取り除くことは出来ないのです

でも 同時にヒトというのは間違いを繰り返さないように工夫することもできます

こうした「工夫」というのはAIにはできないんですね

そもそも間違いなのかどうかはディープラーニングAIではヒトが予め「これが間違いで これが正解だよ」と大量の情報を与えて「学習」させる必要があり AI自身は間違いかどうかを自発的に認識することは出来ないのです

多くのヒトというのはこの世に産まれてからずっと「刑法判決で解決だ」という社会制度の中で育ってきているために これを「学習」する形で「そういうものである」と論理的根拠もなく鵜呑みにしてしまっているのです

でも ヒトはAI程バカではないので 真摯に論理検証すれば「刑法懲罰では本当の解決としての原因究明や再発防止にはならないぞ」と「気付く」ことも可能となるのです

東池袋プリウス暴走事故のご遺族である松永莉子パパも「再発防止を優先して欲しい」との見解を出されるようになりました

本気で何かを考え 論理的に検証すれば 何が本当に必要なのかを導き出すことは可能ですが

ヒトの多くは目先の感情に流され 既に刷り込み学習された「常識」に惑わされ 多数派に引きずられ 「本当のこと」を見失い 「こんな奴は死刑にしちまえ!」と怒鳴り散らすタレント同調して満足して終わりになってしまうのです

「本当のこと」とは「真理」のことです

なぜ哲学が重要なのかと言えば 間違った認識による間違った対策に陥らないために必要だからです

哲学というのは 妖怪悪霊の類いを信じておまじないでどうにかなるという訳のわからぬ「対策」に陥らずに 合理的で実効性のある対策を見極めるためのものであって 訳のわからぬ話を漫然と鵜呑みにしていて哲学もスッタクレもあったものではないのです

 

目的とは何か

目的とは論理的道筋を立てて行動選択を行うためのものであって その場限りの主観的感情に流されてしまうと見失うことが多いからこそ 「目的意識を持て」と言われるのです

パリピだのクソDQNは酒や薬物や暴走暴力行為で脳を麻痺させてヘラヘラ笑うことが「目的」ですが それで満足することはないため 気に入らないとすぐにブチギれたりします

バカ同士で同じ観念を共有しておけば その場限りには満足できるため その満足の中毒によって必死になって迷惑行為に邁進するわけです

生物学研究者の中には 研究費も出ないのに自費で砂漠の真ん中まで行って日がな一日中トカゲを探して穴掘りに汗を流す者がいますが 虫一匹見つからなくても「楽しい」と言います

でも パリピやクソDQNみたいにヘラヘラは笑っていないんですね

他人から見たらむしろ修行みたいですけど 本人は主観的に楽しいんですね

どちらにせよ すぐには何かの役に立つわけではないんですが 砂漠の真ん中でトカゲが見つからなくても「そこでトカゲは見つけられなかった」という科学的検証の一環にはなる

生物学研究というのは現地での実地検証が最も重要で 並外れた忍耐力が必要ですが 主観的に「楽しい」という個人的な「好き」という感情が伴えば 外見上修行みたいな過酷な研究であっても「楽しむ」ことができるのです

ところがクソパリピやDQNというのは目先のバカ同士で騒ぐことの中毒に過ぎないため 簡単に禁断症状に陥り訳のわからぬ迷惑行動にも暴走するわけです

忍耐力というものがない

本当は心の底からは「楽しめ」ていないからです

「心の底」から楽しいことというのは 他人に依らず主体的で個人的に楽しめるかどうかに関わるものであり これが「純粋行為」というものです

ところが 科学研究者や哲学者の中には他人からの評価承認欲しさにやっている奴がおり 研究自体を楽しむことが出来ずに大衆ウケの良さそうな嘘でも平気でつくバカが後を絶ちません

論文捏造もそれが原因です

京大学長の山極寿一は「ヒトには先天的に人間性が存在するはずだ」などという非科学的オカルト観念を公言して文科系マスコミからの人気を得ていますが これは科学的には立証不可能な「嘘」でしかありません

ヒトという種の生物に先天的な人間性が存在するというのであれば なぜ原発の危険性は放置されたのでしょうか

それを「環境のせいだ」と言うのはおかしな話で 人間性というのは「個人が自律的な社会的責任を負う」ことでしか立証不可能なものだからです

先天的な習性の全ては環境依存的な結果でしかありませんから そこには自発性とか自主的自律といったものが全く論ずることが出来ないわけです

したがって 動物の先天的な本能習性からは人間性を立証することは構造原理的に最初から不可能なのです

「東電社内という環境下では自律的な社会的責任判断が出来ない」というのでれば それは人間性でも何でもないでしょ

それを主観的に「かわいそうだ」といくら「思って」も 自律なくして人間性を語るこた不可能なんですよ

たとえ自分の生存にとって不利な状況に陥る可能性があるとしても 社会的な責任を優先してこその人間性や倫理なのであって 環境や主観に左右されていて人間性や倫理を語るこたできないわけです

生存というのは あくまで「結果」ですから 先天的疾患などによって繁殖能力や生産能力がないから社会から要らないという話にもなりません

存在としての意味は 生存価にはないのです

ただ「生きて」いさえすれば良いというのであれば 別にヒトである必要性すらなくなります

ゴキブリで充分という話になってしまいます

それで良いんですか?

良いわけないでしょ?

ヒトが社会における存在価値として必要なのは 倫理や人間性であって 次世代に社会を受け継ぐことがままならないのであれば 自己の存在にも意味はなくなるのです

何をやっても意味がなくなる

どんなに旨い飯を食っても そんなもんただの味覚中毒でしかありませんから そんなもん存在の意味には全くなりません

3歳の子供が路上で車に轢き殺されていたら 飯の味なんぞ何にもわからないのが「人間」というものです

もし これが「他人事だ」と無視できる奴がいたとしたら そいつのこと人間として見れますか?

そういう奴になりたいっすか?

まあ 「なりたいかどうか」は所詮主観に過ぎませんから アグネス・チャンがロリコン嫌うのと同じようなものなんですが

子供という次世代が無為に死んじゃう社会というのは持続可能性が著しく欠けていますから 自分が何をやっても意味がなくなるんですよ

それは論理証明可能な存在意義として成立します

 

個人の内部に存在する 様々な主観的価値観の中から 統合的に論理検証して最も重要な「目的」とは何かを導き出せば 自ずと人間性や倫理が最も重要であることは不可避なのです

主観というのは様々で「かわいいおねいちゃんのおパンツ脱がしてアレコレしてみたい」と思うのも主観だし 「クソDQN殴り殺したい」と思うのも主観だし 「何にも理解できないバカ相手に哲学とは何かを説明すんのめんどくせー」と思うのも主観ではあります

でも それらの主観が暴走するのを制御するのが理性であり 目的意識を持って行動すれば「めんどくせー」かどうかはどうでも良い個人的感想に過ぎないわけです

ですから人間としての意識の主体は客観的論理検証性という理性であって 主観ではないのです

理科学研究所の研究者に対し 「論文の捏造をするのはやめましょう」などという幼稚園レベルの「教育」をして満足しているのが野依良治です

主観的には満足しているから 野依にとってはそれで充分だと主観的には「思って」いるんでしょうな

ノーベル賞受賞者だからといって全員がマトモだとは限らないんですね

中にはボケジジイもいる

大衆観念的には「おパンツ脱がしてアレコレしてみたい」なんて言い出す奴なんか信用したくないんでしょうけども それこそが大衆観念(主観の多数決)であって「雑念煩悩のない全人的聖人君子がどこかにいるはずだ」という 一種の「超人」幻想に基づいた根拠のないバイアスに過ぎないわけで むしろ雑念煩悩を隠蔽した表面的な偽善者の方を信じたがるからこそ簡単に詐欺に引っかかる

ヒトは誰しも雑念煩悩があって 男なら大抵 女子高生がミニスカートで高い所に立ってたら ウッカリ無意識におパンツを覗きこもうとしてしまうこたよくあることであって そこにブレーキがかかるかどうかが人格性なわけです

自分の親族の娘が どっかのエロオヤジにスカート覗かれたら蹴り飛ばしたいと思うのならば 自分も他人の娘のスカートは覗きこまないようにするのが人格というものです

目先の主観的感覚や先天的行動習性に流されていると人間性を喪失しがちです

だから論理的に「考え」て やって良いことと悪いことを分別し 自律的にブレーキをかけることが人間性や倫理の証明なのです

大脳辺縁系を損傷して理性だけが純粋な状態では何も決めることや選ぶことはできませんが 本能だけでは暴走にしかなりません

あくまで理性が本能習性を制御している状態において人間性が発揮されるのであり 理性はそもそも暴走することはないのです

理性が働かない状態では野獣のような行動しかしませんが 理性しか働かない状態ではパソコンみたいな行動しかできなくなります

パソコンは放置しておいても何もおきませんけど 野獣は危険でしょ

ですから「主観が大事」なんていうのは野依良治の根拠のない妄想に過ぎないわけです

バカ哲学者達は「利己的行動=理性」などという論理的根拠のない勝手なこじつけで大衆や文科系マスコミ関係者や野依良治を丸め込んでいますが

そんな嘘は簡単にバレます

バカじゃなければね

バカじゃどうしようもねぇわw

 


Ende;

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

新型コロナウイルスの消毒

2020年05月27日 21時58分14秒 | 日記

新型コロナウイルスの除染にはアルコール以外の効果が判明していなかったため

いままで除染にはアルコールが推奨されていたんだけど

最近になってベンザルコニウムクロリド(界面活性剤の一種)でも充分不活性化ができることがわかったそうな

まあ アルコール除菌シートにもベンザルコニウムクロリドってのが大抵入ってるんだけど ノンアルコールの除菌シートでも充分除染ができるそうな

コロナウイルスやインフルエンザウイルスってのはRNAウイルスっていうものなんだそうだが 細胞膜を全く持たず 油の膜で覆われているだけなんだそうなので石鹸や中性洗剤の主成分である界面活性剤の分子が触れただけで簡単に分解して活性を失うんだそうな

飛沫を防ぐために利用されているアクリル板はアルコールで拭くと劣化してヒビだらけになってしまうので 中性洗剤で洗った方が良いらしい

 

あと マスコミも感染症の専門家も「手を洗え」とは言うものの 家の外で手に触れたもの全ても本当は洗うべきだと思うのだが

どういうわけか誰も「家の中に持ち込んだものを洗え」とは言わず 「心配なら水か洗剤で洗うと良いでしょう」なんつうユルいことしか言わない

「心配なら」って なんだ 気分の問題なのか?

心配じゃなかったらウイルスが消えるのか?

違うだろ

 

Ende;

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

嘘をつくのはやめましょう

2020年05月26日 18時08分26秒 | 意識論関連

ヒト以外の生物には目的がありません

ゴリラが先天的情動行動のままに行動して その先に何かを実現しようという目的があるわけではないのです

それは実は生物種としてのヒトにおいても それだけでは目的はないのです

目的というのはヒトの個体個人において実現しようとする行動を意味するのであって 種としてのヒトには目的がないことは他の生物と同じなのです

物事を自発的に何も考えずに 環境依存的に行動してしまえば 地下鉄に毒ガスを撒き散らしたり 障害者施設に包丁持って押し入ったりするようになることも珍しくはないのです

それは「身長170センチ前後の脳が肥大しただけのサル」でしかありませんから 成体のチンパンジー同様非常に危険な動物でしかありません

ちゃんと自発的に物事を「考え」 論理的に主体的目的意識を持って行動選択していれば こうした迷惑行為に邁進するようなことにはならないのです

だから教育においては主体性や自主性といったものが重要だと言われているわけです

ヒトという種の生物であっても必ずしも人間性を発揮するわけではなく 主体的自律的に行動選択することができなければ野生動物と何ら違いはないため 凶暴性を発揮して犯罪や戦争を引き起こしたりするようにもなるのです

 

生物やその遺伝的進化というのは水の流れのようなものだと言えます

川は地形や地質という環境によって流れが決定するわけですが 川として流れる水自体に目的があるわけではありません

水は単に重力による位置エネルギーを消費する形で高いところから低い所へと流れた結果として河川の形が決定しているに過ぎません

生物やその遺伝的進化であっても 河川よりも複雑ではありますが 別に意図に基づいて「こうなろう」という目的意識に基づいて「生きて」いるわけではないのです

生物の多くは死なないように行動しますが これも結果的に死ななかった個体種の性質形質として遺ったに過ぎないのです

死なないように行動しない習性を持った個体種の全てが死滅絶滅した結果 死なないように行動する習性を持った個体種だけに淘汰されたという「結果」ですから 「生存にとって必然性があり 合理的」なのは当然の話なのです

そこに目的があるわけではないのです

河川の多くは海に到達しますが 別に河川の目的は海に到達することではなく あくまで「結果」に過ぎないのです

河川は 地形や地質によっては合流したり 分岐したり 曲がりくねったりもしますが こうした複雑さというのは物理法則に則ってシーケンシャルに生じているに過ぎません

それは遺伝的進化においても同じで 生物進化というものもシーケンシャルに複雑化しているだけであって どんなに複雑で「生存にとって合理的」であっても それは「死なずに済んだ」という「結果」以上の意味があるわけではなく 意図意識的な目的が存在するわけではないのです

 

自然界の生物における行動習性に対する合理的必然性というものは あくまで「生存価」の必然性であって そもそも「生存価」自体に目的がない以上 必然性自体も「結果」的なものに後から生物学者達がこじつけた「説明のための説明」でしかありません

ヒト個人が主観的に「死にたくない」という感情がどんなに強くても 情動である以上先天的に組み込まれた行動バイアスでしかなく 情動の強度程度が短絡的に「ヒトの目的」や 更には「人間の目的」の論証になるわけでもないのです

ヒト個体個人において目的を持つことは可能で それは個人それぞれの主観的目的があれば それを実現する上において社会全体の安全性や持続可能性にも配慮ができるようになり これが結果的に人間性や倫理として働くわけです

先述のように そうした主体的目的がないヒトの場合 社会安全性や持続可能性に対しての配慮が著しく欠けた行動選択を平気でするようになるのです

他人からの評価に依らない「自分が社会の中でこういうことを実現したい」といった主体的な純粋行為があれば それを実現するためには社会が安全で持続可能性がなければならないため 結果的に倫理や人間性として機能するようになる

理科学研究所における不正論文の捏造も 他人からの評価を優先し 本当に純粋に実現したいことがないからこそ平気で嘘もつけるようになるのです

 

生物学における「社会性」とは あくまで「統率的な協調行動や役割分担を行う」ことであって それが短絡的に人間性を伴った「社会性」の論証には一切なりません

統率的協調行動であればナチス政権下におけるユダヤ人大量虐殺や振り込め詐欺においても機能するものであり ヤクザやマフィア組織なども統率的協調行動性によって体制を維持することが可能となるのです

従って統率的協調行動や役割分担さえすれば人間性や倫理が伴う「社会性」の論証には全くならないばかりか むしろ先天的本能習性としての生物学的な「社会性(社会形成習性)」というのは人間性や倫理に反する行動の大きな要因ともなるものでもあるのです

社会形成習性も含め先天的本能習性というものは ヒトの個体個人が主体的に「選択」したものではなく あくまで祖先が死なずに済んだ行動習性が遺伝的に遺ったものに過ぎず これは人間としての意識とは全く異なるものであり 先天的本能習性というものは無意識に分類されるべきものなのです

イヌやサルは先天的本能による行動習性バイアスが行動に直結しており 故に危険なために首輪をつけてリードで繋いでおかなければならないわけです

ヒトにおいても先天的本能による行動習性バイアスが行動に直結していたら非常に危険なことに代わりはなく 何をしでかすかわからない人は何らかの形で隔離しておかないと危なくて生活がままならなくなってしまいます

人間としての意識 倫理というものが働かないヒトというのは非常に危険で 本人が直接暴力行動を採らないとしても 地下鉄に毒ガスを撒き散らす指令を出したり 非科学的オカルト話などの嘘で大衆を騙すことも平気でやらかします

アオリ運転だのヘイトスピーチだのSNS上での根拠のない誹謗中傷やイジメをするヒトというのは おそらく養老孟司やフリードリヒ:ニーチェの著作に何の疑問も持たないバカだからでしょう

そういうバカはそこいらへんに大量にウジャウジャいますから 世の中というのは非常に危険な状態で だからこそ子供が何人轢き殺されても刑罰で「解決」にされて具体的で実効性のある再発防止対策が自動車メーカーだけに丸投げされていて 公的な社会制度として全く存在していない状態が漫然と放置され続けているわけです

それに対して多くのヒトは「怖い」と思いません

恐怖などの「思う」とは感情であり 先天的行動バイアスであって それ自体は人間としての意識の本質ではありませんから 危険性が放置されていても「怖く」ないという非常に合理性の欠いた行動バイアスに基づいた社会制度であっても平気で放置され続けてしまっているのです

こうした危険性放置というのは原発における津波に対する脆弱性放置における構造でも見られたものです

気分的に「怖くない」ことによって合理的な安全性が蔑ろにされてしまうという習性が ヒトという種には普遍的に見られるわけです

ですから ヒトという種の生物には先天的に人間としての欠陥が存在していることを前提として対策を立てなければならないのです

 

ヒトが戦争をするのは それが祖先において生存にとって有利だったからでしょう

統率的な暴力集団の方が そうでない集団よりも生存にとって適していたからこそ ヒトは戦争などの暴力に陥りがちだと言えます

祖先とは言っても ヒト科ホモ・サピエンスになる以前も含めての話ですから ほぼゴリラやチンパンジーみたいな状態から受け継がれている性質であり そんな野蛮な野生動物時代の習性は誰も望んで選択しているわけではなく あくまで個人の預かり知らぬ祖先の「結果」でしかなく これは到底個人の「意識」や「目的」とは無関係な動物的行動バイアスであって 無意識レベルの習性でしかないのです

野生における生存価において暴力は必然性がありますが 人間社会においては必然性がありません

たとえ殺人犯や傷害犯であっても「こんな奴は死刑にしちまえ!」と短絡的処分で満足することには社会的合理性はないのです

そりゃ 私個人的には「糞DQNは死ね」と「思い」ますけどね それは私個人の主観的な意向であって 社会的には意味なんぞありゃしません

社会的には「何がどうなったら迷惑な糞DQNになっちまうのか」についての徹底した調査検証を行い 原因から改善していくことの方が実効的には意味があると言えるのです

その選択をするのは理性であって 感情だの主観だの行動習性ではないのです

ですから 理性こそが人間としての意識の本質であって 理性なくして合理的な問題解決は出来ないのです

目先の感情に流されてしまうと 本質的な問題解決から遠ざかってしまうことは珍しいことではありません

だからこそ「目的意識を持て」とわざわざ言わなければならないのです

キチンと物事を順序立て より合理的で実効性のある問題解決策は何なのかを見極める理性こそが 人間としての意識であり それなくして人間性も倫理もスッタクレもあったものではないのです

野依良治のジジイが腹を立てて「主観が大事」などと言い出し 大学入試での不正を糾弾しても それは野依のジジイの主観でしかありません

不正をやらかす大学職員達の主観には それが問題だとすら「思って」いないのであって 主観的な「思い」の強度程度には普遍的な合理性など存在していないのです

大学入試でコソ~リと不公平に不利にされ 本当は能力が優れている可能性があっても性別が女というだけで要職から除外されていれば社会的資源として無駄になるという理性が働いていれば 入試で不正など起きるはずもないのです

社会全体の利益を考えずに 自分達が所属する集団組織の利益だけを優先することは 人間として許されることではありません

もう何度も繰り返してますけど あの原発事故の最も根源的原因というのは「組織の利益を優先し 個人が自律的な社会的責任を負わなかった」ことだと国会原発事故調査委員会報告書に載ってるでしょ

それとも何ですか 原発事故は主観でどうにかなるとでも言うんでしょうかね 事故調査ってのは徹底した論理的原因究明の上に成り立つものなんですよ それを「主観が大事」などという論理的根拠もないボケジジイの勝手な物言いで覆されていたのでは話にならないんですよ

そんなクソボケジジイが理事なんぞやっているから理科学研究所から不正論文が出てきたりするんでしょうが

不正論文への対策が「論文を捏造するのはやめましょう」などという「教育」で終わりなどというのはボケているとしか言いようがないんですよ

もう腹が立ってきたので今日は終わりだ!

 

Ende;

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

アクリルをアルコールで拭くとこうなる

2020年05月26日 11時26分19秒 | 日記

 

フリッカーが凄いけど

 

Ende;

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

松浦健二

2020年05月25日 17時59分50秒 | 意識論関連

京大教授の松浦健二は「ヒトの先天的行動習性には合理的必然性がないのは 理性があるからだ」と言うのだが この話には合理的根拠が全く欠けている

単に「ヒトの先天的行動習性には合理的必然性がない」原因を「理性があるからだ」と決めつけているだけであって 論理の飛躍も甚だしく 到底科学的論証にはなっていない

犯罪や戦争といった非合理な行動習性であっても「個体数を制限するため」とこじつけることは可能であり そもそも自然界における生物の形質に対する「合理的必然性」の全ては「結果」に対するこじつけでしかないのである

生物には「目的」があるわけではなく あくまで結果的に生存していたに過ぎない生物という「結果」に対して生物学者達が後から合理的必然性をこじつけているに過ぎず ヒト以外の自然界の生物には意図的目的など最初から存在しておらず「ヒト以外の自然界の生物の行動習性や形質には合理的必然性がある」という前提自体から間違っているのである

シロアリが繁殖するのは目的があるからではなく 単に繁殖する性質を持った個体種への淘汰の結果に過ぎない

動物の場合には行動習性があるため あたかも意図目的に基づいて行動しているかのように錯覚しがちだが カビが生えるのに目的があるわけもなく 地層内部で嫌気性細菌が繁殖することにも目的はなく それはシロアリでもチンパンジーでも西ローランドゴリラでも同じことである

自然界の生物における進化であっても その先に合理的目的は必然性が存在するのかと言えば 別に特になく 長い生物史の中では幾度も大絶滅という破綻も起きているのであり どんなにその場限りの合理的必然性をこじつけても絶対的必然性の論証には全くならないのである

それとも「生物は大絶滅することを目的として大繁殖している」とでも言うのであろうか

こうした自然界の「結果」だけを絶対的なものだと勝手に勘違いしているからこそ NHKの解説員室山哲也が「人類は絶対に絶滅します」などと勝手な決めつけを科学的論証だと錯覚して言い張るようになるのである

自然界の生物というのはマクロな視点から見れば地球上に生えたカビみたいなものに過ぎず そこに合理的必然性を伴う「目的」があるわけではない

ヒトは主観的にそれを「素晴らしい」と称して絶対的目的があるものだと妄想しがちだが  客観的にはそんなものは存在しないのである

ただ 現在の生物環境というのはヒトが社会を維持する上において保全する必要があることは確かではあるが それとて50億年後には全て無駄になることが確定しているのであり 絶対的なものではない

ヒトが50億年後に何がどうなっているのかは想像もつかないが それは50億年後のヒトが考えることであって 今現状においてヒトが求めるのは社会持続可能性という安全性に基づいた行動選択であり これは暫定的であれ人類としての「目的」である

しかしチンパンジーは社会持続可能性など考えもせず 目先の欲望を満たす以外の行動は一切行わないのである

それは「個体の生存価においては合理的必然性がある」と説明することも可能だが それならヒトが詐欺行為を働いたり略奪強盗であっても「合理的必然性がある」とこじつけることも正当化が可能となるのである

「懲罰感情によって暴力者を排除する」というのは大衆の勝手な妄想錯覚であり 懲罰感情というのはSNS上のイジメやヘイトスピーチ 更にはホロコースト(大量虐殺)の原因でもある

ヒトがその先天的な社会形成習性により 統率的協調行動によってきゃろらいんちゃろんぷろっぷきゃりーナントカちゃんへの誹謗中傷を行うことに合理的必然性など存在せず 単にヒトという種の生物における「人間性の先天的欠陥」が暴走しているに過ぎないのである

先天的欠陥が存在しているのは進化(変異)の結果に過ぎず その原因を「理性があるからだ」というのは科学的論理として全く成立しておらず 生物学界の従来のパラダイムを事後正当化するための言い逃れはぐらかしごまかし嘘でしかないのである

 

 

Ende;

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

論理客観的論証なくして社会安全性など担保できない

2020年05月25日 13時46分21秒 | 意識論関連

「闇もこちらを見ている(フリードリヒ:ニーチェ)」などと称して主観的に怖い話や嫌な事柄を考えないよう誘導する洗脳の一種である

「闇」が具体的に何なのか 一体何にどう「気をつけなければならない」のかも具体性がなく 何の応用性もないのだが

雰囲気的に「かっこいい(主観)」ために大衆人気がある

原田まりるは「センター性がある」などと評したが そんなもん原田の主観であって哲学としての論理客観的評価には全くなっていない

フリードリヒ:ニーチェというのは基本的に主観で物事を決めつける話ばかりで 論理的根拠に基づいた論証はほとんど全く出てこず 主観的な文学芸術の類であって客観的論理検証を伴う哲学ではない

ところが大学ではニーチェは哲学として扱われており バカ学生の誰もそれが哲学ではないことに気付かないばかりか 何百万円もの奨学金(借金)をしてまで学ばされているペテンにも気付くことはない

哲学というのは「考える」ことであって 客観的論理検証が伴わなければ哲学ではない

しかし 大衆の多くは主観的感覚としての「悩ましさ」だの「恐怖」を基準にしているため 客観的論理検証を放棄し 思考停止の洗脳状態に簡単に陥り オカルト話を哲学だと勝手に勘違いし その多数人気だけで鵜呑みにするというバカげた勘違いに気付くことがない

闇もこちらを見ているから「気をつけなはれや〜(チャン:カワイ)」程度の話など 安いメタボ芸人レベルでも言える話であり

「気をつける」と称して主観的に怖い話や嫌な話について考えなくなるよう誘導し 論理検証することを放棄して満足するための言い逃れに使うことが可能である

哲学というのは客観的論理検証であって 主観的感覚を徹底的に排除することからはじまるものである

主観的な「思い込み」や「世間の多数派の常識」に惑わされずに自律的に客観的論理検証をして はじめて「哲学」なのであるが

世間大衆の大多数は自分の主観的思い込みや世間の常識に対して疑うことを嫌い その恐怖心から何も「考え」なくなるのである

だからこそ「哲学」という客観的論理検証が重要であり 社会的に必要なのだが その「哲学」界がニーチェだのマルクス:ガブリエルだのマイケル:サンデルといったペテン師の多数人気で撹乱されているのが現状である

その人気を支えているのが権威に無批判なバカ学生や文科系マスコミ関係者達による多数決であり 誰一人としてその嘘を見抜くことが出来ない

 

文科系評論家というのは自分の主観的感覚を絶対だと信じ込んでおり 他人を主観的にしか評価しようとせず 他人の話に論理的反証もせずに少数派であることや他のオカルト学者達の文脈との類似点だけを論拠に反証にすり替えるというペテンを平気でやる

何せニーチェを哲学だと勘違いしているバカであるから 主観こそが絶対だと信じ込むことは簡単である

ニーチェが哲学ではないことを現状の哲学界の誰も主張しない時点で 既に現状の哲学界は哲学としての社会的役割を完全に放棄しているのである

哲学が哲学としての社会的役割を放棄しているからこそ 生物学における誤謬も放置され続けているのであって

現状の生物学界と哲学界はその社会的役割を一切果たしておらず 学術権威として無能も甚だしい

山極寿一のような頭の悪い生物学者が京大の総長に就任しているというのは それを許している他の学術権威者の任命責任にも関わる重大な失態である

ノーベル賞受賞者の野依良治(理研理事)は「主観が大事」などと言い出したが 野依は自分の社会的評価に酔いしれて自分の主観が絶対だと勝手に勘違いしているのであろうか

だとすれば理研の理事としては適任ではない

科学や哲学というのは論理的根拠に基づいた客観性が求められるものであって 「主観が大事」などと言い出すバカが科学研究の責任者では社会安全性にとって著しい障害にしかならない

 

Ende;

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

世界は存在する

2020年05月25日 10時51分07秒 | 意識論関連

現在の生物学者達が言う「必然性(合理性)」というのは あくまで生存価における必然性を述べているのであって これは全て自然界の「結果」であって 意図意識的な「目的」に基づいた合理性ではない

人間社会においての合理性というのは 個体個人が生き抜くことではなく 社会全体の持続可能性や安全性を基準にしたものであって 繁殖能力だの生産能力といった「生存合理性(必然性)」は基準にならないし してはいけないのである

現在の生物学上においては「生物の目的は生存」だとされているが 「生存」というのは自然界の「結果」であって「目的」ではない

結果的に死なずに生き残った個体種を「生物」と分類しているに過ぎず 生物学者が言っている「自然界の生物の行動習性には必ず必然性がある」と言う話であっても これはあくまで「生存」を基準にした事後正当化のこじつけであって その進化の過程自体には何の合理性も必然性もなく 突然変異と淘汰圧力というシーケンシャルな構造の結果として生物進化が生じているに過ぎない

生物進化というのは遺伝的な進化を意味するのだが 生存にとって必然性や合理性のない形質を持って生まれてきた個体種への自然界の過酷な淘汰によって「生存にとって必然性のある形質」への洗練が起こったのであって

こうした自然界の遺伝的進化のメカニズム構造を人間社会にそのまま適用してしまうからこそ優性思想などという野蛮な発想に陥ることになるのである

ヒトが差別や懲罰によって排除を行うという先天的行動習性に対しても 進化的な「意味」をこじつければ あたかも「穏やかな個体種への淘汰を促すため」などというこじつけもあるが

しかし実際のイジメや差別というのは野蛮な暴力的個体が野良犬のような集団組織的統率による協調行動の暴走によって弱者や少数派の抹殺に至るのが現実である

イジメや差別といった野蛮で暴力的な行動を採るヒト達に対する淘汰圧力というものは存在せず むしろ先天的な社会形成習性による統率的協調行動によって弱者や少数派に対する淘汰圧力としてしか働くことはないのである

生物学上における「社会性」というのは あくまで「社会を形成する習性」を指しているに過ぎず

統率的な協調行動や役割分担さえ行えば「人間としての社会性」の論証になるわけではない

振り込め詐欺師達がどんなに高度な役割分担や協調性を発揮しても それは「人間としての社会性」の反証にしかならないのである

振り込め詐欺というのは 出し子や受け子といった末端の切り捨てを行うことによって組織を維持することが可能なのであって これは組織の「生存戦略」的には優秀だと言えるのである

それなら人間社会において詐欺師集団が「優れている」と称して詐欺だらけに淘汰されれば「進化」だと言えるであろうか

それはもはや答える必要性すらなかろう

だが 自然界においては寄生や殺戮や弱者切り捨ては常套手段であり 個体種の生存価における「必然性(合理性)」だけを基準にするというのは むしろ人間性に対する冒涜ですらあるのだが 生物学者達の主張に対して哲学者や文科系マスコミ関係者達は誰一人として問題意識すら持たないというバカの集団なのである

 

 ◇


ヒト個人は必ず死ぬ

個体個人は死ぬという前提において 次の世代に受け継ぐという持続可能性に基づいた選択こそが人間性を発揮するのであって 個体の生存や遺伝的進化のために弱者を切り捨てるような自然界の構造を人間社会に持ち込むこと自体がとんでもない大間違いなのである

「人が人を殺してはいけない理由」は存在しないが

だからといって「人が人を殺すような社会を放置しておいても良い理由」には全くならないし

むしろ「人が人を殺すような社会に生き続けなければならない理由」にもならない

単一の「理由」だけで短絡的に何かの免罪符になるわけではないのである

自然界における弱肉強食を人間社会に持ち込むからこそ 金儲け絶対主義に陥るのであって 経済というのは本来「経世済民」の略であって 民を救済することが「目的」なのであり 個人や組織の金儲け競争が目的ではないのである

自然界における生存競争や淘汰圧力による「進化」を経済に適用してしまうからこそ貧富格差が拡がってしまうのであって 目先の金儲け効率だけを追求してしまうからこそ労働力すら「買い叩き」の対象にされてしまうのである

ベトナムやキューバは社会主義だが 独裁が問題になったことは聞いたことがない 制度として社会主義を導入していても 統率者に人間性が伴えば正常に機能する

逆に民主(資本)主義を導入していても 民衆がバカしかいなければ「バカ主義」にしか陥らないのである

これは 結局制度の問題ではなく 制度を取り扱う人間性の問題なのである

人間性というのは意識の問題であり 自律的な論理検証性の問題であって 「理性があるから非合理な習性がある」などという自己矛盾な屁理屈を鵜呑みにしているバカが多すぎるから人間性が蔑ろにされてしまうのである

 ◇

生物の生存というのは「結果」であって「目的」ではない

つまり 生物には目的がない

これは種としてのヒトにおいても同じである

しかし ヒト個人においては「生きている間にやっておきたいこと」という主観的目的はある

それは個人それぞれであるが 個人的な目的を追求する上において社会安全性や持続可能性は大前提であって 個人の主観的目的だけで行動選択することなど出来ないのである

自分が実現したいことがあるならば 他人の実現したいことも尊重する それが人間性の源である

社会安全性や持続可能性を基準にするというのは 突き詰めれば「自分が実現したいことをできるような社会を求める」という利己性から導き出されるものなのである

「情けは他人の為ならず」とか「世界中の人が幸福にならなければ個人の幸福もありえない」といった人間性というのは 結局は「自分が究極の幸福を得るため」の手段であって

目先の欲求を満たすだけの身勝手な行動を採るバカというのは 本当に自分が望むものが何なのかを考えたこともないからバカなのである

マイケル:サンデルの講義や麻原彰晃の説法を聴いて「自分は頭が良くなった」などと勝手に勘違いして満足し 何も考えなくなることは簡単である

「トロッコ問題には倫理が含まれていない」ことなど 誰も「考える」ことなく 一生懸命「考えた」つもりになって満足しているバカが多すぎる

マルクス:ガブリエルが言う「世界は存在しない」だとか 養老孟司の言う「客観的事実など存在しない」などいった非論理的オカルト話は何の役にも立たないことが論理的に明白であり そんな話を有難かっている時点で既にバカであり 洗脳状態なのである

客観的事実や世界が存在しないのであれば 東池袋プリウス暴走事故で松永莉子ちゃんが亡くなったことも存在しなくなるのである

原発事故も航空機事故も全部存在しないとでも言うのであろうか

文科系マスコミなどのバカというのは何も考えないので 主観的感覚で「面白い」と思いさえすれば取り上げるが 論理客観的検証は面倒臭いので誰もやろうとしないのである

 

Ende;

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

生物学者の屁理屈

2020年05月25日 02時05分22秒 | 意識論関連

「自然界の生物の先天的習性というのは全て必然性があるが ヒトの先天的習性には必然性がないのは理性があるからだ」

これが生物学者達の屁理屈である

ヒトの先天的習性に必然性がないのは先天的な結果であり それに対して自然界の生物というのは習性に必然性がない種は淘汰されていなくなったからであり 過酷な淘汰圧力によって「洗練」されているからである

自然界においては必然性のない行動習性や性質を持った個体は淘汰対象である

つまり 先天的遺伝疾患を持って生まれてくれば問答無用に死ぬだけであり 結果的に生き残った自然界の生物というのは行動習性も含めてあらゆる性質に必然性が伴うことになる

これが遺伝的進化というものの実相である

しかし ヒトはその限りではない

先天的遺伝疾患を持って生まれてきたからといって 優性思想に基づいて淘汰してしまえば人間性も精神もヘッタクレもあったものではない

遺伝的な突然変異が生ずるのは 生物進化の過程において必然性があるが これは進化においては必然性があるが そもそも生物進化というものは目的や意図があるわけではなく 生物の進化の歴史においては何度も絶滅や破綻に至ったケースは 進化的成功よりも圧倒的に膨大に多いのである

遺伝的進化というものは 言うなれば膨大な無駄死にの上に成り立つ洗練された必然的結果であって 合理的目的や意図のようなものが存在するわけではない

そもそも自然界の生物における行動習性に必然性や合理性があると言っても それはあくまで「生存価において」という限定的価値観に基づく合理性や必然性に過ぎない

個体種の生存価を絶対的な基準とするから優性思想に陥るのであって 自然界の過酷な淘汰圧力ありきの合理性や必然性を そのまま人間社会に持ち込むのは非常に乱暴で危険な短絡的発想である

先天的疾患などによって生産性も繁殖能力も持たない個体が生まれてきたからといって これを短絡的に「生存にとって合理性や必然性がない」と称して淘汰するのが優性思想である

死にさえしなければどんなに残虐でも正当化できるのが「生存にとっての合理性や必然性」であって こうした生存絶対主義によって優性思想というものが作り出されるのである

現在の生物学界というのは生存価における合理性や必然性だけが絶対的価値として扱われており これはもはや科学でも何でもない 生存だけを唯一の目的とした一種の宗教である

「欲望自体を欲することは出来ない」のがヒトだが 欲望を選択することは不可能ではない ヒトの様々な欲望の中から統合的に安全性や持続可能性を基準に選択を行うのは理性である

ヒトの先天的行動習性に合理性がないのは「結果」であって 別に理性があるかどうかとは無関係である

そもそも先天的行動習性というものは理性によって作り出されたものではなく 偶発的変異の結果に過ぎない

先天的行動習性に欠陥があるとしても これを補うことができるのはヒトに理性が存在するからであって 理性なしに人間性に基づいた合理的行動選択などできるわけがないのである

従って「理性があるから行動習性に合理性がない」という話は根本的に間違っているのである

そもそも「必然性」というのは「合理的かどうか」を意味するのであって 理性を抜きにして必然性を語るのは自己矛盾も甚だしい

現在の生物学者達の大半は自然界における「生存合理性」を絶対的な価値と見なし 自然界の生物における「結果」を事後的に正当化するための屁理屈をこじつけているに過ぎない

だから優性思想への論理反証も一切出来ないばかりか むしろ優性思想を正当化しかねない屁理屈をこじつけるばかりであり もはや科学としての社会的役割を放棄したオカルトにしかなっていないのである

文科系マスコミの多くも論理的証明よりも学術権威の多数決や目先の主観的「面白さ」ばかりを基準に取り上げており 極めて偏った報道しかしていない

目先の流行や学術権威者の多数決に流されることなく論理的公平性や中立性といったものがマスコミには求められるはずであり これを欠いたが故に招いた重大な過去の失態を教訓とすべきなのだが 論理的検証の苦手な文科系マスコミ者達にはそれは優先度が著しく低く見積もられているのである

「起こったことの全ては必然である」と称して既存の社会体制を事後正当化するための屁理屈をこじつけていれば進歩は失われる

その「社会体制」には現状の生物学界や哲学界も含まれるのである

 

Ende;

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

哲学は文芸ではない

2020年05月24日 14時35分30秒 | 意識論関連

山極寿一は「リーダーはハッタリをかまさなければいけない」だとか言ってたが

ゴリラの常識を現代のヒト社会に適用するのは間違いである

マスコミというのは主観的に「面白い話」ばかり喜んで取り上げるもんだから

まるで科学的根拠があるかのように大衆を錯覚させてしまう

マルクス:ガブリエルの「世界は存在しない」だとか

養老孟司の「客観的事実など存在しない」だとか

フリードリヒ:ニーチェの「闇もこちらを見ている」だのといった 意味のないオカルト観念ばかりを哲学だと勘違いしているバカが多すぎる

答えがまだ出ていない命題について考えることは哲学だが

答えが存在しない 或いは答えを出しても意味がないことが論理的に明白な命題についていくら「悩んで」も「考え」には至っておらず これは哲学ではなく ただの文学的な言葉遊び(文芸)でしかない

 

Ende;

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

マスク

2020年05月23日 11時46分51秒 | 日記

ブルードットがマスクをとなっ!

税込み1,980

まあまあ妥当じゃないのか

オイラ的にはBLUEDOTってロゴ打って欲しかったんだが

 

そういや次亜塩素酸水作る機械は出さんのか?

 


Ende;

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

身勝手

2020年05月05日 14時41分23秒 | 意識論関連

自粛警察が問題になっているが

刑罰などの懲罰というのは主観的感情論であって 客観的には合理的な「解決策」にはなっていない

社会の中には少なからず無責任なヒトがいて 自律的な社会的責任を全く負わず 「人間」としていかがなものかと思われるケースが時折メディアで取り上げられる

マスメディアというのは顕著な場合には取り上げるのだが 実際には一般人の多くは程度の差こそあれ 無責任な行動を採るヒトは結構いるものである

「1匹見つけたら100匹はいると思え」とは ゴキブリの話だが 事故や犯罪においても同じことが言える

ハインリッヒの法則に拠れば 一つの重大事象の影には無数の小さな事象が隠れているのであって この法則というのは事故における分析なのだが これは犯罪においても言えることである

自粛要請に従わないというのは 現状において刑法罰の対象になっていないため 犯罪者としては扱われないのだが 他人の生命財産に関わる危険な行為である以上 刑法罰の対象でなくとも一種の合法犯罪とも言えるものである

だからといってネット上で誹謗中傷をしても良いということにはならない

そもそも法律に則った刑罰であれ 勝手な私刑であれ 懲罰感情に基づいた単なる主観的感情論に過ぎず 何ら社会的には合理性がなく 具体的な再発防止策につながるような知見が得られるわけではない

暴力的で手に負えないようなバカを公的に勾留することには一定の社会防衛にはなるものの 罰では「なぜ暴力的になったのか」についての原因究明にも 治療にも一切ならない

それが証拠に強盗殺人で25年の懲役刑を終えた直後に再び殺人を犯すケースというのが時折出てくるのである

刑務所というのは更生施設ではなく あくまで罰を与える施設であって しかも裁判判決で懲役期間が決められてしまえば治っていようがいまいが刑期を終えれば釈放してしまうという無責任な刑法制度でしかないからである

刑務官の証言によれば 服役者の大半が幼児期からの暴力的虐待を受けているそうで こうした犯罪者の発生原因から改善しないことには犯罪の撲滅にはならない

 ◇

違法行為であれば犯罪者として扱われるが 脱法的犯罪行為については犯罪者としては扱われることはない

自粛要請に従わないことも脱法犯罪とも言えるのだが だからといってネット上で懲罰的に叩いても刑罰同様に意味がない

自律的な社会的責任判断選択をしない無責任なヒトというのは社会に時折見られるものであり これを処罰感情で満たしても合理的な社会安全性の向上にはつながらない

重大事故の場合には原発事故調査委員会のように徹底した原因究明が行われるのだが 日常的に起こる事故については「刑法判決で解決」という不毛な社会制度に税金が遣われ続けているのである

国家権力であれ 個人であれ 懲罰というのは主観的感情論に過ぎず 客観的には合理性がなく 先程述べた「懲役25年の刑期を終えた直後に殺人」を犯しても判決を下した判事も誰も一切責任を取らないという社会的には非常に無責任で 欠陥だらけの社会制度に過ぎないのである

 ◇

一般人がネットで個人攻撃をする場合には 警察ほどの精密捜査検証がされていない場合がほとんどで 濡れ衣であることが非常に多く 裁判沙汰になることもあるので注意が必要だが

それ以前に懲罰感情自体に社会的意味が存在しないのである

社会的責任を負わない無責任な奴に対し 主観的に「嫌い」だからといって集団組織的に差別排除をしたところで 犯罪そのものの原因究明や再発防止にとって意味のある知見が得られるわけではない

懲罰や差別によって主観的感情を満足させることは簡単だが それはただの「イジメ」にしかなっていない

脱法であれ違法であれ 自律的な社会的責任を負わないヒトになぜなったのか その原因を徹底して究明し 再発防止に活かすことによって はじめて社会的に有意義な知見になるのであって

個人的好き嫌いをどんなに主張しても 社会的に正当化できるわけではない

個人的にガソリンかけて火を放ちたいクソ野郎はいっぱいいるが そういったクソ野郎を何人焼き殺しても「クソ野郎がなぜクソ野郎になったのか」についての原因究明にはならず 当然ながら再発防止にも全くならない

社会的な責任を負わない理由としては 主体性がないために自律的判断力も養われていないことが原因である

自律とは自発的主体性の中にあるのであって 多数他人からの評価承認欲求である一種の「甘え」によって一人の大人としても社会的責任判断能力を身につけることなく身体だけが大人になってしまっているからである

 ◇

新型コロナウイルスの症状が出ており PCR検査の結果待ちの状態で「外出は控えて」と言われているにもかかわらず 高速バスには乗るわ 大人数のバーベキューには参加するわ ゴルフ練習場には行くわ やりたい放題のバカもいるが

スーパーの店内で買い物を終えたにも関わらず サッカー台の所でベラベラ話をしているバカも相変わらずいるものである

自粛というのはあくまで自主的に行うものであって 程度問題という個人の主観的判断で決められるものではない

「表現の自由」がなぜ大切なのかと言えば それは国家政府の役人個人の主観的判断で勝手に統制してしまうことの危険性があるからであり

それは私刑においても同じことが言えるのである

個人が勝手な基準で他人の行動を糾弾して良いわけではない

個人攻撃である私刑やヘイトスピーチは「表現の自由」を逸脱しているのである

本来は正確な情報であれば個人情報公開も悪いことではないはずなのだが 個人情報公開の問題点とは悪用するバカが後を絶たないからであり バカがいなければ個人情報の公開には害はないのである

 ◇

自分の社会的安全性のためには他人の社会的安全性も担保しなければならないことは 社会人として言うまでもない当たり前のことなのだが それを理解しておらず 利己的利益や感情論を優先して身勝手な行動を採るバカが後を絶たないことが あらゆる「人災」の原因なのである

新型コロナウイルスの感染拡大防止に限らず 温室効果ガス削減などにおいても個人の自律的な社会的責任判断能力が最も重要なのであり

法律などの制度手続きでどうにかなるようなものではない

自粛において法律などの機械的手続きは意味を為さない

重要なのは個人の自主的判断であって バカにはこれが出来ないのである

バカとは何か それは持続可能性のない破綻がわかっていながらやめられない奴(中毒・執着)のことを指すのであって 学習障害や知的発達の遅れはバカとは言わない

欲望のままに行動することを自由だと勘違いしているバカは多いが それなら麻薬中毒患者が欲望のままに麻薬を欲しがることが自由かと言えば それはむしろ不自由も甚だしいのである

他人と比較して「俺様の方が快楽」であることを競争しても意味はない なぜなら快楽というのは主観的なものであって他人と比較できるようなものではないからである

他人とは脳神経接続がない以上 快楽に勝ち負けはないのである

西野七瀬と白石麻衣と生田絵梨花の誰がかわいいのかを競っても それらは主観的好き嫌いの問題であってそこに勝ち負けのようなものがあるわけではない

個人的には弘中綾香がかわいいと思うが それは他人にとってはどうでも良いことである

ヒトという種の生物は どうしても他人との比較だけで価値を判断しがちだが その価値観というのは主体的なものではない

何万円もするバラやコチョウランよりも 道端に咲く小さなヒメヒオウギやノゲシの方が私は個人的に好きである

そこに比較は意味を為さない

他人の迷惑もかえりみず 目先の身勝手な欲望を満たすことを競っても 本当の意味での心の平穏を得ることは出来ない

目先の身勝手な欲望を満たさなければいられない不自由さが解消しないことには 自律的な社会的責任を負うという人間性を発揮することは出来ないのである

 

Ende;

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする