書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

そりゃ大変!

2020年07月30日 17時04分25秒 | 日記

b89f993f@bellsoftco.com


こんにちは!

私ハッカーは、あなたのオペレーティングシステムにアクセスしました。
あなたのアカウントへのフルアクセスを獲得しています。

数ヶ月間あなたの動向を見てきました。
あなたが訪問されたアダルトサイトからマルウェアに感染しています。


ご存じない方のためにご説明いたしましょう。
Trojan Virusをご使用されると、私はあなたのコンピュータやその他のデバイスを完全にアクセスおよび制御できるのです。
つまり、あなたの知らない内に、私は画面上のすべてを見ることができ、カメラとマイクをオンにできるのです。

あなたの全ての連絡先や返信にもアクセスできます。


なぜアンチウイルスがマルウェアを検出しなかったのか?
回答:マルウェアはドライバを使用しています。私が4時間ごとにシグネチャを更新しているため、アンチウイルスは反応しないのです。

画面の左半分にあなたが自分を満足させている姿、右半分には、その時に視聴していたビデオが表示されるような動画を作成しました。
マウスを1度クリックするだけで、私はあなたのソーシャルネットワーク上の全てのメールと連絡先にこのビデオを送信することができます。
また、あなたが使用している全ての電子メール通信およびメッセンジャーへ投稿することもできます。

これを防ぐには、
$1250を私のビットコインのアドレスに送金してください(行う方法がわからない場合は、Googleに「ビットコインを購入」と記載して検索してください)。

私のビットコインのアドレス(BTC Wallet) は: 13AokM9rK7XCTsdCgddbKd1bzjD5WHMhsr

支払いを受領後、私は動画を削除し、あなたへは二度と私から連絡をすることはありません。
50時間(2日以上)以内にお支払いください。
この手紙を読んでいる通知が私に届き、この手紙をあなたが見た時からタイマーは作動しています。

このメールは私のビットコインアドレスのように追跡できないため、どこかに苦情を提出しても意味がありません。
間違えません。


このメッセージを他の人と共有したことが判明した場合、動画はすぐに配信されます。

よろしくお願いします!

 

 

 

という内容のメールが!

大変なので早速「報告」しました

ちなみにトロイの木馬というのはクレジットカードの暗証番号とかも抜き取ることができるので こんなメールを送っている暇があるならサッサと口座から引き落とせば済む話です

 

 

Ende;

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

偽メール

2020年07月30日 15時19分45秒 | 日記

ゆうちょ銀行と称したメールの送信元が

information@jp-bank.japanpost.jp

なのだが メールに載ってるリンク先はゆうちょ銀行とは無関係

https://www.buibuiha.com/

このURLを開いた人がいてツィートしてた

https://mobile.twitter.com/KesaGataMe0 -袈裟固めさんOnTwitter

外見上完コピしている

サイトなんてのはCSSファイルやHTMLファイルをコピペすりゃ完コピなんて簡単なのよ

それにしてもURLをが「ブイブイハ」っておちょくりすぎだろ

ゆうちょ銀行でも警告していた

ゆうちょ銀行を装った不審なメールにご注意ください -ゆうちょ銀行

以前amazonと称する偽メールの送信元も@の後ろがamazon.comだったことがある

どうもメアドって偽装できるらしい

オラようわからんが

 

気になるメールが来ても いきなりリンクをクリックせずに 一回リンク先のURLを確かめた方が良いと思う

URL冒頭が

https://www.amazon.co.jp/

なら本物だけど 「co.jp」の後ろが一旦「/」で切れてなければ偽物

 

楽天と称して送信元が楽天と無関係とか

plz@hpyenyw.work

メールの日本語がおかしいので中国人かも

Fig:

これもリンク先URLで「co.jp」の後ろが「/」で切られていないので偽サイトへの誘導

「必要・ェ」って何のつもりなのかしら

 


別のメールでもAmazonと称しているが 送信元はAmazonと無関係

xbolkgvm@vfbxziic.org

メアド偽装すらしてないよ

 

 

LINEと称したメールの送信元が

bqnzqrn@dr.info

で 全然LINEと関係ない

メールにあるリンク先も無関係

https://www.benhvd.com/

 

 

にゃんたくさんのブログは専門用語が多すぎて具体的にどうすれば良いのかようわからん

Emotetっていうマルウェアが最近問題になっているらしい

多分WindowsだけどAndroidも緩みは禁物

罹ってから後悔しても遅い

 

 ◇追記:「.work」っていうドメインは有料なんだそうで 年間1000円くらい取られるそうな

 

Ende;

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

役に立たないことが立証されている話は哲学ではない

2020年07月27日 10時30分25秒 | 意識論関連

「哲学は 役に立たなくても良い」と言われているが

これは「何の役にも立たない話で気分(主観)的に満足して論理検証をすっ飛ばしていても構わない」という意味ではない

科学的検証においても 検証の全てが役に立つわけではなく 量子物理学や天文学の研究のほとんども直接何かの役に立つわけではない

しかし 量子物理学や天文学というのは論理客観的根拠に基づいて検証されているため 将来的に何かの役に立つかも知れない可能性は開かれているのである

「役に立たなくても良い」というのは こうした可能性が開かれている場合における話であって 論理客観的根拠をすっ飛ばした勝手な決めつけやファンタジーで気分(主観)的に満足安心して思考停止に陥ることは哲学ではない

哲学とは 考えることであり 論理客観的根拠に基づいた論証の積み重ねによって真理(本当のこと)を知ることである

疫病の科学的メカニズムを知ることによって 本当に効果のある治療法や予防法が何なのかを知ることによって無駄死にする人を減らすことが可能となる

しかし 本当のメカニズムが何なのかを追求せず 目先の気分的安心満足によって思考停止に陥っていれば 意味のないお祈りやおまじないの類いに頼ることになる

フリードリヒ:ニーチェもエマヌエル:カントもオカルトであって 到底論理客観的根拠に基づいた哲学ではない

つまり 「役に立たないことが論理的に立証されている」のであって これは科学で例えれば錬金術や天動説を科学だと盲信しているのと同じである

「哲学には好き嫌いがあります」とも言われているが 個人の主観的好き嫌いなんぞ何にでもあるものであって 主観的に好きだからといって論理客観的に正しいことの論証には全くならない

これは 錬金術や天動説やUFO宇宙人説をどんなに「好き」だと主張しても科学的に正しいことの論証には全くならないのと同じである

現状の哲学者達は自分達の信じ込んでいたカントやニーチェに論理的根拠がなく哲学ではなかったことをはぐらかすために 「役に立たなくても良い」とか「好き嫌いがある」などと称してその場限りにごまかすことばかりに邁進しているのである

 

科学においても好き嫌いはあるだろう 天文学が好きな場合もあれば 物理学が好きな場合もあるし 生物学が好きな場合もあるだろう

しかし 生物が好きだからといって あたかも遺伝的進化が万能であるとか 目的や戦略が存在するかのように言い張るのは論理客観的根拠が全くない

それは「生物が好き」なだけであって 科学としての「生物学が好き」なのとは異なる話である

チンパンジーが好きすぎて科学的根拠もないのに「チンパンジーには人間性があるはずだ」などと言い張り都合の良い立証だけを抽出してきて業績であるかのように偽装していては科学としての生物学を逸脱しているのである

ダンゴムシが好きすぎて「ダンゴムシには心がある」などと称して意味のわからぬ理屈を並べ立て 最後には「直感的にわかってもらえれば」などと論理客観的論証をすっ飛ばしていたのでは話にならない

国語辞書で「心」を引いても科学的定義であることが保証されているわけではない

「心」というものの定義を論理客観的に明確にしてからでないことには 「心」を科学的に検証することはできないのである

 

Ende;

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

面白くはない話

2020年07月25日 15時40分57秒 | 意識論関連

ヒトのルーツが「サルからの遺伝的進化」であろうが「神の創造物」であろうが 今現在における選択とは関係がなく

むしろルーツにこだわるからこそ神だの遺伝的進化を万能だと勝手に錯覚して実証不能の観念を振り回す要因となるのである

ルーツが犯罪者であろうが何であろうが 現時点において正しい選択ができるかどうかが人格や人間性や倫理なのであって

「ヒトはどこから来たのか」などという選択可能性のない既存の自己の起源は人間性や倫理とは無関係なのである

ヒトはいままで様々な「業績」を成し遂げてきたが あらゆる「業績」の全ては社会安全性や持続可能性なくしては意味がない

たとえ如何なる「業績」を上げても持続可能性なくしては意味がなくなるのである

「過去に何を成し遂げたか」が重要なのではなく 最も重要なのは社会持続可能な安全性こそが最優先されなければ人間性も倫理もスッタクレもありゃしないのである

地球環境すら維持出来ないヒトが 火星に行った途端に環境維持が急に出来るようになるわけではない

そもそも月にも火星にも磁気圏がないため 大気組成だけ地球に似せても地球の代替にはならず 地下に籠もって生活するしかないのである

地下に籠もりたいのなら別に地球以外の惑星に行く必要性がない

地球環境を破壊しまくった挙げ句に火星に逃げ出せば良いと思っているのであれば それは犯罪者の発想とさしたる違いはない

ヒトが地球環境を破壊しているのは 先天的欲望という因果律(運命)に逆らうことが出来ていないからであり 科学の技術や知見の発展が原因ではない

科学の技術や知見というものを 先天的欲望のままに利用した結果 地球環境を破壊しまくっているのである

プラスチックゴミの問題においても レジ袋や不織布マスクをキチンと可燃ゴミとして焼却処分せずに道端に棄ててしまうから問題になるのであって これは「科学技術による高機能素材の開発」が問題なのではなく それを使う個人の欲望(無意識性)が問題なのである

「ヒトはいままでずっと地球環境を破壊し続けて来た」というルーツを根拠に 「ヒトとは地球環境を破壊し続ける以外に選択不可能である」ことの論理的証明には一切ならない

ヒトは遺伝的には進化することはない

なぜなら突然変異によるバリエーションの多様化はあっても過酷な自然環境における淘汰圧力からは逃れた存在だからである

それなら 遺伝的進化などに頼らず今現在のヒトの先天的性質に基づいた意識の改革をする以外に社会を改善するための選択肢はなく ゾロアスター教の「超人」幻想で満足しているのはただのバカでしかない

「ヒトはそのうち超人に進化するから 何もしなくても何も考えなくても良いんだわ」などと勝手に妄想して満足しているのはバカという以外形容詞がない

そもそも社会安全性や持続可能性を求めているのは神でも遺伝的進化でもなく あくまで「ヒト」が求めているのであり これは「ヒト」が解決しなければならない問題なのであり

神だの超人が解決してくれるわけではない

ヒトが神の産物でもなければ 自動的に超人への進化が促されるメカニズム構造があるわけでもない

それが「怖い」とか「不安だ」とか そういった主観的感覚を元に毛嫌いしても それは無責任な現実逃避でしかあるまい

フリードリヒ:ニーチェの論理的根拠のない勝手な決めつけや リチャード:ドーキンスによる科学的証明のない断片的現象だけを根拠にしたお伽話を鵜呑みにしておいた方が気分は良いのだろうが その気分的安心満足こそが現実を直視する誠実さを失わせ 無責任な嘘を鵜呑みにするという ヒトの先天的欠陥なのである

 

マルクス:ガブリエルによる「世界は存在しない」だとか「時間は無限に分割すればなくなる」などといった現実離れした突拍子もない話の方が大多数の大衆にとって主観的には「面白い」のであろう

だが それは社会安全性や持続可能性にとって害にはなっても益にはならない

なぜなら それは論理客観的根拠のない嘘でしかないからだ

人畜無害だと思ったら大間違いである なぜなら何が真実なのかを見失っているからである

「面白いかどうか」はただの主観である

その主観こそが論理客観的根拠に基づいた真実を見失わせているのである

野依良治は「主観が大事」などと言い出したが これには論理客観的根拠が著しく欠落しており 野依の糞ジジイの勝手な決めつけでしかない

もはやとっととノーベル賞も取り下げて理化学研究所の理事もクビにすべきである

 

Ende;

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

どこかに行く必要性はない

2020年07月24日 20時48分12秒 | 意識論関連

よく文科系の奴が言いたがるフレーズで「人類は どこから来て どこへ行くのか」ってのがあるが

「どこから来た」かについては選択可能性はなく 「どこへ行くのか」についての基準には一切ならない

「どこから来た」としても これから「どこへ向かうのか」とは無関係だからである

 

個人において人生の目的のようなものはあるとしても ヒトという種の生物そのものに目的や「答え」があるわけではない

個人が人生において目的を持つ上において 他人の目的にも配慮するのは必然であり その意味における公共的な「目的」としては安全性や持続可能性以外ない

ヒトという種の生物限らず あらゆる生物には種としての目的など存在せず ヒトがヒトなのは結果以上の何でもない

なぜ わざわざこれを確認せねばならぬのかと言えば 生物進化の結果に過ぎぬ生物としてのヒトが その結果的生存を目的だと勘違いしてしまっていたからこそ優生学などというオカルトに陥っているからである

経済における金儲けを目的としてしまうことによって「組織の利益を優先し 個人が自律的な社会的責任を負わなかった」ことによって原発は暴走したのであり

子供じみた好奇心というものには歯止めがなく 論理客観的根拠が伴わない実証不能の観念であっても 一度「答え」や「目的」だと錯覚してしまえば簡単に暴走が始まることになる

ヒトという種の生物に限らず 生物やウイルスにも「目的」などなく あるのは「結果」的生存や存続だけである

人は 論理客観的根拠のために生き続けているわけではない

生きているのは結果に過ぎず ヒトという種の生物としての存在自体には目的などない

「人が人を殺してはいけない理由」が存在しないのと同様に 「人が生きなければならない理由」も存在せず

これは同時に「人が殺し合うような社会で生き続ける理由」も存在していないのである

「どのような社会であるべきか」という理想なくして単なる自己の生存価だけを追求していては持続可能性も安全性も後回しにされることになる

社会持続可能性や安全性を後回しにしてまで「人間」として生き続ける合理的理由は存在しないのである

ヒトは論理客観的検証性がある

それは 本質的な「目的」意識のことである

先天的に組み込まれた選択不可能で無意識な行動バイアスに流されることなく 自発的に「考える」という理性によって 人は社会安全性を求めることも可能なのである

エマヌエル:カントは そもそも理性というものを単純な探究心や好奇心と勘違いし 理性以外の「悟性」だの「純粋統覚」などと称して論理的根拠を蔑ろにした勝手な実証不能の観念のでっちあげによって人間性や倫理が発揮されると勘違いし その満足感に溺れて自己検証性を喪失することを促しているファンタジーに過ぎない

考えないバカは「罰で解決」だと既存の価値観を鵜呑みにして思考停止に陥る

ヒトが他の動物よりも著しく「優れて」いるのは 先天的行動バイアスに漫然と流されるだけではなく 様々な情動の中から最も優先順位の高いものを「選択」することが可能な理性を持っている点である

理性は運命的に決定した結果だけに陥ることなく 絶滅を回避することも可能となる点において「優れて」いると言える

ヒト以外の動物の場合 環境に適応できない先天的な形質や習性があれば淘汰の対象にしかならなず 絶滅の道を避けることが出来ない

別に生存は目的ではないが 自己が存在し続ける上において次世代へ社会を受け継ぐ持続可能性を模索することは合理的必然性があり 社会持続可能性を求めずに自己が存続する合理的必然性は何もないのである

たとえ犯罪者が「歴史上類を見ない凶悪犯罪で名を残す」と言い張っても それは社会が存続していることを前提とした「甘え」に過ぎない

自己自身で社会持続性を担保しないにも関わらず 「歴史に名を残す」というのは子供じみた評価承認欲求の暴走であり これもまた「答え(目的)」に囚われ自己に対する論理的検証性を喪失している状態だと言える

すなはち 要するに自己客観的論理検証性が伴わないから「幼稚」なのである

幼稚な子供には問題解決能力はなく 子供だけで集団生活をさせればシーケンシャルにイジメが発生するようになり しかも自律的には一切歯止めも効かず殺人にまで発展することもある

カントやニーチェを哲学だと勘違いし 幼稚な屁理屈を鵜呑みにしているからこそ 客観的論理検証性という人間としての意識の存在価値を軽視してしまうことに陥るのである

カントの屁理屈に基づいて考えれば なぜ犯罪者が現象界(因果律)に従って行動して「叡智」を発揮することが出来ないのかについての論理客観的説明が一切出てこないのである

何せ「叡智」というものは理性を超越しちまっているので論理的説明をするつもりが一切なく 「なぜ叡智が絶対に知覚出来ないと言えるのか」についても説明は全くなく カントの勝手な妄想と決めつけ以上の意味が一切ないのである

ただの文芸(芸術)として見ればカントの純粋理性批判を読んで主観的に満足するのは勝手だが これを論理的根拠に基づいた「考え(哲学)」だと勘違い錯覚しているのはただのバカとしか言いようがない

こんな馬鹿げた話を「近代哲学の最高峰」だと信じているのは脳が幼稚だからである

ヒトという種の生物は 主観的に満足安心することと論理客観的に安全なことの区別が満足に出来ない先天的欠陥があるため 糞の役にも立たぬ実証不能の観念を「哲学」だと勝手に勘違いし 疑うことを一切しなくなり

それが如何に社会的に無責任であるのかについても自覚はない

伊集院光は「叡智界が存在しなければ 罪人に罪を問うことができなくなる」などと言い出したが これは既に行っている罰(犯罪者に対する暴力/差別)を事後正当化するために実証不能の観念の存在をでっちあげているようなものであり 本末転倒も甚だしいデマゴーグである

ヒトは暴力を振るうと気分的に満足する これはノルアドレナリンを「消費」することによってセロトニンによる副交感神経系への快楽を促す脳のシーケンスによるものである

生物の進化過程において 暴力は生存にとって有利な行動だと言え これが「罰(暴力)で解決だ」という合理性のない観念(錯覚)を生み出すメカニズム構造であり ヒトという種の生物における「人間としての欠陥」でもある

生物の進化過程において ヒトという種の生物になったのはここ数万年程度の話であって ヒト以前の進化過程の方が圧倒的に長く 先天的行動習性の大半はヒト以外の凶暴な野生動物とさしたる違いはなく リチャード:ドーキンスよろしく「進化によって自動的(自然)に人間性が発揮される」などというお伽話は 大衆の脳を酔わせて満足させているだけ大衆迎合に過ぎず 到底科学的論証にはならない

脳が脳内麻薬で酔い 主観的に安心満足することを 論理客観的な安全性か何かと錯覚するのも ヒトの先天的欠陥である

ヒトという種の生物は 人間になろうとして進化したわけではなく 結果的に論理客観性も持つこともできるように大脳が肥大したに過ぎず 気分感情的な安心満足ばかりを追求していれば論理客観的「考え」をしなくなり バカになることは簡単である

 

自己の主観的好き嫌いは選択不可能である

「欲望自体を欲することはできない」のである

しかし 「欲望に優先順位をつけて合理的行動選択をする」ことは可能である それが「客観性」というものである

「ムシャクシャしたから殴った」とか「アオリ運転をしてやった」では人間性に重大な問題がある

「なぜ自分はムシャクシャしているのか」を自己客観的に検証し どこにどのような問題があるのかを突き止め 再発防止のための対策を立てる理性がなければ人間性とは言えないのである

ヒトは信じたいものだけを信じようとするが 「信じたい」かどうかは主観的好き嫌いに過ぎない

自己の主観的好き嫌いを疑う論理客観性がないから論理検証性も失いバカになるのである

バカは簡単に騙され カントの純粋理性批判も「近代哲学の最高峰」だと言われれば鵜呑みにしてありがたがる

バカは自律的には検証判断することが出来ない

自律的に判断出来ないことを「バカ」というのである

 

遺伝的進化によってナメクジウオのような魚がヒトに進化したからといって ヒトがヒト以上の何かになる必要性はない

私は 気付いた時には私であった

それは誰もが同じである

自閉症と診断された人が絵を描くことに目的などなく

ヒトはどこからも来ていないし

どこへも行く必要性はない

ただ ここにいるだけの存在であり それ以上の何者かになる合理的必然性などない

今以上の何者かにならなければならないという強迫観念は他人からの評価承認欲求が作り出した妄想であって 幻に過ぎない

ヒトの個体が個人的に望む目的は存在しているとしても ヒトという種の生物そのものには目的など理論的に存在しないのである

ゾロアスター教による超人幻想は600万ものユダヤ人を死体に変換するという不毛な蛮行の原因となった

他人からの評価を棄ててしまえば「自分が楽しい」だけで充分である

自分が純粋に楽しければ 他人の楽しさにも配慮が出来る

それ以上の何にもなる必要性はなく

どこにも行く必要性もない

「楽しい」とは言ってもギャンブルや薬物や目先の享楽に依存することではなく あくまで個人が純粋に楽しめなければ 本当の意味での自己満足(脳内麻薬の自給自足)にはならないため 簡単にブチ切れて暴れたりするようになったのでは話にならない

本当の意味での主体性があれば 簡単にブチ切れたりはせず 耐えることも論理客観的に検証することも出来るようになる

それが本当の意味での「人間としての社会性」というものであり たとえ過去に過ちを犯していたとしても過ちを過ちだと自覚し 繰り返さなければ良いのであって 「どのように育てられた」とか「どのような社会で育った」かで「これから自分がどうすべきか」が導き出せるわけではない

しかし 受刑者の6割は幼少期に暴力を伴う虐待を受けていると言われており 子供は自分の養育環境を選ぶことが出来ない

それなら子供の養育環境というものは社会安全性において最も基礎を成すものであって 公的に保全しなければならない

それでも既に育児放棄などによって子供が死亡する事態というものは存在しているのであって 親が間違った育て方をしてしまう原因について徹底的に究明し 再発防止の対策を重層的に行う必要性がある

ヒトという種の生物の先天的な親性だけに頼った現在の児童福祉には限界があり 犯罪者の温床となる家庭環境がどのようなものであるのかを全く解明することが出来ない

誰も犯罪者になりたくて産まれてきたわけではないのであって それが養育環境が原因で犯罪者になってしまう大きな要因になっていることは明白であり これを刑罰という感情論で「解決」だとしてしまうのは あまりに短絡的で合理性が著しく欠けている

梅沢富美男的に「こんな奴は死刑にしちまぇ!」とでも怒鳴り散らしておけばバカな大衆の多くからは人気を得ることは可能であろうが 相模原障害者施設津久井やまゆり園虐殺事件の植松聖のような奴がどうして出てきてしまうのかについての徹底した原因究明と再発防止の方を優先すべきであり そのプロセスにおいて刑罰は邪魔にしかならない

植松聖に限らず 大量虐殺事件を引き起こすような典型的なバカというのは自発的論理検証性が著しく欠如しており この理性の欠如というものは一般大衆における理性の欠如性が温床原因となっているのである

一つの重大事象の影には無数の小さな事象が隠れている(ハインリッヒの法則)のであって 大衆の頭の悪さや論理検証性の欠如こそが大量虐殺犯人という重大なバカの温床となってしまっているのである

エマヌエル:カントだのマルクス:ガブリエルだのマイケル:サンデルなどというオカルト観念を哲学だと鵜呑みにしている大多数のバカがいるからこそ 大量虐殺事件などという「重大事象」が生み出されてしまうのである

大衆の多くは その場限りに大多数のご機嫌取りをすることを「人間性」などと勘違いしているが それは人間性ではなく大衆迎合に過ぎない

大衆迎合というのは論理客観的根拠は必要なく 時代や社会という環境に依存した流行に過ぎず 何ら安全性や持続可能性の保証や根拠には全くならない

梅沢富美男の「死刑にしちまぇ!」は多数人気は得られるが再発防止には全くならないのである

大量虐殺事件が起きる度に実行犯を死刑にしても 「なぜ大量虐殺などという非合理な行動を採るバカが出てくるのか?」についての論理客観的原因と再発防止への合理的対策には全くならない

目先の主観的感情を満たすだけの大衆迎合的な人気取りで満足し 社会安全性を優先しないことがどれだけ社会的に無責任であるかを「理解」していないからこそ 「刑法判決で解決」という不毛な社会制度がいつまでも温存され続けるのである

 

「どのような親であるべきか」については マニュアルがあるわけではなく 親自身が「どのような社会が理想で そのためにはどのような人間が必要なのか」を理解し自覚しておく必要性がある

自発的に物事を考えないバカが 自発的に物事を考える「本当に賢く社会にとって役立つ人材」を育てられるわけがない

バカな親は学力さえ高ければ「頭が良い」と思っているが これは著しい重大な間違いである

たとえノーベル賞を受賞していてもバカはバカなのである

 

Ende;

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

森山徹(信州大学学術研究院准教授)

2020年07月17日 10時45分29秒 | 意識論関連

「直感的にわかってもらえれば」(森山徹)

あのね 理論的に説明できなきゃ科学じゃないですよw

 

Ende;

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

報道ゾンビ

2020年07月17日 10時42分48秒 | 意識論関連

赤羽国土交通相の会見でマスコミがまた密集囲み取材やってるよ

頭おかしいだろ

マスコミの記者達は上司や先輩から教えられた密集囲み取材に何の疑問も持たずに漫然と続けるばかりである

バカなんだろうな

あいつら大学くらい出てるはずなので 大学というのが如何に糞の役にも立たないのかがハッキリとわかる事例である

なぜバカなのか?

それは本質的な意識が働かないまま 無意識な条件反射的な行動しかしていないからである

これはつまり「意識の問題」なのだが 意識そのものが問題なのではなくて 意識の9割以上を占める無意識が問題の本質なのである

何が「人間としての意識」や「意識の本質」なのかを理解していないから「意識の問題」と言われると「意識が悪いんだな」とか「意識に意味はない」などという言葉上のレトリックに簡単に騙される

「意識に意味はない」と言ったのは養老孟司である

自発的に物事を検証していれば 意識の一体何が どのように悪いのか 何が問題なのか分別がつくはずなのだが

無意識なバカというのは他人が言う言葉を鵜呑みにして自律的に検証するという本質的な意識が全くはたらかない

学力成績が高いだけのバカというのは 学力が高かっただけで満足してしまい 知能や意識の本質が何なのかには全く興味すら持つことはない

それはもはや ほぼ夢遊病者かゾンビである

 

Ende;

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

朝長啓造

2020年07月13日 00時58分25秒 | 意識論関連

「ウイルスは増殖することが目的」(京都大学ウイルス・再生医科学研究所 朝長啓造)

ウイルスに限らず生物が増殖するのはシーケンシャルな結果であって あらゆる生物やウイルスには意図的な「目的」などない

赤潮を解消するウイルスによって海洋環境が維持されているのも「結果」であって 食物連鎖のピラミッド同様に無数の「失敗」の果てに偶然環境調和に適したに過ぎない

数十億年に渡る膨大な失敗の結果だけを見て増殖や生存を目的だと「思う」のは論理客観的根拠のない勝手な思い込みである

そもそも「偶然」とは ヒトが確率の低い事柄に対する感覚的なものであって 遺伝的進化における偶然であっても所詮は無数の膨大な変異と淘汰の果てに起こった必然である

遺伝的進化というものはコンピュータープログラムでもシミュレーション可能なシーケンシャルに起こる必然的結果であって 結果的に遺伝情報さえ残ればウイルスだろうと何だろうと構わない

フローレス島において小型人類の脳までが小型化したのも 全ては「結果」に過ぎず 別に「進化によって脳が肥大しなければならない合理的理由」など存在しないのである

ヒトは 別にヒトになろうとしてなったのではなく あくまで変異と淘汰の結果としてヒトになったに過ぎず あらゆる先天的形質も全て「結果」に過ぎない

生存にとって有利なあらゆる形質であっても それらは全て結果的生存において合理的形質を持った個体への淘汰の結果に過ぎず 外見上「合理的」に見えるとしても 意図目的に基づいて主体的に選択「した」ものではなく あくまで結果的に淘汰によって選択「された」ものに過ぎない

どんなに生存という結果にとって合理性があるとしても そもそも生存自体が結果に過ぎない以上「生存にとっての合理性」の全ては結果であって そこに意図的目的選択が介在する余地はない

 

Ende;

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

アクリル水槽をアルコールで拭くとどうなるか

2020年07月11日 17時14分06秒 | 日記

水族館の水槽ってガラスじゃなくてアクリルでできているそうなんだけど

新型コロナウイルス対策で表面を消毒している

まさかアルコールじゃないと思うんだけど

一回でもアルコールで拭いちゃうと何が起きるかわからないよ

くれぐれも気をつけてね

ベンザルコニウム的なものとか中性洗剤的なものなら大丈夫なんだと思うよ

多分

知らんけど

水槽こさえている会社に聞いた方が正確だと思う

 

Ende;

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

他に言いようがない

2020年07月11日 17時09分19秒 | 意識論関連

子供の好奇心は科学的探求の動機にはなっていますが だからといって子供が科学的に論理検証できるわけではありません

好奇心(主観)は「答え」を求めますが 必ずしも論理「客観」的根拠を必要としません

子供というのは考えが幼稚であるため 好奇心だけで「答え」をでっちあげて勝手な正義を振るうので 子供だけで集団生活をさせればイジメなどの非合理な行動も簡単に起きるわけです

科学的論理検証というのは「わからないことは わからない」とする冷静さが不可欠であって 本当は論理的には理解できていないのに「わかった」ような錯覚に陥って勝手に「答え」をでっち上げてしまうからこそ ヒトは暴走破綻に陥るのです

科学が科学であるためには 単に子供じみた好奇心(主観)だけで科学的検証になるわけではなく 論理客観性が必要不可欠なのです

大脳辺縁系を損傷した人の場合 決して子供じみた「答え」の追求はせず あくまで他人から選択を求めれた際に「わからない」と言うだけであって 子供の探求心と大脳辺縁系を損傷した人の言動は全く異なるものであり これをごちゃまぜにしている現状の「哲学者」達は「叡智界」などという訳のわからぬ話を鵜呑みにしていた自分達の頭の悪さをはぐらかしているだけなのです

 

子供に限らずヒトという種の生物というのは論理客観的検証に基づいた合理性のある行動選択は出来ないため 「叡智界」などという実証不能の観念であっても簡単に鵜呑みにして満足し 論理客観的検証に基づく「本当のこと」を簡単に見失う欠陥があります

「本当のこと」がわからなければ 「本当ではないこと」に意識囚われ 非効率で意味のない行動しかしなくなり 暴走破綻の危険性に対しても何の対策も出来なくなります

何も「考え(客観的論理検証)」ない人なら それで良いと「思って(主観)」るんでしょう

その「意識」こそが「無意識」だということも「理解」することも「区別」することも出来ないからです

 

単なる好奇心や探究心といった主観的欲望だけなら宗教でもイデオロギーでも妄想ファンタジーでも何でも良いのであって 論理客観的根拠をすっ飛ばして「答え」をでっち上げてしまえば暴走しか招きません

実証不能の観念だからこそ暴走するのであって 論理客観的検証が伴えば暴走はしないのです

カントの時代以降は科学技術の暴走が度々起きていますが これは別に科学そのものが暴走しているのではなく 科学技術という「道具を使う側の欲望」によって暴走しているのであって 科学そのものが温室効果ガスの増大を促しているわけではなく むしろ科学は温室効果ガスの削減を求めているのです

科学技術の進歩によって得られるベネフィットは享受しておきながら 科学技術の使う方の欲望の暴走は「科学が悪い」と言い出すのは あまりにご都合主義的なこじつけでしかありません

 

ネコをネコだと識別出来ることを知能だと言うバカもいますが これは深層学習AIでも可能な機械手続き的能力に過ぎず 論理的根拠を必要としません

服従対象としての権威を権威と「学習」してしまえば地下鉄に毒ガス撒き散らして「人類の救済だ」などと勘違いすることも簡単なのです

抽象化による識別 シンボル機能自体は知能ではありません

擬態によってスズメバチに外見が酷似している蛾であっても 外見がスズメバチにしか見えなければ蛾だとは「思わない」でしょう これは抽象化機能による「錯覚」です

主観的に「スズメバチだと思った」とか「ネコだと思った」だけの機能は本質的知能とは関係がありません

カントの純粋理性批判を「近代哲学の最高峰」だと「思った」からといって そんなものが知能の論証にならないことは既に何度も述べました

少しは理解してくれ

いちいち説明すんのめんどくさいんだよ

 

多くのヒトはカントの純粋理性批判を鵜呑みにしますが これはヒトの主観的満足が作り出す罠に過ぎません

「人間は叡智界に属している」などという論理客観的根拠のない話であっても それで主観的に満足してしまうことによって論理客観的検証性を簡単に喪失し それが間違いであることには誰も気づかなくなる

科学技術という道具の使い方を間違えている自分達の欲望の方を正当化するために 科学そのものを悪だと決めつけておけば満足し 何も考えなくなる

それはバカとしか言いようがありませんよ

 

Ende;

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ぶどうぱん

2020年07月11日 17時07分50秒 | 日記

フジパンの「ぶどうぱん」っての買ってきたんだけど

外装が紙で洗えないと一瞬思ったんだが

ポリフィルムに紙が貼ってあるだけらしいので

中性洗剤で洗ってやったぜ

ワイルドだろぉ

中身が濡れてないかどうかは明朝のお楽しみだぜぇ

 

Ende;

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

意識

2020年07月11日 12時53分05秒 | 意識論関連

科学や哲学というものは真理を追求するためのものです

真理 すはなち「本当のこと」と「本当のことではないこと」を区別出来ることで 合理的で無駄のない選択が出来るようになるという効用があるのです

合理性というと 多くの人は金儲け効率ばっかり連想しがちですが 経済というものの本来の意味は「経世済民」の略であって 「世の中を経て民を救う」ことが目的なのです

世の中において最も重要なのは安全性です

人の命が軽視されるような世の中であれば 自分の命も軽視されるのであって そんな世の中で生き続けなければいけない理由はないのです

だから 社会安全性なくして個人の存在意義もない

ところが ヒトというのは元々が野生動物から遺伝的に進化した存在に過ぎませんから サルやイヌの習性とよく似た行動習性が先天的に組み込まれているため どうしても目先の欲望に囚われ社会安全性にまで配慮が働かなくなる傾向があるわけです

人間性とか倫理というものは 存在としての合理的根拠に基づく選択あってのものであり 先天的な行動バイアスに無意識に流されていたのではサルやイヌと何ら違いがなく 既に存在しているだけの自己の無意識な「結果」をどんなに大量に抽出枚挙しても人間性の論証にはならないのです

エマヌエル:カントは「叡智界」などという論理的根拠を無視した身勝手な妄想で満足しているだけであって これもまた既に存在している無意識な行動バイアスに流されているだけの「因果律」に過ぎないのです

ヒトという種の生物は 気分的に満足したり安心したりすることを 短絡的に人間性だの安全性だのと勝手に錯覚する習性があり それゆえ論理的根拠を無視して実証不能の観念に取り憑かれ 他人に多大な迷惑をかけたりするのです

本当なら論理的に考え選択すれば回避可能な危険性というものがあったとしても 目先の気分的満足によって危険性が放置されることがよくあります

本当の倫理や人間性というものは 本当に社会安全性が高まる選択が出来てこそのものであって 目先の主観的満足に溺れて論理客観的真理の追求を放棄していて倫理も人間性もヘッタクレもありゃしないのです

「叡智がないことになると 罪を問うことができない」と伊集院光は言ってましたが 「罪を問う」ことによって罰という暴力を正当化するために叡智などというファンタジーを事後正当化するためのこじつけでしかありません

罪人に罰を与えると気分的に満足します

ヒトはそういうふうにできているんですね

その主観的満足によって「全てが解決した」と勝手に錯覚する

罰であれ何であれ 暴力は主観的満足にしかならず 物事の本当の原因究明にも 当然再発防止にもなりません

だから危険学や失敗学では刑罰を一時停止するわけです

そりゃ通り魔事件なんてのは通り魔本人が「悪い」ことに間違いはありませんが 「なぜ悪いことをするようになったのか」についての原因究明をしないことには通り魔事件の根本的「解決」になどならないのです

通り魔にせよ 傷害事件を起こすバカにせよ 彼らが暴力を振るうのは 暴力を振るうことで主観的に満足感が得られるからであり これは「罰で解決」という感覚と何ら違いはありません

たとえ現行法に触れていなくても 社会安全性にとって最適な選択をしないというのは 社会的責任の放棄でもあるのです

 

「叡智」などというものはファンタジーにすぎません

理性を超越しちゃったり 人智を超越しちゃった「絶対に知覚出来ない」などという根拠不明な謎の力学で満足しているのは ただのバカでしかありません

それ 一体何の役に立つんでしょうね

どうやって応用するんでしょうね

何せ理性を超越しちゃっているので論理的説明が一切ありません

養老孟司の観念と同様「観念を閉じるためには論理客観的整合性の方を開く」という手法がペテン師の常套手段なのです

ヒトの先天的な習性を利用して 主観的満足さえ与えてしまえば ヒトは簡単に論理客観的検証に基づく「本当のこと」を見失うという先天的欠陥があるのです

「本当のこと」がわからなければ 当然ながら何が本当に社会安全性にとって最も有効なのかもわからないのです

それで人間性や倫理が語れるとお思いか?

それが「哲学」だとお思いか?

 

育児放棄で衰弱死するという事件も時折ありますが

なぜ育児放棄をしてしまうのかについての徹底した原因究明をしなければ再発防止についての合理性のある具体的対策にはなりません

社会にとって最も重要なのは安全性であって 育児放棄をした親を袋叩きにすることではありません

ヒトが本来の「目的」を見失うのは そこに本当の人間としての「意識」が働いていないからです

 

 

「自分が死にたくないから社会安全性に配慮する」のではなくて 「自分が生きるに価する社会でなければ生き続ける意味がないから社会安全性に配慮する」んですよ

じゃなければ自分の生存が優先しちまうでしょ

そのくせ他人には自己犠牲を要求する

社会安全性を後回しにしてまで生き残ることに一体何の意味があるんでしょうね

その「生存」に人間性なんぞあるんでしょうか

永遠に生きられるわけでもなければ たとえ永遠に生きられたとしても その「生存」に一体何の意味や目的が存在すると言えるんでしょうかね

どうせヒトは必ず死ぬんですよ

別に自暴自棄になることを勧めているわけじゃなくて「どう死ぬか」を選択してこその「どう生きるか」なんですよ

「生きて」いるのは結果であって 目的ではありません

目的というのは自発的な論理検証に基づいた選択の中にあるんであって 単なる生物的な「生存」価の中にはありません

 

ヒトは簡単にバカになれます

簡単になれるからバカなんですよ

めんどくさいことや嫌なことを避けていれば 簡単にバカになれます

しかし 本当に熱中できる好きなことがあれば 多少のめんどくさいことや嫌なことも苦にはならなくなるのです

だから他人の評価に左右されない主体的な純粋行為が必要なんですよ

 

Ende;

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

adieu

2020年07月10日 12時32分38秒 | 日記

ソニーの広告見てたらadieuって名前のアーティストが紹介されてて

激烈にかわいいのでクリックしてみたら上白石萌歌ちゃんだった

 

adieu(上白石萌歌) -youtube

 

 ◇追記:萌歌ちゃんねるあった

 

 

Ende;

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

自己客観性

2020年07月05日 11時50分21秒 | 意識論関連

純粋行為とは 他人からの評価や外見に関わらず個人的に好きなことを意味する

自分が何をしていれば楽しいのかは 自分でしか認識することは出来ない

加藤英明が砂漠の真ん中で一日中汗だくになってトカゲを探して一匹も見つからなかったとしても 加藤にとっては「楽しい」のである

他人からみたら難行苦行のようにも見えるのだが 当人的には「楽しい」のである

たとえ目当てのトカゲを見つけられたとしても それだけで何かの社会的価値になるわけでもない

これは加藤本人も自覚していることである

基礎科学というものは 純粋な好奇心による探求が動機になっており 先立って「何かの役に立つかどうか」という「目的」はなくても良い

とにかく「わからないことは とりあえず調べてみる」という姿勢で熱中して取り組むことによって それまで誰にも知られていなかった事実に辿りつくこともある

辿りつかないこともある

たとえ辿りつけたとしても評価が得られない場合もある

でも やるんですね

主観的にそれが「好き」なもんだから評価の有無に関係なくやる

これもある種の中毒や執着に因るものなんですが これは脳内麻薬の自給自足になるので 他人に迷惑がかからないような配慮もできるようになる

ところが 他人からの評価を期待して行われる不純な行為には「他人に対する迷惑への配慮」が欠如してしまう

論文で捏造が行われてしまうのも その研究内容というのが本当は純粋に好きなことではなく 他人からの評価欲しさへの執着(中毒)が原因である

 

新型コロナウイルス感染症拡大予防が重要な時期に 夜中にキャバクラだのホストクラブだのガールズバーだのフィリピンパブをハシゴして泥酔して大声出して騒いでいるバカというのも 「純粋に好きなこと」がわからないことが原因である

純粋行為を知らぬ者は他人への配慮が働かず 環境から提供される快楽のままに誘導される形で騒いでいないといられないのである

純粋行為に対して「それしかない」だとか言っているバカもいたが これは逆で むしろ純粋行為を知らぬバカこそが「環境から与えられる快楽」以外を主体的に選択することが出来ないのである

本当に好きなことをやろうとするのであれば エタノールだの薬物で脳を麻痺させようとはせず むしろ好きなことを存分に出来るように自分の健康にも配慮するようにもなる

 

学力成績がどんなに高くても 認知科学的には知能の論証には全くならない

そればかりか テロリストや通り魔の多くは学生時代に学力成績が高いことが非常に多い

学力成績というのは 記憶力と直結しているので 教えられたことを短絡的に鵜呑みにしておけば学力成績は高いのだが

学力成績という抽象化された「脳への報酬」欲しさに学力成績に執着していると たとえ間違った内容を教え込まれても 一切疑うことなく鵜呑みにするようになる

動機がそもそも環境依存的であるが故に 本質的な主体性がなく 自発的に検証するという「考え」がなく 必然的に批判精神も働かない

 

イジメやヘイトスピーチなどの「差別」というのは 他人への誹謗中傷をしている自己への客観性が欠落しているために 自己批判も出来ずに弱い立場の人を攻撃して気分的に満足しているだけである

実際ヘイトスピーチをやっているバカは暴力団や暴走族には何も言わない

怖い相手には逆らず 「勝てそうな相手」しか攻撃を仕掛けていない卑劣さを自覚する自己客観性が全く働かず 目先の感情が促す快楽のままに弱いものイジメをするのである

民族国籍が人格の優劣の論証に全くならないことは民俗学的にも分子生物学的にも明らかであり ましてや在日3世(日本人)の名字が外国由来だと言うだけで「国へ帰れ!」などと言い出すのは意味が全くわからない

批判精神は必要だが そこには論理的根拠が必要不可欠であり 同時に暴力などの物理攻撃が伴うのは合理性がなく 批判と差別の区別が出来ていない

主観的な好き嫌いがあっても構わないが それはあくまで個人的なものであって 社会的行動に直結して良いものではない

 

純粋行為というのは個人的な「好き」に基づくものであるが 個人の主観的な「好き」を追求出来ているが故に自己客観性も働くようになるのである

しかし 個人的に「純粋に何をしていれば楽しいのか」を知らぬ者は自己客観性も働かないため 先天的行動習性が促す行動のままに統率的協調性を発揮し イジメだのヘイトスピーチといった差別排除暴力に邁進していなければいられないのである

これもまた一種の「中毒(執着)」ではあるのだが 自己選択可能性というものが一切なく 環境によって促される先天的本能習性のままに因果律(運命)に流される形で社会的迷惑行為に邁進(暴走)しているのである

純粋行為を知っている者は暴走はしない

自己客観性が働くからである

自己客観性というのは論理検証性が必要不可欠であり 自己の主観的感覚だけではなく 論理客観性が働くことによって自己客観性も機能するのである

カントの純粋理性批判を読んで「自分には理性や人智を超越した謎の叡智が働いている」などという妄想観念で満足して鵜呑みにしているのも 自己客観性の欠落であり 主観的満足によって自己客観的論理検証性が後回しになってバカになっているのである

こうした主観的満足による自己客観性の欠落こそが因果律であり 「腹が立ったから正義だ」と思い込んでいるバカと構造は一緒である

 

Ende;

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

山中伸弥

2020年07月04日 21時09分51秒 | 意識論関連

遺伝的進化というものは全て生存という結果的必然性に過ぎず

そこに目的も戦略も介在しない

「生きるため」に意図的に変異するのではなく

「死なずに生き残った」という結果としての遺伝的進化に過ぎない

山中伸弥もこれを理解していないらしい

還暦近いジジイなので 野依良治と一緒でボケちまっってんのかもね

 

Ende;

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする