よく文科系の奴が言いたがるフレーズで「人類は どこから来て どこへ行くのか」ってのがあるが
「どこから来た」かについては選択可能性はなく 「どこへ行くのか」についての基準には一切ならない
「どこから来た」としても これから「どこへ向かうのか」とは無関係だからである
個人において人生の目的のようなものはあるとしても ヒトという種の生物そのものに目的や「答え」があるわけではない
個人が人生において目的を持つ上において 他人の目的にも配慮するのは必然であり その意味における公共的な「目的」としては安全性や持続可能性以外ない
ヒトという種の生物限らず あらゆる生物には種としての目的など存在せず ヒトがヒトなのは結果以上の何でもない
なぜ わざわざこれを確認せねばならぬのかと言えば 生物進化の結果に過ぎぬ生物としてのヒトが その結果的生存を目的だと勘違いしてしまっていたからこそ優生学などというオカルトに陥っているからである
経済における金儲けを目的としてしまうことによって「組織の利益を優先し 個人が自律的な社会的責任を負わなかった」ことによって原発は暴走したのであり
子供じみた好奇心というものには歯止めがなく 論理客観的根拠が伴わない実証不能の観念であっても 一度「答え」や「目的」だと錯覚してしまえば簡単に暴走が始まることになる
ヒトという種の生物に限らず 生物やウイルスにも「目的」などなく あるのは「結果」的生存や存続だけである
人は 論理客観的根拠のために生き続けているわけではない
生きているのは結果に過ぎず ヒトという種の生物としての存在自体には目的などない
「人が人を殺してはいけない理由」が存在しないのと同様に 「人が生きなければならない理由」も存在せず
これは同時に「人が殺し合うような社会で生き続ける理由」も存在していないのである
「どのような社会であるべきか」という理想なくして単なる自己の生存価だけを追求していては持続可能性も安全性も後回しにされることになる
社会持続可能性や安全性を後回しにしてまで「人間」として生き続ける合理的理由は存在しないのである
ヒトは論理客観的検証性がある
それは 本質的な「目的」意識のことである
先天的に組み込まれた選択不可能で無意識な行動バイアスに流されることなく 自発的に「考える」という理性によって 人は社会安全性を求めることも可能なのである
エマヌエル:カントは そもそも理性というものを単純な探究心や好奇心と勘違いし 理性以外の「悟性」だの「純粋統覚」などと称して論理的根拠を蔑ろにした勝手な実証不能の観念のでっちあげによって人間性や倫理が発揮されると勘違いし その満足感に溺れて自己検証性を喪失することを促しているファンタジーに過ぎない
考えないバカは「罰で解決」だと既存の価値観を鵜呑みにして思考停止に陥る
ヒトが他の動物よりも著しく「優れて」いるのは 先天的行動バイアスに漫然と流されるだけではなく 様々な情動の中から最も優先順位の高いものを「選択」することが可能な理性を持っている点である
理性は運命的に決定した結果だけに陥ることなく 絶滅を回避することも可能となる点において「優れて」いると言える
ヒト以外の動物の場合 環境に適応できない先天的な形質や習性があれば淘汰の対象にしかならなず 絶滅の道を避けることが出来ない
別に生存は目的ではないが 自己が存在し続ける上において次世代へ社会を受け継ぐ持続可能性を模索することは合理的必然性があり 社会持続可能性を求めずに自己が存続する合理的必然性は何もないのである
たとえ犯罪者が「歴史上類を見ない凶悪犯罪で名を残す」と言い張っても それは社会が存続していることを前提とした「甘え」に過ぎない
自己自身で社会持続性を担保しないにも関わらず 「歴史に名を残す」というのは子供じみた評価承認欲求の暴走であり これもまた「答え(目的)」に囚われ自己に対する論理的検証性を喪失している状態だと言える
すなはち 要するに自己客観的論理検証性が伴わないから「幼稚」なのである
幼稚な子供には問題解決能力はなく 子供だけで集団生活をさせればシーケンシャルにイジメが発生するようになり しかも自律的には一切歯止めも効かず殺人にまで発展することもある
カントやニーチェを哲学だと勘違いし 幼稚な屁理屈を鵜呑みにしているからこそ 客観的論理検証性という人間としての意識の存在価値を軽視してしまうことに陥るのである
カントの屁理屈に基づいて考えれば なぜ犯罪者が現象界(因果律)に従って行動して「叡智」を発揮することが出来ないのかについての論理客観的説明が一切出てこないのである
何せ「叡智」というものは理性を超越しちまっているので論理的説明をするつもりが一切なく 「なぜ叡智が絶対に知覚出来ないと言えるのか」についても説明は全くなく カントの勝手な妄想と決めつけ以上の意味が一切ないのである
ただの文芸(芸術)として見ればカントの純粋理性批判を読んで主観的に満足するのは勝手だが これを論理的根拠に基づいた「考え(哲学)」だと勘違い錯覚しているのはただのバカとしか言いようがない
こんな馬鹿げた話を「近代哲学の最高峰」だと信じているのは脳が幼稚だからである
ヒトという種の生物は 主観的に満足安心することと論理客観的に安全なことの区別が満足に出来ない先天的欠陥があるため 糞の役にも立たぬ実証不能の観念を「哲学」だと勝手に勘違いし 疑うことを一切しなくなり
それが如何に社会的に無責任であるのかについても自覚はない
伊集院光は「叡智界が存在しなければ 罪人に罪を問うことができなくなる」などと言い出したが これは既に行っている罰(犯罪者に対する暴力/差別)を事後正当化するために実証不能の観念の存在をでっちあげているようなものであり 本末転倒も甚だしいデマゴーグである
ヒトは暴力を振るうと気分的に満足する これはノルアドレナリンを「消費」することによってセロトニンによる副交感神経系への快楽を促す脳のシーケンスによるものである
生物の進化過程において 暴力は生存にとって有利な行動だと言え これが「罰(暴力)で解決だ」という合理性のない観念(錯覚)を生み出すメカニズム構造であり ヒトという種の生物における「人間としての欠陥」でもある
生物の進化過程において ヒトという種の生物になったのはここ数万年程度の話であって ヒト以前の進化過程の方が圧倒的に長く 先天的行動習性の大半はヒト以外の凶暴な野生動物とさしたる違いはなく リチャード:ドーキンスよろしく「進化によって自動的(自然)に人間性が発揮される」などというお伽話は 大衆の脳を酔わせて満足させているだけ大衆迎合に過ぎず 到底科学的論証にはならない
脳が脳内麻薬で酔い 主観的に安心満足することを 論理客観的な安全性か何かと錯覚するのも ヒトの先天的欠陥である
ヒトという種の生物は 人間になろうとして進化したわけではなく 結果的に論理客観性も持つこともできるように大脳が肥大したに過ぎず 気分感情的な安心満足ばかりを追求していれば論理客観的「考え」をしなくなり バカになることは簡単である
自己の主観的好き嫌いは選択不可能である
「欲望自体を欲することはできない」のである
しかし 「欲望に優先順位をつけて合理的行動選択をする」ことは可能である それが「客観性」というものである
「ムシャクシャしたから殴った」とか「アオリ運転をしてやった」では人間性に重大な問題がある
「なぜ自分はムシャクシャしているのか」を自己客観的に検証し どこにどのような問題があるのかを突き止め 再発防止のための対策を立てる理性がなければ人間性とは言えないのである
ヒトは信じたいものだけを信じようとするが 「信じたい」かどうかは主観的好き嫌いに過ぎない
自己の主観的好き嫌いを疑う論理客観性がないから論理検証性も失いバカになるのである
バカは簡単に騙され カントの純粋理性批判も「近代哲学の最高峰」だと言われれば鵜呑みにしてありがたがる
バカは自律的には検証判断することが出来ない
自律的に判断出来ないことを「バカ」というのである
遺伝的進化によってナメクジウオのような魚がヒトに進化したからといって ヒトがヒト以上の何かになる必要性はない
私は 気付いた時には私であった
それは誰もが同じである
自閉症と診断された人が絵を描くことに目的などなく
ヒトはどこからも来ていないし
どこへも行く必要性はない
ただ ここにいるだけの存在であり それ以上の何者かになる合理的必然性などない
今以上の何者かにならなければならないという強迫観念は他人からの評価承認欲求が作り出した妄想であって 幻に過ぎない
ヒトの個体が個人的に望む目的は存在しているとしても ヒトという種の生物そのものには目的など理論的に存在しないのである
ゾロアスター教による超人幻想は600万ものユダヤ人を死体に変換するという不毛な蛮行の原因となった
他人からの評価を棄ててしまえば「自分が楽しい」だけで充分である
自分が純粋に楽しければ 他人の楽しさにも配慮が出来る
それ以上の何にもなる必要性はなく
どこにも行く必要性もない
「楽しい」とは言ってもギャンブルや薬物や目先の享楽に依存することではなく あくまで個人が純粋に楽しめなければ 本当の意味での自己満足(脳内麻薬の自給自足)にはならないため 簡単にブチ切れて暴れたりするようになったのでは話にならない
本当の意味での主体性があれば 簡単にブチ切れたりはせず 耐えることも論理客観的に検証することも出来るようになる
それが本当の意味での「人間としての社会性」というものであり たとえ過去に過ちを犯していたとしても過ちを過ちだと自覚し 繰り返さなければ良いのであって 「どのように育てられた」とか「どのような社会で育った」かで「これから自分がどうすべきか」が導き出せるわけではない
しかし 受刑者の6割は幼少期に暴力を伴う虐待を受けていると言われており 子供は自分の養育環境を選ぶことが出来ない
それなら子供の養育環境というものは社会安全性において最も基礎を成すものであって 公的に保全しなければならない
それでも既に育児放棄などによって子供が死亡する事態というものは存在しているのであって 親が間違った育て方をしてしまう原因について徹底的に究明し 再発防止の対策を重層的に行う必要性がある
ヒトという種の生物の先天的な親性だけに頼った現在の児童福祉には限界があり 犯罪者の温床となる家庭環境がどのようなものであるのかを全く解明することが出来ない
誰も犯罪者になりたくて産まれてきたわけではないのであって それが養育環境が原因で犯罪者になってしまう大きな要因になっていることは明白であり これを刑罰という感情論で「解決」だとしてしまうのは あまりに短絡的で合理性が著しく欠けている
梅沢富美男的に「こんな奴は死刑にしちまぇ!」とでも怒鳴り散らしておけばバカな大衆の多くからは人気を得ることは可能であろうが 相模原障害者施設津久井やまゆり園虐殺事件の植松聖のような奴がどうして出てきてしまうのかについての徹底した原因究明と再発防止の方を優先すべきであり そのプロセスにおいて刑罰は邪魔にしかならない
植松聖に限らず 大量虐殺事件を引き起こすような典型的なバカというのは自発的論理検証性が著しく欠如しており この理性の欠如というものは一般大衆における理性の欠如性が温床原因となっているのである
一つの重大事象の影には無数の小さな事象が隠れている(ハインリッヒの法則)のであって 大衆の頭の悪さや論理検証性の欠如こそが大量虐殺犯人という重大なバカの温床となってしまっているのである
エマヌエル:カントだのマルクス:ガブリエルだのマイケル:サンデルなどというオカルト観念を哲学だと鵜呑みにしている大多数のバカがいるからこそ 大量虐殺事件などという「重大事象」が生み出されてしまうのである
大衆の多くは その場限りに大多数のご機嫌取りをすることを「人間性」などと勘違いしているが それは人間性ではなく大衆迎合に過ぎない
大衆迎合というのは論理客観的根拠は必要なく 時代や社会という環境に依存した流行に過ぎず 何ら安全性や持続可能性の保証や根拠には全くならない
梅沢富美男の「死刑にしちまぇ!」は多数人気は得られるが再発防止には全くならないのである
大量虐殺事件が起きる度に実行犯を死刑にしても 「なぜ大量虐殺などという非合理な行動を採るバカが出てくるのか?」についての論理客観的原因と再発防止への合理的対策には全くならない
目先の主観的感情を満たすだけの大衆迎合的な人気取りで満足し 社会安全性を優先しないことがどれだけ社会的に無責任であるかを「理解」していないからこそ 「刑法判決で解決」という不毛な社会制度がいつまでも温存され続けるのである
「どのような親であるべきか」については マニュアルがあるわけではなく 親自身が「どのような社会が理想で そのためにはどのような人間が必要なのか」を理解し自覚しておく必要性がある
自発的に物事を考えないバカが 自発的に物事を考える「本当に賢く社会にとって役立つ人材」を育てられるわけがない
バカな親は学力さえ高ければ「頭が良い」と思っているが これは著しい重大な間違いである
たとえノーベル賞を受賞していてもバカはバカなのである
Ende;