スタンダードだとかイレギュラーだとかいう分類の仕方をする人がいるんだけど
この分類方法には論理的根拠がなくて、観念的分類に過ぎないことが大半なのね。
組織犯罪がスタンダードで単独犯罪がイレギュラーなんていう分類を高橋和夫がしてたけど、これも意味がない。
暴力的組織に所属していることがスタンダードなテロリストで、単独通り魔がイレギュラーであることの論理的根拠が全くなくて、単に高橋和夫の専門分野上で組織に所属することがスタンダードなだけであって。ヒトの行動として暴力的で異常なことに違いなどない。
政治とか社会的環境なんていうのは、所詮個人の集合体の結果であって、その社会自体を作っていたり、変えたりするのは最終的には個人であり。政治や社会環境なんていうのは文科系大衆観念的な「大まかな括り」を述べているに過ぎず、根本的なヒトの危険性そのものではない。
地域や時代といったものにヒト個人が影響されやすい性質があるのは確かだが、そういった環境に左右されやすいヒトの性質こそが地域や時代の不安定要素を作り出しているのであって。地域や時代といったものは「結果」的な大まかな流れに過ぎないのである。
アフリカの静かな田舎町であっても、ラジオ扇動で突然集団虐殺が発生することもあるし。平和な日本で突然テロが発生することも珍しいことではない。それを単に政治環境と無関係だからといってイレギュラー扱いして無視するというのは、高橋和夫は全てを自分の専門分野だけで説明しようとする傲慢さに他ならない。
ヒトという種の生物というのは、先天的に異常性を持っており。残虐行為というのは政治や社会環境によって発生に偏りはあれども、どこでも発生する可能性があり。その集団規模だけを原因として扱うのは間違いである。
ハインリッヒの法則に基づいて考えれば、大きな事象だけを特別扱いして、それだけを見ているというのは間違いであり。ISILのような大きな事象であっても、日本の学生による殺人事件であっても、その事象の大きさの違いこそあれ、個々のヒトの行動原理にはさしたる違いなどないのだ。
高橋和夫や伊勢崎賢治などは、社会情勢さえ改善すれば全ては丸く収まるかのように述べているが。これはいわば、見えているカビだけを論じているようなものであって、見えていない根の部分や発芽していない胞子を無視しているのである。
カビが見えるようになるまでは、根の部分が充分に育つ必要があり。これこそが無数の「ヒヤリ、ハッと」事象なのである。
ISILに比べてしまえば、日本の学生による殺人など小さな事象だと分類することは簡単かも知れないが、ISILの構成員一人一人の狂暴性というのは、日本の学生が起こす殺人と基本的には同じものなのであって。決して「違うもの」でも「イレギュラー」でもないのである。
たとえISILであっても、個々の構成員の暴力性の集積であり。事象が大きくなったからといって、決して特別に原因自体が異なるわけではない。
政治や社会状況を改善するための対策というのも短期的には確かに必要かも知れないが、それは対処療法に過ぎず、決して根源的原因究明にはならないことは明確に認識しておく必要性がある。
ヒトの人格性というものはグラデーション/スペクトルである。それこそ心優しい女性救急隊員までもが自爆テロ以外に選択の余地がないようなパレスチナの社会状況というものもあるが、平和な日本においても勝手な観念に基づいて障害者を虐殺するというケースも出てくるのであり。社会状況が与える影響というのは、個々の個人の狂暴性を促進することはあれども、根本的原因というのはヒトという種の生物自体が持つ先天的本能習性にこそ存在するのである。
「ヒヤリ、ハッと」的な小さな事象にまで踏み込もうとすると、これを面倒臭さがる奴が結構多いのだが。考えるのが面倒臭さいから短絡的な解決方法でなんとかしようとする短絡性こそが、ヒトの愚かさを助長する原因でもある。
危険な事象が大きくなる過程においては、こうした小さな事象を見逃すことがたくさん発生しているからこそ、事象が拡大してしまうのである。
大衆マスコミの大半は、事象が拡大してから当事者だけを糾弾しておけば気分的に安心満足なのであろうが。これこそが社会的無責任行為であり、再発防止や問題解決から遠ざかる大きな要因なのである。
報道屋の習性として、視聴率や発行部数といった成績稼ぎのために、多数の小さな事象を無視する傾向がある。
溺死の大半が自宅の風呂で起きているにも関わらず、海や川での溺死事故だけを報道するのもその一つであり。その場限りに数字成績が得られそうなセンセーショナリズムに陥ることは、拝金主義であり、社会的に無責任なのである。
進化生物学者達による嘘の放置というのも、文科系マスコミにとっては些細な話だと思っているのであろうが。進化生物学界が優生学に対する論理反証を無視したのも、相模原の障害者虐殺事件の動機の一つともなっているのである。
その意味において松沢哲郎らはA級戦犯である。
当人にその自覚があるかどうかは関係がない。「進化生物学界全体が間違っていたから仕方がない。」などという話を持ち出すのであれば、もはや科学的権威の存在価値そのものが不要になってしまうからである。
生存自体を目的にしてしまうからこそ、「一つのパンを10人で分ければ、全員が死んでしまう。」などという話が出てくるのであり。人間性の観点から考えれば「パンを独占して一人だけ生き残ること。」には何の意味もないのである。
そもそも現在の状況というのは、実際には「10個のパンを10人で分ければ間に合うのに、数人で独占してしまっているから足りなくなっている。」に過ぎず。動物的な生存価を優先するからこそ、独占などという非人間的行為が正当化されてしまうのである。
その結果が格差を生むのであり、進化生物学界の罪は極めて大きい。
勿論、それを傍観放置しているマスコミも同罪である。
論理的に正しい話を「イレギュラー」扱いして、進化生物学界内部だけの「スタンダード(根拠のない常識)」を鵜呑み/傍観している罪を、誰も認識していないからこそ、ISILや学生の暴走にも歯止めがかからないのである。
サブプライムローンよろしく多数でリスクを分散すれば罪が薄まるとでも思ったら大間違いである。
天動説が常識の世界で地動説を説いても、大半のヒトは信じ「たがらない」であろうが。それは主観的気分の多数決に過ぎず、論理的/科学的根拠ではない。
それを「実証不能の観念」と言うのである。
それは科学的見地からはオカルトでしかない。
オカルトに実効性がないのは当たり前の話である。
Ende;
この分類方法には論理的根拠がなくて、観念的分類に過ぎないことが大半なのね。
組織犯罪がスタンダードで単独犯罪がイレギュラーなんていう分類を高橋和夫がしてたけど、これも意味がない。
暴力的組織に所属していることがスタンダードなテロリストで、単独通り魔がイレギュラーであることの論理的根拠が全くなくて、単に高橋和夫の専門分野上で組織に所属することがスタンダードなだけであって。ヒトの行動として暴力的で異常なことに違いなどない。
政治とか社会的環境なんていうのは、所詮個人の集合体の結果であって、その社会自体を作っていたり、変えたりするのは最終的には個人であり。政治や社会環境なんていうのは文科系大衆観念的な「大まかな括り」を述べているに過ぎず、根本的なヒトの危険性そのものではない。
地域や時代といったものにヒト個人が影響されやすい性質があるのは確かだが、そういった環境に左右されやすいヒトの性質こそが地域や時代の不安定要素を作り出しているのであって。地域や時代といったものは「結果」的な大まかな流れに過ぎないのである。
アフリカの静かな田舎町であっても、ラジオ扇動で突然集団虐殺が発生することもあるし。平和な日本で突然テロが発生することも珍しいことではない。それを単に政治環境と無関係だからといってイレギュラー扱いして無視するというのは、高橋和夫は全てを自分の専門分野だけで説明しようとする傲慢さに他ならない。
ヒトという種の生物というのは、先天的に異常性を持っており。残虐行為というのは政治や社会環境によって発生に偏りはあれども、どこでも発生する可能性があり。その集団規模だけを原因として扱うのは間違いである。
ハインリッヒの法則に基づいて考えれば、大きな事象だけを特別扱いして、それだけを見ているというのは間違いであり。ISILのような大きな事象であっても、日本の学生による殺人事件であっても、その事象の大きさの違いこそあれ、個々のヒトの行動原理にはさしたる違いなどないのだ。
高橋和夫や伊勢崎賢治などは、社会情勢さえ改善すれば全ては丸く収まるかのように述べているが。これはいわば、見えているカビだけを論じているようなものであって、見えていない根の部分や発芽していない胞子を無視しているのである。
カビが見えるようになるまでは、根の部分が充分に育つ必要があり。これこそが無数の「ヒヤリ、ハッと」事象なのである。
ISILに比べてしまえば、日本の学生による殺人など小さな事象だと分類することは簡単かも知れないが、ISILの構成員一人一人の狂暴性というのは、日本の学生が起こす殺人と基本的には同じものなのであって。決して「違うもの」でも「イレギュラー」でもないのである。
たとえISILであっても、個々の構成員の暴力性の集積であり。事象が大きくなったからといって、決して特別に原因自体が異なるわけではない。
政治や社会状況を改善するための対策というのも短期的には確かに必要かも知れないが、それは対処療法に過ぎず、決して根源的原因究明にはならないことは明確に認識しておく必要性がある。
ヒトの人格性というものはグラデーション/スペクトルである。それこそ心優しい女性救急隊員までもが自爆テロ以外に選択の余地がないようなパレスチナの社会状況というものもあるが、平和な日本においても勝手な観念に基づいて障害者を虐殺するというケースも出てくるのであり。社会状況が与える影響というのは、個々の個人の狂暴性を促進することはあれども、根本的原因というのはヒトという種の生物自体が持つ先天的本能習性にこそ存在するのである。
「ヒヤリ、ハッと」的な小さな事象にまで踏み込もうとすると、これを面倒臭さがる奴が結構多いのだが。考えるのが面倒臭さいから短絡的な解決方法でなんとかしようとする短絡性こそが、ヒトの愚かさを助長する原因でもある。
危険な事象が大きくなる過程においては、こうした小さな事象を見逃すことがたくさん発生しているからこそ、事象が拡大してしまうのである。
大衆マスコミの大半は、事象が拡大してから当事者だけを糾弾しておけば気分的に安心満足なのであろうが。これこそが社会的無責任行為であり、再発防止や問題解決から遠ざかる大きな要因なのである。
報道屋の習性として、視聴率や発行部数といった成績稼ぎのために、多数の小さな事象を無視する傾向がある。
溺死の大半が自宅の風呂で起きているにも関わらず、海や川での溺死事故だけを報道するのもその一つであり。その場限りに数字成績が得られそうなセンセーショナリズムに陥ることは、拝金主義であり、社会的に無責任なのである。
進化生物学者達による嘘の放置というのも、文科系マスコミにとっては些細な話だと思っているのであろうが。進化生物学界が優生学に対する論理反証を無視したのも、相模原の障害者虐殺事件の動機の一つともなっているのである。
その意味において松沢哲郎らはA級戦犯である。
当人にその自覚があるかどうかは関係がない。「進化生物学界全体が間違っていたから仕方がない。」などという話を持ち出すのであれば、もはや科学的権威の存在価値そのものが不要になってしまうからである。
生存自体を目的にしてしまうからこそ、「一つのパンを10人で分ければ、全員が死んでしまう。」などという話が出てくるのであり。人間性の観点から考えれば「パンを独占して一人だけ生き残ること。」には何の意味もないのである。
そもそも現在の状況というのは、実際には「10個のパンを10人で分ければ間に合うのに、数人で独占してしまっているから足りなくなっている。」に過ぎず。動物的な生存価を優先するからこそ、独占などという非人間的行為が正当化されてしまうのである。
その結果が格差を生むのであり、進化生物学界の罪は極めて大きい。
勿論、それを傍観放置しているマスコミも同罪である。
論理的に正しい話を「イレギュラー」扱いして、進化生物学界内部だけの「スタンダード(根拠のない常識)」を鵜呑み/傍観している罪を、誰も認識していないからこそ、ISILや学生の暴走にも歯止めがかからないのである。
サブプライムローンよろしく多数でリスクを分散すれば罪が薄まるとでも思ったら大間違いである。
天動説が常識の世界で地動説を説いても、大半のヒトは信じ「たがらない」であろうが。それは主観的気分の多数決に過ぎず、論理的/科学的根拠ではない。
それを「実証不能の観念」と言うのである。
それは科学的見地からはオカルトでしかない。
オカルトに実効性がないのは当たり前の話である。
Ende;