複雑性が私たちを不安へと駆り立て、リアルを歪める
私たちはいま、自由の「限界」について、とても深刻な懸念を抱いていると言えるでしょう。この番組をご覧になる視聴者、あるいは読者のみなさんの中にも、自らの自由がとても危険な状態にさらされていると感じ、不安を持っている方々もいらっしゃるかもしれませんね。
現代に生きる私たちは、大きな力―――資本主義、人工知能、あるいはデジタル分野における驚異的な技術の進歩など―――実にさまざまな角度から、脅威 にさらされていると感じているのです。このデジタル社会の中で、人間という存在が消え去って、ごく小さな断片に、つまり簡単に操作し再構成できてしまうスマートフォンのモジュールにでも分解されてしまうかのような恐怖を抱いています。そして、このプロセスの最後には、自由や個性が完全に失われてしまい、自らが単なる消費の対象になってしまうのではないかという無力感に覆われているのです。これは、実は信じられないほど広がっている感覚であり、意識、無意識どちらのレベルかを問わず、多くの人々がこのように感じていることを、私はよく理解しているつもりです。
いま私は、ニューヨークの中心、マンハッタンのビルの高層階で話しています。窓から周りを見渡せば、目に飛び込んでくるビル街は、まるで無限の連なりのようにすら感じられます。現実にはもちろん無限ではないものの、ここには、非常に高いレベルの社会的な複雑性があると言えるでしょう。
社会的な複雑性というこの重要な概念をまず考えてみましょう。この概念こそが、自由について、人々をさまざまな不安へと駆り立て、民主主義の価値の危機、人間そのものの危機、リアリティそのものの危機を煽り立てているものだからです。多くの人々がどこかしら、自分自身が確かに生きているというリアリティから切り離されていると感じていることとも無関係ではないでしょう。そのような考えによれば、いまの私たちは、たとえてみれば、目の網膜を通して世界を眺めている脳のようなもので、そこにはあるフィルターを通したバイアスがつねに存在しているというわけです。
つまり、リアルな姿が、歪んでしか見えないことになっているのです。
どんな社会システムも複雑性を抱えている
さあ、いまの世の中のさまざまな現象を眺めてみましょう。現代の社会の複雑性と向き合ってみるのです。社会的な複雑性とは、その言葉が示す通り、複合的かつ複雑なリアリティを伴いながらも、実は、きわめてシンプルな現象のはずなのです。
たとえば、銀行という場を考えてみましょう。
ここマンハッタンには、とてもたくさんの銀行やソフトウェア会社があります。グーグルは通りのすぐ先にありますし、アップルのマンハッタン本社などもありますね。銀行という一つの金融組織をあらためて観察すると、そこにはさまざまに異なる社会の遠近法、構図が見えてきます。フロアの清掃をしている人もいれば、CEO、ビルの建築家もいます。デジタルインフラを支える人たちや、数多くの従業員、顧客もいるわけです。
このように非常に複雑なシステムがそこにあり、この銀行で役割を果たすすべての人々が、銀行という存在、会社という存在に貢献しているのです。それぞれの人に見えている視点、それぞれの人の目に映る光景と無関係に存在する会社などありえません。そして会社は、私たち自身に対しても、多様な見方を生み出すことでしょう。会社という場で、人々はみな、給料をもらったり、搾取されたりしているわけですからね。
とはいえ、社会的な複雑性は、それを見ている人々の目の中にだけ存在するのではありません。私たちは、起きていることをすべてコントロールすることはできないのです。システムは、そのシステムの中で人々ができることをある程度左右します。つまりシステムが、ドイツ語でSpielraum(余地/余裕)という概念で示されるものを、私たちに与えるのです。もう少しそのニュアンスをかみ砕いて説明するなら、「裁量の余地」と言ってもいいかもしれません。
これが組織の役割です。どんな社会システムも複雑性を抱えているのです。
自由とは?――哲学はある概念が本来何であるかに答える
グローバル資本主義というシステムの中にあっては、その複雑性は、どんな個人的選択をも超えたところにあると思われるかもしれません。だからこそ、人々は、こうした複雑性の高まりに脅威を感じているわけです。いま世界中で起きていることを人々は脅威と感じ、さまざまな危機を感じているわけですが、それは、人々がその複雑性に対応しようとしている証拠です。
そしてそのとき多くの人々は、その複雑性を大幅に減らすことによって、社会の本質についての幻想を作り出して対処しようとしているように、私には思えます。これは、この時代の根本的な問題です。以下でこのことについて詳しく説明していきましょう。ここにまず、私たちがまさに理解しなければならないポイントがありますからね。
その際の最善の方法は、哲学的なツールを使って、この問題を理解することです。私たちが、理解不能な力学の犠牲者とならないために、哲学こそ、この複雑性の力学を理解するのに役に立つ最良の学問であるはずだからです。特殊な一つの角度から、さまざまな社会的な複雑性を見つめてみましょう。そして、最後に自由の概念そのものを再考する術をご紹介しましょう。
あらためて、自由とは何なのでしょうか? 自由は民主主義とどのように関係しているのでしょうか? そして、なぜ民主主義は世界中で脅威にさらされているのでしょう?
それこそが哲学者の仕事です。哲学者は、ある概念が本来何であるのかという問いに答えようとします。正義とは何か、美とは何か、都市とは何か、銀行とは何か、人の心とは何か、人間とは何か、人工知能とは何か、社会的ネットワークとは何か、といった問いです。
これらは、すべてこの時代の問いであり、哲学はそれに答えることができる学問なのです。
カントによる「自由意志」はどこまでが「自由」か、問題提起する
「自由」とは? その定義の背景を考えるには、歴史を知らねばなりません。日系アメリカ人の政治思想家であるフランシス・フクヤマが、著書 『アイデンティティ』で指摘しているように、「自由」は現代人の精神構造にとって非常に重要な役割を果たしている、歴史に関わる事柄です。
フクヤマは、ドイツ哲学を想起させる主張を展開しています。彼は、アメリカ社会を構成する思想の三本の柱として、哲学者のイマヌエル・カント、ゲオルク・フリードリヒ・ヘーゲル、そして神学者のマルティン・ルターをあげていますが、これはきわめて興味深いパラドックスです。なぜなら、アメリカのアイデンティティについて語っているはずのフクヤマが自ら、「アメリカのアイデンティティとはドイツ哲学にほかならない」と言っているように思えるからです。これ自体が、注目すべき現象と言えるでしょう。
このねじれた問題について私自身の解決策をご紹介する前に、自由と自由意志を理解する上でドイツの偉大な哲学者たちが果たした貢献について見てみましょう。最初に理解する必要がある哲学者は、イマヌエル・カントです。彼こそ、価値体系としての自由と民主主義を考える上で、とても重要な人物だからです。
カントは、ある概念を導入しました。「自由意志」という概念です。ある意味で、その概念を理解するのは、とても簡単です。カントは複雑に説明していますが、彼の考えは実はとてもシンプルなのです。まず、彼は意志の概念を定義します。私たちが自由について語るとき、私たちはしばしば、同時に自由意志について語り、それらは私たちに任されていると考えます。
あることが私に起こります。たとえば、手の爪が伸びたり、歳を取ったりします。この世に生まれてから、さまざまなことが私には起こり、そして最後には死ぬことでしょう。こうして私に起こることに対して、私にはできることもありますが、できないこともあります。私の肉体は細胞で構成されていて、宇宙には定数があります。重力は、宇宙にある一定の方法で存在し、私の肉体を制約します。
他者への認識と想像力まで含んだ意志が、「自由意志」である
自然には、一定の法則があります。これについては、私は好き勝手にはできません。私は、これらの法則を見出します。私は、それを変える決定はできません。私が何をしようが、自然の法則を変えることはありません。それは、私の勝手にはならないのです。その一方で、なかには、私の勝手になるものもあります。誰と結婚するかとか、誰と昼食を食べるかとか、何に賛成するかとか、どのように考えるかとか、私は何が好きか、などです。その意味では、私の人生、あなたの人生の中で、多くのことは、私たちの勝手に任されています。それらは、自由と自由意志に関連したものです。
さあ、ここでカントの登場です。カントは、自由と意志について、非常に興味深い定義を与えています。彼の言葉を引用しましょう。「意志とは、私たちがなすべきことを表して行動する能力のこと」です。これは、おおよそ次のようなことを意味します。まさにいま、あなたは私を見ていて、私が踊りはじめるとは思っていませんね。少しだけならまだしも、もし私がこれから一時間踊りはじめたら、このインタビューの私の「語り」は、成立しなくなってしまうことでしょう。また、もし私の言葉を映像を通して聴いて、あなたが突然隣人を殺しはじめたら、あなたも重大な間違いを犯していることになります。当然のこととして、私たちがすべきことはいくつかありますし、人間が置かれているあらゆる状況において、私たちがすべきことと、すべきではないことがあることを、私たちは知っています。いずれにせよ、こうしたことには、誰もが同意することでしょう。
その意味において、カントの考えによれば、拷問者やきわめて邪悪な人でさえも、拷問を上手に行うためにはしなければならないことがあるし、またしてはならないこともあると知っているのです。拷問者であろうとマザー・テレサであろうと、何をすべきか、何を避けるべきかについて、ある種のイメージを持っているのです。
自分自身の見方に照らして行動するこの能力こそ、カントが 「意志」 と呼ぶものです。意志とは、時に自分自身を考えることによって、物事を行う、という意味です。私は、カメラの前での自分の体の位置を認識していますし、あなたが私の言葉をどのように理解しているかについても、認識と想像力を持っています。
意志の調整の最適化としての「自由意志」が働けば、自由=道徳となる
いまこうして私が話し、それが映像で記録された番組をご覧になっている方には、画面の下に、おそらく日本語字幕がついていますね。私にはいま、日本語の字幕は見えませんが、画面のこのあたりに字幕があるだろうと想像はできます。それは、いま私がしていることが実行されているということです。つまり私の行動は、あなたの心の中の私のイメージに照らして行われているのです。それは、社会的な複雑性のほんの一例です。いま私たちは、同じ社会システムの一部となっているのです。それは、私に意志があり、あなたにも意志があり、私たちの意志が、この特定のケースにおいては、メディアを通して調整されているということを意味します。この番組にはディレクターがいて、NHKというテレビ局があって、日本には多くの街があり、さまざまな見方をする人々がいる、非常に複雑な社会システムがあります。ここに関わるすべて、あらゆるインフラが、多くの意志によって、調整されているプロセスなのです。
カントによれば、自由意志とは、意志の調整の最適化のことです。ですから、もしあなたが意志をうまく均衡化できるなら、そしてよい均衡を達成したいと思うのならば、それは自由意志であり、だからこそカントは、道徳と自由は同じだと考えています。さらにカントによれば、悪人も完全に自由ではありません。なぜなら、悪人は、自由な人々を破壊したがるからです。良い人、良いインフラ、良い組織は、実際には、自由意志の量を増やす機能を果たします。
「自由意志を欲する自由意志」 こそが民主主義
こうしたカントの議論に、ヘーゲルを登場させてみましょう。実は、これは冒頭に触れたフランシス・フクヤマの主張に関わる話でもあります。
ヘーゲルは、『法の哲学』 という非常に重要な本を著しました。そこで彼は、法の支配とは何か、すなわち、今日私たちが民主主義と考えているものを定義しています。彼が民主主義という言葉を使っていないのは、当時は、民主主義という言葉が、現代のような意味を持っていなかったからです。おおむね、私たちが民主主義と言うとき、ヘーゲルが 「法の支配」ないし「権利の支配」、あるいは 「権利の体系」 と呼んでいたものを意味します。これらは、ほぼ同じ考え方で、ヘーゲルは法の支配という基本概念を、いくつかの美しい表現で定義しています。
だから、「民主主義」はヘーゲルの言葉ではありませんが、私はいま、それを彼の言葉として使うことにします。民主主義とは、「自由意志を欲する意志」のことです。すなわち、それは、「自由意志を欲する自由意志」なのです。これは、裁判などの場を思い浮べてもらえば理解できることでしょう。あなたは、隣人に気に入らないことをされたとき、裁判を起こします。隣人ともめごとになったり、交通事故にあったりもします。そして裁判になって、判決を受けるとき―――裁判官が判決を下すときには、いったい、何が起きるのでしょうか。
公的な判断が行われます。すなわち、私たちの意志の調整がなされるということです。ですから、判断という概念や正義という概念が意味するのは、私が欲しいものを手に入れるということでも、ほかの人が自分の欲しいものを手に入れるということでもありません。正義の概念とは、さまざまな意志の調整を行い、そのバランスを再び確立させることなのです。判決が出れば、私たちはまた隣人として暮らすこともできます。だからこそ、ドイツ哲学の伝統全体が、思考すること―――思想家として私たちがすること、つまり人間であること―――とは、判断することである、と述べているのです。
実は、そうカントも述べています。思考することとは、判断することである、と。ここに到ってカントからヘーゲルへと思想のリレーがつながるのです。
マンハッタンには自由の「イメージ」が乱反射する
なぜ「思考すること」は「判断すること」なのか?
それは、あなたが思考するとき、あなたはつねに暗黙的にも、また明示的にも、自分の判断や行動の影響について、いつも考えているからです。私たちは社会的な存在であり、自由意志を持っています。自由意志とは、自分の行動が他人にもたらす影響に照らして自分自身を考えられる能力であり、その行動が取れる能力のことです。なぜなら、あなたは自分自身をイメージでき、他者をイメージでき、さらにあなたのイメージに対する他者のイメージをまたイメージできるからです。
では、社会的な複雑性がどのように機能するかを見てみましょう。私は、あなたの私のイメージに対するイメージをイメージします。あなたは私のイメージをイメージし、それを私はイメージしますが、そのあなたのイメージは、あの人のイメージを、あの人がイメージしたもののイメージです。あなたは、イメージ、イメージ、イメージ、イメージ、イメージ、イメージを受け取ります。鏡、鏡、鏡……そこにあるのはまるで鏡を向き合わせたときに起きる無限のループのようです。アーティスト草間彌生が表現した「インフィニティミラールーム」です。ここニューヨークのチェルシーのギャラリーにも、彼女が作った新しい部屋ができました。インフィニティミラールームは、社会的な複雑性を持っています。
窓の外にはマンハッタンが見えますが、多くの摩天楼がほかの摩天楼やビルを鏡のように映しています。これらすべての建物は、全体として社会的な複雑性を映し出しています。ここに見えているのは、人間の自由のイメージのイメージです。これこそ、人々がマンハッタンを好きな理由です。そして、だからこそ、マンハッタンはかくもパワフルなのです。
マンハッタンの新しい地区、ハドソン・ヤードは、空の色の摩天楼から成っています。これらの摩天楼は、天そのものに溶け込んでいるので、目には見えません。文字通りの摩天楼です。それらは空に向かっていますが、また空のようにも見えます。まさにそれなのです。人間の社会性は、その文脈に溶け込んでいます。それは社会的な複雑性と人間の自由です。
そしてその光景は、まるでグローバル資本主義が、私たちを自由にするかのように見えるのです。
――マルクス・ガブリエル・談
了
マルクス・ガブリエル 欲望の時代を哲学するII: 自由と闘争のパラドックスを越えて (NHK出版新書 620
丸山俊一(まるやま・しゅんいち)
NHK出版新書
⇨不安かどうかは主観の問題に過ぎない
不安というのは動物的本能であって 不安そのものはあって当然のものである
「自らの自由がとても危険な状態にさらされていると感じ、不安を持っている方々もいらっしゃるかもしれません」
などと言っているが 具体的に何が「自由」なのかを論じても定義してもいない状態で 主観的不安を短絡的に不自由と直結させることが根本的に間違いである
洗脳状態の人は自分を自由だと「思って」いる 自分こそが自由で 他の人は不自由だと主観的に「思って」いるからこそ 洗脳状態の人は「安心」して毒ガステロでも自爆テロでも特攻でもできるのである
こうした問題行動の根源は 主観的安心を促す「思い込み」に論理客観的根拠に基づいた具体性のある内容が伴っていないことを 自発的に考え検証していないという「頭の悪さ」にある
こうした「頭の悪さ」というものは ヒトの先天的な認知上の欠陥に起因するものであって 主観的に「安心」してしまえば それこそが「安全」で「正し」くて「正常」だという主観的「感覚(印象)」を持ってしまうことによって 論理客観的根拠に基づいた具体的検証をすっ飛ばしてしまうからである
要するに「考えない」からバカなのである
自由意志というと 自分ができることの全て自由だと勘違いしているバカが大半だが 「欲望を満たすこと」は自由とは言えない
そもそも欲望そのものが選択不可能だからである
自分の遺伝子を自分で選ぶことができず その遺伝子によって作られた大脳辺縁系の構造も その構造によって作り出される行動バイアス(偏り)も 自分が生まれ育った社会環境から刷り込み学習されたあらゆる価値観も それ自体は自己選択不可能な「既存在」に過ぎない
だが 私達は現時点においてのみ 自分の主観的価値観というものが本当に自分が望んでいるものなのかどうかを自己客観的に検証(考え)し 行動や言動を選択することは可能(現選択可能性)である
たとえば 「お茶くみは女性社員の仕事だ」という社会的な「常識」が 本当に正しいものなのかどうかを「考え」れば そんな合理性のない理不尽な決め付け的「常識」が間違いであることを自覚し 行動を変えることができるのである
イマヌエル:カントはヒト同士の関係性の中から道徳が形作られると述べているが ナチス政権下のドイツ人同士の関係性の中からホロコースト(大量虐殺)が引き起こされたのであって 他人との関係性だけでは人間性としての社会的責任判断選択にはならないのである
人間性の本質とは 個人が自律的な社会的責任判断選択を行うことであって 他人との関係性によって形づくられた「常識」に無意識に流されていては人間性を発揮することはできない
「カントの考えによれば、拷問者やきわめて邪悪な人でさえも、拷問を上手に行うためにはしなければならないことがあるし、またしてはならないこともあると知っているのです。拷問者であろうとマザー・テレサであろうと、何をすべきか、何を避けるべきかについて、ある種のイメージを持っているのです。
自分自身の見方に照らして行動するこの能力こそ、カントが 「意志」 と呼ぶものです。意志とは、時に自分自身を考えることによって、物事を行う、という意味です。私は、カメラの前での自分の体の位置を認識していますし、あなたが私の言葉をどのように理解しているかについても、認識と想像力を持っています。」
犯罪者が犯罪を行うのは 目先の欲望を満たそうとしているだけであって 拷問者が拷問を行う動機というのは本質的には主体的目的行動選択としての「意思」ではない
ナチス政権下のユダヤ人絶滅収容所の官吏アドルフ:アイヒマンがユダヤ人大量虐殺計画書の作成に邁進したのは ナチス政権に対する忠誠忠実さこそが動機であり ナチス政権下という環境下における「常識(正解データ)」を学習した結果的な無意識行動に他ならない
そして こうしたアドルフ:アイヒマンの行動というものは 普通一般の人たちにも普遍的に見られることをスタンレー:ミルグラム(服従心理実験:「通称アイヒマン実験」)が立証しているのである
「正義の概念とは、さまざまな意志の調整を行い、そのバランスを再び確立させることなのです。判決が出れば、私たちはまた隣人として暮らすこともできます。」
という件があるが 果たして本当に「判決が出れば、私たちはまた隣人として暮らすこと」ができると言えるだろうか?
物質的な損失であれば 物質によって現状回復を図ることも可能かも知れないが 殺人や原発事故であれば現状回復は不可能である
加害者を死刑にしても被害者は生き返ることはなく どんなに保証金を積まれても放射能汚染された郷里が取り戻せるわけでもないのに どうしてこれを「正義」だと断言できるのかと言えば 単に現状の法制度上そう「決め付けられて」いるからに過ぎない
こうした実証不能の「正義」をいくら振り回しても犯罪の根源的原因究明や再発防止には全くつながらないことを ヒトは「常識」として鵜呑みにしているのである
「思考することとは、判断することである、」と述べているが 「判断」というものに論理客観的な根拠や証拠が伴った「真実」かどうかが問題なのであって 間違った判断を下してしまうからユダヤ人大量虐殺などという非合理で不条理な行動にも ヒトは簡単に陥ってしまうのである
ヒトがなぜ間違った判断を下してしまうのかと言えば それは自分の頭で物事を「考え」て判断することと 既存の自己の「常識(正解データ)」に基づいた価値観の偏り(思い込み)との区別ができていないからである
ナチス政権下の「常識」としてアドルフ:アイヒマンは拷問者になったのであって 後にアイヒマン自身が「私は忠誠忠実な一吏官に過ぎない」と称して自分自身の行動判断を「世間が悪い」と丸投げすることで自己を正当化できていると勝手に妄想していたのである
「なぜ「思考すること」は「判断すること」なのか?
それは、あなたが思考するとき、あなたはつねに暗黙的にも、また明示的にも、自分の判断や行動の影響について、いつも考えているからです。私たちは社会的な存在であり、自由意志を持っています。自由意志とは、自分の行動が他人にもたらす影響に照らして自分自身を考えられる能力であり、その行動が取れる能力のことです。なぜなら、あなたは自分自身をイメージでき、他者をイメージでき、さらにあなたのイメージに対する他者のイメージをまたイメージできるからです。」
やたらと「イメージ」だとか言っているが これは主観的「印象」のことを述べているに過ぎず ヒトという種の生物が常に必ず「いつも考えて」いるわけではない
「自分の行動が他人にもたらす影響に照らして自分自身を考えられ(行動でき)る能力」というものが働いていないからこそ 既存の世間的「常識(正解データ)」に基づいた実質的には主体的選択を介さない認知上の無意識な偏り(バイアス)を「意思」や「意識」だと勘違い錯覚しているからこそ ヒトは人間としての行動選択ができなくなるのである
どんなに強い「感情」を伴っていても それは「意思」や「意識」や合理的目的行動選択の論証にはならず むしろ強い「感情」を伴っているからこそ合理的根拠に基づいた本当の目的行動判断選択という「人間としての意識」が阻害されるのであって ヒトという種の生物は先天的・本能的には「バカになるように」しか出来上がっていないのである
ヒトという種の生物は カンブリア大爆発からヒトにまで進化するまでの過程の方が圧倒的に長いのであって ヒトという種の生物はごく最近発生した「新種」や「珍種」に過ぎず だからこそ環境破壊などの様々な失態を犯してもいるのである
こうした客観的事実結果というものを ヒトは主観的恐怖などの主観的感覚によって「信じたくない」というバイアス(偏り)によって たとえ理解していても「信じよう」とはしなくなるものでもある
「信じたい」かどうかは主観である
論理客観的根拠に基づいた理論的反証ができない以上は否定することはできないはずだが ヒトの大半 衆愚マスコミの大半 「哲学者」共は一切理解しようとも認識しようともしないものなのである
資本主義であろうと社会主義であろうと それは「手法」とか「やり方」であって 目的としての「経済(経世済民:世の中を救済)」をすっ飛ばして金持ちや権力者への利益の集中を生み出してしまうことが問題の根源にある
資本主義の方が適している開発もあるが それは社会主義的なベーシックインカムのような底辺を保証された上で行われるべきであって 一方的にどちらかだけが正解なわけではない
底辺が保証されていればこその資本主義的な挑戦や革新も可能となるのであって 一方的な順位序列に対する服従忖度迎合同調性こそが不公平や不平等の原因なのであり
資金の潤沢な者だけに金が集まってしまうのは 資本家という「成功者」に対する盲目的な崇拝を短絡的に「人間としての優秀さ」や「頭の良さ」として捉えてしまう衆愚観念が根底にある
資産がどんなにたくさんあっても ヒトは先天的にいくらでも不安を「感じる」ものであり それはヒトの祖先が過酷な自然環境下における生存競争を勝ち抜くために必然的に組み込まれた無意識な先天的・本能的習性によるものであって 金がなくなった途端に寝る場所もガスも電気も食べ物も失うという恐怖から逃れるために必要以上に資産を貯めこもうとするからである
失業者が増えると政府の政策としては 企業に雇用を要請することばかりをしてくるのだが 零細個人企業にまで「雇用を創出してくれ」と 紋切り型の要請をしてくる始末である
企業が雇用できないのであれば むしろ個人だけで商売が成立するように社会構造を改革すれば良いのであって 企業だけに雇用リスクを丸投げされても企業ごと倒産するのがオチである
近年ではメルカリやストックフォトや個人販売サイトも充実してきたことで 低いリスクで個人が商品を販売する挑戦もしやすくなってきている
デファクトスタンダードに過ぎない現状の経済システムを呪われた因習のように踏襲するのではなく 新しいビジネスに積極的に挑戦することが これからの経済活性において重要な要素を持ちはじめているのである
かつては「資本家が独占している」と称して労働者が資本家を焼き殺し略奪することが「正義」になってしまったこともあったが そういう短絡的な暴力的最終解決こそが社会を不安定に陥れてしまったのである
資本家だけが利益を独占してしまうのは 資本を持っている相手を「上」とみなして服従忖度してしまう労働者側の奴隷根性や甘えが原因である
ヒトは先天的に「怖い」相手には逆らわなくなる習性があり 「怖い」相手が理不尽で非合理な命令をしてきても誰も批判しなくなることで むしろ批判した相手を「裏切り者」として排除し 「怖い」相手の側に阿(おもね)ることによって 「怖い」相手にとって都合の良い服従迎合者として評価されることを優先するからこそ ヒトは社会制度に関わらず順位序列による独裁的な富の集中を促したり 大量虐殺などの非人道的な集団組織的腐敗に陥ることになるのである
これは資本主義だろうと共産主義だろうと宗教だろうと何だろうと一緒である
ヒト(バカ)が発想する形式(パターン)には さしたる違いはないのである
養老孟司は「同じ」であるということだけで「正しい」と述べたが バカの多数決が「正しい」ことの論拠には全くならない
学校ではイジメが起きればイジメ集団を大多数が傍観放置するか 若しくは加害者側につくことで標的(被害者)にされずに済むのである
日本大学の職員であれば 何せ大学という教育機関であるから学歴が高くなければ職員にはなれないはずだが そうした高学歴な大多数のバカ共によって組織腐敗は長期に渡って温存され続けたのである
京都大学霊長類研究所による総額11億もの研究費不正流用も 松沢哲郎個人だけでできたはずはなく 何らかの共謀者 同調者 若しくは傍観放置者が大量にいたはずであり 彼らもまた高学歴であったであろうことは想像に難くない
ヒトという種の生物は 生育環境によって刷り込み学習された既存の自己の「常識(正解データ)」に則った無意識な行動がほとんどであり 主体的に自分の頭で物事を「考え」て選択することなどしないものである
「自分の行動が他人にもたらす影響に照らして自分自身を考えられ(行動でき)る能力」が発揮されなくなるのは 「自分の行動が他人にもたらす影響に照らして自分自身を考えられ(行動でき)る能力」を発揮したら自分の損失になるという本能的「恐怖(主観)」の方が優先してしまうからである
イジメや男尊女卑などの差別が「常識」として通用している環境においては そうした「常識」に則った行動をしておいた方が利己的に「自分の身のため」になるからこそ ヒトは「常識」に逆らわずに服従忖度同調迎合して主観的安心満足することが「正しい」とか「賢い」という判断(決め付け)をするのであって そうした動物本能的行動習性による行動選択こそが人間としての社会的責任判断選択を放棄させる根本的原因なのである
◇
全体を通して言えることは マルクス:ガブリエルの言っている内容というのは主観的な感覚 「恐怖」「不安」「感じ」「イメージ(印象)」ばかりと述べていて 論理客観的根拠に基づいた具体性のある内容が全くなく 必然的に何の応用性もない
マルクス:ガブリエルの主張を聞いても 具体的に「どうすれば良いのか」は全くわからないのである
「マンハッタンの新しい地区、ハドソン・ヤードは、空の色の摩天楼から成っています。これらの摩天楼は、天そのものに溶け込んでいるので、目には見えません。文字通りの摩天楼です。それらは空に向かっていますが、また空のようにも見えます。まさにそれなのです。人間の社会性は、その文脈に溶け込んでいます。それは社会的な複雑性と人間の自由です。」
などと締めくくっているが 一体どこが「人間の自由」なのかが全く意味不明であり 論理客観的根拠も具体的内容も何もなく ただの「決め付け」でしかない
こんな話を「哲学」だと勘違いしているバカの方が世の中大半を占めているのであって バカが自らのバカさを自覚しないことには何も変わりはしないのである
主観的な感覚的「印象」こそが意識の本質だという衆愚の観念こそが 論理客観的真理(本当のこと)を見えなくさせる根源的原因であり ヒトという種の生物の先天的本能に由来する認知上の欠陥が存在していることを客観的に「理解」しない限りはバカが治ることはない
Ende;