書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

○遺伝子重複は結果である。

2015年09月27日 10時23分40秒 | 意識論関連
「重複遺伝子は変化しやすい。」という見解には無理がある。 なぜなら論理的な根拠が存在しないからだ。

重複遺伝子というのは片方が変異を起こしても生存率が比較的高いために生き残っただけであって、「変化しやすい。」のではなく、変化しても死ななかった結果として遺ったと考えるべきである。

遺伝子重複のような遺伝子の大きな変動期には、その大半が生存に適さず変異を起こした個体のほとんどが死滅していると考えられ。現在のように安定的に個体数を維持出来るような状況と同列に考えるべきではない。

遺伝子重複などの遺伝子変異というのは、あくまで一個体に起こったはずであり。その他の個体はほとんど死滅していると考えるべきである。

遺伝子というのはあくまで「結果」であって、遺伝子に目的や意図といったものがあるかのように考える悪い癖が進化生物学者にはあり、これは非科学的で本質を見誤る大きな要因である。

「重複遺伝子は変化しやすい。」のではなく、重複遺伝子は変化しても生き残る確率が比較的に高いために、結果として生き残った結果だけを見ているからこそ、あたかも重複遺伝子だけに特異に変化しやすい性質が存在しているかのように錯覚しているだけであり。遺伝子の変異という変化だけをみれば恒常的に生体の中でも日々起こっている現象であって、その変異によって生存に適したかどうかという「結果」だけを取り上げて、あたかも遺伝子が常に生存にとって適した変異を自ら選択しているかのように形容するのは誤りである。



進化生物学者の多くは、こうした結果と目的の明確な区別をせずに、あたかも生物は常に生存にとって適切な変異や変化を自ら目的意図的に選択しているかのように言い張る傾向が全く改められない。

こうした結果に対して事後正当化をするような見解というのは、科学的本質を見誤ることになる重大な誤りであり、進化生物学者達の非常に悪い癖である。

遺伝子の変異というのは、結果的に生存に適した個体が生存した結果だけしか観察出来ないのであって。そこに目的論をこじつけるようなドーキンスのお伽話に満足したがるのは科学者としてポンコツである。

ある生物学者はこう述べた「全ての生物は、生存の方向性を持っている。」と。これも結果的に生存している現在の生物だけから導き出した妄想であり。そんな話で「長渕剛が感動した。」からといって、それが科学的証明になるわけでも何でもない。

京都大学生物学部による「チンパンジーやゴリラの行動習性から人間としての社会的や倫理が立証可能かも知れない。」などというお伽話を、大衆やマスコミが鵜呑みにして安心満足するものなのかも知れないが。これは科学の名を借りたペテンに過ぎない。

生物というものが常に生存にとって都合の良いような変異や行動習性だけに意図的に変異するものだという妄想を進化生物学者が述べておけば、大衆マスコミはその場限りに気分的安心満足して、科学的な合理的根拠が存在しないことなど気にも留めないのであろう。

一方短絡的に「人類は絶対に絶滅する。」などと断言するNHK解説員もいるが。これもまた非科学的で身勝手な決めつけでしかない。

現在の人類の行動を見ている限りでは、確かに絶滅の危険性が高いことは確かかも知れないが。それは「現在の人類の行動」の結果だけから導き出した結論であって、これから人類一人一人の目的意識的な選択可能性に基づく行動変化を考慮に入れていない。



今Wikipediaで調べたらフランシス:ゴルトンによる優生学というのは1883年に提唱されたとされているので、実に130年以上もの間進化生物学者達は優生学に対する有効な論理反証をしてこなかったポンコツ集団なのである。

このことを踏まえて、進化生物学者達の言っていることというのは理工系研究者による再検証を徹底する必要性がある。

つまり、進化生物学者達の多数決を採っても、「科学的な裏(証明)を採った」ことにはならないのである。


Ende;
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○平等という概念。

2015年09月25日 12時40分55秒 | 意識論関連
イヌの脳には平等という概念はありません。

イヌというのは先天的本能として順位を決定することで統率的な集団行動を採るよう出来ているので、自分以外の相手が自分よりも上か下かのどちらかを決定しておかないと不安で仕方ない習性があり。育て方や訓練方法を間違えると飼い主の手を噛んだり、無駄吠えを繰り返したりして手に負えなくなる場合があります。

イヌにとっては服従はアヘンなので、服従対象に対して従順に服従することに快楽を感じ、訓練の仕方次第では大変従順で扱い易いようにすることも可能です。

しかし、この習性があるため故に、訓練方法を間違えてしまうと飼い主やヒトを服従対象として認識出来なくなるために、狂暴で手に負えない性格になってしまうこともあるのです。

これは、イヌは服従することが安心であると同時に、服従対象の喪失に対して異常に恐怖や不安を感じてしまう性質があるためです。

そのため、イヌの脳には平等という概念が全くといって良い程存在しないのです。

「敵か味方か。」とか、「服従対象かそうでないか。」といった短絡的で合理的根拠のない差別をしておかないと不安で仕方ないために、イヌは極めて差別主義的行動を採る習性があります。

こうした差別主義的行動というのは、イヌに限ったことではなく。鳥類であるカラスやヒトにおいても程度の差こそあれ、先天的な社会形成習性が存在するため、イジメなどの差別排除行動を採ることは珍しいことではありません。

ヘイトスピーチやホロコーストなど、ヒトが時折引き起こす差別排除行動というものの源には、こうした先天的な社会形成習性が働いており。差別対象に対して短絡的に暴力を振るうことであたかも全てが解決したかのような錯覚に陥る性質があります。

司法刑罰というものも、実際には「犯罪者か、そうでないか。」といった短絡的区別に基づき、犯罪者に罰という暴力を与えておけば全てが解決したものであるという錯覚(実証不能の観念)に基づいた、非合理的な社会制度に過ぎません。

再犯率が40%を超える懲役罰というものには、犯罪というものの再発防止に対する合理的根拠が全く存在せず。なぜ犯罪者が自律的に社会的責任を負うことをしないのかという、最も根源的原因には全く言及せず。単に先例に基づいて科料の程度を推し量っているだけの、極めて機械手続き的なお役所仕事でしかありません。

つまり、司法刑罰というのは罰の妥当性を吟味しているだけであって。犯罪の論理的原因究明にもならなければ再発防止にも全くならず。振り込め詐欺師が数年で出所した後、詐欺経験を買われて再び詐欺師集団を統括するといったことや。強盗殺人で25年服役して出所後数週間で再び殺人を犯すといったことも珍しくはないのです。

妥当性を吟味しているだけである以上、司法刑罰というものには論理的正当性が最初から存在しません。(←ここ重要。)

国家権力による刑罰という暴力を用いて、恐怖心によって抑圧することを抑止力だと錯覚することは簡単ですが。それこそが大衆観念的な実証不能の観念に過ぎず、合理性ある犯罪や事故の再発防止に対する取り組みを阻害していることを、多くの人はほとんど認識していないのです。

失敗学の権威である畑村洋太郎氏が述べているように、「事故の原因究明と再発防止を最優先にすべきであって。刑法懲罰というのはその後で勝手にやってくれ。」という、優先順位の低い大衆迎合、若しくは単なる因習に過ぎないのです。

畑村氏は事故調査が専門ですから、犯罪についてまでは言及していませんが。実際には意図していない過失であろうと、意図的犯罪であろうと、ヒトが引き起こす「人災」であることに変わりはなく。あらゆるアクシデントや、アクシデントに至らないインシデントの段階においてからでも、再発防止のための原因究明こそを優先することこそが、社会的には最も重要度が高いものであることを認識する必要性があるのです。



犯罪者を忌み嫌うことは個人の勝手ですが、個人の主観的好き嫌いを根拠に社会安全性を蔑ろにして良い理由にはならないのです。

その個人的好き嫌いが、どんなに多数決であるとしてもです。

本当に犯罪被害に遭われた方や遺族の方の中には、再発防止こそを最も優先して欲しいと願うかたは少なくありません。それは、むしろ当事者であるが故に、真摯に犯罪というものと向き合っているからこその結論であり。目先の感情論で厳罰化などの程度問題で抑止を試みようとするのは、むしろ当事者意識の欠落した無責任な他人事扱いに他なりません。



ヒトの多くは、目先の感情を短絡的に自由意思だと思い込んでいますが。理性を伴わずに非合理的結論によって何度も同じ過ちを繰り返すことというのは、むしろ無意識で無責任な行為なのです。

犯罪者を悪者扱いしておけば、あたかも自分の正当性が立証されたかのように錯覚することは簡単です。それは先天的な順位欲が促す錯覚であり、単なる差別排除による気分的な安心満足に過ぎません。

かつてナチスドイツがユダヤ人を虐殺したのも、彼らにとってはそれが懲罰の一種であるとみなし、非科学的なフランシス:ゴルトンの優生学を根拠に、安心して野蛮行為を行っていました。それと同じで、現代人の多くは刑法懲罰という国家暴力を用いた抑止力こそが、最も犯罪の再発防止に有効であると思い込み、ヒステリック(心理拘束的)に刑罰という因習に依存し続けているに過ぎないのです。

死刑罰の数とユダヤ人虐殺の数を比較しただけでは、死刑という残虐行為や懲役罰という非人道的行為の論理的正当性が立証できるわけではないのです。

同じ「ヒト」である以上、程度の差こそあれ犯罪や過失の可能性は誰にでもあるものです。それを短絡的に犯罪者かどうかという司法制度上の分類だけを根拠に差別しておけば犯罪や事故がなくなるとか減るというものではないのです。

刑法懲罰という暴力的抑止力に依存するのは、考え方が「怖いからやらない。」という子供じみた自律のない観念から生ずるものであって。これは同時に「怖くないからやる。」という短絡的でバカげた犯罪の温床でもあるのです。

ならば重要なのは個人が自律的に社会的責任を負うという人間性の確立であって、人間性が育たない原因を究明せずに刑法という因習に則って厳罰化ばかりを追求するというのは愚の骨頂という他ありません。

ISILが行っている野蛮行為も、彼らにとっては世界に対する懲罰に他なりません。「懲罰=解決」という短絡的で無思考な因習を見直さない限り、ヒトの暴力性の原因究明にも、当然再発防止対策にも辿り着かないのは必然なのです。

Ende;
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○覇気ってなんだよ。

2015年09月25日 12時36分03秒 | 日記
若い人の声が小さいことに対して、ヲヤヂの多くは「覇気がない。」だとか短絡的に言い出しますけど。実は若い人達というのは耳がとても良いので、小さな声でも充分会話が成立しているのであって。むしろ大声を出さなければ聴こえないオッサンの耳の方の問題だとは気づいていない。

モスキート音も聴こえないポンコツ耳のヲヤヂだと、大声で話さないと聴こえないのを若者の方に問題があると勘違いしている。

当の若者からすれば、やたらと大声で話すオッサンの方が「ウルサイしウザい。」のであって。若い人の言葉が聞き取れないのであれば、むしろオッサンの方から「ゴメン、おらもう聴こえないだよ。」と聞き直すのが筋なんだろう。

Ende;
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○胡座。(「あぐら」って読むらしい。)

2015年09月13日 16時52分19秒 | 意識論関連
養老孟司が散々言ってきた「脳化」云々の話は一体なんだったんですかね。

養老本人は狡猾にも「脳化」の話を理論だとは言っていませんけど、大半の人は「脳化」云々の話を理論か何かだと思い込んでいますが、それを養老は「理論ではない。」と否定すらしません。

「脳化」云々の話というのは、都市対田舎という対立構図に基づいて、行き当たり場当たりに「あれは脳化だ、これは脳化してない。」と勝手にこじつけただけの養老の主観的な実証不能な観念でしかなく。一体脳化していることが良いのか悪いのか、何がどうなれば何かの役に立つのかすら一切何の結論も出てこない話であり。しまいにゃ「バランス問題だ。」などというあやふやな話に帰結しているのです。

養老の話に対し、大衆マスコミの大半は養老の言っていることに何か意味があるんじゃないかと勝手に錯覚して、養老の著作を読むことで自分の頭が良くなったかのような妄想を抱いていたに過ぎないのです。

養老自身は自分の言っていることに対して、「論理整合性がないだけ開かれているではないか。」などとも述べていますが。これは「脳化」云々の話もひっくるめて「理論ではない。」と言っているのです。

言っている内容に論理整合性がないということは、つまり発言内容に無責任という意味でもあります。

何せ、論理整合性を持たず、理論ではない話が何かの役に立つわけがないのですが。大衆マスコミの大半は養老の難解な話に思考停止させられ、気分的に何かの解決につながるかのような錯覚に陥ることで大衆人気を得ているに過ぎません。

これはある種のメンタリズム(詐欺)であり、それによって著作が何万部売れて世間的に成功したとしても。それは占い師や詐欺師の成功と同じで、社会的には何の役にも立たないばかりか。むしろ本当に重要な論理的思考をも撹乱破壊する実証不能の観念でしかありません。




ヒトという種の生物の習性として、既に信じ込んでいた事柄を疑わないよう事後正当化しようとする性質があります。

信用するに価しない話を鵜呑みにしていた自分を事後正当化することで、自分の頭の悪さを認識しないよう一種の逃避行動として「自分は間違っていない。」ことにしておこうとするのです。

洗脳というのは、こうしたヒトの脳が持つ先天的な性質を利用して、自分の行動に疑いを持たずに特定の観念に囚われることで成立するのです。

ですから未だに養老の言っていることに意味があると信じ込んでいるというのが既に洗脳状態であって。何の疑いも持たずに気分的に安心満足することで論理検証性が全く働かなくなっているわけあり。その事実を受け入れない以上、オウム真理教やISIL、ナチズムや太平洋戦争時の日本軍の野蛮行為の原因についても説明がつかないのは当然のことなのです。



「占い師や養老に騙されている程度なら、ISILのような害はないだろう。」そう思っている人もいるかも知れませんが。危険学や失敗学の観点からは、それこそがハインリッヒの法則(一つの重大事象の陰には無数の小さな事象が隠れている)に基づいた論理検証性を放棄してしまう大きな要因であると言えるでしょう。

論理検証性の乏しい一般的な文科系大衆マスコミの多くは、その場限りの気分的安心感や満足ばかりを求めてしまい。実際には何の役にも立たない「脳化」だとか「品格」といった一過性の流行で興奮するだけのことがあまりに多過ぎます。

流行りものというのは目先の利益にはつながるために、マスコミはむしろ必死になって流行りものをでっちあげようとする傾向がありますが。社会安全性に関わる話を撹乱しかねない実証不能の観念を利用することは悪質極まりない行為です。

京都大学松沢哲郎による、「チンパンジーの行動習性から、人間としての社会性が立証出来るかも知れない。」などという嘘を放置して文化功労賞まで与えているというのも、悪質極まりない行為です。

先天的な行動習性からは「結果」しか導き出すことしか構造原理的に不可能であり、先天的な行動習性をどんなに陳列枚挙しても、人間としての意識的「目的」行動選択を立証することは出来ません。

例えば、ヒトの先天的行動習性(傾向性)から人間としての社会性や倫理が立証されたと進化生物学者が述べたとして。それが既に行われたナチズムやポルポトやISILによる虐殺行為の論理反証になるのでしょうか。 それはヒトという種の生物が先天的に安全であることの論理証明になるのでしょうか。

一応正解を述べておきますけど、そんな証明にはなりません。

ヒトであれ、チンパンジーであれ、先天的な行動習性や本能といったものから出てくる行動の全ては「結果」でしかなく。そこから人間としての目的である人間としての社会性や倫理といったものを証明することは構造原理的に不可能なんですよ。

ヒトという種の生物が人間として振る舞うことの可能性とは。ヒトが自らの先天的な本能習性に流されることなく、自律的に社会的責任判断選択が可能であるという点にあるのであって。それは当人個人の意識(自律的論理検証性)の問題であって、先天的な本能習性によって立証されるという形のものでは最初からないんですよ。

にも関わらず、どうして京大学長も松沢哲郎も権威として扱われ続けるんでしょうね。あいつら嘘ついて権威にアグラかいてるんですよ。



Ende;
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○普通のヒトが持つ非人間性。

2015年09月12日 04時33分01秒 | 意識論関連
アスペルガーというのは、動物的な先天的社会形成習性があまり働かないため、多数派迎合性や同調バイアス行動をしない結果、多数派を占める「普通のヒト」とは違い、多数派に馴染むことが困難なのである。

しかし、多数派を占める「普通のヒト」というのは、多数派に迎合同調し、権威に服従する性質がある。

生物学的な社会形成習性というものは、振り込め詐欺師集団やナチズムなどのカルト集団といった、統率的な協調性だけが暴走することで生ずる異常行動の原因でもある。

「普通のヒト」の中には、異常なまでに順位序列に執着し。主観的観念のみによって他人を差別する場合がある。それは、言うなれば「逆アスペルガー」とも言える症状であり。病的なまでに多数派に迎合同調するため、自律的な社会的責任判断を簡単に放棄する大きな要因でもある。

こうした「逆アスペルガー」性というものは、なにせ多数派への迎合や同調には優れているため、多数派の「普通のヒト」にとっては異常性を感知しずらいため、「普通のヒト」達はそれを特別異常だとすら認識していない。

重大事故においても、権威服従性や多数派同調行動が大きな要因となる場合があるように。「普通のヒト」が先天的に持つ動物的な社会形成習性行動バイアスといったものは、多数派の気分を損ねることなく洗脳的な異常行動を引き起こす原因なのである。

文科系大衆観念的には、こうした先天的な行動習性が引き起こす無意識な行動結果を指して、「人間的」とか「人間らしい。」などと形容し。あたかも正常な行動であるかのように錯覚妄想し、気分的に安心満足することで自分達の異常性を全く認識しなくなるのである。




ゴリラのご機嫌取りのコツを会得して、ゴリラの狂暴性を発揮させないように出来るとしても。それは動物的な社会形成性を利用したものに過ぎず、ゴリラの先天的な安全性や非狂暴性の立証には一切ならない。

ヒトのご機嫌取りのコツを会得して、暴力団のようなカルト団体組織と話を丸めて狂暴性を制御できたとしても、それはヒトという種の生物の先天的安全性の科学的立証にはならないのと同様。京都大学生物学科などによる霊長類の研究からは、霊長類の情動行動の「結果」以上の何も得ることは出来ないのである。

メンタリズムなどの詐欺の手法というものは、ヒトの先天的な行動習性を利用することで、気分的になじみが良いようにヒトを無意識に行動誘導することが可能である。

京都大学学長によるゴリラのご機嫌取りなどというものは、いわばゴリラ用メンタリズムを会得しているに過ぎず。それがあたかも科学的に素晴らしい研究成果であるかのように錯覚するのは、文科系大衆マスコミの誇大妄想錯覚であって。こうした誇大妄想錯覚をそれと認識することが出来ない原因というのも、「普通のヒト」の先天的な思考バイアスがもたらす無意識性の「結果」に他ならない。



メンタリズムというのは、ヒトの先天的で無意識な行動バイアスを利用したものに過ぎず。洗脳や異常行動へと誘導することに利用することは可能であっても、自律的論理検証性を伴った意識的「目的」行動選択を促すようには利用出来ない。

メンタリズムというのは、先天的な行動習性の「結果」を述べているに過ぎず。それが金儲けに利用出来て目先の世間的成功につながるとしても、社会安全性や持続可能性といった人間としての目的行動選択につながるわけではない。

ヒトの多くは目先の世間的成功にばかり意識を奪われ、人間として最も重要な社会安全性や持続可能性への配慮を簡単に忘れる傾向がある。 それを文科系大衆観念的には「人間的」だの「人間臭い」などと称して多数派同調を促し、単に多数派であるという論拠だけで正常性か何かと錯覚妄想することで正当化しようとするが。これこそがヒトという種の生物が先天的に持つ盲目性の大きな要因であり、危険性なのである。




人間としての目的、社会安全性や持続可能性への配慮に基づいた、自律的な社会的責任判断という本質的意識(人間性)というものは、進化生物学やメンタリズムなどの先天的で無意識な「結果」から導き出されるものではなく。むしろ危険学や失敗学のような論理検証性から導き出されるのである。




ヒトの多くは、気に入らない相手に罰を与えることでその場限りに安心満足し、あたかも全てが解決したかのように錯覚する習性がある。こうした先天的なヒトの行動バイアスを社会制度化したのが刑法であり、再犯率が40%を超える懲役罰を「解決」だと見なして何の疑問すら持たない。

こうした大多数の「普通のヒト」の感覚こそが無意識性を助長し、論理的には全く意味のない慣習や因習に囚われ、その場限りに気分的安心満足することで論理検証性を忘れるのである。

その無意識性こそが、社会的無責任なのであり、非人間性でもある。



ヒトという種の生物は、先天的には人間ではない。

先天的で無意識な行動習性の「結果」からは、人間性を立証することも、人間性とは何かを導き出すことも不可能であり。大衆マスコミの多くは「チンパンジーの先天的行動習性から人間としての社会性が立証可能かも知れない。」などという全く論理的に根拠のない松沢哲郎の身勝手な妄想を鵜呑みにして安心満足するのである。

例えばである。ヒトという種の生物の先天的行動習性から人間としての社会性を立証可能であると言い張るのであれば、その立証によって既に行われたヒトの様々な残虐行為の反証にでもなると思っているのであろうか。

もしも、そう「思って」いるのであるとすれば、その思い込みこそが論理検証性の欠落の証明であり。社会的無責任でもある。


Ende;
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