書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

荒川河川敷のお知らせ看板を二つ。

2013年09月30日 22時13分24秒 | 日記
○荒川河川敷のお知らせ看板を二つ。

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お知らせ

10月12日(土)午後3時30分から午後8時30分まで
北区花火大会・商店街秋祭り開催に伴い、
花火大会会場内(新荒川大橋から新岩淵水門まで)は自転車の通行ができません。また岩淵水門は通行止め
となります。ご迷惑をおかけしますが、ご協力をお願いいたします。

北区花火大会実行委員会



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タートルマラソン国際大会のお知らせ

10月20日(日)9時30分~14時まで
この荒川の河川敷道路で
マラソン大会を開催します。
二万二千人の選手が出場します。
ご協力をお願いします。

☆マラソン区間☆ 荒川河川敷右岸
千住JR鉄橋から赤羽ゴルフ場まで

【問合わせ先】
(社)日本タートル協会
TEL 3363-5331
足立区スポーツ振興課
TEL 3880-5989









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古市憲寿。

2013年09月30日 22時09分11秒 | 意識論関連
○古市憲寿:ふるいち のりとし

 どうも古市憲寿が怪しい。

 やたらと「世間的に受け入れられるかどうか。」にばかり執着し、主体的な意見というものが全く出て来ない。

 単にその場限りに相手と話を丸めているだけで、主体的見解というものが全くないのではないか。

 なにやら偉そうに上から目線で他人を評価しているが、その基準が常に「世間的に受け入れられるかどうか。」であって、理論的合理性を評価しているわけでも何でもない。

 世間的成功が得られそうかどうかで行動が決定していれば、世間の顔色を窺う大衆迎合に過ぎず。自律的な社会的責任判断には全くならない。

 こういった文科系大衆観念に迎合しておけば、大衆人気も得られるのかも知れないが、あまりに迎合的で自律した主体的意見というものが見られず。社会学者として無責任である。



 ナチス政権下のドイツにおいて、「世間的に成功しそうかどうか。」を基準にしていればナチズムの問題点に対する反論にならないのは必然である。

 現状世間そのものの間違いを指摘批判するためには、現状世間における「世間的成功。」を基準にしていては問題解決にならないのは当たり前の話である。

 古市は現状世間に対する具体的で論理的な分析も批判も持っておらず、その場限りに相手と話を丸めて善人を装っているだけにしか見えない。

 何せ養老孟司のようなオカルトを、オカルトとして認識出来なかった多数大衆が、古市の異常性を認識出来ないとしても何ら不思議ではない。

 古市当人に自分が無責任であることの意識があるとは限らない。むしろ自分が無責任であることを認識していないからこそ、無責任に話を丸めて姑息に迎合しているだけであり。社会学者が世間に迎合して成功する手口手法ばかりを追求しているというのは単なる大衆迎合であって、社会学者としての社会的役割を全く果たしていない。

 社会の不公平を問題にするのであれば、不公平によって「世間的には成功していない。」ことが問題なのであって。不公平という原因自体を無視して、結果的な成功だけを基準にするというのは、不公平という社会問題に対する論理的原因究明にもならず、当然対策にもならない。

 古市がやたらと言う「○○は今の社会でも受け入れられそうだ。」などという評価方法は、現状世間における大衆迎合可能性の予測を述べているだけであって、問題に対する論理的な分析には全くなっていない。

 論理的分析が全く介在しない社会学って、一体何ですか。

 学問っていうのは理論的に問題を明確化することによって、具体性ある対策に結び付くからこその価値であって。その場限りに「世間に受け入れられそう。」かどうかを基準にするというのは、学問としての分析、学問としての社会的役割を全く果たさない怠慢に他ならない。



 「楽しそうにしていると、人は集まる。」などという話も、「楽しそう。」かどうかを判断基準にしている時点で気分の問題、大脳辺縁系の感情の問題にすり替えており、論理的に正当かどうかの判断には全くなっていない。

 「人が集まる。」というのも現状世間における「結果」に過ぎず、現状世間において人気があるかどうかと、論理的に正しい「目的」行動選択であるかどうかとは無関係な話である。

 社会学者が現状世間に迎合することばかりに意識を奪われていれば、社会学が世間の問題点を論理的に認識出来ないのは必然的結果である。


 現状の日本社会には問題がある。問題のある社会において「上手くゆく。」ことが、問題自体の解決になる訳ではない。

 この基本的構造原理を無視して、「上手くゆくかどうか。」を基準に上から目線で他人を評価するというのは、むしろ社会の問題点を助長することにはなっても、改善することには貢献しない。

 文科系大衆観念者というのは、養老孟司のように多くのヒトが知らぬ間に人気を得ているものである。キチンと論理的に検証しないと、こういったオカルトによって社会の問題点というのは簡単に撹乱されてしまうものなのである。

 これを平たく言えば、「バカ」と言う。

 バカは問題解決能力がありません。

 無能なんですよ。

 わかっているんですかね。

 東京電力の社内において原発の危険性を指摘することが「上手くゆくんですかねぇ。」などという基準は論外である。

 「上手くゆくかどうか。」というのは、「やるべき正当性」の論証には全くならない。

 社会学というのは社会の問題点を論理的に分析し、対策を立てることが社会的役割であり。そこに「上手くゆく。」かどうかはどうでもよい話である。

 温室効果ガス削減が「上手くゆくんですかねぇ。」などという基準でやるやらないの判定を下すようなものではない。

 ヒトの多くがバカで、こうした文科系大衆観念から逃れられないとしても、「言わなくて良い。」基準には全くならないのである。



 おそらく古市本人は、それを問題だとすら認識していないであろう。それこそが大問題なのである。それは養老孟司やオウム真理教の教祖のオカルト性と全く同じ構造だからである。

 振り込め詐欺師の被害者が、「自分だけは絶対に大丈夫だと思っていた。」のと同様で、「大衆迎合の何が悪い。」的な観念を振り回しているからこそ、社会学が社会学としての社会的役割を一向に果たさないのである。

 今のマスコミには、もっと注意力を持って他人の話を分析する必要性がある。単なる大衆人気取りだけで垂れ流しをしておいて、「メディアリテラシー。」の一言で責任逃れをして良いわけがない。

 注意力を持って論理的分析を行うことが、意識の本質である。この注意力とはどこから来るのかといえば、主体的意志によって促されるものであって。抽象化された「エサ」(脳への報酬)に対する条件反射的思考だけでは、問題の本質を認識することは出来ない。

 キャリア官僚が「年寄りは死ね。」的なツィートをしたらしいが、学力の高さというのは人間性や人間としての知能の高さの証明には一切ならない。本当に社会にとって要らない奴が誰なのかを、一度も考えたことのないバカでもキャリア官僚にはなれるのが現在の教育システムなのである。




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ご機嫌取り。

2013年09月28日 15時12分05秒 | 意識論関連
○ご機嫌取り。

 大衆観念上では、多数他人と話を丸め、ご機嫌取りをすることで多数派に迎合することを「コミュニケーション能力。」と形容する。

 これはチンパンジーやゴリラが集団内部でご機嫌取りを行うのと同じ動物的な「習性」であって、論理的思考に基づいた人間としてのコミュニケーションではないばかりか、むしろ論理的思考を阻害しヒトから個人の自律的思考を停止させる先天的なバイアスである。

 ヒトという種の生物は、その場限りに多数派に迎合し、気分的に安心することを優先するように大脳辺縁系が出来ており。論理的根拠を持った安全性を後回しにする行動習性が存在するのである。

 ナチズムやポルポト、シエラレオネの少年ゲリラなどによる集団組織的残虐行為というものは、集団内部で気分感情的に安心満足が得られる行動に「整理」されることによってもたらされるものであり。これは紛争が生じていない社会においても潜在的に存在するものである。

 日本において、イジメや虐待、体罰が一向に減らないのも、こうした潜在的オカルト性が「文化」として働いているが故の結果であり。こうした潜在的オカルト性が醸成されることによって、社会全体の安全性が失われることに陥るのである。

 「体罰も必要。」だとか「イジメられる方にも原因がある。」などという卑劣な観念を平気で振り回す文科系大衆観念というのは、オカルト以外の何物でもない。太平洋戦争時の日本軍の異常性というものは、決して太平洋戦争時だけの特殊なものではなく、「文化」という形で潜在的に社会に蔓延しているものなのである。

 論理的根拠のない気分的安心満足ばかりを追求していれば、統合的な論理検証性も批判精神も働かないのは必然的結果である。多数派のご機嫌取りに終始しておいて、「人間としてのコミュニケーション能力。」の論証には全くならない。

 単なる「ヒトという種の生物としての先天的コミュニケーション行動バイアス。」というものは、短絡的に人間性の論証には全くならないばかりか。むしろ人間性を喪失させるものでしかない。

 シエラレオネの少年ゲリラや、ソマリアでの虐殺において、集団内部での安心満足というものには論理的安全性や持続可能性は全く介在していない。これは日本の学校におけるイジメにおいても同様であり、東京電力福島第一原子力発電所においても言えることである。

 ヒトという種の生物は目先の気分的安心。すなはち先天的な大脳辺縁系が促す行動バイアスに流されるよう出来ており、後天的に刷り込み学習された固定観念に基づいた価値観を優先しがちな傾向がある。虐待が連鎖されるのも、悪しき「文化」が伝承されてしまうのも、ヒトの先天的な脳の行動バイアスが作り出す結果であり。こうした先天的行動バイアスに無意識に流されないようにするためには、多数派や権威の意見に安易に流されない自律した個人の判断責任というものが必要不可欠なのである。

 ヒトの多くは多数派や権威の意見というものに流されておけば、自分の個人的自律判断責任が薄められると勝手に妄想する習性がある。だからこそ「生きるためには。」などと称して権威や多数派に迎合するための言い逃れや取り繕いを強弁するのである。

 なぜ「強弁」しなければならないのか、それは気分的に安心だからであり、安心というのは先天的行動バイアスであり、安心を追求するように大脳辺縁系は出来上がっているからである。

 安心というものは、恐怖を拒絶する行動バイアスである。気分的に嫌なものを拒絶するためには、社会安全性や持続可能性を犠牲にしてでも、目先の気分を優先するようにしかヒトの大脳辺縁系というのは出来ていない。この意味に限っては「ヒトとはそういうもの。」でしかないのである。



 ヒトという種の生物は、先天的には出来損ないである。それは生物進化の過程において結果的に生存に適した「結果」に過ぎないからであり、偶発的な「結果」以上の価値は存在しないからである。

 ヒトが人間として振る舞うためには、こうした先天的な欠陥としての行動バイアスに流されることなく、自律的に論理検証するという「目的」を持った個人の「意志」が必要不可欠である。

 現代の日本において、個人が自律的に社会的責任判断なんぞしなくても、多数派に迎合して権威に服従しておいても概ね日常生活には影響を及ぼさないであろうが。影響が及ばないのも「結果」に過ぎず、影響が及んでからでは遅いのである。

 東電内部では既に影響が及んで、福島を地獄に陥れた。オリンパスでも大王製紙でも雪印でも西武グループでもリクルートでも同じことである。これらの企業は平気な顔で存続しているが、組織腐敗というものは莫大な社会的損失をもたらすものであり、社会を崩壊へと導く最も大きな要因なのである。

 ヒトの多くは、「自分の観念だけは影響が及んでいないから大丈夫。」だと勝手に妄想する。こうした妄想に溺れていた方が気分的に安心で満足なのもまた、先天的本能に由来する思考バイアスによるものである。



 弁証法的な思考というのは、自律的に論理検証しようとする自発性によってのみ働くものであって。「弁証法的に議論しなさい。」と頭ごなしに強要して醸成されるようなものではない。

 論理的思考というのは、単なる認知科学上の「論理思考試験の得点」によって導き出されるようなものではなく。本質的な自発的思考、疑問といったものから自然と導き出されるものである。

 得点成績が得られないような問題については、現在の生物学者や脳神経科学者、認知科学者、哲学者の誰も検証しないのも。それが短絡的に抽象化された脳への報酬にならないからに他ならない。

 「ドストエフスキーが時代を予言した。」などと言い張るのも、実際には具体的な予言としての価値があったわけでもなんでもなく、単に気分感情的に「感動した。」という主観的意見だけが優先された身勝手なオカルトに過ぎない。

 具体的に何かを予言していたのであれば、具体的に対策が立てられるはずであるが、そんなものはドストエフスキーには全く存在せず、偶発的結果に対するこじつけにしかなっていないのである。

 生物学において、偶発的「結果」としての生物進化というものを、短絡的に「目的」として扱いたがるのも、現状を事後正当化するためのこじつけに他ならない。

 先天的なヒトの行動バイアスの中から、人間性にとって都合の良い結果だけを抽出してきて、「ヒトとは先天的に人間である。」などと言い張るのは、大衆迎合ご機嫌取りではあっても、科学としての社会的役割には全く価しない。



 通り魔などの単独無差別殺人犯であっても、彼らの行動動機の根源には、文科系大衆観念に基づいたバイアスが働いており。何ら自律的には自分の行動に対する論理検証性は働いていない。

 「自分が悪いことを行うのは、多数他人によって形成されている社会や時代が悪いからだ。」などと抽象的な意見しか出て来ないのも。具体的に社会の一体何が、どのように間違っているのかを論理的には全く認識してはいないからこそ、短絡的に気分感情が満足出来る無差別殺人へと暴走するのである。

 こうした抽象的な社会や時代への批判というものは、哲学などの文科系の者にとっては普通の平均的な意見であり。普通で平均的であるが故に迎合しておいて「安心」だからこそ、平気で放置されているのである。

 言い換えれば、通り魔の観念というものは、現在の文科系思考しか出来ない生物学者や哲学者達によって温存されているからこそ通り魔などの無差別殺人を助長しているのであって、こうした学術的怠慢こそが社会的損失の大きな要因となっているのである。

 ヒトというのは気分感情によって行動が左右されがちな傾向はある。だからといって「気分感情を満足させることだけ考えておけば良い。」などという短絡的な思考怠慢が許されて良いわけがない。

 ヒトは感情的に興奮状態に陥ると、簡単に振り込め詐欺にもオカルトにも引っ掛かるものである。それは「今まで一回も引っ掛かったことがない。」という経験則だけで引っ掛からないと「思う」のも、また気分感情が促す思考停止性の結果である。

 東電社員達が組織の意向にさえ従っておけば全ては安泰だと「思って」いたのも、ある種の詐欺に引っ掛かったのと同じである。こうした嘘は社会全体に蔓延しており、嘘の根源の全てには論理的根拠のない文科系大衆固定観念としての「文化」が働いているのである。

 東京大学学長が新入生達に対して、「全てを疑え。」と論じたのも。この世界には嘘や間違いが平気でまかり通っている現状を踏まえての発言である。

 「疑え。」というのは、観念的に猜疑心にさいなまされて「他人を見たら泥棒だと思え。」的に闇雲に疑えと言っているのではなく。あくまで論理検証的に「考え」、具体的に嘘や間違いを暴くことが重要だと言っているのである。

 論理的根拠のない猜疑心をどんなに強く抱いても、具体的に社会への貢献には全くならない。猜疑心というのは気分感情の問題、大脳辺縁系が促す思考バイアスでしかないからである。



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ソマティックマーカー仮説。

2013年09月28日 15時08分33秒 | 意識論関連
○ソマティックマーカー仮説。

 行動学習的に無意識な抑圧で行動が決定していれば、例えば権威に服従しないと嫌な思いをするよう学習してしまうと、自律的には社会的責任判断よりも権威に服従するようにしかならなくなる。

 無意識な行動抑圧だけで人格を論ずるというのは、意識的な個人の論理検証性を無視したあやふやな話であり。もはや認知科学として全く機能していない。

 反射的無意識に多数派や権威に迎合していれば、大抵の場面においては問題なく社会生活を送れるであろうが。現状の社会そのものへの論理検証や、それに伴う批判精神も持たなければ、自律した一人の個人としての価値を持たない。

 自律した一人の個人としての価値がないということこそが、本当の意味における「人格」の欠落であって、単に外見上「怒りっぽい。」だとか「神経質」といった性格のことを、短絡的に「人格」だと規定している時点で認知科学者として厳密さに欠け、無能である。

 ヘラヘラ笑って多数派に迎合し、反射的に権威に服従していれば、外見上は「善人」であろう。だが、こうした文科系大衆観念に基づいた「善人」観というものは、本質的な人間性を証明するものではない。

 ソマティックマーカー仮説などという無意識な行動学習による行動抑圧を、短絡的に「人格」として扱うのは、個人の意識的論理検証性の存在を無視した非科学的屁理屈に過ぎない。

 外見上善人風味を装い、何ら論理検証も行わず、その結果批判精神もなければ何にも怒りを持たずに済むであろう。こうした表面的な善人風味、冷静そうな風味を短絡的に「人格」だと鵜呑みにしているのは、現在の認知科学者達は誰一人として科学的論理検証性を持たないポンコツの集まりに過ぎないことの証明である。




 人格というのは性格と同義ではない。

 外見上の性格が、感情的でなく、温和で誰とでも話を丸めて多数から好かれるからといって。これが短絡的に多数や権威に迎合せずに自律的に社会的責任判断を下すという人格性の論証には全くならない。

 逆に言えば、短絡的に多数派や、多数によって認証された権威の命令に服従迎合せずに、自律的に社会的責任判断を行う者であれば。必ずしも「誰とでも話を丸めて、多数から好かれる。」わけではない。

 多数派のご機嫌取りが出来ることを、文科系大衆観念的には「性格が良い。」と規定するのであろうが。こうした外見上の「性格」というものが、短絡的に自律的な社会的責任判断が下せる本質的な「人格」の論証には全くならない。

 こんなことは「科学者」であれば本来わざわざ明記しなくても、自律的に検証理解し、何が本質的な「人格」であるのかに基づいた論証をしていなくてはならない。

 つまり、現在の認知科学者や脳神経生理学者達というのは、こうした極めて基本的な論理検証すら出来ず。漫然と大衆観念を鵜呑みにしており、科学者としての基本的素養が全くそなわっていないのである。

 大衆観念に基づいた論証をしておけば、大衆人気取りをするのは簡単であろう。「これさえやっときゃ、頭が良くなる。」的なペテンで人気取りに邁進し、外見上善人風味を装っておけば、大衆観念的には「善人」なのであろう。それが結果的に振り込め詐欺被害の放置や促進になっていようとも、大衆観念的には「善人」なのであろう。

 こうした無責任な大衆観念を、「多数派である。」というだけで「正常」と見なすことも、人間としては異常なのである。



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簡単。

2013年09月28日 15時07分25秒 | 意識論関連
○簡単であるということ。

 「組織に対する忠誠忠実性こそが人間性である。」という文科系大衆観念が日本人の文化として根強く、こうした固定観念を利用する形でブラック企業は社員を拘束する。

 安倍首相の言う「規範意識」のような、無意識的行動バイアスこそが人間性を構築するものであるという観念が日本人の文化にはあって、そこには自律的判断というものは「あってはならない。」ことになってしまっている。

 ブラック企業にせよ、押し売り詐欺の類にせよ。個人の主体的判断よりも、組織の利益を優先させることこそが社会に対する貢献であるかの如く言い張ることによって、個人の思考判断能力を阻害させるのである。

 こうした意識撹乱こそが「洗脳」であり、これによって個人の主体的思考を停止させる手口というのは、東電原発の危険性を放置させたのと同じ構造である。



 ヒステリックに何かを主張されると、あたかも論理的根拠を持った正しい主張であるかのように、ヒトの多くは錯覚する傾向習性がある。

 企業などの組織が腐敗する構造において、中間管理職が組織に対する忠誠忠実さだけを発揮してしまうことによって、あたかも組織の利益こそが社会貢献であるかのような錯覚を促す主張がまかり通ってしまうことに陥る。

 戦時中の日本軍が、特攻などという異常な観念を強要したのも。「お国の為。」という大義名分を掲げ、あたかも特攻こそが国を救う行動であるかの如く錯覚を促した。

 組織に対する忠誠忠実性を優先させ、特攻精神的に組織に服従迎合させることによって。個人から主体的判断能力を剥奪することは意外と簡単なことである。

 「存外、ヒトとは簡単なもの。」なのである。

 「簡単である。」ということは、すなはち「バカだ。」と言うことでもある。

 それなら「バカではない。」状態とは、一体どのようなものであるかと言えば。簡単で短絡的ではない状態を指すのである。

 原発事故が発生する前に、原発の危険性を主張していれば、東電的には「面倒臭い奴。」であろう。

 スペースシャトルチャレンジャー号の技術者が、気温低下による危険性を主張したことはNASAの幹部達にとっては「面倒臭い奴。」であったのと同じである。

 イジメを止めようとする生徒がいれば、イジメを行っている者達からすれば「面倒臭い奴。」であることは確かである。

 大衆観念的には、こういった面倒臭いことをする奴を「バカだ。」と形容したがるが。これは自分達の無為無策性を事後正当化するための言い逃れに過ぎない。

 バカの集団にとっては、バカではない者を「バカだ。」ということにしておかないと、自分達の頭の悪さを認識することになるため、異常なまでに自分達の頭の悪さを意識から外そうとするのである。

 「イジメられる方にも原因がある。」などという主張もまた、こうしたはぐらかしの手口に他ならない。

 言っている本人には、はぐらかしている意識はないかも知れない。単にその場限りに自分の気分が悪くならないために反射的に言い逃れをしているだけなのかも知れないが、こうした無意識性こそがヒトの頭の悪さの根源なのである。

 無意識な者というのは、反射的に言い逃れや取り繕いだけは異常なまでにたくさん陳列することが出来る。その場限りの反射的言い逃れや取り繕いだけで脳が占領されており、自己論理検証性というのは全く働かないのである。

 これこそが典型的な「バカの状態。」である。


 例えば、「痴漢をされる方にも原因がある。」などと称して、ミニスカートや薄着こそが痴漢の根本原因であるかのような主張が正当化されるであろうか。

 こんな主張は加害者の論理であって、極めて身勝手な主張であることは疑う余地はない。

 「イジメられる方にも原因がある。」などという主張は、加害者や傍観者の身勝手な言い逃れに過ぎない。

 「自分だけは絶対に大丈夫。」だと、そう思い込んでいるためだけに、自分の頭の悪さを意識から外すための反射的な言い逃れや取り繕いに邁進するのは、実は非常に簡単なことである。

 その場しのぎの言い逃れや取り繕いばかりを陳列することというのは、認知症の初期症状に他ならない。無意識条件反射的な言い逃れや取り繕いを、どんなに高速に大量に陳列出来ても、それこそがバカになる最短の近道なのである。

 認知症患者というのは、認知症状を自覚認識させると気分的に落ち込んで、余計認知症状が酷くなるという。

 脳というのは一度バカのスパイラルに陥ると、坂を転げ落ちるようにバカになって行くものなのである。ヒトの大脳辺縁系というのは、先天的にバカにならないようには出来ておらず、むしろバカを促進するようにしか出来ていない。

 バカでいることは生存に適している。

 シエラレオネでは、凶暴なゲリラでいた方が死なずに済んだし。ナチス政権下のドイツでは、ユダヤ人絶滅計画に加担していた方が生存に適した。

 ドストエフスキーがソヴィエト政府に迎合したことも、「生きるため。」であり。所詮は「悩ましい。」芸術作品に過ぎず、何ら哲学としての論理的分析がなされている訳ではない。

 ヒトの多くは、大衆観念的に「悩む。」ことを論理検証的な「考え。」だと錯覚する習性がある。これが現在の哲学界における思考停止という怠慢を促す最大の原因である。

 哲学者の多くは悩ましい問題に気分的に苦悩して、これを「考え。」だと錯覚することで、さも頭を使ったような勘違いをして満足するのである。

 だから現在の哲学者達は無能なのである。



 どんなに気分的に苦悩しようとも、どんなに感動しようとも、それは大脳辺縁系の反射による先天的情動の強度程度問題に過ぎず。具体性を持った論理的「考え」にはならない。

 それは芸術としての「文学」であはっても、「哲学」にはならない。

 哲学というのは、本来科学的探求に供するものであって。芸術気晴らしによる安心満足を得るための大衆迎合ではない。

 ところが、大衆の多くは哲学を気分的安心満足を得るためのものだと勘違いしており。また、哲学者の多くも大衆マスコミに迎合して「多くの人に読み続けられている。」という多数決によってのみ価値基準と見なしている。

 ドストエフスキーは具体的に何も予言などしていないし、プラトンにもニーチェにも具体性のある論理的根拠などない。にも関わらず、論理的根拠を持った考えではないということには哲学者の誰も言及しておらず、大衆的な多数人気を根拠に哲学として見なしているのである。

 これは本来科学としては犯罪とも言える怠慢である。

 大衆に迎合して「ドストエフスキーは素晴らしい。」とでも言っておけば、バカな大衆は「何だかわからんが、凄いな。」的に哲学だと「納得」勘違いさせることは簡単である。

 実際には「難しい。」のではなく、単に具体性のある論理的分析が全くないから「論理的に理解出来ない。」ことを、あたかも論理的に難解であるかのように錯覚しているに過ぎない。

 気分が行動に直結していれば、気分を促す時代だの社会にこそ原因があると錯覚することは簡単である。それはいわば、「通り魔の気分に同調している。」に過ぎない。

 「自分が悪いことを為すのは、社会や時代が悪いからだ。」などというのは、典型的なポンコツチンピラの主張に過ぎない。

 社会や時代を作るのは、自分を含めた個人であり。多数派であれば自律判断責任が人数分だけ薄まると勘違いするのは大衆的観念に他ならない。

 人口の多い現代社会や大規模組織において、個人の自律判断というものが微力であることは確かであるが。微力であることを根拠に自律判断を放棄して良い理由には全くならない。



 世間的な成功や特定能力の高さばかりを取り上げ「才能」だと言い張るのは大衆迎合に過ぎない。世間的な成功が才能であるならば、振り込め詐欺師も天才ということになる。

 そんな不毛な大衆観念には何の社会的価値も存在しないことを、ヒトの多くは認識していないのである。

 その場限りに金儲けや大衆人気取りが出来ても、そんなものが社会安全性や持続可能性に寄与しないことには、大衆の多くは意識が働かない。

 金儲けや人気取りにならないことは、大衆の脳にとっては存在しないのと同じだからである。

 大衆の脳にとっては、自律的に社会的責任判断を行うことの重要性など、目先の金儲けや人気取りに比べて快楽満足を提供しない「面倒臭いこと。」に過ぎないからだ。




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集団迎合生活。

2013年09月28日 15時06分04秒 | 意識論関連
○集団生活。

 「集団生活を学ぶ。」などと称して、実際には学校での集団生活ではイジメを傍観したり共謀することを行動「学習」しているのが実態である。

 権威や目先の多数派に迎合服従することこそが、個人から自律的な社会的責任判断能力を喪失させるのであり、現在の教育制度下における集団生活には何の価値もない。

 個人が自律的に社会的責任判断をしないからこそ、原発は暴走したのである。これは原発に限らず、あらゆる「人災」の根源である。

 気分的に「恐い。」相手に対して服従する多数派に迎合し、ならぬことをならぬと言わぬデクノボウの集団生活こそが、社会を崩壊へと導く最も最短の道である。

 イジメというものは、イジメを行っている者の凶暴異常性を無視し。「イジメられている方にも原因がある。」などと称してイジメを止めようとしなかった自分の行動を事後正当化する言い逃れを陳列することばかりに意識を奪われているからこそなくならないのである。

 「自分だけは絶対に大丈夫。」的な観念というのは、振り込め詐欺師に引っ掛かるカモ特有の根拠なき自己満足に他ならない。

 自分が完全無欠な神か何かだと勘違いしておけば、自分の頭の悪さを認識せずにいられるので安心で満足であろうが。これはカルト宗教の教祖の心理と構造的には全くおなじ「実証不能の観念。」に過ぎない。

 自分が絶対完全無欠な天才だと勘違いしておけば、さぞかし安心で満足なのであろうが。ありていに言ってキチガイとしか形容出来ない。

 バカというのは、その場限りに「自分は絶対的完全無欠な神のような間違いを冒さない天才である。」かのように他人を批判し、或は逆に「自分は天才ではないから社会全体の公益性には考慮が働かない。」などと、のらりくらりと言い逃れや取り繕いをするだけで、言っている内容に論理整合性というものが全くないからバカなのである。

 その場限りに自分の気分が満足出来るような言い逃ればかりしていれば、論理的対策が全く立たずに社会全体から安全性が失われるのは必然的結果である。

 ヒトの多くは、恐い相手や面倒臭い相手に逆らわず、話を丸めて多数派迎合することを「社会性」だと言い張るが。これはチンパンジーやゴリラの行動習性としての社会形成習性と同じ「ヒトの社会形成性」であって、多数他人に惑わされることなく自律的に社会的責任判断を行う「人間としての社会性」とは全く別のものである。

 イジメを放置傍観し、自律的には何も判断せずに「生きるためには。」などと称して無為無策性を事後正当化することばかりを取り繕っていれば、人間としての社会性としての「自律的な社会的責任判断」を放棄するようになるのは当たり前である。

 漫然と多数派迎合するだけの「集団生活」をさせても、多数派に迎合し権威に逆らわなくなるバカを大量生産するだけに陥るのは必然的結果である。

 「どんなに対策をしても、人災はなくならない。」などと称して、対策自体を放棄することを正当化可能であるかのように言い張るのは、もはやキチガイの論理であり。これに対して何の反論も疑問も批判も行わない多数の「傍観者」も同罪である。

 「諦める。」ことは快楽である。

 諦めることで、ヒトというのは思考を停止させ、何も対策を考えなくても安心満足することが出来るため。ヒトは簡単に諦め、バカになるのである。

 虚無主義というのは、実際にはNihilisticでも何でもなく、むしろ論理的思考を放棄するための言い逃れ取り繕いであり、自己の論理検証可能性を拒絶するための現実逃避に過ぎない。

 無為にイジメを傍観放置し続けた既存の行動を事後正当化していれば、傍観放置に意味があることに出来ると多くのヒトは勘違い錯覚して満足であろう。その安心満足こそが脳内麻薬が作り出す幻覚なのである。

 具体性を持った論理的対策意見がないのであれば、安易に「仕方ない。」的な決め付けをするべきではない。

 バカが自分のバカさを事後正当化していれば、バカげた結論にしか帰結しないのは当たり前だからである。



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迎合。

2013年09月28日 15時04分47秒 | 意識論関連
○多数派迎合性の事後正当化。

 言語コミュニケーション能力の発達過程において、親の顔を見ない子供は言語会話の発達が遅い傾向があるそうだ。

 親などの他者の顔色を窺う性質があることによって、共通言語の学習が進むそうで。親の顔色をあまり見ない子供は共通言語の学習が遅れることになるそうだ。

 ヒトという種の生物は、他者の顔色を窺う習性があり。他者のご機嫌取りを行うことで生物的な社会形成習性を発揮するようになる。

 言語学習能力の速度の観点だけから見れば、あたかも他者の顔色を窺うことの方が優位であるかの如く見えるであろうが。言語学習の速さだけが人間としての知能ではないことは明らかである。

 言語などのシンボル抽象化能力を、短絡的に人間性の論証であるかのように近年までは平気で論じられていたが。言語はヒト特有に発達した能力であるとは言えるが、それが短絡的に人間性の論証になる根拠は全く存在しない。

 ヒトが言語を学習する際に、他人の顔色を窺う性質によって学習速度が速まるからといって、言語学習速度が速ければ知能が高いとか、人間性が優れているといった根拠は全く存在しない。

 やたらと良く喋る癖に、言っている内容はほとんど何もない奴など珍しくはない。振り込め詐欺師や養老孟司などが典型であろう。

 言語学習において、その速さの優位性を導き出す要因としての、「他人の顔色を窺う性質。」というのは。逆にイジメや差別迫害においては多数派同調性の大きな要因となるのは明らかである。

 多数派と同じではないことを根拠に、多数派で同調して差別をする習性というのは人間としての知能ではない。

 多数派に同調しないことは、イジメにおいての「イジメられる原因」の一つではあるが。それなら同調しないことで多数派のご機嫌取りにならないことが、イジメて良いことの根拠になるであろうか。

 イジメというのはイジメる方の多数派迎合性、多数派のご機嫌取りを優先してしまうという、多数派の異常性が根本原因である。

 ヒトの多くは「多数派である。」というだけで、多数派の方が一方的に正常であると決め付ける習性がある。そのため、少数派の方を「治療」することばかりを考えるようであるが、これは大きな間違いである。

 ヒトが多数派や権威といった上下関係を妄想し、権威や多数派に対して異常性を「感じない」のは、ヒトの先天的欠陥である。

 異常であると「感じない」のは、それが気分的に安心で満足だからであり。これこそがヒトから論理検証性を喪失させる先天的習性である。

 「感じることが出来ない」のであれば、認識出来ないことが正当化出来ると思うかも知れないが。これもまた大嘘であり、自発的に論理検証しないからこそ異常性を認識出来ないだけであって、構造原理的に認識不可能性が証明されている訳でも何でもないのである。

 「ヒトは自分や多数派の異常性を認識することが難しい。」とは言えるかも知れないが、構造原理的に認識不可能性が立証されている訳ではない。

 犯罪において、加害者と被害者のどちらが悪いかを論ずることに意味などない。にも関わらず、イジメに関しては被害者の多数派迎合性の欠落を原因であると言い張るバカは少なくない。

 「イジメられる方にも、原因がある。」としても、そのことが悪いわけではない。にも関わらず、多数派の異常性の方を無視して、少数派の方を治療することしか考えないというのは、明らかに多数派であることを根拠に多数派を正常と見なしているからである。

 イジメる方の多数派迎合性という異常性を、単に言語学習速度を根拠に正当化して良いわけがないのである。

 ヒトという種の生物は、神が「目的」のために作り出した完全無欠の存在ではない。偶発的に生存に適したという「結果」に過ぎない存在であり、先天的欠陥が存在することは別におかしなことでも何でもないのである。




 時折、「ヒトは一人では生きられない。」などと称して、これを根拠に多数派迎合性を正当化出来たと錯覚したがるバカも少なくはない。哲学者の多くはこんな奴ばかりであろう。

 だからこそ「生存自体に意味などない。」と言っているのである。生存することを根拠に多数派迎合性が導き出す結果までをも正当化しようとするのは、単なるキチガイに他ならない。

 生存だけは憲法でも保証されているにも関わらず、死ぬ自由については犯罪扱いするというのはおかしな話である。

 イジメ差別迫害や過重労働で自殺する者だけに死ぬ自由が存在しているのは不公平であり、全ての者に死ぬ自由がなくてはならない。

 死ぬことが「怖い」のは勝手であるが、怖いなどという気分感情を根拠に義務権利を放棄して良い根拠には全くならない。

 死ぬ自由を論ずることを、文科系大衆観念的に拒絶するのも勝手であるが。これを短絡的に冷酷であると言い張るのは身勝手というものである。現状における社会の不公平を放置することの方が実際にははるかに冷酷であることを、多くのヒトは認識していないだけであるからだ。




Ende;
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正義。

2013年09月13日 17時30分50秒 | 意識論関連
○正義。

 民放っていうのは「警察24時」的に、言語道断な犯罪者を捜査特定する過程ばっかり取り上げて、あたかも司法警察というものが絶対的に正しいことであるかのようなプロパガンダは大好きなんだけど。NHKの「クローズアップ現代」みたいに、事故や事件の背景とか対策を掘り下げるっていうのはやらないのね。

 ひき逃げ事件の容疑者を特定する過程っていうのは、警察のお仕事ではあるんだけれど。警察のお仕事を垂れ流しておけば交通事故減少に役立つということにはならない。

 ひき逃げ事件なんていうのは、大抵の場合意図的に轢いているわけじゃないし、交通事故なんて誰でも起こす可能性があるものなのだから、交通事故自体がどうして起きたのかを危険工学的に分析して、これを皆で共有することで再発防止に役立てるっていうことの方が本来重要なはずなんだけど。

 「悪者を特定して罰を与えた。」的な解決方法が大衆ウケが良くて視聴率が取れるもんだから、どうしても警察万歳的な番組に陥りがち。

 警察内部にだって不祥事はあるんだから、無為に警察万歳主義的プロパガンダに加担するっていうのは社会的に無責任なんだけどな。



Ende;
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自発的。

2013年09月13日 17時29分35秒 | 意識論関連
○自発的。

 チンパンジーが自発的に自分の意向を手話で表現したからといって、これが短絡的に人間としての知能の論証には全くならない。

 チンパンジーが自分の大脳辺縁系が促す行動意欲を、他者に手話を用いて伝えたからといって、大脳辺縁系が促す行動意欲自体は論理的に個人の主体的意志選択が介在せず、本質的には主体的意志であるとは言えない。

 そもそも言語会話を短絡的に人間としての知能などと分類していることが、論理的根拠がない観念に基づく分類であって。言語会話能力なら振り込め詐欺師でもシエラレオネの少年ゲリラでもヒトラーの方が他人を洗脳出来る程「高度」であると言えるのである。

 振り込め詐欺師が、言語によって他者に自分の求めていることを伝えたからといって、それが短絡的に人間としての知能の論証には全くならない。

 東京電力の幹部取締役が、社員に対して組織の利益を優先するように伝えたからといって、そんなものが短絡的に人間としての知能の論証には全くならない。

 言語会話能力というものは、一面的には特定の「能力」ではあっても、本質的な知能としての論理的根拠には全くならない。

 ヒトという種の生物に特異な能力であるからといって、これが短絡的に人間としての知能であることの論証には全くならない。

 人間としての知能とは、環境依存的な結果的特定能力の高さ程度によって短絡的に論証されるようなものではなく、環境に左右されることなく自律的に社会的責任判断を行えることであって、社会的責任判断を伴わないあらゆる特定能力の全ては本質的には知能の論証にはならない。

 言語機能だの記憶容量だのといった、特定能力の高さを短絡的に知能の全てだと錯覚していること自体に自律的論理検証性が欠落しており、これこそが人間としての知能の欠落をも意味するのである。

 ヒトの多くは少数派の意見を特別扱いし、差別することで多数派を正当化しようとしたがる傾向がある。

 単に多数派というだけで「正常」の論理的証明であると錯覚することで、目先の満足安心によって論理検証的な思考を停止させてしまう習性が、ヒトという種の生物にはあるからだ。

 「チンパンジーが会話をした。」ことを短絡的に「知能」と見なし。

 金が儲かった。だの有名になって目立った。運転手付きの高級車に乗っている。大企業の重役である。などを根拠に短絡的に権威と見なし服従するからこそ、大王製紙のような不祥事も起きるのである。

 学校の教室内での観念的優位性を根拠に、短絡的に暴力者に同調迎合しているからこそ、イジメはなくならないのである。

 こうしたヒトの同調迎合性という、本能的な社会形成習性こそが、ヒトを愚かな行為へと導き、社会を破綻に陥れるのである。

 ヒトとは、先天的にはバカである。しかし、自分の頭の悪さを認識し、錯覚が作り出す観念からの脱構築をし続けることによって、ヒトは先天的バカの克服可能性をも持っている。

 自らの頭の悪さを認識しないように、意識から外し、固定観念を多数派と共有し、自律的には何も検証しなければ。気分良くうかれていることは簡単である。

 茂木健一郎のように、多数のヒトの頭の悪さを利用して、何も考えられないように誘導していた方が世間ウケが良く金儲けにもなるのであろうが。それは「魂を悪魔に売り払う。」行為に他ならない。



Ende;
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分類。

2013年09月13日 17時28分27秒 | 意識論関連
○分類。

 冥王星が惑星なのかカイパーベルト天体なのかはヒトが勝手につけた分類であって、どちらが正しいのかに厳密な科学的根拠なんぞ特にない。

 分類というのは、考えを整理するための手段でこそあれ、考えそのものではない。

 ヒトはしばしば分類という手段を、あたかも目的であると勘違いしがちだが。分類自体に意味があるわけではない。

 ヒトの脳というのは、何かを分類整理すること自体が本能的に満足な性質があり。これがヒトという種の生物の思考短絡性を生み出す原因でもある。

 ナチズムによるユダヤ人絶滅計画やソマリアの民族浄化なども、民族という分類を目的と錯覚することで行われたものであって。分類区別による安心満足を、あたかも論理的「考え」だと錯覚するヒトの習性によって生じた「人災」である。

 科学的根拠のない血液型診断によって、「あの人の血液型はA型だから、こういう人だ。」などと決め付けておくことで、あたかも他者の性質の全てを掌握したかのような錯覚に陥ることで安心満足を得るこそを、ヒトの多くは優先してしまうのである。

 「分類区別したい。」のは、先天的な大脳辺縁系の本能である。だからこそヒトの多くは「これさえやっときゃ、全ては解決する。」的な安易で短絡的行動に「整理」されたがるのである。

 「学力さえ高ければ、世間的には評価や報酬が得られる。」ことを根拠に、学力そのものを目的とすることで高学力なバカは大量生産されることに陥るのである。

 神戸の灘高で昔有名だった国語教師がいたそうで、彼は決して試験対策なんぞ一切行わず、学ぶことの純粋な楽しさを生徒に提示することによって、生徒の主体的学習意欲を引き出し、結果的に学力の向上につなげた。

 学力成績を短絡的に「人間としての知能の論証である。」と勘違いすることは簡単であるが、学力成績試験というのは認知科学的に人間としての知能であるという論理的根拠が伴うものではない。外見上学力成績試験の得点が同じでも、主体的意欲による学習と、学力成績を抽象化されたエサ「脳への報酬」として無意識条件反射的に学習させることには雲泥の差がある。

 彼はまた、「常識」というものの重要性も論じていたが。彼の論じた「常識」というのは、大衆が漠然と信じ込んでいる観念を指しているわけではない。そもそも文部省指導要領を無視して一つの教材だけを深く掘り下げる教育方法自体が大衆観念的「常識」から逸脱しており、これを根拠に大衆迎合的固定観念を正当化するような解釈をするのは論理的理解を放棄する、とんでもないペテンである。

 本質的主体性を持たない学習教育というのは、無責任な無差別殺人犯をも醸成する社会的に無責任な行為に他ならない。

 「学力さえ高ければ、世間的に評価され、高い報酬が得られる。」などという「欲得ずくの世間的成功。」を目的としていれば、自律的な社会的責任判断なんぞ行わなくなるのはヒトの必然的結果である。

 生徒の主体的意欲を引き出すことで、結果的に学力にも貢献させるような教師と。目先の大学入試試験の合格率を目的とし、一発ギャグで有名になった講師を同列扱いすべきではない。「食べ物の好き嫌いがないから、良い子供。」などという主観的で論理的根拠を持たない価値観でしか生徒を評価出来ないようなバカを、単に「有名」という根拠だけで同列扱い「分類」するのは無責任極まりないペテンである。

 どうせマスコミなんぞは視聴率を稼ぐという「組織の利益」のことしか頭になく、放送内容が社会的に無責任かどうかは、「メディアリテラシー」と称して視聴者に丸投げしておけば良いと思っているのである。行き当たり場当たり的に世間ウケの良さそうな話を垂れ流しておけば報道マスコミの社会的責任を果たしていると思ったら大間違いである。

 企業とは、社会的存在であり、その場限りの利益追求をすることが目的ではなく。社会の安全性や持続可能性に基づいた責任ある判断を下すことが目的でなくてはならない。企業が社会的責任を負うというのは、企業に所属する個人の意識に依るものであり。企業組織内部の雰囲気「空気」に流されるばかりで本質的な主体的判断をしないからこそ、マスコミも含めて無責任な企業が増え、結果的に社会が崩壊に向かうことに陥るのである。

 世間的に一発芸がウケて人気が出て、金儲けに成功したからといって、これが短絡的に人間としての価値になるわけではない。ヒトの多くは世間的に成功しさえすれば人間の価値であると短絡的に錯覚する習性があるが、こうした短絡性こそが論理的根拠のない大衆観念によって非科学的オカルトが醸成される原因なのである。

 アベノミクスだのオリンピック招致だのでうかれて、目先の利益効用を追求することばかりに意識を奪われることは簡単である。

 それはとても簡単なことである。

 簡単なことというのは、無意識性を意味するものであることを、ゆめゆめ忘れてはならない。




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生存。

2013年09月13日 17時25分32秒 | 意識論関連
○死んだらそれで全てお終い。

 文科系大衆観念上では、「死んだらそれで全てお終い。」という話をしたがる傾向があるが。「死ぬ」かどうかは個人的な結果に過ぎず、人間としての行動選択の正当性の論証とは無関係な話であり。

 ベンヤミンがナチズムに反対して命を落としたことが間違いであったことの論証にもならないし、東京電力の原子炉安全担当者が組織や自己の地位権益保身のために原発の危険性を放置したことが正当化されるわけでもない。

 むしろ、「死ぬかどうか。」という個人的な結果論を持ち出して、自分が存在するに価する社会の姿に適さない行動に誘導するのが文科系大衆観念のオカルト性の源である。

 ヒトは必ず死にます。ヒトの死亡率は100%であることを忘れ、その場限りの利己的生存維持のために社会を崩壊に導くような判断をしていて、人間性もすったくれもあったものではありません。

 多くのヒトにとっては、「死ぬ」かどうかは「個人にとっては一大事。」なのかも知れませんが、それは生物医学的結果としての重大性に過ぎず。社会の中における自己というものの存在価値としての、他者との互換不可能性な個人の自律的社会的責任に伴う人間としての尊厳とは関係がありません。

 尊厳を棄ててまで生存することに何の価値があるでしょうか。尊厳を放棄して生存だけを求めるというのは、ヒトという種の生物としては「生存」していても、人間としては死んでいるのと同じことです。



 生物学であることを根拠に、生存に適すること以外何もを考えなくて良い理由はありません。

 生存だけを優先するというのは、いわば「サルの正義」に過ぎず。「サルの正義」が人間としての科学的検証よりも優先されて良い理由なんぞ有り得ないからです。

 ましてや哲学や経済学が目先の効用利益快楽満足ばかりを追求するというのは、もはや「ふざけている。」としか形容出来ません。

 「皆さん、お金が欲しいでしょ。」とはホリエモンの言葉ですが、「皆さん、死にたくはないでしょう。」とは生物学や哲学が大衆の思考を停止させる時に用いる常套句なのです。

 個体、個人の生存云々というものは、あくまで個人的主観的価値観に過ぎず。社会全体の安全性や持続可能性とは関係がありません。個人的生存よりも、自分が死んだ後の世界に希望が持てないような選択をしておいて、人間であるとは言えないのです。

 「死んだらそれで全てお終い。」という主観的で短絡的結果論に意識を奪われ、自分が死んだ後の世界のあるべき姿を基準とした判断を停止しているから、「洗脳」なのです。

 今の世の中、自律的に社会的責任判断を優先していれば、生活に困窮して生存に適さないかもしれませんが。だからといって自律的な社会的責任判断を誰もしない社会に持続可能性や安全性が成立しないのは必然的結果というものです。

 一人一人が自律的な社会的責任判断を下すことによって、今のような腐敗した世間を変えることは不可能ではありません。

 それがどんなに「困難」であるかは想像に難くありませんが、論理的に不可能性の証明が存在するわけでも、やらなくて良いことの道義的根拠も存在しないのです。

 世の中の大半が賢い正直者ならば、「正直者の多くがバカを見ない社会。」が作れる可能性はあります。東電社員が取締役幹部の言いなりに原発の危険性を放置しなくても済めば、原発は暴走せずに済んだかも知れません。

 その実現可能性が低いかどうかを論ずることに意味などありません。「あるべき姿」という理想を論じているのであって、これこそが人間としての「目的」でなければならないことに、可能性云々の議論は意味を成さないからです。

 理想を持たずに目先の満足を追求するのは人間としてポンコツです。どんなに大脳新皮質の容量があっても、社会の中における一人の人間として糞の役にも立たないということです。

 文科系大衆の多くは、理想というものを実現不可能なお伽話か何かと分類整理したがる傾向がありますが。それなら現状世間の根源的問題点を放置し、社会が破綻暴走するのを放置することの方が「現実的」で正当だとでも言うのでしょうか。それはすなはち、東電社員が取締役幹部の言いなりに原発の危険性を放置することの正当性を論じているのと同義なのです。

 こうした現状迎合主義というのは、論理的根拠のない保守的固定観念であって。これこそが人類の進歩を妨げる最も根源的なヒトという種の生物の先天的習性であると言えるのです。

 ヒトという種の生物は、既存物に対する根拠のない観念的執着というものがあります。今まで存在していた刑法や司法システムへの論理的根拠のない安心感というのも、こうしたヒトの執着心の結果であり。それが社会安全性において大きな障害になっている以上、これは脱構築しなければならないことを認識する必要があります。

 放射能まみれにされた土地への執着というものも、観念であることに違いはありませんが。それなら「どうせ安い田舎の土地なんだから、執着する方が合理的ではない。」などと言い出すことの方が人間として異常なのです。個人にとっての価値観というものは、単なる経済学上の価格数値とは直接関係のないものであり。「安い」かどうかで個人の価値観を蔑ろにしている時点で、既に個人の主体的意思を尊重しない多数派迎合主義に基づいているのであって。これはむしろ本質的な自己としての主体性を持たないからこそ、他者の個人的主体性をも蔑ろにしているのである。

 経済的価値、金額数値というのは経済における手段であって、目的ではありません。価値というのは本来主観的なものであって、経済価値的数値で割り出せるような民事訴訟判断のようなものではありません。

 個人が大切にしているものを、他者が蔑ろにしない社会とは。個人が他者の価値観を経済原理で勝手に決め付けたりしない社会です。

 本質的な自己としての価値観を持たない者にとっては、他人の個人的価値観も尊重することはありません。自分の中にかけがえのないものを持たないものが、他人にとってかけがえのないものが何かを知ることは構造原理的にないからです。

 本質的な合理性の追求とは。その場限りの機械的経済価値への換算のような短絡的で、他者の個人的価値観を蔑ろにするような安易なものではありません。それは何ら合理的なのではなく、単に手続き上短絡安易なだけに過ぎません。

 市民同士が互いの主観的な価値観を尊重し、安全で持続可能な社会のために個人が主体的に選択をすること。それによって個人が他者と互換不能な社会的価値としての尊厳を全うして、初めて「合理性の追求。」となるのです。

 何が主観的な価値観で、何が社会的価値観なのかを区別するのもまた、理性です。その場限りの感情気分の強度程度問題で決定するようなものではありません。

 本能的な気分感情という大脳辺縁系の反射反応は、そもそも個人の意志選択を介さない「結果」に過ぎません。ですから気分感情というものを大局的に客観視し、論理的に優先順位をつけることこそが、人間としての「心」だと言えるのです。



 多くのヒトは死を怖れます。これはドーパミンが作り出す最も基本的な動物としての本能ですが、死を最も嫌うことは大脳辺縁系が作り出した「結果」に過ぎません。

 こうした先天的な思考バイアスを用いて思考を停止させることこそが、人間としての合理的思考探求性を喪失させ、目先の物質数値的利益効用の追求へと多くのヒト達を誘導するのです。

 土地への執着心というものもまた思考バイアスではありますが、そもそも個人所有地の安全を剥奪すること自体が合理的ではなく、これを単なる多数決的な経済価値に置き換えてしまうことの方が非合理的なのであって、個人の主観的価値観の全てが無意味だと言っているわけではありません。

 個人が主観的に大切にしているものと、社会的に有害なものとを自律的に区別認識出来ないのは、そこに客観性を伴った主体的論理検証性が働いていないからに他なりません。

 「お前が大切にしている価値観なんぞ、俺の知ったことじゃねぇ。」などという身勝手な言い分は、人間としての社会性を欠いた、「チンパンジーの価値観。」に過ぎないのです。

 他人の主観的価値観を尊重しない社会が、合理的だと思うのは大間違いです。それはとても非合理的で機械手続き的な短絡性でこそあれ、合理的でも何でもないことを。論理的に理解することをしなくてはなりません。

 ヒトの多くは論理的理解をすっ飛ばし、観念的に「わかったような気分。」に陥ったり、単に難解だったり判定不能なことに「悩む」ことを「考え」だと勘違いする習性があります。こうした錯覚勘違いを放置しているから、非合理的観念を鵜呑みにし、「経済価値の追求。」のようなものを合理性追求だと「解釈」してしまうのです。



 しかし、社会を暴走破綻に陥れる可能性を持った実証不能の観念としての思考停止バイアスを、主観的価値として認めるわけにはいきません。

 現行司法制度などにおける問題点や、生物学や哲学における無責任な実証不能の観念を、単に気分的拒絶反応だけを根拠に放置しておいて良いことにはならないからです。







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目的論。

2013年09月13日 17時24分32秒 | 意識論関連
○目的論

 論理検証的に予測された目的行動選択以外の全ては、目的とは言えない。

 先天的本能習性がたまたま生存だの種の保存に適した結果だけを集めてきても、それが論理検証的に予測されたものである証明がない以上、これは目的とは呼べない。

 生存の種の保存も全ては「結果」であって、結果的に生存していたり種が保存されたりしているものを「生物」と分類しているに過ぎないのである。

 ヤギが二本脚で立ち上がっても、そんなものはヤギの本能的行動の結果に過ぎず。それが何らかの特定結果に適しているとしても、ヤギの行動の全てが常に何らかの特定結果に適していることの論理的証明には全くならない。

 アメリカ人が食物を過剰摂取することで肥満に陥ることは、生存に適さない本能の暴走結果に過ぎず。本能の全てが必ずしも生存だの種の保存といった何らかの目的に常に適することの科学的論証にはならず。従って本能に由来する行動習性の結果がどんなに何らかの結果に適することを陳列枚挙しても、それは全て「結果」以上の何物でもなく、論理検証的に選択した「目的」行動であることの論証にはならない。

 血栓が脳や心臓に梗塞を及ぼすことを、どんなに多数抽出枚挙しても、「血液の目的は脳梗塞や心筋梗塞を引き起こすことである。」ことの論証にならないのと同じことである。

 何がしかの「結果」に適した「結果」をどんなにたくさん抽出枚挙しても、それが短絡的に「目的」であることの科学的証明には全くならない。



 また、振り込め詐欺師が金を騙し取ることを目的とした行動であっても、これは「金を騙し取る。」という先天的欲望という「結果」的行動の結果に過ぎず。また、東京電力社内における個人的な地位権益を守るために福島第一原子力発電所の危険性を放置したことにおいても、個人的保身を目的とした「結果」に過ぎず。個人が主体的に論理検証的に選択した人間としての目的行動選択とは言えない。

 本能的欲望自体が自己の主体的選択ではない以上、欲望満たすための行動の全ては人間としての目的行動選択の論証には全くならない。

 単なる結果的な欲望の大きさ強度に流される形で選択されたあらゆる行動選択は、全て「結果」であって本質的には「目的」ではない。

 人間としての本質的「目的」とは、あらゆる欲望の中から、自己が存在するに価する社会のあるべき姿に基づいた論理検証的選択に基づくものを指すのであって。それこそが本質的な人間としての意識であり知能であると言えるのである。

 それ以外のあらゆる特定能力の高さや無意識行動の結果を陳列枚挙しても、それが人間としての「目的」行動選択の論証にはならない。

 自己の内部における、あらゆる固定観念の全てを論理的に検証することは簡単ではない。あらゆる欲望が作り出す思考バイアスや思考拘束性の全てを脱構築するためには、日々の地道な注意力(意識)が必要であり、一朝一夕に叶うものではない。

 漫然と現状世間の多数が作り出す価値観に惑わされ、呆然と目先の満足安心だけを追求しておく方が圧倒的に簡単である。そこにどんなに強い観念が働いていようとも、それらは無意識であって意識ではない。

 自律的に主体的判断選択をしないのであれば、これは他者との互換不可能な個人としての尊厳も存在し得ない。

 何にも自律的には社会的責任判断を行わないのであれば、これは「誰でも良い。」からである。そういうバカなら掃いて棄てる程うじゃうじゃいる。東京電力にも西武グループにも大王製紙にもオリンパスにも生物学にも霞ヶ関にもマスコミにも、そういうバカは枚挙にいとまがない。

 本質的な意識がなければ知能も目的も人間性も構造原理的に有り得ない。




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学力。

2013年09月13日 17時23分18秒 | 意識論関連
○学力競争。

 イジメや学級崩壊というものは、教師が生徒の自主性を信じてあげないことが原因なのだそうだ。

 被害者だったおいら的には、「教師が信じてくれない。」なんていう環境依存性の結果に流されている無意識な時点で認めたくはないけれど。精神的不安こそが生徒を教室内部での封建性を作り出してしまう原因なのだという。

 教室における序列として、教師が生徒を信頼することで、生徒は精神気分的に安心することで教室全体が和やかになるんだそうだ。

 まあ、要は「空気」に流されているだけなので、教師が「良い空気」を作り出してしまえば改善はするということらしい。でも当然教師が「良い空気」を作り出さなければ主体的には改善しない時点で、所詮はバカの集団に過ぎないってことなんだろうけれども。小学生であれば致し方ないことなのかも知れない。

 子供が勝手に作り出す教室内部の封建性を放置しなければ、イジメや生徒個人の暴力性といったものも醸成しずらいのかも知れない。イジメや暴力性といったものを習慣的に行動「学習」してしまうことによって、情動の激しい生徒は暴力的に育ってしまう可能性は高い。



 学校での勉強よりも、生徒の話に耳を傾けてあげることによって。生徒の自主的学習意欲を引き出すことも可能なんだそうだ。

 だから、「その学年における学力。」よりも、生徒自身の自発的主体性意欲というものを引き出してあげること、生徒自身に見つけ出せる手助けをしてあげることこそが、教育というものの社会的役割であると言えるんだろうな。

 静岡知事が学力テストに異常執着しているけど、こうした数値結果に対する抽象的強迫観念こそが生徒の主体的自信を喪失させる原因なのではないだろうか。

 学力というのは、「その学年における結果。」に過ぎないのであって。小柴昌俊のように小学校時代に成績が悪くてもノーベル賞を獲得することだってある。小柴昌俊が特別だと言うのであれば、一体どの子供は特別ではないと断言できるのであろう。その論理的根拠がどこにあるのであろう。どの子供がノーベル賞を受賞するかを教師が予測可能だとでも言えるのだろうか、だとすればノーベル賞受賞者よりも優れていることになるのである。

 そんな神みたいな教師はいません。それは当人の勝手な妄想であって、カルト宗教の教祖が「自分は絶対的だ。」と思い込んでいるのと同じで、むしろキチガイの領域です。

 だから学力競争「だけ」に異常執着するというのは、生徒の主体性を蔑ろにし、社会を崩壊へと導く破壊行為だと言える。

 アインシュタインも含めてノーベル賞受賞者の多くは、子供の主体性を大切にすべきだと論じているにも関わらず、単なる政治家の強迫観念に基づいて社会を崩壊へと導くようなことをしてはいけない。

 ただ、学力成績というのも、学級崩壊やイジメが多い学校程低い傾向もあるので、平均成績が極端に低い学校の内情に注目するという点においてだけは間違いではないかも知れない。

 極端な話、県知事が校長を「信じて」あげないと、反ってイジメや学級崩壊を隠蔽してしまう可能性は高い。

 優先すべきは生徒が安心して学習できる環境を整えてあげることであって、その結果として学力成績の向上を期待すべきであって。学力成績だけを目的にすることは、「高学力な無差別殺人犯」を作り出す可能性も高いのです。

 教師が権威や力を振り回して生徒を強制的に服従させてしまえば、短絡的インスタントに学力を上げることも可能かも知れない。それこそが社会を崩壊に招く最大の原因だと、アインシュタインも述べているのです。


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 無知で自分勝手な教師が与える屈辱と精神的抑圧は、若者の心に荒廃をもたらす。荒廃はけっして元には戻らず、しばしば後に有害な影響を残す。

 私にとって、最悪だと思われるのは学校が主として恐怖、力、人工的な権威という方法を用いることです。そのような扱いは、生徒の健全な情緒、誠実さ、自信を破壊します。それが作り出すのは従順な臣民です。

 学校がつねに目標とすべきは、若い(人たち)が調和のとれた人格の持ち主としてそこを出ることです。専門家としてではなく。

 (調和のとれた人格に育たなければ)そうした(専門化した知識を持つ)人達は、調和のとれた成長した人間というよりも、よくしつけられた犬のほうにいっそう似るでしょう。

 -----アインシュタインは語る 大月書店刊より-----


 「従順な臣民」や、「よくしつけられた犬。」というのは、外見上は従順で扱い易いように見えるかも知れませんが。東京電力という環境の中では「組織の利益を優先し、社会安全性を蔑ろにする。」ようなヒトでもあるのです。

 子供を従順にしつけることは簡単なことです。それこそシエラレオネでは子供を凶悪なゲリラに育て上げることも簡単だと言えるでしょう。

 「学力」という結果だけを取り上げて、これを目的にすり替えることは短絡的思考であり、大変危険なものです。

 学力というのは目的ではありません、生徒が社会に出た時の主体的目的のための手段として学力があるのであって、学力という抽象化された数値に踊らされてはいけません。

 生徒は大人の数値競争の道具ではないのです。


 ヒトという種の生物は、しばしば手段を目的と錯覚しがちです。それは意識の狭窄性によって生ずるものであって、こうした意識狭窄性こそが、ヒトという種の生物が人間として振る舞うことが出来なくなる、「心が失われる。」最大の原因です。

 子供時代に学力競争を強いられていたヒト程、生徒に対しても学力競争を強いる傾向があります。これは「虐待の連鎖」と同様な無意識に刷り込み行動「学習」された条件反射に他なりません。

 こういった刷り込み行動「学習」というのは、ヒステリックな異常執着を作り出し、「しばしば後に有害な影響を残す。」ことになるのです。

 ヒトは自分が強いられて来たことを事後正当化しておかないと満足しない性質があります。自分が強いられてきたことを正当化するために、生徒子供に対しても同じような強制的抑圧をしておきたがる習性が、ヒトの脳にはあります。

 本当に大切なものが何なのかを自主的には「考え」ることなく、条件反射的無意識に固定観念をぶちまけておけば安心で満足を得ることが出来るように、ヒトという種の生物の大脳辺縁系は出来ているのです。

 これを「意識がない。」と言うのです。


 自律的に何が正しいのかを判断出来ないのであれば、どんなに学力成績が高くても、科学的進歩が得られないのは必然的結果です。

 東京大学情報学環の佐倉統のように、「大勢を占めていない。」ことを根拠に自律判断を全く行わない学術権威というのは、権威としての社会的役割を全く果たさないデクノボウに過ぎません。

 現在の生物学や哲学、経済学というのは、こういった無能なデクノボウしかいないから具体性のある対策というものが全く立たず、目先の大衆的評価しか追求しないのです。

 経済学者の多くは、「これさえやっときゃ、金が儲かる。」といった手口手法の開陳にばかり固執しますが。これは「目先の効用の追求」だけを目的とした大衆迎合であり、サブプライム問題などの経済破綻に対する具体的再発防止対策などについて真剣に取り組む経済学者がいないのも、研究者として極めて無責任であると言えるのです。

 「目先の効用の追求」ばかりをしていれば、その行き着く先に何が起き得るのかを考えなくても済むので安心かも知れませんが。こうしたその場限りの目先にしか意識が働かないことこそが、意識狭窄性というものです。

 ヒトの多くは「経済とは、金儲けである。」と短絡的に思うかも知れませんが、「経済」という言葉はそもそも「経世済民」すなはち、「世を経て民を救済する。」という言葉の略であり、「利己的な金儲け。」を意味するものではないのです。

 つまり経済における企業活動とは、社会貢献が目的でなくてはならず、金儲けはその手段に過ぎないことを、多くのヒトは忘れてしまっているのです。

 残念ながらこういった話は義務教育でも満足に教えません。なぜなら教師の多くが自分達の成績のために生徒を利用するだけで、教育というものの社会的役割なんぞどうでも良いと思っているからでしょう。

 学力成績向上政策によって生徒の学力が上がれば、政治家としての評価を上げることは可能かも知れませんが、それは目先の評価欲しさの大衆迎合に過ぎません。

 市民の一人一人も、もっと広い視野に基づいて政治家の政策を鑑みなければいけないのです。主権者である市民がバカならば、「民主主義」が「バカ主義」にしか陥らないのは必然的結果だからです。

 現在の司法制度のように、特定の悪者探しをして罪の全てをなすりつけておけば気分的には満足を得ることも可能なのかも知れませんが。それは社会全体の安全性にとって何の利益ももたらさず、単に目先の主観的安心満足にしかならない身勝手なものなのです。





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異常性。

2013年09月13日 17時22分07秒 | 意識論関連
○現在の生物学の異常性

 「生存戦略」などという概念は、実際には自然淘汰の「結果」に対して事後正当化的にこじつけただけであって、進化過程において個体が論理検証(意識)的に選択した「戦略」の証明には全くならない。

 現在の生物学においては、「生物の目的は生存である。」と言い張るが。生物の進化や行動習性の全てが常に生存に適する結果以外を絶対にもたらさないことの証明が存在する訳でもなく、あくまでののべつまくなし「変化」を繰り返した結果として、自然淘汰されただけに過ぎず、そこに「目的」意識が介在する余地は構造原理的にない。

 動物の先天的行動習性の結果として死に至る事例もたくさんあり、これを無視して大衆ウケの良さそうな「生存に都合の良い立証。」だけを集めて来てくることは、科学としての社会的役割を全く果たしておらず、極めて無責任である。

 「生存」に適していることの論証だけを抽出枚挙しておけば、大衆の多くは自己の先天的優位性の論証か何かと勘違いしることで安心満足する性質があるらしい。こうした勘違い錯覚を利用する形で生物学は大衆迎合的観念を科学的論証であるかのように宣伝しており、科学学術権威として極めて無責任である。

 生物進化というものに対し、「そうでないと、説明が出来ない。」からといって、論理的根拠に乏しい説明を無理からでっちあげて良い理由には全くならない。そんなものは説明することだけを目的とした「説明のための説明。」であって、科学的論証には全く該当しない。


 phenotypic accommodation(変異の創出)に不随して、あたかも先天的な変化可能性を超越した進化を意識的に行えることの論証のように進化生物学者は言い張るが。先天的に変化可能性の上における変化の域を出ることは構造原理的に不可能であり、どんなに「珍しい」行動や能力を獲得したとしても、それは単に普通は獲得しない行動や能力に対する「珍しさ」に過ぎず。先天的獲得不可能性の論証に基づいて意図的に進化している証明には全くならない。


 松沢哲郎(京都大学)によるチンパンジーの利他的行動検証実験というのも、断片的に利他的行動に適する行動だけを抽出することででっちあげられたペテンに過ぎず。実際にはチンパンジーというのは自分の利益にならない行為は簡単に放棄することが立証されているのである。

 にも関わらず、「行動習性から人間としての社会性を立証出来るかも知れない。」などという、理論的に全く根拠のない無責任な予測を科学論文として発表している時点で、松沢には学術権威としての資格が最初からなかったということである。また、こうした非科学的観念を鵜呑みにし、何の検証もせずに垂れ流したマスコミもまた無責任である。

 現在の生物学上における「社会性」というものが、短絡的に人間としての社会性にはならないことを生物学者の誰も言及しておらず。また、松沢のように習性としての「社会性」を短絡的に人間としての社会性にでっちあげようとするというのは、科学的検証として極めて不適切であり。従来の生物学の無責任性を隠蔽黙殺することで既得権益の保持のための体制維持の一環に他ならない。

 他に科学的「理由」が何処にある。

 後に松沢はチンパンジーがその場限りの利益しか求めないことが立証されると、急に「想像力が人間性を作り出すのかも知れない。」などとはぐらかしているが。想像力というものは振り込め詐欺師がカモを騙す時にも発揮する能力であって、こんな安易な検証で正直者を装っても、それこそ「その場限りの言い逃れ。」以上に意味はない。


 チンパンジーの瞬間記憶能力実験においても、難易度が高過ぎて全くエサが貰えない状況に陥れれば、ぶちギレて暴れるのがオチであり。こんなものは学力が高いだけの無差別殺人犯の行動動機と構造的には全く同じものであって、何ら人間としての知能の論証にならないのは最初からわかっていたことである。

 断片的に記憶能力などの特定能力の高さだけを抽出してきて、あたかも知能の全てを論証したかのように言い張るのは、社会的に無責任であり、科学としての社会的役割を全く果たしていない。

 断片的な特定能力の高さに対し、あたかも「超越的な素晴らしい能力であると思う。」のは勝手であるが。「素晴らしい。」という主観的感想に基づいて、どんなに強く「思った。」としても、それは論理科学的「考え。」としての知能の論証には全くならず。単に論理検証の不得手な大衆をペテンに陥れているだけに過ぎない。



 §:哲学の怠慢

 プラトンは論文への引用数が最も多いそうであるが、基本的に酔っ払いの戯言に過ぎない。

 酒を呑んで主観的な「本音」をどんなに多数で共有しても、それが具体的に社会安全性や持続可能性にはつながらないのは必然というものである。

 エタノールで脳を麻痺させておくことで何かの有効な考えが出てくるというのであれば、原発も高速バスの安全性も酒を呑んで検証すれば良いことになるのである。

 酔っ払い同士で「本音」を語り合い、その場限りに話を丸めておけば安心満足であろうが。こんなものを哲学として扱っている時点でとんでもない誤りである。

 ニーチェも哲学界では人気があるが、これもまた具体的意味を持たないその場限りの大衆迎合に過ぎない。

 どんなに大衆がニーチェの言葉を「カッコイイ」と「思った」としても、それが具体的な論理検証的「考え」に基づいたものではないことは明らかである。

 ドストエフスキーが何かを予言していたかのように言い張るのも、「ノストラダムスの大予言」同様、後から予言風味にこじつけただけであって。具体的に予測が何かの対策に貢献したわけでも何でもないのである。

 どんなにドストエフスキーの著作に「感動」したとしても、それは大脳辺縁系の反射の強度を論じているに過ぎず。具体的な論理検証的「考え」を阻害し思考を停止させているだけであって、単に妄想的な自己洗脳に陥っているに過ぎない。



 ヒトの多くは感情強度を短絡的に「意識」の本質であると錯覚しているが、自己選択を介さない大脳辺縁系の反応強度に自己の主体的意志選択が介在しないことは明らかであり。どんなに「カッコイイ」と「思って」も、どんなに「感動」しても、これらは全て無意識の産物でこそあれ、むしろ意識としての論理検証的「考え」を阻害するものでしかない。

 現在の哲学界というのは、こうしたその場限りの安心満足、「精神的救済」ばかりを追求しており。具体性のある論理検証的「考え」を停止させているだけであって、極めて怠惰な大衆迎合に陥っているのである。

 本来学術研究論文であれば、公開されて然るべきものであるにも関わらず。哲学の場合書籍販売を要求することが非常に多く、極めて閉鎖的で検証性が全く働いていない。

 意味不明な論証を重ねて論理検証を撹乱するばかりで、具体的に何かの役に立つような「考え」というものが全く出てこない現在の哲学界というのは、もはや社会的には糞の役にも立たないデクノボウの集団に過ぎない。



 §:経済学

 現在の経済学のほとんどは、目先の効用利益の追求方法を開陳することによって、大衆人気を集めることしか考えておらず。サブプライム問題などに対する安全性や持続可能性に関わる論理的検証は大衆ウケが悪いことを理由にほとんどされていない。

 ある経済学者は「自分は天才ではないから、社会全体の効用なんぞ考えられないので。個人が利己的効用を追求しておけば、結果的に社会全体が自動的勝手に良くなってくれれば良いな。」などと言い出す始末である。

 誰しも天才ではないことは確かであろうが、天才ではないことを根拠に社会全体の安全性や持続可能性を意識から外し、利己的利益だけを考えておけば全てが解決するかのように言い張るというのは、もはや現実逃避の身勝手な妄想に他ならない。

 個人が可能な範囲内において、社会的責任を負うというのは当たり前の話であり。天才ではないことを根拠に利己的利益だけを追求していれば良いことの根拠など全く有り得ない。

 自分がバカであることを根拠に、バカげた屁理屈行動が許されることにはならない。



 §:ヒトという種の生物の異常性。

 その場限りのご機嫌取りを、短絡的に人間性だと思い込むのは簡単である。

 その逆に、自分の頭の悪さを指摘されるような気分の悪くなる話を「心がない。」などと形容して人間性の欠落だと錯覚することも簡単である。

 故の「振り込め詐欺。」であろう。

 振り込め詐欺の手口というのは、基本的に被害者が金を支払いさえすれば全てが解決するかのように誘導することであって。時代や世間から植え付けられた固定観念やヒトの先天的気分感情バイアスを利用したものであり、これによって被害者から論理検証性を喪失させることで被害者の振込み行動を誘発させるのである。

 脳科学や認知科学が、「これさえやっときゃ、頭が良くなる。」的な脳トレ類で大衆のご機嫌取りをしておけば、ヒトの多くは何ら論理検証することもなく鵜呑みにして安心満足することも簡単であろう。こうしたペテンを人間性の論証だと言えるであろうか。

 脳科学が率先して大衆をペテンにかけておいて、振り込め詐欺が減らないのは必然的結果である。

 ご機嫌取りや意識誘導というのは短期的には世間的利益にはつながる話ではあっても、こうした短期的効用に意識を奪われ、最も優先されなければならない安全性や持続可能性を蔑ろにすることこそが、社会を破綻に導く非人間性の論証なのである。

 事故や犯罪の被害者や遺族に対して、憐れみを共有するのは勝手だが。どんなに憐れみを共有しても具体性のある再発防止対策の構築にはならない。

 ヒトの多くは漠然と、その場限りのご機嫌取りを人間的な社会性であると錯覚するが。これこそがヒトという種の生物における社会形成習性に他ならず、多数派との同調迎合バイアスを作り出し、集団的無思考洗脳状態を引き起こすのである。

 ヤクザがヤクザに服従し、シエラレオネの少年ゲリラが集団統率的協調行動を採れることも。ナチス政権下のドイツ人のほとんどがナチズムに迎合したことも。東京電力福島第一原発の危険性を放置したことも。これらには共通してヒトの服従性を含む多数派同調迎合性が働いているのである。

 ヒトは目先の個人的利益や生存価を優先し、自分も含めた社会全体への配慮を簡単に意識から外す習性がある。多数派に迎合しておかなければ生存にとっては不利益な場合というのは少なくない、だからこその「自律」であって、目先のご機嫌取りには人間性は宿らない。

 現状の司法裁判制度というのは、ヒトの処罰感情を満たすための妥当性を法手続き的に吟味するだけであって。論理的正当性が存在するわけではない。

 被害者感情を持ち出すのであれば、加害者感情を無視するというのは公平性に欠けており。また、所詮は主観に過ぎない感情を比較することにも意味はない。「自分は、この程度怒りの感情を持った。」という程度問題では、具体的に何かの役に立つような普遍性のある答が出てくるわけではなく、極めて不毛である。


 消費者事故調査委員会が満足に機能しないのも、司法警察が捜査情報を隠蔽しているからであり。司法警察的には事故の論理的検証よりも、既存の法手続きに則って既存の権益を維持温存することの方を優先するのは必然である。

 警察にとっては特定の「悪者探し」をして書類送検することが仕事(既得権)であって、事故や事件の理論的原因究明なんぞされては仕事に支障をきたすので、警察は捜査情報を隠蔽するのである。

 畑村洋太郎からすれば、自分達の既得権という「組織の利益。」のために、社会安全性や持続可能性を追求を拒絶するなどという行動は信じられないのかも知れないが。役人の大半は所詮そんなものである。



 ヤギが2本脚で立ち上がろうとも、振り込め詐欺がどんなに高度な詐欺能力を身につけようとも、所詮は大脳辺縁系が促す行動バイアスの結果に過ぎず。それがどんなに外見上生存や種の保存に適するように見えたとしても、個人の主体的な「目的」行動選択の論証には全くならない。

 目的行動選択というのは、論理的根拠に基づいて意識的に組み立てられるものを指すのであって。無意識な欲望や行動バイアスの結果をどんなに陳列枚挙しても、それは目的行動選択の論証には全くならない。

 言語のようなシンボル機能を使うことが短絡的に人間性の証明であると、ごく近年まで信じ込まれて誰も疑わなかったのも。生物学や哲学がデクノボウだった証拠である。

 ましてや「遺伝子に意志がある。」などというドーキンスのお伽話を鵜呑みにしているなど、科学者として言語道断である。

 何が論理的に正しいのかを自律的に判断出来ないポンコツが、どれだけ大量の知識を知っていても、どれだけご大層な肩書を持っていようとも、そんなものはその場限りの世間的な金儲けには利用できても、具体的には社会安全性や持続可能性にとって糞の役にも立ちはしない。

 人間にとって最も優先されるべきは、社会の安全性と持続可能性であって。これを優先せずに目先の効用利益を追求するというのは、社会を食い物にするダニのようなものである。しかし、ヒトの多くは目先の効用利益に意識を奪われ、自律的な社会的判断を簡単に喪失する習性がある。

 脳内麻薬ドーパミンの常習性によって、ヒトは目先の効用利益に意識を奪われ、行動を短絡的に「整理」されてしまう習性がある。だからこそ、「目先の利己的効用だけ追求しておけば、自動的勝手に社会全体の利益効用になれば良いな。」などという根拠のない短絡的妄想「実証不能の観念。」を信じ込もうとしたがるのであろう。


 ヒトは自分の誤りを指摘された時の行動は、幾つかのパターンに分かれる。

 一つは、自分の誤りに気付き、同じような誤りに陥らないためにはどうすれば良いのかを論理的に考え、経験的教訓として具体的に生かそうとすることである。

 一つは、自分の誤りに気付き、自らの頭の悪さを歎き、気分的に凹んで悲しむだけで、「自分は頭が悪いものである。」と決め付け自己暗示を重ねて気分的抑鬱に陥るだけで、具体的に経験的教訓として具体的には生かそうとは一切しないことである。

 一つは、自分が誤りに陥った原因を他者環境の処為にし、その他者環境を糾弾することで自分の正当性を妄想することで自分の頭の悪さを認識しないようにすることである。

 一つは、既に自分が下した判断の間違い自体を認めず、自分の無意識な判断を事後正当化するための屁理屈を陳列することで自分の頭の悪さを認識しないようにすることである。

 これらの行動の、一体どれが人間として正しいのかは、敢えてここでは書かない。なぜなら、これすら判断出来ないようであるなら全くお話にならないからである。







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意識論。

2013年09月13日 17時20分44秒 | 意識論関連

 ○意識論

 意識というものの定義は幾つかあるが、ヒトという種の生物だけが持ちうる人間としての本質的な目的意識そのものを分類定義した論文は従来存在しなかった。

 医学上における意識の有無とは、姓名を答えられるとか、視覚認識に異常はないか、などの基準で判定されるが。これらの基準では人間としての本質的意識の有無については全く判定が出来ない。

 人間としての本質的意識とは、個人が主体的自律的に社会的責任判断選択を下せるか否かであり。これは視覚認識能力の有無や姓名応答の有無で判定出来るようなものではない。

 人間としての本質的意識とは。すなはち単なる遺伝分類上での「ヒトという種の生物。」が、人間としての自律的な社会的責任判断可能かどうかの判断が伴わなければならない。

 最近の事例を挙げれば、東京電力福島第一原子力発電所の安全担当者による危険性放置の有無を、医学上の意識判定基準では判定不可能なのである。

 医学は臨床で科学ではない、医学は生物としての生存を目的としたサービス商売であって、患者のヒトとしての生物的健康しか保証することはない。従って無責任な凶悪犯罪者を「治療」診察も治療もしない。また、現在の司法制度においても悪者探しをして懲罰科料の妥当性を吟味するだけであって、論理的根拠を持った具体的再発防止対策には一切つながらず、単に懲罰感情を満足させているだけの大衆迎合に過ぎず、社会的な価値としての安全性や持続可能性に対して何ら貢献しないばかりか、むしろ危険工学的分析の障害にしかなっていないのである。

 こうした既存の制度手続きや体制というもものが、その場限りの大衆迎合に過ぎないことを、ヒトの多くは認識しておらず。故に具体的な問題点の改善が一切進まないことに陥っているのである。

 本来、危険工学においては「悪者探し」は一切行わず。ヒトが起こし得る過失を明確にし、これを共有することによって同じ過ちを繰り返さないようにすることで対策教訓として扱うことが出来るのであり。現在の司法システムにおいては、こうした合理的対策が手続き上一切盛り込まれておらず、処罰感情だの被害者感情を満たすことだけを目的とした非科学的な観念に基づいた制度に過ぎない。

 とは言え、個人に主体的な危険に対する再発防止意欲がなければ、どんなに過去の事例から対策を共有しても意味はない。すなはち、人間としての責任判断能力というのは、自発的主体性の上に成立するものであって。規範意識だの超自我的抑圧といった環境から刷り込み学習された無意識な価値観で作られるものでは構造原理的にない。



 §:自己

 自己とは、生物学上の個体としての区別だけを指すが。環境依存的に刷り込み学習された無意識な抑圧や行動バイアスだけで行動が決定していれば、これはたとえ「ヒトという種の生物」であっても個人の主体性意思としての人間の論証には全くならない。

 スタンレー・ミルグラムによる服従心理実験、通称「アイヒマン実験」では。ヒトという種の生物には権威に服従することで個人の主体的判断を喪失させ、他者に危害を加えるように誘導することが可能であることを証明した。

 アイヒマン実験において他者に危害を加えた被験者達というのは、日常から特別異常な性格を持っているわけではなく、ごく一般的な普通の市民から抽出されており、「ヒトという種の生物」における普遍的習性として権威服従性というものが立証されているのである。

 ミルグラムのアイヒマン実験論文にもあるように、「Cyberneticsの観点から。」と称して断片的有効性も論じられているが。これは現在の生物学における一面的立証を短絡的に絶対科学的証明であるかのように言い張る一種の「文化」に基づくペテンであり、科学としての社会的役割を蔑ろにした極めて無責任な論証法である。

 生物学の異常性については後述するとして。

 「自己」の本質とは。多数派や、多数派によって認証されたとおぼしき権威の意見命令や規範意識に基づいて主体的判断を放棄しない、本質的な「自律」選択を指すものである。

 東京電力という社内環境において、原発の危険性を放置するかどうか。

 イジメが蔓延している教室において、イジメを傍観放置するのかどうか。

 ナチス政権下のドイツにおいて、ユダヤ人絶滅計画に同調迎合するのかどうか。

 例えは挙げればキリがないので、各々想起して頂ければ良いが。環境に左右されずに個人が主体的な自律判断を下すことこそが、個人の人間としての社会的価値でもあり、同時に他者と互換不可能な個人の人間としての尊厳の論証ともなるのである。

 そこに生物個体としての「生存」は意味を持たない。ナチズムに反逆して命を落としたベンヤミンの行動を、短絡的に「死んだ」や、世間的に成功しなかったことを根拠に人間としての価値が低いことの論証には全くならないからだ。

 東京電力社内においても、原発の危険性を訴えることで失職する可能性があるとしても、それが社内で多数派を占めているとしても、バカにされようとも、マスコミが取り上げないとしても、それを放置したことこそが大惨事を招いた「人災」の最も根源的原因に他ならない。

 個体の生存価と人間としての価値には相関性がなく、故に生物個体としての「生存」に意味はない。

 ヒトが回避不可能である災害であれば「人災」とは分類されない。回避可能性が立証出来るが故の「人災」であり、回避する個人(自己)の意志こそが、人間性の証明なのである。



 ここで多くのヒトが忌み嫌う話をしておこう。

 脳内麻薬ドーパミンは、その常習性によって行動や思考を整理する。

 「慣れる」、「ハマる」、「癖になる」といった性質は、全てこのドーパミンが作り出す。

 ドーパミンは別名「安心物質」とも言われ、安心と不安に分類することでヒトの行動バイアスを作り出す。

 ヒトはこの世に生まれて今までずっと「生きて」いるために、「生きて」いることが安心である。

 これはヒトという種の生物に限らず、大脳辺縁系の持つ最も基本的な行動バイアスの根幹を成すものである。


 ヒトは誰しも自己の意志選択によってこの世に産まれて来た者はいない。

 自己の遺伝要素は自分では構造原理的に選択不可能であり、その選択不可能な遺伝要素によって作り出された大脳辺縁系が作り出す情動気分感情もまた、自己の選択が介在する余地はない。

 後天的に刷り込まれたあらゆる価値観であっても、時代や世間という成育環境を自己自身では選択不可能である以上、これもまた自己の選択が介在する余地はない。後天的に刷り込み「学習」されたあらゆる価値観の類というものは、自己の主体的選択によるものではなく、それがどんなに強い感情を伴った好き嫌いであろうとも、「結果」的にドーパミンによって「整理」された行動バイアスに過ぎない。


 ここまで論じると、ヒトによっては「自由意志など存在しない。」などという短絡的帰結に至る者もいるが。こうした短絡的帰結を導き出して「おかなければならない理由。」もまた、大脳辺縁系が促す思考バイアスに由来する結果である。

 「概ねほとんど全てが自己選択不可能であるならば、短絡的に自己選択可能性の全ては実存しない。」ことに決め付けておけば、あたかも全てを知り尽くしたような全知全能感覚に陥ることが出来るからであろう。しかし、これは感覚的観念に過ぎず、自己選択可能性がどこにあるのかを検証しようとする主体性が欠落している者特有の身勝手な妄想に過ぎない。


 では一体何が本質的な主体性を持った自己選択であると言えるであろうか。

 それは生存意欲を含む先天的なヒトとしての行動習性や、時代や世間から刷り込み学習された価値観に惑わされることなく、自己が存在するに価する社会の在るべき姿としての本質的な目的意識に基づいた、現在における選択可能性に実存する。

 とりあえずはこれが意識の本質であり、本論における「解」でもある。とは言え、これを厳密に理解して簡単に実践出来るようなものではない。

 ヒトの多くは困難なことを短絡的に不可能性の論理証明とすりかえる性質がある。簡単で安易に「これさえやっときゃ、全ては解決する。」的な話には簡単に飛び付くが、自己の内部の刷り込み学習的固定観念の全てを論理的に検証して行動に反映させるような面倒臭いことには耳を貸さないのが、ヒトという種の生物の習性でもある。

 オリンピック選手やビジネス、大学入試や就職活動や技術者倫理など、他人に対しては難しいことを要求しておきながら。社会にとって最も重要な安全性や持続可能性についての検証においては、多くのヒトは行わないものである。





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