ヘイトスピーチの構造
ヒトという種の生物は 進化の過程において集団組織的な協調行動を採る習性が かつての環境において生存にとって有利であったため 集団統率的な協調行動への快楽が組み込まれているのである
仲間同士で何かを攻撃することに快楽を感じるよう 脳の報酬系と直結しており 中毒的に暴力的攻撃をする行動バイアスとして働くのである
こうした先天的本能による行動習性というものは ヒトにまで進化する以前の環境適応として組み込まれたものであって 同調圧力や多数派迎合性を発揮することで結果的に「生存にとって有利」に働いた結果であって こうした動物的習性には合理的な「目的」も「戦略」も存在しない
合理性があろうとなかろうと 先天的本能習性である以上何も「考え」ずに無意識に行動していれば自ずから(自動的・自然)に暴力的排除行動は発揮されることになる
脳の報酬系と直結している行動である以上 一旦中毒に陥ると「やめることができなく」なり 異常な執着を発揮するようになる
主観的に快楽を感じることを 短絡的に「正しいこと」だと認識していれば ヘイトスピーチだろうが幼女誘拐殺人だろうが「正しいこと」になってしまうのが犯罪者全般に共通する価値観である
先天的本能習性というものは 自己自身では選択不可能なものであり 本能習性のままに行動していては人間としての自由は存在しないのである
しかし ヘイトスピーチやイジメなどの集団組織的協調による暴力的排除をやっている者にとっては「脳への報酬」すなはち価値観に異常な偏りが生じているため 自己客観性というものが全く働かず 本能が促す気分感情だけでしか行動が促されない状態に陥っているのであり それゆえ歯止めが全く効かない暴走状態から脱することが出来ないのである
野依良治であれば「女子受験生を一律減点する」ことに対して主観的に「おかしい」と思うのかも知れないが 主観というのは人それぞれであって一貫性や普遍性というものがないからこそ 順天堂大学や東京医科大学では入試不正が組織的に行われていたのである
順天堂大学や東京医科大学の担当者達の主観では「女子受験者は金にならないので 一律減点しておいて構わない」と思っていたのである
老練な将棋棋士であれば直感(主観)的に最善の指し手を導き出すことも可能であるが これはあくまで熟練者においてのみ可能なアクロバットであって 凡人が真似して出来るようなものでは全くない
ヘイトスピーチのような犯罪行為というものは 彼らの主観的快楽の追求であって 自己客観的論理検証性は全く働くことはなく 問い詰めると「悔しい」などという主観に帰結してしまい 客観性も論理も出てくることはない
凡人に過ぎない大多数の我々にとって 本当に正しい行動選択とは何かを見極めるためには 何が無意識で 何が錯覚で 何が論理客観的根拠に基づいた真実なのかを見分ける「人間としての意識」が必要なのである
ヒトは権威の言っていることを信用しておけば安心である
これは逆に言えば 言っていることを安心して信用することのできる相手を「権威」と分類しているに過ぎず 権威というのはむしろ主観的分類であって論理客観的根拠が伴うものではない
オウム真理教の信者達にとっては教祖が権威であり
ナチス政権下のドイツ人達にとってはアドルフ:ヒトラーを信用しておくことこそが安心だったのである
科学というのは多数決ではないのだが 誰を権威としてみなすかは多数決でしか決定することはなく 本来であれば「科学的権威」というものは論理客観的検証に基づくものでなければならない
「学問の自由」とは 「学ぶ」という「教えられたことを鵜呑みにして 教えられたことを教えられた通りに答えられる能力」だけではなく 「問う」という「自ら考えて検証判断する能力」が伴わなければ「学問」ではない
「自由」とは 自ら選ぶことを意味するのであって 何も選ばずに環境に左右されているだけでは自由でも何でもないのである
客観的論理検証性にとっては主観的感覚は環境である
ヘイトスピーチ中毒に陥っている糞DQNを見ていると「コイツ死ねよ」としか「思わ」ないが 同じヒトでありながら糞DQNになってしまう原因はどこにあるのかを検証し 糞DQNが出てこないようにするためにはどうすれば良いのかについての知見を得ることを優先すれば 社会的利益にもなるのである
目の前の糞DQNを罰や暴力で除去しても 世の中の糞DQNの全てがいなくなるわけでも 糞DQNが永久に出てこなくなるわけでもない
ヘイトスピーチのような暴力的差別行動といものは 先天的なヒトという種の生物における「人間としての欠陥」に由来するものであって 「ヒトには先天的に人間性が組み込まれているはずだ」などという論理的根拠もない嘘を鵜呑みにして その場限りに気分的安心満足しているというのは 自発的な論理検証を放棄した社会的に無責任な行動選択である
「真実は何か」を見極めてこその「人間性」であり 客観的論理検証性なくして倫理も「人間としての心」もヘッタクレもないのである
自分で考えてみても「わからない」のであれば それは「わからない」と保留することも客観性である
しかし ヒトの多くは論理客観的な「考え」もせずに主観的に安心満足感が得られる話を盲目的に信じ込む習性があるため 流言やデマや科学的誤謬を誰も疑わずに信じ込んでしまうのである
自分の安全性を確保するためには 自らも他人の安全性を担保することによって他人からも自らの安全性を担保してもらうという相互の信頼関係によって社会安全性というのものは担保されるのであり
社会安全性を蔑ろにしてまで目先の利益を追求しても 結局は自分自身の尊厳を失ったままこれからの人生を歩まなくてはならなくなるのである
社会安全性よりも利己的利益を追求している奴を見て そいつを人間として尊敬できるかと言えば 出来ないでしょうが それなら自分も同じことですよ
それだったら むしろ自分は損をしてでも社会安全性や持続可能性を追求して生きることの方が心安らかに死ぬことが出来るでしょうが
どうせ必ず死ぬんですから「どう生きるか」って 結局「どう死ぬか」と同義なんですよ
Apple社のCEOになったってガンで急死するこたあるわけで 俗世の競争に「勝った」って人間としての行動選択も出来ない人生を送って 本当に満足出来るかと言えば 死ぬ時に「糞しょうもない人生だった」と悔やむだけなんですから
話がヘイトスピーチの構造からズレたって思いましたか? 物事っていうのは全部つながっているんですよ 一面的にしか物事を見ていないから「繁殖行動バイアスは人類にとって重要」なんていう無責任な話を鵜呑みにするようになる
そりゃ繁殖も必要ですけど 動物的な配偶者選択だけでは社会的負担になってしまう以上 配偶者選択においても理性は必要不可欠なんであって ただ繁殖して殖えりゃ良いってもんじゃないでしょうが
むしろ現在の世界ではヒトは繁殖し過ぎて地球環境の許容量を超えちゃっているんですから どう安全に持続可能な社会への転換をしてゆくべきなのかを模索することの方が「人類にとって最も重要」なんであって 先天的本能習性を短絡的に「人類にとって重要」などと言うのは社会的に無責任な寝言レベルの話でしかないでしょうが
本能習性のままに暴力威圧的な外見を装っておけば バカな女は簡単にケツを振って子供作ってDVで苦しんで逃げ回って役所や警察に助けを求めることになる
それのどこが「人類にとって重要」なんすかね
こういう話は気分的に良くないと思う奴は多いでしょうよ
その「気分的に良くないと思っている」ことこそが主観であって それこそが「信じたくない」というバイアスとして働くことになり 客観的論理検証性よりも優先することで何が本当の真実なのかを見分けられなくなる
要するに バカに何を言っても無駄なんですけどね
オウム真理教の信者に対して「お前さんの信じている教祖はペテン師だよ」と諭しても耳貸さんでしょ それと同じですよ
Ende;
自然界の過酷な淘汰圧力環境下なら「殖えりゃ良いんだ」って話なのかもしれんが 人間社会でそれやられたら社会的負担ばっかり増えんだろうよ
そんな先天的本能習性のどこが「人類にとって重要」なんだよ
バカだろ 柿木隆介
こんなバカが権威ヅラしてっから「学問の自由」が失われんだろ
Ende;
人類にとって重要な役割
目立つことで繁殖に有利
注目を浴びると 快楽を感じ自己陶酔中毒に陥る
テストステロンに女性は惹かれる性質がある
⇨DV男に引っかかるのは祖先から受け継いだ本能習性が原因であって 「ヒト」としての繁殖能力には有効でも 「人間性」にとってはむしろ不利
なので 「人類にとって重要」というのは嘘
単なる「ヒトという種の生物の先天的繁殖行動バイアス」でしかない
また柿木隆介だわ マヂ糞だなコイツ
Ende;
Erweitern;
「江戸川の謎の鳥」が荒川にカラスとの闘争で縄張り拡げにくるだとか言っていた
ウチのハシブト先輩が黙っちゃいねぇぞ
あくまで かつての生息環境において適応した性質を持った個体への淘汰圧力の結果でしかないわけで
逆に 先天的性質が現状の環境変化への適応能力を阻害して絶滅する原因となることもあるわけですよ
だから生物史の中では何度も大絶滅が生じてきた
遺伝的進化には目的がないから 選択可能性が存在していないから 絶滅を回避することができない
でも ヒトの場合は安全性とか持続可能性にとって何が重要なのか優先順位をつけることができる
でも そのためには論理客観的な合理性や根拠が必要となる
それに対して先天的習性の類いが阻害要因となることも珍しくはない
ヒトの多くはマイケル:サンデルにそそのかされて「自分は頭が良くなった」と勝手に勘違いしてバカになる
バカとは何かと言えば 論理客観的な科学的検証判断が出来ない奴のことを指す
ヒトという種の生物は 主観的に気分が良くなる話を信用したがるため 論理客観的なエビデンスがなくても わからなくても 気分が良くなりさえすれば盲目的に信じ込む先天的欠陥がある
これは同時に 主観的に気分が悪くなる話は頭ごなしに観念的否定をこじつけて耳を貸さなくなる原因でもある
バカがバカ足り得るのは 「自分は頭が良いので 絶対に間違えない完璧な存在だ」と勝手に錯覚しているからである
私は記憶力とか計算能力とか学習能力が低いですから 自分が頭が良いなんて全く「感じた」ことがございません
でも 「バカとはいかなるものか」を論理的に理解しているので 誰がバカなのかは区別できるんですよ
だから科学(論理客観性)というものは重要なんです
何が錯覚で 何が真実(本当のこと)なのかが区別できなきゃ 安全性も持続可能性もスッタクレもないからですよ
Ende;
バカか!
ヒトが現代社会環境下においてエネルギーや塩分を摂りすぎてしまうのは かつて祖先が置かれていた環境にはエネルギーや塩分が不足していたため それらを積極的に摂ろうとする先天的習性を持った個体への淘汰圧力の結果なわけです
つまり 祖先が偶然死ななかった結果の名残りが現代社会への適応能力を阻害しているわけですよ
だから痒みも一緒で 痒みが進化的に組み込まれた段階において 当該の生息環境下において生存にとって有利な行動が先天的に組み込まれていた個体への淘汰圧力の結果でしかなくて そんなものに目的なんぞありゃしないんですよ
そういえば 以前 「食虫植物の進化的メカニズムの説明が難しい」という命題に対して かつて酸素濃度が高かった時代に生物密度が高い状態では昆虫類も今とは比べ物にならない程大量にいた可能性を述べたことがあるけど
当時も哺乳類はいたわけで 虫がとんでもなく大量に存在する環境下では常日頃から虫を嫌がる先天的性質として痒みが組み込まれることになったのかもしれない
痒くて掻くことが そのリスクよりも生存に対する適応性の方が高かった場合 結果的に痒みを感じる個体種への淘汰圧力が働くと言えるわけですよ
たとえ痒みが原因で99%死んだとしても 1%でも生き残れれば「環境適応」ですからね
遺伝的進化による先天的性質というものは 決して「全てに目的を後から説明する」という「こじつけ」ができるわけではない
ああ もう面倒くさい
何で専門外の私がいちいち懇切丁寧に 噛んで含めるように説明せにゃアカンのか
体中に虫唾が走るわ
目的っていうのは ある程度脳容積があって 行動合理性を「考える」ことで判別し選択できるものであって 環境と偶発的変異の結果でしかない遺伝的な先天的性質には目的なんかありゃしないんですよ
ヒトでありさえすれば行動合理性が発揮できるわけではなくて 繁殖能力もない幼女を強姦して 殺害遺棄するなんていう 何の合理性も目的もない行動をする個体も出てくることがあり なぜ合理性がない行動に暴走するのかと言えば その原因は遺伝的な先天的行動バイアスにあるわけですよ
高血圧症なのにしょっぱいものを欲しがったりするのと一緒です
なんでしょう 生物学者とか医者って進化万能論中毒なんすかね
Ende;
長後さくら橋のそばに道案内の看板があるんだけど
手前の看板は左だと言っているのだが
奥の看板は右だと言っている どっちなの?
答えは右なんだけど
手前の看板は多分裏表逆につけちゃったっぽいのだ
工具持ってって勝手に着け直したら怒られるのかな
いちいち役所に連絡して業者に依頼させるのも無駄な気がする
反対側の案内看板も要領を得ない
正解は坂を上がるんだが この矢印だと右の道を行くようにも解釈可能
Ende;
パッケージの画像と中身の形が違う
似たような商品でエスプレッソってのもあるんだけど
カプチーノはジジイにはちょっと甘みが強め
美味しいこた美味しい
Ende;
その意味においては 「刑法判決で解決だ」という短絡性と構造的には同じものである
程度は違えど 自律的に何が本当に正しい選択なのかを主体的に判断していない点においては何も違わないのである
「ハインリッヒの法則」に基づけば一つの大きな事象の陰には無数の小さな事象が隠れているのであって 大衆やマスコミの自律判断の欠如を放置しているからこそ大きな事象の歯止めが効かないことになるのである
多くの大衆に見られる頭の悪さを丹念に治す丁寧さがないからこそ 社会が重大なバカを発現する温床となってしまうのである
原田将大や田代まさしや相模原障害者施設津久井やまゆり園虐殺事件の植松聖のような重大なバカを見ていると 気分的には「自分とはかけ離れたキチガイに過ぎない」と感覚(主観)的には分類しがちだが 実際(客観的)には単なる「程度の違い」に過ぎず 小さな頭の悪さを理解認識していないからこそ 重大なバカの発現を放置してしまう原因になってしまうのである
社会安全性というものは論理客観的根拠に基づいて追求されるべきものであって 感覚(主観)的な気分的安心満足によって論理客観性を放棄することは社会的に無責任な選択なのである
多数がバカだと気分的には安心で 責任が多数で薄まると「思って」いるであろうが そうした主観的な「思い」こそがヒトから論理客観的検証性という「人間としての意識の本質」を喪失させる原因なのである
科学者でありながら「主観が大事」などと言い出す野依良治のような老害が理化学研究の理事なんぞ務めていること自体がペテンも甚だしい
養老孟司が東大名誉教授なのも 山極寿一が京大学長だったのも 松沢哲郎の文化功労賞も 科学というものに対する冒涜である
益川敏英(理論物理学者)だったらそんくらいのことわかりそうだがな
専門外だからといって「よくわからないから 専門家に丸投げしておいて良い話」ではない
私がわかる内容を 益川敏英や畑村洋太郎がわからないわけないだろ
学術会議に限らず 科学界全体の存在意義において専門外であっても批判精神を持って自浄することが必要である
公費で運営されている大学や研究機関であれば その運営において「専門外だから」という責任逃れはできないはずである
Ende;
実際学校で子供たちだけで共同生活をさせておくと自然(自動的/必然的)にイジメをやらかしはじめるものであり
体育会系学生寮で大麻などの薬物が蔓延することも珍しいことではない
日大アメフト部による不祥事も同様である
大衆の多くは自分達「ヒトという種の生物には先天的な人間としての社会性が予め組み込まれている」という観念に溺れ 「自分だけは絶対に大丈夫」という錯覚をしておけば気分的に安心満足できるために その主観的安心によって客観的論理検証性という「人間としての意識の本質」を発揮できなくなるのである
進化生物学上の進化万能論という著しい誤謬は こうした大衆観念に基づく錯覚を助長するものであり それゆえ「人気」だけは得られるのである
リチャード:ドーキンスだの松沢哲郎だの山極寿一が「ヒトには先天的に人間性があるはずだ」などと言っておけば 科学的には何の論理的根拠がなくても文科系大衆やマスコミは気分的満足によって鵜呑みにするのである
これは科学的論証というものを無視し 社会安全性を蔑ろにしたペテンも甚だしい
その無責任さについて大衆もマスコミも一切認識しようとすらしないのである
東池袋プリウス暴走事故の加害者に判決が出ても 事故の根源的原因究明にも再発防止にもつながることはない
それでも 現状においては司法裁判以外に何の検証も出来ないのである
バカな大衆は罰さえ受ければ「罪を償った」とか 「尊厳」だとか言い出すが 社会安全性を置き去りにしたまま尊厳もヘッタクレもないのである
刑罰が尊厳だという話は根拠のないデマであり ただの大衆観念上の妄想錯覚に過ぎない
しかも バカな犯罪者は「刑期を終えたから 罪がきれいになった」などと称して反省すらしなくなる原因にもなっており こうした身勝手な観念もまた再犯の要因の一つになっているのである
それのどこが尊厳だと言えるであろうか
頭が悪いにも程がある
自律のないバカというのは バカ同士でバカをやらかすことに疑問を持たない
警察に捕まって叱られれば その場限りには気分的に落ち込み「悔やむ」ことを「反省」だと感じて懲りるのだが 善悪を自律的に判断する能力がないので何度でも同じ過ちを繰り返すのである
刑法懲罰というものが社会安全性にとって有害であるということは 大衆の多くは「理解」していないが それこそが「善悪を自律的に判断する能力」の欠如に他ならない
東池袋暴走事故の判決が出ても 踏み間違い事故自体は何度も繰り返すことになるだろう なぜなら原因というものが論理客観的に検証究明されないからである
その無責任さについては 誰も認識しないのだが どんなに無責任な選択であっても 多数の無責任なら責任が薄まるという錯覚によって 問題意識が働かなくなるのである
私は刑法廃止論者だが 自律のないバカが大多数を占めている現状では刑法罰そのものをいきなり廃止することは現実的ではないが
「自律のないバカ」というものに対する論理客観的原因究明によって バカの再発防止ができれば国家権力による抑圧は必然的に無用になるのである
刑法廃止論というのは 無法者を野放しにすることではなく 無法者という原因を究明するための工程表の一部に過ぎない
自律のないバカがどうして出来上がるのかについての論理客観的検証によって社会安全性を高めることが目的である
刑法廃止と聞くと 観念的な恐怖ばかりを煽りがちだが 本当に社会安全性を高めるためには危険学や失敗学のメソッドに則って刑法を一時停止して原因究明を最優先する必要がある
そのための刑法廃止論である
全ての事案について検証することは困難であろうことはバカでもわかるだろうが 一部抽出的にでも刑法裁判を停止して徹底した原因究明と再発防止の対策を行うことで 自律のないバカを少しでも減らすための社会的制度は必要である
逆に言えば 裁判判決で「懲役○年」だとか決まっても 釈放後に再犯して被害が出ても誰も責任を取らない現状の制度というのは 著しい欠陥が存在しているのである
”へずまりゅう”ら典型的なバカというのは 自分達がどうして警察に捕まるのかについて全く理解自覚していないのである
だからといって彼らの親や教育者を糾弾することでどうにかなるようなものではない
あくまで「ヒトという種の欠陥」についての検証であって 「懲罰暴力で解決だ」という短絡性(先天的欠陥)については例外なく誰もが自覚しなければならないものである
だが 学術権威がこれを理解出来ないのであれば 学術権威としての社会的責任を果たすことが出来ない以上 これは「処分」する以外に対策はない
菅首相がどのような理由で学術会議の任命拒否をしたのかは知らないが 論理客観的検証の出来ない哲学界や人文科学系学界の権威の多くは糞の役にも立たないデクノボウに過ぎない
哲学だと称してフリードリヒ:ニーチェなんぞ教えているバカな権威を「処分」する以外に何か方法論があるなら むしろ教えて頂きたいくらいである
Ende;
たとえ学界内で業績として取り扱われていても 天文学の知見が世間的な利益につながることはまずない
科学というのは わからないことを知るためのものであって わからなかったことがわかることによって社会の役に立つ知見につながる可能性も秘めている
でも 何が役に立つのかは「やってみなくちゃわからない」
だから税金を使ってまで科学研究というのは推進されているのである
「そんなことをやって 何になる」かはわからないことをするのが科学であって 「金にならない」とか「世間的評価にならない」といった目先のベネフィットを基準にしていては科学は成立しないのである
科学者であるはずの養老孟司が「そんなことして 何になる」だとか言い出すのは むしろ科学者としての素養の欠如であり 「目先の大衆人気による金儲け評価しか価値が存在しない」と言っていると同義であって 科学者として大学で研究していた者が言っていること自体が支離滅裂で無責任である
科学者が科学を否定していたのでは無責任にも程がある
そもそも養老孟司は科学者になりたかったわけではなく 親に「医者になれ」と命令されて大学に行ったものの 臨床医になるのが怖くて解剖学者になることを選択しただけなので 主体的に何かを知りたい 解明したいという意欲が全くないのである
結果的に養老は大衆迎合を科学的根拠であるかのようにはぐらかす支離滅裂な屁理屈を展開して大衆やマスコミを洗脳して人気を得るというペテンをやらかすことになった
こうした科学を装ったペテンというのは養老孟司に限ったことではなく 生物学における進化万能論に基づいたリチャード:ドーキンスのお伽話やフランシス:ゴルトンの優生学のような非科学的大嘘は世間に蔓延しているのである
マルクス:ガブリエルだのマイケル:サンデルを「哲学者」だとマスコミや大衆の誰もが疑うことなく信じ込んでいたのも 大衆の脳を酔わせて満足させているだけの「文芸」に過ぎない
哲学というのは本来論理的根拠に基づいて 何が真実なのかを探求するためのものであって 大衆観念的に大多数の衆愚やマスコミの人気取りで世間的に評価されるためのものではない
何が真実なのかを理解していなければ 呪術のような論理的根拠のない不毛な因習を繰り返すばかりに陥り 回避可能性があったはずの危険性が放置されることになるのである
何せ現状の哲学界というのはイマヌエル:カントの「純粋理性批判」を「近代哲学の最高峰」などと称してありがたがっていたマヌケ野郎の集団である
ましてやフリードリヒ:ニーチェなど論外である 頭が悪いにも程がある
そんな現状の哲学界において 私が評価されることはないだろう
生物学における進化万能論に対する反証も 少しずつはぐらかす形で浸透はしてきてはいるものの 未だに山極寿一や松沢哲郎ら「老害」達に対する批判は一切出てきていないのである
まあ 山極達の言っていることを何の批判もなく鵜呑みにして垂れ流しを続けてきたマスコミも同罪であるから マスコミも隠蔽黙殺しかしないであろう
その結果真実がウヤムヤにされることで社会安全性が優先されない状態が温存されるとしても 彼らは目先の既得権(組織の利益)を優先して個人が自律的な社会的責任判断選択をすることはないのである
「法の支配」などというものは 法という形式や手続きに対する気分的な安心感に基づいた幻想に過ぎず 法手続きという「形式」に支配されていたのでは まるで「未来世紀ブラジル」のようである
実質的には何の被害もないのに メルカリで肥料を売ったら犯罪だとか 飲食店の中で客が踊っていたら問答無用で店長が逮捕だとか 法手続きという形式だけで国家権力による取り締まりが行われていて社会安全性もヘッタクレもあったものではない
法手続きというのは 道具であって目的にするべきものではない 目的とすべきは安全性であって 安全性を高めるための道具として法律が運用されなくてはならず その運用自体は「人間性」や「倫理」が伴わなくてはならない
人間性や倫理というものは 法律に支配されるものではなく むしろ法律に間違いがあるのであれば改正する必要があり そのための立法機関なのである
「法の下の平等」だとか言いながら 実質的には貧富格差は拡がるばかりなのは 法手続きに欠陥があるからである 具体的にどのような欠陥があるのかは専門外なのであまり指摘できないが 法手続きにさえ従っておけば公平性や安全性が担保される保証がないことは論理的には明らかである
つまり「法の下の平等」などというのは アダム:スミスの「見えざる神の手」だとか 「原発は絶対に安全」といった「神話」の類に過ぎず 論理的根拠が全くないのである
香港ではデモ活動自体が違法であり 警察が市民に発砲しても犯罪にはならないが それでも香港の法律上は違法ではない
法手続きなんてのは 所詮そんなものに過ぎないのである
こうした社会安全性に直結した意見は 現状の「哲学者」達からは一切でてこない
その代わりに論理不明なお伽噺で大衆人気を集めることばかりに邁進しているのである
大衆迎合は儲けにはなるだろう 「金」にはなる 税収にもなるだろう
だが それと引き換えに社会安全性は放置されるのである
それを「怠慢」と言わずして何と形容すべきか
哲学も科学と同様に 直接利益になるようなものではない
むしろ 社会的損失を減らすことによる間接的利益をもたらすものである
糞DQNユーチューバーが渋谷の交差点の真ん中で寝転がっても被害を特定することは困難であろう
暴走族が夜中に走り回って多数の市民の安眠を妨げても 被害を特定することが困難なのと同じである
重要なのは 被害が大きくなってから大騒ぎすることではなく 被害が小さいうちや 被害が出ない段階から徹底して原因を究明し 再発防止につなげてゆくことであり それこそが社会安全性にとって最も重要な選択なのである
それをしないで人間性も倫理もヘッタクレもあったもんじゃねぇ!
Ende;
環状8号線 西台の交差点の崖の上に行ってみたら
東京都板橋区西台1丁目10 -GoogleMap
廃墟があった
まだ緑が枯れてなくて小さな花も咲いているのでスタジオジブリ作品感もある
崖の上から環八の動画を撮ってみたんだけど 上り坂で加速するエンジン音が若干うるさい
道路の反対側は若木という地名で やっぱり高台になっている
ピンぼけにもしてみた
Ende;
迷惑ユーチューバーの〝へずまりゅう〟こと原田将大被告(29)が警察にこっぴどく追求されて「反省している」とか言っているが 反省するくらいなら最初からやるなと思うのだが
誰かに叱られないと何が悪いことなのかを自分で判断する能力が欠如しているから糞DQNになる
なぜ自分で善悪を判断しないのか この部分が人間性や倫理の根幹にある
頭ごなしに「あれをやるな これをやれ」と命令ばっかり強要されて育つと 自分で物事の判断をせずに 他人の顔色ばかりを窺う評価承認欲求中毒に陥るようになる
他人からの評価承認だけが行動のモチベーションになってしまうと YouTubeで数字さえ採れれば それが短絡的に「正しいこと」になってしまい 自分自身で「これは正しい行為なのか?」という自問を一切行わないバカになる
「金が儲かったりして気分が良いこと=正しいこと」という 犯罪者特有の思考パターンがあって 幼女誘拐殺人犯の宮崎勤も「気持ちいいこと=正しいこと」という持論を展開していた
個人的な主観に過ぎぬ「楽しい事」や「気持ちいいこと」が 短絡的に社会的に「正しいこと」であるかのように錯覚してしまっているのである
だが 本当に主体的に好きな純粋行為を持っている場合 好きなことを続けられるためには社会がどうあるべきなのかについても配慮が働くようになる
こうした配慮というのは 他人との関係性から築かれるものではなく あくまで自分自身で「考える」ことでのみ発揮される能力である
逆に言えば 周囲の誰もが無責任で身勝手な奴らばっかりの中で育てば 無責任で身勝手なバカに育つ傾向が強くなるばかりである
シエラレオネのゲリラ社会で育てば 全員もれなく残虐なゲリラに育つのものなのである
生育環境に左右されることなく 自律的に社会的責任判断を身につけるためには 他人からの評価に頼ることなく自分自身が本当に楽しめる 脳内麻薬の自給自足が出来てこそ自律的な社会的責任判断能力も発揮できるようになるのである
ゲリラ社会の中で自発性もへったくれもないのだが 日本の学校に通っていながら自律が育たないのは 人間性や倫理というものが「他人との関係性によって形成されるものだ」という大衆観念(一種の錯覚)に囚われているため 人間性の本質が養われるためのメソッドが機能していないからである
原田将大被告は おそらく本当に反省してはいるであろう
反省はしているが それは気分的に「悔やんでいるだけ」であって 問題の本質がどこにあるのかは全く理解していない
田代まさしが何度も「反省している」と述べていたのに 実際には全く人格が変わらないのは 自己の自律の欠如を客観的に理解していないからである
誰かに叱られて気分的に落ち込み 悔やんでいるだけだからこそ 叱ってくれる相手がいなくなれば平気で何度も同じ過ちを繰り返すようになる
フワちゃんは表面的な「社会性」には欠けていて 目上に対してタメ口だったりするのだが 社会的な迷惑行為には及ばない
「目上の人にタメ口をきいてはいけません」なんてのは上っ面な礼儀作法に過ぎず 形式でしかない
人間として重要なのは 外見上の形式的手続きではなく 自律である
外見が真面目そうなら多くの人は安心するのだが その気分的安心を短絡的に人間性や倫理だと「思って」いるからこそ 振り込め詐欺なんぞに簡単に引っかかるのである
イマヌエル:カントの純粋理性批判だの フリードリヒ:ニーチェだの マルクス:ガブリエルやマイケル:サンデルを哲学だと誰もが信じて疑わなかったのも それが学術権威の「形式(外観)」をとっていたからである
進化生物学における「進化の目的」だの「生存戦略」といった著しい誤謬も 学術権威の多数決によって温存されていたのであり 権威という形式は あくまで気分的な安心感を得るためだけのものであって 科学は権威を疑うことを忘れてはならない
Ende;