書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

謝りたい。

2012年11月18日 16時23分32秒 | 意識論関連
 過去にイジメた相手に謝りたいなんていうのは、イジメをやらかした奴の身勝手な欲望に過ぎない。

 イジメられた方からすれば、後から謝罪されても「死ねブタ野郎。」としか思わないし、そもそもイジメられた相手自体を思い出したくもないし顔も見たくない。

 そもそもなぜイジメという差別排除の原因自体が、イジメをやらかした奴の個人的好き嫌い、感情や欲望が行動に直結していたことが原因であって。それを「謝りたい」などという個人的感情や欲望の上塗りをされてもウザいだけである。

 「謝りたい。」というのは、イジメを行った奴の個人的満足の追求に過ぎず、全く合理性のない身勝手な欲望でしかないのである。

 結局は主観的な「自分の気分的満足」を充足させたいだけであって、身勝手さを身勝手さで取り繕うとしているだけなのである。



 客観的には、イジメという差別排除の科学的原因究明と、それに伴う再発防止策を講じることが社会的意義を持つのであって、「謝りたい」などという個人的気分感情などクソの役にも立たない身勝手な思い込みに過ぎない。

 どんなに「悩んで。」も、それは気分的なものでしかなく、主観的で身勝手な思い込みの領域を全く出ておらず、おいらに言わせれば自閉症の一種としか思えない。気分感情の問題だけでどうにかしようとするから人生相談だとか占いで丸め込まれて満足することに陥るのであって、どんなに自分の過去を気分的に正当化するための屁理屈で満足を獲得しても、身勝手な自己満足以上の何物でもないのである。

 人生相談だの占いなんていうオカルトは、要するに気分的満足や安心を与えることによって論理的思考や具体的対策を放棄させるだけだからこそ「オカルト」なのであり。主観的満足ばかりを追求しているからこそ、具体的で有効な対策が全く進まないのである。これこそが精神の怠慢であり、非合理的な文化系大衆観念の核である。金輪際マスコミでは合理的根拠のない人生相談だの占いの類を垂れ流すべきではない。

 「なぜ、自分はイジメという差別排除を行ってしまったのか。」という自己自身の行動原因を突き止め、再発防止策を立てることによって初めて実効性のある対策になるのであって。そうした自己自身の行動の客観的分析というものを気分的に拒絶しているからこそ人類はいつまでもバカのままなのである。

 差別排除というのは学校にイジメばかりに留まらず、パレスチナ問題などの差別排除一般における核でもある。「ヒト」という種の生物がやらかす動物本能習性的な行動傾向を「普遍性」の論証であるかのように言い張り、断片的立証によって気分的満足ばかりを追求しているというのは、怠慢であり、おいらに言わせりゃ犯罪である。

 社会心理学的な断片的立証を並べても、「ヒト=人間」であることの論理的証明にはならないという構造原理的欠陥を認めない限り、「人間とは何か。」など永遠に論証不可能なのである。

 ヒトの多くは主観的気分が満足しさえすれば、具体的で実効性のある対策が立てられなくても簡単に思考停止に陥る傾向習性がある。「ヒトの多くはバカである。」ことを認識し、自分自身の何がバカなのかを論理的に区別認識することを気分的に拒絶しているからこそ、ヒトはバカのまま何も変わることが出来ないのである。

 変わらない意識は無意識である。機械手続き的条件反射行動のシーケンス、既に存在する自己の思考バイアスに無意識に流されているから無意識なのである。

 変わることを拒絶するのも無意識である、今まで漫然と続けてきた思考パタンや行動バイアスを繰り返すことに気分的安心を感じ、これを維持しようとするのは、ドーパミンが作り出す常習性のシーケンスの「結果」に過ぎず。何ら本質な自己意思による「目的」が存在していない。

 「謝りたい」などという気分的安心満足を追求している自分を正当化している限り、具体的で実効性のある再発防止策は放棄され続ける。気分的安心満足の追求を「心」だなどと錯覚している限り、論理的思考による本質的意識は働くことはない。

 謝られても「死ねブタ野郎。」としか「思わない。」のも、イジメられた方の気分感情に過ぎない。個人的気分感情など社会全体から見ればどうでも良いことであって、これからの社会におけるイジメや差別排除の撲滅対策こそが、イジメられた方にとっても本当の社会的希望となることを認識すべきである。

 罪悪感を感じているのであれば、それを自分の個人的気分感情の満足に用いずに、具体的で実効性のある対策への動機へと転換すべきであり。これを怠っているから「怠慢」だと言っているのである。

 どんなに苦悩しても、「悩み」は論理的な「考え」には構造原理的に到達不可能であり。全くもって不毛な怠慢助長に過ぎない。

 気分的安心満足ばかりを追求し、感情的行動バイアスを「心」だなどと錯覚している限り。ヒトはバカから脱することは出来ない。永遠にバカのままで変わろうとしないことこそが精神の怠慢であり、「ブタ野郎」の本質なのである。「偏差値=頭が良い。」などという文科系大衆観念ばかりに囚われ、本質的な知能を放棄している以上「ブタ野郎」以外の何物でもない。

 亀山郁夫がどんなにドストエフスキーと共感しても、具体的で実効性ある対策には全く供することはなく。単なる文化系大衆観念による気分的安心満足によって思考停止のオカルトに陥っているに過ぎないのである。このような哲学の怠慢を許し、マスコミで垂れ流しているというのは極めて無責任であり大衆の意識撹乱を促すだけの社会的犯罪行為に他ならない。




Ende;
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

CL525N3。

2012年11月01日 16時19分10秒 | 日記
○定電流IC CL525N3。

 パワーLEDを電池で光らせようとする場合、専用回路を使うと電源電圧が12V必要だったり。定電流ダイオード(CRD)を使おうとする場合も電源電圧が9V必要だったりするので厄介。3.7Vリチウムイオン充電池を使ってうまいこと点灯させている人もいるらしいんだけど、回路が複雑で素人のおいらには手が出せない。

 そんでもって、おいらの場合は壊れたCDプレイヤーから剥ぎ取った身元不明の3端子レギュレータらしき素子を3.7Vのリチウムイオン充電池に直列に繋いでパワーLEDを光らせていた。

 だけど、この身元不明素子の特性と全く同じものを入手するのが難しいので新品の3端子レギュレータを購入して実験するのをちゅうちょしておったのだ。

 そしたら秋月電子のサイトにLED用の定電流ICなるものが掲載されていて、「0.5Vから使える」とか書いてある。これなら3.7Vリチウムイオン充電池とかニッケル水素充電池3本でも充分な電流が流せるかも知れない。一応資料PDFはダウンロードしてみたんだけど、英語なのでちんぷんかんぷん。大きさなんてインチ表示。

 資料PDFではスイッチはVout端子だけにつけてあって、回路全体と並列に100nFのコンデンサがついてたりするんだけど。他の人のブログ見るとコンデンサはなくて、Vdd端子にスイッチが付けてあって、しかも25kΩの抵抗でGNDに落としてあったりする。

 実際に購入して接続してみたら、+側はVdd端子だけでもVout端子だけ接続してもLEDは点灯してしまうので、資料や他の人のブログの回路も意味がわからない。とにかくVdd端子とVout端子を共に+に接続してGND側にLEDを接続したら、一応25mA流れてくれた。これなら二つ並列に接続すれば50mA流れてくれそう。

 ところが2個並列に接続しようと端子をビスとナットでこねくり回していたら、端子の根元に無理な力が加わったらしくて、2個共電流が流れなくなってしまった。('A`)

 結局袋から取り出して15分程でゴミになってしまった。残念。素子自体がとても小さいので、端子の根元もかなり弱いようです。

 こういった素子っていうのはハンダ付けを想定した設計らしくて、そのまま直接ネジで締め付けるのは無理があるらしい。端子の根元を樹脂で固めておくとか、ネジ留めをするための対策をしてみようと思って秋月電子通商の八潮店に買いに行ったら在庫切れでした。('A`;)

 人気商品なのかしら、電話で在庫確認してから行けばよかった。

 ふぅ。(°,°)

 てなわけで、再び秋葉原店で購入。今度はポリスチレンの板(いわゆる「プラバン」)で端子を挟みこんで接着剤で固めてからM3のビスをつけてみた。素子自体も小さいんだけど、端子も短くて細いのでビス同士が干渉して結構厄介。

Fig:

 Vdd端子とVout端子は短絡させてあるので、電池とLEDの間に直列接続で使うようにしている。この使い方が正しいのかどうかは長期間使ってみて検証してから再度報告したいと思う。

 で、定電流IC「CL525N3」×2を並列に接続して、3.7Vリチウムイオン充電池を電源に3W白色パワーLEDを点灯させたら40mA程電流が得られて、前出の「謎の素子」とほぼ同じくらいの明るさが得られた。この程度の電流なら熱対策もさして要らないので、手作り工作に使うにはお手軽で便利。(本来なら25mA型を並列に接続しているので50mA流れるはずなんだけど、測定に用いているテスターの精度が低いだけで、本当は最大で50mA程度流れているのかも知れない。)

 しばらく点灯させてみたんだけど、電源電圧だけで電流値が決まるのではなくて、LEDの抵抗値によっても電流が変動するらしく。LEDが暖まってくると明るさが増してきて、完全な定電流動作にはなっていないようだ。それでも「謎の素子」とは異なり、電池電圧が下がっても明るさの変動が少なくなった。

 試しに3.7Vリチウムイオン充電池にCL525N3を2個並列のまま、LEDを3W黄色パワーLEDに交換してみたら200mAも流れてしまってビックリ。LEDよか先に定電流ICが発熱してきて壊れそう。黄色パワーLEDの端子電圧が2.4Vでリチウムイオン充電池フル充電状態3.9V印加しているので、1.5V電圧が余剰しているってことだけど、だからって表示よか4倍も電流が流れてしまうとわ。黄色パワーLEDを使う場合はニッケル水素充電池2本(公称2.4V)とかで使わないと多分壊れる。

 Vdd端子とVout端子を短絡させているのが原因なのか、その辺りは今回端子を分離出来ないように固めてしまったので調べようがなくなってしまった。でもVout端子だけにLEDを接続すればLEDに50mA流れると仮定したら、Vdd端子から150mAもすり抜けてしまっていることになるけど、それはちょっと考え難い。資料PDFにはVdd端子からは最大1mAとか書いてあるように読めるので、そういうことではないらし。

 となると、3.4V型である白色LEDに用いる場合も、電源にニッケル水素充電池4本(公称4.8V)を用いると大きな電流が流れるのではないか思うのだけど、他の人のブログを見る限りそんなことはないらしい。どうも定電流ICの動作っていうのがよくわからない。もしかすると白色LEDとか青色LED専用に特化された集積回路なのかも知れない。

 本当なら壊れるまで長時間テストをしてみたいけど、苦労して使えるようにした定電流ICなので、ちょっと気が乗らない。



//-----------------------

 ちなみに黄色パワーLEDって、電流値の割にはそんなに明るくない印象。白色と比べて4倍もの電流が流れている割にはあんまり違いがないように見える。実際の夜道だとまた違うのかも知れない。

 瞬発的(数十秒)ならニッケル水素充電池2本(公称2.4V)直結で150mA程度電流が流れて安定していた。もちろん定電流対策をしていないので長時間点灯させていると熱でLEDが壊れる可能性は充分にある。

 黄色LEDっていうのは他の単色LEDに比べると波長域が広いような気がする。黄色以外の色も多少視覚認識出来るし、駆動電圧が低いので、使用する電池を軽量化することも出来る。光の波長が長いのでフォグランプのように霧や煙の影響を受けにくい性質もあるので、補助的な前照灯としてなら利用価値があるかも知れない。

 白色LEDと違って発光部分の面積が小さかったり、蛍光材がなくて半導体が直接光っているので写真用レンズを用いたプロジェクターランプに使うと光っている半導体の形がハッキリ投影される。

Fig:

 撮影の都合上、天井に投影しているので、天井のテクスチャーも写り込んでいるけど。黄色LEDの発光部分って四角いのね。白色LEDだと丸くて2本のボンディングワイヤ以外模様もないんだけどね。




Ende;
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

はなからうどん。

2012年11月01日 16時17分51秒 | 意識論関連
○高濱なんちゃら。(もはやググる気にもならん。)

 高濱なんちゃらっていう人が経営している「はなまる学習会」っていう幼児教育塾に人気があって、先日TBSが取り上げていた。

 「ノーベル賞がとれる子供に育てる。」なんていう、典型的な大衆迎合的キャッチフレーズを鵜呑みにしているバカはさすがにいないと思うが。TBSというマスコミが視聴率欲しさにテキトーなことを言うのは無責任極まりない。

 主催者の高濱なんちゃらが言うには、「成功体験をさせることで、意欲を育てる。」んだそうだ。

 しかし、残念なことに実際のノーベル賞受賞者の山中伸弥教授は「たくさん失敗してください。」と述べているので、高濱なんちゃらの言っていることは大嘘である。「なでしこジャパン」の監督佐々木則夫監督も「失敗を怖れず、挑戦することが大切。」と述べており、高濱なんちゃらの大嘘は大衆迎合的子供騙しに過ぎない。

 環境依存的に植え付けられ、動物行動学習された「意欲」というのは本質的な自発性による「意欲」ではない。どんなに失敗を繰り返してでも諦めることのない確固たる意思、本質的「意欲」というのは、他人から環境依存的に植え付けられた成功体験という「外的に与えられる脳への報酬」に依らない、本質的な自発性/純粋な好奇心によって育まれるのであって。成功体験などというその場限りの気分に依る動物行動学習のような刷り込み学習で育まれるものではない。

 「褒めて伸ばす。」というのは、言い換えれば「そそのかして、木に登らせている。」だけであって。そそのかしてくれる他人や環境に依存した一種の中毒症状に過ぎず、本質的な自発性を伴わないために、上手くゆかないと簡単に諦めてしまうようになる。これはチンパンジーの瞬間記憶能力と構造原理的には全く同じものであって、本質的な知能すら発揮されることはない。

 成功体験で能力を伸ばすだけなら、振り込め詐欺師が金をモチベーションに詐欺能力を伸ばすのも同じことであり。外的に与えられるエサ、「脳への報酬」に対してその場限りに条件反射反応しているだけに過ぎない。

 純粋な好奇心に基づく、本質的主体性を持った個人的研究テーマというのは、成功体験の類で「そそのかされる」外見上の意欲とは全く別のものである。だからこそノーベル賞受賞者の小柴昌俊氏は「ある程度実際に自分でやってみないとわからない。」と述べるのである。

 何度失敗しても、他人からの評価や報酬が得られなくても続けられる行為こそが、本質的な自発性であり。それを見つけられるようにするには、親大人が子供に対して目先の偏差値や評価可能な能力を要求せず、子供自身が他人からの評価に関わらず熱中できることを主体的に探せるようにしておくことである。

 ノーベル賞受賞者の中には、少なからず幼少期の学力成績が低い者がおり。むしろ本質的な主体的モチベーションもなしに幼少期に学力成績が高い子供というのは、目先の親大人に褒められることをモチベーションにしている可能性が高く、こういう不純なウケ狙いをモチベーションにしている限り純粋な好奇心も社会的自律判断も育まれることはない。

 偏差値が高いだけで天才扱いしたがるのが大衆観念であるが、幼少期に偏差値が高いだけの子供は何年飛び級しても、大抵の場合大人になれば「普通の人」にしかならないのはそのためである。「普通の人」ならまだしも、「偏差値の高い無差別殺人犯」というのも、こうした本質的主体性の欠落によって作り出されるものであり。外的な「そそのかし」教育というのは、もはや犯罪とも言えるものなのである。



 「はなまる学習会」に通わせておけば人間性が育まれ、如何なる逆境であろうと自律的に社会的責任判断を下し、世間的にも成功することが可能だと思ったら、あまりに短絡的で非合理な大衆観念である。

 「学校が楽しい。」こと「学ぶことに熱中出来る。」ことは重要ではある。東北大学の川島隆太が言うような「強いて勉めるのが勉強だ。」などという虐待の連鎖みたいな学習を繰り返してきたからこそ、原発も含めてあらゆる社会危険性を日本人の誰も指摘批判しなくなったのである。

 褒められて、そそのかされた環境依存的な「意欲」ではなく。褒められたり評価されなくても行う純粋な自発性こそが本質的な人間性や知能を育むことを忘れてはならない。評価報酬に関わらない本質的自発性こそが、自律的な社会的責任判断も可能とするのであり、それがないからあらゆる社会危険性が放置されているのである。

 どんなに世間的に成功していても、天下り役人や東電幹部のようなバカなんぞ誰も求めてはいないし、そんなバカになるよう教育することは反社会的行為である。それを「生きるためには。」などと言い逃れるのが現在の生物学や哲学的な大衆観念というものである。こうした個人的生存価の追求ばかりに意識を奪われているからこそ、自律的な社会的責任判断を誰もしなくなり、結果的に社会は破滅に向かうことに陥るのである。

 従順なだけならナチス絶滅収容所の所長と同じなのである。それを時代や社会という「多数他人のせい。」にして自分自身の自律の欠落を意識から外そうとするから、人類はいつまでも盲目でバカなままなのである。

 多数に迎合的で権威に従順な者のことを、生物学的な大衆観念上では「社会性」と形容するであろう。それが本能的にも安心なのは当たり前である。その気分的安心こそがヒトという種の生物から自律的な社会的責任判断能力や論理検証性の重要性を見失わせる最も大きな原因なのである。



 自律的に社会的責任判断を下すことが出来たとしても、それが世間的に評価報酬になるとは限らない。それは文系大衆にとっては気分的に「嫌な話」かも知れないが、社会安全性や持続可能性のためには最も優先されなければならないものであり。世間的評価や報酬といった個人的生存価よりも優先されなければならないのである。

 世の中が世の中なら、地動説を提唱して火炙りにされるかも知れないし。ナチズムに反対して命を落とすことになるかも知れない。本当に正しいことを論じていれば必ず世間的評価やノーベル賞が貰えるとは限らないのである。

 現在の学術権威が絶対的に正しく、常に厳密正確な判断を下すものであると勝手に思い込むのは文系大衆観念であり、単なる気分的安心満足に過ぎない。こうした気分的安心満足こそがヒトから論理検証性を喪失させる原因であることは何度も述べてきたはずである。にも関わらず誰も論理検証しないというのは、結局安心満足という気分感情でしか行動も思考も働かないことの結果である。それなら通り魔が繰り返されようとも、原発が暴走しようとも、人類が絶滅しようとも、誰にも文句を言う権利など最初から存在しないのである。

 原発の暴走は東電だけが悪いと「思って」おけば、「そそのかし学習」も安心して続けることは無思考な大衆には簡単なことであろう。天下りが繰り返されるのも、犯罪が減らないどころか増える一方でも、「自分達の自律的な社会的責任判断には関係がなく、世間的に成功することや子供が従順に扱い易くなることだけ考えておけば安心満足。」であろう。それなら子供の教育を論ずる前に、教育を行っている親大人の意識改革をするのが先である。バカが育てる子供がバカにしかならないのは必然的結果である。





Ende;
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

人格。

2012年11月01日 16時17分00秒 | 意識論関連
○人格。

 感情に依存した条件反射行動を「人格」とは言わない。

 こんな当たり前のことであっても、大衆凡民の多くは全く自律的には疑うことを知らず、論理的根拠のない大衆観念を短絡的に鵜呑みにするのである。

 人格とは、既に存在する自己である感情主体の固定観念的条件反射行動に抗い、自律的論理検証という本質的意識に基づく合理性主体の選択判断である。

 バカ生物学者達が論ずる「潜在知」のような、既に無意識下に刷り込み学習された感情主体の条件反射行動というのは、個性ですらなく生物的個体差でしかないのである。

 潜在的な価値観というものは、本質的な自己自身による意識的選択を介さず、自己自身によって選択不可能な社会や時代によって刷り込み学習された固定観念的価値観に過ぎないのである。これを個人の「意思」であるだとか、「個性」であるとか、ましてや「人格」だなどと言うのはとんでもない大嘘に過ぎないのである。

 感情主体の条件反射行動のことを「人格」や「個性」であると言われれば、自己の固定観念の事後正当化になるため。気分的に安心満足を促されることで、それが大嘘であることすら気付かなくなるのが「ヒト」という種の生物の普遍的傾向習性、無意識的な思考バイアスであり、これによってヒトの多くは論理検証性を失い、思考停止に陥り、社会持続可能性や安全性が何かを見失うのである。

 多数大衆に人気があるからといって、そいつの言うことが論理的に正しく、社会の持続可能性や安全性につながるものであると思い込むのは、あまりに短絡的で論理検証性が全く働いていない。

 気分的に「感動した。」だの、「安心出来る。」ような話をされると、ヒトの多くはほとんど無条件に気分的安心満足によって論理的思考を停止させ、盲目的に「信頼」するように陥る性質がある。これこそがマスコミによる無意識的プロパガンダを放任し、社会を危険にさらす大きな原因ともなるのである。振り込め詐欺類が減らないのも、気分的安心満足だけで行動が決定してしまう無意識性が原因であり、こうした思考停止性に言及しないマスコミというのは振り込め詐欺に加担助長しているのと同じことである。




 ヒトの多くは、自分の気分が良くなる話をする相手に気分的安心満足し。あたかも自分の気分感情こそが主体的人格であるかのように錯覚させておけば、多くの大衆から人気を得ることも簡単であろう。しかし、それこそが無意識的洗脳状態を作り出す最も大きな原因なのである。

 多くのヒトにとって気分が良い話というのは、基本的に社会や時代に迎合した文化系大衆観念であり。論理的根拠を無視した大衆迎合、ご機嫌取りに過ぎない。

 「感情による行動を否定することは、全人格否定だ。」などと言われれば、あたかも感情に由来する短絡的条件反射行動こそが個人の人格であり、個性であると思い込むのは。極めて短絡的で論理検証性が欠落している。

 人生相談で人気のあるラジオパーソナリティなどというのは、いうなれば占い師やペテン師が用いる意識誘導による気分的安心満足による思考停止を促しているだけであって、「感動」という気分感情を利用した人気取りに過ぎず、何ら論理的根拠を持たない身勝手な決め付けや思い込みを陳列することで大衆人気を得ているだけである。

 どんなに個人が気分的安心満足を促されたとしても、それが社会持続可能性や安全性の論証には全くならないことを。多くのヒトは簡単に意識から喪失する性質があるのだ。

 もう少し平たく述べよう。あんたが気分的に安心満足するようなことを言われたとして、その安心満足の素となるあんたの脳に刷り込まれた世間的固定観念自体はあんた自身の本質的主体性による選択を介していないのであり。意思でもなければ個性でも、ましてや「人格」でも何でもない。

 あんたは一体自分を何様だと思っているのか。自分の脳に刷り込まれたあらゆる固定観念的価値観が絶対であるとでも思っているからこそ、気分的安心満足によって論理検証性を簡単に喪失することが可能なのであり。全くもって傲慢としか言いようがない。こうした傲慢さこそがヒトを無意識に陥れ、あらゆる「人災」の根源的原因なのである。

 気分感情によって促される動物行動的な行動バイアスというものは、本質的な主体性を持った人間としての「意思」ではなく。あくまで論理的「考え」に基づいた主体的選択こそが、本質的な「人格」であると言うことが出来るのである。

 ヒトという種の生物において人間性の獲得と言えるのは、自律的に社会的責任判断を下すことである。これなくして社会持続可能性も安全性も確立されることは原理的にない。

 ヒトは誰も自分の意思でこの世に産まれて来た者はおらず、自分の遺伝子も自分では関与することも出来ず、その遺伝子から勝手に作り出された脳も、その脳に刷り込まれた自分では選択不可能な社会や時代によるあらゆる固定観念であっても自分の意識的選択を介してはいないのである。

 あんたが自分の行動を事後正当化され、それによって気分的安心満足をしても、自律的な社会的責任判断には全く結び付くことの論理的根拠など存在しない。

 それなら、なぜ個人的な気分的安心満足を「人格」であると言えようか。



 バカげた大衆観念上においては、気分的安心満足を与えない話は「品位に欠ける。」などと称して意識から外し、無視し、「なかったこと。」にしたがる。それなら上司の命令に従順に服従し原発の危険性を放置した東電の社員達は「品位がある。」とでも言うのであろうか。

 バカな大衆というのは、内容の論理的整合性よりも、個人的な気分による安心満足ばかりを優先してしまう性質習性があるからこそ。論理検証性というものが簡単に失われることに陥るのである。

 「思考バイアス」というものは、そもそも「思考」そのものではなく。「思考停止に陥る気分的満足傾向性」のことを指すのである。

 大衆に迎合し、あたかも感情的行動バイアスを事後正当化するような話をしておけば、多数大衆から人気を得ることは簡単であろう。こうした大衆迎合こそがヒトの脳から論理検証性を喪失させ、自律的な社会的責任判断力をも失わせることに陥るのである。

 「元気が出る、勇気がわく。」ような話というのは気分的安心満足を与えているだけであって、そこに論理的合理性に基づく社会持続可能や安全性の保証など全く存在しないのである。

 元気だの勇気といった気分感情に基づいた短絡性こそが、人間としての人格の論証であるところの自律的な社会的責任判断力をヒトから喪失させるのである。



 残念ながら、ヒトの多くは自分の個人的な安心満足という気分ばかりを優先し。本質的な人間としての社会性、すなはち「人格」とは何かすら検証することはない。こうした無思考性、思考停止性こそが社会安全性を脅かす最も大きな原因なのである。

 自分自身が目先の個人的安心満足ばかりを追求しておいて、あらゆる他人に自律的な社会的責任判断力を要求する権利など有り得ないのである。

 サルが目先の欲求ばかりを追求するのは当然のことであろう。だからといってヒトが欲求の大きさだけで行動が決定しておいても構わない根拠になど全くならない。

 ヒト科ホモサピエンスという種の生物に産まれた以上、自律的に社会的責任判断を行わなければ「人間」性も「人格」もあったものではない。にも関わらず個人的な安心満足という気分感情ばかりを優先し、多数派に迎合し思考停止に陥っておいて良い訳がなかろう。あまりにバカげていて呆れるばかりだ。まぁ、「呆れる」のも「うんざりする」のもおいらの個人的気分であるからどうでも良いことではあるが。論理的理解が出来ないことによる社会的損失損害はおいらの個人的気分の問題の範疇ではない。

 そもそも「人生相談」の類というのは、気分的安心満足を与えているだけであって、何ら問題解決にも再発防止にも何にもならないものがほとんどであり。その場限りの大衆迎合に過ぎない。認知行動療法のように、心理的拘束の原因を論理的に認識させることによって、自己の感情的行動を抑制するようなものとは全く異なる、その場限りな事後正当化/ご機嫌取りに過ぎないのである。

 臨床心理的な「治療」というのは、ラジオなどのマスコミで公開するような多数共有可能なものではなく。あくまで患者個人におけるケースバイケースで対応するものであって、ラジオで全てが解決するようなものでは構造的にない。個人がどういった経験や記憶によって心理的拘束が生じているのかを丹念に調べなければ「治療」になどなるはずがないのである。

 臨床心理による「治療」というものは、決して気分感情的に安心満足を与えるようなものではなく。あくまで個人が主体的に自己の感情抑制を可能にするためのものであり。そこには「感動」などというご機嫌取りは存在しないのである。

 人生相談などというペテンを鵜呑みにしているからこそ、ヒトの多くはいつまでも論理検証判断力が身につかないのである。そりゃ振り込め詐欺にも引っ掛かるわな。ありていに言って「バカ」なんだもん。




 週刊アサヒなどの無責任な大衆観念の垂れ流し報道による金儲け主義も、テレビ各社による「脳トレ」類をネタにした視聴率稼ぎのための脳科学者達の無責任性の放置も含め、マスコミの社会的要請や社会的義務を全く果たしておらず。「組織の利益を優先し、社会安全性を蔑ろ」にしており、こいつらには東電による原発事故などのあらゆる「人災」に対して批判する権利はない。

 人気ラジオパーソナリティにバカ芸人が丸め込まれて感動だの満足したところで、何ら社会的問題の解決にも何にもならないのは明らかである。何でもかんでも垂れ流しにしておけば報道だと思ったら大間違いである。

 多数派に迎合して、気分的な安心満足に溺れて思考停止に陥っているというのは。いうなれば反日暴動で満足している中国人集団と同じ精神構造であり、極めて動物的な脳の働きによる論理崩壊である。

 物理的破壊同様、論理も破壊するのは簡単であり。地道に築き上げることは労力が要るのである。論理検証性を放棄して気分感情的な安心満足に溺れるというのは、社会安全性を脅かす破壊行為であることを認識すべきである。

 ヒトの多くは、その場限りに自分の気分が良くなりさえすれば相手を信頼し、満足することで論理検証性を簡単に放棄する習性がある。これは言うなれば、ヒトという種の生物における先天的欠陥である。神仏が実存しない以上、これは誰のせいにもすることは出来ず、あくまで自己自身の本質的意識、すなはち論理的思考によってのみ補うことしか出来ないものなのである。これを放棄しているからあらゆる社会的問題の論理的原因究明も再発防止対策も確立することが全く進まないのであって、どんなに偏差値が高くても論理的思考が成立しなければ本質的な知能もすったくれもあったものではない。

 ヒトの多くは目先の個人的気分感情さえ満たされれば安心満足によって論理的思考を停止させることが可能であろう。それこそが人類を「バカ」に陥れているのである。ヒトという種の生物というのは、こうした先天的欠陥が存在することを誰もが認識することを拒絶する性質があり。ヒトという種の生物というのは絶対的に正しくあらゆる生物より優れているものであると勝手に妄想することで気分的満足してしまうのである。

 だからこそ生物学はヒトという種の生物における一面的優位性ばかりを枚挙することで大衆に迎合するのである。

 「人間は素晴らしい。」だの、「人間は優れている。」などとそそのかされ、あたかも本能習性のままに行動しておけば全ての社会的問題が解決するものであると錯覚しておけば、バカな大衆凡民は満足するのであろう。

 そして、それこそが本質的人間性への反逆であることすら認識せず、安心して固定観念のまどろみに溺れて満足するのである。

 多数派同調バイアスや、正常性バイアスといった気分的安心満足に溺れてしまったからこそ、あらゆる「人災」は拡大助長されてしまうのである。これを「バカ」と言わずに何と形容すればよかろう。気分感情本能が促す思考バイアスに無意識に流されるばかりで、全く抗うことをしないから人類はいつまでもバカのままなのである。

 バカでいれば気分的には安心で満足であろう。振り込め詐欺に騙されている被害者と同様、振込みをしようとしていれば気分的には安心満足なように誘導されているだけであり。振り込んだ後になってから「騙された。」ことに気付いて後悔するのである。人生相談の類で気分的に安心満足しているというのは、その場限りのペテンに過ぎず、論理思考を崩壊させる社会的反逆行為なのである。当人にその「意識(無意識的意図)」があるかどうかは無関係である。「人類の救済だと信じ込んでテロをしている」のと同じで、論理思考が崩壊していれば社会的破壊に加担していようとも気分的には安心満足は得られるのである。

 個人的な安心満足という気分感情を満たしておくことで論理思考を停止させてしまうというのは、論理検証性による社会安全性への反逆なのである。自分の本能感情を事後正当化してしまえば、あらゆる自己の問題行動は正当化され、全く治ることはなく、漫然と無意識に問題行動を継続することになるのである。これを「バカの状態」と言うのである。

 ペテン師にそそのかされて気分的な安心満足をしている時、脳内ではドーパミンという安心物質が放出され、意欲だの勇気だのといった気分的満足によって論理思考を停止させられているのである。

 自分が気分的安心満足だの「感動」だのによって、論理検証性を喪失していることには、多くのヒトは自律的に気付くことはない。自己というものを冷静に客観視するという本質的意識なくして、あらゆる社会的問題、「人災」の類はなくならないのである。

 マスコミのバラエティー番組などでペテンを放任しているからといって、ペテンが社会的問題の解決につながる論理的根拠は全くない。彼らペテン師達の目的は世間的なウケ狙いによる多数大衆人気を得ることで金儲けをしたいだけであって、何ら社会的問題の解決など眼中にはない。

 資本主義制度下であるからといって、金儲けのためなら何でも許されると思ったら大間違いである。企業というのは本質的な社会的要請、すなはち社会持続可能性や安全性のための貢献でなければならず、これに適しているのかどうかを市民が論理的に検証しなければ、その場限りの金儲け主義が放置され、社会全体の利益に適うことはないのである。

 要するに人生相談などのペテンというのは、「目先の効用」を追求しているだけであって、これこそが社会を崩壊へと導く最も短絡的で安易な破壊行為なのである。



 子供への虐待がやめられないなら、ラジオの人生相談なんぞに頼らないで心療内科に行って下さい。そのくらい言われなくても気付きなさいよ。人生相談で虐待がやめられるわけないでしょ、バカなんすか。


Ende;
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

SKDだっけ?。

2012年11月01日 16時15分40秒 | 日記
○芹那。

 芹那ちゃんを肝試し企画で怖がらせると、物凄い怖がってくれるので「面白い」のだが。イモトアヤコの蛇ロケ同様虐待性があるので止めた方が良いと思う。

 オヤヂ的には美人さんが怯える顔はセクシーで萌えるのだが、当人の精神に影響を及ぼさないかと心配にもなる。

 芹那ちゃんの親御さんからしたら、多数の視聴者が「面白い」と思うことで娘さんが犠牲になることは望んでいないと思う。

 多数からのウケ狙いでPTSDにでもなったら、誰が責任取るんでしょうね。そんなの悪質な少女ポルノDVD会社と同じでタレントの使い棄てでしょうが。

 「面白い」なんていう多数大衆の気分的満足のために個人を犠牲にしておいて、子供のイジメがなくなるわけがないんですけどね。マスコミっていうのは多数派迎合による金儲けばかりに意識を奪われていて、報道機関の社会的要請というものを簡単に放棄する性質傾向がある。

 「バラエティー番組だから、編集権は検証範囲外。」などと言う言い逃れが通用すると思っているのかね。そんなの暴力団の「シッポ切り」と同じじゃん。汚いわー。

 肝試し企画というのも、心療内科の医師によるドクターストップも必要だと思う。せめて西川史子もブッキングしておくとか、何か対策しとけよ。



 時折繰り返されるバラエティー番組での事故も、金儲けという視聴率優先主義の弊害であり。事故に至るまでのスタッフの心理やヒトの集団が持つ動物習性的な「社会性」についての問題点を検証しないから、視聴率優先の無意識的暴走によって事故が繰り返すのである。スギちゃんの腰椎破裂骨折なんて、下手したら半身不随になってたぞ。



 警察による自白の強要なども、論理科学的検証による原因究明が全く行われないからこそ、何度も同じような冤罪が繰り返すことになるのである。警察というのはそもそも「悪者探し」が仕事であるから、ヒトという種の生物における人間性の欠落構造の解明なんぞ最初から誰もやるつもりはない。法律にさえ適しておけば何をしても許されると思っているから脱法薬物の蔓延を許しているのであり、法律という機械的手続きだけやっていれば世の中が良くなると思ったら大間違いである。それは「地下鉄に毒ガスを撒き散らせば人類の救済だ。」と勘違いしているカルト信者と全く同じ盲目性なのである。

 世間的には悪者を規定して辞職なりさせておけば「責任を取った」ことになるのであろうが、こうした外見上の処理だけで済ましているから根源的問題が放置されることになるのである。

 法律という機械的手続きを盲信しておくというのは、「これさえやっときゃ、全ては解決する。」という勝手な思い込みによる気分的安心満足に過ぎない。法律というのは所詮ヒトが作った規則に過ぎず、法秩序というのは道具や手段でこそあれ、目的ではないことを忘れてはいけません。ヒトというのは簡単に手段を目的だと勘違いする習性があるので、意識的に修正し続ける必要性があるのだ。



 自分が所属する組織の利益を優先し、社会の安全性を蔑ろにするという「ヒト」の普遍的行動習性や思考バイアスを認識しなければ。社会安全性も持続可能性も確立出来ないのは当たり前体操である。

 いつまで踊っていれば気が済むのであろうか。まぁ中毒患者のようなものであるから死ぬまでやり続けるんだろうな。

 そういう状態を「サルの状態。」って言うんじゃないかね。



 芹那ちゃんの精神状態を気遣う人は多分テレビ局にも所属事務所にもいないのかも知れない。それならイジメ虐待と全く同じ構造だからね。

 視聴率を稼ぐだけなら、女子中学生にビキニ着せてローションレスリングでもやらせとけばきっと高い数字が採れるでしょうよ。秋葉原にはそういうDVDが大量に売られているようだし。

 視聴率の高さというものが短絡的に「社会的要請」になるわけではないんですよ。単なる無思考な大衆による、その場限りの流行に基づいた多数決が「コンセンサス」にならないのと同じです。

 お願いですから、少しは自分の頭で「考え」て下さいよ。いくら固定観念的「思い込み。」を正当化するための取り繕いをしても、それは「考え」ではないことを認識してください。

 それは気分的な安心満足に意識を奪われないようにすることであり、気分的には安心も満足も納得も出来ないものなんですよ。だって自分自身の頭の悪さを自分で認識するってことですからね。

 本質的意識とは何かを認識するためには、無意識である感情や気分、固定観念の全てを論理検証的に排除することであって。決して気分的な安心満足を与えるような安易な大衆迎合とは無縁なものなのです。でもそれを人類はいままで全く行ってこなかったからこそ、原発暴走のような重大事象も許してしまったのです。

 ヒトという種の生物における根源問題点を認識しなければ、何度でも「人災」は繰り返されることになる。それを一体誰が望んでいると言うのであろう。



Ende;
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

毎度。

2012年11月01日 16時15分02秒 | 意識論関連
○毎度の生物学批判。

 ヒトという生物種自体に人間としての価値や意味が存在する訳でもなく、単なる生物学上における生存優位性を並べたてても人間性の論証には全く結び付かない。

 あらゆる「人災」を繰り返す習性性質というものが「ヒト」には存在し、その合理的原因究明や対策を放棄して特定個人に責任をなすりつけて安心満足する「悪者探し」をしてしまう行動バイアスというものが「ヒト」という種の生物にはある。

 また、こうした先天的行動バイアスという条件反射的無意識行動を認識したがらない習性もあるため、一向に「人災」というものの根源的で合理性ある原因究明は進まないのである。

 「ヒト」という種の生物自体に人間性が宿っているわけではなく、大脳容積とも短絡的相関があるわけでもない。振り込め詐欺師や天下り役人、或は通り魔無差別殺人犯の大脳容積が特に小さいといったことは全くなく、「ヒト」という生物種自体に人間としての価値を見出だそうとするのは科学的でも何でもなく、単なる生物学者達の勝手な妄想に過ぎない。

 「チンパンジーの子育てを見ていると、共感する。」ことに一体何の科学的価値が存在するであろうか。チンパンジーというのはあくまで狂暴な野生生物であって、ヒヒやヒトを襲い喰い殺すこともあり、何ら生物種自体に「人間性」など存在しないのである。それは「ヒト」でも同じことである。

 ヒトという種の生物は、そもそもがサルと共通の祖先を持っているため、本能的に同じ条件反射的思考停止バイアスを持ち合わせており、気分的な「共感」という主観によって客観的視点を喪失する傾向がある。これを意識的に認識せずに主観的な感想を並べ立てても、科学的検証には全くならないのである。

 ヒトという種の生物がたまたま文明を発達させているからといって、それが短絡的に生物としての優位性の論証になると思ったら大間違いである。制御不能な技術を暴走させている限り、その技術を扱うだけの知能は事実上存在してはいないのである。

 文明規模や科学技術の発達だけを取り上げて「知能」だと思い込むのは、合理的根拠を持たない文科系特有の大衆的な妄想に過ぎず。地球環境との調和による持続可能性や技術の安全性を確立出来ない限り、これは本質的には知能もすったくれもあったものではないのである。

 環境との調和なくして、単なる個体の生存価だけを断片的に抽出枚挙しても、生物種としてのヒトの優位性や存在価値の論証には全くならない。

 単なる技術的高度さという程度問題だけを論じても、持続可能性や安全性が確保出来ずに個人や組織の利益欲望を優先してしまうという本能的シーケンスによる無意識性、欲望の大きさに依存した意識の低さを放置したままである以上、如何なる科学的技術もマッドサイエンスに過ぎないのである。



 文科系大衆観念的には、ヒトという生物種そのものに存在価値や意義が存在するものであると思い込みたい習性があり。そのため、自律的論理的思考の成立していない生物学者の多くは断片的なご都合主義的立証を抽出枚挙することで大衆やマスコミのご機嫌取りにばかり邁進するのである。これは洗脳状態であり、意識撹乱状態なのである。これを多くのヒトは認識することが出来ない。

 「種」そのものに人間性や本質的社会性が宿るのではなく、個人の意識の高さや自律的論理検証判断という本質的意識、本質的知能思考によって、初めて人間性「人格」というものが成立するのであり。これは断片的な行動習性バイアスの抽出枚挙によって立証されるようなものでは構造原理的にない。

 「ヒトとは概ね平和的で安全な生物である。」ことをどんなにたくさん抽出してきても、ナチズムによる虐殺やシエラレオネの少年ゲリラの残虐性、東電による危険性放置の原因究明にも反証にも、当然再発防止対策にも構造原理的につながらないのである。

 にも関わらず生物学者達はヒトの行動習性の結果論だけから人間性を立証しようとし続ける。これはもはや科学というものへの反逆であり、当然社会に対する科学としての本質的要請の放棄でもあるのだ。

 大衆の多くは科学的検証の全ては気分的に快楽を与え、常にヒトという生物種そのものの存在価値を立証するものであると勝手に妄想錯覚したがるが、こうした思考停止バイアスこそが科学的論理検証性を失わせる最も大きな原因なのである。

 ヒトという種の生物は、神などの何らかの意思や意識的選択によって作り出されたものではなく。あくまで自然の中で偶発的に生存に適した「結果」以上の何も存在しないのである。従って本能的に組み込まれた行動バイアスや感情、気分といったものの全ては本質的には個人の主体的選択を介さない「結果」以上の何物でもないのである。

 「目的」とは、個人の主体性に基づき、意識的な論理整合性を持った統合的行動選択によって選択されたものを指すのであって、統合的合理性を持たないその場限りの感情気分による環境依存的条件反射による行動バイアスというものは「目的」でも何でもないのである。

 大衆観念上では、気分感情に基づいた行動バイアスこそが個人の個性や人格であると「思いたがる。」傾向があるが。それは単に「思いたい」という気分感情に基づいた思考バイアスによる身勝手極まりない実証不能の観念に他ならない。

 頭の悪い生物学者が主張する「潜在知」などという観念も、自分の行動バイアスの全ては自分自身で意識的に選択しているものであるという身勝手な錯覚に基づく「思い込み」(バカ)に過ぎない。潜在している思考のバイアスというのは意識を介しておらず、刷り込み学習や洗脳的固定観念の「結果」以上の価値や意味は存在しないのである。

 養老孟司が論じた「ヒトは今まで実証不能の観念を振り回し、他人に多大な迷惑をかけてきた、ヒトとはそういうものである。」といった「ヒト性悪説」と。大衆迎合的な生物学による「ヒトとは概ね安全で平和的な傾向がある。」などという断片的論証「ヒト性善説」の二極論しか存在していない。これらはどちらもヒトという生物種の結果的傾向習性以上の何も論じてはおらず、何ら合理的結論を導き出さない不毛な議論である。こんな不毛な議論に執着しているからこそ、人類はいつまでも本質的人間性を獲得することができないのである。

 人間性や「人格」というものは、個人が主体的に統合的論理検証判断をすることによって、初めて形成されるものであって、傾向性や習性といった無意識的「結果」の抽出枚挙によって立証されるものでは構造原理的にない。にも関わらずヒトという種の生物の動物行動習性から人間性を立証しようとする生物学者達は、もはや科学者としての存在価値はなく、合法的に公金を浪費する身勝手なオカルト宗教団体に過ぎない。



Ende;
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

自分だけは。

2012年11月01日 16時13分51秒 | 意識論関連
○封建的上下関係の連鎖。

 家庭内で封建的な上下関係を強要されている子供っていうのは、学校内の教室における他の子供との関係においても封建的上下関係を求めるようになるのよね。

 他の子供の家庭においても同様の封建的上下関係がなければ気分的に納得がいかないので、何が何でも自分が強要されている封建的上下関係を正当化しなければいられなくなってしまうのです。

 結果的に平等とか公平を拒絶するヒトになっちゃうのね。

 イジメを根絶するためには、日本人の「文化」として刷り込み学習された観念から変える必要性がある。

 「親を敬う」というのは、敬うに値する親であることが大前提であって、親自身が自分から子供に「敬え」と強要している時点で親として出来損ないであることを認識すべき。

 右翼思想の元都知事が日の丸君が代を強要して愛国を強要しているのと一緒で、愛することや敬うことを強要するというのは本末転倒。戦前の日本における家庭内での根強い封建的上下関係こそが軍の暴走の原因ともなったと言える。

 石原家なんて封建的上下関係が激しそうだものね。だからヨシズミは自分勝手でワガママなんだろうね。

 仕切りたがりで他人を誘導したがり奴っていうのは、自分自身が親から誘導されてきたことに由来する条件反射的な無意識行動なので。当人にも制御が効かず、機械条件反射的に他人を服従誘導してしまう。

 他人の思考を誘導し、服従行動に陥れることこそが「勝った」ような感覚(錯覚)に陥っているため、麻薬的にやめることが出来なくなっていると言える。

 そもそもあらゆる固定観念的「文化」の類というのは、無意識下に刷り込み学習された固定観念的価値観に基づく気分的安心満足のことを指すのであって、合理的根拠は全く存在しない。

 いうなれば「文化」とは中毒であって、論理検証において「文化」を持ち出した時点で合理的根拠がないことの証明なのである。

 カピバラの集団における封建的上下関係を「掟」などと称して正当化するのが生物学である。こんな動物的行動習性のことを「社会性」とか「人間性」にこじつけるというのは支離滅裂という他ない。これは生物学界自体が封建的上下関係による盲目性に冒されているからであって、論理的検証を排除し、自分達の固定観念に則った都合の良い話だけを取り上げることで体制維持に執着する。それは論理的根拠よりも気分的安心満足ばかりを追求している不純性が原因である。

 ヒトの多くは論理的根拠よりも固定観念に基づく気分的安心満足ばかりを追求しがちである。無意識であるということはすなはち論理的検証性が放棄されていることによる非合理的暴走性を招くだけであり、極めて危険なあらゆる盲目性の根源となっているのである。

 マインドコントロールだの洗脳の類というのは、特定の凶悪事件における「程度」問題に対して形容されているだけであって。実際には家庭内や子供同士、企業団体内部など、あらゆる人間関係における動物的「社会性」において働く盲目性の根源として、ヒトの無意識習性的な思考や行動の同じバイアスが働いているのである。

 ヒトの多くは、大衆観念的には、程度が違えば原因まで異なるものであると錯覚する性質習性があるが。こうした程度問題による観念的区別こそが、重大事象と「ヒヤリ、ハッと」事象を差別し、「全く異なるものである」と思い込むことで、あらゆる危険性が放置され、「人災」という結果に至るのである。

 イジメなどというのは監獄実験やアイヒマン実験の雛形であり、これを放置無視しているからこそ虐待だの差別排除がなくならないのである。

 そもそも国家公務員や代議士になるような者の多くは権力という封建性への執着が動機の根底にあるケースが少なくないため、封建的上下関係をなくそうとか、平等で公平な社会を構築しようなどとは全く意識が働かないのである。

 文明に「寿命」があるのは、ヒトの動物的な社会形成習性に基づく無意識的盲目暴走性が明文化されていないからであり、同じ根源的原因によって暴走破綻に至っていることに誰も言及していないからである。

 ヒトの多くは「自分だけは大丈夫」だと思いたがる性質習性があり、そう思い込むことによって気分的安心満足とか、精神的救済を得ることで思考停止に陥いるという本能的習性が存在するからである。

 洗脳やマインドコントロールを特別な事象であると差別することによって、あたかも自分には無関係な事象であると勝手に錯覚することによって、ヒトの多くは自分達の無意識性、気分的安心満足の追求性を正当化し、結局問題の根源が放置されることに至っているのである。

 ヒトの多くは論理検証思考を放棄して、気分感情のおもむくままに行動することを「純粋」だと錯覚するが。これは権威に対して無批判に服従する迎合性への気分的安心満足を、論理的な安全性と錯覚し、無意識にすりかえていることにすら気付かないという大衆観念に過ぎない。

 動物行動習性的に無意識な条件反射行動に流されていることを「純粋」などと思うのは、既に存在している自己を事後正当化したいという身勝手な願望が作り出した大衆的文化系妄想に過ぎない。

 アイヒマン実験において権威に服従することこそが人間性であると勝手に錯覚しているからこそ、ヒトの多くは権威への無為な服従を無意識にしてしまうのであり、これを純粋さだと言い張るのは身勝手極まりない妄想に過ぎない。

 本能習性というのは動物的な不純な行動原理であり、あらゆる犯罪は動物的本能習性によってもたらされるのである。本質的な人間としての純粋さというのは、本質的な自発性によってもたらされる自律判断が伴ってこそのものである。先天的習性だの社会環境によって無意識に流される行動バイアスこそが、本当の不純性であることを認識「理解」しなければならない。

 「文化」の名を借りて権威服従性や多数派迎合性を正当化することは、いわば社会を破滅に暴走させる合法的犯罪行為なのである。東京電力社内の「文化」こそが福島を地獄に陥れたことを忘れてはならない。「文化」とはすなはち組織の「体質」を正当化する際の言い逃れに使われることの方が圧倒的に多いのである。



Ende;
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

マラソン大会。

2012年11月01日 16時11分32秒 | 日記

○荒川リバーサイドマラソン大会のお知らせ

十一月十八日(日)九時から十三時まで
この緊急用河川敷道路でマラソン大会を開催いたします。
約二千五百名の選手が参加します。
安全で円滑な大会運営に、皆様方のご協力をお願いいたします。
マラソン区間 荒川河川敷右岸
 千住新橋から五色桜大橋先まで

問い合わせ先 電話03-3802-4589
荒川リバーサイドマラソン実行委員会事務局

荒川区教育委員会事務局社会体育課


 という立て看板が大量にありました。午後1時を過ぎても人が急にいなくなるわけではないので、自転車での利用は避けた方が無難かもです。

Ende;
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする