哲学とは 考えることである
考えるとは何かと言えば 「答え(真理)」を知ろうとすることである
考えて答えに辿りつくことが出来るかどうかは必ずしもわからないし
そもそも本当に答えが存在してるのかどうかも必ずしもわからないのだが
論理客観的根拠のない「答え(観念)」に惑わされることで考えそのものが崩壊してしまうことが哲学からの逸脱に陥る原因である
「答えはありません」と言うからには論理客観的根拠が必要だが 実際にはそんな論理的証明は存在せず 頭の悪いバカが勝手に決めつけただけの妄想錯覚観念に過ぎない
あるかどうかがわからない「答え」を探求するのが哲学である
それは 科学が「やってみなければ わからない」と様々な実験をするのと同じである
本当のことがわかるかどうかはわからないが 本当のことを知ろうとすることが重要なのであって
本当のことなんかどうでも良いという意味ではない
真理に辿りつけないかも知れないとしても 真理を求めるのが哲学であって
「どうせ真理なんぞない」と勝手に決めつけ 訳のわからぬ実証不能の観念に酔い痴れ思考停止に陥ることが哲学ではない
フリードリヒ:ニーチェはこう述べた「できそうにないことは やらない方が良い」と
「できそうにない」とは 別に論理的根拠ではなく 主観的感覚を述べているに過ぎず
それを論拠に「やらない方が良い」などという話は むしろ考えることからの逃避であり 哲学を逸脱する最も短絡安易な洗脳(思考停止)である
哲学や科学というのは 主観的にできそうかどうかに関わらず 「できるかどうかはやってみなければわからない」事柄への探求であり挑戦である
論理客観的に「本当にできないのかどうか」は あらゆるアプローチから挑戦してみてから導き出すものであって そこに主観観念的予想に過ぎぬ「できそうにない」かどうかはむしろ徹底的に排除すべきものである
哲学では 「必ずしも答えは要らない」が これは論理的根拠に基づいた検証そのものを放棄して良いという意味ではない
哲学に必要なのは むしろ論理客観的根拠のない「答え(観念)」を鵜呑みにせず 客観的真理と明確に区別することである
だが 現状の哲学界といのは 「人智や理性を超越した叡智」だの「世界は存在しない」だのといったオカルト観念を多数派で鵜呑みにするだけの大衆迎合にしかなっていない
カントの純粋理性批判には論理整合性もなく 実際にはカントの勘違い妄想の範疇に過ぎないのだが 多くの論理思考の嫌いなバカにとっては 論理思考を貶めることが出来るという妄想を抱かせるため バカに人気を得ているに過ぎない
人智を超越していれば 「ヒトが思いつくことが出来ない」し 「ヒトが応用利用することも出来ない」
さらに理性を超越していれば 論理的根拠すらも無用という意味になるのである
人智や理性を超越してしまえば それはファンタジーに過ぎず 到底哲学ではない
こうしたファンタジー妄想を「哲学」として扱っているのが現状の哲学界なのである
亀山郁夫によるドストエフスキーの読書感想文を 誰も疑うこともなく哲学だと信じ込み 放送大学では何度も繰り返したれ流していた
これはもう「脳が壊れている」としか言いようがなく
もはや犯罪レベルの話である
Ende;
考えるとは何かと言えば 「答え(真理)」を知ろうとすることである
考えて答えに辿りつくことが出来るかどうかは必ずしもわからないし
そもそも本当に答えが存在してるのかどうかも必ずしもわからないのだが
論理客観的根拠のない「答え(観念)」に惑わされることで考えそのものが崩壊してしまうことが哲学からの逸脱に陥る原因である
「答えはありません」と言うからには論理客観的根拠が必要だが 実際にはそんな論理的証明は存在せず 頭の悪いバカが勝手に決めつけただけの妄想錯覚観念に過ぎない
あるかどうかがわからない「答え」を探求するのが哲学である
それは 科学が「やってみなければ わからない」と様々な実験をするのと同じである
本当のことがわかるかどうかはわからないが 本当のことを知ろうとすることが重要なのであって
本当のことなんかどうでも良いという意味ではない
真理に辿りつけないかも知れないとしても 真理を求めるのが哲学であって
「どうせ真理なんぞない」と勝手に決めつけ 訳のわからぬ実証不能の観念に酔い痴れ思考停止に陥ることが哲学ではない
フリードリヒ:ニーチェはこう述べた「できそうにないことは やらない方が良い」と
「できそうにない」とは 別に論理的根拠ではなく 主観的感覚を述べているに過ぎず
それを論拠に「やらない方が良い」などという話は むしろ考えることからの逃避であり 哲学を逸脱する最も短絡安易な洗脳(思考停止)である
哲学や科学というのは 主観的にできそうかどうかに関わらず 「できるかどうかはやってみなければわからない」事柄への探求であり挑戦である
論理客観的に「本当にできないのかどうか」は あらゆるアプローチから挑戦してみてから導き出すものであって そこに主観観念的予想に過ぎぬ「できそうにない」かどうかはむしろ徹底的に排除すべきものである
哲学では 「必ずしも答えは要らない」が これは論理的根拠に基づいた検証そのものを放棄して良いという意味ではない
哲学に必要なのは むしろ論理客観的根拠のない「答え(観念)」を鵜呑みにせず 客観的真理と明確に区別することである
だが 現状の哲学界といのは 「人智や理性を超越した叡智」だの「世界は存在しない」だのといったオカルト観念を多数派で鵜呑みにするだけの大衆迎合にしかなっていない
カントの純粋理性批判には論理整合性もなく 実際にはカントの勘違い妄想の範疇に過ぎないのだが 多くの論理思考の嫌いなバカにとっては 論理思考を貶めることが出来るという妄想を抱かせるため バカに人気を得ているに過ぎない
人智を超越していれば 「ヒトが思いつくことが出来ない」し 「ヒトが応用利用することも出来ない」
さらに理性を超越していれば 論理的根拠すらも無用という意味になるのである
人智や理性を超越してしまえば それはファンタジーに過ぎず 到底哲学ではない
こうしたファンタジー妄想を「哲学」として扱っているのが現状の哲学界なのである
亀山郁夫によるドストエフスキーの読書感想文を 誰も疑うこともなく哲学だと信じ込み 放送大学では何度も繰り返したれ流していた
これはもう「脳が壊れている」としか言いようがなく
もはや犯罪レベルの話である
Ende;