書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

答えについて

2019年05月31日 13時46分29秒 | 意識論関連
哲学とは 考えることである

考えるとは何かと言えば 「答え(真理)」を知ろうとすることである

考えて答えに辿りつくことが出来るかどうかは必ずしもわからないし

そもそも本当に答えが存在してるのかどうかも必ずしもわからないのだが

論理客観的根拠のない「答え(観念)」に惑わされることで考えそのものが崩壊してしまうことが哲学からの逸脱に陥る原因である



「答えはありません」と言うからには論理客観的根拠が必要だが 実際にはそんな論理的証明は存在せず 頭の悪いバカが勝手に決めつけただけの妄想錯覚観念に過ぎない

あるかどうかがわからない「答え」を探求するのが哲学である

それは 科学が「やってみなければ わからない」と様々な実験をするのと同じである

本当のことがわかるかどうかはわからないが 本当のことを知ろうとすることが重要なのであって

本当のことなんかどうでも良いという意味ではない

真理に辿りつけないかも知れないとしても 真理を求めるのが哲学であって

「どうせ真理なんぞない」と勝手に決めつけ 訳のわからぬ実証不能の観念に酔い痴れ思考停止に陥ることが哲学ではない



フリードリヒ:ニーチェはこう述べた「できそうにないことは やらない方が良い」と

「できそうにない」とは 別に論理的根拠ではなく 主観的感覚を述べているに過ぎず

それを論拠に「やらない方が良い」などという話は むしろ考えることからの逃避であり 哲学を逸脱する最も短絡安易な洗脳(思考停止)である



哲学や科学というのは 主観的にできそうかどうかに関わらず 「できるかどうかはやってみなければわからない」事柄への探求であり挑戦である

論理客観的に「本当にできないのかどうか」は あらゆるアプローチから挑戦してみてから導き出すものであって そこに主観観念的予想に過ぎぬ「できそうにない」かどうかはむしろ徹底的に排除すべきものである



哲学では 「必ずしも答えは要らない」が これは論理的根拠に基づいた検証そのものを放棄して良いという意味ではない

哲学に必要なのは むしろ論理客観的根拠のない「答え(観念)」を鵜呑みにせず 客観的真理と明確に区別することである

だが 現状の哲学界といのは 「人智や理性を超越した叡智」だの「世界は存在しない」だのといったオカルト観念を多数派で鵜呑みにするだけの大衆迎合にしかなっていない

カントの純粋理性批判には論理整合性もなく 実際にはカントの勘違い妄想の範疇に過ぎないのだが 多くの論理思考の嫌いなバカにとっては 論理思考を貶めることが出来るという妄想を抱かせるため バカに人気を得ているに過ぎない

人智を超越していれば 「ヒトが思いつくことが出来ない」し 「ヒトが応用利用することも出来ない」

さらに理性を超越していれば 論理的根拠すらも無用という意味になるのである

人智や理性を超越してしまえば それはファンタジーに過ぎず 到底哲学ではない

こうしたファンタジー妄想を「哲学」として扱っているのが現状の哲学界なのである



亀山郁夫によるドストエフスキーの読書感想文を 誰も疑うこともなく哲学だと信じ込み 放送大学では何度も繰り返したれ流していた

これはもう「脳が壊れている」としか言いようがなく

もはや犯罪レベルの話である



Ende;
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チケット当選詐欺にご注意

2019年05月31日 00時19分06秒 | 日記
東京オリンピック観戦チケットの当選を装った詐欺が増えることが懸念されている

ブラウザのURL欄に

https://tokyo2020.org

で始まるドメイン以外は全て偽物なので注意するようにとのこと





Ende;
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動機の解明

2019年05月29日 12時49分26秒 | 意識論関連
警察が「加害者の動機の解明」だとか言って家宅捜索をしている

通り魔の動機を調べて 一体何の役に立つんだろうね

通り魔とかテロをやるようなキチガイの動機なんぞ 聞くだけ無駄だと思わないのかしら

重要なのは「どうして通り魔とかテロをやるような訳のわからぬ行動をするようになったのか」を調べることじゃないのかね

それとも被疑者死亡のまま書類送検だけして終わりにしようとしているのかしら

物凄い「機械的手続き」なんだが

「自分達のやっていることが無意味かもしれない」って思いもしなきゃ考えもしないんだろうね

「言われたからやっている」だけなんだろうね

「走行してくる自動車を止められない車止めの設置」みたいな無意味なことを 一体どれだけ繰り返せば気が済むんだろうね



通り魔ってさ 今まで何度も発生しているよね

で その「動機」を解明して何か再発防止に役立ったことってあんの?

司法判決で「身勝手な動機で」とか言うだけで 実効性のある再発防止について意味のある知見に結びついたことなんてないだろ

司法役人達は通り魔やテロが発生すれば むしろ「罰を与えるお仕事」が増えるもんだから 減らなくても構わないんだよね

むしろ犯罪や過失は多少増え続けた方が利権の拡大につながるので やぶさかではないんだろう

そうやって「組織の利益を優先し 個人が自律的な社会的責任を負わない」から あらゆる「人災」に対する論理的で具体性や実効性のある再発防止策が全然出てここない

頭が悪くて「自分の何が悪いのかわからない」んだったら それ寺内樺風と何が違うの?




Ende;
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愚痴

2019年05月28日 12時38分34秒 | 日記
また通り魔事件だよ

だから言ってんじゃん 予備軍的な奴がいるんだって

実際に実行されるまで放置してちゃダメなんだよ

法務省は自分達の「利益」にならないことは一切やらないよ

ちゃんと合理性とか実効性のある対策をしないと 何度でも同じような犯罪は続くことになるんだよ

刑法罰を一時停止して 危険学や失敗学の手法を導入して原因究明と再発防止対策を早急に進めないとダメなんだって

「登下校の見守りを強化」っつったって ポリカボの盾持った屈強な男が数名いないと両手に包丁もった奴なんか止めらんないぞ

交差点で見守り活動している黄色の旗もったおじいさんに通り魔なんか止められるわけないだろ

通り魔なんてどこで誰がやらかすのか現状では予測がつかないんだから

せめて「こういう奴がやらかす」っていう原因究明をしないと どうにもならんだろ



オイラは維摩様でもキェルケゴール様でもないから

そんなに恵まれた育ちではないので

もう面倒臭くなっちゃうんだよね

「ああ もうみんなバカ同士で殺し合いでもしとけ オラ知らん」って気分になっちゃう

でも きっとキェルケゴールが生きてたら憐れみの目で見られちゃうんだろうな

「お前も結局愚かな衆愚の一人か」ってね



出来ることならもう涅槃にはいりたいわ



Ende;
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スカートの中

2019年05月26日 13時03分48秒 | 意識論関連
「感覚」というものを短絡的に「意識」だという前提自体が間違いなのです

感覚だけならヒトでなくても動物でさえあれば大抵あるはずです

感覚とは「好きか嫌いか」「怖いか安心か」という区別に過ぎず 扁桃核という大脳辺縁系に組み込まれた動物的行動バイアスを作り出しているに過ぎません

それは動物としての意識とは言えるかも知れませんが 人間としての意識とは言えません

動物的に単なる個人の主観的な好き嫌いや快楽だけを追求していたら それは到底人間としては行動出来ないからです

女子中学生誘拐監禁犯の寺内樺風や 連続幼女殺人犯の宮崎勤は 自分が主観的に快楽を感じることを短絡的に「正しいこと」だと主張しています

一般的な大多数の「普通の人」の感覚からすると 身勝手で訳がわからない判断基準ですが 寺内樺風や宮崎勤当人の脳にはこうした短絡的判断基準しか働いていないので異常であることの自覚すらないらしいのです

自己客観性が働かない原因は 本質的な主体性が存在していないからであり 快楽の全ては受動的に環境から与えられるものであると「脳が学習」してしまっているためです

「学習」というものが必ずしも「頭が良くなる」わけではないことは 既に説明したので割愛しますが 自己客観性が働いていれば主観的に何かを感じたからといって短絡的に行動に直結することはありません

こうした自己抑制というのは 目先の主観的感覚が促す行動バイアスだけに囚われずに 自己が感じるあらゆる感覚から統合的判断選択をする理性によって働くようになるのであって これは先天的性質や生育環境によって左右されるのです

近所の子供が時折いなくなったり 死体で発見されたりしていたら主観的にも嫌な気分に陥り食べ物の味がわからなくなったりするのも主観的感覚ではありますが 寺内樺風や宮崎勤にとっては目先の主観的感覚の強度程度以外には行動選択の基準が存在しないのです

宮崎勤による連続幼女殺人事件が起きていた当時 「同じ感覚がある」という悩みを持っている人の匿名の告白が時折見られました

感覚だけなら宮崎勤と同じように 「幼い少女を犯してみたい」という感覚があってもおかしくはありません その感覚自体は意識の本質ではないからです

異常な連続殺人犯と同じ感覚を持ってしまっていることに 罪悪感を感じ それを悩んでいる状態というのは いわば「感覚の大渋滞」に意識を奪われている状態だと言えます

罪悪感自体が感覚であって それを悩んでも何の解決にもなりません そもそも「悩み」自体が「考え」ではないので どんなに「悩ん」でも何の解決にも辿り着くことはないからです

ミニスカートの若い女子が 膝を曲げずに前かがみに落としたものを拾おうとしていれば 男であれば大抵の場合はウッカリ無意識に覗き込もうとしてしまうことがあります

このとき 「ああ イカンイカン 色即是空空即是色」と別のことを考えるようにして行動抑制をするのは 「自分の身内がスカートの中を他人に覗かれることを考えれば 自分も他人のスカートの中を覗き込んではいけない」という理性が働くためです

「自分の身内がスカートの中を覗かれる」ことを嫌うのも 結局は感覚であり主観なんですが 重要なのは自分の中の様々な主観的感覚全体を統合的に見渡す自己客観性を発揮するのは理性なんですね

主観的感覚の強度程度で行動が決定していれば ヒトという種の生物であっても人間性は働かなくなります

卑劣で凶悪な犯罪者の話を聞くと 多くの大衆は「死刑にしちまえ」と怒鳴り散らして共鳴し それで全てが解決するという感覚に陥りますが それでは「なぜ卑劣で凶悪な犯罪を犯すようになったのか」についての原因究明や それに伴う再発防止に有効な知見が全く得られなくなってしまうことになり 似たような犯罪の再発防止にとって より実効性の高い対策が全く採られないことになるのです

宮崎勤の場合は連続殺人だったため死刑になりましたが 寺内樺風の場合は懲役9年で出所してきます

言っておきますが 懲役刑の再犯率は50%近くあり 更生治療の効果は非常に薄いことを認識しておく必要があります

特に幼女性愛犯罪というのは再犯率が高く 寺内樺風が「治っている」保証は何もないのです

「一つの重大事象の陰には 無数の小さな事象が隠れている」 これはハインリッヒの法則と呼ばれるもので 危険学や失敗学では常識的な考え方で 再発防止において重要視される概念です

寺内樺風や宮崎勤のような異常者というのは その陰に無数の異常者予備軍が存在していると考えるべきであり これを考慮に入れれば寺内樺風や宮崎勤の異常性の原因は徹底的に調べ 教育段階から予防的治療をしておける可能性も拡がるのです

しかし 刑法懲罰というのは こうした取り組みにおいて阻害要因にしかなりません

危険学や失敗学の調査検証において 刑罰を一時停止させるのはそのためです



こうした徹底的な論理検証というものは 「感覚」的には「嫌」かも知れませんし 再発防止にとって より合理的で実効性のある対策にならなくても何の罪悪感も「感じ」ないかも知れませんが それが原因で似たような事件が再び起こることを予防できなかったとしたら それは未必の故意と言っても過言ではありません

再発予防可能性を高めるための論理検証よりも 格式伝統のある形式機械手続き的に懲罰を与えておいた方が気分的には楽で満足で安心な「感覚」が多くのヒトでは得られるのかも知れませんが

それによって回避可能性が狭められるという無責任さは誰も「感じ」ることはないかもしれません

それは 歩道に自動車が突っ込んでくるのを防ぐことの出来ない車止めを設置している警察の無責任さと 一体何が違うのでしょうか

自分の「感覚」を疑う客観的な論理検証性が働かなければ 合理性のある より実効性の高い対策によって社会安全性をより高めることは出来ません

「それでも構わない」という無責任な発想に人間性が伴うのかを「考え」れば 悩む必要性もなく 選択の余地など最初から存在していないのです

現状の司法制度上では 実際に犯罪が行われてからの対応しか制度上存在していません

どんなに真面目に生活していても 金銭的に破綻すれば財産を安く売り捌かれ破綻に追い込まれます それが社会全体にとって非効率だろうが何だろうが 司法にとってはどうでも良いことだからです

銀行も目先の利益ばかりを優先し 顧客の破綻リスクを無視し より多くの貸付をしたがりますが 結果的に貸付た顧客を破綻させてしまえば不良債権になり損になるという大局的視点や意識の拡さに欠けた社会的に無責任なことであることを 銀行員の誰も認識してはいないのです

「組織の利益を優先し 個人が自律的な社会的責任を負わない」ことによって起きる「人災」というのは 何も原発に限った話ではないのです



Ende;
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脱構築可能性

2019年05月25日 12時56分11秒 | 意識論関連
右折事故で自動車が歩道に突っ込み歩行者が亡くなる事故がありました

被害者の遺族の方が警察に「事故で死亡者が出ないように歩道に車止めを設置してもらえないか」と相談したところ

あっさりと要望に応えてくれたそうです

ところが 車止めというのはガードレールのような安全基準がなく 走ってくる自動車を防ぐ能力は特にないのだそうです

実際に ガードレールの支柱というのは地面から上に出ている長さと同じくらいに地中にも埋設されており 大型トラックの激突にも耐えられるよう試験をクリアしているのですが

車止め場合は20〜30センチくらいしか地中には埋まっておらず 自動車が激突した場合には簡単になぎ倒されてしまうそうです



この話 何かおかしくありませんか?

被害者遺族の方は再発防止という目的のために要望したものであるにも関わらず 警察は「車止めを設置してもらえないか」という要望に対し ただ設置しただけなのです

要望の目的というものを無視して ただ「車止めを設置してもらえないか」という要望を叶えただけなんですね

もし同じように自動車が歩道に突っ込んできて誰かが死亡しても 警察は何の責任も負わないつもりです

「言われたから やっただけ」という 機械的手続きに人間性があるでしょうか

要望の目的を無視していても それが原因で助かる命が助からないとしても 警察は何も責任を取るつもりはないようです

法律というのは 機械的な手続きに過ぎず 誰も迷惑していない場合においても法律に触れさえすれば刑事告訴も可能となるものであって 逆に明らかに無責任な行動であっても法律上存在しなければ無罪なのです

「法律は人類の財産」などと形容するバカがいますが 憲法で武装の放棄を宣言しているにも関わらず 地政学的恐怖心から戦略航空母艦を配備できるという「解釈」も可能なのが 法律というものの実相です

法律というもの 規則というものには必ず主旨というものがあります

主旨を逸脱した運用をすれば 人畜無害な行為も犯罪にでっち上げ 無責任な脱法行為も許容されるのが法律というものなのです

法律は所詮道具に過ぎず 使う方の人間性が必要となるのです



「法律は人類の財産」と 学校では教えられたでしょうが そこに論理的根拠はあるのかを 考えた人はいるのでしょうか

ジャック:デリダは脱構築可能性を説きました

ヒトという種の生物は どうしても根拠のない実証不能の観念を鵜呑みにし 疑うことを忘れて構築性の檻の中に閉じこもろうとする先天的習性があるからです



警察というのは犯罪者や違反者を取り締まることだけが目的で

適度に犯罪者や違反者がいた方が組織にとって有利であるため 犯罪や事故が減らなくても構わないのです

組織の利益を優先し個人が自律的な社会的責任を負わないわけです

どっかで読んだことないですか?

右折事故だけで年間1万8千件も発生しているにも関わらず 警察が言ったのは「注意して」という精神論だけです

もし警察が国土交通省と連携して事故防止のための構造的原因究明によって実効性のある合理的再発防止策を進めていれば 防げた事故もあったはずです

死なずに済んだ人もいたかも知れません



国家権力を用いた国民の行動抑圧が刑法というものの実体であり 国家権力に対する恐怖心が刑法によって植え付けられているため 本当は無責任な行為であっても誰も疑義を唱えることはしないのです

「怖いこと=悪いこと」ではありません

ナチス政権下において ナチスに反対することはとても怖いことであり 命に関わる危険も伴うことでもあります

東京電力社内において 原発の津波に対する脆弱性を主張することは 決して安心なことではありませんでした 実際に主張した担当者は東電の体質に屈して辞職し 遠く離れた四国で農業に従事したそうです

この国では内部告発者は「裏切り者扱い」されます

利己的利益を優先すれば 組織の体制や体質に従順に従い 何も疑問を持たずに服従しておいた方が安心して生活することが出来るでしょう

そうした自己の無責任さを意識から外すために 毎晩エタノールで脳を麻痺させて 酔っぱらい同士で話を丸めておけば安心満足することが出来るのでしょう

ヒトはバカでいた方が 気分的には安心満足することが出来るという とても残念な生き物なのです



Ende;
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答えについて

2019年05月24日 23時43分25秒 | 意識論関連
「答えはない」ことの論理的根拠は何でしょうか

「答えは要らない」「答えは出さなくて良い」と なぜ言えるのでしょうか

バカな「哲学者」はこう答えるでしょう 「哲学とはそういうものだ」と

なぜそう言えるのでしょうか

論理的根拠はあるのでしょうか

それは一体誰が決めたんでしょうか

「答えはない」と断言するからには そこには論理的根拠に基づいた証明が必要です

「答えはない」ことの論理証明があるのであれば それは一つの「答え(真理)」ということになるのです



物事を考えたからといって 答えに辿りつけるかどうかはわかりませんが

疑問を持たなければ「論理的根拠のない身勝手な答え(実証不能の観念)」を鵜呑みにしてしまうことになるのです

それは妖怪悪霊の類いを信じているのと同じことであり 到底哲学とは言えません



「闇もこちらを見ている」とゾロアスター教の預言者は言いました

ヒトの恐怖心を煽ることで 他人の論理検証性を阻害させることは詐欺師の常套手段です

ヒトの多くは恐怖心を煽られると 感情の方が優先されてしまい 自発的に論理検証する冷静さ(理性)を簡単に喪失する先天的習性があるからです

ナチスが600万人ものユダヤ人を殺害したのも 民族存続が脅かされるかもしれないという恐怖心を煽られたからです



暴力的であることを 大衆観念上では「胆力のある屈強な人物」だと思われていますが

実際の暴力者というのは 恐怖心が激しく 物凄い「ビビリ」なのです

ヤクザや糞DQNが暴力に依存するのは 本人が暴力的な相手に逆らえないことから 暴力的でさえあれば全てが解決するという観念にとらわれているからです

熊は凶暴ですが 実は非常に臆病な動物で

やたらと凶暴な犬も 実は服従対象を見失うことで生ずる不安が原因です

ヤクザがにわかに宗教に目覚め キリスト教の牧師や神父になるということが時折ありますが これは一面的には「服従対象に人間性を求めた」という点においてはヤクザよりはマシではありますが

服従欲という先天的習性に突き動かされているという点においては何も変わってはいないのです



実存主義は絶望や不条理というヒトの闇の奥深くを丹念に検証することでもあります

ゾロアスター教の預言者にそそのかされて闇を見ないことにしておけば 絶望も不条理も「感じ」ずに済むので 気分的に安心満足感が得られるでしょう

それこそが哲学からの逸脱なのです

「闇」とは所詮感覚です 「恐怖」という感覚に惑わされて論理客観性を喪失し 実証不能の観念に陥らないように 哲学というものがあるのです

でも 現状の大学では700万円もの奨学金(借金)を学生に背負わせておいて 到底哲学とは言えないニーチェやハイデガーを倫理だと教えているのです

バカな学生なら単位成績だけが目的でしょうから 教えられたことが嘘であろうと就職などの生活の安定にさえ役立ちそうなら 何の疑いも持たずに鵜呑みにすることでしょう

そうやって学力成績の高いバカを大量生産している商売が 現状の教育機関の実相なのです



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迷言

2019年05月24日 14時25分11秒 | 意識論関連
答えに辿りつけるかどうかはわからなくても 「本当にそれで良いのかな?」っていう疑問は常に持ち続けなければならない

「名言」などと称して その場限りに何か真理を知覚したかのような錯覚に陥って満足することで 哲学からの逸脱が始まるのである

原田まりるが どんなにフリードリヒ:ニーチェを読んで「カッコいい」だの「センター性がある」だの述べたところで これらは全て原田の個人的感想であり 主観的観念でしかなく

論理客観的な根拠に基づいた真理とは無関係であり 哲学ではない

亀山郁夫がフョードル:ミハイロヴィチ:ドストエフスキーを読んで 脂汗をタラタラ流しながら興奮して主観的感想をいくら述べても 社会的には糞の役にも立たないのと同じことである



ヒトという種の生物は どうしても論理客観的論証よりも その場限りに気分が良くなる話を信じ込んでしまうという先天的習性(欠陥)があり 糞の役にも立たない「名言」の類いで脳が酔いしれ 虜になり それを論理客観的根拠のある真理だと錯覚する傾向が激しい

マイケル:サンデルは やたらとトロッコ問題を取り上げたがるが トロッコ問題というのはそもそも答えが出せないよう制限拘束をされた問題であって どんなにトロッコ問題を「考えた」つもりになっても それは「出口のない迷路の中を堂々巡りしている」だけに過ぎないのである

厄介なのは こうした無意味な思考であっても 頭を使って何かを考えたような錯覚に陥り そもそも出口がないことには誰も気づかなくなるという頭の悪さを認識出来なくなることが問題なのである

トロッコ問題というのは 問題自体が制限だらけで その答えが限られている だからサンデルの想定した範囲内での答えしか出てくることはない

出口の存在しない迷路の中を歩かされて 出口が存在しない制限だらけの問題だということには バカ学生の誰も気づくことはない

これは思考実験にすらなっていないのである

哲学というのは そもそもあらゆる制限を取っ払って土台を初めから疑うことから始めることを指すのであって サンデルの講義は最初から哲学から逸脱しているのである

建築を建てる時には基礎の地盤から調査して建てるように 根本的な部分からしっかり厳密に確認することが重要である

自動車事故で子供がすり潰されないようにするためには 糞の役にも立たないトロッコ問題で脳がバカになっていてはダメなのである

「名言」などという表面的な装飾だけで満足していれば 社会的応用性もなく 必然的に安全性も置き去りにされるのである

そういうのをバカという



Ende;
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答えについて

2019年05月24日 10時31分59秒 | 意識論関連
哲学というものは 必ずしも答えに辿り着けなくても構わない

必要なのは「考える」ことであって 「考える」ことを止めてしまうことが危険なのである

ところが ヒトという種の生物というのは 論理的に「考える」ことが面倒で嫌いなため 何かにつけて論理思考を放棄するための屁理屈を鵜呑みにし 主観的感覚こそが正しいことにすることで 簡単に思考停止に陥る先天的欠陥がある

論理的に考えるためには客観性が不可欠であり 客観性がなければ主観的感覚が促す錯覚を認識出来ずに間違った認識を信じ込んでしまうことになるのである

「答えに辿り着けなくても構わない」のだが これを曲解して「考えなくても良い」と勘違いしている東大名誉教授達も非常に多い

哲学というのは「考える」ことであって 「考える」ことというのは論理的に「考える」ことであって 「考えなくても良い」というのは論理的根拠のない身勝手な観念である

哲学の「目的」 つまり「答え」とは真理である

論理客観的真理を目的としている以上 論理客観性に基づいた「考え」以外は哲学ではない

だが 現状の哲学界というのは論理客観性を無視した意味不明の主観的観念の陳列ばかりであり これは哲学ではなく哲学を逸脱したオカルト宗教か何かにしかなっていない



先日のNHKの番組では 「倫理に答えはありません」と断言していたが

「答えがない」という「答え」を出してどうする バカか

どうもマスコミっていうのは文科系大衆観念に自惚れる傾向が強く 論理検証性が抜け落ちた発言が多すぎる

「答え」すなはち「目的」というのは 現状認識可能な知識を基礎にして割り出すものであり 知識自体が拡大したり 或いは改定されたりした場合には「目的」にも
影響を及ぼすものであって あくまで暫定的な「答え」であるということは忘れてはいけないのである

決して絶対永久普遍の静止した「答え」など 有限の脳と知識しか持たないヒトが持てるわけがないことを 自覚する必要がある

こうした自覚がないから優生学などという非科学的オカルト観念を科学だと勘違いすることに陥るのである

フリードリヒ:ニーチェによる超人幻想を 多くのヒトは絶対的解答だと勘違いするのは それが気分(感覚)的に満足出来るからであり こうした感覚が及ぼす錯覚を錯覚として認識出来なくなる原因というのは ヒトの脳が持つ先天的欠陥に起因するのである

人間性としての倫理における安全性と それに付随する持続可能性というのも あくまで現状の知識に基づいた目的であるが 逆に言えばそれを目的だと認識出来ない原因というのは非論理的な観念に基づく身勝手な「答え」によって思考停止に陥っているからである

カントの「純粋理性批判」を読んで 何かを論理的に理解したような錯覚に陥ることで ヒトの多くは論理的思考が放棄できる免罪符になるという勘違い錯覚を得ることで この主観的感覚が促す先天的快楽こそが論理思考を阻害するのである

保守主義者達が信じ込んでいた「理性を超越した叡智」などという話も 論理思考を放棄するのに「都合」が良いからである

心理臨床では こうした身勝手なご都合主義を「合理化」と形容しているが 実際には論理的合理性など存在せず 全然合理的などではないのである

認知的不協和を解消する形で気分が良くなる話の方を信じこもうとするのは 自分という存在が何らかの絶対的保証の上に存在しているという傲慢さによる過信が素にあり

こうした傲慢さは棄てなくてはならない これは「人間」としての義務でもある



Ende;
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犯罪の撲滅に必要なロードマップ

2019年05月22日 14時37分54秒 | 意識論関連
「学習」というと あたかも全面的に「頭が良くなる」ことだと大衆観念的には「思わ」れているが 実はそうではなくて 鳥類のヒナに見られる刷り込み学習というのは 一度親だと思い込んだ相手を疑わなくなる習性であり 思い込みという錯覚を作り出すものでもある

カルト宗教の信者達は一度教祖だと信じ込んだ相手を絶対だと思い込み 疑うことをしなくなる これもまた「学習」の一種なのである

これは 焦りや恐怖心を煽ることで簡単に「学習」させることが可能であり 振り込め詐欺に騙されている人の多くは自分が騙されていることを疑わなくなるのも同じ構造である

ヒトという種の生物は一度思い込んだ固定観念に対して 論理的根拠がなくても疑うことをしなくなる習性がある

ヒトが歴史上幾度となく実証不能の観念を振り回し他人に多大な迷惑(人災)をかけてきたのはこうした感覚が促す錯覚が原因である

錯覚というのは ヒトの脳に先天的に存在する欠陥である




認知的不協和理論は、社会心理学の用語ではありますが、
臨床心理学の防衛機制における「合理化」と類似する概念とも考えられます。


臨床心理学では 気分的に満足安心することを「合理化」と形容しているのだが これが根本的に間違っているのである

気分そのものは あくまで個人の主観的感覚に過ぎず どんなに気分的に安心満足しても客観性のある論理的合理性の論証になどならない

言っておくが 臨床は科学ではない 心理臨床医学というのは 飽くまでも社会生活に適応してれば「正常」なのであって 犯罪者であっても「責任能力がある(正常)」と診断するのである

だから犯罪者に対する更生治療は制度上存在しないのである

懲役刑は犯罪者の更生治療としてはほとんど機能しておらず 半数以上は「治って」おらず 糞DQNは糞DQNのまま釈放されてくるのである



裁判員制度というものは 市民感覚を取り入れることが主旨であり 科学的合理性に基づいた犯罪の撲滅が目的ではない

そもそも司法制度というものは法律規定に触れた者を機械手続き的に処分することが目的であって それが社会安全性や持続可能性にとって有害であろうと司法役人達にとっては「知ったことではない」のである

犯罪や過失などの回避可能だったはずの「人災」が生じた場合 最も優先されるべき事項は再発防止である

刑法懲罰というものは 国家権力に対する恐怖心をもちいた観念的抑圧に過ぎず そもそもなぜ自律的な社会的無責任行動を犯罪者が採らないのかについての論理的原因究明には一切関与しない

観念的抑圧には合理性がない

「バレなきゃ良いや」とか「合法なら他人に迷惑をかけても許される」といった無責任さというものは 自律的な社会的責任判断をする本質的な自己や意識が欠けているのが原因である

犯罪者を取り締まる側の司法役人であっても犯罪を犯すものは出てくるのであって管理者を管理する管理者を 更に管理する管理者が必要となり これは堂々巡りであり 合理性が全くないのである

最も理想的な社会の「目的」とは 本来犯罪者自体を生み出さない社会であり そのために必要なのは人間としての自律的な社会的責任判断能力を より多くの市民が持てるようにすることを「目的」にする必要がある

それに対して司法というのは役に立たない あくまで機械手続き的に「法律を恐怖心を利用して強制的に守らせる」だけだからである

「怖いかどうか」だけで行動が決定していて良いのは子供だけである 子供は知識も少なく 知識を利用するだけの論理的目的行動選択能力も充分に育っていないため仕方のない話であり

一人の責任ある社会人として大人になるまでに自律的に社会的責任判断能力をつけさせるためにも 「怖いかどうか」ではなく 主体的に「どうあるべきか」を
考え選択出来るようにしなければならない

ヒトという種の生物が先天的に人間性が常に発揮出来るわけではない以上 人間性というものは後天的につけさせる必要があり そのためにも刑法という国家権力による恐怖心を用いた観念的抑圧は有害性しか発揮しないのである



現状の市民にとって 司法判断というものは あたかも絶対的で唯一の完全無欠の対策だという思い込み(錯覚)により 洗脳状態に陥っているのである

司法というものが実質的には社会にとって有益であることの論理的根拠があるのかどうかを 誰も考えてこなかった

それは 社会的には非常に無責任なのだが ヒトという種の生物というのは無責任が多数派なら責任が薄まるという感覚(錯覚)によって 問題の根源(真理)が見えなくなっているのである



 ◇

犯罪者にはなぜ自律的な社会的責任判断能力がないのかと言えば そもそも生育環境において自発性や主体性を発揮させてもらえなかったからである

自分が主体的に好きで自発的に行うことを許されずに育つと 自分で物事を判断する能力が育たなくなってしまう

すると 判断基準が全て他人という環境依存になってしまい 行動選択の全てが「怖いかどうか」だけでしかしなくなってしまうのである

自発的で主体的行動選択をしていれば ヒトというのは大脳容積によって自然と自己客観性や それに伴う論理検証性も発揮出来る可能性があるのだが

生育環境下において恐怖による抑圧ばかりを受けて育つことにより 本来ヒトが持っているはずの人間性をも抑圧してしまうことになるのである



「虐待の連鎖」という現象があるが 虐待の程度の差こそあれ こうした現象というのはスペクトラムであり

あからさまに「熱湯をぶっかけた」だとか「裸で浴室に長時間放置した」などといった極端なものでなくとも 子供の主体性を蔑ろにするような行為も広義の意味では軽度の虐待になり 人間性の欠落の原因となる

親が子供に学力競争を強要するのは ある種の強迫観念が原因であり 「それさえやっときゃ 全ては解決する」という盲目的観念に基づいた条件反射的行動である

子供にはそれぞれ個性があり 多数の子供が普通に出来ることが特定の子供には全く出来ない場合があるのだが そうした個人の個性を無視して とにかく「学力さえ高ければ良い」という非合理な実証不能の観念によって 不得手なことであろうと強制してしまうことになるのである

これが「無意識」というものである

本当に子供の将来のことを考えた場合 その子供が得意で 他の子供には出来ないような特徴があれば それを見極め 伸ばしてあげた方が過当競争にならずに済むのだが

ヒトというのはどうしても他人と同じことばかりで競争をしようとする習性があるため コンビニが流行ればコンビニばっかりが増えて過当競争になって 逆に苦しむ事態に陥るように 合理性のない無駄な競争に疑問を持たなくなるのである

先天的に文字を読むことが苦手な子供というのもいて 酷い場合には全く文字として認識出来ないこともあるという

にも関わらず 多数派と同じことが出来ないことに恐怖心を抱き 無駄な努力ばかりを強要し 結果的に本来持っているはずの得意なことを阻害し さらには自律的な社会的責任判断能力までをも失わさせてしまうのである

それでも多くの親達は それを無責任だとは「思って」はいない それは自分の「感覚」を絶対的なものだと錯覚しているからである

 ◇

「一体 何を信じれば良いのかわからない」と言い出す者は多い

これは そもそも「信じる他人」を選んでいるだけであって 自律的判断選択能力が欠如している証拠でもある

何が正しいのかは 最終的には自分自身で論理客観的に検証することであって 「誰を信じたい」のかという主観的好き嫌いでは到底主体的判断とは言えないのである



Ende;"
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ブツリキーボード

2019年05月21日 09時43分17秒 | 日記
エレコムの静音キーボードっての買ってきたんだけど

今まで使ってた東芝Androd2.2よかキーストロークが深くて慣れるまで軽い地獄かも

キーピッチは全く同じなんだけど 指が攣りそうだわ

コジマで税込み4082円だった

https://www.elecom.co.jp/products/TK-FBM093SBK.html

ペアリングは簡単だったんだけど

急に英数しか打てなくなってハマったら CapsLockがかかってた

CapsLockにランプがないのね

CapsLockのキートップ外してマステ貼ったったわ




Andoroidだとキートップの表記と入力が違ってしまうので

『ELECOM Keyboard layout』っていうをインストールしたんだけど

設定がわからなくて しばらくマヨった (キューピーじゃないよ味の素だよ)

「設定」ー「システム」ー「言語と入力」ー「物理キーボード」ー「Google日本語入力-日本語」から

「日本語エレコムキーボード」を選ぶとキートップの表記と入力が揃ったわ

「日本語109A」ってのもあって これでもほぼ大丈夫そうなんだが

まさか『ELECOM Keyboard layout』をインストールする前からあったのかしら

一旦アンインストールしてみればわかるんだろうけど ややこしいので誰か試してみて



で 話は終わりではない

システムを起動する度に物理キーボードの設定をし直さなきゃならん

どうやらAndroid8.1って不要なファイルを片っ端から自動的に削除する機能があるらしいんだけど

物理キーボードの設定までもを削除しちまうらしい

若干厄介(いや 大丈夫なときもある ようわからん)



Ende;"
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たまごギフト券

2019年05月20日 12時22分44秒 | 日記
"たまご買ったらたまごギフト券が当たる懸賞のお知らせが入ってた

https://r10.to/0602

この変なURLを入力すると別の楽天のサイトにリダイレクトされる

https://lgns.rakuten.co.jp/dist/doc/html/f3f1b7fc5a8779a9e618e1f23a7b7860/9f0033da7cda94783e85bdc94fe07481/sp/input_step1_data_1.html





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test02

2019年05月20日 10時09分02秒 | 日記
まっつくさんの1/12Scaleレジンフィギュアが出とった





しかもまさかのハセガワから



メモ帳上だと英数入力の状態で半角スペース押しても改行しちまうんだけど

そのまま強引にアップロードすっと半角スペースとして認識される


◇ 追記:アプリ上でも一緒だわ


直販しとった


送料700円なので まとめ買いがお得



DMMでママチャリも売ってた


一万円 勇気いるわ




Ende;
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bluedotの端末買ってみた

2019年05月19日 12時44分55秒 | 日記
ブルードットの端末買ったんだけど
近所の信用金庫から振り込んだら手数料が432円とられた
ブルードットの口座が三菱東京UFJ銀行なので三菱東京UFJ銀行で振り込めば手数料は216円で済む

で 使い勝手はどうなのかと言えば
ちゃんと使えている
最近のソシャゲ的なものを使う人には非力らしいが
ブラウザとメモ帳くらいしか使わんオイラにゃ何の問題もない
まあ 仮想キーボードが辛いので 外付けキーボードが欲しいが
ブルードットではキーボードの扱いがないのでヨドバシで探そうかな



Ende;"

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○哲学とは何か。

2019年05月16日 22時47分01秒 | 意識論関連
遺伝的進化というものには目的関数のようなものはないんですね

かつて大型のサルに過ぎなかった生物が ヒトという種の生物に「進化」した過程においても目的関数のようなものが介在していないわけです

チンパンジーのようなサルが 「ヒトになりたい」という目的に基づいて 意図目的のために意識的に自らの遺伝要素を都合良く書き換えることなど 構造原理的に不可能であり

進化の全ては意図目的の介在しない「結果」であって どんなにたくさんの「結果」を抽出枚挙したところで それが短絡的に意図「目的」の論証には一切ならないわけです

サルがヒトに進化したからといって ヒトがヒト以上の何者かになる必要性も 特に目的もないんですね

しかし構造主義は 結果と目的の区別をしません 構造という「結果」こそが絶対だからです

結果原理主義と言い換えても良いでしょう

だから進化万能論や それに基づいた優生学が暴走することになった

ハードウェアとしての「ヒト」が どのようにして「人間性」を発揮出来るのか それは遺伝的進化のメカニズムとは全く異なる意識的な合理性に基づいた目的行動選択の中にあるのであって

ハードウェアとしての「ヒト」に先天的に組み込まれてもいなければ 組み込まれた生物への遺伝的進化の必要性もない

人間性というものは 個人の自発的な客観的論理検証性に基づく意識的「目的」行動選択によって発揮されるものであって ヒトという種の生物の環境依存的な先天的本能習性という「結果」が発揮するものではない



ヒトの脳というものは 誰かが「目的」のために作ったものではなく あくまで結果的に生存にとって有利な行動バイアスを持った個体が死なずに生き残った「結果」である

だから 先天的本能習性には「目的」がない

遺伝的進化のメカニズムの中には そもそも目的関数のようなものは存在していないのに どうしてその結果が短絡的に目的であるかのように信じ込まれているのか 訳がわからない



ヒトの脳が知覚する感覚には 時折錯覚が生じます

感覚が促す認知的不協和を解消する形で ヒトはしばしば事後正当化の言い訳言い逃れ取り繕いはぐらかしをしようとします

その方が気分が良いからであり そうしないと気分が悪くなるからですが

こうした気分の良し悪しというのは 先天的行動バイアスが促す「結果」であって そこに意識的な「目的」行動選択が介在する余地はありません



ヒトという種の生物は 先天的に実存主義を忌避する習性があります

実存主義というのは不条理性をも受容しなければならず

先天的な「感覚」とは乖離した客観的論理検証が必要不可欠なため 自己の主観的感覚の全てを一旦手放さなければなりません

それが気分的「恐慌」を齎(もたら)すため 文科系大衆の多くは論理検証というものを何が何でも「悪いもの」にしておきたがる習性があります

「理性には 利己的利益追求の側面がある」などという嘘を鵜呑みにすることで 主観的感覚が促す気分的には安心して「論理検証を放棄しても構わない」という錯覚を促すからです

論理検証というのは とても緻密精密厳密さを必要とする面倒臭いものであり 決して気分が良くなるわけではありません

キェルケゴールやサルトルを好きだと言う奴がいないのはそのためです

絶望や不条理を好きな奴なんぞいません そもそも嫌いなことに対して絶望とか不条理を「感じ」るのであって これは必然です

「哲学には好き嫌いがある」と言うバカがいるが そりゃそうだろ だから何だ?

個人が主観的に好き嫌いがあるものなどというのは 何にでもあるものであって それは客観的真理とは無関係であり

そもそも哲学というのは主観的に好きなものを追求することを指すのではなく

客観的な論理的真理を追求することを哲学と言うのです

それを 一体何をどう勘違いしているのか知らないが 主観的に「好き」だの「カッコイイ」だの「素晴らしい」だの「センター性がある」だのという個人的感想の陳列を哲学だと勘違い錯覚しているバカの 何と多いことか!



ハイデガーを読んで交番を襲撃したバカがいたが ハイデガーというのは主観的な悩みや気分的憂鬱をはぐらかすことで解消する方法論を陳列しているだけであって これは哲学とは到底言えない大衆迎合(人気取り)である

主観的な悩みや気分的憂鬱をはぐらかして解消することは 哲学(真理の追求)ではない

だからこそハイデガーはナチス政権に同調迎合したのである

そこに真理がないのは 当たり前の話である



Ende;
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