書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

○錯覚。

2015年12月30日 11時19分34秒 | 意識論関連
吊橋効果っていうのがあるじゃんか。

ドキドキしているから好きなのか、それとも好きだからドキドキしているのかが、その場ではよくわからないっていう錯覚の一種ね。

もしかすると、DV男と一緒にいると、いつ暴力を振るわれるのかわからないという緊張感からくるドキドキを、好きという感情と錯覚しているんじゃないだろうか。

あと、殴られるマゾヒスティックな快感と性的快感がゴッチャになっているとか。

気分感情というものを短絡的に意識とか自由意思だというアプリオリな錯覚を鵜呑みにしているから合理性のない不毛な行動をヒトは採るんだと思う。

よく若い女子が男を変態だ何だと形容したがるケースは多いけど。DV男に固執しているのは充分変態だからな。

Ende;
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○動物的行動「学習」。

2015年12月28日 13時47分42秒 | 意識論関連
腰痛がDLPFC(背外側前頭前野)の不活性による幻の痛みが原因で、認知行動療法で改善するケースが多いという。

幻の痛みというのは、観念的な恐怖心が産み出すものなんだそうで。痛みが幻であることを認知させることで恐怖心を解くことで無駄な恐怖心をなくすことで大部分の人は腰痛の改善が見られるらしい。

幻というのは、要するに錯覚の一種であると言える。

何度か経験した痛みによる恐怖体験が、脳に恐怖心を「学習」させてしまうことによって、本当は痛くないにも関わらず「痛いはずだ。」という恐怖心によって、かえって悪い姿勢をとってしまうために、筋肉痛などの関係のない痛みが生じて、さらに姿勢が悪くなってしまうというスパイラルに陥ってしまうのだろう。

「学習」というと、文科系大衆観念的には「頭が良くなること。」だと短絡的に思われているようだが。薬物依存なども脳が快楽を「学習」してしまうことなのである。

刑法懲罰を「解決」であると安心して、それ以上何も考えなくなってしまう性質も、ある種の「学習」による行動バイアスが作り出した思考停止である。

ISILやヤクザなどのオカルト暴力集団に対する盲目的に信頼してしまう構成員の行動というのも、一種の「学習」によって作り出されているのであって、「学習」というものは、一般的に思われているような「絶対的に頭が良くなること」だけを指しているわけではないのである。

学力偏差値が高い割には、教えられたこと以外何も気付かない人というのは珍しくはない。ISILや通り魔の中にも学生時代に学力偏差値が高かった人というのは少なくなく、そもそも学力偏差値を短絡的に知能の絶対基準か何かだと信じ込んで全く疑わない思考停止も、文科系大衆観念上における「学力偏差値=頭が良い。」という認知科学的にも根拠のない話を鵜呑みにしている結果である。



ヒトの多くは、長い間一度も疑うことなく受け入れて来てしまった事柄に対して。それを疑うことを全くしてこなかった自己を事後正当化する形で、無意識に現実認識を拒絶してしまう性質があります。

これこそが「洗脳」状態の盲目性の基本原理です。

ですから、洗脳状態というのは、あからさまなオカルトを信じ込んでいる人に限ったことではなく。むしろ一般大衆の多くは何らかのオカルト性や盲目性を持っており、軽い洗脳状態は誰もが程度の差こそあれ陥っているものであると考えるべきなのです。

振り込め詐欺の被害者の大半が、自分が騙されるまでは「自分だけは絶対に大丈夫。」だと、合理的な根拠もなく盲目的に過信しているというのも、ある種の洗脳状態が作り出した盲目性であり。その盲目性のスキを振り込め詐欺は突いてくるのです。

「長い間自分は騙されたことがない。」という経験則に基づいた過信というのは、科学的な立証にはなっていません。それこそがカールライムンドポパーの提唱した「白いスワン」の例えに他ならないからです。

白いスワンをどんなにたくさん集めて来ても、それは「スワンの全ては白い。」ことの論理証明には全くなっていないという例えです。

経済心理学の分野においても、「人は長く続くことは、永遠に続くものであると信じてしまう性質がある。」ために、危険な金融商品やギャンブルにハマってしまい、抜け出すことが出来なくなってしまう原因として挙げられています。

しかし、そもそもなぜ、いちいちポパーが「白いスワン」を例えなければならないのでしょうか。それこそがヒトという種の生物の脳が先天的に持つ思考バイアスによる錯覚が存在するからなのです。




刑法懲罰を「解決」であるという、社会的合理性のない社会制度に依存している現代人の多くの盲目性こそが。ISILや暴力団などのオカルト暴力集団を産みだしている原因であると言えます。

刑法懲罰というのは、構造的に罪に対する罰という暴力の応酬でしかありません。

言い換えれば、「悪い奴には圧倒的暴力による罰を与えて抑圧しておけば安心だ。」という、ヒトという種に普遍的に見られる短絡的かつ最終的解決方法への依存性を「学習」してしまっているが故の結果であり。

こうした短絡性を絶対正義であると仮定すれば、「それなら、圧倒的暴力を用いて自分が権力者の立場になれば、全ては欲望のままに行動可能である。」という結論に至ってしまいます。

こうした一般人が持っている短絡性が暴走したものが、ISILとか暴力団、通り魔の行動原理なのです。



自律的な社会的責任判断が喪失する原因として、虐待の連鎖を例に挙げてみましょう。

虐待をされて育った人が、自分の子供にも無意識条件反射的に虐待を繰り返してしまうのが「虐待の連鎖」ですが。無意識に「虐待をしてしまう。」という行動の原因は、その人の成育環境に原因があるとも言えるわけであって、実際に子供に物理的被害が及んでから「自己責任」だとして全てを個人の責任に丸投げしていたのでは、虐待の連鎖は一向に改善することはありません。

「社会の中で虐待が放置されていた。」というのは、法律上は違法性がありませんが。それによって被害が減らないとか拡大してしまうという事態において、法律上違法ではないから、全ての責任が一切存在しないという話にはならないはずです。

法律さえ守っておけば、人間性が証明されるわけでも。社会安全性や持続可能性が保証されるわけでもありません。

ブラック経営者や脱法ドラッグなどの、社会的に無責任な行動というものも、合法的な反社会的行動であると言えるのであって。それと同じで虐待の連鎖も虐待を放置した社会にも一定の責任は存在すると言えるのであり、それを短絡的に刑法懲罰だけで「解決」であると見なしてしまうことは、社会的無責任さに目をつぶっていることになるわけです。

先天的に物事を冷静に考えることが出来ず、どうにも手に負えないような個体差があるというのであれば、これは精神病棟にでも入れておかなければならないでしょうが。ISILとか暴力団の異常性や病理というものは、現在の医学の範疇には入っておらず。むしろ現在の進化生物学上では本能的な社会形成習性による「コミュニケーション能力の高さ」を発揮することで、彼らの組織集団内部においては「うまく機能している。」とも言えるわけです。

こうした集団組織の利益を追求するメカニズムというのは、オカルト暴力集団に限ったことではなく、ナチス政権下のドイツでも、終戦前の日本帝国においても、東京電力や東芝社内においても発揮されていたものであり。ヒト全般に普遍的に存在する傾向性に因るものなのです。

文科系大衆観念的には、「時代が悪かった。」などという、反証不可能な非科学的帰結でごまかそうとしますが。そもそも時代に左右されてしまうという意識の低さ、意思薄弱こそが社会を崩壊へと導いたのであって。それを時代や社会のせいにしてしまうこと自体が無責任極まりないのです。

大衆の多くがこうした無責任で無為な行動を採ってしまうのは、無力性を「学習」してしまった故の結果です。

文科系大衆観念的には、先天的習性や後天的に「学習」されてしまった無意識な行動には短絡的に「逆らえない。」などという、バカげた言い逃れ、取り繕い、はぐらかし、ごまかし、嘘を、ほとんど条件反射的高速に言い出す人が大半です。

その原因こそが、大多数の大衆の意識の低さ(自律的論理検証性の欠落)に由来するものなのです。

なぜ高速なのか、それは実質的には「何も考えていない。」からこそ高速に反論可能なのです。

言語発話機能などと同様に、無意識条件反射な運動機能と同じで、口や喉の形や息の量などをいちいち考えなくても話が出来ることと同じように。ヒトの意識の大部分は自律的な論理検証を一切せずに、機械的条件反射で無意識に物事を判断しているからこそ、ヒトの大半は無為で無批判な「凡人」に甘んじているのです。



大衆の多くは単に無為な傍観放置をしている人が大半ですが、中には学力成績の高さを短絡的に「自分は天才だ。」と勘違いして、どこぞの病理診断医が述べたように、「権威の査読がない。」ことを根拠に自律的判断を放棄する無責任な言動も、条件反射的な無意識が促した拒絶反応の顕れです。

京都大学の学長という権威が嘘をついている(若しくは大きな間違いをしている。)ことを批判しているのに、どうして「権威の査読」が有効だと言えるでしょうか。アホくさくて語るにすら足りません。

口をついて反射的に思いつく言葉の大半は、論理検証性を持たない「思い込み」です。 感情的になって条件反射的に高速に何かを主張している時ほど、冷静な論理的検証を欠いた観念に過ぎないかも知れないという慎重さを持つ必要があるのです。しかし、ヒトの多くは即座に何かを主張した方が「頭が良い」といった観念を持っており。自信たっぷりに主張してさえおけば論理的に正しいことであるかのような錯覚にも簡単に陥る習性があるため、高速で自信に満ちた主張でありさえすれば、短絡的に信じ込んでしまうのです。

時間をかけてゆっくり導き出した答というものに対しては、大衆マスコミの多くは観念的な「説得力」を「感じる」ことが出来ないために。逆に高速で自信に満ちた主張の方を正しいと錯覚してしまうことが多いのです。

自分の中に既に組み込まれてしまった思考拘束の殻の中に閉じこもっていた方が、ヒトの多くは「楽」に違いないでしょう。自分の頭の悪さを一切認識せず、気に入らない相手を条件反射的に見下して誹謗中傷しておけば、その場限りには満足で安心なのかも知れません。

どこぞの病理診断医に限らず、そもそも医者というのは学力成績が良くなければなれない職業であるために、学力成績を短絡的に「頭が良い。」と解釈して何の疑いも持たないバカであれば、「象牙の塔」に閉じこもるパタンも少なくないのは必然的結果だと言えるでしょう。

自律的な論理検証を全く放棄しておいて、権威の査読に頼った盲目性を発揮して「マジメな科学的議論」だと思い込んでいること自体がバカ丸出しであることを、大衆の多くは認識していません。

科学と偽科学を区別出来ないというのは、社会安全性や持続可能性にとって重大な影響を与える可能性を持っています。

進化の過程で起こったことの全てに対し、事後正当化の屁理屈をこじつける現在の進化生物学の文脈に何の疑問も持たない頭の悪さから派生した「ヒトという種の生物=人間」という根拠のない文科系大衆観念の方程式を鵜呑みにしている無為な傍観放置をしているからこそ、人類はISILのようなオカルト暴力集団の蔓延をも許してしまっているのです。

通り魔がなぜ合理性の全くない暴力行為を「解決」だと見なして行動するのか。それは、普通の多数派一般大衆が「犯罪者には罰を与えて解決だ。」という短絡性と全く同じものであり、こうした短絡性が基になって通り魔のようなバカが出て来るのであって。その原因というのは一般大衆の頭の悪さや意識の低さがもたらした必然的結果でもあるのです。

人生経験の浅い幼児であれば、「道路に飛び出したら親に怒られるのが嫌だから、道路に飛び出さない。」といった短絡的行動原理でも仕方ないでしょうが。しかしこれは個人が自律的な社会的責任を負う一人の大人、一人の社会的人間としての行動規範にはならないのです。

中東由来の一神教における「神がいないのであれば、何をしても許される。」などという話も、結局は「アメとムチ」的な条件反射的行動原理に基づいた、子供じみた正義でしかありません。

社会安全性や持続可能性に価しない行動を個人が採ることにおいて、神などの他人が「許す」かどうかよりも、自分が生きるに価する社会とはどういう社会であるべきなのかという理想に基づいて導きだせば、自ずと何が「正しい行動選択」であるのかは認識可能なのであって。「戒律を破ると地獄に落ちるから、やらない。」といった子供じみた行動原理だからこそ、自分達と異なる価値観の他者を受けれない心の狭さをも発揮するようになってしまうのです。

そもそも「地獄に落ちるから。」などというのは、個人の利己性に基づいた行動原理ですから。社会安全性とか持続可能性への配慮が失われるのも必然です。

イスラム教の戒律であっても、法律と一緒で戒律の主旨こそが重要であって。「戒律さえ守って自分が天国に行ければ、この社会がどうなろうと知ったこっちゃない。」といった無責任な聖戦の安売りこそが、社会を破綻に陥れてしまう原因なのです。

宗教に限った話ではありませんが、自分が所属する組織集団を正当化することを目的にしてしまうからこそ、宗教が本来目的としているはずの平和が蔑ろにされるのでしょう。

それは東京電力が組織の利益を優先し、社員個人が自律的な社会的責任を負わなかったことと同じ構造なのです。



ことほど左様に、ヒトが無責任な行動を取る構造というものは、宗教でも企業でも子供のイジメであっても構造的にさしたる違いはありません。要するに感情が促す無意識な行動バイアスに流されているから、合理的な行動選択を採らなくなってしまうのであって、本当に大切なこととは何なのかを、無意識が促すバイアスに左右されずに考えていれば、自ずと人間として正しい判断は可能となるはずなのです。

しかし、ヒトの多くは成育環境によって無意識な行動ばかりを強要するような一種の因習による洗脳の「連鎖」をしてしまっているために、無意識な思考バイアスが促す錯覚を、錯覚であるとすら認識出来ずに目先の感情に流され、有効な行動選択が出来なくなってしまっているのです。



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○大衆観念。

2015年12月28日 10時34分25秒 | 意識論関連
自己犠牲を短絡的に人間性であると規定するのは、あまりに短絡的な文科系大衆観念である。

文科系大衆観念上では、命懸けでさえあれば個人にとっての一大事であるという、極めて主観的価値観だけを取り上げて、まるで社会的価値であるかのような形容をしたがるが。これは個人の主観的価値観と社会的価値との明確な区別が出来ていない身勝手な妄想に他ならない。

戦前の日本における特攻隊を、事後正当化する形で「英霊」などと形容し、あたかも「特攻隊が命懸けで日本を守ったから、今の平和がある。」などという支離滅裂な話をしている限り。イスラム過激派の自爆テロの構造的間違いを指摘することも出来ない。

こうした文科系大衆観念的な妄想や錯覚の類を傍観放置しているからこそ、ISILや暴力団などのオカルト暴力集団の原因までもが「わからない。」ことにされてしまっているのである。

ヒトの多くは、その場限りに気分的安心満足さえ得られてしまえば、あたかも結論や解答であるかのような錯覚に陥り。それが本当に正しい見解であるかどうかを精査する論理検証性を自律的には全く発揮しなくなる性質がある。

しかも、それが多数派を占めている場合。多数派に同調する形でさらに安心して何も考えなくなってしまうのである。



暴力を用いた短絡的最終解決策というのは、その場限りの気分的安心満足をもたらすだけで、合理的な社会安全性や持続可能性につながるような具体性を持った合理的な対策や制度の構築には全くならない。

それはイスラム過激派であろうと、ナチスによる最終解決であろうと、通り魔であろうと、特攻隊であろうと、刑法懲罰であろうと同じことである。

自分達がハムラビ法典の間違いを認めずに、ISILや通り魔の最終解決法だけを「間違いである。」と指摘することは論理的に出来ないのです。




京都大学の松沢哲郎が、行き当たり場当たりに非科学的嘘を陳列していても、マスコミも大衆の多くもその嘘を傍観放置して安心満足しているが。こうした嘘がまかり通っているからこそ、刑法懲罰制度の不毛さも放置され、通り魔の行動論理も検証されず、結果的にISILや暴力団の行動論理の間違いも論理的に指摘出来ないというバカげた事態に陥っているのである。

「チンパンジーの行動習性から、人間としての社会性が立証出来るかも知れない。」などという話は、大衆観念的には安心で満足かも知れないが。これは構造原理的に立証不可能性が証明されている嘘でしかない。

後に松沢は、これが立証不可能であることを知ると。今度は「想像力があるから人間なのかも知れない。」などという、ほとんど行き当たり場当たりな嘘の上塗りで大衆マスコミを撹乱している。

振り込め詐欺師が被害者を騙す時には、詐欺師は「どうやったらカモを騙せるだろうか。」という想像力を存分に働かせているのであって。想像力というものは短絡的に人間性の論証になど一切ならない。

文科系大衆観念上においては、カントの純粋理性批判を鵜呑みにし、「理性には利己性の側面がある。」などという嘘によって、理性というものの本質を撹乱し、従来の文科系大衆観念を事後正当化することによって、従来の学界体制を維持することばかりを追求しているのである。

利己性というのは、欲望の産物であって。理性の産物ではない。理性が欲望によって利用されることはあるが。それは欲望主体の行動であって。本当の人間性というのは、その場限りの欲望に左右されない理性によってこそ成立するという厳然たる論理的証明をも蔑ろにする大嘘である。




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○学習性因習行動バイアス。

2015年12月26日 13時00分37秒 | 意識論関連
経済学っていうと、どうしても金儲けを目的とした考えに偏りがちなようだけど。経済っていうのは個人の利己的利益追求が目的ではなくて、「経世済民」(世を経て民を救う)という言葉の略であって。経済の目的っていうのは社会全体の安全性とか持続可能性を目的として考えるべきものなのです。

こうした考え、目的意識というものは、経済学に限らず様々な学問において持たなければならないものであって。「進化生物学だから考えなくて良い。」といった例外は認められないのです。

少なくとも公的資金で研究をしているなら、なをのこと。



そういえば放送大学では「技術者倫理」なんつう科目があるけど、倫理って特定の技術者だけに必要なものではなくて、ヒトとしての社会的責任や人間性の基礎なんだから、これは全ての人が持たなきゃいけないものなのであって。大学の科目というよりは、むしろ義務教育課程に組み込むべきものなんじゃないかとすら思う。

「道徳」だとかいう不毛な科目要らんわ。 クソの役にも立たないだろ。

多分、子供が自律的に何が重要なのかを考え出したら、従順に教えたことだけを忠実に守る簡単なバカではいてくれなくなって面倒臭そうだとか教師が思っているから、不毛な「道徳」教育でごまかしているんじゃなかろうか。

いや、これは陰謀なんかじゃなくて。単なる手抜きとか怠慢ですよ。

子供の頃には、大人の言い付けさえ守っておけば、頭の良い大人達が自分達の将来を保証してくれているんじゃないか的な勝手な妄想や期待を抱いていたような気がする。

でも本当は、単に手抜きで権威性を振り回して服従させていただけであって。誰も責任なんぞ取るつもりもなかったというのが事実でした。

政治家達なんて、その場限りの大衆迎合で票を集めて安定的に政治家職を続けたいだけであって。別に社会安全性だとか持続可能性といったものを目的にして物事を考えているわけではないですし。

親だって、どうせその場限りの欲望のままに「出来ちゃった」から育てているというのが大半なんじゃないかと思う。

まあ、それでも子供が出来てからでも子供や、子供が生きるに価する子供達の将来に考えが及べば良いんですけどね。何も考えなければ「勉強しなさい。」しか言わないでしょうね。




以前NHKの番組か何かで、ニワトリをヒヨコから育てて最後に首を切り落として唐揚げにして食べるっていう授業のドキュメンタリーを見たことがある。

でも、子供によってはずっと育ててきたニワトリを殺して食うっていう現実に耐えられない子もいたりしたんだけど。それは強制しちゃいけないとも思ったね。

そう考えると、教育っていうのは子供の自主性を重んじるなら、子供自身の好き嫌いを許容する必要もあるんじゃないかな。

子供によってはコンピューターゲームが好きなら、ゲームプログラミングを学ばせるとか。虫が好きなら危険な虫や植物の知識を学ばせておけば、勝手に子供達は興味を持って学び始めるんじゃないかと思うのだ。安全性は重要だからね。

何か、教える側の都合上、学力偏差値が数値として出せないような自由な教育だと教師の方の評価が得られそうにないから、予め決められた同じ学力基準だけを競わせようとしているとしか思えないのが嫌。

いうなれば、教師の評価のために生徒を食い物にしていることだからね。

それって、年金の運用益で評価を得ようとしている役人と一緒じゃん。

教師の場合、生徒の学力偏差値さえ上がればそれで評価として成立するけど。果たして学力偏差値が高いからといって、その子供が社会的な責任を自律的に負うような、人間的に立派な人に育ったのか。それとも自暴自棄に通り魔になっちゃったのかの責任は一切負わないよね。 それっておかしくないかな。

通り魔とかテロリストになるような子供を育てちゃった学校なら、それも学校の評価成績として扱わないといけないんじゃなかろかと思うのだ。

たとえ合法的であってもブラック経営者とか、DV男やDV男に貢いじゃう女の数とかも、学校の評価に入れないといけないんじゃないかと思うよ。 じゃなきゃ学校としての社会的役割が全く機能しないでしょ。

学校や親がバカを大量生産しておいて、社会的負担が増えても「知らないよ。」っておかしくないですか。

それで犯罪が起きたら刑法罰で「解決です。」って。 何か社会制度として穴だらけじゃないですかね。




ヒトの多くは、「いままでずっと続いている事物。」に対して、合理的根拠もなく安心感を抱く習性があります。

どんなに不毛でクソの役にも立たない社会制度や因習であっても、子供の頃からあったものは、それを「普通」であると信じ込み、誰も疑問に思わないことは自分も疑問として認識しなくなる性質があります。

そこでふと思い出すのが学習性無力感(回避困難なストレスが継続すると逃れる努力をしなくなる)という現象です。

脳の性質と言っても良いでしょう。

子供の頃から「悪いことをしたら警察に捕まって罰を与えられる。」と教えられて育った子供が。「法律さえあれば、社会は安全だ。」的な合理的根拠のない妄想に囚われている結果として、法律に過剰なまでの依存をしているからこそ、個人の自律というものへの重要性が後回しにされているのではないか。

犯罪というものに対しては、国家権力による懲罰だけしか有効ではないという、合理的根拠のない無力感のようなものを動物的に学習してしまっているからこそ、刑法への過剰な依存が生じ、結果として刑罰以外の原因究明とか再発防止策への思考が停止してしまっているのではないか。

そうでなければ現在のような不毛な司法刑罰制度だけで「解決」と見なしている無為性の説明がつかないでしょ。



ことほど左様に、ヒトというのは物事を考えないようになるバイアス、言い換えれば「バカになろうとするバイアス。」が先天的に存在していて。バカになっていた方が安心なのは確か。

酒や煙草といった薬物で脳を麻痺させようとするのも、物事をマトモに考えようとするとストレスを感じてしまう故の行動なんじゃないかな。

というか、何が「考え」で何が「知らぬ間に植え付けられたバイアス」なのかを厳密に区別することに慣れていないだけなんじゃなかろうか。

とは言っても、子供の頃から慣れ親しんできた事物である以上、虐待と一緒でそれがその人の「普通」になってしまっている以上、その思考バイアスの殻を破るというのは個人差はあれ難しいのかも知れないね。

でも難しいからやらなくて良い理由にはならないので、分数の割り算なんかよりも義務教育で優先的に教えなきゃいけないんじゃないかと思うよ。



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○ゴリラの自覚。

2015年12月26日 11時07分47秒 | 意識論関連
某動物園において、「暴君だったゴリラに群れのリーダーとしての自覚が生まれた」なんつうのは進化生物学特有の大衆迎合的嘘です。

子供が出来たことによって、脳内物質のバランスが変化したことで行動が変わったからといって、これを意識的自覚のようなものだと「解釈」するのは、大衆ウケが良いのかも知れませんが。厳密に科学的/論理的には証明になっていません。

気分感情というものは、環境依存的に影響を受けて様々に変化します。たまたま子供に恵まれて気分的に落ち着いた行動を採るようになったからといっても、それは先天的本能習性の「結果」でしかありません。

東京電力社内で原発の危険性を放置したのは、技術者としての自覚がなかったからですが。先天的本能習性としては、組織集団の利益を優先し、自律的な社会的責任を放棄しても、個体の組織内での立場を守るためには「合理的」だと言えるわけです。

ヒトという種の生物は、先天的な社会形成習性が促す行動バイアスとして、自分が属する集団組織の利益を優先し、組織の「上」とか「権威」と見なした相手の命令に服従する習性があります。これはスタンレー:ミルグラムによる服従心理実験(通称「アイヒマン実験」)や、フィリップ:ジンバルドーによるスタンフォード監獄実験など立証されている事実です。

環境に依存して行動が決定してしまうのであれば、これは他者と互換不可能な一人の人格の自由意思として意識的かつ自律的に選択しているとは言えません。

ゴリラであれば環境が変われば簡単に暴力性を発揮するでしょうが、ヒトの場合は必ずしも同じではありません。幼い子供を遺して母親をテロで失った父親が、テロリストに対して「憎しみという贈り物は与えないよ。」という選択をするのは、動物的な行動バイアスとしては全く異なるものです。

「やられたら、やり返す。倍返しだ。」なんてテレビドラマがありましたが。嫌な相手に短絡的に報復する話というのは気分的にスッキリするので、大衆ウケが良いので。アメリカ映画ではこうした短絡的報復を題材にした作品が好まれる傾向があるのです。 なんたって「イスラム教徒を排除すれば安全だ。」なんて話を鵜呑みにする国民ですからね。

アイアンマンでもテロリストは問答無用で殺害してましたし、自分の娘を救出するために敵を何百人と殺害してハッピーエンドだとみなす作品も多いですよね。

でも、「報復はしないよ。」なんて話では、フェイスブック上では共感を得ても、大衆映画作品としては成立しないわけです。

残虐な通り魔とかテロリストは短絡的に死刑で報復しておいた方が、気分的には楽で安心なのです。だからビンラディン容疑者を問答無用で殺害しておいて「正義の鉄鎚を下した。」なんてオバマ大統領が発言する。

気分感情的に満足する行動が、社会的合理性があるかどうかの検証が後回しになって忘れ去られてしまうバイアスが、ヒトという種の生物には存在するのです。

こうした気分感情的満足安心の暴走の結果こそがテロリストや通り魔や銃乱射事件であって。これは特定の異常者だけの特殊な性質などではなく。むしろヒト全般に普遍的に存在することを前提にしなければならないのです。



映画というのは芸術作品ですから、別に内容がバカげていても、何かの解決につながらなくても構わないのですが。芸術作品に感化されて暴力行為に及んでしまうという、その個人の短絡性こそが問題なのです。



ヒトという種の生物の大脳が結果的に肥大した原因が、外見上より幼い配偶者選択をした結果の幼形成熟によるものであると考えられる以上。外見的に幼い配偶者を求めようとする行動バイアスが存在することは致し方ない「結果」ではあります。

だからといって「オノレは犬だカブトムシだから、先天的本能習性には逆らうことが出来ないんだ。」などという意思薄弱の事後正当化が許されると思っているバカなど論外です。

逆に「ロリコンが主観的にキモいから排除しておけ。」というのであれば、これは「イスラム教徒が怖いから排除しておけ。」といっている某米国の大統領候補と心理構造的には全く同じものであって。こうした個人の主観的感情論の応酬では具体的な対策には永遠につながらず。極めて不毛で建設性が全くありません。

ロリコンというのは、ヒトの脳の「結果」ではあっても、人間としての意識的行動選択とか自由意思に基づいた「目的」ではないのです。

人間性というのは、目先の気分感情欲望に左右されない統合的合理性判断によって導き出されるものであって。その場限りに環境依存的な行動バイアスの「結果」のことを「自覚」とか「意識」であると解釈するのは科学的に間違っているのです。

ゴリラは所詮ゴリラですから、環境が変われば簡単に暴力的にもなるでしょう。ゴリラの脳には統合的に合理的行動判断をするだけの余裕がありませんから、恐怖心を抱けば簡単に暴力的にもなるのは避けようのない事実です。

京都大学の学長がゴリラを馴らしたからといって、それがゴリラの人間性か何かの立証になるわけではないのです。所詮は特定環境下における断片的「結果」以上の意味はないのです。

ISILの構成員が、組織内部でどんなに利他的行動や仲間を守る行動を採ったとしても、それはヒトの人間性の科学的証明には一切ならないのと一緒です。

残虐なテロリストを飼い馴らしたら、そのテロリストの人間性の立証とか、既に行われた残虐行為が反証出来るわけではないでしょ。

ヒトの多くは断片的なゴリラの行動結果と、ヒトが現実に行っている残虐行為の間の相関関係にまでは考えが回らないようですが。これは、「ゴリラが暴力を振るわない」という断片的結果に満足することで、問題そのものの根源的原因にまで論理的に検証する考えが停止してしまう性質があるためです。



また、ゴリラというのは一般的に暴力的だと思われているため、暴力的にならないというだけで一種のゲイン効果が働いて、必要以上に人間性か何かと勘違いしているのかも知れません。

ゲイン効果というのは。怖いと思っていた相手が、意外と普通だった場合に必要以上に善人だと錯覚するといった性質のことです。



ISILの構成員が指導者に対しては暴力的にならないことを証明しても、ISILの構成員の人間性の証明にはなりませんよね。それと一緒で京大学長がゴリラと仲良くなっても、ゴリラの人間性の証明になんぞ一切ならないのです。

にも関わらず、京大生物学科というのは、特定環境下における断片的検証結果だけを陳列しておけば、ゴリラやチンパンジーの人間性を立証可能かも知れないなどという大嘘によってバカなマスコミや大衆を騙しているわけです。

これを詐欺と形容せずに、何と形容するのかは私は知りません。

勿論騙されている方にも問題がありますが。



Ende;
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○オカルトではないつもり。(少数異端なのは認めるけど。)

2015年12月25日 16時10分13秒 | 意識論関連
副島隆彦(そえじまたかひこ)信者らしき人が時折コメントよこすんだけど、もしかしておいらって副島隆彦と同類扱いされてんのかしら。

副島ってWikipediaで調べたらニーチェに心酔している時点でおいらとは考えが乖離している。

陰謀論なんていうのも大衆迎合的で、到底論理的証明にはなっていないし。そもそも陰謀論っていうのはフィクションの中での悪役妄想の一つ(英雄を引き立てることが目的)に過ぎなくて、実際の洗脳ではナチズムでもオウムでもポルポトでも具体的な目的を持った陰謀なんていうのはなくて。むしろ目的もなしに行き当たり場当たりに集団内部の流れに流された結果暴走破綻に陥っているのが現実。暴動で暴徒が集団心理に流されているのと同じで、その先に何かのゴール(目的)があるわけではない。

ヘイトスピーチをしている人達に目的なんてありませんから。その場限りに怒鳴り散らしてテストステロンを消費した結果条件反射的にセロトニンが分泌される快感というか安心感に中毒になっているという、DV男の行動原理と基本的に同じものなので。こういった脳内麻薬中毒患者が怒鳴り散らすための屁理屈として陰謀論的なものに人気が集まるわけです。

陰謀をでっちあげておけば怒鳴り散らす「理由」に出来るから陰謀を信じようとしているのであって、脳の中に陰謀を信じ込もうとするループのようなものが出来上がってしまっているから洗脳なんでしょう。

副島信者が一生懸命コメントよこしてくるのも異常で洗脳的なのに、脱洗脳がどうたらこうたら言われても、それで具体的に何かを証明したとか、具体的に症状を説明したわけでもないので実用性が全くありません。

最近では東芝の粉飾決算が問題になりましたけど、東芝の取締役員達の暴走を誰も止められなかった社員達や取締役員達の自律のなさこそが暴走を引き起こしたわけであって、こうした破綻に至る暴走状態というのは、特定の誰かが目的意識を持っておこなった陰謀の類ではないのです。

ナチズムなりISILが世界征服を企んでいるとして、彼らは世界征服をした後世界をどうしたいのかというビジョンのようなものがあまりに曖昧で具体性がありません。それはDQN暴走族達の「目的」とほとんど同じ妄想に過ぎないのです。



アポロ11号が月に着陸したのが嘘か本当かなんていうのも、それを証明したからって何かの役に立つとも思えないし。ビッグバン理論というのは観測から導き出された結果的事実に基づいた理論ですから否定するには値しません。遠くの天体程高速で遠ざかっている以上、百数十億年前には宇宙の全てが一点に集まっていた以外に説明の方法はないでしょう。

いやもう、ウケ狙いで変なこと言っているだけにしか見えないんですが。

熱狂的信者になってしまっている事自体が、自律的論理検証性が希薄になってしまう大きな要因であり、常に冷静に自律的に論理検証するという姿勢を持つことが重要なのであって。ニーチェみたいな論理的根拠もない勝手な決め付けの羅列を信じ込んでしまっていることこそが、むしろ論理検証性が失われている証拠だと言えるでしょう。



おいらが調べた限りでは、副島何とかっていう人は、進化生物学界における「目的と結果の論理的区別。」について言及した形跡も一切ありません。

おいらが唯一「哲学」として認められるのは、カール:ライムンド:ポパーだけですが。それとて別に心酔しているわけでもなくて、むしろ「普通に正しいこと。」として認めているに過ぎません。

ポパーというのは文科系の人達からも、大衆的な人気も得られません。科学的見地から普通に正しいことを述べているだけですから。科学的、論理的に正しいことというのは大衆的な人気は得られない傾向があり、それゆえの「理科離れ」なのであって。「学校の教科書を読んでも楽しくない。」のと一緒で、クソゲーとか妄想の類の方が大衆人気は得られ易いのと同じことです。

ニーチェだのプラトンだのドストエフスキーだのを哲学か何かだと勘違いしている原因こそが、観念的な主観的感動とか安心感とか満足感が促す勝手な「解釈」によるものであって。それこそが科学的で論理的な「理解」をするための論理的思考を阻害していることを認識しなくてはならないのです。

振り込め詐欺に騙されるというのも、ヒトの多くは詐欺師の言っている内容を論理的に理解せず、恐怖感とか焦燥感といった感情的行動原理に流されている故の結果に他なりません。

ヒトの多くは、既に自分が信じ込んでしまっている事物を否定されると拒絶反応を示す傾向があります。既に信じ込んでいた自分の愚かさや感情をも否定しなければならないためです。

ヒトの多くは自分の気分感情というものを短絡的に意思や意識であると勘違いしてしまう傾向があります。自分の脳は自分で作ったものではない以上。自分の脳、特に大脳辺縁系が促す気分感情といったものこそが、むしろ本質的には自分の意識を阻害し、落ち着いてゆっくり考えれば誰でもわかるような簡単な嘘や間違いですら、アッサリ見逃してしまう大きな要因なのです。

ヒトの多くは、大抵の場合においては気分感情のままに行動しておいても社会生活においては大きな不都合にはなりませんが。その「大抵の場合」が常に続くことが保証されているわけではないことを、ゆめゆめ忘れてはならないのです。



科学哲学というのはポパーもそうなんですけど、基本的に喧嘩屋です。正しいことを言っている相手には賛同もなにもしませんけど、間違っている相手に対しては多数派であろうと猛烈に反論します。ですから味方なんていないんですよ。

ノーベル賞受賞者の益川さんも自称「いちゃもん屋」だと公言しています。

味方を集めて気分的に満足安心することを目的にしていたのでは科学哲学は成立しないのです。

味方を募って本能のおもむく気分感情のままに行動しているからこそ、暴走族とか暴力団とかヘイトスピーチとかISILとかナチズムに陥るんです。

「ヒト」とはそういうものなのです。

ヒトという種の生物が先天的に持つ社会形成習性の結果に流されていて、自由意思も意識もあったものではありません。それは一人の社会的な「人間」として無責任であるということを認識して下さい。

自分の行動や言動に責任を持たないのであれば、他人にも責任を問う権利は本来ないのです。

当たり前の話ですね。 だから人気がないんでしょう。

特定の誰かとか何かが悪いといった簡単な話じゃなくて、普通のヒト全般の普通の意識そのものに問題があるって話ですから。そりゃ気分的には救いがないのは仕方ありませんよ。

苫米地何とかみたいに「ドリームキラー」だとか言って特定の人達を悪者だと規定した方が、「敵」がハッキリするので観念的に納得しやすいんでしょうけどね。





話が変わりますけど、年金基金が多額の損失を出した上にジャンク債にまで手を出そうとしているそうですね。

彼ら役人達は「責任を取る」なんて言っているそうですが、「責任を取る」って具体的に何をするつもりでしょうか。もしかして「年金基金が破綻したら辞職する。」だけなんじゃないでしょうか。しかも退職金も社会保険も貰うつもりなんでしょうよ。

たまたま利益が出続ければ社会的評価が得られそうだけど、失敗しても辞めりゃ済むと思って危険なギャンブルをしているんだとしたら、これは看過しちゃいけないですよ。

いや、これは陰謀云々のレベルじゃなくて、役人の責任の取り方一般に言える話なんですよ。

役人が何か失敗すると、いつも「責任を取って辞職します。」的な話で終わってしまうんですけど。何兆円もの損害を出しておいて「辞めたから、責任を取った」なんて話にはならんでしょうよ。

そこは国会議員なんとかせぇって話ですよ。こういう時に国会議員が何もしないから国民が政治離れを起こしちゃうんですよ。

経済学の専門家による有識者を集めて(集め方も重要だぞ)、ブレーキ役をつけないとまた宮崎のシーガイヤ的な結末に陥るのがオチでしょ。

役人に言わせると「危険な運用でもしないと年金が破綻しちゃう。」っていうのが理由らしいんですけど、危険な運用をしなければならない時点で既に破綻はしているんであって、それはリスクを高く取って国民の年金を役人のギャンブルに使って良い理由にはならないよ。

今までは運用に成功して多額の利益を得ていたのは確からしいんですけど、金融商品っていうのは「今まではずっと大丈夫だった。」ことは「これからも永遠に大丈夫。」であることの保証にはならないんですよ。

常に運用をし続けるんじゃなくて、運用に適した時期とかあるんじゃないですかね。だったら損失が出ちゃった以上、損失を慌てて取り戻すことを優先せずに、世界情勢が安定するまで堅実に何年かは手を出さずに寝かせておくことも考えるべきなんじゃないかと、おいらは思うんですけどねぇ。

何か役人が評価欲しさに無理矢理仕事をでっちあげているように見えちゃうんですけど。

違うんですかねぇ。

少なくともISILやシリア難民の問題がある程度落ち着くまでは、死んだフリしといた方が良いと思うんですけど。



Ende;
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○バカスペクトラム。

2015年12月24日 12時04分55秒 | 意識論関連
意識の高さというものには個人差があり、これはスペクトラムである。

完全な意識を持つことというのは有限の脳しか持たないヒトには原理的に不可能なことであり。また、先天的或は後天的要因によって意識の高さを得られ難い場合というのも考えられる。

例えば虐待を受けて育った人が虐待を自分の子供にまで連鎖してしまうという事例は、後天的要因によるものである。

従って、より高い意識を持った人が、低い意識しか持つことの出来ない人に対して行うべき行動とは。当人の意識の低さを認識出来るよう促すことである。

ところが、犯罪者という社会的に無責任な行動を採る人に対して、現在の社会制度は司法刑罰などという短絡的手続きしか整備されていない。

例えばである。

強盗殺人で懲役25年の刑を終えた犯罪者が、出所後数週間で再び殺人を犯すという事例が時折あるわけだが。それなら一体司法刑罰とは社会的に何の意味があるのかを考えた人はいるだろうか。

偉そうに検察だの弁護だの判事だのと司法に関わる奴らは高い給料で国費を浪費しながら、実質的には犯罪というものの論理的原因究明や再発防止というものに一切貢献していないのである。

犯罪者が出所後に再犯したとしても、その責任は司法役人達の誰一人として責任を持たない。では一体彼らは何のために司法制度を維持しているのかと言えば、法律を守ることを目的としているのであって、法制度さえ維持しておけば、その結果社会的損失が出ようが、社会が破綻しようが一切感知しないのである。

裁判で大金を浪費し、刑が確定しても犯罪者を何年も刑務所に入れておくためには更に税金が浪費された上に、刑務所から出所した犯罪者の40%が再び犯罪を犯して社会的損失を生じていることに対し、司法役人達の誰一人として、国会議員の誰一人として、市民の大多数もまた、それを問題であるとさえ一切認識していないというのは。もはや集団洗脳の一種と言っても過言ではない。

犯罪が起きると、ヒトという種の生物は短絡的に報復さえしておけば全てが解決すると錯覚しがちである。

というか、ほとんどそれしかない。

殴られたら、殴り返す。「目には目を、歯には歯を。」というハムラビ法典の原理自体が、社会的には役に立たない観念論、感情的満足安心の追求にしかなっていないのである。

面倒臭いのは、ヒトの多くは自分自身で物事を考え判断するということを忌避し、「多数派=正常」という短絡的な観念ばかりを優先する性質があるために。少数派異端である本論を大多数のヒト達が無視し続けるという意識の低さを存分に発揮していることである。



犯罪というのは、ヒトの個体差が存在する以上必ず発生すると言えるだろう。「ヒトは間違えるもの。」だからである。

これはヒトという種の生物が、どこかの家電メーカーの製造責任のように、神の製造責任が問えるようなものではなく。ヒトという種の生物は自然の産物であり、誰の責任でもない「結果」でしかない以上避けようのない現実である。

それなら、こうした出来損ないの「ヒト」である私達が、次世代の子供達にどのような社会を遺せるのかを考えた場合。ただ漫然とハムラビ法典に従って不毛な司法刑罰制度を維持し続けることにどれだけの価値が存在するのかを考え直す必要性がある。



個人が自律的に社会的責任判断を行わなくなる原因とは何か。それは目先の感情や欲望に囚われ、自分が生き続けるに価する社会とはどういう姿なのかを考える余裕が失われるという、意識(論理検証性)の狭窄である。

現在の司法刑罰制度に何の疑問も持たない一般市民の意識の低さも、程度の差こそあれ、こうした意識狭窄性が促している無意識性の「結果」なのである。

冒頭に述べたように、意識の低さというのはスペクトラムであり、程度問題である。だが、程度問題なのは「結果」であって、ただ漫然と「結果」に流されておいても構わないなどという短絡的でバカげた結論に達しておけば良いというものではない。こうした短絡的「解釈」によって論理検証を放棄しておけば、大衆の大多数は気分的には楽なのかも知れないが。その結果、自分が犯罪やテロに巻き込まれてから「どうしてこんなことになってしまったのだろうか。」などと他人に問いかけても愚かという以外形容のしようがない。

ヒトという種の生物は基本的に出来損ないである以上、より安全性や社会持続可能性を担保するためには。誰もが意識の高さ(自律的論理検証)を追求し続ける必要性がある。

これは、特定の技術者や犯罪者、精神疾患者にだけ丸投げしておけば良いというものではなく。全ての人が常に追求し続けなければならない「人間としての義務」なのである。

なんていう従来の常識を覆すようなことを言うと、「そりゃ大変だ。」とばかりに焦ってトンチンカンなオカルトに走る人もいるようなのだが。本論が最も懸念しているのが「焦り」などの感情によって論理検証性が失われることによって、意識狭窄が生じてしまうことなのである。

本質的な意識である論理検証性というものは、あらゆる気分感情が促す思考バイアスを客観的に排除し。本当に重要なのは一体何なのかを考えることによって、自ずと導き出される「目的」意識に基づいた「考え」なのである。

しかし、ヒトという種の生物というのは先天的に気分感情が行動や思考を支配しがちな習性があるため、先天的に論理検証することが苦手なように出来ているのである。

これは、ヒトという種の生物が先天的に意識が低くなる性質が存在することを意味する。

ヒトという種の生物は、先天的には「人間」ではないのだ。

ところが、概ね平和な生活をしていると。あたかも「ヒト=人間」という短絡的方程式が常に成立しているという錯覚に陥り、進化生物学や文科系大衆観念上ではこうした方程式がまかり通ってしまっているのである。

これは大衆迎合のため、多数派人気取りのための「嘘」であり。それによって金儲けに成功するというのは合法的詐欺に他ならない。

誰が嘘つきなのかって? だからさしあたっては京大学長とか霊長類研究所だよ。他にもいっぱいいるけどさ。



ヒトという種の生物は、ヒトになる前の何億年もの間に、脳に様々な行動習性が組み込まれてきている。生物が生存しているのは、生存に適した行動を採った「結果」であり、嘘でも暴力でも何でも手段は構わないから「生きて」さえいれば遺伝子が遺されるた「結果」として我々は現状存在するのである。

ヒトという種の生物は、個体では他の野生生物と較べてそんなに強い生物ではない。それでも子孫が遺せたのは集団で協調的に行動する習性があったからである。

ヒトの場合は多少なりとも論理的に物事を考えることや言語による意思疎通が可能であるために、狩りなどの特定の目的行動を採る際にはお互いの考えを共有することが可能であるが。これはイヌなどの脳の容積がもっと少ない生物でも可能な行動でもある。

言語を持たぬサルでも可能な集団組織的協調行動というのは、社会形成習性を持つ様々な生物において先天的に組み込まれた行動バイアスであり。彼らはとりたてて「生きるために。」などといった目的意識に基づいて行動しているわけではなく。その証拠に利他的行動などの直接的な脳への報酬が得られない行動は簡単に放棄してしまう。

社会全体の持続可能性だとか、個体の安全性なんてことはサルの脳とか振り込め詐欺師の脳にはないのである。

だが、こうした無責任さというのは。司法刑罰などという不毛な制度に何の疑問も持たない大多数の民衆の脳と、程度の差こそあれ無責任であることに違いはなく。所詮は「個体差」に過ぎないのである。

サルが無責任なのは先天的に仕方ないとしても、特に脳に障害もない振り込め詐欺師が無責任なのは看過するわけにはいかないし。それは現状の司法制度などという不毛な金の無駄遣いに何の疑問も持たない一般市民の無責任さも同様である。

「自分は法律を犯していないから、それ以上何の責任も持たなくても構わない。」という短絡的発想は、司法役人達の「法制度さえ維持しておけば全ては解決。」という短絡性と同根である。

「これさえやっときゃ、全ては解決。」という安易で短絡的解決策さえ提示しておけば、大多数の愚かな大衆は気分的に安心満足し。その解決策に対する問題点も、根源的間違いにも気付くことはない。

気分感情というものが、ヒトから論理的思考を奪う性質が先天的に存在するために。ヒトは簡単にバカに陥るのである。

「イスラム教徒を排除しておけばアメリカは安全だ。」などという、キチガイとしか思えない話をアメリカ共和党員の40%が信じているなどというのは論外であるが。 何も考えない大多数の大衆というのは、所詮そんなものなのであろう。

脱法ドラッグが危険であるのと同様、法律上違法でなくても社会安全性や持続可能性から逸脱した行為というのは存在するのであり。それは「法律さえ守っておけば、全ては解決。」するような安易で簡単なものではない。

一部のヒトの無責任な行動を国家権力で抑圧した結果、無責任ではない人の行動までをも一括して規制してしまうことによる社会的損失というのは計り知れない。

「あれはダメ、これはダメ。」そんな規制だらけの社会制度下で、一体何が「一億総活躍社会」であろう。

重要なのは国家権力によって市民の行動を抑圧することではなく、市民一人一人が自律的に社会的責任を持って行動することが社会効率の点においても有効なのであって。マンションの杭の一本一本までをも役所が管理しなければならないというのであれば、もはや市民一人一人の行動の全てを役人が朝から晩まで監視し続けなければならないことになるのである。

そのような社会においては、監視する役人の行動責任を誰が取るというのであろうか。役人を監視する役人を雇って、更にそれを監視する役人を雇うことにならざるを得ないわけであり。監視や規制、抑圧を用いた社会というのは、とんでもなく効率が悪い社会であり。結局は個人の自律的な社会的責任が必要なのであり、監視や規制というのは危険情報の共有程度の意味しか持っていないのである。

私は刑法廃止論者であるが、刑法罰が恐くて犯罪に手を出さない者が一定数存在する時点では社会制度としての刑法廃止は事実上不可能であろうことは充分承知している。刑法廃止というのはあくまで論理的理想であって、何年先になるのかはわからないし、果たして実現可能なのかもわからないが、そこに至るまでのロードマップとしての個人の自律的な社会的責任判断力というものの社会的効率には充分意味こそが重要なのである。

刑法廃止が目的なのではなく、犯罪や事故を減らすことの先にあるのが刑法廃止論なのである。

無責任な者が多ければ多い程社会効率は悪くなる。暗闇が犯罪の温床になるからこそ誰も通らない道にも街路灯を燈し続けなければならないのであり。安全な社会というのは国家権力による法令遵守によって作られるものではなく、あくまで市民一人一人の意識によって成立すべきものなのである。

突発的テロや通り魔というものは、犯罪が起きてからの警察の取締りではどうにも対処出来ない。警察役人は神ではないので、一人一人の行動の全てを把握出来るわけがないのである。

テロや通り魔といった暴力的恐怖で社会を操作しようとする考え方そのものが根本的に間違っているのである。それは国家政府が市民を恐怖で抑圧しようとする考え方と全く同じものであり。恐怖政治による独裁政権に持続可能性や安全性、効率の面において極めて不利であることは明らかである。

「法律さえ守らせておけば、全ては完璧。」などというのは、法律家や為政者の勝手な妄想でしかなく。オカルト宗教レベルの話でしかない。

人畜無害な行為であっても現状法規に違反していれば、役人達は機械手続き的に取り締まるばかりで。その法律の主旨とか社会的意義になど一切感知しない。そこに「人間」がいないからこそ、法手続きだけが暴走するという結果に至るのであり、結局は法を運用する役人の方にも「その取り締まりに社会的価値があるのか。」を考えるという知性、論理性が不可欠なのである。

ヒトという種の生物は、その場限りの気分感情によって、民族とか宗教とか国籍といった分類だけで他人を差別する習性がある。そういった短絡的で安易な最終解決策の方が愚かな大衆のご機嫌取りには適しているのであろう。だが、こうした頭の悪さこそがISILやナチズムのような残虐行為の根源的原因なのである。

では、なぜISILの構成員や、通り魔などの短絡的最終解決策しか思いつかないという意識狭窄性が発揮されてしまうのか。その原因として考えられるのは。一つは先天的要因かも知れないが、彼らの脳は日常生活を営むには不都合のない「普通」で平均的な知能程度はあるのみならず、むしろ学力成績は高い傾向というのも見られることからも。彼らの思考パタンというものの中に共通して存在する思考停止バイアスによる論理的思考停止がある。

そして、この思考停止バイアスや論理検証性の喪失というのは、ISILやナチス政権下のドイツ人に限らず、あらゆるヒトの中に先天的に存在するという事実を踏まえて対策を考える必要性がある。

「通り魔が出たから死刑だ。」とか、「ISILは絶滅させれば解決する。」といった短絡性こそが、むしろ彼らの短絡性と全く同じものなのである。

それは、単なる「バカの応酬」にしかならない。

ISILには、いわば普通の若者が憧れる「格好良さ」がある。その「格好良さ」とは、感覚的な快楽によって促される行動バイアスによるものであり、そこに合理的根拠とか目的意識が存在するわけではなく。あくまでヒトという種の生物の先天的な行動バイアスとして組み込まれているものに過ぎない。

すなはち、同じヒトである以上こうした先天的行動バイアスというものは誰にでも存在するものであり、ヒトの大半はISILやナチズムに傾倒する可能性を持った暴力者予備軍であるということを認識する必要性があるのだ。

「自分だけは、絶対大丈夫だ。」などと「思う」人も少なくないかも知れないが、それは論理的根拠のない過信に過ぎない。なぜなら、ヒトというのは自分自身の脳の構造には一切関与していないからである。

自分の遺伝子を自分では選択していない以上、自分の脳の構造には自分は関与していないのであり。その場限りにISILや暴力団を個人的に嫌いかどうかだけでは人間性の論証には全くならないからである。

脳の構造、特に動物的行動バイアスを作り出す大脳辺縁系の構造というのは、ヒトに進化(変化)する以前の生存競争の中で淘汰によって遺されてきたものであり。自分の祖先がどのような行動選択によって生き延びてきたのかについては、自分自身では選択の余地もなければ、知る由もないのである。

ヒトのメス(ここでは敢えて生物としての機能として論ずるので女性とは言わない)が生殖能力を獲得する年齢は、現代人として社会の中で子供を育ててゆくためには適した年齢とは一致しない。一説によれば8歳程度でも出産が可能とも言われているが、単なる動物的繁殖能力だけからは、ヒトが社会的に持続可能性を持つことにはならないのは明白である。

ヒトのオスの方も、生物学的見地からは、より見た目の幼い配偶者を選択した結果ネオテニー(幼形成熟)が生じ、結果的に頭や脳が肥大したとも言われている。だが、外見的に幼い配偶者選択をしたがるのは先天的「結果」に過ぎず、本当に年齢が幼い配偶者を選択してもネオテニーは生じず、あくまで成熟しても外見的に幼い個体を配偶者選択しなければ幼形成熟への進化(変化)は起こらないのである。

結果的に脳が肥大する原因となったとしても幼児性愛が社会的に「正しい」行動であることにはならないのである。

とは言え、先天的本能である以上は幼女に性的興奮を「してしまう。」こと自体は致し方ないことであり。これを頭ごなしに「異常」だとか「変態」などと拒絶しても意味はない。重要なのはそうした行動バイアスに流されないよう工夫することであり、目先の欲望に流されない自律的な自己抑制能力こそが社会的には必要なのである。

この自律的な自己抑制の観点から問題となるのが、「脳への報酬に対する条件反射的行動学習」である。

学力成績が上がることで、親大人から誉められ、学力偏差値という抽象化されたランク付けをされることを「脳への報酬」として動物的に行動学習してしまうと。これは、本質的には自発的な動機によって行動していることにはならないために、常に他者から与えられる「脳への報酬」が得られるための行動しか出来ないよう動物的に行動学習された結果、自発的選択能力が失われ、同時に自律的な社会的責任判断すらもしなくなるようになってしまうのである。

アルベルト:アインシュタインも懸念している「欲得づくの成功」ばかりを望むような学生が育ってしまうことによる、社会的な悪影響とは、個人が自律的に社会的責任判断をしなくなるという無責任さが蔓延してしまうことにある。

「学力成績が高いから、自分は頭が良いんだ。」などという、認知科学的には一切根拠のない実証不能の観念にすがりつこうとするあまり、本論を感情的に受け入れられない人は少なくないであろう。




論理的反証も一切せずに、ただ漫然と「仮説に過ぎない。」と言い続けても、それこそがむしろ論理的根拠すらない仮説にしかなっていないことにも気付かないのでは、到底科学的議論は成立しない。

論理反証が出来ない仮説であれば、それはむしろ科学的には「より正しい」のである。

とは言え、本当に正しいのかどうかについては、より多くの人によって精査される必要性があるのは当然のことである。

その場限りに外見的に勝ち誇ったような錯覚に陥ることは簡単である。ヒトの多くはその場限りの雰囲気ばかりを重要視し、内容を論理的に検証してどちらが正しいのかを選択するということをほとんどというか、むしろ全くしない。

原発を暴走させた技術者も、社会的に不毛な刑法制度に何の疑問も持たない司法役人や弁護士達も、彼らはさぞかし学力偏差値が高いに違いない。

どんなに学力偏差値が高くても、重要なことに何も気付かない人は少なくない。それなら学力偏差値などというのは社会的にはあまり意味がないのである。

企業の採用においては、予め決められた仕事を正確にこなす能力基準として学力偏差値を利用するのは経験則的に間違いではないのかも知れないが。大企業における原発の危険性放置や粉飾決算、取締役員によるインサイダー取引を放置するようなバカ社員に過ぎないことを認識しなければならない。

東京電力、東芝、オリンパス、西武グループなど、実際に挙げればキリがない程大手企業の幹部社員達はバカなのである。彼らもさぞかし学力成績は高かったに違いないであろうが、単に学力成績だけを述べればISIL幹部にも見られるものであって、学力偏差値は人間性の論証には全くならないのである。

人間のいない社会であれば破綻に陥るのは当然のことである。

ヒトという種の生物が、人間として行動選択するためには本質的な意識というものが不可欠であり。その本質的意識というものが一体何なのかを理解している必要性がある。

その具体的内容については過去(意識論関連タグ)に散々述べているつもりなので、今回は面倒臭いのでパスする。

そのうち再度書くかも知れないが。


Ende;
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○使い道は不明です。

2015年12月21日 23時39分47秒 | 日記
JAVA Scriptをいじっていたらなんだかよくわからないものが出来てしまった。

数分放置しているとこんな感じになる。


Ende;
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○ふと思いついた。

2015年12月19日 13時05分41秒 | 日記
近所に弱視の方が住んでいるんだけど、普段は白杖をついて歩いているのに今日の昼間は杖をほとんど使わずスタスタすれ違ったのよね。

今日は雲一つない真っ青な晴天なので、もしかすると光量が多くコントラストの鮮明な条件ならある程度は認識能力が上がるんじゃないだろうか。

だとしたらヘッドマウントディスプレイとカメラを用いて、暗いところでも光量やコントラストを補って見えるようにしてあげれば生活のクオリティ向上が見込めるんじゃなかろか。

他にも障害を持った方に残された能力を最大限に発揮できるような器具を作ってみたいと思うのだけれど。でも、そういうのって本来大学病院とか公的研究機関でやるべきことなんだと思う。

チンパンジーの遊園地作っている金あんなら、そっちに金回せって思うわ。

Ende;
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○単なるテストです 気にしないでね。

2015年12月14日 14時52分22秒 | 日記














いやこれね、直接URLたたいたりプレビュー画面上だと表示されるのよ。

リンクの場合はどうなんでしょう ここクリックしてみそ。

あぅっ 403エラーなのでアクセス禁止ってことらしいっす。

でも気まぐれで表示されることもあるのでよくわからん。

何を表示させようとしているのかわからなくて気持ち悪い人がいるかもしれないので一枚だけダウンロードして載せとくね。

池田エライザちゃんです。

フィリピンと日本とのハーフちゃんなんだそうだけど、フィリピン人の人って顔が濃すぎてあんまかわいくないけど、日本人とのハーフだと時折激烈にかわうい女の子がいる。

そういえばベトナムとか沖縄もかわうい女の子いるね。

まあ、「日本人の感覚」でしかないんだけどね。

ちなみにEXIF調べたらCanon EOS 5D Mark IIIで撮った写真だった。










オリジナル画像の生成日時2015:08:07 15:37:46
撮影機器メーカーCanon
撮影機器モデルCanon EOS 5D Mark III
横幅500
高さ750
露出時間(秒)1/125
F値45/10
ISOスピードレート400
ホワイトバランス1


どういうわけかtableタグ使うと妙な空間があく。


Ende;
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○進化(変異の結果)に目的をこじつける不毛さ。

2015年12月11日 16時04分18秒 | 意識論関連
芸術などの表現においては、結論とか順位といったものは要らないんですよ。

ところが日本人の多くは絵画や写真に対して言語上の意味に言及しようとしたがる。

「何が描いてあるんですか?。」とか、

「どこが良いんですか?。」

なんてね。

そもそも、その絵画なり写真の良さなんていうのは、「どこ」といった言語で説明する必要性を持ったものではなくて。作品を見た当人の主観的感想でしかないことを、自分以外の他人に尋ねたりしている時点で全く無意味な質問なんですよ。

抽象絵画を見て、「何が描いてあるか」を尋ねるなんていうのも全くの無意味であり、ナンセンスとしか言いようがありません。抽象絵画というのはその絵を見て直感的に何を感じるかが作品の主旨であって、「何」かどうかに意味なんぞないのに、「何が描いてあるのか」をなぜ確定する必要性があるんでしょうか。

「この作品は、かくかくしかじかこういった屁理屈で優れている。」といった、なにがしかの世間の統一的結論のようなものを欲したがるのは。その作品を個人的、主観的に好きであることを他人から見て正常かどうかを確認したいだけでしょう。

なんですかね。 特定の作品を見て感じる主観的感覚が、多数他人と同じでなければいけない理由のようなものでもあるんでしょうか。

もし、理由があるとすれば、それは自分の主観的感覚というものが多数他人と同じであることを確認することで、あたかも自分が他人と較べて正常であるとか、優れていることの証明か何かを求めているんでしょうかね。それは作品そのものを純粋に良いとか悪いと感じることが目的ではなくて、自分が他人と較べて正常で優れていることの証明が目的なんでしょうね。

だから結論を欲しがる。

事故とか事件といった事象においては結論とか原因究明は大切ですよ。そりゃ社会的意味がありますから。

でもね、芸術表現というのは個人の主観的価値観に基づくものであって、多数他人が良いと思わないものを好きであっても構わないものなんですよ。

多数派同調圧力がもたらす強迫観念が、日本人は強烈であるが故に多数他人との感覚の差にばかり意識が働いてしまうからこそ、芸術の評価に対して在りもしない屁理屈としての結論を欲しがるということなんでしょう。



こうした一種の錯覚というのは、主観と客観の明確な区別がついていないのが原因です。

主観と客観の区別がつかなければ、主観がもたらす気分感情には何らかの意味が存在するはずだという錯覚の原因ともなります。それは同時に先天的本能習性の事後正当化の屁理屈をも必要とすることにもつながるわけです。

「生存」というものが生物の目的であるという錯覚も、主観と錯覚の区別がつかない故の誤謬(ごびゅう)です。

あなたが主観的、個人的に「死にたくない」という感覚は、生物の目的として予め用意されたものなどではなく。その感覚をどんなに統計的多数を集計しても、生物というものは結果的に生存しているものを生物と分類しているに過ぎない事実を捩曲げる理由には一切ならないのです。

脳の常習系が促す生存への執着というのは、それが結果的に生存にとって適していた結果ではあっても。その感情の強度程度をどんなに多数決的に集計共有しても、生存は生物の意識的目的であることの論理証明にはならないのです。

「命は大切」とでも述べておけば大衆人気は得られるでしょう。

それさえ述べておけば世界平和に貢献出来るかのように錯覚することも簡単です。

でも、その「生存」への異常執着こそがナチズムを支えた優生学の誤謬の原因ともなっているのです。

「遺伝的に優秀な個体が遺るためには、劣った遺伝要素を持った個体は淘汰されなければならない。」これが進化生物学上の正義というものです。

こうした残虐性というのも、結局は「命は大切」だという大義名分の上に構築されたものであって。命が大切ならユダヤ人救済などというリスクを避けて当時のナチス政府に迎合した方が「生存に適した行動である。」とも言えるのです。

生存は結果であって、先天性疾患で子孫を遺せない身体であっても存在を認める寛容さを持つためには、それを許容可能な持続可能性や安全性こそを社会に求めるという、本質的合理性の追求が不可欠なのです。

「命は大切だ。」とでも述べておけば、何も考えない愚かな大衆の人気取りは簡単に出来るでしょうけども、個体の生存を根拠に他人に危害を加える理由にもなりうる屁理屈の傍観放置にもなってしまう無責任な実証不能の観念の原因でもあるのです。

「一つのパンを10人で分けたら全員死んでしまう。」というのであれば、一人で占有してその場限りに生き残ったとして、その後どうするつもりなんでしょう。

人は一人では生きられないのであって、自分の子供が先天性疾患で生まれたら許容されない社会に何の価値があるでしょうか。

遺伝的により優秀な個体以外が蔑ろにされる社会は「安全」だと言えますか?

その社会に持続可能性があると、本気で思っているのでしょうか。

その場限りに優しい気持ちにさえなっておけば、「自分は人間性を持った優秀な個体である。」とでも勝手に妄想して満足することは簡単でしょう。

そうしたその場限りの気分的安心満足だけ追求しているからこそ、本気で合理性を追求することが出来なくなり。結果的に本当に重要なことは何なのかすら認識出来なくなってしまうのです。

「一つのパンを10人で分けたら全員死んでしまう。」ような状況なら、私は全員で分けて仲良く死んだ方が心安らかに最後を迎えられると思います。

要はそうした過酷な状況に陥らないための合理的対策や準備を整えることが先決であって、他人を殺してまで生き残ることに「目的」を見出だすことに意味はないのです。

何でしょう、そんなに自然界の掟が大好きならば、服も着ないで素手でマサイマラ国立公園の中で生活したらよろしいんじゃないですかね。遺伝的に優秀ならそれでも生きていけるんじゃないですか。

私はそんなことまでして「生きている。」ことに意味があるとは思っていませんけど。命がそんなに重要で、生存することに絶対的価値が存在するというのなら、エイリアンみたいな完全生命体にでも進化することが目的なんでしょうかね。

その「目的」に人間性とか心といったものが存在するとでも思っているんでしょうかね。

ニーチェの言う「超人」って、一体何が「目的」なんでしょうかね。

ゾロアスター教における「超人」論というのは、要するに思考停止に陥って自分が何を考えても無意味であるという、一種の諦めに基づく気分的安心満足を得ることが目的であって。 むしろ科学や哲学としての「考え」を放棄するための屁理屈だということを、文科系学部は認識していないんですね。

本当の意味で論理的に純粋に「考える」というのは、主観的気分から切り離す必要性があります。

ところが文科系の人というのは、哲学として純粋に物事を「考える」ことが目的ではなくて、哲学っぽい書物に書いてあることを鵜呑みにして気分的に安心満足することだけが目的であるために、カントの純粋理性批判やゾロアスター教を簡単に鵜呑みにして、何の批判精神も発揮されることもないのです。

図書館や書店で「哲学」に分類されていれば哲学だと思うのは大間違いで、哲学書の大部分は実際には哲学でも何でもない観念論の羅列でしかありません。

論文の引用数では人気のプラトンであっても、科学哲学者カール:ライムンド:ポパーからすれば批判対象でしかありませn。

文科系バカ学者からすれば権威主義か個人主義かのバランス問題か何かだと結論づけられがちですが、それは論理的検証を全くしていない観念的「解釈」でしかなく、論理的には何も「理解」などしていないのです。





もし、エイリアンが地球上で繁殖したとして、それで生態系が成立するでしょうか。

おそらくエイリアンは大量繁殖した後に、ウイルスに罹って絶滅するでしょう。

進化(変異)の速度は多細胞生物よりもウイルスの方が圧倒的に速いですから、どんなに健康なエイリアンとて環境生態系とのバランスなしに持続可能性など持ち得ないのです。

そもそも肉食動物などの生態系の頂点というのは、その他の生物によって形成される生態系ピラミッド全体なくして存続することは不可能なのであって、むやみやたらと「つよい」ことに意味などないのです。

遺伝子に目的など最初から存在しませんから、「超人」のような一種の結論というのも理論的に立証不可能なんですよ。

進化(変異)の先に何か目的とか究極が存在すると思っていること自体が、そもそも文科系妄想(お伽話)に過ぎないのであって。本当の意味で人類が進歩するためには先天的な習性が促す思考バイアスに左右されない純粋な論理検証性を持つ必要性があるのです。

それは遺伝的要素とは関係がありません。 まあ、先天的に論理思考が苦手であるというのであれば仕方ないかもしれませんが。 それなら感情や観念が優先してしまう個体が、先天的に論理検証が得意な個体に論理検証を丸投げすることが出来るでしょうか。

まあ、無理でしょうね。

それが出来れば私もこんなに苦労せずに済むんですけどね。

Ende;
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○拳銃と少女。

2015年12月06日 16時23分26秒 | 日記


「ふゆの春秋」というイラストレーターさんの絵がかわういのでトミーテックのサイトから画像だけ抜きだして一覧表示させてみた。

リトルアーモリーのイラスト一覧

でも画像だけ抜いているのでは忍びないので一応製品ページへのリンク機能も追加してあるので、画像をクリックするとトミーテックのサイトに跳ぶ。



Ende;
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○自律的な社会的責任判断を抜きに心もすったくれもあったものではない。

2015年12月06日 15時27分58秒 | 意識論関連
文科系大衆観念上のおける「心」という概念についての誤謬(ごびゅう:論理的瑕疵がある誤り)



一般大衆的解釈における「心」とは、その場限りの気分感情を述べている場合がほとんどである。

放送大学における「技術者倫理論」においても、その動機において「元気になる。」だとか「勇気がわく。」などといった気分感情論に話をすり替え、社会安全性を優先する動機について合理的見解には言及できていない。



ヒトという種の生物の行動は、大脳辺縁系が促す動物としての先天的行動バイアスに大きく左右されがちな性質があり。 そのため、気分感情的に「やさしい気持ち。」にさえなりさえすれば人間性が常に発揮されるかのような錯覚に陥る傾向がある。

そして、こうした傾向は非常に強く。また、気分以外の要素である論理検証性といったものへの非合理的な拒絶反応の原因ともなっている。



気分感情というものは、その個体が置かれた状況や環境に大きく左右される性質がある。ナチス政権下のドイツにおいて多くのドイツ人がユダヤ人迫害に荷担、若しくは迫害を傍観放置したことからも、ヒトという種の生物というのは自己が置かれた社会環境に簡単に迎合してしまい、それに抗うことが非常に困難な性質を先天的に持っているのである。

差別排除といった行動は、動物的な社会形成習性的には普通で普遍的行動であると言える。 イヌなどが集団組織的統率行動を採ることによって、より機能的に狩りを行うことが可能であるのも、その先天的な社会形成習性の結果である。

しかし、こうした先天的本能習性が促す機能的な行動は、それ自体に目的が存在するわけではなく。あくまで「その習性を持っていたから生存に適した。」ことにもつながったとは言え、そもそも「生存」自体が結果でこそあれ意識的に選択した目的ですらないという文科系大衆観念上の根源的誤謬に基づいているのである。

振り込め詐欺においても、学校でのイジメにおいても。ヒトという種の生物はその先天的な社会形成習性によって機能的に特定個体や集団への攻撃を行うようになる。 それはイヌの祖先であるオオカミが組織集団として機能的に狩りを行うことが可能であることと無関係ではない。

オオカミが集団組織的な統率行動によって、より高度な狩りを行うことを。文科系大衆観念上では「オオカミが賢いからだ。」などと形容し、あたかもオオカミ達が目的意識に基づいて合理的行動選択をしているかのように勝手に錯覚しているが。「狩り」においての行動合理性が存在するとしても、「狩り」自体が先天的な本能習性に促された行動であって、その結果がたとえ生存に適しているとしても、その目的意識というのは目先の欲望、すなはち気分感情が促す行動バイアスの結果でしかなく。オオカミの脳にはそれ以上の目的意識など存在しないのである。

オオカミも、狩りが成功した後には獲物の奪い合いを行い。また、メスが出産をする際には子供の安全のために集団から離れて出産をしなければならないことからも。狩り以外においてはオオカミが持つ集団組織的統率性が常にプラスに働くわけではない。



文科系大衆観念上では、論理検証性に基づいた合理的行動選択というものを、何が何でも非人間的なものであるかのように解釈しておこうとするバイアスが働いている。

振り込め詐欺は合理的かと言えば。目先の金銭という抽象化された脳への報酬を得るためだけにおいての合理性はあるとしても、自分達が生活する社会への負荷によって全体としては損失となっている事実から目を背けた非合理的行動である。

文科系大衆観念上では、「理性には利己的利益追求の側面がある。」などと称して、論理検証性よりも目先の気分感情を満たすことこそが人間性であるかのように言い張ることが非常に多い。

利己的利益追求というもの自体が、そもそも欲望や感情に基づいた行動であり。どんなにその過程において合理的であるかのように見えたとしても、根源自体が先天的本能欲望が促す感情バイアスに基づく以上、それは本質的には合理性追求でも何でもない。

気分感情という大脳辺縁系が促す行動や思考のバイアスというものは、その場限りの行動や思考には大きな影響を与えるが。それは同時にその場限りの環境や状況における行動にしか影響を与えないということでもある。

環境や状況に左右されている時点において、そうした行動バイアスには自律性が存在しない。



本質的な自律性ということを説明する時に文科系大衆観念上における身勝手な解釈に基づいた思考バイアスについても説明しなければなるまい。

それは「意識」というものの本質に対する誤謬である。

文科系大衆のほとんどは。 というよりもヒトという種の生物におけるアプリオリな観念上においては、目先の気分感情が促す行動こそが、自己の意識の全てであるという錯覚を持っている。




「心」の本質とは何か。

それは目先の気分感情に左右され得ない一貫性を持った自律的で非環境依存的な論理検証性に基づく合理性の追求である。

ところがヒトの多くは目先の気分感情的安心満足こそを短絡的に「心」であると、人間性か何かであるという身勝手な解釈をしがちな思考バイアスを持っている。

畑村洋太郎による国会原発事故調査委員会の報告において、事故回避のために最も重要なこととは「個人が自律的に社会的責任を負うことである。」と結論づけている。

自律的な社会的責任判断選択において、放送大学の技術者倫理論のような「元気」だとか「勇気」といった気分感情バイアスを持ち出していたのでは、その場限りの気分感情のバイアスに左右された結果しか導き出されることはなく。本質的には全く意味を為さないのである。

本来倫理というものは特定の技術者だけに丸投げしておけば社会安全性が保たれるといった安易で短絡的なものでもなく、本来全ての市民全員が持ち続けなければならないものであって。「俺は振り込め詐欺師だから自律的な社会的責任判断なんぞしなくても構わない。」という話にはならず、何か特定の責任ある立場以外であれば自律的な社会的責任判断選択を放棄しても良いわけではない。

子供の教育において、子供自身の自律的判断選択能力を蔑ろにしてしまうからこそテロリストや通り魔といった非合理的行動を採るようになるのであって。更に言えば刑法懲罰制度という社会的に不毛な制度に犯罪や事故を「解決」であると見做(みな)して、懲罰による気分的安心満足によって合理的な原因究明や再発防止策が置き去りにされている現状を認識しないこと自体が、大衆の意識の低さの証明でもある。



懲罰(暴力)は快楽である。

DV男が散々パートナーに暴力を振るうと、脳内でテストステロンを消費した結果セロトニンが分泌されることで、急に優しくなるという行動が見られるという。

これは別にDV男に限った習性ではなく、「空腹になると意味もなくイライラする。」といった普通の人にも見られる一般的な「ヒトという種の生物」全般に当てはまる普遍的性質の一つに過ぎない。

懲罰を与えると、ヒトは満足感を得て、気分的に安心することで、あたかも全てが解決したかのような錯覚を得る習性がある。

ヘイトスピーチのように、怒鳴り散らすことで彼らは快楽を得ているに過ぎず。全く何の解決にも、そもそも問題自体がトンチンカンであることにすら気付くことはない。

なぜ気付かないのか。

それは彼らが怒鳴り散らすことによって得られる脳への快楽が、その行動の合理的価値を検証することよりも遥かに大きいことによってマスキングされてしまっているからである。

こうした意識マスキングというのは、ヘイトスピーチに限ったことではなく。刑法懲罰裁判制度自体が社会的にほとんど不毛であるという事実や、気分感情こそが意識の本質であるという非合理的解釈などの原因でもある。

本来感情的にならなければ見えるもの(理解可能なもの)が見えないのは、こうした意識マスキングによる論理検証性の阻害が生じているからである。

「合理性追求というものには、利己的利益追求の側面もある。」などという嘘を鵜呑みにしたがる大多数の文科系大衆の観念も、合理性追求よりも目先の気分感情が満足することの方が「心」であると、人間性か何かであるという短絡的発想に基づいた思考バイアスが促す意識マスキングによるものである。



意識マスキング、すなはち論理検証性における情報の狭窄や変偏の原因とは。見たくない、認識したくない事実をなかったことにしてしまうという気分感情のバイアスによって生ずるものである。

「心」とか人間性といったものを論じようとすると、大衆の多くは宗教的な観念に頼る傾向が見られるが、宗教などの非合理的思想自体がそもそもヒトという種の生物の先天的な気分感情バイアスにとっての満足感や安心感を得ることが目的であって。 社会安全性や持続可能の源となる個人の自律的な社会的責任判断にとって、宗教というのは何の意味も持ち得ない。

そもそも宗教というのは気分感情という先天的本能習性の「結果」でこそあれ、そこに「目的」意識というものは最初から存在しないのである。

その意味において「宗教はアヘン。」に過ぎないわけだが、それは宗派に依るものではない以上に、むしろ社会主義や資本主義に過剰な価値を見出だそうとするイデオロギーにおいても同様である。

「これさえやっときゃ、全ては解決。」という短絡的発想は、ヒトの脳から論理検証性を剥ぎ取るのに極めて効率的である。ヒトの脳というのは大脳新皮質が肥大することによって論理検証が可能にはなっているとは言え、それは可能なだけであって常に機能するとは限らず。むしろ日常生活のほとんどは自律的論理検証とは無縁であり、その場限りに気分的満足安心を求めた行動がほとんどである。

いや、別に気分的に嫌なことを常にし続けなければ人間性が発揮できないというわけではないが。その重要度については予め検証しておく必要性はある。 宗教における説話や物語がその一助になる場合もないことはないが。大抵の場合は自分にとって気分の悪い話は無視して、気分が良くなる話だけを都合良く解釈するためだけに利用しているに過ぎない。

なぜなら社会安全性や持続可能性を目的として宗教を信じている人などいないからである。



本質的に「心」ある行動選択や、人間性といったものは何から導き出されるのかと言えば。それは社会の安全性や持続可能性を追求する自律的で環境依存的ではない論理検証性から導き出されるものであり。それは工学分野における危険学や失敗学を一般化した先にある概念と言える。

現在の危険学や失敗学というものは工学分野に特殊化されたものであり、ヒトという種の生物が持つ先天的危険性についてはあまり言及しておらず。結果的に刑法懲罰の不毛さについても論理的に言及はあまりしていない。それは畑村洋太郎にとっては「専門外」だからということなのであろうが、逆に言えばそこまで言及しても大衆のコンセンサス(気分的動機づけ)が得られないことから公的には研究が進められないという事情もあるのだろう。

だが、その結果として通り魔やテロリスト組織といったものの発生についての論理的原因究明も、当然それに伴う再発防止策についても全く研究が進まないという事態も招いているのである。

通り魔やテロリストの目的は、暴力を振るうことによる気分的満足感である。 この満足感に伴って生ずる「解決」の錯覚というものは、刑法懲罰制度のそれと全く同根であり。社会安全性についてほとんど何の意味も為さない。

刑法懲罰の判決は、裁判制度上も社会的(多数決的)にも「解決」であるとみなされており。それ以上の原因究明も再発防止策にも一切言及することはない。

残虐な通り魔が発生したとして、通り魔を死刑にする判決を下したことによって。「なぜ通り魔などという非合理的な行動を彼が採ったのか?。」という疑問に対しての研究は一切行われることがない。

ISILに対する空爆攻撃も、その場限りの対処療法としての意味しか存在せず、根本的には意味を持たない。

学校教育における心理分析においては賞罰による他律強制的な行動抑圧こそが、生徒個人の自律判断能力の欠如を招き、結果として後に社会的に重大な結果にもつながることが取り沙汰されているにも関わらず。 犯罪者に対しては多数大衆の気分的満足感の追求としての刑法懲罰の重罰化ばかりが追求されているというのは、合理性に欠けているだが、その社会的無責任さについての認識は大多数の人達には存在しない。

実際に犯罪を既に犯した犯罪者に限らず、重要なのは、あくまで「個人の自律的な社会的責任判断。」であり。これは犯罪者予備軍に限らず、あらゆる「個人」が持たなくてはならないものであって。先天的学習障害などがない限り拒絶する権利はない。




養老孟司は、「ヒトは今まで実証不能の観念を振り回し、他人に多大な迷惑をかけてきた。」という事実に対し、「ヒトとはそういうものである。」などと、あたかも「ヒトという種の生物の先天的本能習性は変えることの出来ない普遍的に迷惑なものであるから、諦めて受け入れてしまえば何も論理的には考えずに済むので気分的に楽になれる。」かのような意識誘導を用いて読者を思考停止に陥れ、文科系大衆観念的な解釈によって宗教などの非論理的解決策でどうにかなるかのような錯覚を読者に促し人気を得た。

畑村洋太郎らによる論理的な解決策にはコンセンサスが得られない一方、非論理的な文科系大衆観念に迎合した不毛な観念には人気が得られるのである。

それはなぜか。

当然ながら大多数の大衆は、その場限りの気分的安心満足感を追求するだけで、社会安全性を論理的に追求するつもりが一切ないからである。 「大衆とは、そういうものである。」と頭ごなしに決め付けてしまうこともまた、養老孟司のような意識誘導による思考停止と全く同じ「思考の罠」である。

思考停止による満足感を多数で共有していれば、論理検証性が社会全体から欠如してゆくのは必然的結果であろう。当然ながら社会安全性も持続可能性も高まることはない。



Ende;
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○騙されるという無責任。

2015年12月06日 15時25分47秒 | 意識論関連
「嘘しか言わない人。」と形容すると、大抵の人はとんでもない極悪詐欺師のような人物を想像するかも知れない。

だが、実際に嘘以外を絶対に言わないのであれば、それはある意味とんでもない正直者なのでもある。

実際の詐欺師というのは、嘘と真実を織り交ぜ、嘘と真実との境界線を曖昧にすることで相手の判断力を奪うのであって、決して嘘しか言わないわけではない。

もし、形而上絶対嘘以外の真実を一切言わない、若しくは言えない人物がいた場合。その人物は常に、誰にでも間違いなく嘘であることが明白に判るような嘘であっても、絶対に嘘以外の真実を言わない、若しくは言えないので。その嘘というのはそもそも他人を騙すことが目的ですらないのである。

それに対して詐欺師というのは。相手を騙すことが目的であって。嘘を言う行為自体は手段であって目的ではない。

ヒトという種の生物の脳というのは。一度に大量の情報を記憶し、把握し、理解することに限界というものがある。

ヒトの脳というものの限界、いうなれば自分の脳には限界があるという現実すらも、ヒトの多くは忘れてしまっている場合が少なくない。

振り込め詐欺の被害者のほとんどは、実際に自分が騙されるまでは「自分だけは絶対に大丈夫。」だと信じ込んでいるのだという。

普段の生活の中では、自分の脳の限界まで物事を記憶し、理解し、判断するといったことはあまりない。だから大抵の場合は自分の脳で判断可能な範疇だけで判断しているため、自分の判断力はどんな状況においても常に正常であると錯覚してしまうことが少なくない。

経験則などの断片的な統計数値というものは、論理的な絶対性の証明にはならないにも関わらず、ヒトの多くは「いままでずっと大丈夫だった。」というだけで気分的に安心し、満足し、大丈夫ではない可能性についての意識を簡単に喪失するものなのである。

例えば、とある見通しの悪い交差点において、一時停止や直交する道路からの往来がないことを全く確認せずに通過しても事故が起きなかったとしよう。 それが一回や二回ではなく、100回、200回通過しても全く事故が起きなかった場合に、「この交差点は、左右確認をしなくても事故には遭わない。」という経験則を鵜呑みにするのと同じことである。

おそらく、飲酒運転を繰り返す者の多くも、「酒の一杯くらい呑んでも事故は起こさない。」という経験則に基づくことで。安心して飲酒運転をすることが平気になってしまっているのだろう。

ヒトはそもそも生物であるため、その行動は気分感情によって支配されがちであり。 「結果的に生存してさえいれば、結果的には生物として成立し続けられる。」ということでこそあれ。 しかし、「生存を目的として合理的に選択した最適な行動。」である証明にはならない。

たくさんの様々な行動傾向を持ったネズミがいて、その中から特定環境下において死なずに済むような行動を採った個体が生き残ることになったとする。

しかし、それらのネズミの行動傾向というのは、先天的に遺伝などの要因によって決定されているものであって。ネズミ自身に自己の行動傾向を選択することは原理的に不可能である。

自己の行動傾向を自発的に選択することが不可能であることにおいては、ネズミに限ったことではなく。それはヒトにおいても全く同じことが言える。

詐欺でも暴力でも、どんな手段を用いてでも生存に適した行動を採った個体が生き遺りさえすれば、それがあたかも「生物としての目的」であるかのように、従来の進化生物学は論じてきた。 だが、論理的には「生存は生物の目的。」などではなく、「結果的に生存しているものを生物と分類している。」に過ぎないのである。

「ある特定環境下において死なずに生存し続けることが出来た。」としても、その行動が単に先天的な行動傾向の結果に過ぎない場合。 その行動選択というものにおいては自己の自律的な合理的判断とは無関係であり、単なる「結果」でこそあれ、「目的」のために合理的判断力を持ち合わせている優秀さの論証には全くならないのだ。

たとえ自己の生存価にとっては不利な選択であったとしても、社会全体にとっての損害を回避するための選択を採ることは「愚か」だと言えるだろうか。

その選択というものが自己の生存価にとって不利益になる原因が、多数の愚かさに起因する場合の方が圧倒的に多いはずのなのだが。 多数の愚か者は、その多数派であるという根拠だけで多数派こそが「正常」であるとみなすことによる錯覚を認識することなく、自己犠牲すらも「愚かさ故の結末」であることにしてしまうことも珍しくはない。

「自分だけは絶対に大丈夫。」であるという自信は、時に人から自己検証という謙虚さを喪失させ、既に受け入れてしまった常識の中に存在している大きな間違いに対しての検証性を失わせるのである。

130年以上にも渡ってフランシス:ゴルトンの優生学に対しての論理反証すら誰もしてこなかった原因はここにある。

ヒトの多くは、自分の脳が先天的に優秀ではない愚かさを持ち合わせている事実を認識すると、それがあたかも存在価値の喪失か何かと勝手に妄想錯覚する傾向もあるため。 その気分の悪さから逃避するための嘘の合理性を求めて拒絶反応を示し、「自分だけは絶対に間違えない。」という身勝手な全能感覚を優先し、現実認識から逃避するのである。

理工学系の論理的な考え方が苦手な、いわゆる文科系大衆の多くが陥る合理性の欠落した身勝手な解釈こそが、ヒトという生物の脳の不都合な真実からの逃避を支えているのである。

だが大衆迎合は金が儲かる。 「脳化」だとか「品格」といった抽象的な話で大衆を撹乱して満足させ、あたかも何か有用な理論であるかのように錯覚させるような書籍の方が販売部数は伸びるのは事実である。 その販売部数に基づいた「世間的成功」を評価にすり替えるという手口も、文科系マスコミは平気でやる。

こういった詐欺をマスコミが平然とやらかしておきながら、振り込め詐欺が減らないのもむしろ必然であろう。






テロリストが暴力を用いて人々を恐怖によって服従させようとする考え方は、刑法懲罰を用いた強制的法令遵守と全く同じものである。 こうした手法には、個人の自律的な社会的責任判断選択の重要性が最初から抜け落ちており、一方的に服従させ支配しておくことだけが目的化してしまっている。

「怖いから従う。」というのは、ほとんど幼稚園児の判断基準であり、「従ってさえおけば全ては解決。」という為政者の短絡性に基づくものでもある。

社会を構成する個人が、なぜ自律的に社会的責任判断選択を優先せずに利己的な感情論に基づいた行動を採ってしまうのかについての合理的な原因究明や再発防止策が刑法裁判には全く欠落しているという、国家権力にとって不都合な真実についても、文科系大衆の多くは様々な屁理屈を陳列枚挙して隠蔽するのである。

こうした文科系特有の愚かさを全く認識せずにISILなどのオカルト集団の原因究明にもつながらないのも必然と言える。




Ende;
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○カレンダー。

2015年12月03日 00時58分13秒 | 日記
2009年のカレンダーって今年と同じだったんだね

http://www.suntory.co.jp/beer/kinmugi/digital/wallpaper/img/wp10_1024_768.jpg

今更気付いてもなんだが。

Ende;
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