伊集院光が ナイジェリア人と日本人のハーフの子が自転車用ヘルメットをかぶって寿司を持ってきたら「何か嫌」と言って問題発言として扱われていた
伊集院もナイジェリア料理店でナイジェリア料理をナイジェリア人がサーブしてきたら何の違和感もないのだろうが 食事というのは生存の根幹に関わる本能に直結したものであるため 慣れ親しんだもの以外に観念的違和感を主観的に感じて「何か嫌」だと思ってしまうのであろう
インド料理のお店で スパイスの香りが充満している店内で インド人の料理人が寿司を握って出してきたら 別にインド人を差別する意図が全くなくても大抵の日本人は「何か嫌」だと主観的に思うのではないだろうか
昔 アボカド巻きを最初に見た時にはやはり「何か嫌」だったが 食べ慣れてしまえば違和感はなくなるので 結局個人的好き嫌いというのは習慣的「馴れ」によっても左右される普遍性のないものでもある
そういえばイタリア人は 配達されたピザにメロンが乗っていたら大抵の場合激怒するという話をきいたことがある
コオロギの唐揚げは食べると大抵の人は「美味しい」と言うそうだが コオロギを食べたことのない人にとっては「何か嫌」だと感じる人は少なくないだろう
しかし タレントの井上咲良にとっては昆虫食は何の違和感もない大好物だという
「何か嫌」なのは「個人の感想」であり 主観的好き嫌いの範疇であって 伊集院は別に差別的意図目的などなかったのであろう
何に対して「何か嫌」と感じたり思ったりするのかは人それぞれであり 個人の個性の範疇であって 同性同士で愛し合ったりするのが「何か嫌」だと感じるとしても 感じている人の自由である
元バレーボール選手の滝沢ななえは女性にしか興味がないそうだが 男性から「かわいい」と言われて罪悪感を感じるのだと言うが 「かわいい」と主観的に思っているのは思っている方の勝手であって むしろ男に興味を持たない滝沢ななえに逆に萌へてしまうこともあるので 何一つ罪悪感なんぞ抱く必要性も合理的根拠もない
個人的「好き」を許容し尊重するからには 同時に個人的な「嫌い」も許容する寛容さも必要であり 女子にしか興味を持たない女子に無理に「男にも興味を持て」と強要したらハラスメントにしかならないのと同様 伊集院が寿司を持ってくる人に好き嫌いを抱くのも伊集院の個人的な好き嫌いであるから あくまで「個人的感想」であることを前提に許容すべきである
何に対して個人的に好き嫌いの感情を抱くのかは 個人の自由であり アグネス:チャン女史が「ロリコン嫌い」とどんなに強く思ったとしても 幼い女子に対する好みを頭ごなしに否定して良い理由にはならない
もちろん未成年に対する性的暴力は許されるものではないが それは別に未成年に限ったことではなく 成人であろうと性的暴力が許されないことにおいて何の違いもなく 個人の性的嗜好を否定したところで性的暴力の撲滅にはつながらない
幼い女性に恋愛感情を抱くことと 性的暴行を行うかどうかとは全く別次元の話であり 「ロリコン=未成年強姦犯」なわけではない
懲罰的に糾弾して方向性のない攻撃でもしておけば主観的には満足感や達成感のようなものを主観的に感じるのかもしれないが それは客観的には何の合理性もない「勝手な満足」にしかならない
多様性を許容するということは 個人的な好き嫌いの違いを許容すると同時に 自分の個人的好き嫌いというものが社会的には何の意味も持たない「個人の感想」の範疇に過ぎない個人的で「勝手なもの」に過ぎないことを自覚する必要がある
個人的な好き嫌いに違いがあって当然であり 互いの好き嫌いの違いを許容する社会こそが本当の公平というものでもある
岸田首相の荒井秘書官が「日本を棄てる人が出てくる」などと称して性的多様性を許容したがらなかった事例があるが 多様性を許容する日本が嫌いで多様性を許容しない社会の方が良いと思うのであれば北朝鮮にでもロシアにでも亡命して頂いて結構である
むしろ そんなに心の狭い方であるなら日本からとっとと出ていって頂いてもらいたい
私自身も男性同士のカップルには「何か嫌」という主観的感想を抱いてしまうのだが そんな個人的好き嫌いは私の身勝手な感情論に過ぎないことを自覚しているので それを社会的行動に結びつけることはないし 結びつけるべきでもない
社会というものは個人的好き嫌いのために存在しているわけではなく 多様な個人を許容することで成立するものだということを理解しておく必要がある
「本当に嫌なこと」というのは 「赤ん坊が丸焦げにされること」であり これは世代をつなぐ持続可能性や安全性の根幹に関わる「好き嫌い(欲望)」でもある
虐待で子供を殺してしまった親に懲罰を与えても虐待そのものがなくなる論理客観的根拠は何もない
それは通り魔やテロリストを死刑にしても通り魔ややテロがなくならないのと同じであり
東条英機を戦犯として死刑にしても戦争がなくならないのと同じことである
様々に生じてくる選択不可能な欲望に対し どの欲望を優先して目的行動選択を行うかが「人間」性や「人格」を形成するのであって 生育環境だの個人的好き嫌いに基づく情動の強度程度だけで行動が決定していたのでは「ヒトという種の生物」ではあっても「人間」ではない
そうした理性が伴って「人格」だと言えるのであって 個人的好き嫌いは「人格」の論証にはならない
「殴りたい」という情動が働いたとしても 「殴っても何の解決にもならないばかりか むしろ問題が酷くなるだけだ」という理性による自律的な行動選択によって 「人間」性としての「人格」として機能するのである
DV保護法の改正があったが 被害者を保護しただけではDVの根絶にはならない
なぜ暴力者は暴力で解決しようとするのか その非合理性はヒトの先天的な「社会性」に起因するものであり 身勝手な「道徳観」の暴走によるものである
相模原障害者施設津久井やまゆり園虐殺事件の植松聖に対して梅沢富美男が「こんな奴は裁判なんぞ要らぬ 死刑にしちまぇ!」と怒鳴り散らしたことに対して衆愚の多数から同調され人気を集めたが 植松を死刑にしても理不尽な虐殺事件の根源的原因究明にも再発防止にもつながらない
これもまた 多数衆愚による身勝手な「道徳観」に基づくものであり 多数で同じ観念を共有して主観的満足や安心をすることによって「解決した」と倒錯しているに過ぎない
チンパンジーが喧嘩になった場合に散々騒ぎ散らしたことで脳内物質の相転移が生じて急に「和解」したかのような状態になることに対し 衆愚マスコミは「チンパンジーは賢い」だの「偉い」だのと形容しがちだが ヒトが掴み合いの喧嘩で怒鳴り散らしたことで脳内物質の相転移で仲直りしても そんな酔っ払いのような「和解」行動は人間としての社会性の論証には一切ならない
チンパンジーは情動と行動が直結しており 先天的本能習性に抗うことも選択することもできない
ウラジミール:プーチンと「和解」するためにいちいち直接掴み合いの喧嘩をして感情的な怒鳴り合いでもして脳内物質の相転移を促すことを「人間性」だとでも言うのであろうか
そんなチンパンジーや酔っぱらいの「和解」プロセスは人間としての社会性の論証には一切ならない
DV男が散々女房を殴った後に 脳内物質の相転移で副交感神経が優位になったことで急に優しくなったことで「本当は優しい」だの「本当は愛されている」などと倒錯してDV男と離れられなくなる盲目的洗脳状態に陥るのも ヒトの先天的な認知上の重大な欠陥に起因するものである
日本大学の田中英寿理事体制に大多数の職員共が長期間に渡って迎合同調忖度服従し続けたのも 脳内物質によって促される情動的恐怖や安心満足に無意識に流され続けた結果である
「情動」というのは先天的に決定している大脳辺縁系という脳の古い領域によって促される機械的シーケンシャルで原理的に選択不可能なものである
「欲望そのものを欲することはできない」のであって選択可能性というのは欲望や情動の方にあるわけではない
自分の大脳辺縁系は自分では選んでおらず そもそも大脳辺縁系が形成される源は遺伝的進化による祖先の生息環境に依存した「結果」であって 欲望も情動も何一つ個人において選択可能性など存在していないのである
選択不可能であるということは自由でもないということでもあり 選択可能な自由意志というのは欲望や情動に無為に流されることではなく むしろ欲望や情動を抑制する理性にこそ存在するのであり 自己の主観的好き嫌いに流されることなく社会的行動選択をして初めて「人間」性や「人格」だと言うことができるのである
繁殖能力が既にある女子中学生に性的興奮をして強姦して妊娠させても ヒトという種の生物の繁殖行動としては「正常」であるが それは社会的には「人間」とは言えない
欲望に抗う理性なくして人間とは言えないのであって 犯罪者に罰を与えたいという感情論で主観的に安心満足したことを短絡的に「解決だ」と倒錯することもまた社会安全性を優先しない無責任な判断だと言える
世の中には不公平や理不尽なことはまだまだたくさんあるが それら課題を一つ一つ地道に合理的解決策を「考え」てゆくことが人間としての知能であって 「間違えている奴には暴力を加えてしまえ」というのはチンパンジーやゴリラの正義でしかない
ヒトは農耕を始めたことで集団規模が大きくなったことが紛争の原因だと言われているが こうした環境によって促される情動が行動に直結している環境依存的行動「結果」を原因だとみなすのは ヒトの理性による行動選択可能性を無視した先天的本能習性だけで人間性を立証しようとするバカ生物学者共の勝手なこじつけに過ぎない
格差や不公平というものは単なる法的手続きだけでは問題解決にはならず 常に変化する実情に即した「改正」を必要とするものであり そのために民主的議会というものが必要なのである
「脳内物質の相転移で和解しときゃ良いんだ」という「チンパンジーの和解」プロセスを人間社会に適用しようというのはあまりにもバカげた発想である
強盗殺人犯やテロリストや通り魔は 多くのヒトは主観的には「許さない」と思うであろうが 「許す」「許さない」という主観的感情は理不尽な暴力者の根源的原因究明や再発防止にはつながらない
いくら暴力を「許さない」と主観的に思ったところで それは所詮「個人の感想」の範疇であって 具体的な問題解決には全くつながらないのである
ヒトの多くは自己の主観的感想を意識の本質だと錯覚している だからこそ犯罪者は「殴りたいから殴る」ことを正当だと倒錯しているのであり 「一つの大きな事象の陰に隠れている無数の小さな事象」としての倒錯や錯覚を自覚しない限りは暴力の根絶にはつながらないのである
虐待で子供を殺してしまった親に 司法判決で懲役罰を加えても虐待死はなくならない
虐待のほとんどは 親が幼少期に虐待を受けて育ってしまったことによって 自律的に物事を考え行動選択することや情動を抑制することが出来なくなってしまっているのが原因である
これは「刑法判決で解決だ」という社会の中でそれを「常識」として刷り込み学習している大多数の衆愚の無知無能と構造的には同じものである
ヒトの多くは自分の頭で論理客観的に物事を考え 本当に重要な事柄 本当に必要な事柄が何かを自律的に判断選択することをしないものである その原因はヒトという種の生物の先天的な認知上の重大な欠陥に因るものであり 自己の主観的感想を短絡的に「自由意志」だと倒錯していることにある
DV保護法改正では 保護期間が1年から2年に延長され 罰金が100万円から200万円に増額されたが そもそもDVなんぞやらかす奴に罰金の増額はほとんど効果がなく 何年被害者を保護しても加害者側を「治療」しないことにはDVはなくならない
被害者保護も必要ではあるが それ以上に加害者側の「治療」も重要であり 失敗から教訓として学ぶことによって再発防止に活かすことも必要である
強盗殺人をやらかすような著しいバカが発生する原因というのは 一般衆愚マスコミの頭の悪さ(無数の小さなバカ)を見逃していることが要因である
宮台真司が理不尽な主張をしたからといって「包丁で刺す」といった暴力で何かが解決するわけではない
言論に対しては言論で対抗する たとえ多数の衆愚マスコミが理解しないとしても それは理解能力の低い衆愚マスコミの問題であって 死ぬまで誰も理解できないとしても言論には言論で対抗し続ける忍耐が必要である
「理不尽な主張をする奴が嫌い」なのは「個人の感想」であり 理不尽かどうか 合理性に欠けている主張かどうかは理論的に反論すべきであって それが多数の衆愚マスコミから人気を得られないとしても言論に対しては言論で反論しなければならない
科学や哲学としての真理(本当のこと)の追求というのは 多数衆愚マスコミによる人気投票で決定するものではなく あくまで論理客観的論証によって「磨かれる」ものである
刑法懲罰というものが犯罪を減らす効果が薄いことは ノルウェーの「リゾート刑務所」によって「実証」されているのであって 被害者や大衆の感情的には「嫌」だと主観的には感じるかも知れないが 犯罪者の多く 刑務所で服役している人の多くは幼少期に暴力を伴う虐待を受けて育っているという社会的不公平が関係しているのである
虐待が連鎖するのはチンパンジーなどの他の霊長類でも見られる先天的本能習性によってシーケンシャルに促される無意識な行動である
環境に左右されてしまうのは 主体的な「自律」判断選択が欠如しているからであり 世間の根拠のない「常識」の歪みがスペクトル的に現れることによって 正規分布上で激しいバカが犯罪に陥ることになるのである
正規分布上は大半のヒトは犯罪には陥らないが 制限速度を守らないとか 駐車禁止の場所に車を停めるなどの不法行為を一切したことのないヒトなどいないであろう
時折無駄に暴走して赤信号に詰めようとするバカを見かけることがあるが そいつにとってはそれが「常識」だと信じ込んでいるから治らないのである
刑法懲罰というものが社会安全性にとって無駄であることは統計的にも論理的にも立証されているにも関わらず ヒトの多くは「刑法懲罰判決で解決だ」という生育環境によって刷り込み学習された「常識」を盲目的に信じ込んでいるからこそ いつまでも無駄な因習に取り憑かれ 実効性のある対策がなされず 結局社会情勢という環境依存性によって犯罪が増えることになってしまっているのである
貧困格差が犯罪の一つの原因だとは言えるものの しかし貧乏人だけが犯罪を犯すわけではなく ロシア大統領や北朝鮮労働党書記長であっても国際法を無視した暴挙に出ることはある
「金持ちはケチな犯罪を犯さない」とは言えるものの むしろ重大犯罪は金持ちの方がやらかすものである
日本大学の田中英寿理事長も 原発を暴走させた東京電力の取締役員達も 東芝の取締役員達も 角川や青山の社長も 貧乏ではない
ホリエモンだって同じだろ
貧富格差という環境に左右されてしまう環境依存性が犯罪の増減に影響してしまうのは 元々犯罪予備軍の存在が環境変化に呼応する形で犯罪増加という結果をもたらしているのであって 貧富格差そのものが犯罪の根源的原因ではない
もちろん貧富格差は公平性や人権の観点からは解消しなければならないが それは犯罪との論理的相関はない
ヒトの脳というのは利己的利益を優先するようにしか出来ておらず 究極的な利己を論理客観的に追求して初めて社会的責任にまで意識が働くようになるのである
「バスケのプレーで脳波同調による協調性が得点獲得に有利に働いた」だとか 「将棋の指し手を直感で見抜く」といった「世間的成功事例」だけを挙げておけば 衆愚マスコミは「良いことづくめ」などと称して万能であるかのように倒錯するが これらは「世間的成功事例」が利己的利益に直結していることから短絡的に「良いことづくめ」だと満足感があるから倒錯しているだけであって 一面的効用の抽出だけで脳が満足して万能であるかのように倒錯しても もっと「人間」として重要な社会安全性や公平性とは無関係であることには誰も気づくことができない
これもまたヒトの先天的な認知上の重大な欠陥が原因である
脳波シンクロによる協調行動というのは ヤクザや強盗でも働いている可能性はある
直感的に警察に捕まらないように逃げられても人間性の論証にはならない
それらは生物として生存にとって有利な利己的行動合理性の立証にはなるものの 人間としての社会性には全く適合しない
カマキリが兄弟同士で共食いをすることで 結果的に生物として存続することが可能だとしても それは全て「結果」であって 「生物としての存続」しさえすれば「生物としての存続」に対する結果的合理性があるのは必然であり 生物やその遺伝的進化の全てはチャールズ:ダーウィンが言うように「自然現象」に過ぎず 生物やその遺伝的進化には「目的」に則った合理性は存在しない
オジギソウが刺激によって枝や葉が動く性質も オジギソウが「天敵に食べられないように進化を選んだ」わけではなく 動く性質を偶発的に獲得した結果として葉がより大きく動く変異へと淘汰され収斂進化した結果であって もし植物が意図目的に基づいて進化を選べるのであるならばオジギソウ以外の植物が外部刺激で動くように進化をしないことの説明がつかないのである
iPS細胞研究でノーベル賞を受賞した山中伸弥もまた 遺伝的進化に対して「偶然とは思えない」などという主観的感想に基づいて遺伝的進化に意図目的が介在するかのような説明をしていたが 所詮は論理思考のできない「バカ生物学者」の範疇に過ぎない
「思える」かどうかは論理客観的論証の根拠には全くならない
主観的感想を科学に持ち込んでしまっていたのでは科学者としてデクノボウにも程があり 正に「ジャマ中伸弥」という他ない
論理的理解ができずに非科学的デマを流布しているのであればノーベル賞も返上すべきである
ヒトという種の生物の先天的本能や習性は全て遺伝的進化の「結果」であり そこに合理的な意図「目的」のようなものが介在する余地はない
どんなに戦争や犯罪のような「人災」が無くなるように願おうが祈ろうが呪おうが 後天的願望は先天的要素には影響を及ぼさない
暴力を用いて物事を「解決」だと倒錯しないヒトに進化が促されるためには バカを片っ端から殺害するか 断種政策を採る必要があるが それを実行しようとすることそのものが個人の人権を無視したバカの骨頂である
ヒトは遺伝的進化のプロセスである淘汰圧力から逃れることによって安全で公平な社会を目指してきたのであり 遺伝的進化を万能だと倒錯しているバカ生物学者の主張を鵜呑みにしていることもまた 社会的に極めて無責任な「同罪」である
だが 「罪」というものは「間違い」であって 罰で解決するべきものではなく 間違いの原因究明をして再発防止をすることで 似たような間違いに陥らないための教訓知識とすることで 社会安全性を高めることができるのである
スポーツや将棋で金儲けや社会的成功をすることが人間としての価値になるわけではなく たとえ誰からも評価されないとしても社会安全性や公平性を基準とした「真理(本当のこと)」を追求して 初めて「人間」としての価値になるのであり 多数人気や世間的成功は無関係である
世間的成功例さえ挙げておけば衆愚マスコミは糠喜びして脳波同調だの直感を万能だと倒錯し盲目的に脳生理学研究者の主張を鵜呑みにするが 「自由意志など存在しない」などという荒唐無稽な非科学的デマを流布している脳生理学研究者なんぞを東京大学で雇っている社会的無駄に言及すべきであって デマを鵜呑みにしていたのでは報道としての社会的役割の放棄にしかならない
ゴリラがゴリラ社会において平穏だとしても それはゴリラの生息環境に依存した結果であり 山極寿一が入りこめば頭を噛まれることにもなり
チンパンジーも食料が枯渇するという環境変化に依存してヒヒやゴリラを殺害するのであり
ヒトの大半が戦争をしないからといっても 実際に戦争は起こるのである
山極寿一は「ヒトの大半は戦争をしないことを知れば 戦争はなくなる」などという論理的には何の根拠もないデマで衆愚人気を集めているが 衆愚人気は科学的論拠には一切ならない
「金がなくなったから強盗をした」などというのも環境依存性であり そういうバカは逆に金や権力に取り憑かれれば談合でも組織腐敗でもやらかすものであり 「食い物に困ったからゴリラを殺したチンパンジー」と行動原理は同じである
霊長類の大半が平穏に暮らしているのは 平穏に暮らせることが可能な生息環境に依存しているからであって 主体的に平穏な社会を求めて自らの遺伝的性質を都合よく書き換えたわけではない
それはヒトも同様であり 先天的な本能習性任せに「人間性」が発揮されるようには遺伝的にはできていないからこそ通り魔やテロや戦争のようなバカげた最終解決に暴走するバカが後を絶たないのである
「目的意識」という言葉があるように 目的とは論理客観的検証性という意識なくしては簡単に見失うものであって 目先の情動や欲望に流され 「信じたい話」だけを信じ込んでいても人間としての「意識」や「知能」とは言えないのである
「知能」が働いていないから「バカ」なのである
なぜ「知能」が働かなくなるのかと言えば 「自分だけは絶対に間違えない」という自己過信による盲目性(人間としての欠陥)が先天的情動に組み込まれているからである
繰り返すが バカは遺伝的進化ではなくならない
そもそもヒトは遺伝的進化から逃れた存在であり 「バカを殺し断種すれば頭が良いように進化する」などという発想そのものがそもそもバカ丸出しなのである
ヒトは先天的に認知上の重大な欠陥を 進化的に持っている存在であって ハードウェア的な先天的欠陥を 後天的にソフトウェア的な知識教訓による「パッチ」をあてることによって ヒトは「賢く」なること「も」可能である
たとえCPUにバグがあったとしても ソフトウェア的にバグをリカバリーすることが可能であり 将来的にゲノム編集などで先天的バグを改善可能になるまでは 現状の「ヒト」というハードウェア上で認知上の重大な欠陥をリカバリーしてゆく他に選択肢はなく
主観的安心満足に溺れることなく 常に論理客観的に「目的意識」を持って検証する知能を 半数以上のヒトが持たなければ民主主義はバカ主義に陥ることを避けられない
ヒトの多くはイマヌエル:カントの「純粋理性批判」における「理性を超越した悟性」だの「純粋統覚」だの「絶対に知覚することのできない叡智界」などといった根拠のない実証不能の謎の観念に誰も異論を唱えてこなかった
しかも科学哲学者カール:ライムンド:ポパーですらカントを評価していたという話もある
現代日本人の大半も 養老孟司の著作を読んだ満足感に溺れて「自分の頭は良くなった」と勝手に倒錯し 何の疑問も持たないバカしかいない
マイケル:サンデルによる「トロッコ問題」でいくら主観的に「悩んで」も 倫理的問題解決には一切辿り着かないことには誰も気づくことはない
生物学者共の支離滅裂な遺伝的進化の説明についても 誰も何の疑問も論理的齟齬にも気づくことはなく NHKなどのマスコミも支離滅裂なデマを鵜呑みにして垂れ流すという失態を訂正すらしない
自分たちの頭の悪さを棚上げにしておいて 「どうして戦争がなくならないんだろう」などと悩んでいるのは トンチンカンなバカとしか言いようがない
Ende;