○英雄。
オリンピック選手による子供時代の危険行為を「自分を信じている。」などと短絡的に形容するのは、あまりに無責任。
世間的に成功したからといって、子供時代の危険行為を事後正当化するのは典型的な文系大衆観念である。
スポーツだの芸術だの占いで世間的に成功しても、それは短絡的に人間としての価値にはならないし。過去のあらゆる行為が正当化されるわけではない。
世間的に成功したからといって、虐殺侵略を英雄扱いする文系大衆観念には合理的根拠が全くない。結果的英雄を観念的に事後正当化するから通り魔などという訳のわからぬ行為が行われるのである。
文系大衆が大好きなバランス問題や程度問題を持ち出してしまうと、論理検証は放棄されてしまう。結果的に成功してさえいれば危険行為であっても事後正当化されてしまうからである。
バランス問題だとか程度問題というのは、その場における当人の個人的気分による基準しか導き出さず、何ら合理性を持たない。
子供がイジメを行う時も、大人が虐待を行う時も、程度問題にすりかえることによって残虐行為は増長原因ともなりうるのである。当人が「これはイジメではない。」とか「シツケの一環だ。」と主張したからといって、そんな個人的基準が社会で通用したのでは問題の全ては撹乱されてしまう。
実際現状世間においては撹乱されている。
原発が暴走するまで放置されたのも、程度問題やバランス問題にすりかえられていたからである。
「この程度なら、大丈夫だろう。」という大雑把な程度問題で気分的に安心満足する文系大衆観念こそが、あらゆる「人災。」の根源的原因になっているのである。
生物学者達が「人間らしさ。」などという大雑把な程度問題で安心したがるからこそ、ヒトという種の生物の危険性は一切科学的検証も行われずに放置される。
大衆の多くも、こうした気分的安心こそが安全性であると錯覚し、安心と安全性の論理的区別が出来ないからあらゆる「ヒト」が引き起こす「人災」は放置されているのである。
Ende;