書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

スパルタ。

2013年10月30日 14時47分55秒 | 意識論関連


 米海兵隊などというのは、さぞかしスパルタ教育なのであろうが、実際には沖縄で不祥事を繰り返している。

 スパルタ的に人工的権威や力を用いて抑圧しておけば、その場限りには従順さを発揮させることは簡単なことであるが、個人の人格としての自律的な社会的責任判断能力の構築には全くならない。

Ende;
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妄想力。

2013年10月30日 14時43分54秒 | 意識論関連
○教祖の想像力。

 松沢哲郎が提唱するシンボルと記憶のトレードオフ説というものも、単にチンパンジーとヒトとの差異を論証しただけであって、ヒトという種の生物が常に人間として振る舞うことの論証には全くならない。

 ヒトという種の生物でありさえすれば、常に必ず人間としての行動選択を採るという短絡的なものではなく、チンパンジーとヒトとの差異をどんなに論証してもヒトという種の生物の短絡的人間性の立証にはならない。チンパンジーとヒトの差異をどんなにたくさん抽出枚挙しても、それはヒトという種の生物の特異性を論じているだけであって、ヒトが人間として振る舞うための人間性を証明したことには全くならない。

 ヒトでありさえすれば必ず100年後の未来を憂うわけでもなく、地球の裏側の出来事に配慮が働くわけではない。自民党の石破茂は公然と「地球の裏側の人間が何を考えているかなど、絶対にわからない。」と言い張ったくらいである。

 チンパンジーとヒトの差異さえ陳列しておけば、「人間とは何か。」が論証可能であると思うのは、ヒトという種の生物を短絡的に人間性の証明であると見なす観念に基づく進化生物学者達や大衆マスコミの妄想であって。松沢は自身の研究を短絡的に業績(文化功労賞など)として評価されんがために、ヒトの研究もロクにせずに業績を捏造しているだけである。

 シンボル機能が人間性の論証にならないことは既に何度も述べたが、単なるシンボル機能や言語能力であればテロリストでも詐欺師でも持つものであって、シンボル機能が人間性の論証には全くならない。

 想像力の大きさだけを論じても、利己的欲望を優先した行動を選択していれば人間性を伴うことはなく。ヒトが人間として振る舞うためには欲望本能に左右されない論理検証性が不可欠である。

 カルト宗教の教祖が、どんなに大きな想像力を発揮しても無差別テロにしか至らないのと同様、単なる想像力の大きさだけでは人間性の論証には全くならないばかりか、むしろ想像力というのは無差別殺人における根源的原因に他ならない。

 いつ発生するかもわからない過酷事故の社会的負担よりも、組織にとって有利な選択をすることで保身を優先していたからこそ東電社員達は原発の危険性を放置したのであり。「原発の危険性を提唱すれば会社にいづらくなるかも知れない。」という想像力を働かせることによって原発の危険性は放置されたのである。

 イジメを放置傍観する子供達は、「イジメを止めたりすれば、自分が標的にされるかも知れない。」と想像力を働らかせ、「どうせ卒業しちまえば関係ない。」と予測するからこそ放置傍観するのである。

 体罰を繰り返す教師達は、自分の評価成績を妄想し、社会的責任を放棄するからこそ体罰を正当化するのである。

 ストーカーが一人の相手だけが人生の全てだと妄想するのも、ヒトの本能的習性としての想像力の暴走によるものである。

 どんなに大きく壮大な妄想を強力にしても、自律的な論理検証性が伴わない限り、人間性を伴う判断選択にはつながらない。

 想像はヒトの習性である。振り込め詐欺師に騙される被害者も、電話の内容だけから勝手に妄想するからこそ被害に遭うのであり。テロリスト達は暴力によって自分達の理想に則った世界を構築しようとする。

 進化生物学者達がヒトという種の生物の本能習性だけで人間としての社会性を立証するという妄想のために非科学的観念を開陳し、本論を黙殺隠蔽するのと同じである。当人達に組織腐敗の意識はないかも知れないが、それはテロリスト達と同じで自分達が絶対に正しいと妄想しているであって、妄想を妄想であると認識する自己論理検証性がないから組織腐敗なのである。

 想像力というヒトという種の生物学的習性を論じても、短絡的に人間としての論証にはならない。

 進化生物学者達は無意識でしかない本能習性という「結果」論だけで、人間としての社会性を論証したがるが。本能習性に基づく気分感情に左右されずに自律的に論理検証するという本質的な「目的」意識なくして人間性を論ずることは構造原理的に不可能である。

 松沢哲郎も含め、現在の進化生物学全体に自律的な論理検証性が欠如しており、もはや科学としての社会的役割は一切果たしていないばかりか、弁証法的議論を撹乱することで自分達の組織体制を維持することしかしていない。これは合法的犯罪である。

 松沢哲郎はオカルト進化生物学の教祖に他ならず、こんな犯罪者に文化功労賞なんぞ与えるべきではない。

 組織体制腐敗というヒトの習性としての「文化」までも正当化していれば、あらゆる「人災」に論理的対策がされないのは当たり前である。

 芸術やスポーツなどの文化と科学業績を混同すべきではない。芸術やスポーツは多数決でも構わないが、科学的理論は多数決で決定されるべき性質のものではないからだ。

 ◇

 「人間とは何か。」を論証するためには、チンパンジーとヒトとの差異といった先天的習性論からでは構造原理的に不可能であり。ヒトという種の生物における人間性を論証するためには、ヒトを研究しないことには不毛極まりない。

 「チンパンジーと違うから人間だ。」などという話は、大衆マスコミの妄想に過ぎず、「ヒトという種の生物でありさえすれば人間である。」という大衆観念的妄想に基づいたオカルトである。

 ヒトは先天的には人間ではない。構造原理的に自己選択を介さない先天的本能習性という「結果」をどんなに陳列しても、それらは常に無意識な行動思考バイアスに過ぎず、個人の主体的意志に基づく自律的論理検証性を持った意識的目的行動選択にはならないからだ。

 そもそも「生物の目的は生存」などと信じて疑わなかった時点で、現在の進化生物学には論理検証性が大きく欠如している。こうした「結果」と「目的」の論理的区別も満足に出来ないようなポンコツ研究者の論証を鵜呑みにしている大衆マスコミの頭の悪さもまた犯罪的である。

 優生学のようなオカルト観念に対して、従来の進化生物学は根源的な否定を一切しておらず、これは怠慢と言う他ない。優生学も含めて、単なる無意識な行動バイアスの「結果」をどんなに陳列枚挙しても、それは意識的(論理検証的)な「目的」行動選択の論証には一切ならない。従って、どんなに先天的に生存に適した能力を獲得していても、それが短絡的に人間としての目的行動選択の論証には全くならないのである。

 ヒトという種の生物の本能習性を利用すれば、論理検証性のない文科系大衆の脳を安心満足させることで現状世間的には成功し、文化功労賞を採ることも可能であろう。それがどんなに「生存」に適しているとしても、人間としての「目的」の論証にはなり得ない。多数のバカを騙して世間的に成功するというのは、現状世間における「結果」に過ぎず、人間性を伴った「目的」行動選択の論証には全くならない。

 こうした論理的に根源的な構造原理も理解せずに、現在の進化生物学者達は自身の研究を無理から業績として捏造せんがために、「結果」と「目的」の論理的区別を黙殺隠蔽するつもりである。

 NHK教育テレビ「サイエンスZero」の竹内薫も、生物学的結果論を目的とすり替えた論証を鵜呑みにしているポンコツである。どんなに大量の知識を「知って」いても、何が論理的に正しいのかも判断出来ないようなバカでは科学者としては不適切である。

 知識の「量」だけで「質」を伴わないのは、自律的な論理検証性がない証拠である。だから科学者としてポンコツなのである。そりゃ糞の役にも立たないのは当然の結果である。


Ende;
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京都大学教授松沢哲郎の文化功労賞は取下げるべきである。

2013年10月28日 16時09分01秒 | 意識論関連
○京都大学教授松沢哲郎の文化功労賞は取下げるべきである。

 松沢は「チンパンジーの行動習性から人間としての社会性を立証できるかも知れない。」などという非科学的予測を立てておいて、実際には立証不能だと知ると今度は「想像力が人間性を作るのかも知れない。」などと、その場限りにのらりくらりと言い逃れや取り繕いを繰り返すペテン師である。

 そもそも松沢が動物的行動習性から人間としての社会性を立証しようとしたのは、従来の生物学では動物本能的な社会形成習性というものを短絡的に人間としての社会性と混同していたことを事後正当化するための取り繕いに過ぎず。論理的には立証不能な大嘘に過ぎない。

 大衆マスコミは論理的に検証することよりも、現在の進化生物学界内部での多数決を根拠と見なし、あたかも論理的な裏が取れていると勝手に錯覚して垂れ流し、「素晴らしい。」などと形容していたことを事後正当化するために、論理的反証の全てを黙殺隠蔽するつもりである。

 そもそも動物本能的な習性の全ては、個人の意識的論理検証性を介さない無意識な行動バイアスの「結果」であって、そこに人間としての「目的」行動選択が介在する余地など論理的に存在し得ず。人間性というものは個人の主体的で自律的な社会的責任判断なくして成立するものではなく、意識的な「目的」行動選択によってのみ生ずるものである。

 先天的な行動バイアスに過ぎない本能習性だけで人間性を論証するなどということは構造原理的に不可能なお伽話であり、大衆マスコミの大脳辺縁系を満足安心させるだけの大衆迎合に過ぎないことを、ヒトの多くは全く認識していない。

 ソマティックマーカー仮説などという先天的な行動バイアスを立証したところで、現実のヒトが常に人間性を伴った正しい行動しか採らないことの論証には全くならず。如何なる本能習性を陳列枚挙してもヒトという種の生物の危険性の論理的反証は構造原理的に不可能なのである。

 チンパンジーの代わりにシエラレオネの少年ゲリラや振り込め詐欺師を鋼鉄とポリカーボネートのケージに押し込め、彼らが一体どういった行動を採れば残虐性や嘘の反証になると言えるのであろうか。「こういった行動を採りさえすれば、論理的に反証することが出来、しかもそれに対する反証の全てが不可能であることの証明。」も存在しないにも関わらず、本能習性によって人間としての社会性を論証することは構造原理的に不可能であり。論理的に不可能な立証を「出来るかもしれない。」などと言い張った松沢は科学者として無能であり、大衆迎合的ペテン師に過ぎない。

 こうした論理的証明というのを一切無視し、進化生物学界内部の多数決だけで評価されていても、科学的には全く価値を持たない。

 従来の進化生物学では、生物本能的なSocialism(社会性)というものを、短絡的に人間性を伴った社会性であると無為に錯覚していた頭の悪さを隠蔽するために、あれこれと松沢のような言い逃れや取り繕い、こじつけを繰り返すことで隠蔽黙殺するつもりである。

 生物学に限らず、哲学などの人文科学系においても、意識的「目的」と本能習性の「結果」の区別は誰も論じたことはなく。全くもって文科系大衆に迎合した非科学的観念が科学として分類評価されているのが現状である。

 松沢は本能的行動習性からは人間としての社会性を論証出来ないことがわかると、今度は「想像力があるから人間なのかも知れない。」などと、その場限りの言い逃れをしている。単なる想像力というのは観念的妄想も含めたものであり、振り込め詐欺師が被害者を騙す時にも用いるものであって、単に想像力がありさえすれば人間性が構築されるなどという短絡的でバカみたいな話は語るに足らない。

 振り込め詐欺師に引っ掛かっている被害者達は、振り込め詐欺師の電話の内容だけで勝手に「想像力」を働かせ。イジメを傍観する多数の生徒は「イジメを止めたりしたら、今度は自分が標的にされる。」ことを「想像」して傍観放置するのであり。「想像力」だけで人間性を論証することなど最初から不可能であることは明白である。

 東電原発安全担当者は、「原発の津波に対する危険性を上司に提言すれば、会社の損失になり会社を辞めさせられるかも知れない。」と想像力を働かせたからこそ傍観したのである。

 単に想像力だけならチンパンジーでもカラスにでも存在するものであり、自律的な論理検証性を追求するという人間としての意識なくして人間性など立証不可能なのである。

 人間としての社会性など、人間性を伴う行動判断選択といったものの全てには、個人の自律的な社会的責任判断能力が必要不可欠なものであり。生物本能的な社会形成習性などの先天的無意識な行動バイアスのほとんど全ては、個人の自律を蔑ろにし、集団洗脳的に社会安全性を脅かす「悪魔の囁き。」に他ならない。

 ミルグラムによる通称「アイヒマン実験」の結果というのは、こうした本能的行動バイアスが促す危険性を論証したものであり。同時にミルグラムは「Cyberneticsの観点から。」と称して現状の進化生物学的な誤った「解釈」をもしてしまっているのである。

 特定の本能習性というものの断片的有益性を論証しても、その本能習性が常に有益であることの証明にはならない。こんなことは純粋な好奇心を持った論理的思考の出来る科学者であれば、わざわざ言わなくても自律的に自己論理検証をするものであるが。大衆や多数からの評価報酬を目的とした不純な研究者にとっては、自分の研究を事後正当化することを優先するために、科学的論理検証性を簡単に喪失するのである。

 学力が高くて、たまたま研究職に就いただけの研究者というのは、個人の主体的意志、意欲、興味といった純粋な動機では研究に邁進することは出来ず、松沢のような業績の捏造を平気で行うようになるのである。

 また、進化生物学界全体が権威に服従することで権力や地位を目的とした権力迎合者の集団に過ぎず、京都大学教授という肩書に脅えて、科学的な批判精神を全く欠いており。現在の進化生物学は科学としての社会的役割を全く果たしていないのである。

 本能習性というものの断片的有用性をどんなに枚挙しても、それは特定環境下における環境依存的「結果」以上の論証にしかならず。意識的目的行動選択としての人間性の論証には全くならない。

 あらゆる「計画的」犯罪の動機は、常に本能欲望に意識を奪われた狭窄な行動バイアスの結果であり。社会の中における個人の存在意義を無視した、その場限りの安心満足の追求である。どんなに詐欺を成功させても、自分が存在するに価する社会の在り方を無視しているからこその詐欺なのであり、これは人間としての目的行動を論理的に検証追求していないからこその「結果」である。




 既得権益を手放したくない権力者が体制維持に執着するのは必然的結果である。それは北朝鮮や中国共産党を見れば明らかであり、現在の進化生物学や哲学、人文科学系学界においても同様である。

 論理的に理解不可能な観念を、「論理的な難解さ。」と勘違いすべきではない。論理的に理解出来ないことに対して、「わかった。」ような錯覚をしているのは、単なる観念的「解釈」に過ぎず、科学としての価値を一切持ち得ない。

 現在の進化生物学の文法のように、「生存のために能力を獲得した。」などという非科学的観念は科学とは言えない。「偶発的に特定能力を獲得した結果、生存に適した。」だけのことを、あたかも個体が意図的、合目的的に選択した能力であるかのように言い張るのは、オカルトかお伽話の仕事であって、科学的論証ではない。

 遺伝などの先天的要素は個体には選択不可能な「結果」に過ぎず、どんなに「結果」が生存や種の保存などに適していることを陳列枚挙しても、それが意識的「目的」行動選択であることの論証にはならない。

 どうせ文化功労賞など、進化生物学界内部の多数決で決定したに違いない。所詮は「文化」功労賞であるから、科学的根拠など要らないのであろう。映画俳優など、純粋に文化に寄与した評価とは異なり、単なる人気取りや大衆迎合だけで科学的な評価などされるべきではない。その「分別」というもの、「了見」がないから松沢が文化功労賞になるのである。

 ◇

 「チンパンジーの行動習性から、人間としての社会性が立証出来るかも知れない。」などというオカルトお伽話でも垂れ流しておけば、大衆マスコミは安心満足して「文化」に功労したことになるのであろう。

 こうした非科学的観念が優先される習性が、ヒトにはある。

 安心で満足すれば、科学的根拠など必要なくなる。原発の危険性放置も含め、あらゆる「人災」の全ては、こうした気分的な安心満足によって、自律的な社会性責任判断の喪失が存在するのである。そうでなければ「人災」とは言わないからである。

 民族や国籍では人格や人間性を分けることは出来ない。これは遺伝子工学からの結論であり、民族国籍よりも、それを根拠に差別迫害を行う個人の人格の異常性を論ずるべきである。

 ヘイト(差別)デモなどというのは、学校におけるイジメの常態化によって、差別迫害を行うことを行動学習した結果ではないだろうか。もはや彼らは差別迫害という行動に対して中毒症状に陥っているとしか思えない。差別発言を怒鳴り散らして興奮状態に陥っていなければ不安で仕方ないのであろう。

 体罰や虐待などに見られる「連鎖」も、ある種の中毒であり。行動学習的に脳に刷り込まれた行動であるからこそ事後正当化の言い逃れや取り繕いをしてみたり、止めることが出来ないのである。

 多数他者からの評価を優先し、自発的で純粋な研究が出来ないヒトというのも。「他者からの評価」中毒であると言える。これを土居健朗は「甘え」と形容したのである。

 幼い子供であれば、他者からの評価を求めていても「純粋」であると形容されても構わないが。大人が業績を捏造することを「純粋」と形容することは出来ない。

 ヒトの子供が生物的に育つためには「甘え」は必要であり、むしろ「甘え」が足りないことは「思い残し」症候群などの精神疾患の原因ともなり得る。重要なのは大人になる過程において、個人の主体的判断というものに徐々に責任を負わせてゆくことであって、こうした順序を間違えて命令規範に従わせるだけの育て方をするから自律的な社会的責任判断をしないバカが増えるのである。

 大衆観念的には、戸塚ヨットスクールや坂上忍のようなスパルタ的教育をしておけば、短絡的に幼い子供はコントロール出来るであろう。それはシエラレオネの少年ゲリラの「従順さ」と同じものであり、子供個人の主体性を育み、自律的な社会的責任判断を行えるような人格を育てるものではなく、教育方針として極めて社会的に無責任である。

 子役が世間的に成功するかどうかは、「その世間」における偶発的な結果論に過ぎず。芦田愛菜とか鈴木福がスパルタ教育を受けたから人気が出たわけでもなく、井上真央がスパルタ教育で人気を維持しているわけでもない。

 坂上忍は単に自分が受けた教育方針を、中毒的に「連鎖」しているに過ぎない。潔癖症などの精神疾患者の教育方針など、何の役にも立たないことくらいは、わざわざ語るにも足らない。



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理由。

2013年10月28日 16時08分09秒 | 意識論関連
○イジメられる理由など存在しない。

 特定個人を排除差別することによって、集団内部の結束「絆」を確認することが目的であって、イジメられることに論理的「理由」など、どうでも良い。

 多数派で同じ観念を共有することで、集団の結束を促す手法というのは、反日デモや日本国内でのヘイトデモの構造と同じものであり。差別する相手は何でも良いのである。

 ソマリアでの民族差別を利用した虐殺行為を煽ることが可能であるように、ヒトという種の生物は本能的な社会形成習性として差別排除をするものなのである。

 「ヒトとは、そういうもの。」なのである。しかし、ヒトは自律的に論理検証判断することによって、「ヒト。」の本能習性に流されることなく行動選択が可能なのである。

 大人の多くがイジメられている子供に対して「強くなりなさい。」などというのはあまりに無責任である。生物的に「強く」て良いのであれば、虐殺を正当化することと同義であり、むしろ通り魔テロリストを正当化しているのと同じである。

 むしろ大人の方がイジメに対して真摯に向き合わないことの方が卑怯であり、無責任で「弱い」と言える。

 ◇

 イジメを行うヒトというのは、集団で個人を差別し比較による優位性を妄想していないといられないからこそ、イジメを行うのであり。個人の内部に主体的意欲を持てるような純粋行為を持たないことがイジメを行う方の原因である。

 本当に熱中して夢中になれることがあれば、イジメなどという暇な行為に時間を取られる必要性はない。

 スティーブ:ジョブズではないが、「人生は短い、他人のために生きる時間などない。」のであり。イジメを行うことで得られる優位性の妄想に時間を取られていれば、下らない人生にしかならないのは必然的結果である。

 イジメや差別というのは無意識な行為であり、無意識であることというのは本能的な行動バイアスであることの証明である。先天的な行動バイアスに無為に流される以外に行動選択が出来ないということは、本質的な個人の主体的判断選択が存在しないということでもある。

 人工的権威や力を振り回す無神経な教師というのは、生徒に差別意識を植え付け、イジメを助長しているのである。

 アインシュタインが懸念した「後に重大な悪影響を及ぼす。」と予言した人工的権威や暴力権力こそが、大人が子供に対して行っているイジメの源であり、子供のイジメというのは大人から刷り込み学習された無意識な「連鎖」に過ぎない。

 イジメを行っている生徒の多くは、家庭内で精神的な安らぎが得られていないことが多いそうである。

 子供の個人的興味や純粋な好奇心を無視し、学力などの既存の世間的価値観ばかりを強要しているからこそ、イジメという現象として顕れるのであり。無神経な大人による子供に対する陰湿で無責任な強迫的抑圧こそが、子供達のイジメの根本的原因である。

 本当の人間としての価値観というのは、特定の能力評価などよりも、他人に危害を加えないという最も基本的なスキルであり。イジメなどという危害で優位性を主張妄想することこそが、人間としても最もポンコツなのである。

 そこに気付かずイジメをしてしまうから「バカ」なのである。まあ、子供なら多少の頭の悪さは仕方あるまい。子供のイジメの根源は大人の方にあるからだ。

 つまり、「イジメられる理由がある。」のではなく。「イジメる方の精神に理由がある。」のでした。こんなことは加害者の問題に過ぎないことは当然であるにも関わらず、イジメる方が多数派であることから少数派の方に問題があると勘違い錯覚しているに過ぎない。

 多数派であることは短絡的に「正常」ではないことは、何度も述べたつもりである。

 ◇

 ノーベル賞受賞者の多くは、個人の主体的意志や意欲といったものを尊重するにも関わらず。多くの無神経な教育者は学力などの既存の価値観でしか子供を評価することはない。

 だからこそ現状の教育システムでは体罰もイジメもなくならないのである。

 一発ギャグがウケただけの進学塾の講師を、視聴率が取れるという根拠だけでちやほやしておいて、「イジメがなくならない。」などと言出すのは、あまりにバカげていて語るに足らない。

 どんなに学力が高くても、イジメを抑止することが出来ないポンコツに人間としての本質的知能などない。




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○○。

2013年10月28日 16時07分13秒 | 意識論関連


 気分感情が行動や思考に直結している文科系大衆観念者にとっては、気分的に優しい気持ちでいられれば「心。」であると言い張るであろう。

 彼らにとっては自律的に社会的責任判断など「あっては困る。」ものであり、全てのヒトは情動は行動や思考と直結していなければならない。

 ヒトの多くは現在の進化生物学者達と同様、情動だけが行動や思考を決定するものでなくてはならず、現在の進化生物学の観念というのは大衆マスコミとの親和性が大変良く、大衆観念に寄り添った大衆迎合的論証だけが取り上げられることになるのである。

 チンパンジーの情動行動をどんなに検証しても、ヒトの自律的論理検証性についての論証には全くつながらず。松沢哲郎が提唱する「チンパンジーの心。」などというのは、科学的根拠のない大衆迎合に過ぎない。

 人間としての「心。」とは、環境によって左右される気分感情に関わらず、自律的に社会的責任判断を下すことであって。単なるサルの気分感情や、多くのヒトの気分感情を論じても、本質的な人間性を伴った人間としての「心。」を論証することなど構造原理的に不可能なのである。

 ◇

 イジメに限らず、組織体制腐敗を放置する無責任な傍観者の多くは、多数派や権威に迎合しておかなければ自分が排除差別対象にされることを「想像」して傍観するのであり。想像力が短絡的に人間性の根拠には全くならない。

 詐欺師がカモを騙す時にも、相手の気分感情をどのようにすれば煽ることが出来るのかを「想像」して嘘をつくのであり。現在の進化生物学界というのは、大衆の気分感情を利用して非科学的観念を温存することしか考えておらず、詐欺師集団と全く同じペテン師集団に過ぎない。

 こうした非科学的ペテン師集団に過ぎない現在の生物学の内部で、どんなに評価されようとも科学的には不毛な上に、税金の無駄遣いにしかならない。

 マスコミはどうせ文科系大衆観念でしか報道することはなく、自律的に論理検証など一切期待出来ない。それなら大学や研究機関においては理工学系研究者が検証する以外に、現在の進化生物学界の体制腐敗は改善することはないであろう。

 東大学長は、新入生に対して「全てを疑え。」と述べておきながら、京大教授の言っている内容については何ら論理検証的批判精神を持たないというのであれば、これは生徒に対するペテンでもある。

 ◇

 イジメというのはヒトに広く見られる本能習性であり、本能習性を行動に直結させないためには自律的な論理検証判断こそが人間性の論証であることに、疑う余地も論理的反論も存在しない。

 にも関わらず本能習性だけで人間性を論証しようとする松沢哲郎やアントニオ:ダマシオというのは、極めて非論理的/非科学的で、科学者として無責任極まりない。



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純粋。

2013年10月28日 16時05分42秒 | 意識論関連
○純粋。

 シエラレオネの少年ゲリラが、なぜあれほどまでに残虐性を発揮したことを「子供は純粋だから、染まりやすい。」などと形容するのであれば、「純粋さ。」などというのは人間性には無関係なヒトの本能的な社会形成習性に過ぎない。

 東京電力社内において、原発の危険性を主張することは「純粋」としては扱われず、むしろ「ひねくれ者」として扱われたからこそ排除されたのである。

 文科系大衆観念上における外見的雰囲気としての「純粋さ。」などの価値観など、現実には糞の役にも立たないことを、多くのヒトは認識すべきである。

 少数意見を短絡的に「ひねくれ者。」として取り扱うのは簡単であり、論理的に正しいとしても多数派に迎合しない少数派を排除差別するのはヒトの本能習性である。

 こうした少数派排除というのは、本能的なヒトの社会形成習性が作り出す行動バイアスであり、ヒトというのは論理的根拠よりも多数派に迎合することの方に気分的安心満足を得るものなのである。

 ヒトの多くは染まりやすいものであろうが、先天的に染まりやすいことを根拠に多数派迎合を正当化出来るわけではない。

 ヒトの多くがバカであることを根拠に、ヒトがバカのままで良いことを正当化するべきではない。

 ヒトの多くは多数派に迎合しておけば個人の主体的責任が薄まるものであると錯覚する習性がある。だからこそヒトの多くは傍観者なのであり、こうした多数派の傍観者によってあらゆる体制腐敗というものは放置されるのである。





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傍観者。

2013年10月28日 16時04分48秒 | 意識論関連
○9割の傍観者。

 イジメというものは9割の傍観者によって放置されることで発生すると言われるが。組織体制の腐敗というものも、9割の無為な傍観者によって温存されるのであり、構造的には全く同じである。これこそが生物学上における「社会性」、社会性形成習性というものの正体であり、どんなに個体にとって有利な結果を断片的に抽出しても、社会全体にとって不利に陥る習性を、「人間としての社会性」と混同するのは非論理的であり、到底科学的論証として認められるべきではない。

 進化生物学全体が「目的」と「結果」すら区別出来ない非科学的観念に染まっている以上。松沢哲郎のようなオカルト生物学者であっても文化功労賞になるのである。文化功労賞を誰が決めているのかは知らないし興味もないが、おそらくは生物学界の多数決で決定しているのであろう。

 自律的には何ら論理検証判断出来ない(或は自発的に一切しない)大多数の凡人達の集団内部の評価には何の価値も存在しない。

 どの組織が腐敗しているのかを誰も検証しないにも関わらず、腐敗した組織内部の多数決で評価しても、現実には具体的価値など一切存在しないのである。

 松沢哲郎というのは、本能習性だけで人間としての社会性を証明可能だと論じたオカルト研究者である。構造原理的に実証不可能であることが明らかになると、今度は急に「想像力が人間性かもしれない。」などとその場限りに言い逃れ/取り繕いをしているのが松沢の本性である。

 想像力というのは振り込め詐欺師がカモを騙す時にも利用する能力であり、あらゆる計画的犯罪において想像力というのは使われるものであり。想像力だけで人間性を論証することは構造原理的に不可能である。

 松沢哲郎というのは、構造原理的に立証不可能な話を、「かもしれない。」などと逃げ道を作っておきながら、その場限りに陳列している無責任なオカルト研究者である。

 構造原理的に不可能な立証予測を立てている時点で、科学者としてはポンコツと言う他ないのだが、現在の進化生物学界内部には自律的に論理検証しない(出来ない)ポンコツ研究者しかいないため、松沢のようなポンコツオカルト研究者が功労賞に祭り上げられることに陥るのである。

 「チンパンジーの心。」などというのはとんでもない大嘘で、単なる気分感情でしかない大脳辺縁系が促す行動バイアスを、短絡的に「心。」として取り扱うというのは。子供達だけで放置しておくとイジメが発生することも「心。」だと言う話になってしまうのである。

 チンパンジーに「心。」など存在しない。ヒトであっても多くの場合気分感情が優先して簡単に心を喪失するにも関わらず、単なる気分感情が行動に直結しているチンパンジーに「心。」などというものが存在する訳がないのである。

 情動が行動に直結しているチンパンジーに、自律的な論理検証性が存在するはずもなく。当然人間性も存在し得ず、論理検証性という人間性を伴わないチンパンジーの感情をどんなに抽出しても、人間としての「心」は存在しないのである。

 振り込め詐欺師集団や、残虐なゲリラの内部における共生関係をどんなに抽出枚挙しても人間性の論証にはならないのと同様、チンパンジーの集団内部での共生関係をどんなに抽出枚挙することで、ご都合主義的こじつけをしてもオカルト観念以上の価値はない。



 アントニオ:ダマシオによるソマティックマーカー仮説においても、松沢の予測同様に「かもしれない。」などという逃げ道を作ることで本能習性が常に人間性を伴う可能性を論証しようと試みたがるが、こんなものは論理検証の出来ないバカな大衆マスコミのご機嫌取り、大衆迎合に他ならず。あまりに無責任である。

 どんなに断片的立証の陳列枚挙によって本能習性を正当化しようとしても、本能習性というのは無意識であって、個人の主体的な論理検証性や行動判断とは無関係なものである。

 ヒト以外においては「生存」という結果に適しているかどうかを絶対基準にするとしても、ヒトにおいては単なる個体の生存価だけでは人間性の論証には全くならず、進化生物学上の論証の全ては無意識な行動バイアスの「結果」以上には、一切構造原理的に論証不可能なのである。

 それでも「文化」だと言い張るのであれば、体制腐敗などの「悪しき文化」も含めて功労賞なのであろう。



Ende;
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Place cell。

2013年10月28日 16時03分22秒 | 意識論関連
○Place cell。

 脳の海馬にはPlace cell(場所細胞)というのがあって、これを利用すると暗記に応用出来るそうだ。

 年齢に関わらず、有酸素運動をすることで海馬を成長させるのだそうで、認知症リスクを半減させるとのこと。

 ただし、単なる記憶能力というものが短絡的に人間としての知能(自律的な社会的責任判断能力)の論証になるわけではない。東電社員の記憶能力さえ高ければ原発の危険性が放置されなかったなどという話には全くならず、あくまで特定の記憶能力についての話に過ぎない。記憶力などの特定能力だけ論じても、本質的な人間としての知能を証明したことには全くならない。

 結論としては、あくまで「有酸素運動が認知症リスクを半減させる。」ことが証明されたのであって、記憶術や脳トレーニング類に認知症予防効果が証明されたわけではないことを勘違いしてはいけない。

 通り魔やテロリストや振り込め詐欺師の海馬が萎縮している訳でもないので、「海馬の容量=人間としての知能」という短絡的方程式にも当然ならない。記憶術で記憶力が上がれば、大衆観念的には頭が良くなったような錯覚を得ることで安心満足することも簡単であろうが、記憶力などの特定能力だけで知能の全てを論ずるのはあまりに短絡的で、大衆ウケ狙いに他ならない。

 記憶力が向上すれば生活上は便利であろうが、そもそもメモをとれば済むような記憶力ならメモを忘れず書けば良いのであって、下らない記憶術のコツで「自分の頭が良くなった。」などと勝手に錯覚して満足すること自体が頭の悪さを露呈している。

 人間としても最も肝心な、「自律的な社会的責任判断能力」についての配慮を忘れ、ヒトの多くはその場限りの気分的安心満足ばかりを追求しているから、こうした記憶術の類に知能論が撹乱されてしまうのである。

 暗記術の類をどんなに会得しても、ノーベル賞が採れるような発見発明が出来るわけでも、戦争も含めた重大な「人災」への対策が立てられる訳でもなく。あくまで記憶の外見的容量が増えることで「自分の頭が良くなった。」ような錯覚に陥って大衆観念的に安心満足しているに過ぎないのである。

 記憶コンテストの類で高い成績をとっていても、他者との比較による優位性(環境から与えられる抽象化された脳への報酬)を目的としている限り、思うように成績が伸びなくなれば簡単に諦めてしまい、認知症に陥ることは充分考えられる。

 記憶コンテストという環境自体が、クソゲー環境同様に本質的自発性を伴うものではなく。あくまで他者との比較によって自分の優位性を妄想させることで促されている能力に過ぎない。「他者との比較による優位性。」という「ソーシャル」な環境依存的行動バイアスに無意識に流されている時点で、既に主体的な脳の使い方から逸脱しており、成績ランクという偏った価値観に基づいていることに気付かない点において、無意識であり頭が悪いと言えるのである。

 「元気が出る。」だの「勇気がわく。」といった安心満足気分感情の問題を、短絡的に「頭が良くなった。」ことの論理的根拠であるかのように錯覚しているのが、最も大衆迎合的でバカげているのである。

 学力が高いだけの無差別殺人犯というのも、要するに現状における教育システム上での成績評価を鵜呑みにし、成績さえ良ければ短絡的に頭が良くなったと勝手に勘違いし、成績評価の論理的根拠への配慮検証性が全く働いていないからこそ、学力成績だけに意識を奪われ本質的な知能を喪失することに陥り無差別殺人などという愚かな行動へと暴走するハメに陥るのである。



 認知症になりかけのウチの母親もそうだが、認知症に陥るヒトというのは自発性とか主体的意欲といったものが欠けており、環境依存的にあれこれ他者がそそのかさないと全く動こうとも、考えようともしない。こうした性格は認知症状を発症する以前からのものであり、認知症状が出てから自発性がなくなったわけではない。

 学習ドリルの類が認知症改善に効果があるというのも、あくまで成績を評価してくれる他者環境に依存したものであって。むしろ認知症患者には本質的主体性が欠如していることの証明でもある。

 学習ドリルの解答が合っているのかどうかを他人が評価し、「よく出来ました。」的にそそのかしてくれる他者の存在がなければ意欲を発揮出来ないということは、自発的に何かを検証するといった本質的意欲や好奇心が欠けていることの証明である。

 記憶術の類で安心満足しているというのは、認知症患者が学習ドリルで評価されて気分的に安心満足し、自信を持っているのと同じで。根源的な頭の悪さ、本質的主体性の欠落自体は構造的には全く同じものである。

 たとえ脳に加齢による老人斑が生じていても、主体的意欲による論理検証性を持っていれば認知症状は発症しないことも多く。必ずしも有酸素運動をしなければ認知症に陥るというわけでもなければ、有酸素運動さえしておけば認知症に全くならないわけでもない。有酸素運動はあくまで認知症リスクを半減させるという臨床統計に過ぎない。

 「半減」ということは、原因の一つである証明ではあっても、絶対根源的原因の証明ではないのである。

 たとえ記憶力がどんなに高くても、環境に流され社会安全性や持続可能性への配慮が抜け落ちていたのでは人間としてバカであることに変わりはない。



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○。

2013年10月28日 16時02分18秒 | 意識論関連


 幼児教育においては情動行動の発達というのも必要ではあるが、単に情動行動の発達だけで人間性が養われるという短絡的なものではない。

 外見上、多数他者との関係性において、概ね問題行動をしないというだけでは、結局は「問題を起こすと嫌な思いをするから、問題行動をしない。」というだけであって。これでは情動と行動が直結しており、決して自律的な論理検証性には結び付かない。フロイトが提唱した超自我的な行動抑圧バイアスというのは無意識なものであって、行動学習されていない自律的判断を全く伴わない。

 原発の危険性を放置した東京電力の安全担当者であっても、東京電力内部においては「問題を起こさない。」行動として原発の危険性を放置したのであって。こうした状況依存的な多数派迎合性というものは、情動行動の発達によって作り出されたものであり。こうしたヒトの社会形成習性こそが、個人から自律的な判断力というものを失わせ、結果的に社会を崩壊へと導く甚大な「人災」の原因ともなるのである。

 情動行動的な発達というのは、要するに「恐いから、多数派が嫌がることをしない。」というだけのことであって、多数派そのものに問題がある場合、多数派に迎合するだけで問題解決能力を失う。

 規範意識的に規則に従うようにシツケられたヒトというのは、規則自体が間違っていなければ問題にはならないが。これは自律的な責任を伴わない子供の行動に限定されたものであり、これだけでは大人としての社会的責任判断力の醸成には全くならない。

 元米国務長官コリン・パウエルは規則に従わせることこそが重要であると論じたが、パウエルは元々陸軍の兵隊であって、兵隊というのは自律的な責任判断を放棄し上官の命令に忠実に従うことだけを旨とした職業であり。パウエルは自分の行動というものを事後正当化するために規則を異常に重んじたがるのであって、論理的根拠があって規則に従わせようとしているわけではない。

 そもそもパウエルはイラクには大量破壊兵器など存在しなかったにも関わらず、戦争という最悪な「人災」へと民衆を導いた戦犯である。それを単に「社会的に成功した。」などという金儲け主義丸出しで鵜呑みにするというのは、あまりに短絡的でバカ過ぎる。

 科学哲学者のカール・ライムンド・ポパーが、権威に服従することに執着した「プラトンの呪文。」を批判したように、規則規範そのものの間違いや問題点に言及するためには、短絡的に権威服従性を正当化するのはとんでもない大間違いである。

 ヒトという種の生物は、先天的な本能習性として権威に服従する習性がある。権威に服従しておけば気分的に安心で満足で、且つ判断責任を権威に丸投げ出来て自律的な責任判断を自ら下さなくて良いという無責任さを伴うものであるために、ヒトの多くは権威や規則に異常執着する習性がある。

 ところが、責任判断を権威に丸投げすることの無責任さを、多数派と共有することで安心満足することで、あたかも論理的に正当化出来ているものであると、ヒトの多くは勝手に妄想錯覚するのである。

 ヒトの意識の9割以上は無意識であり、行動判断の9割以上も論理検証することなく、漫然と多数派に迎合した判断こそが常に正しい行動であると勝手に勘違いする。

 食肉偽装をやらかしておいて、裁判において「上告しなかった点において誠実だ。」などというバカみたいな論理を鵜呑みにしていても、それが多数派を占めていると普通で正常だと勘違いする。

 権威に対する無批判性は平気で放置出来る癖に、一方では「権威に服従しない社会は崩壊する。」などという論理的根拠のない観念なら、いくらでも出てくるのが大衆の脳である。

 ヒトというのは、自分の固定観念の間違いを認識することを拒絶する習性がある。固定観念に論理的根拠が存在しなかったことを認識することで、自分の頭の悪さまでも認識することになるため、異常なまでに固定観念を正当化しようとする習性がヒトにはある。平たくいえば「バカ」なのだが、自分の気分感情が優先してしまい、自己論理検証性を放棄するからこそ、ヒトはバカが治らないのである。

 バカというのは、気分感情と行動が直結しているため、気分が悪くなることで短絡的に行動までもが悪化することを恐れ、結果的に気分感情的に楽な方向へと無意識に流されることを望むようになるのである。

 ヒトという種の生物において、気分感情と行動が直結している者にとっては、自律的に論理検証して責任判断を行うことは異常に困難なのである。

 振り込め詐欺被害者同様、詐欺にカモられている可能性を直接認識させられることを拒絶するように。自分が既に信じ込んでいる観念を、直接論理的根拠のない観念に過ぎないことを認識させられると、異常な拒絶反応を示し、反って観念の殻の中に閉じ篭ろうとする習性というのが、ヒトにはある。

 心理学的なネゴシエーション的「治療」方法といったものもあるのかも知れないが、それはいわば、「バカ相手にご機嫌取り。」をしているだけであって、患者扱いしているからこその回りくどい方法論である。私は心理臨床医ではない、従って読者を患者扱いもしないが故に、ネゴシエーション的「ご機嫌取り。」もしない。

 幼児だの認知症患者であれば気分でしか行動が決定しないから、ご機嫌取りで行動を誘導し、そそのかしておく以外にないが。そうでない健常者が自律的に論理検証出来なければ社会が崩壊するのは必然というものである。

 困難であることを根拠に、短絡的に不可能性の証明であるかのように言い張るのも、バカ特有の短絡性に由来する。市民がバカなら民主主義制度は「バカ主義」にしか陥らないのは必然である。



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zzz。

2013年10月28日 16時01分00秒 | 意識論関連
○寝言。

ソマティックマーカー仮説についての論評の一つ
http://www.cscd.osaka-u.ac.jp/user/rosaldo/070763somaticmarker.html
このページ↑の著者である池田光穂についてのウィキペディア
http://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%A0%E7%94%B0%E5%85%89%E7%A9%82

 「嘘がばれなければ得。」などというのは、自分が所属する社会への配慮(意識)が欠けた利己的で狭窄な考えに過ぎず。また、「控訴しなかった点において至極誠実。」などという話も、もはや断片的論証にすらなっておらず、無理矢理なこじつけにしかなっていない。

 一歩譲ってソマティックマーカーが脳内に存在するとしても、環境や状況によって気まぐれに出現する「誠実さ。」に一体何の価値が存在すると言うのであろう。ソマティックマーカー仮説というものが立証されたとしても、ヒトという種の生物が本能的に常に正しい行動を選択する証明にはならず、単なる無意識な行動バイアスの一つを証明しただけであって、無意識そのものの価値を論証したわけでも何でもなく、存在の有無を議論すること自体が極めて不毛である。

 散々食肉偽装をやらかした奴が裁判において控訴しなかったから「至極誠実。」などと形容すること自体、オカルトとしか言いようがない。振り込め詐欺が仲間内で共生関係を持っているからといって社会性だの人間性の論証であるかのように言い張るのと同様、あまりにその場限りの断片的論証に過ぎず。語るに足らない。

 現在の哲学者には、人間としての目的意識が存在せず、その場限りにのらりくらりと断片的論証さえしておけば哲学であると完全に勘違いしているため。糞の役にも立たない戯言を陳列し、自分の知識の「量」だけをひけらかすことで権威性を演出し、大衆を丸め込んでいるに過ぎない。

 哲学というのは、考えること自体を目的としたものであると定義されているが。ただ漫然とその場限りの断片的論証を重ねていれば「考え」であることの証明にはならない。

 統合的で本質的な「考え」が存在すれば、人間としての社会的存在価値や自己存在意義といったものへの配慮が含まれるはずであり、これを伴わないあらゆる断片的論証というのは、ほとんど寝言の類の無意味な言葉遊びに過ぎない。

 人間としての目的を持たない議論である以上、何の解答も出て来ないのは当たり前であり、意味がわからないのも当然である。現在の哲学の多くが論理的に理解することが出来ないのは、論理整合性自体が存在しないからであって、別にあなたの頭が悪くて理解出来ないとか、専門外だからではない。

 単に現在の哲学自体が論理的ではないからだ。

 その場限りに利己的利益の話になっていたり、犯罪者が上告しないことを「(社会的)誠実さ。」だと形容したりするというのは、あまりに支離滅裂で意味が全くない。こんな支離滅裂な話をどんなにたくさん繰り返しても、具体的な犯罪の原因究明にも対策にもつながらないのは当たり前の話であって。こうした支離滅裂な話を哲学だと信じ込んで疑わない多数大衆マスコミの無意識性もまた、現在の哲学腐敗の原因ともなっているのである。

 大学の学長や研究機関の責任者が検証することによって、無意味かどうか、社会的責任を果たしているかどうかは評価されなければならないのであろうが。彼らは自分の専門以外への検証をしたがらず、結果的に大学の組織腐敗が放置されることに陥っているのである。

 理工系の研究者達も、進化生物学や文科系哲学の腐敗性を検証すべきであり、これは「長い時間をかけて検証する。」ような悠長な話ではなく、ましてや彼らに任せておいてどうにかなるようなものでもない。

 論理的に理解不可能な観念を放置することは、社会的無責任である。特に大学や公的研究機関においては。


 ◇

 ソマティックマーカー仮説の立証実験においては、大脳の前頭葉の奥にある領域が損傷している場合と、そうでない場合での比較検証が行われたらしいのだが。それなら東京電力の原発安全担当者の脳にそんなわかりやすい損傷があったと言えるであろうか。イジメを首謀したり傍観したりする多数の「普通の子供」の脳には必ず損傷が存在しているとでも言うのであろうか。現実世界における「人災」当事者というのは、脳に物理的にわかりやすい損傷のようなものが存在しているわけではなく、普通のヒトは損傷がなくても自律的な社会的責任判断よりも、目先の多数や権威に服従する習性があり、これはソマティックマーカー云々で語れるものではない。ミルグラムによる服従心理実験、通称「アイヒマン実験」において、権威に服従した多くの被験者も脳に損傷があるわけではなく、ごく普通の人達に普遍的に見られるヒトの危険性を無視しても良いことの論証には全くならない。

 むしろソマティックマーカーなる無意識性の行動バイアスなんぞを立証しても、本質的な人間性としての自律的な社会的責任判断には結び付かず、立証自体が不毛極まりないことに誰も気付かない頭の悪さを露呈しているのである。

 東電原発安全担当者というのは、決して普段からフィニアス・ゲイジのように社会性が欠けた行動を採るわけではなく、むしろ東電幹部達にとっては従順な服従者であった。たとえソマティックマーカーなるものが脳内に存在するとしても、自律的に論理検証し、本能習性気分感情に流されることなく自発的に社会的責任判断を行う人間性が発揮されない限り本質的な人間性など発揮されることはないのである。

 先天的本能としての行動バイアスをどんなに陳列枚挙しても、ヒトの危険性の反証には全くならず、ヒトという種の危険性を抑制するのは先天的本能という無意識ではなく、自律的に論理検証するという本質的な意識の働きである。

 先天的本能習性に由来する行動バイアスだけでヒトが常に正しい行動を採れるなどという話は、文科系大衆のお伽話であって科学的には実証不可能な観念であることは原理的に明らかなのである。にも関わらず先天的本能習性こそが人間性の論証であると、「ヒトという種の生物=人間性。」という短絡的で安易な帰結に導こうとするのは、もはや大衆迎合を目的とした論理撹乱でしかなく、オカルトでしかない。

 多数の大衆マスコミが、オカルトをオカルトであると認識していないのは、平たくいえば「バカ」だからである。

 別に哲学史に詳しくなくても、専門知識がなくても、誰でも判別可能な間違いを放置傍観するというのは、イジメにおける多数派と同様、無責任であることにおいて同罪なのである。

 無神経で論理統合的思考の出来ない哲学者の多くは、やたらと哲学史から引用することで知識の「量」ばかりをひけらかそうとするが。過去にどのような権威著名人が何を論じたかなどというのは論理的根拠には全くならず、引用だの専門用語を用いずに論理だけで説明出来なければ本質的には哲学でも何でもないのである。

 ◇

 ソマティックマーカーによって、悪いことをしようとすると脈拍が上がったり末梢血管が収縮するとしても。万引き常習犯などは、こうした気分感情的興奮欲しさに万引きを繰り返すのであって、ソマティックマーカーの存在自体が証明されてもヒトという種の生物が常に悪いことをしないことの論証には全くならず、むしろ常習犯的中毒症状の原因ともなっているのである。

 どんなに本能習性としての行動バイアスを立証しても、これらは常に無意識なバイアスに過ぎず、自律的に社会的責任判断が伴わなければ「人間としての社会性。」には全くつながらない。これは構造原理的に証明されているものであって、どんなに断片的にご都合主義的こじつけを繰り返しても、不毛と言う以外にない。




○適応する。

 生物は環境に適応「する」ものである、と進化生物学者は唱えるが。結果的に適応できた事象だけを捉えて、全ての生物が常にあらゆる環境に適応可能であることを証明した訳ではなく、偶発的に適応「出来た」だけの結果に過ぎず、個体種そのものの意図意識的目的行動選択によって適応「した」わけではない。

 未だにこんな簡単な論理すら理解出来ていないポンコツが放送大学では講義しているのが進化生物学の現状であり、あまりに無責任で不適切である。

 放送大学の岡部学長は論理回路(電子工学)の専門家であるから、理詰めで検証できそうなものである。専門外だからといって「甘え」て良いことにはならない。一体何のための「学長」なのかわからないではないか。




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