書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

タイトルが思いつかなかった。

2012年04月30日 15時07分27秒 | 意識論関連
 経済効果などの「目先の効用。」というのは、いうなればカンフル剤に過ぎず。カンフル剤ばかり乱用していれば不健康に陥るのは当たり前のことである。特定の薬剤の効果に依存して「これさえやっときゃ、全ては上手くゆく。」という短絡的発想に依存してしまうのは文系大衆観念的な無責任という以外にない。

 優先されるべきは社会持続可能性や安全性なのは合理的に考えれば当たり前のことであって、過剰な利益だの世間的成功などというものに意識を奪われているから本当に大切なものを見失うことになるのである。

 オリンピックで盛り上がるなどというのは、目先の経済効果を狙った場当たり的な金儲けの話でしかない。ましてやメダルの色が何色であるかなど、実質的には社会的貢献にも何にもなりはしないのである。

 マスコミや多数大衆がメダルの色にこだわるとしても、そんなものは一時の狂乱興奮に過ぎず、何ら社会持続可能性にも安全性にも寄与することはない。

 スポーツや芸術といったものは、全て気分的高揚や快楽を得るための主観的なものに過ぎず。それによってどんなに多くの経済波及効果をもたらすとしても、客観的には社会的貢献になるわけではない。

 事実上経済的に萎縮が不可避な日本において、カンフル剤的オリンピックの招致が必要とは思えない。

 永遠に経済が成長し続けるなどという幻想/神話に依存したいというのは、気分感情本能が求めるものであって、経済成長自体は持続可能性や安全性とは相反する要素を含む場合も多く、経済成長を「目的。」とするのは人間としての社会性には価しない。

 経済萎縮というと、「萎縮。」という言葉の気分的雰囲気に惑わされて、あたかも貧乏人が増えるかのような錯覚を促すかも知れないが。意図的計画的に経済縮小させていけば、むしろ無駄な金持ちを増やさずに平等分配に近づけることも可能なはずである。

 金だけが目的動機で働く場合には過剰に金に対する異常な執着が発生するのであり、これは本質的には個人の主体的目的ではなく、環境依存的な機械条件反射的行動に過ぎず。また、目的すら存在しない。

 ヒトが人間として経済活動に参加するのは、個人の主体的動機によって社会持続可能性という「人間としての社会的目的。」に基づいて行われるべきものであり。環境依存的で短絡的な本能主体の金儲けを動機とした結果的経済成長可能性にばかり依存するのは、人間として出来損ないなのである。

 単なる気分的安心だけを追求すれば、「今までずっとそうだった。」ことに依存しがちなのは、ドーパミンが作り出す常習性の「結果。」であり。意識的で合理性のある目的ではない。


 従来の生物学上における生存を絶対価値「目的。」に置いた論証の全ては、あくまで本能によって促された行動の結果に過ぎず。結果に対してその場限りの理由付け、意味付け、目的付けをするのは論理的思考を撹乱することはあっても、論理的思考を組み立てることにはならず。これが結果的に文系大衆観念として本質的合理性の追求を阻害することになるのである。

 「自分さえ良ければ。」というのは「考え。」ではない。自分だけが良い状態というのは理論的/原理的に存在しないからである。ヒトという種の生物は個人一人だけで生存持続を維持することは出来ず、あくまで社会全体と一体であり構造的に不可分である。従って論理的「思考。」が働いていれば利己的行動選択は行われるはずのないものであり、平等分配を求めるというのは人間において極めて当然の選択である。

 しかし、これを断片的に「目の前の相手。」だけで実証しても、本能習性として常に平等分配に価する行動選択が行われる証明にはならない。

 「目の前の相手。」だけにしか意識が働かないのは本能習性による意識狭窄性であり、これは環境状況に左右されやすい不確定要素である。

 「目の前の相手。」以外や、仲間知人以外についても意識を働かせるというのは本能習性とは異なる意識的思考によって導き出されるものであって、無意識には行われるようなものではない。

 状況場合によっては目の前の人であっても危害を加えることもあるのがヒトという種の生物の本能習性であり。これを抑制するのは社会制度だの空気といった、多数他人によって作り出される環境依存的行動結果に依ることなく、個人が主体的/自律的に抑制できなければ、社会というものは目的を失い破綻への暴走を突き進むことに陥るのである。

 オウム真理教などのカルト集団における暴走性というものは、社会全体における暴走性の雛形でもある。暴走に加担している者の多くは気分的感情的精神的には安心満足していられるのであろうが、その安心満足こそが客観的に合理性追求する思考を喪失させ、何ら目的のない結果的暴走へと導くことを認識しなければならない。

 多くのヒトは「自分だけは大丈夫。」だと「思う。」であろう、そう「思って。」いた方が安心で満足であるのは本能習性であり、当たり前で自然な結果である。それ故に現状社会の問題の多くが放置され、何ら対策というものが採られることがないのである。

 きっと、ナチス政権下のドイツ人の多くも「自分だけは大丈夫。」だと信じ込んでナチスに加担したのであろう。太平洋戦争における日本人の多くも、こうした無意識的安心によって自分達の暴走を放置したのであろう。

 自分が概ね安全であることをどんなにたくさん枚挙抽出しても、自分自身が無意識に呆然としていても常に安全であることの証明にはならない。

 ヒトの多くはヒトという種の生物における概ねの安全性だけに注目しておけば、ヒトは自動的本能的に安全性が確保されているものであると勝手に錯覚して安心するものである。

 気分的に安心しているのは勝手だが、それによって思考を停止させて目先の本能欲望のままに行動しておいて良い証明であるかのごとく錯覚するのは勝手という訳にはいかない。


Ende;
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何ペルガー症候群。

2012年04月30日 15時04分07秒 | 意識論関連

○何ペルガー症候群。

 アスペルガー症候群という臨床医学上での分類があり。先天的に他者との同調迎合性が希薄なヒトのことを指すようである。

 逆に言うと本能的な同調迎合性による強迫観念的なまでの他者との同一化に固執することも一種の症状であろう。これを暫定的に、アスペルガーの反対だから昨日ペルガー症候群とでも呼ぶことにしておくことにしておく。

 アスペルガー症候群の子供というのは、子供の集団内部においては昨日ペルガー症候群の子供からの強迫観念的排除差別を受けやすい。昨日ペルガー症候群の子供というのは異常なまでに多数他者との同調迎合に固執するため、多数他者との同調迎合に興味が希薄なアスペルガー症候群の子供に対して執拗なまでにヒステリックに排除差別をしたがる。

 アスペルガー症候群の子供というのはヒトの集団の内部では少数派なので、アスペルガー症候群の子供というのは多数他人からの排除差別を受けやすいことになる。

 昨日ペルガー症候群の子供というのは、多数のヒトの本能的な社会形成習性によって統率し、多くのヒトを目的のない観念に誘導することができるため。多くのヒトは自分が無意識本能的に無意味な差別行動を強いられていることすら認識することが出来ないことが多い。

 結果的にアスペルガー症候群の子供は排除差別を受けることに陥り、精神不安定を招き犯罪に至るケースがあるのではないか。

 ヒトというのは自然の産物であるから不確定で偶発的な突然変異によって極端な個体差を持つ場合がある。これは不可避である。

 犯罪というものは基本的には当人の自律的責任判断によって抑制されるべきものではあるが。子供が勝手に作り出す観念的価値観に基づく排除差別によって特定の子供だけに精神的負担がかかる状態を放置するのは、大人の方の無責任であろう。

 占い師やカルト宗教の教祖、アドルフ:ヒトラーといったペテン師というのは、空気を読むことに優れた昨日ペルガー症候群である可能性がある。漫画家の倉田真由美などもこの類であろう。故に多数からの「人気。」が得られる。

 人気があって気分的に安心しておけば安全性が確立されるものであるという錯覚は、文系特有の大衆観念に過ぎず。こうした実証不能の観念に基づいた考えしかしないから何ら問題が解決しないのである。

 大学生らに見られる酒の一気呑みによる急性アルコール中毒事故も、その場の空気に迎合してしまうことによって引き起こされるものである。先輩だの目上の者に対する盲目的な服従や、そうした集団に対する迎合性によって無為無策に重大事故の危険性を放置してしまう無意識的気分こそが集団全体の「空気。」という実証不能の観念への歯止めを失わせるのである。

 気分のままに無為無策に目先の多数集団に迎合しておけば、昨日ペルガー症候群の者達というのは安心して自信たっぷりに合理性のない身勝手な観念を多数に強要することが可能であろう。彼らには自律的に自分の行動選択を検証する意識も意思もなく、ただ目先の気分的満足を得るためだけに集団を扇動するのである。

 集団心理とは、多数集団における気分的な優越感による気分的/本能的満足である。本能という結果には実際には目的が存在しないために、集団優越感を得るためだけに危険な薬物中毒への扇動を行うことに陥るのである。

 目先の多数の迎合服従によって気分的な安心満足を得ることだけに意識を奪われ、彼らはなぜ自分がそれを行っているのかは全く理解しておらず。ただ本能習性のままに危険な行為を行っているので、全く自律的には改善することが出来ない。

 精神年齢の低い者というのは、多数の仲間によって興奮していないと不安なのであり。強迫観念的に興奮状態を作り出さなければいられないため、結果的に暴力的破壊や差別といった非人間的行動に陥らざるを得ない。

 自律的に改善できない無為無策性というものは、それが無意識であるからであり。こうした無意識性こそがあらゆる集団の「体質。」というものを作り出す原因である。組織集団における「体質。」というものは、その体質自体を自律的には全く改善できないからこそ「体質。」なのであり。自律的に改善できていれば組織「体質。」にはならない。


 ヒトの多くは本能的好き嫌いによって気分的に安心することばかりを追求しがちであるが、その気分的好き嫌いによる排除差別というものがヒトの精神を破壊し危険なヒトを作り出しているとすれば、これは犯罪者だけを糾弾処罰しておけば犯罪や事故がなくなるという短絡的なものではない。

 「ヒトは全部違う。」という、極めて科学的で合理的な根拠に基づきヒトを育てる必要性がある。

 しかし、ヒトの多くは同じであることに強迫観念的に固執し、特定の個人への排除差別によって気分/本能的満足を求め、何ら合理性のない異常な同一化への強制的「統率。」をしがちである。

 統率行動というのは本能的な社会形成習性によって、結果的にヒトの習性として組み込まれたものであり。こうした統率性というものの結果として人間としてあるまじき排除差別に至ることは許されることではない。

 目先の変わり者を多数で排除差別しておけば満足であろう、しかし、そうした排除差別によって社会安全性が失われることまでは、子供の頭だけでは考えが及ばないものである。だから教育によって子供だけの勝手な観念的価値観に流されないように、大人による論理的思考促進が必要なのである。

 こうした論理的思考促進というものは、SQ的なペーパーテストで高い得点を得れば良いという短絡的なものではなく。子供個人が自発的に自分の行動や社会の在り方を考えるようになることが大切なのである。

 どんなに偏差値の高い大学に合格しても、自律的に社会的責任判断が出来ないのであれば、これは単なるバカに過ぎないことを認識すべきである。新入生歓迎コンパで一気呑みを強要するようなバカ学生を誰も止めることが出来ないのであれば、人間として糞の役にも立たないことを知るべきである。


 昨日ペルガー症候群であれば、大衆の脳を酔わせて世間的に成功することも簡単であろう。最悪の場合カルト宗教団体を作り上げて都営地下鉄三田線に毒ガスを撒き散らすことも可能であろう。大衆にとって世間的成功というのは羨望という目先の欲望と直結しており、本質的な社会的存在価値とは何ら論理的関係性もないことには意識が働かないものなのである。

 たとえ昨日ペルガー症候群であったとしても、それをそれと認識することによって多数他人との迎合性に流されないように行動選択することは不可能ではない。

 可能であることをやらないのは、気分的にやりたくないからに過ぎず。精神の怠惰に過ぎない。

 目先の多数他人の集団によって作り出される偏った価値観というものを、それと認識するためには目先の多数と話を丸めたり、その場の空気に流されることなく自律的に判断する意思/意識というものが不可欠である。そのためにも小学校低学年から自発性を育み、自律的に本質的合理性を追求できるような教育をしなくてはならない。

 戸塚ヨットスクール的な手抜き短絡洗脳では、こうした自発性は全く育たず、周囲の環境に簡単に流されるような意思薄弱児童を大量生産するだけであり。全く社会的には役に立たないのである。バカな親にとって従順で扱い易い子供を生産することというのは、決して社会的責任を果たしたことにはならない。


 文系大衆観念上における統率力というものは、実際には人間社会において統率するに適していることを論じているのではなく。単に統率したがるとか統率が上手いだけの昨日ペルガー症候群に過ぎない。

 昨日ペルガー症候群であれば、文系観念上においては「社会性。」があることになっており、あたかも人間として何の問題も存在しないかのように分類しがちであるが。実際には現状世間に対して何の批判も疑問も持たない無為無策なただのバカな文系大衆観念による論理的根拠のない身勝手な雰囲気的決めつけに過ぎず、実質的な人間としての社会性の論証にはなっていない。

 ヒトラーや麻原、ポルポトといった虐殺扇動者達というのは、人間社会において統率するに適していないにも関わらず、多数の大衆によって支持され統率力を破壊や残虐行為に用いることしかできない。彼らは統率によって本能的な社会形成習性を満足させることだけが目的であり、結果的統率に目的が存在せず、目先の気分的安心満足を得るためだけの短絡的最終解決にしか至ることができない。

 酒の一気呑みを強要するというのは、規模は違えどヒトラーやポルポトとやっていることは同じである。正恩君と一緒で目先の多数と話を丸め、気分的に安心満足することだけが目的であり。その行為の先に暴走破綻があるとしても、強迫観念的にやめることが出来ず、狂乱興奮というものへの一種の中毒状態に陥っているのである。

 大衆観念的には最高指導者だけが全ての責任を負っているものであると錯覚しがちであるが、太平洋戦争における裕仁天皇が軍によって崇拝対象に祭り上げられていたのと同様に、若い正恩君には何ら目的も理念も何にもないのである。これはオウム真理教の教祖でも同じで、麻原自身も「弟子にそそのかされた。」と述べているように、彼ら統率者達には何の目的も意図も存在せず、周囲の者達が統率者を盲目的に崇拝正当化するための行為として、外部に対する破壊行為によってのみ忠誠忠実性をアピールする結果として、カルト集団というものは閉鎖腐敗に至るのである。

 ある程度の規模の集団であれば、統率者には目的意図や理念といったものが存在するものであると「思う。」のは、それこそが文系大衆観念に過ぎず。目的も意図も存在しないまま規模だけが暴走的に巨大化する集団というものは珍しいものではない。

 より多くの人が自律的に社会的責任判断を下せるようになれば、無意識的な洗脳集団というものに対するブレーキや告発による抑制が働くようになる。それによって社会持続可能性や安全性というものは確立されるようになるのである。



アスペルガー症候群には、特定の物事に対するこだわりの強さというものがある。

 特定の物事に対してこだわりを持たないということは、その場限りに周囲と迎合するだけの主体性のない者であるということであり。このような主体性のない者というのは自律性もまたない。

 ノーベル賞受賞者の多くは、特定の物事に対するこだわりが強いものであり。天才というものは基本的にアスペルガー症候群の傾向性があるといっても過言ではない。

 単に平均的に多数他人と迎合するだけで、主体的に物事にこだわりを持たない者の方が平均的な大衆凡人達にとっては観念的に安心ではある。しかしこれは安全性とは全く無関係であり、実際に残虐犯罪が起こってから「まさか、あの人が。」的な話は枚挙にいとまがない。連続殺人犯というのは挨拶は普通にできるものなのである。

 逆に言えば、多数によって少数を排除差別することについては、大衆の多くは何ら批判も抵抗もせずに、その場限りに暴力的多数に迎合服従しておいても平気なのである。だからイジメもカルトもなくならない。

 目の前で起こっている事象を程度規模が小さいからといって無視しておいて、大きな事象が起きてから不思議がっているというのは、寝ているとしか思えない。事象の大きさの違いという程度問題によって観念的に分類してしまうからこそ問題の本質を見失うことに陥るのであり、ヒトのやらかす過ちというものには程度の差こそあれさしたる違いなど実際には存在しないのである。

 ハインリッヒの法則にあるように、一つの重大事象の下には多数の小さな事象が隠れているものであり。小さく些細に思える事象に対する丹念な検証なくして重大事象の予防は出来ないのである。子供同士のイジメとナチスやポルポトによる虐殺を、程度問題による根本的違いであるという文系大衆観念/気分的なバイアスによって分類してしまうのは間違いである。程度が違っても、実際に行われている差別意識自体は全く同じものであり、むしろ程度規模の違いでしかないのである。

 文系観念上においては時代背景やその他複雑な要因によって重大事象は引き起こされるものであると錯覚しがちであるが、これは文系観念者自身の自律判断の欠落による勝手な解釈であって、自律判断の出来ない者にとっては時代背景などの外的要因にしておかなければ説明が出来ないという、いわばバカの論理に過ぎない。

 例えば連続殺人を行った犯人が、「自分がなぜ、そんなことをしたのかわからない。」だとか、「悪魔が乗り移った。」などと、あたかも自分の処為ではないかのように他人事にすりかえたがるのと同じ心理による観念である。

 自分の言っていること、行ったことを自分では説明できなければ。これは単なるバカでしかなく、夢遊病者と全く同じで無意識的に行動しているのと同じことである。それなら何が起きても、自分が何をしでかしても誰にも文句をたれる権利はない。

 時代背景などの環境依存的要因で全ての行動が決定してしまうというのは、そこに自律判断の存在が全く欠落しており。多元的カオス要因によって原因がわからないことにしておくことで自分自身の自律判断責任を放棄したいのであろう。

 排除差別というのは非常に普遍的に見られるヒトの性質である。普遍的であるからといって論理的に普遍性を証明したことには全くならず。「普遍的。」とはいっても傾向性の論証にしかならない。

 多数の共感によって特定の個人を排除差別することで、気分的に興奮するという目先の快楽を追求してしまうことによってイジメというのは発生する。本能的な社会形成習性によって、統率的に多数同調することの快楽に無意識に流される性質がヒトにはあり、この本能的統率というのは全て結果であり意識的な目的など存在しない。

 ヒトに限らずあらゆる生物が生存存在しているのは、全て「結果。」に過ぎない。突然変異という偶発性と、偶発的な環境によって淘汰された結果として生物は生存しているだけであり。結果的に組み込まれた本能習性というものに意味だの意識的目的など存在するわけがないのである。

 文系観念者達が、こうした生物の結果に対して、あたかも意味や意識的目的が存在するかのようにこじつけたがるのは。自分自身が自発的には存在意義や目的を見出だすことが出来ないという主体性の欠落によって、あたかも自己の存在意義や目的というものが先天的に予め用意されていることにしておくための言い訳/取り繕いに過ぎない。

 文系観念者が「社会に生かされている。」などという、典型的に主体的意思の欠落した観念に共鳴したがるのも。彼らには自分自身が主体的に「生きる。」意欲が欠落していることの表れである。

 主体的に「生きて。」いない者であれば、自律的に「死ぬ。」ことも選択することはなかろう。それなら生きるためなら社会安全性や持続可能性は後回しになるのは必然というものである。その場限りの本能的安心しか求めなければ、長期的社会持続可能性や安全性など意識が回らないのは当たり前のことである。その行動選択はただのサルと何の違いもありはしない、だから私は無意識な者を「ヒトという種の生物。」と形容するのである。

 無為無策に腐敗体制に迎合服従し、崩壊破綻するまで自発的には何の対策も講じない多くの従順な迎合者達によって、あらゆる腐敗体制は維持され続けるのである。脱構築可能性というものが失われるのは、無意識で主体性のない多くの迎合服従者達が作り出した構築性/体質が原因である。

 正恩君に対する忠誠忠実さをアピールすることを競争していれば、より破壊的最終解決の主張の方が短絡的に正義的快楽を作り出すものである。「水戸黄門。」だの「暴れん坊将軍。」だのといった短絡的最終解決の話程ヒトの脳は陶酔するのと同じ原理で北朝鮮体制は暴走しているのである。

 オウム真理教における破壊的暴走も、同じ構造によって無意識に作り出されたものであり。教祖自身には何の目的意識も存在しておらず、結局子供のイジメ同様に何の目的もなく本能的快楽を追求した結果として破壊的暴走というものは作り出されるのである。誰にも目的意識がない状態のまま集団内部における短絡的正義だけを追求しておけば暴走しか招かないのは当たり前というものである。


 JR西日本における精神論を主体とした合理性のない強制的「教育。」体制がなくならないのも、経営陣達は自分自身の間違いを全く論理的に認識していないからであり。何ら合理性のない観念的な処罰矯正だけに全ての問題解決を依存しているからである。精神論的に努力辛抱根性を現場に強要しても個人の社員の精神的許容量に違いがあるわけではなく、過剰に精神的負担を強いることによって注意力の持続性を失わせてしまっているために、反って危険な状態に陥れていることを経営陣達は認識していない。

 JR西日本だけが他のJR各社の運転手と比べて特異に注意力が欠落しているとは考えにくい。むしろ過剰な精神的負担によって注意力の持続性を失った結果として間違いが多いと考えるべきである。一人の運転手の注意力というものには限界があり、注意力のペース配分というものに着目すれば、精神論的に注意力の強要をするのは逆効果になる。

 バカな取締役であれば精神論的な処罰矯正さえやっておけば気分的には安心していられるであろう。それこそミスが増えれば増える程厳罰化によってどうにかなると勘違いすることも可能であろう。司法における懲役刑が再犯率に何ら影響を与えないのと同様に、厳罰化というものには合理的な根拠は全く存在しないのである。

 安全性というものは個人の主体的自律判断と合理的根拠によって常に再構築されなくてはならない。気分的な満足に溺れているから合理的根拠に基づく対策が失われてしまうのである。


 スポーツ選手がオリンピックなどで国民の過剰な期待によって緊張し、実力を発揮出来ないのも。責任意識という無意識によって精神的余裕を失い、結果的に経験的実力を発揮出来なくなってしまうからである。ゴルフのパターのように個人的利益とは無関係な「国民の期待。」という、いうなれば「多数による勝手な期待。」をあたかも社会的責任であるかのように錯覚しているのは、合理的根拠の全くない文系大衆観念的な「感覚。」を鵜呑みにしているだけである。オリンピックでメダルをとっても本質的には社会的貢献になる合理的根拠などない。

 文系観念者の多くは、努力辛抱根性的な精神論のことを本質的意識だと完全に勘違い錯覚しているのであろう。

 ヒトというのは間違うものである。絶対に間違えないヒトなど論理的に存在しうることはなく、間違えにくいような工夫や対策というものを合理的に構築しなければならないのである。

 文系観念者の多くは意識喚起という文字の持つ「感覚。」によって、間違えないように怒鳴り散らしておきさえすれば意識喚起だと勝手に思い込んでいるのであろう。こうした思い込みという無意識性自体を捨て去り冷静に合理的対策というものを立てなければ、本当の意味における意識的/合理的対策にはならない。

 ヒトという種の生物は、とかく感情的/強迫観念的に何かに注意を向けることを意識であると錯覚しがちである。振り込め詐欺に騙されるのも、詐欺師の言うことだけに意識注意を奪われてしまうから論理的検証性を失うのであり。冷静に一歩引いて見る視点というものを忘れてしまうから本質的な解決策を見失うことに陥るのである。

 何度も言うが、意識の9割以上は無意識であり、これは感情や気分のことを指すのである。目先の感情や気分といったものに意識を奪われることなく冷静に論理的に物事を検証することが本質的な意識であることを、多くの人達は論理的理解をしていないように思われる。

 気分的に凹むとか、感情的に責任を感じるとか、本能的に罪の意識にさいなまされることには意味はない。それは単なる主観的な気分の問題に過ぎないからである。重要なのは自分自身の感情をどのようにすれば制御し、論理的検証に基づく合理的な対策を導き出せるかどうかである。それは気分的には物足りないような気がするかも知れないが、その「気。」こそが気分であり感情であり本能的な「結果。」に過ぎないことを、論理的に認識理解することが重要なのである。

 目的とは何か、「目的意識。」という言葉の通り、目的というのは論理的に追求するものであって、気分感情に流されてしまうから目的意識を失い実証不能の観念によって無為無策に陥ることになるのである。

 失敗した場合に、どんなに気分的に凹んでも、責任を「感じ。」ても、失敗そのものに対する原因の究明や合理的対策にはつながらない。再発防止という目的のためには気分や感情による9割以上の無意識を捨て去り、合理的な対策を立てることこそが最も重要なのである。気分的に凹むことや責任を「感じ。」ることは個人の勝手であるが、気分や感情によって合理的な対策が蔑ろにされることは勝手というわけにはいかないのである。

 気分的、感覚的な罪悪感というものは、言うなれば自慰行為に過ぎない。ドストエフスキーを読んで気分的に「救われ。」ても何の社会的意味はなく、身勝手な個人的満足でしかない。その気分的満足によって合理的な対策というものが失われてたのでは社会的負担にしかならないのである。



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 アスペルガー症候群には社会性やコミュニケーション能力の低さも見られると言われる。

 文系大衆観念に基づく多数迎合性を社会性として扱っておいたまま社会性だのコミュニケーション能力について論ずるのは根本的に間違いである。

 アスペルガー症候群が犯罪と直接的相関がないと同時に、アスペルガー症候群でない者であっても犯罪を犯すのは。従来の文系観念上における「社会性。」や「コミュニケーション能力。」といったものが実際には人間としての社会性とは無関係なものであることの論証である。

 実証不能の観念で丸め込まれておいて一体何が「社会性。」であろう。説明が下手くそで多くの大衆のご機嫌を取らないとしても、論じている内容が合理的で正しい場合もある。どちらが本当の「社会性。」であるかはもはや説明する気にもならない。


Ende;
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AQUATECT。

2012年04月24日 14時48分03秒 | ネタ帳
 リケンテクノスのAQUATECTという高親水性ハードコートフィルムというのがあって、本来は防水カメラやスマートフォンの液晶パネルに水滴がついて見にくくなるのを防ぐためのものなんだけど。撮影レンズの前には使えないのかなと思って実験してみた。







 gooブログの仕様で一定サイズ以上の画像がうpできないんだけど、意外と結構使えそうな感じ。望遠とか静止画の場合には画質の低下が問題になるかも知れないけど、広角とか標準画角なら大丈夫そう。

 とは言ってもフィルム表面が乾いている状態では水滴が馴染み難いので、常にフィルム表面を濡らしておく必要がある。単純にペットボトルから直接とか霧噴きで水をかけると、水膜が馴染んで画像が安定するまで1~2秒かかるので、面倒臭いっちゃ面倒臭い。フィルム表面に拡がった水膜は乾きやすくて、多少の雨粒程度では水膜の補充にもならない。豪雨とかなら何もしなくても良さそうな気がするけど、そんなシチュエーションってほとんどないし。

 あ、シュチュエーションではなくて、シチュエーションなのね。シミュレーションと一緒で間違いやすいかも。

 サンプル撮影時に多少風があって、埃が水膜に付着すると平面性が悪くなるので、水をかけて洗い流してしまえば元に戻るんだけど、防水カメラならまだしも防滴カメラだと水を直接かけるわけにはいかないので、ここも工夫が必要。

 酸化チタニウムを用いた超親水性コーティングであっても水膜自体の精度に違いはないと思うので、紫外線照射を必要としない高親水性フィルムの方が簡便で扱い易いのではないかな。

 フィルム表面の水膜は、フィルムの下側に水が溜まる性質があるので、画角内に溜まった水が写り込んでしまうと画像が歪んでしまうので、フィルムを画角よりも大きくする必要性があると思う。とは言っても自己粘着フィルムの場合は粘着面から浮いている部分があるとフィルム自体の弾力性によって剥がれてきてしまうので、レンズの防水ガラスカバーが小さいカメラだとちょっと厄介かも。

Ende;
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いろいろ。

2012年04月24日 14時36分43秒 | 意識論関連
○いろいろ。

 「仲間にバカにされたから、見返したかった。」

 一体バスジャックをすることによって、何をどのように「見返す。」つもりであったのか。

 「バカにされた。」と言っても、暴力性の程度比較競争において「バカにされた。」のであれば、「バカにされた。」そもそもの価値観自体がバカげている。そこに自律的に気付くことができないことがバカの根源なのである。

 少数の子供の集団内部における合理性のない短絡的価値観というのは放置しておいて良いものではない。

 重大な事象が起こる背景には、必ず重大とまでは言えない程度の事象がたくさん起こっているはずである。現在の日本の教育システムでは、こうした子供達の小さな異常行動というものを子供達同士で検証させることを全くさせていない。

 「子供のやることはバカげたものである。」という固定観念によって、バカげた価値観を放置しているのは文系大衆観念による思考停止性によるものである。

 子供だけで放置することによって本能的に形成される「社会性。」では、バカげた価値観であるということを子供に認識することは出来ず。封建的社会形成によって特定の子供が主張する価値観によって集団全ての価値観が統率的に染まってしまい、自発的な合理的思考というものは行われなくなってしまうのである。

 生物学における「社会性。」、すなはち本能的な社会形成習性というものは、統率的にヒエラルキー順位を決定しておくことによる気分的安心しか作り出すことはなく。習性というものは単なる生存という結果として結果的に組み込まれたシーケンスに過ぎず、本能習性自体には合理的目的など存在せず、単なる気分的な安心満足しかもたらすことはない。

 こうした生物学上での「社会性。」というものの形成過程というものは、目的意識に基づいて選択されたものではなく、イヌや昆虫などの下等動物においても作り出されるものでもあり、あくまで結果的に生存に適した結果として淘汰された行動に過ぎない。そのため本能的には「社会を形成することだけ。」が目的であり、論理的には何の目的もなく暴走しか促さない。

 本能的目的というものは、予め組み込まれたシーケンシャルな行動習性を作り出すことだけが目的であり。これは本質的には「目的。」ではなく、本能習性の「結果。」以上の何物でもない。

 文面上では本能的であっても「目的。」と表さざるを得ないために、あたかも意識的/論理的に選択された行動「目的。」と混同しがちであるが。これは自然言語上において従来全く分類されることがなかったために致し方ない。

 本能的目的というものは、本能自体が結果であり、結果が導き出す結果であっても目的には理論的にはならないのだが。他に表現する手立てが今のところ見つからない。新しく名称を作り出すと反って理解しずらくなる可能性もある。



 子供に限らず、無意識的集団内部においての観念の暴走というものは。そこに本質的意識、自発的判断というものが働かないからである。

 自発的に価値観の検証をしない場合、本能的な社会形成習性によって特定の個体の価値観に統率されてしまうのである。

 特定の個体として無意識的に認識される「リーダー。」というのは、外見的に自信に満ち、短絡的決断力によって、あたかも絶対的な価値観を持っているかのような錯覚を促すように振る舞う性質があり。あくまで外見上の観念に過ぎないので自己検証を行う保障もない。

 多くのヒトは、こうした外見上の自信や権威性といったものを短絡的に「統率力。」であると錯覚し、気分的に安心して服従するようになるのである。

 生物学的社会形成習性による「統率力。」というものは、あくまで統率することだけが目的であって、その統率には目的というものがない。目的もなく統率されている状態が本能的にヒトは安心なのである。

 同一の価値観を共有しておくことが気分的に安心あり、こうした本能習性というものは常に目先の相手や集団に対して働く性質がある。

 本質的に合理性を追求すれば、目先の相手や集団だけでなく。合理性のある普遍的な価値観に基づいた行動選択が可能となるのであるが。意識そのもの、自発的な論理検証が働かなければ、目先の相手や集団に迎合するだけに陥ることになる。


 「格好良い。」とは、その感情の元は親という服従対象に対する信頼への感情である。バスジャックをそそのかされた子供のように、「バスジャックをしたらすごい。」などという、価値観の意識誘導に簡単に引っ掛かるというのは、「それの一体何が凄いのか。」についての論理的検証が自律的にできないからであり、目先の他人が促す価値観に簡単に誘導される自発的価値観が全くないことの証明である。

 暴力への羨望というものは、その根底に強さへの依存性が含まれている。しかし、本能が促すアプリオリな文系大衆観念に基づく強さへの依存性というものには合理的必然性が全くなく、その場限りの気分「空気。」によって左右される一貫性や普遍性というものを全く持たない。

 シエラレオネの少年ゲリラ達の内部における価値観も、このように目先の集団内部だけで作り出されたものであり。本能的な社会形成習性というものの本能的目的結果というものには何ら意識的目的が存在せず、短絡的に力(暴力)に依存してしまいがちなのである。

 ハリウッド映画の多くや、時代劇に見られるように、暴力的破壊によって一面的正義を下すことがヒトにとっては快楽をもたらすのである。

 つまり、ヒトという種の生物は暴力的破壊による短絡的最終解決に快楽を感じるものなのである。しかし、ヒトの多くはそれが普通で一般的であるために、こうしたヒトの持つ危険性というものに対して気分的安心を抱き、忘れてしまうのである。

 映画や時代劇のように、とってつけたような悪人というのは現実には存在せず。実際の犯罪者というのは親族も友人もいる一個のヒトであり、短絡的に殺してしまえば全ては解決するような簡単なものではない。

 一個のヒトが、自律的に社会的責任判断を出来なくなる(したくなくなる)過程においては、個人の先天的個体差や成育環境によっても異なるものであるが。基本的に当人に自発的な行動選択の検証性が欠落していることが原因である。

 しかし、子供においては自発的行動選択云々を論ずることは酷である。子供は子供自身では何も選択していない状態であり、構造的に自律判断というものは出来ない状態にあるからだ。

 しかし、子供は必ず大人にならざるを得ない存在であるから。子供に対して自律判断が可能にできるような環境を整えることは大人にとっての社会的責務である。これは血縁関係を持った子供の有無に関わらない。

 ヒトが自律的に社会的責任判断を行えるようになるためには、本質的自発性による行動選択が必要不可欠である。自律とは自発の中にあり他にはないからである。

 個人が主体的/自主的動機によって存在している場合、社会というものは自己存在と等価であるから、社会安全性というものは自ずと求めるものである。

 しかし、個人に本質的主体性/自主的動機がなく、親大人や世間という多数他人からの評価報酬だけを強迫観念的に求めている場合。そもそもが評価報酬という「エサ。」に対する動物的な機械的条件反射行動に過ぎないため、自発的には社会安全性にも持続可能性にも意識が働くことが原理的にない。

 言うなれば、自分の世間的立場を維持することだけで精一杯で、他人の迷惑になど省みる精神的余裕が全くないのである。

 あくまで精神的余裕がないだけであるため、どんなに物質的に満たされても脳は餓えたままであり。行動に影響を及ぼすことはない。意識がなければ「学習すること。」はできず、環境によって刷り込み「学習された。」行動を漫然と繰り返す以外に何も自発的には選択することはできないし、したくもないのである。

 カルト宗教の教祖や、カルト国家の将軍様達が自律的に自分の行動を変えることが出来ないのは、彼らがただ既に存在していた環境に流され、多数他人に迎合することしか出来ないからである。

 要するに、どんなに人数が多い集団であっても、その集団の誰にも意識がなく、漫然と既に存在している固定観念を盲信し何ら論理的検証を行わない限り。結局は通り魔やバスジャック同様、その場の空気雰囲気だけで行動が決定されてしまうから体制腐敗に陥ることになるのである。


 キチガイのやることは予測がつかない。予測がつかないからキチガイである所以でもあるが、自発的に社会安全性や持続可能性を求めていれば、結果的にキチガイではなくなる。

 自発的純粋行為というものは他人との気分的共感を求めないため、本能的社会形成習性によって強迫観念的に共感を求める者にとっては気分的に「怖い。」だの「気持ち悪い。」といった勝手な観念によって排除差別の対象にしたがる傾向が見られるが、これこそが本能由来の文系大衆観念というものである。

 自発的純粋行為というものに対する観念的拒絶反応こそが、個人の主体的意欲や個人差というものを許容する心の広さを失う原因である。

 目先の集団への迎合による安心ばかりを脅迫的に追求してしまい、意識がそれだけでいっぱいになってしまって精神的余裕を失い、目先の集団「以外。」への配慮というものが失われてしまうのである。

 本当の心の広さというものは、無為無策に感情任せにしておいて発揮されるものではなく。本質的合理性を自主的/自発的に追求する本質的な意思というものによって発揮されるものである。


 文系観念上においては、社会的責任判断であっても社会的な評価によって導き出されるものであるとされる。しかし、社会的評価を目当てにした条件反射行動である限り他律であり、これは何ら「自律。」的判断ではない。

 社会的評価といっても、実際には時代に左右され得る普遍性を持たない世間的評価にしかならず、世間的評価に依存してしまえばナショナリズムを利用したプロパガンダに対しての抑制としては働くことはない。

 単なる多数決ではナチズムを止めることは出来ないのである。

 多数決的に倫理を求めることは多数が間違った価値観を持っている場合には無効であり、社会的責任判断という倫理性というものは科学的/論理的に導き出すものであって、時代などの不確定要素を含む世間多数によって導き出すべきではない。

 社会環境や本能習性といった本質的には自発的に選択していない条件によって選択される行動というものには意識的目的というものがない。文系大衆観念主体の文学の多くでは、自己やヒトがなぜ社会的責任判断をできなくなる原因というものは自己自身/ヒト自身の内部にはないという帰結に至る話が非常に多いが、これは自己/ヒトというものが世間環境や先天的本能習性以外には行動選択不可能な存在であるという文系大衆観念に由来する思考停止が働いているからである。


 倫理をWeb上の文章から多数抽出するプログラムを人工知能であるとするのはとんでもない大間違いである。単なる多数抽出であれば文系大衆観念の方が多数を占める可能性も高く、倫理判断としての機能を果たす保証はない。ヒトの判断の9割は無意識的な外見に依存しがちであることを忘れるべきではない。

 多数抽出によって「概ね。」正しい結論が導き出せるとしても、倫理という社会的責任判断というものは「概ね。」論によって導き出すべきようなものではないのである。


 工学/科学や理論というものは、世界の全ての安全性を確保可能な絶対的なものではなく、あくまで論理的に理解認識可能な範囲内においての有効性しか持ち得ない。しかし、気分や観念というものというのは論理的認識を阻害することはあっても、何ら特定範囲における有効性の証明すら全く持ち合わせておらず。単なる偶発的な結果以外を全くもたらさない不確定で不安定なものに過ぎないのである。

 ヒトという種の生物に、どのような行動習性/本能があることを多数抽出しても、それによって気分的に安心したり不安に陥ったりするだけでは何ら行動選択の正当性を抽出することは出来ない。

 目先の気分や本能に左右されずに、常に自発的に論理検証を行う「考え。」によってこそ人間としての行動選択というものが導き出されるのである。

 目先の集団への表面的外見上の優位性のアピールのために、社会全体の持続可能性や安全性というものを放棄しておいた方が精神/感情的には楽であろう。

 バスケットボールが下手くそだからといってバスジャックをすれば優位性が得られるという価値観は、目先のバカな子供達の内部における、その場限りの格好良さを求めているだけであり。本能的社会形成習性が促す迎合性によって、目先の集団の価値観に簡単に意識誘導されてしまうのである。

 漫画家の倉田真由美が強迫観念的に「みんな、同じ。」であることに安心するのも、こうした観念に多数人気が集まることも、全ては目先の多数他人という世間体に対する本能無意識による行動バイアスである。


 科学的認識における客観性というもの、一歩引いて俯瞰する意識というものは、目先の感情や観念によって簡単に失われがちであり。本能的にはヒトという種の生物は「そういうもの。」なのである。しかし、ヒトというのは本能以外にも選択することが可能であり、世間環境や本能習性による「結果。」以外にも行動選択することが可能なのである。

 可能でありながら行わないというのは無責任なのだが、多くのヒトはこれを気分的感情によって簡単に放棄しがちである。


 東大の入学式において、ノーベル賞受賞者の根岸氏が「自分の好きなことを探すことが大切。」と論じていたが。東大の入学試験に合格する程の高い成績を得るためには、子供の頃から学力成績に対する機械条件反射的価値観への刷り込み学習が行われていた場合が少なくないはずである。ほとんどの新入生達は「このオッサン何言ってんだ。」的にキョトンとしていたのは、それまで盲目的に学歴学力に執着させられてきた学生達にとって、「自分が本当に自発的に好きなこと。」など全く尊重されたことのないものであり。唐突な価値観転換をさせられている故の不信感によるものである。

 本質的自発性というものは、小学校低学年から社会とは何かを広く知ることによって長い時間をかけて醸成されるべきものであり、大学に入学してから唐突に価値観転換させられるべきものではない。

 とは言え、子供達の自発性を養うためには大人達の価値観から変える必要性があることは確かであり。唐突な方針転換であるとはいえ、これからの社会の在り方を子供達自身に考えさせる自発性を醸成するためには、どこかで誰かが唐突な方針転換の苦痛を味わう必要性がある。

 私としては「ご愁傷様。」としか言いようがない。

Ende;
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自己犠牲。

2012年04月24日 14時35分10秒 | 意識論関連
○自己犠牲。

 持続可能性のない社会には、一分一秒たりとも人間として存在し「続ける。」論理的価値などないのである。自己が存在し「続ける。」ためには、自己を含む社会全体の持続可能性と等価であり。どちらか一方だけを求めるのは論理的に間違いである。

 占い師の類の人生相談などでは、「社会のため。」的に自己犠牲を美徳とするような観念に基づいた行動選択を奨めるが。自己を犠牲にする者が社会を優先することは原理的にない。通り魔だの特攻自爆テロといったものは全て自己犠牲を美徳とした文系大衆観念による短絡的快楽の追求に過ぎず。単なる洗脳による気分的満足の追求でしかない。

 美徳というのは合理的判断ではなく、単なる主観的観念に過ぎない。ところが美徳というのは本能感情と直結しているため、簡単にヒトの意識の表層を覆いつくし、その気分的安心満足によって論理検証性を奪うのである。

 「自分一人が犠牲になれば世界が変えられる。」という英雄的な気分的満足によって自暴自棄に暴走破壊活動をすることは簡単である。社会的自己犠牲というものは積極的に行うようなものではなく、むしろ積極的危険に対して発揮する消極的なものでなければならない。積極性自体は意思ではなく、単なる感情に過ぎない。

 消極的選択というものは英雄性を伴わず、誰にも認知評価されることが少ない。他者からの認知評価がないにも関わらず選択してこそ本当の自律判断と言うことができるのである。内部告発をしても英雄にはなれず、単なる裏切り者としか世間的には評価されないものなのである。

 利己的欲望を追求するのも、自己犠牲によって英雄的評価を求めることも。結局は本能的快楽の追求にしかなっていない。これらに共通するのは短絡的思考放棄であり、「これさえやっときゃ。」的な頭の悪さである。

 そもそも他者世間から煽られて行う自己犠牲というものには本質的自発性がない。

 この種の者が言い出す条件反射的主張が、「じゃあ、どうすればいいんだよ。」である。どうすれば良いのかを他人に尋ねている時点で、自発的には何も選択したくないことの証明であり。問題が自分自身の内部に存在することを認識したがらない盲目性こそが根源的問題であることは、誰も認識したがらないのである。

 個々の場面、個々個人の行動判断というものは、自律的で主体性を持たなければならない。他人からの評価だの世間的報酬といった、本質的主体性を持たない動機による行動選択からは原理的に自律判断というものは出て来ない。

 私は神ではないから、あなたが自律的に社会的責任判断をしても評価もしなければ報酬も与えない。世間的に排除差別の対象になったとしても排除差別しているのは私ではなく、無意識な多数大衆であり。私の知ったことではない。

 多数大衆が無意識ではなく、正当な責任行動選択に対しての評価を与えるような社会であれば、不当な差別や排除には遭わないであろう。そうした社会を築くためには、先ず自己自身が自律的意識を持つことである。

 一人の力は微力である。しかし無力ではなく、むしろ多数によって強い力とすることも可能である。

 本論は意識論である。従って無意識である気分的勇気だの元気を促すことを目的とはしておらず、あくまで自律的な社会的責任行動判断を求めるだけである。それこそが本質的な合理的判断であるからだ。

Ende;
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死んだら全て終わり。

2012年04月24日 14時34分02秒 | 意識論関連
○死んだら全て終わり。

 生存は結果であり、結果である以上そこには目的も意味も存在する必要性はない。

 文系大衆観念的には存在の意義や価値というものがあらゆる生物には予め存在しているものであるという錯覚が存在するようであるが、生存や存在自体には目的も意味も存在する必要性はない。起こったことの全てに意味をこじつける必要性はないのである。

 生死に関わることであれば、あたかも絶対的な優先重大事項であると「思う。」であろうが、生存というのは常に暫定であり永遠ではない。ヒトにとって本能感情的には重大な生存価であっても、人間存在としての価値において生存というのは絶対的な価値にはなりえない。

 目先の個人的本能が優先すれば、社会全体における持続可能性や安全性は意識の上から排除されがちな傾向がヒトにはある。しかし、社会全体の持続可能性や安全性が確保されない社会に自己が生き続ける合理的根拠など存在しないのである。

 ドーパミンの持つ常習性が作り出す本能的な自己保存行動選択である気分的「安心。」というものは、本能的には最大優先事項として扱われるものである。しかし、これは本能に由来する仕組みによって作り出される価値観であって、本質的には自己自身の論理的選択によって決定されているものではない。

 自己保存とは利己である。都合の良い時だけ「人は一人では生きてゆけない。」などと論じておきながら、一方では「死んだら全て終わり。」とする文系大衆観念には論理整合性が欠落している。

 自己個人が死ぬとしても、社会自体は全く「終わり。」でも何でもない。個人の主観的価値観だけに依る「全て終わり。」という論証には、本質的な合理性が存在しないのである。


 論理整合性のない文系大衆観念を相手にして論ずることは徒労である。その場限りの感情だけによって言い逃れや取り繕いをされていては何ら論理的検証も出来なければ、当然原因究明も対策も言及することが出来ないからである。

 ヒトの全ては必ず死ぬ。死ぬのであれば社会持続可能性や安全性といったものが不要であろう。だが、それは今すぐ死ぬ者においての論理に過ぎず、社会持続可能性や安全性が確保されない社会に生き続ける合理的根拠も存在しないのである。「死んだら全て終わり。」という主張は、個人の生死に関わる事柄においては本能的価値観を優先しておきながら、一方では「一人では生きてゆけない。」と社会における自己存在を求める文系大衆観念特有のご都合主義によるものである。

 生きてゆく過程においては社会への依存を主張しておきながら、死ぬ段階においては「全て終わり。」などと社会の存在を無視するのは、社会的な「甘え。」に過ぎない。

 個人が社会という多数他人への依存が不可欠である以上、個人もまた他人に対しての被依存性を持たなければならない。これは権利と義務であって、権利だけを主張するというのは本能主体の動物的「ヒト。」の主張であり、人間性が欠落している。

 社会公平性というものを社会に求めるのであれば、個人が他者に対しても公平であろうとすべきである。他者に対して不公平な者が社会(多数他人)に対して公平性を求めるというのは身勝手な主張である。

 社会持続可能性や安全性を求めるというのは、自分が死んだ後の社会についてへの配慮、意識の広さによるものである。「死んだら全て終わり。」などという話には、個人の生存という本能主体の無意識的価値観に基づく意識狭窄性によって導き出された主張に過ぎない。

 ヒトの多くは本能的欲求を持ち出されると簡単に思考が停止してしまう傾向がある。ゴルフのパターだの将棋の勝ち負けといった世間的評価成功といった欲望に直結する話を持ち出すと、簡単に本質的知能というものについての論理検証性が失われてしまうのも、その一例である。


 既に起こったことに対して、事後正当化のための屁理屈をこじつけたがる性質がヒトにはある。養老孟司が「私は30年間も安月給で大学勤めをした。だから、そこには意味があったんだ、そう思わなきゃやってられないじゃありませんか。」などという単なる個人的感情を多数の文系大衆観念者達と共有することによって、あたかも論理的証明であるかの如く撹乱することが可能であり、こうした文系大衆観念の共有こそが洗脳ペテンの根源である。

 文系大衆観念というものは、論理的な根拠証明を放棄し、個人的心情の多数共有による気分的安心によって作り出されるものである。

 起こったことの全てが偶然に由来するものであるとしても、これから起こりうることの全てを無視して寝ていて良いという論拠には全くならない。むしろ、既に自分の脳に組み込まれた無意識的本能による危険性を認識することが重要なのであり、何が偶然で何が必然であるかを区別認識することこそが科学的認識というものの価値である。

 「起こったことの全ては偶然であると称して寝ていても構わない。」と言われて、あらゆる事象に意味だの目的をこじつけることに意識誘導されているから、いつまで経ってもバカが治らず同じ過ちを繰り返し続けることに陥るのである。

 自己が現時点において存在すること自体に意味だの目的があるわけではない。個人の生存や存在というものは、個人が主体的に意味や目的を見つけるものであって、自己以外から予め準備提供されるようなものではない。

 自己存在の意味というものを予め「誰か。」に準備提供されるはずだという観念は、本能的社会形成習性によって作り出されるものであり。「誰か。」という他者に対する盲目的依存性、「甘え。」によるものである。

 「ヒトは何処から来て、何処へ行くのか。」という問いがあるが。「何処へ行くのか。」という目的は「何処から来た。」のかという結果とは無関係である。ヒトという種の生物が、虐殺だの強姦の結果として生存していたとしても、虐殺や強姦が正当化できるわけではないからだ。

 「ヒトは今までこうだった。」ことを大量に抽出枚挙しても、「ヒトとは永遠にこうである。」ことの論証にはならない。

 ヒトは初期的には動物であるから、本能的無意識行動バイアスによって意識の9割以上を構造原理的に占めている。従って本質的な意識としての論理的思考は1割にも満たず、行動バイアスとしての機能を構造原理的に持っていない。

 バイアスとは「程度。」問題である。行動バイアスというのは気分的な程度問題に過ぎず、構造的に合理性を持たない。構造的に合理性判断が困難であることを断片的に枚挙しても、合理性判断をしなくて良い論証にはならないのである。

 文系大衆観念上では、ヒトという種の生物の傾向性を枚挙することで気分的に安心することで満足したり怖がるだけで、論理的思考を全くしたがらない。ヒトという種の生物の、どのような傾向性を枚挙しても、傾向性自体は結果以上の何物でもなく。気分的にどんなに安心満足しようが怖がろうが、意識的に選択される目的とは無関係なのである。

 「ヒトとはこういうものである。」ことをどんなに大量に抽出枚挙しても、意識的目的選択可能性の反証には全くならない。

 結果の大量抽出枚挙によって、あたかも意識的目的選択不可能性であるかのように錯覚するから文系大衆観念というのは論理的思考が全く出来ないのである。

 ヒト、或は自己というものの傾向性が如何なるものであろうとも、自律的に論理的行動選択をしなくて良い理由には全くならない。ところが文系大衆観念によるアプリオリな思い込み上では、本能習性という傾向の多数抽出さえしておけば、本能習性のままに無意識に流されておいても良いものであると勝手に錯覚する性質がある。

 「だって、そういうものだから。」とか「だって、みんなそうだから。」といった結果の多数抽出さえしておけば、気分的に安心し満足し、目的行動の論理検証性を放棄をするのは子供じみた言い逃れに過ぎない。

 目的行動の論理検証、「考え。」というものは、気分的にしたいとかしたくないといった「思い。」で放棄して良いようなものではない。しかし、そもそも自己存在の動機自体が世間からの評価報酬である者の場合、自発的な目的行動の論理検証をしたがらないものであり、結果的に自律的な社会安全性や持続可能性には意識が働かないものなのである。

 自己存在の動機自体を自己内部に持たず、目先の世間からの評価に依存している以上。あらゆる「考え。」もまた他者から問題を提供され、その問題についての解答以外には意識は働かない。与えられた問題への解答による他者からの評価報酬しか意識が働かないからである。こうした状態こそが無意識的な条件反射であり、チンパンジーの瞬間記憶能力テストでの成績評価と構造原理的に全く同じものなのである。

 マイケル:サンデルの講義で頭が良くならないのは、サンデルが提供した問題の内部でしか考えが働かないという構造原理的な意識誘導が存在するからであり。むしろサンデルらの講義特有の「よく出来ました。」的な誉め言葉によって気分的に満足したことを、あたかも「自分の頭が良くなった。」と勝手に錯覚しているだけなのである。

 ヒトの多くは気分的に良くなると、頭が良くなったと錯覚する性質がある。限定的な問題内部についての検証をしたことによって、あたかもあらゆる物事への検証性が獲得できたような気分に陥り、むしろ自らの無思考性を意識から外すことによって気分的に満足するのである。

 問題を提供されなくても追求する自発性、評価報酬に依存しない徹底性というものは、本質的自発性によってのみ促されるものであり。他人から提供された問題内部でしか考えが及ばない自発性の欠落によって、あらゆる文系大衆観念というものは論理検証されることなく放置無視されてきたのである。

 文系大衆観念というものは、すなはち自発性の欠落によって作り出されたものであり。本能的シーケンスによってアプリオリに陥る普遍的ヒトの習性の結果である。


 「権威に服従しない社会は崩壊する。」と、大衆の多くは観念的に納得するであろう。しかし、これは論理的根拠には全くならず、単なる気分的な安心満足によって思考放棄している錯覚であることを、多くのヒトは認識できない。

 権威というものは論理的、科学的に証明されたものではない。権威性とは多数によって認証されただけの文系観念上における服従安心対象に過ぎない。

 権威に盲目的に服従しておけば気分的に安心であろう。ヒトとは封建的ヒエラルキー社会を形成しておけば気分的に安心するように本能的仕組みがあるからだ。

 権威者が、「ヒトという種の生物には、他者との平和共存の傾向性がある。」と述べれば、あたかもヒトという種の生物は常に本能的無意識に平和共存に至る選択が可能であると錯覚し。多くのヒトは気分的に満足して自律的論理検証を放棄することが出来る。

 ヒトには他者との平和共存の傾向性も確かに存在するであろう。しかし、本能というのは特定の「誰か。」が目的意識に基づいて選択したようなものではなく、あくまでも結果以上の意味が存在せず、ヒトには残虐性や無責任性といったものも明らかに存在するのである。

 本能による行動選択によって、どのような結果をもたらすのかをある程度予測することは可能である。実際権威者と見なした相手に盲目的に服従しておけば残虐で無責任な行動に至ることも立証されている。

 断片的安全性だけを頼りに本能の持つ危険性を無視するというのは、単なる気分的満足に過ぎず、極めて無意識的であり合理性が欠落している。

 何が安全で、何が危険であるのかを認識区別し、選択するのは意識であって本能ではない。生物本能は個人の目先の生存に適することはあっても、人間として、社会安全性や持続可能性に適するようには構造原理的に出来ていないからである。

 意識的にあらゆる全ての事柄を区別認識することはできないが、何が可能で何が不可能であるかを区別認識するのもまた意識である。認識不能な事柄における選択については科学的認識というものは役に立たないが、本能的行動バイアスの全てが常に安全である保障はなく、むしろ科学的に認識可能な安全性を無視して保障のない本能を優先させてしまう傾向があることが問題なのである。

 酒を呑まずに自動車を運転したからといって重大事故に至らない保障があるわけではない。しかし、酒によって脳が麻痺した状態の方が重大事故に至る可能性が高いことに異論はなかろう。

 科学的証明というものは、この世の全ての安全性を担保できるような万能なものではない。しかし、安全性を高めることには寄与できるとしても、損ねることにはならない。

 科学が万能でないからといって、本能由来の観念の正当性を証明したことにはならないのである。

 偶発的に本能的行動バイアスが上手く作用したことがあるとしても、常に本能的行動バイアスが上手く作用することの論証にはならないのだが。本能的行動バイアスによって上手く作用した経験程、あたかも既に自分の中に組み込まれた本能的な行動バイアスが特別に優位であるかのような錯覚を促すために、ヒトの多くは本能的行動バイアスを優先してしまうのである。

 ギャンブルや投資で多額の損失を補えるという根拠のない錯覚も、このようにして暴走するのである。

 将棋やレーシングカーの操縦などにおける無意識的能力の高さというものは、あくまで日々の鍛練習熟によって得られるものであり、決して先天的に組み込まれた能力などではない。

 ところが、ヒトの多くは概ね上手く作用した結果だけに基づいて、自分の無意識的行動バイアスの全ては常に安全であると簡単に安心し、錯覚する傾向がある。

 概ね上手く作用した結果の多数枚挙によって、あたかも絶対的に上手く作用すると錯覚するのである。

 概ね自分にとって利己的に上手く作用した結果が多い場合、自分というものが予め先天的に意味を持つものであると錯覚するのである。

 自分の行動選択が、概ね自分にとって有利に働いたことによって気分的に安心して無意識本能任せにしておくことが出来るようになるのである。

 こうした無意識による「馴れ。」というものこそが、ドーパミンの持つ常習性によって作り出された行動学習の正体である。

 多くの場合騙されたことがない者の場合、論理的根拠もなく「自分は絶対騙されることはない。」と勝手に思い込むことによって、自己存在が他人とは異なる特別なものであると錯覚し、「自分だけは大丈夫。」であると気分的に安心するのである。

 東大の学長が論じたように、「全てを疑え。」というのが正しい判断を導く。だが、多くのヒトは今まで信じ込んできたものを疑い、検証することを怖れ。盲目的に信じ込み続けることの気分的安心「甘え。」を放棄することが困難である。

 盲目的に多数や権威を信頼することに依存してきた者にとって、その依存を断ち切ることに対して精神的恐慌をきたすため、何が何でも多数や権威性への盲信を捨てることが出来なくなってしまうのである。

 文系大衆観念的には、「甘え。」を断ち切るためには精神論的な努力辛抱根性によって、無理矢理我慢し、堪えることによって達成出来ると勝手に勘違いする。

 精神論的な忍耐というものには、個人の許容量というものがあり。努力辛抱根性的な忍耐我慢によって全てがどうにかなるようなものではない。煙草の依存症治療同様に、無意識下に行動学習された条件反射的価値観というものを矯正するためには、地道で小さな努力の積み重ねによる「慣れ。」が肝要である。一朝一夕にどうにかなるようなものであると「思う。」ことこそ、短絡的な文系大衆観念というものである。

 世間という多数他人や、それによって認証された権威に対する盲目的服従迎合というものは、長い期間に渡る刷り込み行動学習によって作り出されたものである。依存症というのは無意識下に安心快楽として刷り込まれてしまったものであり、急激に依存症を治すことは原理的にも不可能である。依存症の類というものは、ある程度の時間期間に渡る、地道な「慣れ。」によって矯正するべきものであって、短絡的に忍耐我慢によって治るようなものではない。

 ドーパミンが持つ常習性による「慣れ(馴れ)。」というものは、その性質に無為無策に流されるのではなく。積極的に意識的目的のために利用する道具として扱うべきなのである。


 社会性、或は社交性といったものを持たないことを。多くの大衆文系観念者達は人間性の欠如と勝手に錯覚する。しかし本能的な社会形成習性というものは「ヒト。」としての本能の程度問題に過ぎず、何ら社会安全性や持続可能性に影響を及ぼすものではない。むしろ社交性、或はコミュニケーション能力と称して多数権威に盲目的服従迎合をしてしまうことの方が人間性の欠落を招くことの方が圧倒的に多いことを、多くのヒトは認識したがらない。

 文系の観念上では、社交的でない生物的コミュニケーション能力の低い者に対する観念的恐怖心によって、あたかも生物的コミュニケーション能力が低いことこそが人間性の欠落であるかのような錯覚を抱きがちである。しかし、この観念には論理的合理性は全く存在せず、単なる本能的恐怖心によるヒステリックな拒絶反応に過ぎない。

 社交性がないことというのは、社交性に固執する者にとっては耐えがたい精神的に恐慌をきたすような地獄であると勝手に錯覚しがちであるが。社交性のない者にとっては社交性がないことは普通で自然なことであって、何ら精神的恐慌などきたすことはなく。むしろ精神的恐慌をきたすと勝手に錯覚していること自体が社交性に対する依存症の現れであり、勝手な主観的思い込みに過ぎない。

 文系大衆観念上における「社会性。」というものは、単なる外見上の気分的安心感を論じているだけであり。何ら論理的人間性や安全性の論証にはなっておらず。本質的な「人間としての社会性。」の論証とは無関係な観念に過ぎない。

 生物本能的な社会形成習性が希薄で観念的安心感をもたらさない者に対しての異常なまでの拒絶反応こそが、非人間的排除差別というものの根源である。そこに気付かず漫然と排除差別をし続けておいて「社会性。」もすったくれもあったものではない。

 自分の価値観の、一体何が論理的根拠を持たない実証不能の文系大衆観念であるかすら自律的に検証できずに、人間とは何かを論ずる資格はない。それは単なる「ヒト。」という種の大型類人猿に過ぎないからである。

 たとえどんなに学力学歴が高くても、年収が多くても、書いた本の販売部数が多くてもである。


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選択可能性。

2012年04月24日 14時32分45秒 | 意識論関連

○選択可能性。

 数十億年に渡る淘汰の結果である現在の生物相だけを観測している限り、過去に起こったことの全てを説明することは原理的に不可能である。証拠の全てが保存されているわけではなく、全ては憶測による推理にしかならない。

 何より偶発性に依存した突然変異に起因する現象である遺伝的な進化変化については、目的的な「説明。」をすることは理論的に不毛である。突然変異には誰の目的意図も介在していないからである。

 進化に対する合目的的な「説明。」というのは、あくまで生存だの種の保存といった「結果。」を生物学者達が「目的。」であると勝手に決め付けた上で強引にこじつけたものであり。「説明のための説明。」に過ぎず、何ら論理的証明にはなっていない。

 ミミックオクトパス(学術名は知らない。)の能動的擬態だけを見れば、あたかもタコが意図的目的意識に基づいて行動選択をしているかのように「思え。」るのであろうが。こうした「思い。」には論理的根拠がない。

 脳を介する能動的物真似擬態といったものは鳥類の一部でも見られる。カメラのシャッター音を真似することによって、あたかもヒトが存在するかのように天敵が錯覚するとすれば、結果的には物真似は「成功。」したことになるが。何の物真似をするのかは鳥自身の気分次第であって、何ら目的意識が介在する必要性はなく。あくまで偶然の結果でしかないのである。

 ヨツコブツノゼミのように、従来の生物学における「説明のための説明。」が不可能な生物が存在しても何らおかしなことではなく。従来の生物学における「説明のための説明。」の方が間違っているのである。

 ヨツコブツノゼミの場合、捕食者からすればトゲが喉に刺さって食べ難いという効果はあろうが。コブ自体には意味がない。この場合における「意味。」とは、あくまで結果的に生存に適するかどうかについての断片的意味に過ぎない。

 「へんないきもの。」の著者である早川いくをも、ヨツコブツノゼミの説明において「何らかの意味が必ずあるはずである。」と述べている。しかし、良く考えてみて頂きたい。意味がある論理的必然性は一体どこにあるであろう。

 突然変異というのは、いうなれば「テキトー。」であって。支離滅裂な偶然性によるものである。それが結果的に生存に適するかどうかも環境に依存しており、どのような進化変化をしていようとも何らかの目的に適する必然性など必要ないのである。

 遺伝的に突然変異が組み込まれているのも、突然変異が組み込まれていない種の生物が淘汰された「結果。」に過ぎず。変異の程度が様々なのも、環境適応の結果に過ぎない。当然「適応。」自体も誰の目的意図によって自発的に選択されたものではなく、あくまで「結果。」以上の何物でもない。

 ヒトの本能的行動習性であっても、集団に迎合することによって破滅暴走に向かう結果を導くことも少なくはない。生物学者達が本能的な暴走というものの原因を環境状況といった外的要因にしたがるのは、生物学者自身の自律的行動選択の欠落による必然的帰結であり。自分がしたくない自律判断であれば誰もがしたくないと「思う。」のはとても「自然なこと。」でもある。

 自然本能のままに流されておけば破滅暴走に陥っても「仕方ない。」ものである。ヒトという種の本能習性のままに行動しておけば、原発が暴走しようと大量虐殺に至ろうと「仕方ない。」のである。しかし、こうした本能習性というものに抗がい、本質的に合理性のある持続可能性や安全性といったものを獲得するためには本質的な意識というものが不可欠である。ヒトは意識を持つことで人間として振る舞うことが可能になる以上、「仕方ない。」といった選択不可能性の証明など存在しない。あらゆるヒトに絶対に可能であるとは言わないが、可能であるにも関わらず気分的に「したくない。」からしないというのは、本能的であり無意識であり無責任なのである。

 破滅暴走というものは無意識である本能習性の産物である。この破滅暴走性に対する耐性として意識/論理検証性というものを結果的ではあれ獲得したヒトという種である以上、これを放棄するというのは人間として怠惰と言う他ない。

 どんなに気分的に嫌であろうとも、その「嫌。」という気分自体も自己選択によるものではない。

 「あらゆる生物の存在には何らかの意味が存在するはずだ。」という観念が、文系大衆にはある。それは自己存在の意味というものが予め決定していて、自己自身で存在の意義を持たなくても生存し続けることの正当性が自分以外に存在すると「思い。」たいからである。

 そう思うことで気分的に「元気が出る。」だの「勇気がわく。」からである。文系大衆観念というものの根源は、全てこうした気分的な本能的快楽によって促されるものであり。そこには合理的根拠や論理的意味といったものは存在しない。

 ヨツコブツノゼミのコブのように、結果的に組み込まれた本能には意味のないものが含まれていても何らおかしくはないのである。

 目先の多数他人や、それによって規定された権威への服従迎合というものに対してのCybernetics的説明というものを枚挙しても、本能的服従迎合の危険性の反証には全くならず。むしろ危険性を意識から遠ざける効果しか持っていない。

 詐欺師に騙されるヒトの脳の習性というものも本能的感情システムの「結果。」であり。これ自体は当人の意識的選択によるものではない。これはナチス政権に服従迎合したドイツ人や、原発の暴走を放置した東京電力の社員においても同様である。

 多くのヒトが引っ掛かった場合、それが集団催眠/洗脳であることすら認識したがらない傾向というものがある。多数派同調バイアスという本能的習性というものは、多数派に迎合した個体が結果的に生存に適した結果に過ぎない。

 頭が悪い方が生存に適しても何の不思議もない。実際シエラレオネでは残虐性を競うことこそが生存に適したのである。

 ヒトという種の生物が、その進化過程においてどのような淘汰が働いたのかは知る由もない。従って自己自身によって意識的選択を介していない本能習性による行動バイアスがどのような結果を導くのかは何の保障もないのである。

 多数派同調バイアス、或は正常性バイアスといったものが津波災害においての被害拡大を招いた。こうした気分本能的な行動バイアスこそが本能的社会形成習性として組み込まれており、その結果としてナチズムや東電イズムを作り出したのである。これらの行動バイアスというものは本能気分といった無意識によって作り出される。

 多数派同調によって服従することに安心し、正常性への勝手な思い込みによって危険性は無視される。そこには本質的な合理性の追求というものは存在せず、目先の断片的合理性だけが優先されているのである。こうした目先の断片的合理性のことをカントは純粋理性であると錯覚したのである。

 チンパンジーの瞬間記憶能力を見ていると、あたかもチンパンジーの理性によって成立しているものであると錯覚しがちであろう。非常に高度で高速な特定能力というものは、あたかも本質的知能によって作り出されていると「思い。」がちなのであろう。しかし、実際にはチンパンジーの瞬間記憶能力というものはエサに対する機械条件反射的に作り出された能力であり、環境依存的な結果以上の何物でもない。

 確かにチンパンジーの断片的能力は「凄い。」かも知れないが、それは程度問題に過ぎず知能の論証にはなっていない。

 どんなに記憶力が高くても学力成績が高くても、自律的に社会安全性や持続可能性を求める本質的な人間としての知能の論証にはならない。

 社会安全性や持続可能性を求められないのであれば、これは人間の社会にとって害はあっても利益にはならない。たとえ世間的/表面的に成功しているとしてもである。

 ヒトは見た目という無意識判断が9割以上である。故に時代に左右される世間的価値観や、表面的な成功といったものを主体的価値観として考えがちである。社会安全性や持続可能性を追求しても世間的評価や報酬には短絡的には直結することはなく、むしろ世間的には排除の対象となる場合も少なくはない。

 ヒトの多くは世間的な個人的利益/成功といった価値観に意識を奪われがちである。自己存在の価値というものを目先の世間に求めていれば自律は失われる。自律とは自己尊厳に基づいて行われるものであり、世間という環境に依存しない確固たる意思なくしては不可能なものなのである。



○自然。

 自然という熟語の読みには「しぜん」と「じねん」の二つの読み方がああるそうで、「じねん」の方は仏教由来の言葉だそうで因果律を持たないもののことを現すそうである。

 突然変異そのものは因果律を介在しない。因果律を介さない突然変異による結果である以上、変異の後にどのような淘汰過程の因果関係を並べても、根本自体に因果律が伴わないことは変えようがない。

 現在の生物学における生物の結果に対する「説明。」というものは、その説明の最も根本的な突然変異の偶発性を無視した「こじつけ。」に過ぎない。

 ある生物が生存に適した進化変化をしたことを、あたかも生物個体が自主的/主体的に変異を意図的に「した。」と現在の生物学は論ずるが。変異が生物個体の意図によって遺伝要因を変化させたことの論証には原理的にならない。

 脳機能を介する能動的擬態である物真似であっても、生物個体が天敵の視覚的撹乱を意図して行っている論証はなく。むしろ意図目的といったものを介さず、淘汰の結果的反射行動である本能のままに行動自体の淘汰が行われた結果に過ぎず。先天的本能として組み込まれたあらゆる機能というものには個体当人の目的意識が介在する余地はない。

 一見知能的に行動擬態/物真似を行っているように「見える。」としても、これこそが文系大衆観念による錯覚であり。こうした大衆観念による錯覚自体が先天的に組み込まれた無意識本能によって促されているのであり、こうした錯覚自体は当人個人の意図目的意識によるものではない。

 意図目的意識が介在していないからこそ論理検証性のない観念として多くのヒトは「リアリティ。」を「感じ。」るのであり、こうした「感じ。」によって錯覚は錯覚足りうるのである。

 従来の生物学は生存という結果に対して、あたかも目的が存在するかの如く膨大な「説明。」をしてきたが。これらの「説明。」というものは根本的に結果と目的を論理的に明確に区別していない「こじつけ。」以上の意味はなく、何ら論理的説明にはならない。

 別段釈迦の言っていることを立証する必要性はないが、突然変異という偶発性が自然の根本にある以上、これは因果律を伴わない「じねん。」の考えの方が科学的にも合理性があると言える。

 多くのヒトは断片的な説明だけで全てが論理証明であるかの如く錯覚しがちであるが。これは興味意識による論理検証性が足りておらず、本能由来の錯覚によって気分的に「納得。」することと「論理検証性。」を間違えているからである。

 生物の全てが環境と調和し、持続可能で安定しているわけではない。現在の自然界の安定性というのは数十億年に渡る変異淘汰変化による結果として「概ね。」の安定性を獲得しているに過ぎず。決して万能完全であるわけではない。

 ヒトという種の生物の本能的行動においても、「概ね。」安定的であるとしても。常に安定的で論理的判断ができるわけではなく、本質的合理性を持った社会持続可能性や安全性を基準とした選択というものは本能気分に流されることなく本質的意識によってのみ行われるものである。

 そして本質的意識/本質的合理性追求というものは本能的には組み込まれておらず、あくまで当人の自発的な思考意欲によってのみ促されるものである。

 本能的に組み込まれた行動というものは本質的合理性が伴うわけではなく、あくまで「概ね。」安定的なだけに過ぎず。環境や状況によっては簡単に暴走を招くものでもある。


Ende;
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擬態。

2012年04月18日 15時59分53秒 | 意識論関連

○擬態。

 イカなどの頭足類の擬態というのは、イカ本人が意識的に行っているものではなく。視覚情報を機械反射的に体表の模様に変換しているだけである。視覚情報を機械条件反射的に体表模様に変換した結果として擬態として機能し、これが生存に適した「結果。」に過ぎず、イカ自身には擬態の「目的。」意識はない。結果的に擬態として機能するとしても、それが必ずしも当人の意識的選択による論証にはならず、なを且つ自己の身体機構を決定する遺伝的要因自体を自己選択することは原理的に不可能である。

 昆虫類における擬態同様遺伝的な形態自体を自ら変化させることは如何なる生物でも不可能なのである。

 結果的にツノゼミのような擬態にも何にもならない説明不可能な形態を獲得する場合もあり、擬態とは自然淘汰の偶発的「結果。」に過ぎず当人の意図的「目的。」意識など存在しない。

 脳の視覚野においても、体性感覚野においても、抹消感覚器官と同じ配列マッピングを採る場合があり。これを短絡的に体表の模様として出力すれば結果的に擬態と同じ効果を得ることになる。

 脳を介在しているからといって、必ずしも意識的に行動選択をしているわけではなく。ヒト以外の生物の行動については結果的に生存に適しただけに過ぎない。

 無意識な機能がどんなに洗練され生存に適した高度な機能を持っているとしても、全ては無意識的条件反射であり。そこには自然淘汰の生存「結果。」しか存在しない。

 従って偶発的に生存していた「結果。」に後からどんなに目的意識に伴う知能性をこじつけても、それは偶発的結果に対する「説明のための説明。」以上の何物でもないのである。

 生物が全く生存に適さない機能や行動といったものを持っていても何ら不思議はない、それは全て偶発的な「結果。」に過ぎないからである。

 偶発的に生存に適する機能や能力を獲得する過程において、大量の犠牲を伴う試行錯誤的な「のべつまくなしの変異。」があっても、犠牲となった個体種の存在を無視して結果的に生き残った個体種だけを取り上げ、あたかもその個体種が意図的目的意識に基づいて機能や能力を獲得したかのように論ずるのはご都合主義でしかない。

 数十億年に渡る進化変異の全てを把握することは不可能である。ヒトの起こす犯罪ですら全ては把握不可能であるにも関わらず、生物進化の過程の全てを説明することなど原理的に不可能なのである。



 現在の生物学者達の「説明のための説明。」というのは、司法において検察が自分達の想定した推理による筋書きを予め用意しておいて、後から筋書きに有利な証拠だけを断片的に集めて来て立証であると強弁するのと似たようなものである。

 生物学者達は理論的な真理を追求することが目的ではなく、生物進化というものをあたかも万能であるかの如く「説明したい。」だけであり。文系大衆観念を満たすことによる気分的満足が目的である。そのため気分的満足に適さない合理的説明に対して、何ら合理性のない観念によって否定し続けようとするのである。

 本能的気分が優先すれば論理思考は停止することは何度も述べた。実証不能の観念程強い感情を伴い、異常なまでに執着を発揮するものである。そして多くのヒトは感情的な相手の言うことに「観念。」することで思考停止に陥れられていることすら認識することは出来ない。

 こうした手口は詐欺師や占い師と同じものであり、生物学が大衆の論理思考を撹乱しているということは、研究費の無駄遣いだけでなく、いわば詐欺師の片棒を担いでいるのと同じことである。こんなバカげた行為は社会的に許されて良いわけがないのである。

 コンピュータウイルスであれば悪意のあるハッカーだけが高度化していて、一方ファイアウォール防御技術だけが全く進歩しないような状態である。PCやスマホにおけるワクチンに相当するものとして、詐欺師に騙されないようにするためには意識とは何か無意識とは何かを個人が認識することである。

 ヒトにおける文系大衆観念という脆弱性を、気分的に認識したくないからといって放置しておいて詐欺が減るわけがない。現在の生物学/脳科学はあまりに非合理で不毛である。


 観念とは本能無意識の産物である。脳の働きの全てが知性であるわけではなく、ヒトにおいても脳の働きの9割以上は無意識的固定観念によって支配されているのである。だからこそヒトの多くは自律的に何かに気付くことが出来ずに呆然と刷り込み学習した固定的文系大衆観念を優先してしまい、本質的に合理性のある判断というものが全く出来なくなるのである。

 脳を介在した行動の全てが知性ではない。蛾が焚火に飛び込む行動であってもヒトが詐欺に引っ掛かるのも脳が作り出した行動の結果であり、本能という予め組み込まれた無意識的行動バイアスによって促されているのである。

 焚火のような人工火炎というものはヒトが発生した数十万年から数百万年の出来事であろう、それよりも長い間生存に適した行動習性として光源の鉛直方向へと飛翔する本能が組み込まれた結果として蛾は焚火に飛び込むのである。

 逆に言えば、数万年にも及ぶ犠牲を伴っているにも関わらず、蛾は全く焚火に対する対処対応というものが出来ない。これは本能という機械条件反射的に組み込まれた行動以外を、意識的、自律目的として選択することが出来ないことを意味する。詐欺に対する耐性が多くのヒトに先天的に獲得できないのも同じ原理によるものである。

 ヒトの多くは実証不能の観念を振り回し、他人に多大な迷惑をかけてきた。観念とは無意識の産物であり、且つ脳の産物でもある。ひとえに「脳の産物。」といっても、無意識的固定観念というものは大脳辺縁系の産物であり、自律的論理検証性というものは大脳新皮質の所以である。脳の機能の全てが知能であるわけではなく、むしろ9割以上の無意識によって本質的な知能認識能力は阻害されているのである。

 何を所産とするかは意識か無意識かに依るものであり、破綻破滅への暴走というものは全て無意識が作り出すものである。意識的に行動選択することができれば破滅への暴走を認識し抑制することが可能であり、これが欠落しているから暴走を誰も止めることができないのである。暴走を止められて初めて知能であり意識であると言えるのである。


 認知科学者が無意識の優位性を論ずる時、必ず時代や世間に依存した世間的成功が基準となる。将棋だのゴルフだのといった論理的に知能の根拠を持たない基準に基づいた競技順位を基準として「知能と見なす。」のである。

 将棋だのゴルフにおいて高い順位を得ることが出来るとして、これが社会全体にとって持続可能性や安全性に寄与できるわけではなく。あくまで個人的な世間における優位性を論じているに過ぎない。

 それなら詐欺師が高度な能力を発揮する場合においても、「賢い。」と見なすことになるであろう。これこそが文系大衆観念の持つ非合理的知能論の所以である。

 個人的利益という本能に基づく順位を基準にしていれば、社会全体における持続可能性や安全性への自律的判断が価値を失うのは当然である。これこそが「バカ。」の所以である。


 本質的知能による本質的合理性を追求した場合、頭の悪い大衆観念によって形成されている世間においては成功や評価がされないのは当然である。ナチス政権下において大量殺人に反対することは世間的に失敗し評価されることはなかった、こうした間違った評価による世間的失敗の原因とは、多数大衆による頭の悪さ故である。

 頭が悪く無意識な者程自律的論理検証を忌避し、なを且つその場限りの言い逃れだの取り繕いにばかり意識が働くのである。言い逃れだの取り繕いには異常なまでに脳が働くので、あたかも頭が良いように「見える。」のかも知れないが、これは錯覚に過ぎない。認知症の初期症状においても同様の錯覚が働くのは、論理検証的に知能というものを測っておらず、文系大衆観念に基づいた無意識的判断しかしていないからである。

 生物/脳/認知科学者達は、その無駄知識の多さと多数決的権威性によって、その地位や体制を維持することができるのであろうが、これらは全て錯覚の産物である。

 カルト集団がその体制維持を可能であるのは、体制に加担している多数のヒト達による無意識的錯覚によるものである。西武グループにせよ、大王製紙にせよ、オウム真理教にせよ、東京電力にせよ、現在の生物学界にせよ、あらゆるカルト集団というものは内部のヒト達の無自覚性という錯覚によって体制が維持されるのである。

 「会長の権力は絶対だと思っていた。」と、西武グループの社員は後述している。「思う。」だとか「気がする。」といった論理的根拠のない気分本能的な無意識行動バイアスに流されているから、合理的な論理検証性が全く働かなくなるのである。

 東京電力における原発事故の予測回避の放置においても、「津波の影響を考慮すると、日本の何処にも原発は造れない。」という無責任性な固定観念を放置した多くの社員達によって作り出されたものである。畑村洋太郎の検証によれば、予め津波の影響を考慮に入れておけば論理的には炉芯溶解は回避できたのだと言う。

 東電の作り出した「日本の何処にも原発は造れない。」という観念は、実際には「津波の影響を考慮に入れて原発を造れば採算性が採れないので、結果的に原発を造ることが出来なくなる。」ことを論じているのであって、原発の機械的安全性とは無関係な論理である。

 社会全体の持続可能性や安全性を無視してしまえば、あらゆる行動選択というものは意味を失う。たとえ目先の物質的利益を得ることが可能であるとしても、長期的に見て社会が崩壊する可能性を含む以上、何ら本質的には合理性を伴うことはないのである。

 持続可能性のない社会になど、もはや一分一秒たりとも人間として存在する価値などないのである。

 ところがヒトの多くは目先の欲望や観念が優先してしまい、人間としての存在価値を簡単に失うことが可能である。目先の9割以上の無意識に行動が左右され、1割にも満たない論理検証性は便所の紙屑の如く破棄される。

 結果的に9割以上の無意識的気分を満足させることにしか意識は働かない。

 個々のヒトが社会全体の持続可能性や安全性を考慮せず、目先の固定観念に基づく気分的満足安心ばかりを追求していれば、社会は暴走を招き破綻に陥る以外にない。

 無意識であるということは危機管理能力の欠落でもあり、無意識でいれば気分的には安心でもある。「自分一人くらいなら。」とか、「自分一人ではどうにもならない。」といった言い訳/言い逃れを用いて自律的な社会的責任判断を放棄するのは非常に簡単なことである。「出来そうにないことを、自分に要求するな。」などというゾロアスター教を鵜呑みにしておいた方が気分的には楽になれるであろう、しかしこうした気分的楽こそが思考停止による危機意識の欠落を招くのである。



 本能というものが常に都合の良い結果を導いてくれる論理的根拠など全くない。詐欺にひっかかるのも、権威の命令に服従して原発の危険性を放置することも、これらは全て本能という無意識が導いたものである。にも関わらず「本能無意識こそが論理検証性を作り出す。」などと言い張る認知科学は科学としての役割を全く果たしていない。

 むしろ従来の文系大衆観念に基づいた根本的誤認を隠蔽することによる体制維持だけが目的で、何が真理であるかという論理検証など生物/認知科学者達にとって権益権威の喪失にしかならないため、結果=目的という実証不能の観念に基づいた論証しかしたがらないのである。

 生物学者達は科学的権威の擬態をしている。それがどんなに高度でも、知能と言うことはできない。

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定電流ダイオードの落とし穴。

2012年04月12日 14時39分50秒 | 日記
○15mAの定電流ダイオードのE-153っていうのを買ってみた。

 秋月電子通商で5個¥150で買ったんだけど、スペック表もオマケにくれたので読んでみたら、「肩特性。」っていう項目があって、4.3V以下では定電流特性が出ないことが判明。

 使わなくなった無線ルーターのリチウムイオン電池3.7Vを白色LEDにつなげたら4mAしか流れない。しかも5本並列でつなげたら13.5mAしか流れてくれず計算が合わない。テスターが壊れているのか、それとも何か他に理由があるのか、謎だらけで訳がわかりません。一本あたり13.5÷5=2.7mAってことなのかな。

 10mAタイプのE-103だと3.5Vから定電流特性が得られるって書いてあったので改めて買ってきたんだけど、こいつも2本並列3.7Vで6.4mAしか流れない。計算上は一個あたり3.2mAってことになり、5本並列にすれば16mAってことになるはず。

 なので手元にある10本の定電流ダイオードを全部並列接続にすれば計算上29.5mAのはずが、実際接続してみたら17.5mAしか流れず計算がまったく合わない。並列につなぐと一個あたりの電流値が減るのか、LEDに必要な電流を流すためには定電流ダイオードばっかりやたらと必要になる。本数増えると接続不良とかも増えそうだし、LED自体の価格よりも定電流ダイオードの方が高くつく。

 今のところ試験的にボルトナットで圧着接続しているので、接続不良は考えにくい。謎です。ε~(;@_@)

 多分LEDを直列につないで電源電圧を高くしておけば定電流特性を発揮してくれるのかも。しかし、そうなると電源自体から見直さないといけないので厄介だな。ラジコンのパックバッテリーとかに7.2Vのものがあるけど、果たして7.2Vなら定電流特性がきちんと発揮されるのかどうか。秋月でもらった特性表は10Vでの測定値だけど、実使用条件ではアテにならない。

 そもそもLEDっていうのは個体差があるので直列につなぐとそれぞれにかかる電圧がバラつく傾向があるので面倒臭い。あれこれつないで抵抗値特性の近い個体を直列につなげばいいのかな。電圧が多少バラついても電流自体は同じ量しか流れないので、そんなに神経質にならなくても良いのかも知れないけど。

 定電流ダイオードっていうのは容量によって「肩特性。」が異なるので、低い電圧では容量の小さなものを複数並列接続しないと定電流特性が出ないんだね。こんな落とし穴があるとは思わなかた。LED自体の抵抗値が大きいから定電流ダイオードにかかる電圧が低いとか、そんな理由なのかしら。それなら並列につないで計算が合わないツジツマが合うような気がするんだけど。

 秋月電子通商だと定電流ダイオードは
0.1mA
0.5mA
10mA
15mA
の4種類しか販売していないので、0.5mAタイプで試すとなると計算上は40個必要になる。果たして0.5mAタイプであれば計算通りに電流が流れるのかどうか、やってみないとわからないし、まとめ買い割引がなければ¥1200ってことになる。

 一個¥50のLEDを燈すのに定電流ダイオードだけで¥1200も必要って、何だかややこしい。ここまでややこしいと発熱があってもパワーLEDを使うとか、電源自体を見直す方が正解かも知れない。

 LEDも短時間であれば定電流ダイオードなんて要らないんだけど、自転車のライトみたいに数時間以上点灯させておくとなるとLEDっていうのは自己発熱で抵抗値が下がって(注*)、電流が過剰に流れるようになって勝手に壊れてしまう。100均のLEDライトとかって多分長時間点灯には向かないんじゃないかな。ボタン電池を使うタイプなら大きな電流が流れないからLED自体は壊れないんだろうけど、当然電池自体の容量が少ないから自転車のライトとしては使いづらい。


注*:LEDには半導体が用いられていて、半導体というのは熱温度係数熱抵抗係数が普通の導体とは逆の「負。(マイナス)」の特性を持っているため。温度が上昇すると抵抗値が下がる性質がある。


//---------------
 関係ないけど寝ぼけて結線してたらラジオペンチで親指の先を突っついちゃって内出血。痛い。作業は寝ぼけてやらないようにしましょう、安全第一です。




 ◇追記:

 定電流ダイオードをLEDと直列につなぐと、LEDの抵抗値の大きさによって定電流ダイオードにかかる電圧が低下して定電流特性が発揮されないということらしい。

 しかも定電流ダイオードを並列につなぐと、LEDとの抵抗の比率が更に大きくなって定電流ダイオードにかかる電圧が下がって一個当たりの電流値が更に低下してしまうということらしい。

 電流が充分に得られないのは定電流ダイオードの容量云々の問題ではなく、単に端子電圧が充分にかからないと定電流ダイオードっていうのはマトモに働かないってことらしい。秋葉原のダイオード屋はアテにならない。

 要するにLEDの電流制限をするには定電流ダイオードではダメらしい。容量の小さな定電流ダイオードであっても、端子電圧自体に違いはないので表記されている電流値は得られないと思う。

 ちなみに15mAと10mAタイプの定電流ダイオードを5本づつ計10本並列につないだ場合には、LEDには3.2V、定電流ダイオードには0.5Vの電圧がかかっていました。一応この状態ならそれなりに明るくて一晩中点灯させておいてもLEDが破壊したりはしなかったので、とりあえず1灯だけならこれで安定的に光らせることが出来るんだけど、ちょっと自転車のライトとしては暗いかな。

 LEDの取説では抵抗を直列に接続して使うことを推奨しているんだけど、これって電力の何割かを熱に変換しているってことになるので、折角のLEDの効率の良さが失われてしまって、何となく気に入らない。抵抗を入れても電球に比べれば圧倒的に効率は良いんだけど、何だか気分が悪い。そもそも電源電圧自体に5Vとか必要になるし、そんな電圧の電源ってないし。

 20mAタイプのLEDの場合、3.7Vのリチウムイオン電池を直結すると、最初から26mAくらい電流が流れて、みるみるうちに電流値が上がってゆく。Φ5㎜のLEDのエポキシ封止形式の場合、パワーLEDみたいな放熱能力がないので一体どうやったら抵抗を使わずに熱破壊を起こさないように充分な電流が流せるのかはわからない。

 100均とかで売っているボタン電池を4個程度直列に使うタイプのLEDライトっていうのは、ボタン電池自体の内部抵抗が大きいので、充分な電圧と破壊しない電流が両立出来るので合理的で非常に明るい。ただ、もちろん点灯時間が短くて電池は使い捨てになるので自転車のライトには使えない。

 要するに、LED自体に充分な放熱能力があって、リチウムイオン電池の電圧(3.7V)を直結しておいても壊れないLEDがあれば簡単で良いのにな。そんなに難しいこととも思えないんだけどな。

 あと、狭角15度のLEDの場合。前方に集められる光とは別に、先端部分から光が横にもれてしまっている。特に45度付近で円錐状に光がもれていて、これも前方に集められると効率が良くなりそう。適宜なフレネルレンズとかをドーナツ状に切れば集められそうな気もするんだけど、屈折っていうのは色分散が起きるのが厄介。

 反射鏡なら色分散は原理的に起きないんだけど、前方45度程度に拡がる光を反射で集めるっていうのも設計が難しそう。

 白色LEDの場合、特に蛍光剤が熱に弱いらしくて、他の単色LEDの場合は乾電池を直結しておいても明るさが急激に落ちたりはしない傾向があるみたい。黄色のLEDは2.4V駆動のものが多いらしいので、これだとニッケル水素充電池2本を直結して使っても簡単には壊れたりもせず、それなりの明るさも得られる。

 赤色LEDの場合は一応3.0V駆動ということになっているんだけど、2.4V直結でも結構明るさを発揮してくれる。ただ、赤色だと自転車の前照灯としては不適切で、やっぱり尾灯として使うべき。色が赤いと対向車としての認識がないので、下手こくと正面衝突の危険性もあって無灯火と同じくらい危険。

 となると、現状では黄色のLEDをニッケル水素充電池直結で使って、ある程度LEDがヘタれてきたら交換できるようにしておくっていうのも良さそう。




 ◇続追記:

 そういえば以前「LEDの抵抗値は1キロオームくらいある。」とか書いてしまった記憶があるんだけど、どこに書いたのかをまるきり忘れてしまた。実際には3.7vで0.025Aなので148オームとかでした、どっかで一桁間違えたんだろうな、LEDなので電流を流し続けるとむしろ発熱でみるみる抵抗値は下がってゆきます。

 で、定電流ダイオードをLEDと直列に接続すると、LEDの方の抵抗値が大きいために定電流ダイオードの方にかかる端子電圧が不充分なので、充分に電流が流れない。

 しかも、定電流ダイオードを並列に接続しても、ますますLEDとの抵抗値の差が大きくなってしまうらしくて電流値が二倍にはならずに、定電流ダイオードを並列に増やせば増やす程電流が増えなくなってしまう。

 15mAの定電流ダイオード一個をLEDに直列に接続した場合、実際には3.9mAしか流れず、定電流ダイオードを二個並列にしてLED一個と直列接続した場合には7mAしか電流が流れなくなってしまう。

 この傾向は定電流ダイオードを並列に接続する数を増やせば増やす程顕著になり、10mAタイプと15mAタイプの定電流ダイオードを5本づつ全部並列にしても17.5mAしか電流が流れてくれない。

 なので結論から言うと、一個のLEDに対して一個の定電流ダイオードを直列に接続して、これの数をたくさん並列に接続するのが最も充分な電流と明るさを得られることになるんだと思う。

 LED一個当たりに流れる電流が小さい方がLEDも長持ちするので、この接続方法の方が信頼性も得られるのではないかと思う。本当のところはやってみないとわからないけど。

 今手元にLED10個と定電流ダイオード10個があるので、全て1セットずつ直列に接続しようかと思っているところ。LED一個当たりはそんなに明るくはないのだけれど、全体としては39mA程度流れてくれることになるので、定電流ダイオードを用いた接続方法では、これが最も明るく光らせることになるみたい。

 LED自体も取り扱いが面倒臭いけど、定電流ダイオードの特性もかなりややこしい。秋月電子通商のLEDには抵抗を直列に接続することを勧めているんだけど、回路図では電源電圧が5Vや12Vになっているので、実質的にはニッケル水素充電池とかリチウムイオン電池で使う回路図ではない。

 多分パワーLEDだったら放熱対策をしっかり行っていれば定電圧ダイオードで電圧だけ制御しておけば安定して光らせることが出来るんだろうけど、パワーLEDっていうのは封止材に耐熱シリコンゴムを用いているらしくて、触ると壊れるとか、湿度に弱いだとか随分取り扱いが面倒臭いらしいので、価格的には若干不利だけど熱カチオン硬化型エポキシ樹脂封止材型(一般的に言う「砲弾型」)で何とかしたいところ。


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一括投稿。10

2012年04月12日 14時38分39秒 | 意識論関連

○「外見上の主体性≠人間。」という観念。

 意欲というものが本質的な主体性を持たないのであれば、外見上の主体性として欲望の主張が強いことを「人間。」的だと称するのは間違いである。

 「人間。」としての主張をするのであれば、これは利己的欲望に基づく単なる主張の強度ではなく。あくまで持続可能性や安全性を優先した合理性のある選択でなければならない。合理性のある持続可能性や安全性の追求というものは個人の本能的欲望の強度とは関係がないので主張が自ずと弱くなるものである。

 どうも文系の観念上では、自己主張が強いことを人間的と形容する傾向があるが、これは合理的根拠がなく。単なる生物種として「ヒト。」的ではあっても、これは「人間。」的である論理的根拠にはなっていない。

 「人間」と「動物種としてのヒト」の区別自体に論理的分別が欠落して、文系の無意識的固定観念に基づいて何を論じても何ら合理性のある結論には到達することは不可能である。

 文系の観念上においては、「ヒト=人間。」という実証不能の観念に基づいた論証が平気で行われる。これがあらゆる議論における根本的な理論的間違いなのである。


 論理的思考に基づく判断というものは、自ずとその冷静さから感情的主張の強度は小さくなるものである。逆に本能的欲望だの無意識的固定観念に基づく主張というものは、その本能的感情によって主張が激しさを増す傾向がある。

 ヒトの多くは感情的な主張の大きさによって判断を奪われる傾向があり、これもまた本能的な社会形成習性による「観念。」であり。ヒトの行動判断の9割以上は、こうした無意識的な観念による判断しか行われないものである。

 理性的で統合的判断というものは、言うなれば「天使の声。」であり。これは「ケダモノの声。」や「悪魔の声。」に比べて意識の上では1割に満たないのと同じことである。

 ケダモノであっても概ねは平和的であろう。それならケダモノに原発の運転を任せておいても気分的には安心なのかも知れないが、それが安全である保障など全くない。

 「キチガイに刃物。」と言うが、「ケダモノに科学技術。」なら同じことである。




○自主的問題意識の欠如。

 「前例がない。」或は「とても困難を伴う。」というのは、論理的/原理的に絶対不可能であることの論証ではない。ところが自発的問題意識の欠落した者というのは、困難を伴う面倒臭いことは「不可能であると仮定して。」おいて、表面的な目先の効果効用だけを求め、これを「実務的。」と言い張る傾向がある。

 議論において論理的根拠のない仮定を持ち出すのは、議論を形而化させ無為無策に陥らせるだけである。

 難しいかどうかを選択の判断基準にするというのは手抜き以外の何物でもない。根本的な問題点を放置しておいて表面的な小手先技で取り繕ってしまうというのは、そいつに自主的問題解決の意欲自体が存在せず、その場限りの効果/業績によって多数他者や権威からの評価報酬が目的であるからだ。

 理想をすぐに実現することが困難であるからといって、目先の取り繕い手段を「目的。」にするというのは無責任である。あくまで「目的。」としては理想を掲げておいて、暫定的措置を選択するのであれば、これは「現場の判断。」であろうが。暫定的措置は「手段。」であって「目的。」ではなく、統合的な目的議論に持ち込むべきものではない。

 議論において理想という「目的。」を簡単に放棄したがるのは、そもそもが自発的問題意識がないからであり。こういう者の「目的。」というのは他人からの評価報酬という利己的欲望でしかないからだ。

 利己的欲望による選択判断の多数決では、理想というものは簡単に失われる。嫌われることは承知の上で言っているのだが制度だけ民主主義制度を導入しておいても、実際に議論する者の多数がバカであるならバカ主義制度にしかならないのである。

 理想というと夢物語か何かと勘違いするバカも多いが、理想というのは持続可能性や安全性を確立することであって、本能欲望の全てが叶うような「バカにとって都合の良い話。」ではない。

 地道で質素で、それぞれの人達が自分の欲望というものを自律的に制御できている平穏な社会こそが本当の「人間としての理想。」というものであり。目先の欲望の全てを満たそうとするのは、狭窄な目先の無意識による「豚小屋の理想。」に過ぎない。

 現在の教育制度における学力成績基準においては、本質的な自主性に基づく意欲/問題意識の有無とは無関係であり。目先の利己的欲望が「目的。」であっても区別はされない。だから東大からテロリストが出たり、天下り役人が減らないのである。学力向上という現場の判断だけが目的にされてしまえば、何が起きても誰も責任を負わないということでもある。

 認知科学界自体が「無意識こそが人間性/合理性を作り出す。」などという支離滅裂な主張を繰り返しを放置するというのは、大学/公的研究機関の役割として無責任であり公金の無駄遣いどころか詐欺行為である。

 ヒトというのは、手段と目的を簡単に混同してしまう性質があり。これこそが論理検証性の欠落による無分別によるものである。

 論理検証という本質的合理性の追求こそが、本質的な人間としての意識なのである。これを文系の観念者達は忌避したがる。文系の観念者達というのは既に刷り込まれた固定観念による目先の感情こそが意識の全てであることにしておきたいのであろう。

 自分達の感情の全てが人間としての「心。」であると錯覚しておけば安心であり、こうした気分的満足によって論理的思考を停止させてしまう。だからマスコミはSQだの脳トレなんぞを鵜呑みにして満足しているのである。

 それが無責任であることを彼等は全く認識していない。



 私はネガティブな指摘しかしない。なぜなら議論の根本的合理性の問題点について論じているからである。各論的な実務レベルの話であれば専門家に任せるしかないのであるが、どの専門家に任せるべきかの選択は各々の現場の責任であり、それぞれの「意識。」の問題である。

 理論的基礎が間違ったままどんなに議論を重ねても合理的帰結には到達不能である。多くのヒトは目先の表面的な解決法にばかり意識を奪われ、根本的な間違いを放置して同じ原因の過ちを何度も繰り返す。それをバカという以外には形容不能である。

 バカげた話を鵜呑みにしているから物事の本質を見失い無為無策に陥るのである。地道に嘘や誤りを正すことによって実効性のある対策が立てられるようになる、バカを放置しているから実効性のある策が潰されているのである。

 バカを放置しておくこともバカに加担しているのと同じである。誰がバカなのかが区別できないのは当人がバカだからであろう。

 バカがバカたる所以とは、自らのバカを自律的に認識「したがらない。」からである。

 「したがらない。」というのは気分感情の問題であり、気分感情とは無意識であり、「意識の9割以上は無意識である。」ことを論理的に理解すべきである。


 ポジティブ能動的な意見というのは、専門各論において自発的意欲のある人が導き出すものであり。自発的意欲のない奴が専門に就いていれば体制維持体質によって実効性のあるポジティブ意見が黙殺され、表面的な取り繕いによって本質的問題点が放置されることになるのである。従って丹念に本質的自発性の欠落した者を専門分野から排除しない限り、本当に有効なポジティブ意見というのは社会に反映されることはないのである。

 短絡的にポジティブ意見を追求するというのは、言うなれば「目先の効用。」の追求に過ぎない。その方が短絡的で大衆にはウケが良いであろうが、こうした大衆迎合こそが社会の無意識的な暴走性を放置する原因であることを認識すべきである。



○純粋行為が、なぜ純粋なのか。

 それを考えるためには、不純な行為とは何かを考えれば良い。

 不純な行為とは、他者から与えられる、或は与えられる可能性に基づき行われる行為である。これは欲望が自己完結していないので純粋とは言うことができない。

 平たく言えば、誰かから与えたもう評価報酬「エサ。」に対する機械的条件反射行動である。誰かという他者から与えられる「エサ。」を求める場合、与えられる相手が必要不可欠であり、自発性がない。

 こうした自発性のない、他発性による行動動機の場合幾つかの問題点が生ずる。

 まず評価を行う他者が常に必要である。これは非常に面倒臭いことで、評価が得られない或は得られそうにない場合には簡単に行為が放棄されてしまう。その上自己本人の純粋な好奇心は全く満たされることがないために他者からの評価報酬への欲望は常にエスカレート暴走する性質があり。ヒトの欲望に際限がなくなる原因でもある。

 次に評価を得るためであれば公益的な自律判断も簡単に放棄されてしまう。社会的にはこれが最も厄介な性質である。

 こうした他律的行動原理に基づく行動というのは、本能的な社会形成習性とも親和性が高く、自己責任の放棄になると勝手に錯覚する原因にもなる。

 そして本能的な社会形成習性によって既存の価値観に基づく体制に迎合し、気分的に安心することによって、実効性のある実質的対策というものが黙殺統制されてしまうのである。


 一方自発的純粋行為の場合、他者からの評価報酬には行為が左右されないため、簡単に行為が放棄されることがなく、凡庸な程度で「諦める。」という気分感情による行為放棄が原理的には起こらない。

 天才が天才足りうる原因というのは、こうした自発的行為によって凡庸な程度での行為放棄がなく。徹底的な追求が行われることによって凡庸ではない「天才的。」なまでの探求が結果的に行われるからである。

 また、自発的純粋行為によって自己自身の純粋な好奇心を満たすことが自律的に可能であるため、自己内部の欲望というものを自己自身によって自己完結的に満たすことが可能であり、結果的に外見上禁欲的でもある。

 こうした自発的純粋行為を「自慰的。」と形容する者がいるが、それなら自分の欲望を多数他人によって満たそうとするのは「他慰的。」行為であり。これはもはや単なるド変態という以外にない。自己の欲望というものは自己自身によって処理するというのは、人間として当然のことであり、何ら自慰的であることに問題などない。

 それを「恥ずかしい。」と「思う。」のは、多数他人との共通的価値観の迎合性による恐怖心であり。こうした「思い。」というものは論理的根拠による合理性のあるものではなく、正に「実証不能の観念。」に他ならない。

 むしろ他慰的欲望を満たさんがために自律的に社会的責任判断を放棄したり、際限なく欲望を暴走させる方が明らかに社会的に迷惑なのである。

 時代に左右されうる普遍性を持たない多数大衆による価値観は本質的には人間としての社会性ではなく、言うなれば世間的価値観に過ぎず。目先の世間に迎合することというのは人間としての社会性とは異なるものである。

 ところがヒトの多くはこれを根本から勘違い錯覚しており、多数権威に服従迎合しておくことこそが本能的に安心であるため。この気分的安心を安全性と錯覚するのである。

 ヒトという種の生物は、本能的な社会形成習性に従って無意識的/本能的に多数権威に服従迎合する「仕組み。」が組み込まれており。気分的安心という感情の強さこそが意識であると錯覚するのである。

 本質的意識や本質的知能というものは、論理的思考によって導き出されるものであり。固定観念に基づく感情の強度によって導き出されるものではない。むしろ無意識的な固定観念による感情によってこそ論理的思考は阻害されるのである。

 故に多くのヒト衆生は同じ過ちを繰り返し、愚かなままなのである。

 原因が理論的に解析できれば対策も立てられる。ヒトの多くが愚かなのは原因を認識「したがらない。」という気分感情が論理的思考を阻害しているからである。



 原発技術者のような特定の技術者だけが自律的に社会的責任判断を行わなければならないのではなく、社会に生きるあらゆる人には、その人なりの行動責任というものが存在するのである。これを無視して他人にばかり「想定外をなくせ。」などというのは余りに都合の良い社会的「甘え。」である。

 その場限りの気分感情だけ満足させておいて「心。」もすったくれもあったものではない。自律的に自己の感情が制御できないのは純粋な好奇心に基づく純粋行為に価値を持たないからである。

 養老孟司にも見られるように、自発的純粋行為を「知って。」いても。その純粋行為に価値を持たずに世間的評価や成功報酬に目が眩んでいれば自律的判断は失われる。

 ヒトの多くは、本能的に多数他人からの評価や報酬を求めてしまうために。自発的純粋行為への価値観を喪失する習性がある。養老が訴えるルサンチマンの全ては世間からの評価に対する条件反射的なものであり、そこには論理検証という「考え。」が全く伴わず、「悔しい。」だの「仕方ない。」といった気分による観念しか出てこない。

 ニーチェが論ずる「出来そうにないことを、自分に要求するな。」などというのも、「出来そう。」かどうかという基準自体がそもそも合理的根拠によるものではなく。これを基準に「諦める。」ための言い逃れによる気分的満足を得るための言い訳に文系大衆が利用している実証不能の観念に他ならない。

 実証不能の観念というものを、ヒトが振り回すことに陥るのは。それが無意識な気分的満足を意識であると錯覚しているからであり、こうした錯覚を錯覚と認識する論理検証性/自発的思考というものが欠落しているからである。

 無意識に行動していれば何が起きても誰も責任は負うことができないのは当たり前である。特定の誰か少数に意識があったとしても、多数という強大な力の前には少数は原理的に微力である。アインシュタインのような天才であってもナチスを止めることができないのはそのためである。



Ende;
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一括投稿。9

2012年04月12日 14時36分08秒 | 意識論関連

○べき。

 イヌは人為的に飼育すると突然変異によって非常にバリエーションが拡大する。

 にも関わらず自然界においてイヌ科の動物の集団内部でバリエーションが少ないのは、そこに均一性を確保するための「排除。」や「差別。」の本能が働いているからである。

 本能的な社会形成習性というものには、こうした排除や差別といった不平等性やヒエラルキー格差の機構が予め「仕組み。」として組み込まれているのである。

 ヒトの子供だけで放置しておくと自動的にイジメが生ずるのは、ヒトという種の生物における本能的「仕組み。」による結果である。

 結果を踏まえてどのような目的に基づき行動選択する「べき。」かは、本能習性によって導かれるような簡単短絡的なものではない。

 「べき。」とは理想に基づいた目的意識による「選択。」である。イギリス人の混血タレントの略ではない。



Ende;

○救世主幻想

 ヒトはその社会形成習性によって、特定の誰かに服従してさえおけば短絡的に全てがうまくゆくものであると錯覚したがる。

 権威というものへの無意識本能的服従性や、多数他者という世間への迎合性というものも、こうした本能的感情が促す生物的本能行動である。

 救世主というのも盲目的に服従することで気分的安心を得ることが可能な特定対象である。

 ヒトである以上間違えない者などいない。間違いは誰にでもあり、相互に検証することによって小さな誤りは是正可能なものである。

 多くの人が間違えなければ、総体としては間違いには陥らない。

 ところが残念なことにヒトの多くは間違いには気付かず、総体として簡単に間違いに陥る傾向習性がある。

 特定の誰かに服従してさえおけば、全ては間違いなくうまくゆくものであることを本能的に求める性質がヒトにはある。これは土居健朗が論じた「甘え。」の性質の本能的無意識暴走である。

 本来救世主を求める「目的。」とは、安全で持続可能な社会の確立のためのものである。それを自分達では面倒臭くて気分的に「嫌。」だからといって、救世主という特定他者に丸投げすることで本能気分的に満足したいのである。



Ende;


○格差。

 格差が社会需要の信号の役割を果たしているというのは嘘である。何ら生産性のないクソゲープログラマの年収が1500万円であることが、社会にとって本当の「需要。」であるとは言うことができない。それは単なる目先の「世間。」的需要に過ぎず、何ら社会的普遍性の論証にはならない。

 そもそも本質的な「社会。」的需要というものは年収に比例するようなものではない。

 格差とは「結果。」である。それ自体に何らかの役割を後からこじつける必要性自体がないものである。

 アイヒマン実験における「Cyberneticsの観点。」同様、「結果。」に後から意味をこじつけるのは理論的に間違いである。どれ程偶発的に良い結果をもたらすとしても、結果というものは意識的に選択した「目的。」が伴わなず、絶対的に常に良い結果をもたらす論証にはならないのである。

 「結果。」という現状に基づいて、これから「目的。」に向かってどのような選択を行うか。この選択が「意識。」の役割である。単なる現状という「結果。」に意味をこじつけても、「目的。」自体から意識撹乱されることはあっても、「目的。」自体は抽出されることはない。


 ヒトの多くは現状のことを短絡的に「現実主義。」と錯覚するが、現状に迎合服従していること自体が現実逃避であり、どのような「目的。」意識を持つべきであるかという「理想。」を無視し、意識狭窄に陥っているのである。

 本質的な「現実。」主義とは、現状という「結果。」を踏まえてどのように「理想。」に向かって近付けることが可能であるかを「考え。」ることであり。現状に迎合して気分的に満足して思考停止に陥ることは現実逃避でしかないのである。

 虚無主義ニヒリズムというのは、あたかも現実主義であるかのように文系大衆観念では取り扱うが。実際にはこれからどのような選択を「すべき。」であるかを意識から外し、「結果。」という現状に迎合服従するだけの現実逃避であり、臆病者の言い逃れ/取り繕いに過ぎない。ニヒリズムというのは一種の自閉症に過ぎないのである。

 だからこそニヒリストというのは感情的であり、同時に「考え。」が伴わない。ニヒリストがヒステリックにニヒリズムに固執するのは、それが図星であることの証明である。

 他人の話に耳を貸さないというのは自閉症の症状そのものである。

 虚無をいくら枚挙しても、それこそネガティブ性しか出てくることはなく。何ら社会安全性も持続可能性にも寄与することはない。

 ヒトの多くは虚無を持ち出されると簡単に思考を停止し、反論不能に陥り結果的に迎合しがちである。「ヒトとは、そういうものだ。」とか、「今までずっとそうだった。」といった多数抽出結果の枚挙を、あたかも論理的不可能証明であるかのように錯覚するのである。

 錯覚を錯覚と認識できないのは、そこに本質的意識による論理検証性が働いていないからに他ならない。

 「なぜ、そういう結果になったのか。」を論理的に検証し、原因を究明、再発防止策につなげることができないのは。こうした本能的無意識錯覚による思考の停止が働いているからである。

 こうした本能的な条件反射的思考停止こそが実証不能の観念に多くのヒトを誘うのである。経済学では断片的にこうした虚無主義が混入しており、同時に根拠のない目先の効用への幻想によって思考停止に陥っているのである。



 文系大衆観念というものの多くは、論理的には全く検証がなされていない実証不能の観念であり。これを無為無策に放置することは「頭が悪い。」からである。

 「社会性。」と称して本能的な社会形成習性こそが人間としての社会性であるかのように生物学は論じてきた。未だに生物学は「本能にこそ人間性が存在する。」と言い張る始末である。

 「合理性追求。」という言葉においても、カントの純粋理性批判を鵜呑みにし、誰も論理検証をしてこなかった。

 本質的な合理性なくして社会安全性も持続可能性も確立することは不可能である。決してその場限りの気分的「安心。」によって社会安全性が保障されるわけではなく、むしろ、気分的「安心。」という実証不能の観念こそが社会を危険に陥れることを認識すべきである。


 「心。」というのは目先の気分的「安心。」の追求によって形成されるものではなく。統合的で本質的な合理性を伴った理性的選択によって作られるものである。決して目先の本能的利益や効用といったものに惑わされず、自己の社会における本質的な自己の存在意義(大衆観念上での世間的評価ではなく。)に基づいて自律的に選択することによって、本質的な人間としての「心。」の平穏を持つことが可能となるのである。

 生物学/脳科学や哲学マスコミは、大衆が目先の利益効用に本能的に撹乱されることで論理的思考を失わせることが可能であることを利用し、あたかも科学的理論であるかのような体裁だけを用いて体制維持を謀る。

 それが理解認識できなければ、ヒト社会におけるあらゆる過ちは放置されることになる。

 私は神ではない。従って私一人で社会の安全性や持続可能性を構築できるわけではなく、単なる道筋を明らかにしているだけである。より多くの人がこの道筋の正当性を認識しなければ何も変わることはない。

 無意識な行動というものは、機械的条件反射行動である。従って無意識でいるということは結果的には暴走に加担することにしかならない。

 暴走を止めるのは意識であり、本質的合理性の追求である。それが目先の気分を害するとしても、利権の喪失になるとしても、「人間。」として自律的に社会的責任を負わなければ、本質的な「自己。」としての存在価値の論証にもならない。

 目先の利害に意識を奪われていればサルと何ら違わないのである。



Ende;

○解体。

 アイリーン:ペパーバーグのオウム(ヨウム)は生体解剖されていなかった。

 確か言葉を話すオウムは解剖されたという話をどこかで聞いたことがあったのだが、Webでの調べものが苦手なのでよくわからない。多分英語論文なんだろう。最近ペパーバーグが飼っていたオウムが死んだそうである。


 それはさておき。(どうでも良いことなので。)

 「ヒトよりも知能の高い生物がいたとして、ヒトの話を聞かないはずはない。」などという話は何の根拠もない文系観念者の勝手な決め付けに過ぎず。知能というものの議論を撹乱するための言い逃れとして、あたかも科学的論証風味なことを述べて大衆を撹乱しているだけである。

 むしろ理論的な話が通じない生物学者達やマスコミの頭の悪さこそが問題なのである。

 ヒトでありさえすれば人間としての知能が必ず発揮されるという短絡的なものではなく、教えられていないことを発見したり、教えられたことの間違いに気付く能力、自律的に社会的責任判断を行うというのは、ヒトの中でもはむしろ非常に稀なものである。

 以前にも述べたが、言葉を話すことが短絡的に知能の論証にはならない。振り込め詐欺や占い師は非常に言葉巧みに相手の論理的思考を撹乱するが、彼等が科学的発見や発明をすることはない。チンパンジーがエサ欲しさに高度な瞬間記憶能力を発揮しているのと何ら変わりはないのである。

 詐欺ペテンであっても、ある種の知的能力の一種であるとは分類可能ではあろうが。本質的な人間としての知能とは無関係である。

 言語を用いて相手の気分的満足を与えられると、多くのヒトはそれを知能であると簡単に錯覚する。逆に言えば気分的に嫌な話を持ち出し、自分の愚かさを立証されることによる気分的嫌悪感によって、話に耳を貸さなくなる性質がある。

 生物学者達がカルト宗教の信者の如く、自分にとって都合の悪い話に耳を貸さないのは。彼等が論理的思考ではなく観念的気分によって行動判断を行っているからである。

 ペパーバーグらがオウムに強い思い入れをしても、何ら論理的にはオウムの知能の論証にはならない。思い込みという「感情の強度/程度。」では科学的論証にはならないのである。

 行動学習による無意識的認識能力の全てが意識的な論理思考を促すわけではなく、無意識的認識能力というものは錯覚や固定観念をも作り出す性質も持っている。従って、何が錯覚や論理的根拠のない固定観念であるかを認識するのは無意識ではなく、今現在における本質的意識/論理検証性である。

 カルト宗教の信者の行動というものは、経験による無意識的行動学習が作り出した結果である。これを無視して「無意識こそが論理思考を作り出す。」などと言い張るのは、言っている認知科学者の頭が壊れているとしか考えられない。

 ヒトは人生において必ずしも論理的思考において都合の良い行動学習しか体験しないわけではなく、むしろ論理的思考を阻害するような本能感情による行動バイアスを無意識的に学習することの方が圧倒的に多い。これを論じない認知科学者というのは、認知科学者としてポンコツとしか言いようがない。

Ende;

○論拠。

 鍛練や習熟によって獲得可能な能力というものは、あくまで遺伝的に予め可能性が存在するから可能なのであって、普通は発現しない能力が特殊な環境や状況下において発現したからといって遺伝的能力を超越しているわけではない。

 キリンの首が長いことを、「キリンは高い所の葉を食べるために進化した。」と生物学では「説明。」する。

 キリンが高い所の葉を食べようと鍛練習熟することによって、あたかも遺伝要因自体にまで影響を及ぼしたかの如く言い張るのは大きな間違いである。遺伝による先天的能力というものは個体が選択不可能な要素であって、「結果。」以上の何物でもない。

 「結果。」に後から「目的。」的な意味をこじつけても、これは「説明のための説明。」にしかなっていない。説明することだけが目的であり、全く真理の追求には構造原理的にならない。

 現在のキリンの首が長いのは、首の短いキリンが環境によって淘汰された「結果。」であって、遺伝的に首が短い生物種がどんなに頑張っても首が長くなったりはしない。キリンの首が長いのは何らかの目的意識によってではなく、あくまで結果以上の何ものでもない。これがダーウィン進化論の本来の解釈である。


 ヤギの多くは二本脚では歩かない。だからといってヤギが遺伝的に二本脚で歩くことが不可能であるわけではなく、前脚を奇形や事故で失った場合に二本脚で歩いても遺伝的能力の超越の論証にはならない。

 ネコが二本脚で歩いたりヒトの発声に似た声を出すことはYouTubeの動画にも時折見られる。中国の古い文献にもネコの二本脚歩きやヒトの言葉を話したというものがある。

 普段発現しない能力であっても、環境や状況によって発現したからといって、それは「珍しいこと。」ではあっても遺伝的能力を超越しているとは言うことができず、「多く。」の個体に発現しないとしても、あくまで能力の潜在に過ぎない。

 生物生存において、遺伝的に可能な能力の全てを獲得する必要性はなく、潜在的な能力を保有していても何ら不思議はない。


 キリンは首がとても長いため、高い場所にある脳にまで血液を送るために血圧が非常に高い。ところがこのまま頭を地面付近まで下げると血圧が高過ぎて脳溢血で死に至る、これを防ぐために脳動脈には血圧を調節する機構が備わっているのだが、この機構は首が長くないオカピにも存在する。

 オカピにとって脳血圧の調節機構は必要ないのだが、潜在的にこうした機構を持っていても構わないのである。

 生物の遺伝的な機構や能力というのは、全てが必要である必然性はなく。全て偶然結果的に生存に適していさえすれば何が組み込まれていてもおかしくはない。遺伝要素というのは自然淘汰によって洗練はされているが、全てが必然性によって組み込まれているわけではない。

 何らかの「目的。」意識に基づいた必然性によって何者かが生物を作ったわけではなく。あくまで「結果。」的に生存していた存在を「生物。」と分類しているだけなのである。


 ヒトのやイヌの身体の大きさは非常にバリエーションに富んでいる。これは自然淘汰によって「洗練。」されていないからであり、突然変異に任せておけば生物の姿というのは大きな違いを生ずることの論証である。

 結果的に生存していた生物だけを抽出してきて、あたかも生物というものの全てが生存のために自己の遺伝的性質自体までをも意図的に変化させたかのように論ずるのは、生物学者特有の非論理的文系観念に過ぎない。

 淘汰によって生存に適さなかった生物の全てを無視して、偶発的に生存していた生物だけを抽出しても。生物の目的が生存であることの論証にはならない。

 突然変異が進化(変化)をもたらし、これが生存に適した種を生じさせることがあるとしても。実際には突然変異のほとんどは生存には適さず、むしろ突然変異のほとんどは統計的に生存には結びつかない。

 生存とは偶発的な「結果。」以上の何物でもなく、生物自体に何ら目的など存在しない。

 目的というものは意識的に選択されたものを言うのであって、これは意識を持った「人間。」にしか存在しないのである。これは同時に意識のない「ヒト。」の単なる欲望は本質的には目的と言うことができない。

 本能に基づく行動選択であっても、これは一面的には行動「目的。」と形容するが。本能自体が自発的選択によるものではない以上、そこに一面的に合理性があっても意識的に選択された本質的な行動「目的。」とは言えない。

 本能という無意識的シーケンスに基づいている限り、断片的に合理性が伴っても本質的には合理的でもなければ意識的行動選択でもない。統合的な目的意識に基づいた行動選択がなされない限り、本質的には合理性にはならない。


 国家単位において普遍的に国益保守が見られるからといって、これを人類の普遍的価値観であるかのように論ずるのは間違いである。これは「ヒト。」における「結果。」的な普遍的性質の枚挙に過ぎず、何ら「人間。」としての意識的に選択された「目的。」意識に基づく普遍的価値観ではないからである。

 「ヒトとは、こういうものである。」ことをどんなにたくさん枚挙抽出しても、それが短絡的に「人間として、かくあるべき。」であることの論証にはならないということである。

 生物学に限らず、文系観念の放置というものはヒトの行動「結果。」の抽出枚挙を短絡的に人間としての「目的。」行動にすりかえる愚かさの放置でもある。それなら失敗が繰り返されるのは必然というものである。

 失敗というものを工学的に検証し、どうしたら失敗を繰り返さないようにできるのかを考えるためには。先ず初めに文系観念による短絡的すりかえ(諦め)による論理撹乱を排除すべきであり、これによって本質的な合理的安全性の確立が可能となるのである。

 ヒトの多くは、「今までずっとそうだった。」とか、「多くのヒトはこういうものだ。」といった文系観念による脅迫的強弁を、あたかも論理的な不可能証明であるかのごとく錯覚しがちである。

 簡単であるかどうかは無関係である。難しいからやらなくて良いというような短絡的安易な結論は糞の役にも立たないからである。


 生物学者達が大好きな文系観念の放置というものは、科学から論理的思考を奪い、実証不能の観念に基づく混沌と、論理的根拠のない不可知性のまどろみに多くのヒトを誘う。だから社会の安全性も持続可能性も確立できないのである。



Ende;

○文明。

 「文明。」と呼ばれるコミュニティーの巨大化を「人間。」的と呼ぶのは論理的な根拠ではない。コミュニティーの規模と人間性に比例関係など存在しないからである。

 ポジティブな一面だけを抽出枚挙することで、コミュニティーの巨大化を「文明。」と称して、あたかも絶対的価値であるかの如く論ずるのは大衆迎合的なまやかしに過ぎない。

 一面的に医療の発達や経済学上の数値だけを抽出枚挙しても、「文明。」都市の巨大化の全てが合理的である論証にはならない。「都市対田舎。」という短絡的構図を鵜呑みにして論理検証を全くしないから養老孟司のような論理整合性のない支離滅裂な話が鵜呑みにされ、結果的に本質的合理性が失われることこそが無為無策に陥る原因である。

 観念によって思考が停止していれば、原因究明も対策もされなくなるのは必然というものである。



Ende;
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一括投稿。8

2012年04月12日 14時33分50秒 | 意識論関連


○学力。

 学力だけを目的とした現在の学力ビジネスというのは、生徒の学力さえ高くなれば秋葉原で大量殺人をしようと、都営地下鉄に毒ガスを撒き散らそうと、原発を暴走させようと「知ったことではない。」のである。

 それが本当に生徒達の未来にとって必要なものであるかどうかは、親大人達の意識次第である。

 目先の利益や気分的安心である利己的利益追求に意識を奪われ、統合的な社会全体の持続可能性や安全性を無視しておいて。一体子供達にどのような世界を遺すつもりでいるのか、その統合的で合理性のあるビジョン/理想というものが親大人達の意識には欠落している。


 自律的に社会的責任を負うためには、自発的に自己自身の欲求を満たすことが出来ていなければならない。

 自己の欲求を多数他者(世間)から満たされることしか行動学習していない現在の日本の大人達には自律的に社会的責任を負うという人間としての最も根源的価値観が欠落している。

 目先の効用、目先の利益追求に意識を奪われていれば、統合的視点に基づく社会の持続可能性や安全性といったものにまで意識が働かないのは当然である。

 現在の日本の大人達は、意識が働かないように行動学習されてしまっているのであり、それゆえ無意識的な連鎖行動という暴走しかできなくなっているのである。

 無意識に暴走していることをバカと言わずに何と形容するのか私の知ったことではない。

 多くのヒトは自分が無意識的に暴走していることすら認識していないのである。暴走を認識していなければ気分的には安心で満足であろう、だから論理的根拠のない実証不能の観念に基づいて文武両道を必修にしたりするのである。

 必修にすべきは人間としての合理的人間関係についてのディスカッション生徒達による理性的な話し合いを大人達が促すことであって、ヒトという種の本能の危険性について認識させることが重要なのであって。実証不能の文系観念に基づく合理性のない精神論を無意識に押し付けることをすべきではない。


 既存の価値観に基づく多数他人からの評価報酬に、機械条件反射的に反応した結果としての学力知識というものは評価試験が終了すれば当人にとって価値を失うことになる。だから試験が終わると全部忘れてしまうのである。

 それに対して自発的純粋な興味感心意識に基づく知識というものは、取り立てて強いて勉めずとも記憶に残るものであり、外見上試験で同じ点数を獲得しても当人にとっての知識の価値観は全く異なる。

 当然自律判断も異なることになる。

 既存の価値観に基づく多数他人という世間的な評価によって気分的に満足することを「自信。」であると、多くのヒトは錯覚する。しかし、既存の固定観念に基づいた価値観に依存した多数他者からの評価である以上、これは本質的には自己自信の自律判断への信頼性には結びつかない。

 固定観念を鵜呑みにしている時点で何ら本質的自律判断は介在していないからである。



Ende;


○瞑想。2

釈迦が論じた瞑想というのは、恐らく脳科学的に言うところの「脱集中。」のようなものではないかと思われる。

 つまり、固定観念に囚われて思考を停止してしまっている状態を解くためには、一度現状全体を客観的に「引いて。」見るような視点を持つことであろう。

 それなら禅宗が行うような座禅瞑想とは全く別のものであり、座禅瞑想という行為そのものへの論理的検証性としての客観的視点を持てなければ意味がない。

 釈迦が行った断食行というのは、バラモン教における修行であり、これを擬似的に模倣しても意味はない。意味がないことを悟った(論理的に検証した)からこそ釈迦は断食行を途中放棄したのである。

 にも関わらず気分的快楽を得られるからといって座禅瞑想をするというのは、むしろ論理検証性の放棄にしかならず、無駄である。

 宗教というのはどうしても途中で「伝言ゲーム。」的な歪曲が混入し。気分本能的に楽な方向へと行動が捩曲げられてしまう性質がある。これは宗教に限らず学問などにおいても同様の傾向があり、文系観念という気分的に楽なものを絶対的基準とした理論の歪曲も発生するようである。

 「これさえやっときゃ。」的な短絡的で単純なことにしておけば論理的理解をスルーして気分的満足だけを先に得ることが可能であろう。しかしそれこそ愚かさの根源というものである。



○簡単。

 仏教において経典をバラバラとめくっただけとか、経典の入ったドラムをクルクル回すだけとか、こうした短絡簡単な行為へと歪曲が生じるのは。型や形式といった外見上の類似だけで気分的に安心満足してしまう性質があるからだ。

 「ヒトは見かけが9割。」と言われるが、型や形式といった外見だけで多くのヒトは無意識的安心満足を得てしまう傾向がある。

 学力だの学歴といった型や形式だけに意識を奪われ、論理検証が全く働かない脳科学/認知科学というのは脳トレ類を無理矢理正当化するという詐欺行為を行っているのであり。脳科学/認知科学が詐欺に対する対策を導き出せないのも当たり前というものである。

 脳トレ類の詐欺性を隠蔽しておいて、詐欺に対する対策など出てくるわけがない。

 ヒトというのは簡単で単純で短絡的な行為による外見上の無意識性だけで満足する性質がある。「ヒトは見た目が9割。」と言われるが、いわば多くのヒトにとって9割以上の無意識を1割に満たない意識が検証することは簡単ではないらしい。

 東京電力では「地下の発電機が水没すれば炉芯溶解の可能性が高い。しかし津波の影響を論ずることはタブーである、なぜなら津波の影響を考慮すれば日本のどこにも原発など造ることが出来なくなるからだ。」と社員を教育したそうである。

 「社会性。」と称して、迎合的で無難な者を大量生産した教育の末路が福島の原発である。

 「社会性。」だの「コミュニケーション能力。」といった動物本能的な社会形成習性こそが社会安全性や持続可能性を追求するべき本質的合理性追求の最大の妨げであり、これを放置してきたのが文系観念である。

 どんなに気分的に安心満足しても、安全性が確立されるわけではない。安全性というものは論理的工学的に追求されなくてはならない。

 ヒトという種の生物が論理検証を放棄してしまうのは、無意識による固定観念や本能的嫌悪感が促す文系観念が原因である。

 型や形式といった固定観念による「外見。」によって9割の無意識を満足させてしまうから意識が働かなくなるのである。


Ende;
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