経済効果などの「目先の効用。」というのは、いうなればカンフル剤に過ぎず。カンフル剤ばかり乱用していれば不健康に陥るのは当たり前のことである。特定の薬剤の効果に依存して「これさえやっときゃ、全ては上手くゆく。」という短絡的発想に依存してしまうのは文系大衆観念的な無責任という以外にない。
優先されるべきは社会持続可能性や安全性なのは合理的に考えれば当たり前のことであって、過剰な利益だの世間的成功などというものに意識を奪われているから本当に大切なものを見失うことになるのである。
オリンピックで盛り上がるなどというのは、目先の経済効果を狙った場当たり的な金儲けの話でしかない。ましてやメダルの色が何色であるかなど、実質的には社会的貢献にも何にもなりはしないのである。
マスコミや多数大衆がメダルの色にこだわるとしても、そんなものは一時の狂乱興奮に過ぎず、何ら社会持続可能性にも安全性にも寄与することはない。
スポーツや芸術といったものは、全て気分的高揚や快楽を得るための主観的なものに過ぎず。それによってどんなに多くの経済波及効果をもたらすとしても、客観的には社会的貢献になるわけではない。
事実上経済的に萎縮が不可避な日本において、カンフル剤的オリンピックの招致が必要とは思えない。
永遠に経済が成長し続けるなどという幻想/神話に依存したいというのは、気分感情本能が求めるものであって、経済成長自体は持続可能性や安全性とは相反する要素を含む場合も多く、経済成長を「目的。」とするのは人間としての社会性には価しない。
経済萎縮というと、「萎縮。」という言葉の気分的雰囲気に惑わされて、あたかも貧乏人が増えるかのような錯覚を促すかも知れないが。意図的計画的に経済縮小させていけば、むしろ無駄な金持ちを増やさずに平等分配に近づけることも可能なはずである。
金だけが目的動機で働く場合には過剰に金に対する異常な執着が発生するのであり、これは本質的には個人の主体的目的ではなく、環境依存的な機械条件反射的行動に過ぎず。また、目的すら存在しない。
ヒトが人間として経済活動に参加するのは、個人の主体的動機によって社会持続可能性という「人間としての社会的目的。」に基づいて行われるべきものであり。環境依存的で短絡的な本能主体の金儲けを動機とした結果的経済成長可能性にばかり依存するのは、人間として出来損ないなのである。
単なる気分的安心だけを追求すれば、「今までずっとそうだった。」ことに依存しがちなのは、ドーパミンが作り出す常習性の「結果。」であり。意識的で合理性のある目的ではない。
従来の生物学上における生存を絶対価値「目的。」に置いた論証の全ては、あくまで本能によって促された行動の結果に過ぎず。結果に対してその場限りの理由付け、意味付け、目的付けをするのは論理的思考を撹乱することはあっても、論理的思考を組み立てることにはならず。これが結果的に文系大衆観念として本質的合理性の追求を阻害することになるのである。
「自分さえ良ければ。」というのは「考え。」ではない。自分だけが良い状態というのは理論的/原理的に存在しないからである。ヒトという種の生物は個人一人だけで生存持続を維持することは出来ず、あくまで社会全体と一体であり構造的に不可分である。従って論理的「思考。」が働いていれば利己的行動選択は行われるはずのないものであり、平等分配を求めるというのは人間において極めて当然の選択である。
しかし、これを断片的に「目の前の相手。」だけで実証しても、本能習性として常に平等分配に価する行動選択が行われる証明にはならない。
「目の前の相手。」だけにしか意識が働かないのは本能習性による意識狭窄性であり、これは環境状況に左右されやすい不確定要素である。
「目の前の相手。」以外や、仲間知人以外についても意識を働かせるというのは本能習性とは異なる意識的思考によって導き出されるものであって、無意識には行われるようなものではない。
状況場合によっては目の前の人であっても危害を加えることもあるのがヒトという種の生物の本能習性であり。これを抑制するのは社会制度だの空気といった、多数他人によって作り出される環境依存的行動結果に依ることなく、個人が主体的/自律的に抑制できなければ、社会というものは目的を失い破綻への暴走を突き進むことに陥るのである。
オウム真理教などのカルト集団における暴走性というものは、社会全体における暴走性の雛形でもある。暴走に加担している者の多くは気分的感情的精神的には安心満足していられるのであろうが、その安心満足こそが客観的に合理性追求する思考を喪失させ、何ら目的のない結果的暴走へと導くことを認識しなければならない。
多くのヒトは「自分だけは大丈夫。」だと「思う。」であろう、そう「思って。」いた方が安心で満足であるのは本能習性であり、当たり前で自然な結果である。それ故に現状社会の問題の多くが放置され、何ら対策というものが採られることがないのである。
きっと、ナチス政権下のドイツ人の多くも「自分だけは大丈夫。」だと信じ込んでナチスに加担したのであろう。太平洋戦争における日本人の多くも、こうした無意識的安心によって自分達の暴走を放置したのであろう。
自分が概ね安全であることをどんなにたくさん枚挙抽出しても、自分自身が無意識に呆然としていても常に安全であることの証明にはならない。
ヒトの多くはヒトという種の生物における概ねの安全性だけに注目しておけば、ヒトは自動的本能的に安全性が確保されているものであると勝手に錯覚して安心するものである。
気分的に安心しているのは勝手だが、それによって思考を停止させて目先の本能欲望のままに行動しておいて良い証明であるかのごとく錯覚するのは勝手という訳にはいかない。
Ende;
優先されるべきは社会持続可能性や安全性なのは合理的に考えれば当たり前のことであって、過剰な利益だの世間的成功などというものに意識を奪われているから本当に大切なものを見失うことになるのである。
オリンピックで盛り上がるなどというのは、目先の経済効果を狙った場当たり的な金儲けの話でしかない。ましてやメダルの色が何色であるかなど、実質的には社会的貢献にも何にもなりはしないのである。
マスコミや多数大衆がメダルの色にこだわるとしても、そんなものは一時の狂乱興奮に過ぎず、何ら社会持続可能性にも安全性にも寄与することはない。
スポーツや芸術といったものは、全て気分的高揚や快楽を得るための主観的なものに過ぎず。それによってどんなに多くの経済波及効果をもたらすとしても、客観的には社会的貢献になるわけではない。
事実上経済的に萎縮が不可避な日本において、カンフル剤的オリンピックの招致が必要とは思えない。
永遠に経済が成長し続けるなどという幻想/神話に依存したいというのは、気分感情本能が求めるものであって、経済成長自体は持続可能性や安全性とは相反する要素を含む場合も多く、経済成長を「目的。」とするのは人間としての社会性には価しない。
経済萎縮というと、「萎縮。」という言葉の気分的雰囲気に惑わされて、あたかも貧乏人が増えるかのような錯覚を促すかも知れないが。意図的計画的に経済縮小させていけば、むしろ無駄な金持ちを増やさずに平等分配に近づけることも可能なはずである。
金だけが目的動機で働く場合には過剰に金に対する異常な執着が発生するのであり、これは本質的には個人の主体的目的ではなく、環境依存的な機械条件反射的行動に過ぎず。また、目的すら存在しない。
ヒトが人間として経済活動に参加するのは、個人の主体的動機によって社会持続可能性という「人間としての社会的目的。」に基づいて行われるべきものであり。環境依存的で短絡的な本能主体の金儲けを動機とした結果的経済成長可能性にばかり依存するのは、人間として出来損ないなのである。
単なる気分的安心だけを追求すれば、「今までずっとそうだった。」ことに依存しがちなのは、ドーパミンが作り出す常習性の「結果。」であり。意識的で合理性のある目的ではない。
従来の生物学上における生存を絶対価値「目的。」に置いた論証の全ては、あくまで本能によって促された行動の結果に過ぎず。結果に対してその場限りの理由付け、意味付け、目的付けをするのは論理的思考を撹乱することはあっても、論理的思考を組み立てることにはならず。これが結果的に文系大衆観念として本質的合理性の追求を阻害することになるのである。
「自分さえ良ければ。」というのは「考え。」ではない。自分だけが良い状態というのは理論的/原理的に存在しないからである。ヒトという種の生物は個人一人だけで生存持続を維持することは出来ず、あくまで社会全体と一体であり構造的に不可分である。従って論理的「思考。」が働いていれば利己的行動選択は行われるはずのないものであり、平等分配を求めるというのは人間において極めて当然の選択である。
しかし、これを断片的に「目の前の相手。」だけで実証しても、本能習性として常に平等分配に価する行動選択が行われる証明にはならない。
「目の前の相手。」だけにしか意識が働かないのは本能習性による意識狭窄性であり、これは環境状況に左右されやすい不確定要素である。
「目の前の相手。」以外や、仲間知人以外についても意識を働かせるというのは本能習性とは異なる意識的思考によって導き出されるものであって、無意識には行われるようなものではない。
状況場合によっては目の前の人であっても危害を加えることもあるのがヒトという種の生物の本能習性であり。これを抑制するのは社会制度だの空気といった、多数他人によって作り出される環境依存的行動結果に依ることなく、個人が主体的/自律的に抑制できなければ、社会というものは目的を失い破綻への暴走を突き進むことに陥るのである。
オウム真理教などのカルト集団における暴走性というものは、社会全体における暴走性の雛形でもある。暴走に加担している者の多くは気分的感情的精神的には安心満足していられるのであろうが、その安心満足こそが客観的に合理性追求する思考を喪失させ、何ら目的のない結果的暴走へと導くことを認識しなければならない。
多くのヒトは「自分だけは大丈夫。」だと「思う。」であろう、そう「思って。」いた方が安心で満足であるのは本能習性であり、当たり前で自然な結果である。それ故に現状社会の問題の多くが放置され、何ら対策というものが採られることがないのである。
きっと、ナチス政権下のドイツ人の多くも「自分だけは大丈夫。」だと信じ込んでナチスに加担したのであろう。太平洋戦争における日本人の多くも、こうした無意識的安心によって自分達の暴走を放置したのであろう。
自分が概ね安全であることをどんなにたくさん枚挙抽出しても、自分自身が無意識に呆然としていても常に安全であることの証明にはならない。
ヒトの多くはヒトという種の生物における概ねの安全性だけに注目しておけば、ヒトは自動的本能的に安全性が確保されているものであると勝手に錯覚して安心するものである。
気分的に安心しているのは勝手だが、それによって思考を停止させて目先の本能欲望のままに行動しておいて良い証明であるかのごとく錯覚するのは勝手という訳にはいかない。
Ende;