書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

一括投稿。7

2012年03月29日 15時59分35秒 | 意識論関連
○認知科学。

 無意識機能というのは高速で高機能ではある。しかし、無意識機能というものは論理的思考ではなく、固定観念的な条件反射機能に過ぎない。

 ネコを縦縞の世界で育てると横縞を認識することができなくなるという。ヒトにおいても成育環境によっては色彩の識別能力に違いが生ずるように、無意識機能というのはあくまで成育環境に依存したものである。

 しかし無意識的認知能力の違いがあったとしても、論理的思考自体とは無関係である。


 学習障害というのは、同じ成育環境であっても無意識的認知機能が他の個体と比較して発達に障害があることである。

 学習障害があると論理的な話を理解しづらいのは確かであるが、逆に学習障害がないとしても、必ずしも自発的論理検証を行うことの論証にはならない。振り込め詐欺師や天下り役人というのは学習障害は特にないからである。通り魔にもテロリストにも学習障害などない。

 認知科学者達は、経験則に依存した無意識的条件反射能力の高さというものを、あたかも絶対的な人間としての価値であるかのように論じたがるが。これは実際には「生物的なヒトとしての生存価。」を論じているだけであって、自律的な論理検証による社会的責任判断能力、「人間としての社会的存在価値。」を論じたものではない。

 鳥類は視覚認知識別能力が非常に高いが、論理的な行動選択ができるわけではない。無意識的識別能力というものが論理的思考による分別を促すものではなく。錯覚というものは無意識的な視覚認知能力によって作り出されるものであり、錯覚を錯覚であると認識できるのは意識による論理的判断によるものであって。一面的な視覚認知能力の高さだけを取り上げても無意識機能が論理的思考を促す論証には全くならない。

 学力というものはそもそも論理的に本質的知能を測る基準ではなく、便宜的に生徒を選別するために作られた基準でしかなく。これは人間としての社会的存在価値とは無関係であり。学習障害や世間的損得に意識を奪われ思考停止に陥っている時点で科学的論理思考の欠落を意味する。

 認知科学者達の論理検証性の欠落にも見られるように、「学力=本質的知能。」ではないことは明らかである。地下鉄毒ガステロを行った者達も学力だけは高かったことを忘れるべきではない。いうなれば毒ガステロに東大が加担したようなものであり、これを教訓として再発防止に役立てるためには、学力=知能という短絡的で論理検証性のない固定観念を捨てることは、大学の社会的責任として最低限必要なものである。

 人間としての社会的存在価値とは、学力成績や学歴といった評価でもなければ、多数大衆迎合による世間的金儲けとも無関係であり。あくまで当人の自律的な社会的責任判断能力のことである。

 一面的に学習障害のある人が社会的責任を負えないからといって、短絡的に学習障害がなければ良いというようなものでもなく。学習障害がなくても社会的責任を自律的に負えなければ本質的には知能とは言うことができないのである。

 無意識的認知能力がありさえすれば自律的社会的責任を果たすことの論証にはならない。

 社会安全性という最も社会的に重要なものを高めるためにも、現在の認知科学者達のヨタ話にツッコミを入れるのは社会的責務というものである。

 東大の学長が「全てを疑え。」と論じていながら、現在の認知科学に誰もツッコミを入れないのは。教師も生徒も烏合の衆に過ぎないからである。

 医学上における学習障害の有無と本質的知能の有無を識別しないというのは、社会安全性を無視した極めて限定的な一面的な価値しか持ち得ない。たとえ学習障害のメカニズム解明ができたとしても、「人間としての社会的責任判断能力。」を無視した身勝手な知能論を振り回すというのは、意識狭窄で無責任というものである。

 自律的な論理的思考と、それに伴う批判精神を伴うから科学というものの存在価値があるのであり。これを無視して「環境依存的な無意識機能こそが人間としての価値である。」という実証不能の観念を振り回すのはオカルト以外の何物でもない。

 論理的検証を経ていない学力基準だの世間的な損得勘定を基準に、本質的な人間としての社会的存在価値を無視するというのはあまりに無責任であり現在の認知科学界は根本的に脱構築する必要性がある。バカ教師に迎合するだけのバカ生徒の群れでは、学問としての社会的責務を全く果たすことができないからである。



 ヒトという種の生物は、目先の損得という本能的欲望だの既存の価値観に基づく固定観念といったものによって論理思考を簡単に失う性質/習性がある。これらの無意識性から脱構築するためには本質的な自発性による、多数や権威からの評価報酬に左右されない純粋な疑問/論理検証というものが不可欠である。

 「テストの花道。」的に「成績が上がってうれしい。」というのは、あくまで環境依存的な結果的快楽のことであり。本質的には自発性ではなく、何ら自律的論理検証である本質的意識を育てることにはならない。「やる気スイッチ。」なるものを他者から励起されている時点で既に本質的自発性は存在していないのである。

 秋葉原の通り魔の学生時代の学力の高さも、環境依存的な結果的なものでしかなく。故に環境によっては何ら合理性のない通り魔にしかなれないのである。破壊的な反社会的行動というものには合理性というものが存在しないのである。本質的合理性を追求すれば、その場限りの時代や社会に迎合して得をしたり気分的に満足することではなく。時代や社会に左右されずに社会の持続可能性を求める行動選択を自律的に行うことである。

 科学的理論の多くは、過去の知的資産の上に成り立つものであるが。こと「意識。」に関してはこの限りではない。

 むしろ従来の文系観念に基づく論理性の欠落の多くを破棄することが必要なのである。固定観念的に過去の知的資産を保守しておけば統一的な科学理論が体系化できると「思った。」ら大間違いである。東大の学長ではないが「全てを疑え。」ということである。単位だの教授の顔色といった観念を全て棄てる「意思。」なくして学問としての社会的責務は果たすことができないのである。





○論理検証なくして批判精神は働かない。

 短期的目先の利益/効用といったものの追求は、結果的に長期的持続可能性を破壊することになる。

 経済学における短期的目先の利益/効用の追求とは、利己的利益の追求だけに意識を狭窄化させる効果がある。

 一人の有限の意識における長期的持続可能性の追求というものは、必ずしも絶対的に長期的持続可能性に貢献する保証もなければ、世間的な評価報酬に結び付く保障もない。

 自律的な論理検証というのは社会安全性の礎であり、社会的責任判断の源である。多くのヒトはこれを全く行わず、権威者の促すことを何ら自律的には検証せずに鵜呑みにし、何も「考え。」ていない。これがヒトという種の生物の愚かさの根源である。

 自律的な社会的責任判断と論理検証性は人間の価値として一体であり、不可分である。

 論理検証やそれに伴う批判精神を持っても、短期的には世間的見返りというものはない。場合によっては世間的には排除の対象にされたり、無視されたりすることも少なくはない。それでも社会的責任を負うことの意義とは、より長期的な価値観に基づいた自己存在の意義である。

 自律的社会的責任判断が現時点において利己的欲望(ヒトという種の生物本能的効用)に結び付かないとしても、より普遍性のある価値観に基づいた判断(人間としての責任)によって本質的「心の平穏。」を得ることこそが「人間として。」の自己存在意義なのである。

 こうした本質的な「心の平穏。」というものは、必ずしも気分的な絶対的安心をもたらすものではない。多数他者や権威に対する批判をすれば、予め本能的に組み込まれた気分的には何ら満足を得ることは出来ず、むしろ気分的には嫌な思いをする可能性も非常に高い。

 自律的な社会的責任判断というものを、多くのヒトは特定の技術者などだけに丸投げしておけば自分は無責任でも構わないと勝手に錯覚している。放送大学でも「技術者倫理。」などと称して倫理は技術者だけに丸投げしておけば良いかの如く論じたがる。

 原発や航空機のような大事故につながるような技術者にも倫理性が必要ではあるが、倫理というものは技術者に限らずあらゆる人にとって必要なものである。技術者ではなく経営者だからといって技術者に社会的倫理に反する命令を下しても良い論拠になどならないからである。

 お惣菜屋なら食品衛生に責任を負わなければならないし、トラック運転手であれば交通安全に責任を負うのである。それなら社会に関わるあらゆる行動の全ては一種の技術者であるとも言える。

 ところが証券取引などにおいては社会的責任というものが全く働かなくなるのは、目的自体が社会貢献ではなく利己的欲望であるからだ。

 企業は社会のものである。故に社会的責任と貢献が目的でなければならない。それが証券取引においては突然無責任な欲望追求だけになってしまうのである。

 そもそも証券取引に社会的責任選択だの倫理を説いた者がいるであろうか。これは暗黙にタブーだからである。しかし論理的にタブーであることの論証など全く存在せず、ただ雰囲気的/無意識的/空気的にタブーだと思い込んでいるだけに過ぎない。

 誰も説かないことを論ずると、感覚的な共通認識にならないため、逆にこれを錯覚であると錯覚するのである。



 多くのヒトは勉強といえば「教わったことを鵜呑みにし、正確に答えられるようにしておくこと。」であると錯覚している。これは一種の無意識的行動「学習。」として観念的に刷り込まれた行動であり、これが特定権威者に対する論理検証性の喪失を招き、同時に批判精神も失うことに陥るのである。

 アイヒマン実験の場合は命令に対するヒトの服従性が検証されているが。明確に命令という形でなくても、権威者に対する質問の答えについても論理検証をしなくなる性質というものもある。

 子供は親大人に対して無条件に服従することが要求されるものであるが、これはあくまで論理的理解が伴わない事による便宜的措置に過ぎない。一個の責任ある人間としては権威者の促す思考誘導に簡単に乗らず、自己自身で自律的に論理検証を行い、論理検証に伴う批判精神を持つことが必要である。

 それこそ「勉強会。」という形式を採る場合、教わることだけを目的としたものであると勝手に観念し。教わったことへの論理検証性が簡単に失われてしまうものである。

 東大名誉教授 養老孟司の言っていることが論理的でも科学的でもないことを、多くの大衆マスコミは何ら論理検証もせず鵜呑みにしていたという過ちに基づき。この間違いを教訓として「あらゆるものを疑う。」ための論理検証性に基づく批判精神を持たなければならない。

 無意識的に肩書に惑わされ、呆然と実証不能の観念を鵜呑みにしているから、謀らずも「他人に迷惑をかける。」ことに陥るのである。これが無意識の持つ暴走性である。私個人がどんなに論理検証による抑制制御を促しても、数の前にはどうにもならない。

 天才アインシュタインでもナチスは止められないのである。

 異常な暴走を止めるのは、社会を構成する個人の「意識。」次第であり。特定の権威者や救世主ではない。

 多くのヒトは、特定の救世主や権威や技術者だけに責任を丸投げしておけば自動的に社会安全性や持続可能性が確立されるものであると勝手に錯覚しがちである。こうした無意識的な無責任さこそが社会を崩壊へと導くのである。

 「権威に服従しない社会は崩壊する。」などという実証不能の観念を信じ込んでいれば、ヒトの脳に組み込まれた社会形成習性を満足させておくことができるので、とても「安心。」であろう。

 また、心ない権威者にとっては既得権益を保守するためにも無為無策に権威者に服従しておいてもらった方が便利なのである。



 ハリウッド映画や時代劇では、特定の英雄だけが世界を救うという構図が、多くの大衆の脳を酔わせることができるために用いられる。わかりやすい悪人を片っ端から殺害しておけば大衆の脳は満足するのである。

 アイヒマンのような悪人というのは、実際には普通のヒトの習性として本能的に組み込まれた「仕組み。」によって促されるものであり。特定の悪人だけ暴力によって粛正しておけば再発防止になるというような短絡的なものではない。

 こうした短絡的な粛正というのは腐敗した独裁国家においての最も危険な最終解決策であり。これは本能が促す気分的満足によって快楽をもたらすように「出来て。」いるのである。

 既に組み込まれた自己の本能のままに無意識に「流され。」ていて自由意思もすったくれもあったものではない。

 自発的に論理検証を行うという、現時点における選択可能性こそが脱構築可能性につながるのであり。これこそが本質的意識なのである。

 「ゴルフのパターを失敗して損をする。」程度の下らない話を鵜呑みにして、本質的意識の重要性を無視するというのは人間として出来損ないとしか言いようがない。

 個人的損得というのは社会安全性や社会の持続可能性とは直接関係がなく、たとえ個人的に損をしてでも社会安全性や持続可能性というものは優先しなくてはならないものなのである。

 むしろ、多くのヒトが無意識的に権威者や多数他人に迎合服従しているからこそ、社会安全性や持続可能性を求めることが個人的な損になってしまうのであり。多数の無意識性こそが人類の諸問題の根源なのである。

 認知科学上では、経験こそが正しい認識を作り出すと論ずるが。これはいわば無意識的経験則による動物的認知能力万能主義であり、従来の生物学の観念に基づいた取り繕い/言い逃れである。

 猫を縦縞の中で育てると横縞を認識できなくなる。これは横縞に対する経験がなければ横縞を認識できないということの証明であるが。経験的に権威に服従していなければ損をしたり嫌な思いをした場合に、権威に機械条件反射的に服従してしまう「行動学習。」というのも経験によって無意識に刷り込まれてしまうものであり。経験というのは全てが正しい認識を作り出すわけではなく、むしろ論理的思考を阻害する固定観念をも作り出すのである。

 無意識的な認知能力というのは非常に高速高機能ではあるが、あくまで無意識的な能力であって全てが論理的で正しい認識を作り出すというわけではない。錯覚というものは無意識機能が作り出すものであり、錯覚を錯覚と認識して間違った認識に陥らないようにするのは論理的判断という意識が行う仕事である。

 一面的/断片的に無意識の高速高機能を枚挙しても、意識自体の重要性の反証には全くならない。認知科学/脳科学者達は従来の生物学における結果的優位性だけを目的であると言い張る観念を信じ込んでいたことを事後正当化するために、何が何でも無意識機能こそが絶対的に正しいことにしておかないと権威性を失うことになりかねないために取り繕い/言い逃れを繰り返しているのである。

 成育環境によって刷り込まれた無意識的固定観念というものが感情的な価値観バイアスを作り出し、これが論理的思考判断というものを阻害する最大の原因である。これを無視して「経験則による無意識こそが正しい認識を作り出す。」などと言い張るのは何ら科学的とは言えない。



 もはや書くのも面倒臭いが、制度上民主主義を導入していても民衆がバカであるならバカ主義にしかならないのである。

 民主主義制度の場合は権力が分散されており、責任も分散されているため暴走も分散しているだけであって。天下りだの予算の無駄遣いといった小さな暴走は全くなくなっていない。これは個別の責任者の無責任な利己的利益(個人的効用)の追求しかしていないからである。

 個別の個人的利益の追求さえしておけば、自動的に統合的社会持続可能性や安全性が確立されるものであるという根拠のない幻想は楽観主義ではなく、単なるバカかオカルトに過ぎない。

 楽観的予測というのであれば、多くのヒトが自己自身の自律判断によって社会安全性を優先する行動選択を行うというものであろう。それはバカやオカルトを多くのヒトがそれと認識することが大前提であり、現時点においてこうした楽観的予測は全く成り立たない。

 よって現時点では悲観的予測しか成り立たない。




 瞑想というものは仏教における修行の一つであるが、今の真言宗における瞑想の方法論が釈迦の論ずる瞑想と同じである論証はない。釈迦が勧めた瞑想というのは論理的思考のためのものであるが、真言宗の座禅瞑想というものが論理的思考を促すものである論証はなく、ただ単に気分的に楽になるというだけのものでしかなく。これが釈迦の論じた瞑想と同じものであるとは考え難い。

 釈迦の論じた修行というのは、あくまで自発的に行われるものであり。決して「これさえやっときゃ。」的な短絡的方法論ではなく、個人それぞれに全く異なるものである。従って座禅のように形式的で短絡的瞑想というものは釈迦が勧めた瞑想と同じであるとはとても考えられない。

 仏教教典における修行のバリエーションというのは、修行というものが個人それぞれに全く異なることを示したものであり、あくまで主体的自主性によって行われていることが重要なのである。仏教教典における修行というのは、全て修行者自身が自主的に選択したものであり。決して座禅のように形式的で強制性を伴うものではない。

 主体的自主性を持った本質的純粋行為こそが個人にとって最も集中力をもたらし、これが個人にとって最も脳を育てるのである。これは千住鎮男の教育方法論やオランダなどの北欧諸国の教育法とも整合性がある。日本が文化的に欠落しているのは、こうした本質的自発性を重んじることであり。「文化。」的に観念を温存/連鎖して「しまう。」のは、これが無意識的な強迫観念によるものであるからだ。

 ヒトはそれぞれ異なったものである。違うことこそが本来であるにも関わらず、ヒトの多く/衆生というのは他者との差異を異常に忌み嫌い排除や差別をしたり、迎合服従して自主性というものを蔑ろにしてしまうのである。

 これが本能的な社会形成習性によって促されるのである。多数他者や、それによって認証された権威者に服従迎合しておけば気分的には安心なのである。これが本能の促す行動「結果。」というものである。

 認知科学者を含む生物学者達のほとんど全員というのは、本能的行動の「結果。」を事後正当化することしか頭にない。それが従来の生物学の観念を温存し、体制維持になり、権威性を温存することになるからである。

 言わずもがなこれは利己的欲望/本能的な目先の安心だけが目的である。

 短絡的で愚かな大衆マスコミにとっても、既に存在している自分を事後正当化できる「無意識論。」というのは気分を良くさせることができ、論理的理解を求めず従来の文系観念に寄り添うことができるため。とても簡単に蔓延させることが可能なのである。

 従来の日本における無意識的経験則に基づく多数迎合性の放置というのは、子供自身には全くイジメを無くすことができない。日本式の無意識的な「社会性。」教育では自律的な行動選択というものは全く養われず、漫然と「イジメはなくならない。」などという諦観に基づいた無能の連鎖を繰り返すだけである。

 イジメといった排除や差別意識(無意識)というものをなくし、個人の純粋な意欲というものを育むためには。本質的意識を重視した教育が必須である。差別や排除をしないといった「人間として。」最低限の条件というものは、意識という自発的で論理的思考なくして実現不可能なのである。

 従来の生物学上の観念を正当化しておくということは、日本人の無能さの放置、無為無策の放任にしかならない。

 利己的な認知科学者達にとって、こうした社会的損失には全く意識が働いていないのである。

 差別や排除を克服できずに「絆。」もすったくれもあったものではない。そもそも現在の認知科学者の言い分を要約すれば、「学習障害=人間として出来損ない。」という方程式に基づいた差別意識(無意識)が根底にある。学習障害もなければ論理的思考能力があるにも関わらず、論理検証を全くしたがらない現在の認知科学者の方が間違いなく「人間として出来損ない。」であろう。こうしたバカは早急に大学研究機関から排除するべきなのである。



Ende;
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一括投稿。6

2012年03月25日 16時36分54秒 | 意識論関連


○競争。

 大人は子供に対して、将来の生活についての責任を負うことは出来ない。

 「これさえやっておけば、将来の生活は保障される。」かのように、あたかも子供達の為を思って学力競争を勧める学力ビジネス関係者達がいるが。実際には彼らは子供達の学力の向上による自分達の評価報酬を目的としているだけであり、何ら子供達の将来になど全く責任を負うつもりなどない。

 そもそも大人は子供達が大人になった後の生活について何ら保障や責任を負うことなど原理的に不可能なのである。

 自分の将来を自分で切り開くという自発性を育てるためには、原理的に不可能な「嘘。」に基づく利己的詐欺行為をやめさせる必要がある。

 嘘を前提にしておいて真理など追求されることはなく、これはすなはち科学的普遍性も確立できず。結果的に安全性というものに対する貢献も得られない。


 固定観念に基づく無意識な競争意識(無意識)である以上、与えられた固定観念に基づいた競争しかすることはなく。そもそも目的自体が他者からの評価報酬であって、報酬に結び付きそうにないことには誰も挑戦しなくなる。

 このように純粋で自発的な競争ではない場合、純粋に競争に没頭することができず、どうしても他者との順位に意識が働いてしまうため。自分よりも優れた者に対する嫉妬によって妨害を行ったり業績を捏造したり、或は簡単に諦めてしまう。

 社会安全性についても、本質的な自発性がない者には自律的な社会的責任判断も行われることはない。


 学力ビジネスによる無責任で過度な競争というのは、子供の本質的自発性を奪い。あらゆる本質的な人間としての知能を奪うことになる。

 しかし、多くの親達は既に存在する学力ビジネスに対する検証性もなければ、既に存在する学力至上主義に迎合する形で社会的成功や競争での勝ち負けにしか意識が働いておらず。社会全体の安全性や公平性や幸福といったものへの意識を失っており。本質的な人間としての存在価値を忘れ目先の脅迫観念的な競争に積極的に迎合服従するだけである。

 こうした無意識で体制迎合による目先の気分的安心ばかりを追求しておいて、長期的持続可能性など構築される訳がないのである。


 競争は激化すれば単なる奪い合いにしかならない。その暴走は無意識では抑制することはできないのである。無意識的に強迫観念を植え付けてしまえば暴走しか導かない。

 世間的貧富比較による勝ち負け論という、いうなれば「犬の勝利。」が絶対的価値観であるかのように論ずるのは、論じている者の頭には長期的持続可能性の重要性が欠落しているからであり。それ自体が人間として出来損ないであることには意識が働かないのである。

 無意識な者というのは自律的には何も気付くことが出来ないものなのである。

 犬の価値観に基づいた物質的勝利をどんなに追求しても、社会安全性も長期的持続可能性も確立されることはない。これはすなはち人間としての本質的知能自体が働いていないということでもある。

 社会安全性や長期的持続可能性がないというこは、これは本質的な精神的安らぎも得ることは出来ないということでもある。ブータンには「ストレス。」などというものは言葉すらないという、他者との比較競争というものを強迫観念的な刷り込み「学習。」されている日本人というのは、日本の文化と称して虐待を連鎖しているようなものである。

 犬の勝利に執着してしまうのは、それが無意識下に強迫観念として刷り込まれているからであり。無意識的強迫観念という感情の強度だけで行動が選択されていれば自律的には自分の行動を選択することはできない。

 本質的自発性が伴わない場合、手抜きが行われる。他者からの評価に結び付かない、「誰も見ていない。」場所では自発性がなければ手抜きという無責任行動が不可避なのである。本質的に自発性がある行為であれば、行為自体に自分自身の満足がゆくまで徹底して行われるものである。「趣味に手抜きなし。」とはそういうことである。



 過度な競争が悪いからといって、競争自体から強制的に隔離するのは間違いである。あくまで自発的な行為における他者との競争は悪い影響にはならない。あくまで「過度な。」強制的で均一的な個性を重んじない競争が悪影響をもらたすのであり。重要なのは個性を重視した選択可能性であって、競争そのものではない。

 学力自体を目的とするのではなく、子供個人における本質的な自発性「動機。」を養うのが教育において最も重要なものであり。動機が明確になれば学力というのは結果的に伸びるものなのである。

 そもそも学力が高さと社会安全性は比例するわけでもなければ、幸福とも比例しない。一体何が最も人間において重要であるのかという極めて根源的価値観への意識が喪失しているから、社会に無責任や精神的ストレスが蔓延することになるのである。

 大量に酒を呑んでバカ騒ぎをしなくてはストレスが発散できない日本人というのは、そもそも相互信頼関係を築くことが出来ていないからである。相互信頼関係というのは社会安全性なくして有り得ない。

 日本人全体に「文化的。」に虐待の連鎖というカルト性が染み付いていることを、多くの日本人は自律的には認識することができないのである。オウム真理教だのヤクザだの振り込め詐欺、通り魔といった異常行動が発生するのは。そもそも「日本人の文化。」的に相互信頼という本質的精神の安らぎを喪失しているカルト性によるものである。

 自分の周囲、多数他人が異常な場合。異常であることが「普通。」になってしまい、安心して異常集団に迎合服従してしまう習性というものがある。

 ブータンにおいても、北欧諸国においても、無意識的な「普通。」というものは存在はする。ヒトという種の生物には多数他人との価値観の共有が気分的に安心な性質というものが普遍的に存在する。ところが集団が異常であればあるほど、その集団には意識の狭窄性が存在するため、本質的意識による抑制制御が働かず、破綻に至るまで暴走することに陥るのである。

 ヒトは既に存在している自己を事後正当化する習性がある。既に無意識的に刷り込まれた価値観に基づいて感情や気分による無意識な行動に邁進しておけば安心なのである。

 無意識的な価値観というものが本質的には自己自身によって選択されたものではないという、理論的根拠を多くのヒトは感情的に受け入れることが困難である。





 東京大学の卒業式では、「あらゆるものを根源的な部分から疑え。」といった趣旨のことを卒業生に論じていたが。学校における「教えたことを鵜呑みにすることで成績評価と見なす。」構造原理に基づいて促された学力である以上、論理検証性も批判精神も働くようには育てられてはいない。

 言い換えれば、「俺の言っていることは無批判に鵜呑みにしておけ、だが他人の言っていることは疑え。」と言っているようなものであり。これは洗脳以外の何物でもなかろう。

 東京大学を卒業できるということは、すなはち過度な競争における最も先鋭化された者達である。マイケル:サンデルが促す思考誘導にも気付くことが出来ずに鵜呑みにしているバカがどんなに既存の学力基準において高い成績を得ることができたとしても、所詮は高学力なバカであることに変わりはない。


○くれ文。

 「○○して下さい。」というの言い分を「くれ文。」というそうである。

 要するに命令或は要望のことである。これが心の折れた人にとって心理的負担になるという。

 心理的に生きる気力を失った人にとって、目先の生存を要望されるよりも。むしろ希望となる将来性や持続可能性を持てるようにならなければ気力を取り戻すことはできない。

 人が絶望するのは、あくまで予測における将来への望みが失われているからであり。この将来への望みを無視して目先の生存だけ望まれても、反って鬱陶しいだけであろう。

 末期癌などにおける延命処置によって、苦しみ以外を得ることが原理的に不可能である場合。尊厳死という選択が存在する。死ぬことというのは決して悪いことでもなければ卑怯なことでもない。

 しかし隣人が絶望して自ら命を絶つ社会は、果たして幸福であると言えるであろうか。

 たとえ物質的な富を得たとしても、人間にとって最も幸福なのは自分の生きる社会の平穏なのである。

 人は必ず死ぬ。物質的富をどんなに追求しても本当の心の平穏は得ることができず。むしろ富に執着してしまった自己の行動を事後正当化しておかなければならない無意識的反射行動として富に執着し続けていなければならなくなってしまうのである。

 それは、むしろ無限の地獄である。

 富に執着した者の多くは、最終的に破綻に至るまで自律的には自分の行動を抑制することが出来ない。元西武グループの会長や、元大王製紙会長、元オリンパス会長らに見られる自制心の欠如というのは。結局北朝鮮の国家元首やカルト宗教の教祖と同じである。

 服従するに値しない統率者の命令に、無為無策に多数で迎合してしまうから異常者を頂点とした社会体制というものが放置され。結果的に社会安全性や持続可能性、公平性といったものが失われてしまい。なを且つこれらを是正する「意識。」さえも失われてしまうのである。

 無意識に機械条件反射的に行動していれば、たとえ破綻が生じても是正や修正といった脱構築はされることはない。


 都市は「意識の産物。」ではない。断片的に計画性があったとしても、それは場当たり的に取り繕っているだけの計画性であって。単なるコミュニティーの無意識的巨大化高機能化にすぎず、都市とは欲望の産物であり無意識の産物である。

 断片的には高度医療や科学技術の発展が可能ではあるが。これらが必ずしも個人の幸福に結び付くわけではなく。医療費の高騰や原発の暴走という巨大な不幸を招くこともある。

 科学や医療における暴走というものも、そこに統一的目的意識が存在せず。ただ漫然と業績や報酬を無意識的に追求してしまった結果である。

 ヒトが引き起こす「暴走。」の全ては、そこに本能的欲望による無意識が働いているからである。


 ヒトという種の生物は、地球上においてもっと心安らかに生きることが可能なのである。しかし心の平穏安らかさというのは、目先の他者との競争や物質的富の前において非常に小さく質素に見える。

 悪魔の声は大きく、天使の声は小さいものなのである。

 自分の中にある天使の囁きに耳を傾けるためには、目先の欲望や感情に流されない「意思。」が必要である。

 虐待を連鎖する親のように、無意識的に刷り込まれた既存の価値観に基づいて自分の子供に暴力を振るっていれば、何も考えずにいられるので気分的には安心である。無意識的に刷り込まれた既存のあらゆる価値観というのは、なにがしかの連鎖であり、本質的な自己自身による選択を介さない「業。」というものである。

 多くのヒトは、感情の強さに由来する行動選択のことを「意識。」であると錯覚する。感情そのものが無意識的条件反射であることを、多くのヒトは理論的に理解できていないからである。

 目先の感情に左右されず、冷静に合理性を追求する「考え。」こそが本質的「意識。」である。




 自由主義経済における「個人の富を追求することこそが社会の発展を促す。」というのは嘘である。富の追求という欲望は暴走を促しているだけであり、これは本質的な知能による業績の横取りや搾取しか促さない。

 バブルという金融暴走で儲けても長期的持続可能性社会には貢献することはなく、むしろ破綻を招くだけである。暴走は発展ではない。一時的短期的に富を得ることは人生全体においての本質的幸福などではないのである。

 暴走へと洗脳されるのは簡単である。気分感情のおもむくままに無意識に流されることは、とても簡単で楽なのである。気分的な満足によって大脳辺縁系を満足させておけば、意識狭窄に陥ることによって「考え。」なくても安心することができるからである。




○経済学者:飯田泰之

 「市場機構とは極めて良く出来ている。」これは程度問題である。決して絶対的保障などない。自然界が「とても良く出来ている。」からといって絶対的に安定していることの論証にはならないのと同じである。三陸の沿岸が漁場として豊かである「良く出来ている。」ことが、絶対的に住民にとって恒久的に富をもたらすわけではない。

 「型/定石に基づいた選択をすると世間的にはうまくゆく。」個人が世間的にうまくゆくことは、必ずしも社会全体にとって公共益に適するわけではなく。個人が個人の利益ばかりを追求した結果、社会の崩壊を招いたとすれば。これは個人にとっても決して幸福とは言うことができない。


 どうも飯田泰之に限らず、経済学における固定観念というのは統合的理想を無視したがる習性があり。とかく目先の快楽だの利益だのといった主観的欲望ばかりを絶対的基準にしたがる。

 飯田がやたらと主張するのは、「人間ってバカだから、統合的理想なんてわからない。」という話である。これは逆に言えば、統合的理想を認識するという面倒臭いことを意識から遠ざけるための言い逃れとして「自分はバカだから。」或は「皆バカだから。」という共通認識の刷り込み洗脳である。これは養老孟司が「ヒトとはそういうものである。」と定義して実証と観念を観念的に「丸め。」たのと同じ手口であり、何ら論理的根拠/論証にはなっていない。

 経済学者というのは、なまじ大量の情報を「知って。」おり。いわば学力成績が高いために、自分の知能で理解出来ない、或はしたくないことであるならば誰にも理解はできないものであるという。自分を基準にした知能制限性を絶対であると勝手に規定しているのである。こうした卑屈さを、多くのヒトは謙虚と錯覚する。

 学力が高く、役所の勉強会で講師を勤めていれば。「自分こそが頭が良いから、自分がわからないことは。他人が認識することなど不可能である。」という傲慢さが働いているのである。

 同時に多くのバカ役人達も、勉強会の講師が教えることを鵜呑みにしており。こうした論理検証性の欠落による批判精神の欠如が生じているのである。

 こういう学力が高いだけのバカの講義を鵜呑みにしておいて、世の中良くなるわけがないのである。

 「今まで誰もわからなかった。」からといって、「永遠に誰もわかることが不可能である。」ことの論証にはならない。

 大切なのは「解ろう。」とする意思であり、探究心である。多数の事例を挙げて「解ろうとすること。」自体を放棄するのは、本質的自発性による純粋な探究心が欠如しているからである。

 今までわからなかったとしても、もしかしたらわかるかも知れないし、わからないままかも知れない。自発性がなければ業績にも評価報酬にも結び付きそうにもないので、簡単に「わからない。」と分類して思考自体を放棄することで満足しているだけである。

 しかし、純粋にわかりたいという意思があれば、わからない可能の方が高いとしても、わかろうとはするものであり。より深い思考探索が行われるものなのである。


 経済学者などというのは、経済産業省のバカ役人に講義でもしていれば生活が成り立つので。教わったこと以上のことには何ら思考が成立しないのである。

 型や形式がなければ、多くの凡人は無能ではあろう。だが、型だの形式の源を作ったのは一体誰であろう。教えられたことしか出来ないことを正当化するためには、バカにとっては多くのヒトはバカでなくてはならないのである。

 天才というのは天性の能力である。自発的に純粋に課題に取り組む姿勢という、天性の問題意識なくして天才は生まれることはない。バカ同士でバカの共通観念を共有しているから天性の才能が失われるのである。個性なくして天才など有り得ない。

 多数の無能者を陳列枚挙することによって、あたかも「永遠にヒトとは無能な存在である。と勝手に規定するというのは自発性の欠落した世間ウケ目当ての大衆迎合が目的であり。何ら社会の問題自体には興味はないのである。

 それなら何の問題解決策も創出できないのは必然というものである。


 世の中の事象全体像をいきなり捉えることは確かに困難ではある。しかし、根源的認識の間違いを論理的に検証することによって、従来よりは確実に全体像は鮮明になる。

 論理検証というのは各論でしか明確にできないが、そもそも与えられた課題の中でしか論理検証することが出来ないというのは、自発的に純粋に問題点を追求する意思がないからである。

 勉強会だの講義というのは、一面的で断片的な問題や事柄についてのみ限定して思考を求める。勿論これも大切ではあるが、与えられた限定性を超えて、例えば議論の題材そのものの根源的間違いに言及するということは誰もやらないのである。

 それは、そもそも自発的興味「意思。」に基づく考えではないからである。題材を与えられて反射的にあれこれ論ずるのは実は簡単である。ハーバード大学や東京大学のバカ学生にでも可能なとても簡単で短絡的なものである。

 講師が提起した問題についてのみ思考するというのは、これは環境依存的なものでしかなく。チンパンジーの瞬間記憶芸と同じ構造に過ぎない。講師が提起した問題自体の問題点に誰も言及しないのは、バカ学生達には自発的問題解決の意欲/意思がそもそも欠如しているからである。

 マイケル:サンデルは、何ら画期的問題解決策も出て来ないにも関わらず、「今日はとても有意義な議論が出来ました。」などとはぐらかし、バカ学生達はこれを鵜呑みにして気分的満足という短期的効用を得るのである。ハーバードの講義というのは、こうしたペテンによって学生のご機嫌人気をとっているだけであって、むしろ学生達の頭は気分的満足によって益々バカになるのである。

 こうした短期的効用ばかりを追求しているから、何ら統合的で画期的解決策に到達することができないのである。

 ヒトの行動というのは複雑系でChaosである。だが、人間の行動というのはその限りではない。それなら「人間とは何か。」についての根源的認識の誤りを正さないことには話は全く進まない。

 チンパンジーの記憶芸程度の能力で、あたかも自分の頭が良くなったような錯覚に陥って満足している学生達には、何ら根源的認識の誤りに気付く論理検証性は働かない。だから生物/脳科学界の腐敗が放置されるのである。




○意識してしまう。

 一般的に「意識してしまう。」という言葉が良く使われるのだが。「してしまって。」いる時点で本質的意識ではなく、無意識的な緊張感のことを「意識してしまう。」という用い方をしているのである。

 一般的/文系観念的に用いられる「意識。」というのは、実際にはほとんど全ての場合において無意識のことを「意識。」と呼んでいる。

 本論以外における「意識。」に関する考察のほとんど全ては無意識的価値観バイアスについてのものである。

 なんとなく、うっかり、いつのまにか、してしまっている。こうした無意識的価値観バイアスを、ヒトの多くは「意識。」と呼んで「しまっている。」のである。

 養老孟司の意識誘導にも、しばしばこうした文系固定観念を用いた文面上での錯覚が利用されている。

 脳科学が主張する、「緊張によってゴルフのパターが失敗する。」という話も、本当は本質的意識が邪魔をしているのではなく。「ついうっかり無意識に緊張してしまっている。」だけのことであり。本質的意識が邪魔をしている訳ではない。これもまた文面上における錯覚を利用したペテンの手法である。

 自発的発想の欠落した者というのは、個人的主観の多数抽出枚挙をあたかも普遍的絶対性であるかのごとく思考を誘導するのである。

 そして、こうした意識誘導に簡単に引っ掛かる多くのバカの習性こそが、あらゆる問題の根源に蔓延っているのである。

 経済学に限らず、目先の短期的効用の追求ばかりをしてきた結果が、現在における長期的持続可能性の喪失を招いたのであり。目先の短期的効用にだけ意識を狭窄化することを勧めるというのは人間の行動選択として異常であることを認識すべきである。


 これって、いちいち説明しないといけないことかね。



○個性の放棄

「皆の中で浮く。」

 本能的に他人との差異を嫌うからこそ、本来何の害もない差異によってイジメなどの排除が生ずるのである。

 こうした「浮く。」という感覚は、あくまで感覚であって、均一化への本能的働きである。こうした本能による感覚こそが観念的な「空気。」を作り出すのであり、こうした「空気。」を多数で共有したところで現実に大気組成に影響を及ぼすようなものではなく。あくまで多数の脳内における本能的反応の共有に過ぎない。

 本能というものが本質的には自己選択によるものではないことは、既に嫌という程論じてきた。今更説明し直すのも面倒臭いので古い記事を読め。

 シエラレオネの少年ゲリラ内部においても、こうした本能的「空気。」による「浮く。」感覚というのは。むしろゲリラのような本能的集団においてこそ強く働くものであり。僅かな個性であっても排除の対象となりうる。

 本能的に組み込まれた無意識的均一化というのも、生物学における社会形成習性の結果であり。これが他者との差異を忌み嫌い差別や排除といった人間としての社会性の欠如を引き起こす原因となる。

 「みんな違っていて構わない。」というのは、先天的に組み込まれた無意識本能による認識ではなく。後天的に意識的に認識しなければならない意識的公平性の源である。しかし本能的無意識による機械条件反射的「感覚。」というのは、これを拒絶する性質がある。

 あなたの本能習性というものは、誰の意思も選択も関与してはおらず。誰の責任でもない。しかし、人間として社会の中で行動する上において個人が自己自身の行動に責任を持つためには自己の本能習性というものをどう扱うのかには責任を負う義務からは逃れられない。

 個人が自己の行動に責任を負わなければ迷惑を被るのは当たり前のことであり。他者に求めることを自己自身が担保するのも当然のことである。

 ところがヒトの多くは目先の感覚的な「安心。」こそが意識の全てであるという錯覚に基づいて、目先の集団に迎合服従し、感覚的均一性を追求してしまいがちである。

 イジメが行われている教室においては、こうした感覚的均一化だけが働いており。論理的思考による抑制というものは働いていないのである。

 子供達だけで漫然と集団を形成させておけば、自動的/機械条件反射的にイジメは発生するものである。ヒトという種の生物は、集団内部においてイジメを行うものなのである。

 こうしたシーケンスに抗うのが論理的合理性であり、本質的「意識。」である。これなくして本質的な「人間としての社会性。」は成立しえない。

 規則風習に迎合服従しておけば気分的には安心であろう。だがそれは本質的な「心の平穏。」ではなく、目先の気分的安心でしかない。言い換えればヒトとしての大脳辺縁系の反射的「安心。」と、人間としての広い視野/意識に基づいた本質的な「心の平穏。」の違いである。

 頭の悪いバカであれば、目先のバカ同士で気分的安心だけを共有しておけば満足であろう。こうした極めて短期的効用の追求という意識狭窄性こそが、普遍的人間性としての行動判断を阻害しているのである。



 固定観念に基づいた行動が短期的な効用/世間的成功に結び付きやすいからといって、短絡的に型や固定観念を正当化するというのは、短絡的な意識狭窄性の蔓延に導くだけである。

 ヒトの多くは知識の「量。」を知能/知性であると錯覚しがちなため、たくさんの知識のひけらかしによって、あたかも知能が高く、盲目的に信頼しておいても良いような気分に陥りがちな習性がある。

 私は過去の権威性からの引用というのをしない。そもそも多くのヒトは過去の権威性という固定観念に基づいてしか物事を考えていないから、何も肝心な事実に気付くことができないのである。

 過去の権威性が論じた内容には相互の論理整合性がない。それなら過去の権威性の論証に間違いがある証明でもある。そこに全く踏み込まずに、枝葉ばかりを整えようとしているから根源的間違いに誰も気付かないのである。

Ende;
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長時間露光。

2012年03月22日 17時31分43秒 | ネタ帳
 長時間露光の光源でスマホを使っている人がいたんだけど、おいらのこさえたWebApplicationを使うと面白いのでわ。

http://space.geocities.jp/srand4000/colorflip.html

http://space.geocities.jp/srand4000/colorflip02.html

 ヤフージオシティって広告が入るので、上下はスクロールして合わせて使ってね。

 あと、スマホの画面とかって結構青みが強いのでホワイトバランスをとった方がいいかもです。
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一括投稿。5

2012年03月22日 17時28分07秒 | 意識論関連
○偶発性。

 運/幸福というのは偶然のことである。

 自然淘汰というものも偶然のことである。

 偶発性というものは意図的/意識的な選択の結果ではない。

 偶発性による格差というのは原理的に不可避であり、だからこそ富の再分配としての社会主義的税の役割がある。

 マイケル:サンデル特有の思考誘導があるので、多くのヒトは与えられた命題上でしか考えることができないが。社会における結果の全てが意図的/意識的な選択によってもたらされたものではない。

 都市/文明というものは養老孟司が言うように意識の産物などではなく、ほとんど無意識の産物に過ぎない。断片的に計画性は存在していてもである。

 偶発的な結果というのは、必ずしも意識的修正や抑制なくして長期的持続可能性が得られるわけではない。自由経済主義というものも、あくまで「概ね。」うまくゆくというだけであって、全てがうまくゆく保障はない。

 自由経済の効率性というものには必ず偶発的格差が混入するものである。自然淘汰の仕組みと同じ構造が自由経済には存在するからである。自然淘汰の仕組みである以上、最終的には必ず弱肉強食によるヒエラルキー化が不可避であるため、意識的に公平性を担保するためのルールが必要となるのである。税というのはこのルールの一つである。

 現在の生物学においては、偶発性による不公平の結果だけを「目的。」であると言っているのと等価であり。誰の選択も介在しない遺伝要素による生存という「結果。」を「目的。」と混同しているから優生学の異常性を誰も指摘できないのである。

 いうなれば、現在の生物学というのは観念によって優生学を支えているばかりで論理的検証や反論を全く行っていないのである。これは怠慢というよりはむしろ犯罪である。



//----------------
 評価報酬だけが意欲を促すというのは嘘である。自発的で純粋な意欲であるなら評価報酬に関わらずに行われるものであり、災害ボランティアなどにおいては個人的損失をしてまで他者の利益/社会の貢献を行うものである。

 むしろ富だけが行動原理になっているなどというのは、自主性/自発性が欠落している者特有の意識狭窄性の証明である。富という「エサ。」しか動機にならないというのは、チンパンジーの行動原理と全く同じものであり。これには人間としての本質意識の働きというものが介在していないからである。

 チンパンジーのように社会全体の公益的視点を持たないヒトであれば評価報酬や富だけが目的であろうが、人間であればそんな短絡的で機械条件反射的な無意識行動しか選択できないわけではない。

 多くのヒトは多数他者からの評価報酬/富が動機の多くを占めるであろう。それが「現状。」であり「現実。」である。

 現状という現実を「踏まえ。」て、どのような行動こそが理想的であるかを選択してこそ「意識。」の働きである。現状という現実を迎合し、「諦める。」のは観念であり無意識である。

 諦めることを「観念する。」というのは、それが論理的根拠ではないからである。諦め観念しておけば無為無策に現状に迎合しておくことができるので、大脳辺縁系が楽なのである。大脳辺縁系が満足すれば多くのヒトは思考を停止することができるため、論理検証性が働かなくなるのである。



 サンデルだの養老の手口として、何ら建設的意見も議論も成立していないにも関わらず。機械的に講義の最後には「とても良い議論が出来たと思います。」だとか褒めることで聴衆のご機嫌を取り。はぐらかされることによる気分的満足によって、それ以上の深い思考は全く働くことはない。

 サンデルの講義からは何ら革新的解決策も画期的解析も出ては来ない。サンデルが促す題材に基づいた条件反射的な固定観念しか促すことはなく、あくまで頭を使ったかのような錯覚に陥って気分的に満足を促していることによる「人気。」であり。これは大衆迎合に過ぎないことを、多くのヒトは自律的には認識できないものなのである。

 平凡で無思考な大衆の固定観念に寄り添っておけば、バカな聴衆から人気を得ることは簡単である。ヒトの多くはEQやSQ程度のペテンであっても、それがマスコミがでっちあげたペテンであるとは認識できないからである。




 貧富が存在すること自体は必ずしも不公平とは言えない、質素な生活をする自由もあって然るべきであり、必ずしも金儲けだけが幸福の基準ではないからである。

 富の不公平が社会にとって問題なのではなく、異常なまでに富を独占しようとする欲望の暴走が貧困を産むことになるのである。

 必ずしも高い賃金を得ている者が賃金に見合った能力を持っている訳ではない。大王製紙の元会長のような単なる世間知らずのボンボンに金を与えてしまったり、オリンパスの経営陣のように粉飾をするような無能な者が地位を保守できるというのは。それを支えている服従者/迎合者の存在があるからだ。

 文系の大衆観念的には、粉飾や浪費を行ったトップの者だけを糾弾しておけば正義が行われたと錯覚するであろう。トップの者に服従迎合した者については、あたかも服従する以外の一切の選択肢が存在しなかったかのように扱い、その行動選択の問題点は無視される。これは従順且つ忠誠忠実であることへの文系観念的な「美。」的感覚によるものであり、錯覚に過ぎない。

 かつて西武グループの会長によるインサイダー取引の命令に対し、命令された社員は「会長の権力は絶対だと思っていた。」などと証言している。

 無能な異常者に服従迎合するヒトの行動というのは、それが感覚的/観念的な無意識による論理性の欠けた気分によるものでしかなく。自分に対する他者との観念的順位格付けによって行動が決定してしまうから無能な異常者が放置されてしまうのである。

 観念的順位格付けというのは本能的な社会形成習性が促すものである。他者と自己との順位格付けを観念的に規定しておくことで気分的に「安心。」することで、論理的合理性が放棄され、結果的に異常な富の偏在を産むことになるのである。

 Fair、すなはち公正公平性というのは意識的論理的に決定されるべきものであり、本能的社会形成習性が促す無意識的な服従迎合こそが公平性への最大の障害なのである。

 全てのヒトが、本能的な順位欲による特定の者への盲目的服従迎合をせずに。形式外見に惑わされずに自律的に公平性を維持できれば、異常なまでの不公平は解消されるのである。

 具体的対策としては透明性による多数からの監視が有効であろう。そのための内部告発であり、告発者を守るというのは企業や団体において義務であり。これを守らないということは社会全体に対する反逆なのである。

 無論、透明性があったとしても、何が不公平であるのかを認識する論理的思考/本質的意識が多数の民衆に働かなければ、透明性も役には立たない。ナチズムのように公然と残虐行為を行っていても抑制が働かなくなってしまうのは、多数という権威性への迎合による気分的「安心。」が行動を決定してしまうからである。

 権威とは、それ自体は科学的根拠ではない。権威というのは多数によって観念的に構築されるものであって、盲目服従による気分的「安心。」を本能的に求める無意識性を促すだけの「見なし。」に過ぎない。

 ヒトである以上、間違わない者などいない。過ちを冒す可能性というのは全てのヒトに存在するのであって、過ちを過ちと認識する意識/論理検証性こそが人間としての価値なのである。

 多数のヒトが論理検証を行わず、本能的安心によって特定の者に服従迎合してしまうから社会が崩壊へと向かってしまうのである。本能的社会形成習性というのは自然淘汰の結果としての無意識条件反射行動に過ぎず、何ら社会安全性を保障することはない。本能というのは偶発性による結果的選択によって偶発的に遺った機能でしかなく、どのような結果に陥るのかは誰も保障していないのである。

 自由経済主義のように、「概ね。」安全で効率的なものであっても、必ずしも常に安全性が保障されてはいない。自然選択的自由経済原理というのは、あくまで無意識的な力であって、公平性を担保するためのルールの構築運営といった意識的な誘導安全性の確保が欠かせない。




 文系観念上では、「人は環境に生かされている。」などとしたり顔で論ずるが。これは謙虚を装うことによって多数他者からの共感を得ようとする身勝手な観念に過ぎない。

 振り込め詐欺の集団内部において、「自分は振り込め詐欺師の集団によって生かされている。」としておけば、詐欺師集団に迎合服従するための言い逃れにもできる。

 土地ごとセシウムまみれにされた酪農家達にとって、現在の環境とは「殺されている。」ようなものである。決して「環境に生かされて。」などいない。文系観念というのは論理的普遍性がなく、単なるその場限りの気分的満足を得るための身勝手な文学(芸術)に過ぎない。

 芸術やスポーツというのは科学や哲学とは異なり、あくまで個人的な気分を満足させるための主観的価値観の追求に過ぎず、何ら統一的で普遍性を持った理論を追求することはない。

 哲学を文学(芸術)と分類しているからこそ、論理検証性というものが全く働かず。怠惰な気分的満足ばかりが追求され続けることになるのである。人文科学と称するのであるならば、単なるその場限りの気分的満足に溺れず、論理検証を徹底して普遍性のある理論を追求しなければならない。それが出来ないのであれば「科学。」と名乗るのは社会的嘘に過ぎず、公費の浪費による単なる詐欺に過ぎない。

 科学的真理の追求においても、自発性の源となる純粋行為には個人的主観による価値観が伴うが。これは本質的自発性の源となるべき要素であって、むしろ論理検証性/本質的意識を促すものであり。逆に文系観念の追求というのはそもそもが自発的価値観に因る純粋行為ではなく、むしろ世間に対する迎合服従本能/社会形成習性を満たすことによる無意識的満足に過ぎない。

 基本的に文系観念というのは思考を停止させることによって気分的満足を得るためのものであり。これが論理検証性の欠落を招き社会安全性を放棄したり破壊させるのである。

 文系観念的には共感性というものが重要視されるが、これこそが多数派同調バイアスという気分的安心による満足を正当化するための観念なのである。

 多数派同調によって気分的に満足した結果、災害からの避難の遅れを招くことにもなる。地動説を火炙りにしたのも多数派という権威性への同調によってヒステリックな解決策が選択されたのである。

 「権威に服従しない社会は崩壊する。」などという大衆観念も、これも権威という多数派への同調による気分的満足を得るための論理的根拠のない身勝手な実証不能の観念に過ぎない。

 生物学/脳科学において、文系観念が混入している現状というのは論理検証性の欠落による社会安全性への冒涜なのである。事実、脳科学は社会的には無益な脳トレ類による世間的ウケ狙いにばかり邁進しており、何ら犯罪や事故防止に対するヒトの危険性について言及することはない。

 未だに脳トレ類の効果の論拠とするのは、脳血流増加である。脳の血流が増加したからといって「頭が良くなる。」ことの直接的論証には全くならず、むしろ脳トレによって脳血流が増加しているにも関わらず何の効果も存在しないことが立証されているのであり。脳血流増加は「頭が良くなる。」ことの論拠とするのは科学的に間違いなのである。

 マスコミというのは大衆観念への迎合による多数派同調とウケ狙いにばかり邁進しており、こうした事実は全く報道されることはなく。むしろ脳トレ類による人気体制を維持することによって利益追求しかしておらず。これは本質的には報道の社会的役割を全く果たしていないのである。

 マスコミ自体が詐欺をしていて、詐欺が減る訳がなかろう。




 クイズ番組における解答率の競争というのは、単なる一種のスポーツのようなものであり。暗記コンテストと同じで何ら本質的知能とは無関係である。どんなにクイズで正解をしても新しい普遍的理論や発見に結び付くことはない。むしろ既知の理論や発見の暗記に過ぎず、問題自体に間違いが混入していても「正解。」になる以上新しい理論や発見には絶対に結び付かない構造原理が存在するのである。

 マスコミはバラエティー番組でありさえすれば論理検証をしなくても良いものであると勝手に思い込んでいるようであるが。これはマスコミ側の勝手な分類に基づく身勝手な決め付けに過ぎない。バラエティー番組だからといって嘘を垂れ流して良い論拠にはならないのである。

Ende;
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一括投稿。4

2012年03月19日 15時02分32秒 | 意識論関連
○物質欲から精神欲へ。

 精神欲とは言っても、カルト宗教にハマって精神的に満足されても迷惑なだけである。

 本当の精神的充足というのは、本質的自発性による純粋行為によってもたらされるものでなくてはならない。

 カルト宗教や占い/スピリチュアルの類による満足というのは、自発的で純粋な興味によって満たされるものではなく。あくまで環境依存的に他人から提供される強迫観念的な満足である。

 結局クソゲーと同じで、ヒトの行動習性として気分的に満足「安心。」するように誘導されたものに過ぎない。

 原発の研究者が宗教だのスピリチュアルに心酔していれば安全性が確保出来るのかといえば、そんな論証は成立しない。

 教化的(洗脳的)状態というのは、「これさえやっておけば、社会のあらゆる問題の全ては解決する。」という思考停止性が働いているかどうかであり。本質的な自発的思考による論理検証性が働いていれば、こうした盲目的思考停止状態には陥らないのである。論理検証性というのは本質的自発性がなければ行われることはない。

 つまり、物質欲から精神欲へのシフトだけでは充分ではなく。純粋な自発的欲求とは何かが認識できていないとカルト集団が増えるだけに陥りかねない。


 本当に純粋であるならば原子力の研究を行っても構わない。原子力を経済上でのエネルギー問題にすりかえることによる利権が目的で原子力を推進するから、これには本質的自発性がないから利己や保身が優先され安全性が損なわれることになるのである。

 純粋に本質的自発性に基づいて行われるものかどうか、これは外見上見分けはつかない。同じことを行っていても人それぞれ本当に主観的に楽しいかどうかは個人差があり、分別自体は当人の意識次第である。

 ノーベル賞受賞者の田中耕一氏は、研究室で機械に囲まれて研究をするのが楽しいのだそうである。こういういわば「研究バカ。」というのは、研究の成果や評価に関わらず研究自体が好きなので、業績を捏造したり付帯する利権を求めたりはしない。

 いわばバカには2種類あり、純粋に研究に没頭して世間的評価や報酬を求めない外見上禁欲的なバカと。世間的な評価報酬欲しさにウケ狙いで業績を捏造したり過剰な報酬を求めて横領したり、社会安全性を蔑ろにするバカである。

 外見上だけであっても、実質社会的には禁欲的であるなら。これは自律的な社会的責任判断を行うことができるが。世間的なウケ狙いが目的の場合には自律的には社会的責任など一切負うことはない。社会心理学実験的に衆人環視下において社会的行動を採るとしても、「他者による監視。」環境に依存した他律に過ぎず。これは本質的には自律ではなく、判断が直接評価にならない条件では自律的判断が行われる論証にはならず。また、多数への同調や体制への迎合に流され自律が行われる保障もない。

 本質的に自発的な純粋行為による、本質的な精神の充足がなければ自律的な社会的責任判断というのは行われないものなのである。自律とは自発の中にあり、他にはない。行動に純粋な自発性がなければ社会的責任というのは自律的には行われることはないのである。

 世間的な評価や報酬こそが人間の価値であると勝手に思い込んでいる者にとっては、世間的な評価や報酬を求めず純粋に自己自身の精神の満足を充足することは不毛で意味がないと「思う。」ものである。世間という多数他者からの評価報酬だけが人生の意味であると錯覚している者にとっては、社会安全性のために自己を犠牲にするという選択は存在しないのである。

 ヒトは必ず死ぬものである。「どうせ死ぬなら、長期的持続可能性など知ったことではない。」として目先の利己的行動を採ることはとても簡単である。しかし、逆に「どうせ死ぬのであれば、他者や未来を犠牲にしてまで自己の生存に執着する必要性などない。」と自律的に社会的責任判断を行うという選択も、理論的には存在する。

 どちらを選択するかは本質的合理性を追及するか否かによって決定する。「人間としての心。」というのは、目先の欲望に由来する感情に左右されず、一貫した統一的価値観に基づいた合理性の追求によって下される判断のことである。

 「心。」というのは短絡的に感情のことを指すのではなく。自己の内部に存在するあらゆる価値観の中から最も大切な尊厳に基づく統一的選択によって導き出される、本質的合理性追求を人間の「心。」と言うのである。

 倫理や心の問題というのは、従来科学的に追求されるような範疇ではなかった。それは理性というものが文系観念的には悪であると「思われ。」ていたからであり、固定観念によって思考が拘束されていたからである。カントによる「純粋理性批判。」が促す、文系観念的な「理性というものへの拒絶反応。」を助長し、そもそも論理的思考が嫌いな文系者にとってそれは気分的に「都合が良かった。」ため、とても長い間本質的理性の重要性が放置されてきたのである。

 ヒトは動物であるため、機械条件反射的に気分が楽な方へと流されるように出来上がっている。権威者には服従し、多数に迎合し、論理的検証というものを忌み嫌うように遺伝的に出来ているからである。

 既に存在するだけの自己は、自己自身による本質的選択を経ておらず。感情や固定観念といった無意識的条件反射による選択判断だけでは、本質的な自己の論証にはならない。


 独裁というものが成立しうるのは、独裁者一人によって作り出されるものではなく。あくまで独裁者に服従し、体制に迎合する圧倒的多数である「服従者。」によって成立するのである。

 「服従者。」達には自律的に社会的責任判断というものは存在せず。ただ自分が既におかれている体制に迎合しておくことによる責任逃れと、体制や目先の多数者からの評価報酬の追求しか意識の上にはない。

 こうした圧倒的多数の服従迎合者達の無意識性によって社会は崩壊へと向かうことになるのである。


 ヒトという種の生物は、集団社会を形成していることが気分的/本能的に安心なのである。それが自然淘汰による選択によって生存に適したかどうかと、個人の自律判断とは無関係である。事実、正直者はバカしか見ないのが「現状。」である。

 現状に迎合し、理想を忘れて権威に盲目的に服従しておけば。ヒトという種の生物は気分的に「安心。」していることが可能である。

 権威者が促すままに東大大学院で博士号を取得しても、何ら社会的には評価されず。就職も出来なければ起業もできないのである。

 学力ビジネスに関わる者達というのは、生徒の学力成績が上がりさえすれば良いのであって。卒業後の生活の保障も、生活の術すらも教えるつもりはないのである。彼らにとっては、「生徒の成績。」=「自分達の評価。」という短絡的方程式に基づく利己的判断以上の何も興味などない。ましてや生徒自身の本質的自発性に伴う社会的貢献意欲も、社会的責任への自律も養われることはない。



 クソゲーが流行するのは、クソゲーだのパチンコのように快楽を環境依存的に提供されなければ自発的には自分自身の精神を充足させる術を持たない者が非常に多いからである。

 クソゲーにハマっていなければいられない程、彼らの脳は餓えているのである。しかし、クソゲーやパチンコにどんなに陶酔しても、本質的な自己の精神的充足は構造原理的に得ることができないので、最終的には破滅に至るまで続ける以外に選択の余地はない。

 そもそも無意識であるということは、本質的な自己選択が存在していないのである。それなら機械的に何らかの破綻に至るまで自律的には抑制は働くことはない。

 生物史における大量絶滅というのは、大量絶滅という破綻に至るまで意識的に抑制を働かせる自律的行動選択というものが存在しなかったからである。これを「ヒト。」にそのまま当てはめるというのは、当てはめている者の脳には自律的抑制というものが存在しないからである。

 自分に存在しないものであれば、あらゆる他者にも存在しないものであると「思う。」のは必然的帰結というものである。NHK解説委員の室山哲也の危険性とは、室山に自律的抑制が存在しないことの論証でもある。

 人類が絶滅するかどうか、それは私の知るところではない。絶滅するかも知れないし、しないかも知れない。理論的にはこれは「わからない。」ものであって、決して「絶対に絶滅する。」ことは論証不能である。



 「ゴルフのパター=人間としての価値。」という短絡的観念を利用してまで無意識機能の正当性を論証しようとするのは。「世間的な成功=人間としての価値。」という無意識的で本能欲望による無意識的判断を利用した論理検証の撹乱である。「社会的に成功していない者=社会的には無能。」という観念に基づいた、文系特有の身勝手な価値基準を持ち出しておけば、「自律的な社会的責任判断こそが本質的な人間の価値。」であることを意識から遠ざけることが可能である。

 社会というものは自律的に社会的責任を負う者によって安定維持されている。しかし、それは必ずしも世間的評価報酬には結び付かず、場合によっては地位や権益を失うことも少なくはない。

 内部告発者の秘密が守秘されなかったり、排除の対象になったりするのは。多くの大衆マスコミによる無意識的/本能的欲望にはそぐわないからである。

 本能的な社会形成習性に基づく集団主義やナショナリズムというものは、それが本能習性であることの論証である。既に帰属している集団に無条件に迎合し、忠誠忠実であることへの美的観念そのものが。本能習性による「仕組み。」構造原理が促すものであることの論証である。

 本能習性というものは自己自身の本質的選択に依るものではない。本能習性に無意識に流されておいて自由も意思も存在しないのである。

 意識というものは、単にゴルフのパターを失敗させるためにあるのではなく。無意識的な無責任性への抑制として必要不可欠なものである。そもそもゴルフというのは賞金金額の大きさと、それに伴う世間的注目によって緊張を強いられることが失敗の原因であり。これはむしろ無意識的な緊張によって能力が抑制されているだけである。世間的に注目されているからといって脳腫瘍の摘出に失敗していたのでは話にならない。世間的注目だの成功報酬の金額に関わらず安定して能力を発揮できなければ、無意識能力の価値などないのである。

 世間的注目や成功報酬に左右されない能力の発揮というのは、恐らく自発性であり純粋に患者を助けたいという意欲であろう。

 以前、航空機での蘇生を行った医師が、「乗客の視線が怖かった。」などと怯えていた話を聞いたことがある。これは純粋に患者を救おうという強い意思/意欲というものが欠けていたからである。「覚悟。」というのは多数他人の評価に左右されず、自己自身の本質的意欲によって導き出されるものであり。環境や状況によって左右される意思の弱さというものは本質的な意欲がそもそも欠けているからである。

 世間的評価の有無に関わらず続ける覚悟というものは、世間的な評価報酬を目的にしていては発揮されることは原理的にない。遺伝子の研究で有名なメンデルが生前評価されなくとも研究を全うしたのも、地動説を立証したガリレオが命の危険を賭けてまで地動説を説いたのも。ナチズムに命懸けで反対したベンヤミンも。これらは彼らの本質的自発性による「覚悟。」があったからである。

 多くの研究者が挫折し「絶対不可能。」とまで言われた質量分析計を田中耕一氏が実用化にまで導いたのも、やはり田中氏の研究に対する「覚悟。」があったからである。

 「できるかどうかわからない。」ことというのは、短絡的には世間的評価報酬には結び付かないものである。しかし、「絶対に不可能である。」ことの論証ではない限り続ける覚悟/意思というものがなければ世間的評価報酬が「得られるかどうかわからない。」ことを続けることはない。

 世間的評価報酬が「得られそう。」なことしか誰もやらないとすれば、これは世間の風潮や流れという流行に流されているだけであり。こうした浮動的価値観を追求している時点で普遍的真理にはそもそも興味がないということでもある。

 普遍的真理に興味がなければ科学的業績に結び付かないのは当然である。本質的自発性がなければ本質的な知能も発揮されることは原理的にもないのである。

 たとえ偶然科学的大発見に結び付くような結果を目の前にしていても、それが科学的大発見であることを認識できなければ呆然と見逃すだけである。学力が高いだけの世間的評価にしか興味のないバカというのは、平気でこれをやらかすのである。




○本質的意識の意義。

 「原発さえなければ。」そう書き残して自殺した福島の酪農家がいた。自殺というものを根源的に減らすためには、社会安全性というものを可能な限り高める必要性がある。

 目先の自殺者の数を減らすことだけを考えていたのではダメなのである。

 正直者がバカを見るような社会において自殺者が減っても意味などないからである。オカルト宗教にすがっていないと生きていけないだとか、実証不能の観念を振り回す生物/脳科学界にすがっていないと生存不能などというバカげた正義など要らないのである。原発を維持しないと生活が成り立たないなどという言い訳も聞きたくもない。

 心が折れた人に向かって、そうでない人が単に「死ぬな。」と強制する権利などない。生き続ける権利があるというのであるならば、死ぬ権利と等価でなくては論理的におかしい。ましてや「自殺は卑怯。」などという論理的根拠のない実証不能の観念を振り回すのは論外である。

 我々は心が折れた人に対して「今すぐに結論を出さないで欲しい。」という要望以上のことは言えないのである。それなら「今すぐ。」ではない対策として社会安全性や信頼性の確立を地道に構築するしかあるまい。

 感情に由来する短絡的「結論。」であれば、これは臨床心理の範疇である。臨床以外の一般人ができる対策としては社会安全性を高めることしかないはずである。

 そのための意識論でもある。「安全第一。」ではあっても「安心第一。」というわけにはいかない。気分や固定観念でしか物事が判断できないこと自体が無意識的であり、これが最も危険なのである。社会の危険性を棚上げにしておいて自殺云々を論じてしまうのは社会の一員として無責任と言えるのではないか。弱者を淘汰するような殺伐とした社会を放置迎合しておいて自殺者数だけ減らしても、これは「人間の社会。」とは言えないであろう。

 シエラレオネの少年ゲリラの内部や振り込め詐欺集団に内部において、果たして自殺者がどれだけいるであろう。暴力や詐欺による生物学術上の生存価だけを追及していれば自殺は少ないのは必然であろう。

 極論すれば、ナチス政権に反対してスイス山中で自決することというのは人間として尊い行動でもある。しかし、ウ゛ァルター:ベンヤミンを自決に追いやったのは、ナチスに迎合した多くのヒトの無意識性による無責任が原因である。正直者、或は正しいことを言う人を死に追いやるのは多数大衆に迎合する論理検証性の欠落であり。これは同時に固定観念による感情的暴力性が働く「ヒトの習性。」からである。地動説を火炙りにしたのも、それが論理的根拠に基づくものではなく、あくまで感情による判断が下されたからに他ならない。

 農家が自殺し、クソゲー社員の年俸が1500万円を受け取る現在の社会に、長期的持続可能性などあるわけがない。こうした不公平性を放置しているのは、政治家や公務員のみの責任ではなく。制度上民主主義を導入している日本においては民衆自身の行動選択自体にも責任がある。政治家や公務員がクソゲーを推進しているわけではないからだ。

 クソゲーは実質的に何の生産性も持ってはいない。クソゲーで金儲けをしても社会は潤わないのである。むしろ若者から生産性につながるべき時間をむしり取り社会を崩壊に導くだけである。これこそミヒャエル:エンデの論じた「時間泥棒。」そのものではないか。

 クソゲーというのはヒトの行動習性を利用した環境依存的な目先の競争意識(無意識)を煽ることによって利益を貪るビジネスモデルである。パチンコだのクソゲーだの酒だの煙草というのは全て大脳を麻痺させることによる現実逃避であり、麻薬である。

 目先の麻薬による快楽に溺れ脳を麻痺させているから統一的な理想を忘れ、本当に大切なものが何かを簡単に意識から失うことになるのである。大脳が麻痺していれば人間性が発揮されないのは当たり前のことである。

 クソゲーが多くのヒトの脳を麻痺させられるのは、MobileSocialGameという名前にもあるソーシャル(社会性)という本能的社会形成習性が促す競争原理構造を利用しているからである。他者との比較競争をさせることによって、現実には糞の役にも立たないポイント成績欲しさに無意識に金を払わせるのである。

 クソゲーでランク競争をしたところで何の生産性も存在しないことを、多くのヒトは忘れてクソゲーに熱中する。そもそも教育ビジネスにおける競争原理を用いた学力強要の構造自体が、本能的社会形成習性の促す競争本能を利用した洗脳であり。多くのヒトはこうした他者との比較競争に意識を奪われるように洗脳されているからこそクソゲーなんぞが流行することになるのである。

 カルト宗教のテロを、多くのヒトは自分達の構造原理的原因に因るものではなく。特殊な異常集団だけの特異な結果であると分類「整理。」することで、自分達には何の問題も存在せず、自分達は絶対に健全で安全な存在であると錯覚して安心する。

 分類「整理。」というものは、ドーパミンが促す一種の正常性バイアスに過ぎず。必ずしも論理的根拠に基づく科学的分類である保障などない。

 ヒトという種の生物は、環境によっては残虐なゲリラにも虐殺にも加担してしまう性質というものがあることを意識から外して気分的に安心する。民間人による暴力団への関与がなくならないのも、こうした無意識習性に流され、観念的恐怖心によって迎合してしまうからである。

 そこには本質的意識による本質的合理性の追及は存在しない。

 警察自体も事件にならないこと、書類送検できないことには全く関与しない癖に民間にだけ暴力団への関与防止をさせるのは無責任である。法手続き上の責任逃れや制度上での評価報酬ばかりを機械条件反射的無意識に追及しているから、社会の問題が全く解決しないのである。検察が書類を受け取らないことを理由にするのは既存制度への迎合である。制度自体に間違いがあるのならば、そこに言及すれば良いのである。

 無意識なヒトというのは、自分の過ちは「些細なこと。」として分類し、過小評価する傾向がある。同時に多数他人が指摘する他人の過ちには便乗するが、自律的には何が問題であるかは全く認識できない。こうした「バカ。」相手に何を論じても、意識が働いていなければ記憶にも残らないし行動にも影響はない。取締さえ強化しておけば事故や事件が減るわけではないことは統計的にも明らかであり。懲役刑が再犯抑止にもならないのと同じことである。司法制度自体の問題であるなら裁判員制度云々の議論以前の問題であることを認識しなければならない。

 それは誰も言及しないのである。これを「バカ。」と形容することを、一体誰が否定できるであろうか。

 検察の糞役人にとっては、法律こそが「具体。」性なのだそうである。現実に起こっている事象は抽象で、法律上における違法性などが論証されなければ「具体。」性ではないと言い張るらしい。検察などの行政役所を監督する政府や代議員が無能で無意識だからこんなバカみたいな話が放置されることになるのである。役に立たない奴を役人と呼ぶこと自体が根本的に間違いであることを認識すべきである。

 農作物に放射性セシウムが混入したことは、たとえ国の安全基準に満たないとしても汚損であることに間違いはない。どんなに微量であろうと放射性セシウムで混入したことは「具体。」的事実であり、これが法律上汚損と認められないとすれば間違っているのは法律か、或は法律を解釈する糞役人の脳である。頭がおかしいのであれば司法試験免許を取り消すべきであろう。




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 原子力保安院は「直ちに避難。」という文言を用いると、社会的不安を煽るとしてIAEAの国際基準の導入に反対したのだという。

 気分的に恐いことを言わないことによって気分的「安心。」を重視したということである。

 その結果、速やかな避難誘導が行われず住民の「安全。」性が犠牲にされたということでもある。


 嫌な話に耳を塞ぎ、気分が良くなる観念を信頼しておけば「安心。」だという判断である。

 逆に気分的に嫌な話を持ち出しても、多くのヒトは恐怖心から悩み感情的になるばかりで、結局は何も論理的検証判断には結び付かないのである。

 嫌な話を持ち出した時に、理性的に受け入れる冷静さが多くの日本人には欠落しているから隠蔽/統制の理由にされてしまうのである。安心と安全を混同していることから根本的に間違っていることを認識すべきである。

 最近の流行で安心と安全はセット扱いされるが、こうしたセット扱い自体がマスコミの大衆迎合なのである。

 「NOと言えない日本人。」と言われるが、そもそも論理的思考ができなければ何にNOを言うべきなのか自体が認識判断出来ない。

 どんなに学力学歴が高くても、現在の脳科学/認知科学における「論理的思考能力。」の成績が高くても、その論理的思考能力を何に発揮すべきかにおいて本質的な自発性が伴わなければクソの役にも立たないのである。

 現在の学力ビジネスというのは、学力成績を高めることだけが目的であって。社会的役割や責任を担う人格や知能を高めるためには機能していない。塾や学校の講師は大学に合格させることだけが目的で、社会的役割や責任を持った人格者を育成することには利益とは無関係なので興味がない。

 だから生物/脳科学、認知科学、社会心理学、哲学というのは何ら真理探求/事実認識としての論理検証性が全く働いていないのである。彼らは教えられたことを鵜呑みにしてさえおけば何の不自由もないため、何ら自律的に認識の進歩も真理の追及も行う意欲がないのである。

 エサに対する機械条件反射的応答以外、彼らの脳には働かないということである。従って、どんなに強い学力への欲求が働いているとしても、それはあくまで環境依存的結果でしかなく。本質的には自発性とは言うことができないのである。

 どんなに高度な特定能力を発揮しても、それが自律的な社会的責任判断を下すことの保障にはならなず。チンパンジーの瞬間記憶能力同様「エサ。」が得られなければ何もしないし、またエサが得られる体制維持の為なら社会全体の安全性も持続可能性も無視するのである。

 松沢哲郎らによるチンパンジーの利他行動研究においても、断片的に他者に利益となる行動を採っても自分自身に利益が得られなければ利他行動は採らなくなることが観測されており。これもまた「エサ。」に対する利己的行動の顕れである。

 ヒトにおいても権威性などの順位バイアスが働くことによって公平分配は崩壊する。一面的に公平分配を制度化する行動を断片的に抽出してきても、権威への服従性による公平性の崩壊もヒトの行動習性であることに変わりはなく。反証にもならない。

 状況や環境に依っては公平だったり不公平だったりする習性論の枚挙は不毛であり。常に公平性を担保しようとするのは人間の意識による「選択。」が働かなくてはならないことは反論の余地など存在しないのである。それを断片的な行動習性の抽出によって反証したつもりになっていること自体、バカげた言い逃れ/取り繕いでしかない。このことにマスコミは全く誰も気付かないのは、従来の生物学の理論的根拠を持たない文系観念との親和性という「習性。」が働いているからである。

 彼らは気分的「安心。」によって論理検証性を失っているのである。


 固定観念やら多数大衆迎合による「常識。」に基づいたバイアスによる断片的事実の垂れ流しを報道とは言わない。それを単なるプロパガンダと言うのである。



○自主性。

 環境依存的な結果としての行動は自主性/自発性ではない。環境に左右されていること自体が自主性/自発性の欠落を証明しているからである。

 チンパンジーだのオウムにエサを与えて特定能力を獲得させたとしても、これは「エサを与える。」という環境に依存した行動結果に過ぎない。それがたとえヒトの大学生よりも高度であったとしてもである。

 他者との学力比較による強迫観念的な競争を強いて学力向上を行うというのは、たとえ平均学力が向上したとしても生徒個人の本質的自発性によるものではないため、成績試験が終われば簡単に内容を忘れ去ることになる。単に数値上平均学力が高くても、本質的に自発的ではない知識や能力というものは「エサ。」に相当する学力比較対象が存在しない場面に」おいては自発的には発揮されることはない。

 頭の悪いバカであれば、こう言い逃れするであろう、「しないよりはマシ。」だと。だが、本当は「マシ。」どころか害ですらある。

 他者との学力比較競争を強いられることによって、生徒は他者との比較競争による評価報酬(エサ。)の獲得にしか意識が働かなくなる。無論この「意識。」とは意識狭窄性を伴った無意識であり、且つ強迫観念である。

 競争という他者との比較でしか自分の価値を見いだせなくなった生徒は、本質的な自発性を失い多数他人世間からの評価報酬を得ることにしか意識が働かなくなるのである。

 その結果、業績の捏造といった「嘘。」や搾取横領といった、他者を蹴落とす行動に手を染めることに陥る。

 人間としての自律的な社会的責任行動判断というものの喪失とは、そこに本質的自発性が欠落していることによる、いわば必然的結果なのである。

 そこにいるのは、エサに飢えた「ヒト。」ではあっても。純粋に何かを追及する探究心を持った「人間。」ではない。

 社会的責任判断を自律的に行う「人間。」であるためには、自律の根源となるべき自発性が不可欠である。自律とは自発の中にあり、他にはない。

 従って他者との学力成績の比較競争によって得られる、本質的には自発性を伴わない平均学力の数値上での向上というものを追及する限り。自律の欠落した学力が高いだけのバカを大量生産することにしかならない。

 頭の悪いバカであれば、「学力が低いよりはマシ。」と述べるであろう。バカの主張というのは常に「○○よりはマシ。」という観念的程度問題である。

 学生時代学力が高くても、通り魔だのテロリストになったり。或は天下りに血道を上げる役人では社会にとって価値を持たない。一級建築士の国家資格を持っていても、建築強度を偽装してしまったのでは迷惑にしかならないのである。従って「学力が低いよりはマシ。」などという短絡的その場限りの取り繕いというのは、単なる論理的思考放棄に過ぎず。全くもってバカの主張に他ならない。

 実際には今まで何ら論理検証を行わずに鵜呑みにしていた自己の無思考性を事後正当化するための言い訳に過ぎず。こうした個人的な気分的観念こそが論理検証性に対する最大の敵なのである。


Ende;
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文武両道。

2012年03月13日 15時18分13秒 | 意識論関連
 一般的に言われる「体育会系。」への文系観念においては、厳しい規律に従う厳格な人格形成が養われるものであると思い込まれている。

 しかし、実際には体育会系集団というのは本能的な社会形成習性を用いて特定の統率者に従順性を強要する手法であり。これは特定の統率者以外にとっては従順で扱い易いために、統率側にとって都合が良いために、これを人格性であると勝手に思い込んでいるだけの洗脳錯覚状態に過ぎない。

 少年野球の集団は、統率者のいる練習場においては従順に服従するが。練習場の行き帰りにおいては自転車を並走させ仲間同士のお喋りに夢中になっており、全く他者への配慮がなく、自律的に社会的責任判断を誰も行うことはない。

 犯罪率の低い国において、特に文武両道が必須科目になっているわけではなく。文武両道が人格形成に結び付く論理的根拠など全くなく。あくまで「日本の文化。」として固定観念的妄想として文系の論理的に思考できないバカげた因習に過ぎない。

 人格形成にとって最も必要なのは自律であり。これは個人の自発的行動選択の結果であり、外見上の従順性を植え付けるだけの権威や力を用いた強制性こそがこれを不具にするのである。

 オランダの小学校において必須とされるのは、決して統率者に対する従順性ではなく。あくまで集団における個人の自律的問題解決能力の育成が最も重要視されているのである。

 オリンパスや養老孟司のように「日本の文化。」を持ち出すのは、そこに論理的根拠や自律的責任判断というものを無視するための言い逃れに用いられる場合がほとんどである。指導者自身が自律的に論理的判断を放棄していれば、生徒に自律が育たないのは必然的結果というものである。

 文武両道を必須と決定した者というのは、論理的に何も考えることの出来ない文系観念に染まった単なるバカに過ぎず、こうしたバカを集団内部に温存する非合理性というものも「日本の文化。」というものである。

 文系観念と生物学の親和性の原因として、「強さ。」への異常な執着というものがある。生物的に強く、生存価に適していることこそが人間の価値であるという、論理的根拠のない身勝手な観念を優先するあまり。権威に疑問を抱く批判精神を持った自律的な責任判断能力を不具にし、目先の扱い易さを人格と勘違いする頭の悪いバカを大量生産する手法だけが優先されてしまうのである。

 戸塚ヨットスクール的な権威による強制性というものが個人の自律というものを失わせ、自律的に社会的責任判断を行う批判精神を不具にしてしまうのである。

 これは短絡的従順さを強制するだけの手抜き教育の典型である。こうした短絡的手抜き教育をしておけば、多数の大衆マスコミは気分的に安心し、あたかも社会安全性が向上するものであると勝手に勘違いすることは簡単である。これこそが思考の怠慢であり、教育者の手抜きに他ならない。

 文武両道を必須科目にしておけば、マスコミ大衆のご機嫌を取ることは簡単である。しかし、これこそが大衆迎合でありとんでもないペテンなのである。

 権威性や力を用いて統率服従させておけば、ヒトの子供は簡単に服従するようになり。また、簡単に服従するような子供というのは本能的で無意識な子供でもある。

 ヒトという種の生物には、本能的な社会形成習性というものがあり。統率ヒエラルキーを観念的に規定しておけば、服従によって順位欲を満たし、自律的な責任判断を放棄して「言われた通りにさえ行動しておけば評価される。」という「エサ。」に対する機械条件反射的行動として、その場限りの統率行動/従順さを発揮するのである。これを短絡的に人間としての社会性/人格性であると「思う。」のは大間違いである。そこには何ら「考え。」が成立していないからである。

 子供達だけで学習内容すらも自発的に選択させた状態においても、「人はそれぞれ違う。」ことを許容することによって。初めて他者の選択を尊重するようになる。日本ではこうした「人はそれぞれ違う。」という根本的な他者の許容を拒絶し、「心を一つに。」統率的な服従性によって気分的安心を得ることばかりが優先されてしまうことを「日本の文化。」などと形容しているのである。

 確かにオリンパスの経営陣は統率的に粉飾決算を隠蔽し、責任逃れをすることによって「生存。」価に適した行動を採ることが出来ていた。これもまた非常に生物的な「強さ。」であると言えるであろう。

 早稲田大学の集団強姦を「元気。」と形容した政治家がいたが、こうした生物的な「強さ。」というものを発揮しておけば満足してしまうのが文系マスコミ大衆観念というものである。

 文系マスコミというのは統一的な思想、思考というものは存在せず。ただ目先の多数大衆に迎合してさえおけば金になるという、極めて短絡的で利己的な動機でしか報道を行わない。マスコミがかけるバイアスに無意識に流され、その場限りの気分的安心によって思考を停止してしまえば、どんなに制度上民主主義システムを導入していても「バカ主義。」にしかならないのである。

 文武両道という体育会系観念が個人の人格を養う論理的根拠など存在せず、社会的責任判断を行うべき自律を不具にするものでしかないことを多くのマスコミ大衆は認識したがらない。

 「したい。」とか「したくない。」というのは気分の問題であり、大脳辺縁系の反射に過ぎない。こうした「自然の流れ。」に無意識的に無為無策に流されるだけなら、どんな重大事故や事件が発生しても誰も責任を負わないということでもある。

 気分的に安心であっても危険なことを放置してしまうのは、それが錯覚だからであり。錯覚を作り出すのは無意識的な思考の整理/ドーパミンが作り出した気分的安心に対する機械条件反射的判断によるものである。

 論理的に「するべき。」か「やめるべき。」かどうかを判断することが「安全。」性に寄与するのであって、気分で物事を判断しているからヒトが引き起こすあらゆる諸問題というのは一向に解決しないのである。

 武道という、いわば暴力の手法を義務教育において強制する必要性などない。それこそ自発性/意欲が伴わずに武道を行うことは非常に危険なものである。武道というのは科学や哲学といった普遍性を持ったものではなく、あくまでスポーツであり美術芸術と同じで普遍性とは無関係の分野である。

 養老孟司が述べた「身体の扱い方。」などという論理整合性のないバカげた観念を共有しているから子供が無駄死にするのである。「禁煙と書かれた看板の前で煙草を吸う。ほら、私は脳化していない。」などというバカげた話を鵜呑みにし、東京大学名誉教授に祭上げておく無意識性こそが、社会安全性を崩壊させるのである。

 犯罪率と「身体の扱い方。」の統計的相関など存在しない。あくまで養老が日本における大衆観念に迎合するためにでっち上げた論理撹乱に過ぎないことを、多くの大衆マスコミは自律的には認識できないのである。こうした無意識性こそがヒトの持つ最も重大な問題点であることを認識しなければならない。

 バラエティ番組で人気を得ている脳科学者澤口俊之は、養老の言っていることに論理整合性がないことを全く指摘せず、漫然と「養老先生は素晴らしい。」などと形容している。フジテレビは澤口の人気による権益を保持するために生物/脳科学の観念のプロパガンダに加担しているのかも知れない。

 あくまでマスコミは視聴率や販売部数といった直接的利益につながる判断しか行わないことを、市民は認識するべきである。それができないから大衆凡民でしかないのである。

 生物/脳科学界はヒトの社会形成習性の存在について検証しているかのように言い張るかも知れないが、彼らは習性から人間としての社会性を立証しようなどという、論理的に不可能な観念の立証しか求めておらず。何ら論理検証など行ってはい。ゴルフのパターの成功率を根拠に無意識機能こそが人間の存在価値であるかのごとく言い張る脳科学者達というのは、要するに生物学的社会形成習性が及ぼす社会性危険性を隠蔽し、従来の観念を温存するための「取り繕い/言い逃れ。」に過ぎない。

 彼らもまた生物的には「強く。」、「生存。」価に適しているとも言えるであろうが。人間としては利己的な欲望に基づいた体制維持に加担しているだけである。

 どんなに組織的に高度な役割分担を行っていようとも、それだけなら振り込め詐欺にでも可能な本能的習性に過ぎない。生物/脳科学界というのは権威性を傘に詐欺行為を温存することしか考えてはいないのである。

 何せ生物学者というのは生物の行動習性が大好きなので、行動習性の全てに正当性をこじつけることこそが彼らの快楽であり。正当性に反する行動結果を隠蔽撹乱することしか考えてはいない。分野としては科学に分類されているが、彼らは論理的思考による検証というものには興味がないのである。故に養老は科学的な真理追及に「日本の文化。」を持ち込んだのである。「日本の文化。」を持ち込んでしまえば日本人の正当性が立証できるという大衆観念によるナショナリズムによって安心感を与え、思考を停止させられることが可能であるからだ。

 真理を追及しないということは、すなはち過ちや嘘を放置するということである。それなら原発が暴走しようとも詐欺が横行しようとも文句を言えた義理ではない。

 日本人の理科離れというものも、個人の自律的な論理検証性が育まれていないことが原因である可能性は高い。自分自身で自発的に理解するということが「文化。」として根付いていなければ、純粋に科学的知識を楽しむことはできないからである。科学というのは答がない、あくまで「今のところ、ここまでわかっている。」ことしか教えようがないのが科学である。従って、そこから先は自分自身で自発的に探究してゆくべきものであり、そこには予め社会的評価報酬という「エサ。」が与えられる構造が存在しないため。純粋に自発的探究心がなければ苦痛にしかならないのである。

 他人を投げ飛ばす技術を必須科目にする「日本の文化。」を振り回しても、個人が自律的に社会的責任判断を行うようにはならない。大学の体育会系集団が麻薬だの強姦を行うのも、彼らは権威者に服従することを行動「学習。」しただけであって、何ら自律的行動責任判断というものが育っていないからである。


end;
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一括投稿。3

2012年03月03日 13時43分49秒 | 意識論関連

○ Xシステム。(フジテレビ アンビリバボー)

 意識機能が習熟した無意識高機能を阻害することがあってもおかしくはない。ゴルフで短いパットが入らなくなるなどが典型であろう。

 しかし、こうした意識による無意識機能の阻害の話というのは、ほとんどがスポーツや将棋といった個人的な特殊能力の習熟に関する話であり。社会安全性に関わる公益性を持った話ではない。

 人間としての社会性として、自律的に社会的責任判断を行う場合。これは常に意識によって判断されるものである。決して無意識によって論理判断が促されるようなものではない。

 ゴルフが上手くできなくても、社会安全性には何の影響もなく。あくまで個人の利益の問題でしかない。しかし、無意識に権威や多数同調によって他人に危害を無意識に加えてしまうことは社会安全性に直結しており、人間としての価値そのものを意味するのである。

 ここにも社会的成功という「エサ。」によって論理的思考の撹乱が促され、本質的な価値を見失うような仕組みが存在する。

 ゴルフが上手くできなくなると、多額の賞金を取り損ねたりするため。その金額の大きさに意識を奪われ、社会的責任というものの重要性を見失わせることになるのである。

 言葉の表面だけを取り上げれば、バカな大衆は「意識が無意識を阻害して損をすることもあるじゃないか。」などと、どうにも下らない判断を下す場合も多いのかも知れない。それなら原発の危険性を指摘したことで排除された原子力技術者の立場はどうであろう。

 社会安全性というのは個人の利権よりも優先されなければならないものであり、ゴルフのパターと同列に扱うようなバカげた話ではないのである。

 文系観念に基づく、極めて断片的で一面的な価値観だけに意識を奪われ。統合的な判断を簡単に失うのが大衆マスコミの特徴である。

 社会的成功云々を絶対価値観とするのであれば、時代の空気を読んで反射的にナチス政権に同調し、600万人のユダヤ人の殺害計画を立案して出世することが「正しい。」とでも言うのであろうか。

 スポーツだの芸術における社会的評価というのは、社会安全性とは無関係な「お遊び。」に過ぎない。アニメ映画監督の宮崎駿監督が自身の作品を「気晴らし。」と形容するのも、直接的には社会の安全性や公益性には関与しないからであり。スポーツや芸術での順位や評価というのは、結局気分の問題でしかないのである。

 フジテレビが意図的に無意識の優位性を論じているのか、背後に生物/脳科学界による誘導があるのかは判らないが。あたかも無意識こそが人間の価値であるかのようなプロパガンダは悪質極まりない。

 ゴルフがどんなに器用に出来て、どんなに大金を稼ぐことができたとしても。自律的に社会的責任判断ができないのであれば人間としては出来損ないに過ぎない。無意識機能による特殊な能力による個人的評価報酬というものは、人間の価値自体とは全く無関係であることを、大衆凡民マスコミは簡単に忘れ。あたかも社会的成功こそが人間の価値であると観念的に錯覚することによって、本質的な人間としての価値である自律的な社会的責任判断に重要性から意識を引き剥がすことが簡単にできるのである。

 これが脳科学者によるペテンの手口である。


 自律的に社会的責任判断を行ったからといって、社会的評価や報酬に結びつくようなものではなく。むしろ人間としては当然の行為に過ぎない。社会的評価や報酬が優先するから業績のねつ造や隠蔽といったことが行われるのであり、生物/脳科学界は旧来の間違った観念に基づく論理整合性のない理論を温存することによって、既に獲得した権威性を維持しようとして本論に対する無意味な隠蔽/撹乱ばかりに邁進するのである。

 ヒトは目先の利益の大きさに意識を奪われ、「社会的成功=人間としての価値。」という論理根拠のない短絡的方程式に基づいて物事を判断しがちである。その方が短絡的に大脳辺縁系が気分的な快楽を感じるからである。

 こうした無思考で短絡的な大衆観念に寄り添っておけば、社会安全性の価値は安く見積もられることになり。結果的に社会安全性が損なわれることに陥ることにまでは、大衆の多くは意識が回らないのである。


 気分的な快楽を与えるような短絡的な話であれば、大衆マスコミは喜んで飛びつくものである。社会的成功という「エサ。」を目の前にぶら下げることによって、それ以外に意識が働かないように誘導するのは簡単なのである。多くのヒトは社会的成功を本能的に求めるものであるからだ。

 目の前にエサをぶら下げられても、本質的価値というものを見失わないためには。論理的検証性の深さが必要不可欠である。エサにつられるというのは短絡的であるからこその結果であり、単刀直入に言って「バカ。」だからに他ならない。

 畑村洋太郎が論ずるように、安全性というものは「自律的な社会的責任判断。」によって担保されるものであり。これは無意識によって確保されるようなものではない。

 社会安全性を蔑ろにしておいて、社会的成功もすったくれもあったものではないのである。何百億もの資産を手に入れても原発が暴走して地球環境自体が破壊されてしまったのでは全く無意味である。従って「状況に依る。」ようなものでも、「バランス問題。」でもなく。あくまで社会安全性が絶対的に優先されなくてはならないことに異議を差し挟む余地など存在しないのである。

 また、意識が無意識能力を阻害するというものも、その阻害自体は無意識的に阻害されているからこそ制御出来ないのであり。例えば旅客航空機のパイロットの操縦技術も無意識的能力の一つではあるが、これは常日頃からのアクシデントに対する訓練を行うことによって、安定して操縦技術を発揮できるようにもすることも可能なのである。

 すなはち、意識が無意識能力を阻害しているのではなく。むしろ無意識的な心理的抑圧などが無意識能力を無意識に阻害しているのであって、それは単なる経験不足からくる無能に過ぎず。意識自体とは無関係でもある。

 そもそも「意識してしまっている。」というのは論理的思考ではなく、無意識的に「してしまっている。」という心理的な感情による無意識能力の阻害である。

 どちらにせよ無意識機能の価値というのは、社会的公益性とは無関係な、世間的成功という利己的価値しか存在しないことに変わりはない。

 制御不能な無意識能力であるならば、航空機の運行にも医療にも使えるものではない。ましてや個人の特殊能力で原発を運転されても危険極まりないだけである。

 環境や状況に左右されるような不安定な無意識能力であるならば、そんなものは社会安全性に関わることに応用することなどできないのである。

 航空機の操縦や医療技術に関しては、論理的に安全性が確保できるのであれば将来的に機械に置き換えても構わないものであり。安定的に動作可能であるならばむしろ機械に置き換えた方が安全性を高めることも不可能ではない。しかし機械の信頼性というものは設計製造を行うヒトの責任であり。これは機械に置き換えることは原理的に不可能である。

 本質的意識が機械に置き換え不可能である以上、これこそが「人間。」でなければ出来ないものであり。「人間。」としての存在価値であることの論証でもある。

 これを今更ゴルフのパターだの将棋の成績程度の話で撹乱されている大衆マスコミの頭の悪さにも呆れるばかりだ。


 一般大衆的な文系観念からすれば、説明が論理的で文字数が多いと言い訳がましく聞こえるらしく。「簡潔さに欠け説得力がない。」などと言い出す傾向がある。これは単に読み手の論理検証性が欠落しているだけの観念的「説得力。」なのであるが、大抵のヒトというのは言葉によるコミュニケーションを行っていながら、実際には無意識的に感情を満足させるために漠然と話しているだけであり、何ら論理的理解など全くしておらず。極めて観念的、雰囲気的な判断しかしていないのである。

 そんなんだから振り込め詐欺に騙されるんでしょうが、アホくさ。


 脳科学者達の多く、いや、ほとんど全員も。以上のような論理的検証を全く出来ておらず、私以外の誰も反論をできていないというのは。余程脳科学/認知科学者というのは論理検証性の欠落した、大衆迎合しか興味のないデクノボウしかいないのであろう。

 断片的「取り繕い。」や「言い逃れ。」、「言い訳。」を繰り返すほど、論理根拠のない観念というのは論理整合性の崩壊を露呈するだけである。社会的に役に立たないデクノボウであることが認識できたのであれば、早々に転職先を確保しておくべきであり。論理的基礎の脆弱な砂上の楼閣をいくら維持しようとしても無駄である。

 既に生物/脳科学者達のほとんど全員が、論理的思考の出来ない文系観念に染まった、科学者としてポンコツであることは隠蔽のしようがないのである。今更大衆マスコミを観念的に丸め込んでも科学としての役割が立証できるわけではない。これ以上税金の無駄遣いに加担しても誰の得にもならないことを認識すべきである。

end;





○腹側線状体。(NHKスペシャル)

 ヒト以外が他者との信頼関係によって物品や金の交換が可能であるからといって、ヒトが人間であることの論証にはならない。シエラレオネの少年ゲリラ内部においても信頼関係というのは存在するからである。

 コミュニティーの規模の巨大化(都市化/文明)というのは必ずしも「人間。」としての論証にはならない。

 文明は様々なものが大規模化したが、犯罪や戦争も大規模化しており。これは何ら「人間。」としての社会性の論証にはなっていないのである。文明の大規模化によって科学的認識も爆発的に加速しているが、その科学の使い方自体については全く進歩がなく、むしろ科学を用いた欲望の暴走を招くばかりである。どんなに技術的に高度化しても、その使い方自体が進歩しないのは、人間の存在としての価値自体が全く進歩していないからであり、何ら「人間。」としての社会性の論証にはならないのである。


 貨幣というのは長期的安定性に貢献するという長所もあるが、あくまで「道具。」である限り使う者の意識次第である。

 都市や文明というのは意識の産物ではない。あくまで欲望という無意識の集積であり、意識的な産物ですらないのである。


 ラトガース大学での実験で。初対面の相手にクジを引かせ、一方には80ドル、一方には30ドルを予め渡しておき。どちらか一方に追加で50ドルを提供した場合。公平分配になった時にも快楽が生ずる。これは平等への欲求が本能的に存在することを意味する。

 しかし、この快楽というのは相手が目の前で見えているという条件があり。条件が存在する以上、これは機械条件反射的無意識でしかなく、意識的な行動選択のように、意識的に担保されるわけではない。


 目の前に見えていない相手のことにまで思慮が働くようには、生物学的進化は原理的に生ずることはない。進化生物学的な進化というのは結果的な競争や淘汰による遺伝的要因の「整理。」を必要とするからである。

 自然界においては競争や自然淘汰による過酷な「結果。」的選択以外働くことはなく、そこには何ら誰の「目的。」意識も介在することはない。故に野生生物というのは凶暴なのである。従って生物学的進化というものは、人間にとって都合の良いように進化が進むことはない。

 目の前に見えていない相手のことにまで思慮が働くかどうかは、意識の広さに基づく想像力が不可欠である。ヒトというのは目先の事柄が最も意識を支配する傾向があるからだ。もし目先の事柄にしか意識が働かない個体を淘汰(殺害絶滅)させるというのであれば、それ自体が非人間的行為に他ならず。論外である。

 進化生物学的に人間性を本能的に獲得することは原理的に不可能である。それなら意識的に社会全体に対する公益性や責任判断の重要性を認識すること以外に「ヒトが人間。」としての進歩を獲得することは出来ない。これを無視して如何なる学力や能力を身につけても、社会公益には寄与できないのである。

 自然界における生物学的淘汰を人間社会に持ち込むこと自体がそもそもケダモノの正義なのである。優生学の異常性というのは、生物学のケダモノの正義を人間社会に持ち込もうとする異常性であり。生物学はこの異常性について何ら言及しないばかりか、むしろ無理矢理正当化しようとしており。完全にオカルト状態なのである。


 環境条件に依存する本能的行動習性をいくらたくさん枚挙しても、環境に依存している限り自律判断については言及できず、これはすなはち「人間としての社会性。」については言及不能ということである。

 現在の生物学/脳科学界というのは自律的判断という個人の本質的意識の重要性を無視し、漫然と従来の観念を振り回すことで体制維持を謀ることだけが目的であり、科学的論理的検証を撹乱することしかしていない。

 自律的に社会的責任判断を行う「人間としての社会性。」というものは、環境条件に左右されない「自律。」が絶対に必要なものである。従って従来の生物学における一面的習性論の枚挙からは原理的に「人間としての社会性。」「人間とは何か。」には言及不可能なのである。

 自律的な個人の判断、本質的意識という本能習性に左右されない論理的思考に基づく判断というものは。動物的な行動習性によって説明されるようなものでは最初からないのである。


 養老孟司は科学的真理の追及に「日本の文化。」を持ち込み撹乱した。これはオリンパスの旧経営陣と同様の手口であり、合理性のない自分達の観念に基づく正義を温存維持するための「言い逃れ/取り繕い。」である。

 文系の研究者、及び文系観念に基づいて論理的自律判断のできない生物/脳科学者達が、誰も養老の支離滅裂さについては言及していないのは。彼らの誰にも科学的論理検証が全く働いていないことの証明である。その典型が澤口俊之である。

 漫然と他人の論文を論理検証もせずにひけらかし、その場限りに注目を集めることしか澤口には興味がない。澤口は養老孟司のことを「素晴らしい。」などと盲目的に崇拝しており、後から「科学的。」云々の話を枚挙しても「言い逃れ/取り繕い。」にしかならないのである。

 「ヒト。」という種の生物が「人間。」足りうるためには、本質的意識である論理検証による欲望(快楽)の選択が必要不可欠である。

 従って従来の生物/脳科学における、習性だの本能といった無意識的傾向性の枚挙によって。短絡的に「ヒト=人間。」という方程式を立証しようとすること自体が根本的に間違っているのである。

 「ヒト。」は漫然と無意識に生きているだけでは「人間。」ではない。SQで高得点を取って気分的に公益的役割を果たしているような錯覚に陥って満足してしまえば論理検証は失われ、その場限りの気分的満足/目先の大脳辺縁系の快楽によって何も考えなくなってしまうのである。


 脳科学が知能について言及する時は、必ず「試験合格。」だの「スポーツ順位。」といった極めて一面的で、「社会的成功。」につながるようなウケ狙いによって、論理的な知能論から意識を引き剥がすという手口を用いる。

 ヒトという種の生物は目先の「エサ。」として社会的成功をぶら下げられると、知能そのものに対する論理的検証性を追及しなくなってしまう傾向性/習性があり、これによって本質的知能についての科学的追及からの逃避/撹乱に陥っているのである。

 そもそもが学力の高さというものの根拠が、科学的真理を純粋に追及するためのものではなく。あくまで権威や多数からの評価/報酬を目的とした、極めて不純な動機によって促されている者の場合。どんなに「論理的思考能力試験。」で高い得点を得ることが可能であるとしても、得点/成績につながらない事柄については全く興味/意識が働くことはない。

 学力が高いだけで自律的に何も判断できないバカというのは、権威や多数からの評価だけが目的であり。むしろ自律判断に伴う責任を回避するためには自律判断など一切せず、責任は全て他人任せにしておくという姑息で機械的な判断しかすることはない。

 天下り役人の言い逃れや、原発開発者の取り繕いというのは、全て自律的な社会的責任判断の放棄のための言い訳である。こうした論理的根拠のない無責任を「言い逃れ。」に出来ること自体、それを鵜呑みにしている大衆凡民マスコミの無意識性を意味するのである。

 養老が論ずるような心情的訴えに対し、観念的に観念してしまうことによって意識を撹乱され。自分の無責任性と同調することによって「普通のこと。」であると勝手に認識し、自分自身の無責任性については完全に意識から外すことによって満足し、思考を停止させることが可能なのである。

 ヒトというのは平均的で普通の事柄に気分的「安心。」を抱き、それが問題であるかどうかすら論理的には検証しなくなるものであるからだ。



 多数派同調バイアスというのは本能的社会形成習性が促す気分的「安心。」である。気分的に嫌な話を無視する習性こそが正常性バイアスとして働くのである。

 気分的に嫌な話を無視しておけば、気分的には「安心。」であろう。それこそが危険性に対する認識を撹乱し、自律的判断を失う、ヒトの構造原理であり「習性。」なのである。こうした本能習性という「仕組み。」に無為無策に流されるだけで「自由意思。」など存在しない。

 目先の環境条件に左右されることなく自律的に社会的責任判断ができなければ「人間。」としての価値は存在しない。故に環境条件に左右される本能習性論からは人間としての社会性を論証することは不可能なのである。

 本質的意識の重要性について言及したからといって、いきなり人間としての社会性を論証できるわけではない。人間としての社会性というのは論証するようなものではなく、自分の行動を自律的に制御するという個人の本質的意識に依存するものであり。その重要性を認識することによって、その可能性を持つことが可能となる。

 論理的思考ができない文系観念に満足している大衆マスコミや生物/脳科学者達にとっては、本能的/気分的にできないことは誰にも不可能であるかのように認識しており、こうした論理性の欠落こそが本質的意識の重要性を意識から遠ざけ、無意識的な無為無策な本能習性論だけで全てを説明しようとさせるのである。


 ヒトの多くは、自分の意識の全てが論理思考に基づく「考え。」であると錯覚する。目先の気分的判断と、論理判断との違いは意識の強さによって区別可能であると錯覚しているのである。

 だが実際には、こうした意識の強さというのは感情の強度に依存するものであり。何ら論理判断によるものではない。

 「意識の9割は無意識。」である。従って本当の意識である論理的思考判断というものは、通常ほとんど働いてはおらず。論理的思考自体に全く「慣れて。」おらず、大抵の場合、何が論理的思考判断であるのかすら認識できていないのが実態である。

 本論の様な検証というものを、一体どれだけの者が自律的/自発的にできているであろうか。現実には私が論ずるまで誰も検証などできていないというのは、実際には「意識のほとんど全ては無意識。」といっても過言ではない。



 自律的に社会的責任判断をしたからといって社会的成功になる保証など一切ない。原発の危険性を訴えた研究者は排除されたのである。目先の社会的成功によって本質的知能論を撹乱されているというのは、無意識的で利己的で本能優先の非論理的な無思考性の証明である。

 社会的成功に意識を奪われていること自体が意識狭窄であることを、多くのヒトは認識していない。

 ショーペン:ハウアーが論ずるように、多数他者との幸福の比較に意味はない。幸福や安心/快楽といったものは、個人の脳の内部だけに成立するものであって。神経接続のない他人の脳との幸福の程度比較など原理的に不可能であり不毛なのである。

 ところがヒトというのは、目先の多数他人との比較に意識を奪われ、脳神経接続もない他人との幸福比較という無意識的価値観だけが全てであると錯覚する。こうした錯覚というのは本能的シーケンスに因る無意識的条件反射であり、本質的意識によって論理的に選択したものではない。

 社会的成功という多数他者との比較こそが、ヒトの欲望の暴走を促すのであり。錯覚によって無意識的であるからこそ暴走に陥るのである。

 感情的にどんなに「強い。」欲望であっても、その「強さ。」で選択判断が支配されている限り自由意思は働いていないのである。論理的思考というのは感情的な「強さ。」を伴うわけではないからだ。

 論理的思考/本質的意識というものは、感情的「強さ。」に左右されない冷静さと、感情による価値観の狭窄に陥らない自発的「意思。」なくしては機能することはない。


 文系観念に基づく大衆マスコミというのは、自分の気分に寄り添った都合の良い解釈だけを断片的に抽出して「元気が出る。」だの「勇気がわく。」といった観念論に帰結したがるためにニーチェの異常性が認識できず。また、生物学や脳科学が断片的結果の抽出だけで何かを普遍的に証明したかのように満足したがるのも、その場限りの気分を満足させるだけが目的であり。何ら普遍的真理の追及など初めから興味がないからである。

 こうした生物学の怠慢こそが優生学を放置する結果となったのである。これは重大な過失である。

 文系観念というのは結局利己的に気分を満足させることにしか意識が働いておらず、普遍性を持った真理など求めていないのである。従って彼らからは「人間とは何か。」についての普遍性見解など出て来る訳もなく、その場限りの取り繕いにしか意識は働かないのである。無論この「意識。」とは感情に左右された環境依存的な無意識である。

 たとえ、どんなに多数の観念を共有しても、観念であるという呪縛からは逃れることはできない。多数に同調しておけば気分的には安心であろう、その安心こそが思考を停止させ無為無策な観念のまどろみへと誘うのである。




 人間性にとって必要な本能があるのは当たり前である。様々な本能の中から最も大切な感情を選択するのは理性であり、本質的意識である。本能自体は環境に左右されるが、理性は揺るがないからこそ理性なのである。

 環境に左右されるような不安定性から脱するためには、理性という本質的意識以外には選択の余地などないのである。


 進化生物学的に人間性を本能的に獲得することは原理的に不可能である。しかし、後天的に自発的論理思考に習熟することは可能であり。これこそがヒトという種における本能以外の進歩の手段である。

 論理思考とは言っても、学力成績的に「論理的思考能力。」を獲得しただけでは意味がなく。あくまで自発的な論理検証性でなければ社会的な安全性も、また公益的知能としても役には立たない。

 自発性というのは生徒個人の自発性に委ねることであって。エサでつるような外見上の自発性の扇動では意味がないのである。

 どこぞの学習塾のCMではないが、「やる気スイッチ。」と称して暴走させても社会的には迷惑にしかならない。

 本当の自発性というものは環境を整えることによって、多くのヒトが陥るような「エサ。」に対する反射的動機ではなく。あくまで個人における個人的好き嫌いに依存するものであり、これを生徒が自発的に発見できるようにするためには成績に関わらず、より多くの知識に「触れられる。」学習環境を整えることが重要なのである。

 ところが教育ビジネスにおいては、成績という「数値。」評価自体が目的になってしまっており。生徒の知見を拡めることが蔑ろにされているのである。これが生徒に対する大人の方の「情報統制。」になってしまっているのである。

 全ての生徒が平均的に何でも高い成績を取る必要性はなく、生徒個人が望む能力について徹底的に伸ばせる環境を整えてやれば良いのである。

 やたらとジェネラリズムだとか称して、何でも平均的に可能な成績バカを大量生産しておけば自動的にジェネラリズムを持った者になると勝手に妄想しているフシがあるが。こんなものは何の論理的根拠もない文系観念/大衆迎合でしかない。

 ジェネラリズムというのは、あくまでスペシャリストとしての経験を経た上で築かれるものであり。何ら得意な分野を持たない平均的に無能なバカを生産してもジェネラルとしては使い物にはならないのである。

 ジェネラリズムを発揮できるかどうかは、分野によっても、また個人の素養によっても異なるものである。別にジェネラルになりさえすれば「偉い。」訳でも何でもなく、どのような役割であろうとも、割り当てられた能力を充分に発揮できることこそが社会的役割を果たすということなのである。

 肩書だけ「社長。」だとか「東京大学名誉教授。」になりさえすれば偉いのではない。米国大統領になりさえすれば「偉い。」のではなく、あくまで役職においての役割を存分に果たしてこそ人間個人としての価値になるのである。

 結果的にオリンパスのマイケル:ウッドフォードは会社を辞めなければならなくなったが、彼の英断の価値が下がるわけではない。肩書などの「世間的成功。」と人間個人としての価値は無関係なのである。

 人間個人としての価値が、世間的に認められないのは。世間の多数がバカで占められているためである。バカの集団内部においてはバカげた人間しか認知されることはないのである。カルト宗教内部においてはキチガイでなくては幹部になることはできないのと同じことである。

 体制腐敗は放置されるが、社会的責任や公益性は蔑ろにされるのは。大多数のヒトが腐敗に迎合し利己的利益追及に終始し、責任逃れをしようとするからである。

 誰も社会的責任を負わず、利己的利益追及ばかりを求めているから体制は腐敗するのである。大王製紙の元会長がギャンブルで散財「出来た。」のは、元会長個人だけで成立する行為ではなく。それを支える多数の迎合者達によって作り出されたものである。カルト宗教同様に、トップの者だけで体制腐敗は作り出されるものではないのである。

 「自分一人の力ではどうにもならない。」と称して、ヒトの多くは自分自身で責任判断を行おうとはしない。こうした無責任の集積によって体制腐敗は温存されるのである。これは子供のイジメがなくならないのと同じ構造である。

 子供時代にイジメに反対しても、体制からの排除に遭うことによって。体制には迎合しておいた方が保身になることを行動「学習。」してしまえば、誰も自発的には体制腐敗への異議申し立ては行わなくなる。

 その方が気分的に「安心。」であり。これこそが本能的な社会形成習性として腐敗温存機能として働くことになってしまうのである。

 より多くの者が腐敗に異議を唱えれば、腐敗は進行する前に自浄作用が働き。社会的責任を負うことは世間的にも排除の対象にもならないのである。

 こうしたシンプルな機能が働かないのは、多くのヒトの無意識性による体制腐敗の放置という、精神的怠慢が根源にあるからだ。


 こうした話を繰り返しても、大抵のヒトは「自分だけは大丈夫。」だと勝手に錯覚して満足し、何も意識に残らない。そして、こう述べるであろう。「だって、大体みんな多少はやっているよ。」と。

 こうした多数派同調性による、気分的「安心。」こそがあらゆる体制腐敗の根源にはある。そして、こうも述べるであろう。「だって、生きるためには。」と。「生きて。」いさえすれば人間個人としての価値になるわけではないことは、既に何度も論じたつもりである。

 これらは全て、その場限りの「言い逃れ。」「取り繕い。」である。従ってマトモに議論しても不毛なことはわかっている。チンパンジー相手に自律的な社会的責任判断を求めているようなものであるから、不毛なのも必然というものであろう。しかしどんなに少数であろうとも不毛ではない者がいるのであれば、多少なりとも社会貢献につながるかも知れない。私がこの文章を書き続けているのは、こうした「希。」な「望み。」のためである。

 豚の欲望は「希望。」とは言わない。そんなものはちっとも「希。」ではないからである。

end;
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