○認知科学。
無意識機能というのは高速で高機能ではある。しかし、無意識機能というものは論理的思考ではなく、固定観念的な条件反射機能に過ぎない。
ネコを縦縞の世界で育てると横縞を認識することができなくなるという。ヒトにおいても成育環境によっては色彩の識別能力に違いが生ずるように、無意識機能というのはあくまで成育環境に依存したものである。
しかし無意識的認知能力の違いがあったとしても、論理的思考自体とは無関係である。
学習障害というのは、同じ成育環境であっても無意識的認知機能が他の個体と比較して発達に障害があることである。
学習障害があると論理的な話を理解しづらいのは確かであるが、逆に学習障害がないとしても、必ずしも自発的論理検証を行うことの論証にはならない。振り込め詐欺師や天下り役人というのは学習障害は特にないからである。通り魔にもテロリストにも学習障害などない。
認知科学者達は、経験則に依存した無意識的条件反射能力の高さというものを、あたかも絶対的な人間としての価値であるかのように論じたがるが。これは実際には「生物的なヒトとしての生存価。」を論じているだけであって、自律的な論理検証による社会的責任判断能力、「人間としての社会的存在価値。」を論じたものではない。
鳥類は視覚認知識別能力が非常に高いが、論理的な行動選択ができるわけではない。無意識的識別能力というものが論理的思考による分別を促すものではなく。錯覚というものは無意識的な視覚認知能力によって作り出されるものであり、錯覚を錯覚であると認識できるのは意識による論理的判断によるものであって。一面的な視覚認知能力の高さだけを取り上げても無意識機能が論理的思考を促す論証には全くならない。
学力というものはそもそも論理的に本質的知能を測る基準ではなく、便宜的に生徒を選別するために作られた基準でしかなく。これは人間としての社会的存在価値とは無関係であり。学習障害や世間的損得に意識を奪われ思考停止に陥っている時点で科学的論理思考の欠落を意味する。
認知科学者達の論理検証性の欠落にも見られるように、「学力=本質的知能。」ではないことは明らかである。地下鉄毒ガステロを行った者達も学力だけは高かったことを忘れるべきではない。いうなれば毒ガステロに東大が加担したようなものであり、これを教訓として再発防止に役立てるためには、学力=知能という短絡的で論理検証性のない固定観念を捨てることは、大学の社会的責任として最低限必要なものである。
人間としての社会的存在価値とは、学力成績や学歴といった評価でもなければ、多数大衆迎合による世間的金儲けとも無関係であり。あくまで当人の自律的な社会的責任判断能力のことである。
一面的に学習障害のある人が社会的責任を負えないからといって、短絡的に学習障害がなければ良いというようなものでもなく。学習障害がなくても社会的責任を自律的に負えなければ本質的には知能とは言うことができないのである。
無意識的認知能力がありさえすれば自律的社会的責任を果たすことの論証にはならない。
社会安全性という最も社会的に重要なものを高めるためにも、現在の認知科学者達のヨタ話にツッコミを入れるのは社会的責務というものである。
東大の学長が「全てを疑え。」と論じていながら、現在の認知科学に誰もツッコミを入れないのは。教師も生徒も烏合の衆に過ぎないからである。
医学上における学習障害の有無と本質的知能の有無を識別しないというのは、社会安全性を無視した極めて限定的な一面的な価値しか持ち得ない。たとえ学習障害のメカニズム解明ができたとしても、「人間としての社会的責任判断能力。」を無視した身勝手な知能論を振り回すというのは、意識狭窄で無責任というものである。
自律的な論理的思考と、それに伴う批判精神を伴うから科学というものの存在価値があるのであり。これを無視して「環境依存的な無意識機能こそが人間としての価値である。」という実証不能の観念を振り回すのはオカルト以外の何物でもない。
論理的検証を経ていない学力基準だの世間的な損得勘定を基準に、本質的な人間としての社会的存在価値を無視するというのはあまりに無責任であり現在の認知科学界は根本的に脱構築する必要性がある。バカ教師に迎合するだけのバカ生徒の群れでは、学問としての社会的責務を全く果たすことができないからである。
ヒトという種の生物は、目先の損得という本能的欲望だの既存の価値観に基づく固定観念といったものによって論理思考を簡単に失う性質/習性がある。これらの無意識性から脱構築するためには本質的な自発性による、多数や権威からの評価報酬に左右されない純粋な疑問/論理検証というものが不可欠である。
「テストの花道。」的に「成績が上がってうれしい。」というのは、あくまで環境依存的な結果的快楽のことであり。本質的には自発性ではなく、何ら自律的論理検証である本質的意識を育てることにはならない。「やる気スイッチ。」なるものを他者から励起されている時点で既に本質的自発性は存在していないのである。
秋葉原の通り魔の学生時代の学力の高さも、環境依存的な結果的なものでしかなく。故に環境によっては何ら合理性のない通り魔にしかなれないのである。破壊的な反社会的行動というものには合理性というものが存在しないのである。本質的合理性を追求すれば、その場限りの時代や社会に迎合して得をしたり気分的に満足することではなく。時代や社会に左右されずに社会の持続可能性を求める行動選択を自律的に行うことである。
科学的理論の多くは、過去の知的資産の上に成り立つものであるが。こと「意識。」に関してはこの限りではない。
むしろ従来の文系観念に基づく論理性の欠落の多くを破棄することが必要なのである。固定観念的に過去の知的資産を保守しておけば統一的な科学理論が体系化できると「思った。」ら大間違いである。東大の学長ではないが「全てを疑え。」ということである。単位だの教授の顔色といった観念を全て棄てる「意思。」なくして学問としての社会的責務は果たすことができないのである。
○論理検証なくして批判精神は働かない。
短期的目先の利益/効用といったものの追求は、結果的に長期的持続可能性を破壊することになる。
経済学における短期的目先の利益/効用の追求とは、利己的利益の追求だけに意識を狭窄化させる効果がある。
一人の有限の意識における長期的持続可能性の追求というものは、必ずしも絶対的に長期的持続可能性に貢献する保証もなければ、世間的な評価報酬に結び付く保障もない。
自律的な論理検証というのは社会安全性の礎であり、社会的責任判断の源である。多くのヒトはこれを全く行わず、権威者の促すことを何ら自律的には検証せずに鵜呑みにし、何も「考え。」ていない。これがヒトという種の生物の愚かさの根源である。
自律的な社会的責任判断と論理検証性は人間の価値として一体であり、不可分である。
論理検証やそれに伴う批判精神を持っても、短期的には世間的見返りというものはない。場合によっては世間的には排除の対象にされたり、無視されたりすることも少なくはない。それでも社会的責任を負うことの意義とは、より長期的な価値観に基づいた自己存在の意義である。
自律的社会的責任判断が現時点において利己的欲望(ヒトという種の生物本能的効用)に結び付かないとしても、より普遍性のある価値観に基づいた判断(人間としての責任)によって本質的「心の平穏。」を得ることこそが「人間として。」の自己存在意義なのである。
こうした本質的な「心の平穏。」というものは、必ずしも気分的な絶対的安心をもたらすものではない。多数他者や権威に対する批判をすれば、予め本能的に組み込まれた気分的には何ら満足を得ることは出来ず、むしろ気分的には嫌な思いをする可能性も非常に高い。
自律的な社会的責任判断というものを、多くのヒトは特定の技術者などだけに丸投げしておけば自分は無責任でも構わないと勝手に錯覚している。放送大学でも「技術者倫理。」などと称して倫理は技術者だけに丸投げしておけば良いかの如く論じたがる。
原発や航空機のような大事故につながるような技術者にも倫理性が必要ではあるが、倫理というものは技術者に限らずあらゆる人にとって必要なものである。技術者ではなく経営者だからといって技術者に社会的倫理に反する命令を下しても良い論拠になどならないからである。
お惣菜屋なら食品衛生に責任を負わなければならないし、トラック運転手であれば交通安全に責任を負うのである。それなら社会に関わるあらゆる行動の全ては一種の技術者であるとも言える。
ところが証券取引などにおいては社会的責任というものが全く働かなくなるのは、目的自体が社会貢献ではなく利己的欲望であるからだ。
企業は社会のものである。故に社会的責任と貢献が目的でなければならない。それが証券取引においては突然無責任な欲望追求だけになってしまうのである。
そもそも証券取引に社会的責任選択だの倫理を説いた者がいるであろうか。これは暗黙にタブーだからである。しかし論理的にタブーであることの論証など全く存在せず、ただ雰囲気的/無意識的/空気的にタブーだと思い込んでいるだけに過ぎない。
誰も説かないことを論ずると、感覚的な共通認識にならないため、逆にこれを錯覚であると錯覚するのである。
多くのヒトは勉強といえば「教わったことを鵜呑みにし、正確に答えられるようにしておくこと。」であると錯覚している。これは一種の無意識的行動「学習。」として観念的に刷り込まれた行動であり、これが特定権威者に対する論理検証性の喪失を招き、同時に批判精神も失うことに陥るのである。
アイヒマン実験の場合は命令に対するヒトの服従性が検証されているが。明確に命令という形でなくても、権威者に対する質問の答えについても論理検証をしなくなる性質というものもある。
子供は親大人に対して無条件に服従することが要求されるものであるが、これはあくまで論理的理解が伴わない事による便宜的措置に過ぎない。一個の責任ある人間としては権威者の促す思考誘導に簡単に乗らず、自己自身で自律的に論理検証を行い、論理検証に伴う批判精神を持つことが必要である。
それこそ「勉強会。」という形式を採る場合、教わることだけを目的としたものであると勝手に観念し。教わったことへの論理検証性が簡単に失われてしまうものである。
東大名誉教授 養老孟司の言っていることが論理的でも科学的でもないことを、多くの大衆マスコミは何ら論理検証もせず鵜呑みにしていたという過ちに基づき。この間違いを教訓として「あらゆるものを疑う。」ための論理検証性に基づく批判精神を持たなければならない。
無意識的に肩書に惑わされ、呆然と実証不能の観念を鵜呑みにしているから、謀らずも「他人に迷惑をかける。」ことに陥るのである。これが無意識の持つ暴走性である。私個人がどんなに論理検証による抑制制御を促しても、数の前にはどうにもならない。
天才アインシュタインでもナチスは止められないのである。
異常な暴走を止めるのは、社会を構成する個人の「意識。」次第であり。特定の権威者や救世主ではない。
多くのヒトは、特定の救世主や権威や技術者だけに責任を丸投げしておけば自動的に社会安全性や持続可能性が確立されるものであると勝手に錯覚しがちである。こうした無意識的な無責任さこそが社会を崩壊へと導くのである。
「権威に服従しない社会は崩壊する。」などという実証不能の観念を信じ込んでいれば、ヒトの脳に組み込まれた社会形成習性を満足させておくことができるので、とても「安心。」であろう。
また、心ない権威者にとっては既得権益を保守するためにも無為無策に権威者に服従しておいてもらった方が便利なのである。
ハリウッド映画や時代劇では、特定の英雄だけが世界を救うという構図が、多くの大衆の脳を酔わせることができるために用いられる。わかりやすい悪人を片っ端から殺害しておけば大衆の脳は満足するのである。
アイヒマンのような悪人というのは、実際には普通のヒトの習性として本能的に組み込まれた「仕組み。」によって促されるものであり。特定の悪人だけ暴力によって粛正しておけば再発防止になるというような短絡的なものではない。
こうした短絡的な粛正というのは腐敗した独裁国家においての最も危険な最終解決策であり。これは本能が促す気分的満足によって快楽をもたらすように「出来て。」いるのである。
既に組み込まれた自己の本能のままに無意識に「流され。」ていて自由意思もすったくれもあったものではない。
自発的に論理検証を行うという、現時点における選択可能性こそが脱構築可能性につながるのであり。これこそが本質的意識なのである。
「ゴルフのパターを失敗して損をする。」程度の下らない話を鵜呑みにして、本質的意識の重要性を無視するというのは人間として出来損ないとしか言いようがない。
個人的損得というのは社会安全性や社会の持続可能性とは直接関係がなく、たとえ個人的に損をしてでも社会安全性や持続可能性というものは優先しなくてはならないものなのである。
むしろ、多くのヒトが無意識的に権威者や多数他人に迎合服従しているからこそ、社会安全性や持続可能性を求めることが個人的な損になってしまうのであり。多数の無意識性こそが人類の諸問題の根源なのである。
認知科学上では、経験こそが正しい認識を作り出すと論ずるが。これはいわば無意識的経験則による動物的認知能力万能主義であり、従来の生物学の観念に基づいた取り繕い/言い逃れである。
猫を縦縞の中で育てると横縞を認識できなくなる。これは横縞に対する経験がなければ横縞を認識できないということの証明であるが。経験的に権威に服従していなければ損をしたり嫌な思いをした場合に、権威に機械条件反射的に服従してしまう「行動学習。」というのも経験によって無意識に刷り込まれてしまうものであり。経験というのは全てが正しい認識を作り出すわけではなく、むしろ論理的思考を阻害する固定観念をも作り出すのである。
無意識的な認知能力というのは非常に高速高機能ではあるが、あくまで無意識的な能力であって全てが論理的で正しい認識を作り出すというわけではない。錯覚というものは無意識機能が作り出すものであり、錯覚を錯覚と認識して間違った認識に陥らないようにするのは論理的判断という意識が行う仕事である。
一面的/断片的に無意識の高速高機能を枚挙しても、意識自体の重要性の反証には全くならない。認知科学/脳科学者達は従来の生物学における結果的優位性だけを目的であると言い張る観念を信じ込んでいたことを事後正当化するために、何が何でも無意識機能こそが絶対的に正しいことにしておかないと権威性を失うことになりかねないために取り繕い/言い逃れを繰り返しているのである。
成育環境によって刷り込まれた無意識的固定観念というものが感情的な価値観バイアスを作り出し、これが論理的思考判断というものを阻害する最大の原因である。これを無視して「経験則による無意識こそが正しい認識を作り出す。」などと言い張るのは何ら科学的とは言えない。
もはや書くのも面倒臭いが、制度上民主主義を導入していても民衆がバカであるならバカ主義にしかならないのである。
民主主義制度の場合は権力が分散されており、責任も分散されているため暴走も分散しているだけであって。天下りだの予算の無駄遣いといった小さな暴走は全くなくなっていない。これは個別の責任者の無責任な利己的利益(個人的効用)の追求しかしていないからである。
個別の個人的利益の追求さえしておけば、自動的に統合的社会持続可能性や安全性が確立されるものであるという根拠のない幻想は楽観主義ではなく、単なるバカかオカルトに過ぎない。
楽観的予測というのであれば、多くのヒトが自己自身の自律判断によって社会安全性を優先する行動選択を行うというものであろう。それはバカやオカルトを多くのヒトがそれと認識することが大前提であり、現時点においてこうした楽観的予測は全く成り立たない。
よって現時点では悲観的予測しか成り立たない。
瞑想というものは仏教における修行の一つであるが、今の真言宗における瞑想の方法論が釈迦の論ずる瞑想と同じである論証はない。釈迦が勧めた瞑想というのは論理的思考のためのものであるが、真言宗の座禅瞑想というものが論理的思考を促すものである論証はなく、ただ単に気分的に楽になるというだけのものでしかなく。これが釈迦の論じた瞑想と同じものであるとは考え難い。
釈迦の論じた修行というのは、あくまで自発的に行われるものであり。決して「これさえやっときゃ。」的な短絡的方法論ではなく、個人それぞれに全く異なるものである。従って座禅のように形式的で短絡的瞑想というものは釈迦が勧めた瞑想と同じであるとはとても考えられない。
仏教教典における修行のバリエーションというのは、修行というものが個人それぞれに全く異なることを示したものであり、あくまで主体的自主性によって行われていることが重要なのである。仏教教典における修行というのは、全て修行者自身が自主的に選択したものであり。決して座禅のように形式的で強制性を伴うものではない。
主体的自主性を持った本質的純粋行為こそが個人にとって最も集中力をもたらし、これが個人にとって最も脳を育てるのである。これは千住鎮男の教育方法論やオランダなどの北欧諸国の教育法とも整合性がある。日本が文化的に欠落しているのは、こうした本質的自発性を重んじることであり。「文化。」的に観念を温存/連鎖して「しまう。」のは、これが無意識的な強迫観念によるものであるからだ。
ヒトはそれぞれ異なったものである。違うことこそが本来であるにも関わらず、ヒトの多く/衆生というのは他者との差異を異常に忌み嫌い排除や差別をしたり、迎合服従して自主性というものを蔑ろにしてしまうのである。
これが本能的な社会形成習性によって促されるのである。多数他者や、それによって認証された権威者に服従迎合しておけば気分的には安心なのである。これが本能の促す行動「結果。」というものである。
認知科学者を含む生物学者達のほとんど全員というのは、本能的行動の「結果。」を事後正当化することしか頭にない。それが従来の生物学の観念を温存し、体制維持になり、権威性を温存することになるからである。
言わずもがなこれは利己的欲望/本能的な目先の安心だけが目的である。
短絡的で愚かな大衆マスコミにとっても、既に存在している自分を事後正当化できる「無意識論。」というのは気分を良くさせることができ、論理的理解を求めず従来の文系観念に寄り添うことができるため。とても簡単に蔓延させることが可能なのである。
従来の日本における無意識的経験則に基づく多数迎合性の放置というのは、子供自身には全くイジメを無くすことができない。日本式の無意識的な「社会性。」教育では自律的な行動選択というものは全く養われず、漫然と「イジメはなくならない。」などという諦観に基づいた無能の連鎖を繰り返すだけである。
イジメといった排除や差別意識(無意識)というものをなくし、個人の純粋な意欲というものを育むためには。本質的意識を重視した教育が必須である。差別や排除をしないといった「人間として。」最低限の条件というものは、意識という自発的で論理的思考なくして実現不可能なのである。
従来の生物学上の観念を正当化しておくということは、日本人の無能さの放置、無為無策の放任にしかならない。
利己的な認知科学者達にとって、こうした社会的損失には全く意識が働いていないのである。
差別や排除を克服できずに「絆。」もすったくれもあったものではない。そもそも現在の認知科学者の言い分を要約すれば、「学習障害=人間として出来損ない。」という方程式に基づいた差別意識(無意識)が根底にある。学習障害もなければ論理的思考能力があるにも関わらず、論理検証を全くしたがらない現在の認知科学者の方が間違いなく「人間として出来損ない。」であろう。こうしたバカは早急に大学研究機関から排除するべきなのである。
Ende;
無意識機能というのは高速で高機能ではある。しかし、無意識機能というものは論理的思考ではなく、固定観念的な条件反射機能に過ぎない。
ネコを縦縞の世界で育てると横縞を認識することができなくなるという。ヒトにおいても成育環境によっては色彩の識別能力に違いが生ずるように、無意識機能というのはあくまで成育環境に依存したものである。
しかし無意識的認知能力の違いがあったとしても、論理的思考自体とは無関係である。
学習障害というのは、同じ成育環境であっても無意識的認知機能が他の個体と比較して発達に障害があることである。
学習障害があると論理的な話を理解しづらいのは確かであるが、逆に学習障害がないとしても、必ずしも自発的論理検証を行うことの論証にはならない。振り込め詐欺師や天下り役人というのは学習障害は特にないからである。通り魔にもテロリストにも学習障害などない。
認知科学者達は、経験則に依存した無意識的条件反射能力の高さというものを、あたかも絶対的な人間としての価値であるかのように論じたがるが。これは実際には「生物的なヒトとしての生存価。」を論じているだけであって、自律的な論理検証による社会的責任判断能力、「人間としての社会的存在価値。」を論じたものではない。
鳥類は視覚認知識別能力が非常に高いが、論理的な行動選択ができるわけではない。無意識的識別能力というものが論理的思考による分別を促すものではなく。錯覚というものは無意識的な視覚認知能力によって作り出されるものであり、錯覚を錯覚であると認識できるのは意識による論理的判断によるものであって。一面的な視覚認知能力の高さだけを取り上げても無意識機能が論理的思考を促す論証には全くならない。
学力というものはそもそも論理的に本質的知能を測る基準ではなく、便宜的に生徒を選別するために作られた基準でしかなく。これは人間としての社会的存在価値とは無関係であり。学習障害や世間的損得に意識を奪われ思考停止に陥っている時点で科学的論理思考の欠落を意味する。
認知科学者達の論理検証性の欠落にも見られるように、「学力=本質的知能。」ではないことは明らかである。地下鉄毒ガステロを行った者達も学力だけは高かったことを忘れるべきではない。いうなれば毒ガステロに東大が加担したようなものであり、これを教訓として再発防止に役立てるためには、学力=知能という短絡的で論理検証性のない固定観念を捨てることは、大学の社会的責任として最低限必要なものである。
人間としての社会的存在価値とは、学力成績や学歴といった評価でもなければ、多数大衆迎合による世間的金儲けとも無関係であり。あくまで当人の自律的な社会的責任判断能力のことである。
一面的に学習障害のある人が社会的責任を負えないからといって、短絡的に学習障害がなければ良いというようなものでもなく。学習障害がなくても社会的責任を自律的に負えなければ本質的には知能とは言うことができないのである。
無意識的認知能力がありさえすれば自律的社会的責任を果たすことの論証にはならない。
社会安全性という最も社会的に重要なものを高めるためにも、現在の認知科学者達のヨタ話にツッコミを入れるのは社会的責務というものである。
東大の学長が「全てを疑え。」と論じていながら、現在の認知科学に誰もツッコミを入れないのは。教師も生徒も烏合の衆に過ぎないからである。
医学上における学習障害の有無と本質的知能の有無を識別しないというのは、社会安全性を無視した極めて限定的な一面的な価値しか持ち得ない。たとえ学習障害のメカニズム解明ができたとしても、「人間としての社会的責任判断能力。」を無視した身勝手な知能論を振り回すというのは、意識狭窄で無責任というものである。
自律的な論理的思考と、それに伴う批判精神を伴うから科学というものの存在価値があるのであり。これを無視して「環境依存的な無意識機能こそが人間としての価値である。」という実証不能の観念を振り回すのはオカルト以外の何物でもない。
論理的検証を経ていない学力基準だの世間的な損得勘定を基準に、本質的な人間としての社会的存在価値を無視するというのはあまりに無責任であり現在の認知科学界は根本的に脱構築する必要性がある。バカ教師に迎合するだけのバカ生徒の群れでは、学問としての社会的責務を全く果たすことができないからである。
ヒトという種の生物は、目先の損得という本能的欲望だの既存の価値観に基づく固定観念といったものによって論理思考を簡単に失う性質/習性がある。これらの無意識性から脱構築するためには本質的な自発性による、多数や権威からの評価報酬に左右されない純粋な疑問/論理検証というものが不可欠である。
「テストの花道。」的に「成績が上がってうれしい。」というのは、あくまで環境依存的な結果的快楽のことであり。本質的には自発性ではなく、何ら自律的論理検証である本質的意識を育てることにはならない。「やる気スイッチ。」なるものを他者から励起されている時点で既に本質的自発性は存在していないのである。
秋葉原の通り魔の学生時代の学力の高さも、環境依存的な結果的なものでしかなく。故に環境によっては何ら合理性のない通り魔にしかなれないのである。破壊的な反社会的行動というものには合理性というものが存在しないのである。本質的合理性を追求すれば、その場限りの時代や社会に迎合して得をしたり気分的に満足することではなく。時代や社会に左右されずに社会の持続可能性を求める行動選択を自律的に行うことである。
科学的理論の多くは、過去の知的資産の上に成り立つものであるが。こと「意識。」に関してはこの限りではない。
むしろ従来の文系観念に基づく論理性の欠落の多くを破棄することが必要なのである。固定観念的に過去の知的資産を保守しておけば統一的な科学理論が体系化できると「思った。」ら大間違いである。東大の学長ではないが「全てを疑え。」ということである。単位だの教授の顔色といった観念を全て棄てる「意思。」なくして学問としての社会的責務は果たすことができないのである。
○論理検証なくして批判精神は働かない。
短期的目先の利益/効用といったものの追求は、結果的に長期的持続可能性を破壊することになる。
経済学における短期的目先の利益/効用の追求とは、利己的利益の追求だけに意識を狭窄化させる効果がある。
一人の有限の意識における長期的持続可能性の追求というものは、必ずしも絶対的に長期的持続可能性に貢献する保証もなければ、世間的な評価報酬に結び付く保障もない。
自律的な論理検証というのは社会安全性の礎であり、社会的責任判断の源である。多くのヒトはこれを全く行わず、権威者の促すことを何ら自律的には検証せずに鵜呑みにし、何も「考え。」ていない。これがヒトという種の生物の愚かさの根源である。
自律的な社会的責任判断と論理検証性は人間の価値として一体であり、不可分である。
論理検証やそれに伴う批判精神を持っても、短期的には世間的見返りというものはない。場合によっては世間的には排除の対象にされたり、無視されたりすることも少なくはない。それでも社会的責任を負うことの意義とは、より長期的な価値観に基づいた自己存在の意義である。
自律的社会的責任判断が現時点において利己的欲望(ヒトという種の生物本能的効用)に結び付かないとしても、より普遍性のある価値観に基づいた判断(人間としての責任)によって本質的「心の平穏。」を得ることこそが「人間として。」の自己存在意義なのである。
こうした本質的な「心の平穏。」というものは、必ずしも気分的な絶対的安心をもたらすものではない。多数他者や権威に対する批判をすれば、予め本能的に組み込まれた気分的には何ら満足を得ることは出来ず、むしろ気分的には嫌な思いをする可能性も非常に高い。
自律的な社会的責任判断というものを、多くのヒトは特定の技術者などだけに丸投げしておけば自分は無責任でも構わないと勝手に錯覚している。放送大学でも「技術者倫理。」などと称して倫理は技術者だけに丸投げしておけば良いかの如く論じたがる。
原発や航空機のような大事故につながるような技術者にも倫理性が必要ではあるが、倫理というものは技術者に限らずあらゆる人にとって必要なものである。技術者ではなく経営者だからといって技術者に社会的倫理に反する命令を下しても良い論拠になどならないからである。
お惣菜屋なら食品衛生に責任を負わなければならないし、トラック運転手であれば交通安全に責任を負うのである。それなら社会に関わるあらゆる行動の全ては一種の技術者であるとも言える。
ところが証券取引などにおいては社会的責任というものが全く働かなくなるのは、目的自体が社会貢献ではなく利己的欲望であるからだ。
企業は社会のものである。故に社会的責任と貢献が目的でなければならない。それが証券取引においては突然無責任な欲望追求だけになってしまうのである。
そもそも証券取引に社会的責任選択だの倫理を説いた者がいるであろうか。これは暗黙にタブーだからである。しかし論理的にタブーであることの論証など全く存在せず、ただ雰囲気的/無意識的/空気的にタブーだと思い込んでいるだけに過ぎない。
誰も説かないことを論ずると、感覚的な共通認識にならないため、逆にこれを錯覚であると錯覚するのである。
多くのヒトは勉強といえば「教わったことを鵜呑みにし、正確に答えられるようにしておくこと。」であると錯覚している。これは一種の無意識的行動「学習。」として観念的に刷り込まれた行動であり、これが特定権威者に対する論理検証性の喪失を招き、同時に批判精神も失うことに陥るのである。
アイヒマン実験の場合は命令に対するヒトの服従性が検証されているが。明確に命令という形でなくても、権威者に対する質問の答えについても論理検証をしなくなる性質というものもある。
子供は親大人に対して無条件に服従することが要求されるものであるが、これはあくまで論理的理解が伴わない事による便宜的措置に過ぎない。一個の責任ある人間としては権威者の促す思考誘導に簡単に乗らず、自己自身で自律的に論理検証を行い、論理検証に伴う批判精神を持つことが必要である。
それこそ「勉強会。」という形式を採る場合、教わることだけを目的としたものであると勝手に観念し。教わったことへの論理検証性が簡単に失われてしまうものである。
東大名誉教授 養老孟司の言っていることが論理的でも科学的でもないことを、多くの大衆マスコミは何ら論理検証もせず鵜呑みにしていたという過ちに基づき。この間違いを教訓として「あらゆるものを疑う。」ための論理検証性に基づく批判精神を持たなければならない。
無意識的に肩書に惑わされ、呆然と実証不能の観念を鵜呑みにしているから、謀らずも「他人に迷惑をかける。」ことに陥るのである。これが無意識の持つ暴走性である。私個人がどんなに論理検証による抑制制御を促しても、数の前にはどうにもならない。
天才アインシュタインでもナチスは止められないのである。
異常な暴走を止めるのは、社会を構成する個人の「意識。」次第であり。特定の権威者や救世主ではない。
多くのヒトは、特定の救世主や権威や技術者だけに責任を丸投げしておけば自動的に社会安全性や持続可能性が確立されるものであると勝手に錯覚しがちである。こうした無意識的な無責任さこそが社会を崩壊へと導くのである。
「権威に服従しない社会は崩壊する。」などという実証不能の観念を信じ込んでいれば、ヒトの脳に組み込まれた社会形成習性を満足させておくことができるので、とても「安心。」であろう。
また、心ない権威者にとっては既得権益を保守するためにも無為無策に権威者に服従しておいてもらった方が便利なのである。
ハリウッド映画や時代劇では、特定の英雄だけが世界を救うという構図が、多くの大衆の脳を酔わせることができるために用いられる。わかりやすい悪人を片っ端から殺害しておけば大衆の脳は満足するのである。
アイヒマンのような悪人というのは、実際には普通のヒトの習性として本能的に組み込まれた「仕組み。」によって促されるものであり。特定の悪人だけ暴力によって粛正しておけば再発防止になるというような短絡的なものではない。
こうした短絡的な粛正というのは腐敗した独裁国家においての最も危険な最終解決策であり。これは本能が促す気分的満足によって快楽をもたらすように「出来て。」いるのである。
既に組み込まれた自己の本能のままに無意識に「流され。」ていて自由意思もすったくれもあったものではない。
自発的に論理検証を行うという、現時点における選択可能性こそが脱構築可能性につながるのであり。これこそが本質的意識なのである。
「ゴルフのパターを失敗して損をする。」程度の下らない話を鵜呑みにして、本質的意識の重要性を無視するというのは人間として出来損ないとしか言いようがない。
個人的損得というのは社会安全性や社会の持続可能性とは直接関係がなく、たとえ個人的に損をしてでも社会安全性や持続可能性というものは優先しなくてはならないものなのである。
むしろ、多くのヒトが無意識的に権威者や多数他人に迎合服従しているからこそ、社会安全性や持続可能性を求めることが個人的な損になってしまうのであり。多数の無意識性こそが人類の諸問題の根源なのである。
認知科学上では、経験こそが正しい認識を作り出すと論ずるが。これはいわば無意識的経験則による動物的認知能力万能主義であり、従来の生物学の観念に基づいた取り繕い/言い逃れである。
猫を縦縞の中で育てると横縞を認識できなくなる。これは横縞に対する経験がなければ横縞を認識できないということの証明であるが。経験的に権威に服従していなければ損をしたり嫌な思いをした場合に、権威に機械条件反射的に服従してしまう「行動学習。」というのも経験によって無意識に刷り込まれてしまうものであり。経験というのは全てが正しい認識を作り出すわけではなく、むしろ論理的思考を阻害する固定観念をも作り出すのである。
無意識的な認知能力というのは非常に高速高機能ではあるが、あくまで無意識的な能力であって全てが論理的で正しい認識を作り出すというわけではない。錯覚というものは無意識機能が作り出すものであり、錯覚を錯覚と認識して間違った認識に陥らないようにするのは論理的判断という意識が行う仕事である。
一面的/断片的に無意識の高速高機能を枚挙しても、意識自体の重要性の反証には全くならない。認知科学/脳科学者達は従来の生物学における結果的優位性だけを目的であると言い張る観念を信じ込んでいたことを事後正当化するために、何が何でも無意識機能こそが絶対的に正しいことにしておかないと権威性を失うことになりかねないために取り繕い/言い逃れを繰り返しているのである。
成育環境によって刷り込まれた無意識的固定観念というものが感情的な価値観バイアスを作り出し、これが論理的思考判断というものを阻害する最大の原因である。これを無視して「経験則による無意識こそが正しい認識を作り出す。」などと言い張るのは何ら科学的とは言えない。
もはや書くのも面倒臭いが、制度上民主主義を導入していても民衆がバカであるならバカ主義にしかならないのである。
民主主義制度の場合は権力が分散されており、責任も分散されているため暴走も分散しているだけであって。天下りだの予算の無駄遣いといった小さな暴走は全くなくなっていない。これは個別の責任者の無責任な利己的利益(個人的効用)の追求しかしていないからである。
個別の個人的利益の追求さえしておけば、自動的に統合的社会持続可能性や安全性が確立されるものであるという根拠のない幻想は楽観主義ではなく、単なるバカかオカルトに過ぎない。
楽観的予測というのであれば、多くのヒトが自己自身の自律判断によって社会安全性を優先する行動選択を行うというものであろう。それはバカやオカルトを多くのヒトがそれと認識することが大前提であり、現時点においてこうした楽観的予測は全く成り立たない。
よって現時点では悲観的予測しか成り立たない。
瞑想というものは仏教における修行の一つであるが、今の真言宗における瞑想の方法論が釈迦の論ずる瞑想と同じである論証はない。釈迦が勧めた瞑想というのは論理的思考のためのものであるが、真言宗の座禅瞑想というものが論理的思考を促すものである論証はなく、ただ単に気分的に楽になるというだけのものでしかなく。これが釈迦の論じた瞑想と同じものであるとは考え難い。
釈迦の論じた修行というのは、あくまで自発的に行われるものであり。決して「これさえやっときゃ。」的な短絡的方法論ではなく、個人それぞれに全く異なるものである。従って座禅のように形式的で短絡的瞑想というものは釈迦が勧めた瞑想と同じであるとはとても考えられない。
仏教教典における修行のバリエーションというのは、修行というものが個人それぞれに全く異なることを示したものであり、あくまで主体的自主性によって行われていることが重要なのである。仏教教典における修行というのは、全て修行者自身が自主的に選択したものであり。決して座禅のように形式的で強制性を伴うものではない。
主体的自主性を持った本質的純粋行為こそが個人にとって最も集中力をもたらし、これが個人にとって最も脳を育てるのである。これは千住鎮男の教育方法論やオランダなどの北欧諸国の教育法とも整合性がある。日本が文化的に欠落しているのは、こうした本質的自発性を重んじることであり。「文化。」的に観念を温存/連鎖して「しまう。」のは、これが無意識的な強迫観念によるものであるからだ。
ヒトはそれぞれ異なったものである。違うことこそが本来であるにも関わらず、ヒトの多く/衆生というのは他者との差異を異常に忌み嫌い排除や差別をしたり、迎合服従して自主性というものを蔑ろにしてしまうのである。
これが本能的な社会形成習性によって促されるのである。多数他者や、それによって認証された権威者に服従迎合しておけば気分的には安心なのである。これが本能の促す行動「結果。」というものである。
認知科学者を含む生物学者達のほとんど全員というのは、本能的行動の「結果。」を事後正当化することしか頭にない。それが従来の生物学の観念を温存し、体制維持になり、権威性を温存することになるからである。
言わずもがなこれは利己的欲望/本能的な目先の安心だけが目的である。
短絡的で愚かな大衆マスコミにとっても、既に存在している自分を事後正当化できる「無意識論。」というのは気分を良くさせることができ、論理的理解を求めず従来の文系観念に寄り添うことができるため。とても簡単に蔓延させることが可能なのである。
従来の日本における無意識的経験則に基づく多数迎合性の放置というのは、子供自身には全くイジメを無くすことができない。日本式の無意識的な「社会性。」教育では自律的な行動選択というものは全く養われず、漫然と「イジメはなくならない。」などという諦観に基づいた無能の連鎖を繰り返すだけである。
イジメといった排除や差別意識(無意識)というものをなくし、個人の純粋な意欲というものを育むためには。本質的意識を重視した教育が必須である。差別や排除をしないといった「人間として。」最低限の条件というものは、意識という自発的で論理的思考なくして実現不可能なのである。
従来の生物学上の観念を正当化しておくということは、日本人の無能さの放置、無為無策の放任にしかならない。
利己的な認知科学者達にとって、こうした社会的損失には全く意識が働いていないのである。
差別や排除を克服できずに「絆。」もすったくれもあったものではない。そもそも現在の認知科学者の言い分を要約すれば、「学習障害=人間として出来損ない。」という方程式に基づいた差別意識(無意識)が根底にある。学習障害もなければ論理的思考能力があるにも関わらず、論理検証を全くしたがらない現在の認知科学者の方が間違いなく「人間として出来損ない。」であろう。こうしたバカは早急に大学研究機関から排除するべきなのである。
Ende;