書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

冷蔵庫がヤバイ

2020年08月11日 21時30分13秒 | 日記

去年の猛暑で近所の冷蔵庫が軒並み壊れまくっていたので

猛暑の日には冷蔵庫の放熱部分(側面)を扇風機で強制空冷にしてるんだけど

「強風」でも熱が凄くて壊れるかと思った

夕飯に冷凍餃子を取り出したら あんまり凍ってなくて溶けかかっててビビった

慌てて冷蔵庫の側面を軽く絞った濡れタオルで拭きまくったわ

冷蔵庫壊れたら結構な出費になるぞえ

凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹

フェイスシールドのおでこ部分をアイスノンにしたら冷たくて気持ち良さそうだが

結露してタラタラ水が滴ってくるんだろうな

結露給水テープ貼っときゃ良いのか

凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹

また今年も冷却ヘルメットの記事がランクインしとるが ヘルメットの中の緩衝材を引っ剥がしてアイスノンを詰めといたら即席冷却ヘルメットにはなりそう

違法なのかも知れないけど

もしかすると意外と合法なのかも知れない

どうやって調べりゃ良いんだ?

 

Ende;

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主観に意味はない

2020年08月10日 13時05分00秒 | 意識論関連
因果律に対しての道徳律をカントは提唱したが 天体の動きと道徳とは何の関連性もないものであって 天体と倫理を結びつけて満足しているのはファンタジー以外の何物でもない

エマヌエル:カントの時代には天体の動きは秩序立って正確に動いているものだと思われていたが 実際には太陽ですら2つの大質量惑星に引っ張られてフラフラと不規則に振り回されているのであり また決して永久不変のものでもなく 時には巨大隕石の衝突による大惨事も招くこともある

天体もまた因果律に支配されているのであって カントが「叡智界」などという実証不能の謎のファンタジーで陶酔して論理検証性を逸脱したことも ヒトという種の生物の先天的本能習性に則った因果律に過ぎないのである

夜空の星々に対して主観的に「美しい」と感じたとしても それは主観的感覚を述べているに過ぎず 論理客観的な安全性の論証にも 倫理や人間性の論証にも全くならない



社会安全性を求めているのは人間であって 神の有無とは無関係である

神の有無に関わらず 自律的に社会的責任判断選択を行うのは ヒトが結果的に獲得した現時点における選択可能性の中にある

「悪いこと」と一言で言っても サバイヴァーズギルトのような観念的罪悪感もあれば 気分的には何の罪悪感も持たない無責任な行動もある

カントの言う道徳律というのは観念に従うことを意味するのであって 主観的に罪悪感が伴わなければ自律的に論理検証をしなくなり 平気で無責任な行動でも採ることが可能な危険なものである



因果関係を知ることによって 論理的に検証して目的行動を選択することが 「人間」にはできる

「人間」にはできるが 「ヒト」でありさえすれば万人ができるというようなものではない

だからこそ犯罪だの紛争だの暴動だの非人道的な独裁が起きるのである

本当に大切なものというのは 個体の生存価に適するだけの合理性ではなく 自己が存在し続けるに価する社会への選択であり これが人間性や倫理の本質である

因果関係を知ることが可能なのは 他人から教えられるだけではなく 自ら主体的に「考え」ることが可能だからであり 教えられたことを盲目的に鵜呑みにして知識の量だけひけらかして満足しても 「考え」には全くならない

「考え」とは 主体的で自律的なものであり 多数他人の同意や同調は必要ないが 道徳律という観念では多数派同調や権威への盲目性が必ずしも避けられない

カントの道徳律とは 他者との関わり合いに基づいた論理的根拠のない観念(思い込み)であって 自律的な論理客観的な「考え」とは関係がないばかりか 相反するものですらある

何せヒトの大半はマイケル:サンデルのトロッコ問題には倫理が含まれていないことにすら全く気づかないというバカなので エマヌエル:カントの観念に対しても何の疑問も持たなくても何の不思議もない

バカというのはありきたりなどこにでもいる平凡なものである

ましてやマルクス:ガブリエルの「世界は存在しない」だの「時間は無限に分割すればなくなる」だのといった糞の役にも立たない勝手な決めつけを「新時代の哲学」などと形容しているのは 完全に脳が壊れている

脳が壊れている奴が語る倫理に意味があるわきゃねぇだろ

フリードリヒ:ニーチェなど 語るにも足りない

バカというのは主観的満足さえしておけば全て解決だと勘違いし 論理客観的には社会的に無責任であったとしても その自覚すら持つことはない

梅沢富美男的に「こんな奴は死刑にしちまぇ!」と怒鳴り散らして大衆から人気を集めても それは人間性や倫理に適する論理的根拠には一切ならない

大衆人気によって梅沢がどんなに金儲けが出来たとしても 同じことである

本当に社会安全性を追求するのであれば 「刑罰で解決」とみなすことなく 徹底した論理客観的な原因究明と再発防止策の策定が優先されなければならない

それが気分的に満足感が得られないとしても 不条理であろうと絶望であろうと 社会安全性を優先しない倫理など存在しないのである



ヒトは何かを盲目的に信奉しておいた方が気分的に満足安心することができるが これは同時に自律的に物事を論理客観的に検証することへの恐怖心や忌避も作り出す

見たくないものは見ない方が気分的には安心なのである

だが 自分自身で物事を「考える」というのは自らの内部に存在する愚かさとも向き合わなければならず 気分的に嫌なため ヒトの多くはエタノールやニコチンや勝手な決めつけで脳を麻痺させることに異常執着するばかりである

自らの先天的な欠陥に基づく無意識な本能習性という因果法則に流されることなく 自律的に「どうあるべきか」を考えてこその人間性や倫理であって 哲学というのは個人が主観的に満足するためのものではない

安全性というものは合理的根拠に基づいて確立されるものであって 主観的安心満足で何も考えなくなるからこそ安全性が追求されなくなるのである

それとも何すか 医薬品の安全性承認には合理的根拠は必要ないとでも言うでしょうかね

警察の科学捜査は必要ないとでも言うんでしょうかね

本当の人間性というのは 安全性を優先する理性にしか存在しないんですよ 大半のヒトはその選択可能性を放棄しておいた方が気分的には安心で満足なんでしょうよ

そうやって回避可能性のある危険性をほったらかしておいて 自分が「人災」に巻き込まれてから大騒ぎするだけなら それは「バカ」としか言いようがないんですよ



書いててバカらしくなってきたので今日は終わりだ

バカ相手に何言ってもどうせ理解できないだろうからな

絶望と不条理しか「感じ」ないが そんなものは個人の主観なので どうでも良い話である

社会安全性にとって 個人の主観など どうでも良い話である

主観に意味はない

そもそも私がいちいち説明せんでも 理解可能な内容であるならば各々が自分で考えて思いつけば良い話であって 何でもかんでも「教えてもらえないとわからない」奴なんぞクソの役にも立たん

そんなバカなら主観的には「死ね」としか「思わない」がな



Ende;
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偶然

2020年08月09日 10時52分34秒 | 意識論関連

マッソスポラ菌に感染したセミ

(CNN) 病菌に感染して心と体を操られ、「ゾンビ」と化して仲間の間で感染を拡大させるセミの集団が見つかったとして、米ウェストバージニア大学の研究チームが学会誌に調査結果を発表した。

 

同大学の発表によると、セミに感染する病菌の「マッソスポラ」は、幻覚作用のあるマジックマッシュルームと同じ成分をもち、宿主に感染すると「B級ホラー映画」のような症状を引き起こす。

セミに感染したマッソスポラ菌は、まずセミの生殖器と尾部、腹部を食い落とし、菌の胞子と入れ替える。胞子に入れ替えられた腹部は、徐々に「消しゴムのように摩耗していく」という。

感染したセミは6月にウェストバージニア州で見つかった。マッソスポラ菌に感染したセミの集団が発見されたのは、これで3度目だった。

感染したセミは、体のほぼ3分の1がマッソスポラ菌の胞子に入れ替えられているにもかかわらず、そのまま動き続ける。これには宿主を殺すのではなく、生かし続けて操ることで、胞子を最大限にまき散らそうとする狙いがある。

「感染したセミは、体の3分の1が脱落しているにもかかわらず、まるで何事もなかったように、交尾や飛行などの活動を続ける。これは昆虫を殺す菌としては極めて特異だ」。論文共著者のマシュー・カッソン氏はそう解説する。

ゾンビゼミは繁殖機能を失っているにもかかわらず、
感染を広げる目的で健康なセミと交尾しようとする。

菌がオスのセミを操って、交尾を誘うメスの羽ばたきを真似(まね)させ、寄ってきたオスに感染させることもあるという。

交尾はマッソスポラ菌にとって最も簡単に感染を拡大できる方法だが、感染を広げる方法はほかにもある。

「セミたちは飛び回ったり木の枝の上を歩いたりする際にも胞子をまき散らす」「私たちはこれを、空飛ぶ死のソルトシェーカーと呼んでいる。逆さまにした容器から塩が振ってくるように、胞子がまき散らされる」(カッソン氏)

ただしゾンビゼミ軍団が人間を危険にさらすことはないとカッソン氏は強調する。現時点でセミ全体の個体数に深刻なリスクを生じさせることもなさそうだと推定している。

 

 

 

 →脳を持たない菌類に「狙い」も「目的」もない 「偶然」何かの特異な形質を獲得したとしても それを「偶然だと不思議がっている」のはヒトの主観に過ぎず どんなに低い確率であっても「起きる時は起きる」のであって それを「偶然だけでは説明できない」と述べている時点で既に主観が混入しているのである

主観が混入していれば科学ではない

生物学者も哲学者も主観が混入し過ぎなのである

 

Ende;

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衝撃

2020年08月08日 13時50分37秒 | 意識論関連

遺伝的進化には目的がない以上 先天的形質と同様に先天的本能習性による行動バイアスもまた目的はない

本能習性という欲望は 先天的に決定しているものであって これは選択不可能なのである

ヒトが選択可能性を持っているのは 先天的本能習性(主観)とは別に 客観的論理検証によって より合理性のある目的行動を選択することが可能なのである

可能ではあるが それはあくまで先天的なものではないため 後天的に獲得しなければ発揮することは困難である

 

ヒトという種の生物の先天的な本能習性には様々なものがあり 極めて利己的で身勝手な欲望も存在していれば 自分が属する集団組織への忠誠心や 権威に対する服従盲目性 小さな子供に対する優しさもれば 逆に幼児性愛もある

様々な先天的欲望の中から 統合的に論理客観的な「目的」行動選択をすれば これは自ずから社会安全性や倫理を求めるようになるのである

他人にだけ人間性や倫理を求めていても社会安全性にはつながらないのは当然の話であるから 自らが率先して 主体的 自律的に社会安全性を高める行動を選択することでしか 自己が社会の中で存在し続ける必要性もないのである

次世代に社会をつなぐための行動選択をしないのであれば それは自己が今現在存在し続ける理由もなくなるのである

「ヒトがヒトを殺してはいけない理由」がないのと同時に 「ヒトがヒトを殺す世界で生き続ける理由」もない

ヒトは理由のために生きているわけではなく そもそもヒトは自らの意思で産まれてきたわけではなく

「これからも生き続ける理由」は自ら見つけ出すものであって ルーツだの環境だの神だのといった自己以外の何物かによって先天的に運命付けられているわけではない

既に存在しているだけの自己は それだけでは本質的な自己の論証にはならず 自発的に論理検証し目的行動選択をすることによってはじめて本質的な「意思」や「意識」だと言うことができるのである

 

 ○「衝撃」という陶酔

イマヌエル:カントは「どうせ全部主観じゃねぇか」と言われて衝撃を受けたという

 *:「因果法則も習慣的印象に過ぎない」デイビッド:ヒューム

論理客観的には 認識可能な範囲の中から論理客観的根拠に基づき それが錯覚なのか それとも真実なのかを区別することは一定範囲では可能なのであって 論理的に絶対認識不可能なものが存在する可能性があるからと言って論理客観的事実を区別することまでが全て不可能であるわけではない

ところが カントは「どうせ全部主観だ」という言葉に衝撃を受け 論理客観的根拠を超越した謎の悟性だの純粋統覚だの 謎の叡智界まで持ち出して論理客観性や科学的検証を批判したのである

カントのファンタジーというのは「理性を超越」したのではなく 単に「理性を逸脱」しただけである

 

観念としての「衝撃」とは 主観である

感覚的に「衝撃を受けた」と述べているに過ぎず そんなものは振り込め詐欺の電話の内容に「衝撃を受け」て大金を犯罪者に振り込むのと同じでことである

セーレン:キェルケゴールやジャン:ポール:サルトルを読んでも「衝撃」を「感じる」ことはない

絶望や不条理を「感じて」も それは「衝撃」にはならず むしろ感覚的には嫌な気分にしかなることはなく 澤口俊之は実存主義からは主観的な満足が得られなかったために 哲学を放棄したのである

澤口俊之は論理客観的真理というものが主観的満足感を得られるものだと勝手に勘違いしているのである

澤口俊之は他人の論文を大量にひけらかすことによって 知識の「量」ばかりを自慢して他人からの評価を得ることだけで満足し 脳科学者としての論理検証性すら発揮することが出来ない

そもそも現状の生物学(脳科学は生物学に分類される)というのは 遺伝的進化や生存という結果を あたかも「合理的に選択した目的である」という著しい誤謬を誰も認識していないバカの集団であり バカの集団をハシゴして何も気づかないというバカの典型である

 

本当の実存主義というのは感覚的な衝撃だの満足だのとは無関係である

それに対してフリードリヒ:ニーチェだのイマヌエル:カントを鵜呑みにするバカというのは その内容に「衝撃を受け」ることによって 自発的な論理客観的検証性を喪失し 何の疑いも持たないバカに陥るのである

マイケル:サンデルだのマルクス:ガブリエルだのリチャード:ドーキンスだの養老孟司を読んで鵜呑みにしているバカ共というのは その内容に主観的な「衝撃」を受けることによって論理客観的検証性を喪失しバカみたい(「みたい」というより「バカ」そのものなんだが)に頭ごなしに鵜呑みにするようになるのである

オウム真理教の信者や幹部達も 教祖の説法に「衝撃を受ける」ことによって盲目性を発揮し 何も考えずに教祖の妄想に基づいた命令に唯々諾々と従い暴走破綻に陥ったのである

自己の主観に過ぎぬ観念的な「衝撃」というものを あたかも「先天的に組み込まれた真理を見抜く能力」か何かの働きだと妄想しているからこそ 論理客観的根拠のない実証不能の観念を信じ込んでしまうようになるのである

これこそがヒトという種の生物の先天的な「人間としての欠陥」である

ヒトの多くは「自分には先天的に確実に真実を見抜く能力が備わっているはずだ」という観念に溺れることで満足感を得ることができるという人間としての先天的欠陥が存在しているのである

自粛警察にせよ ヘイトスピーチにせよ 相模原障害者施設虐殺にせよ ナチズムや優生学にせよ 彼らは何らかのキッカケによって「衝撃を受け」 その主観こそが絶対的なものであると錯覚することによって 他人に多大な迷惑をかけるようになるのである

誰が 何に「衝撃を受ける」のかなど 知るよしもない

そんなものは個人的な主観の世界に過ぎず 他人には理解のしようがない勝手な妄想錯覚に過ぎないからである

論理客観的根拠のない妄想ファンタジーが 多くのヒトから人気を得ているとしても それが論理客観的に真実であることの論証には一切ならない

科学は多数決ではないからである

科学を司る哲学も同様である

論理客観的な根拠というものは 安全性に直結するものであり 安全性を優先しない倫理や人間性など有り得ないのである

倫理や人間性について論理客観的に検証出来ない話は哲学ではない

ところが多くのヒトは論理客観的根拠のない話を人間性や倫理の話だと錯覚し 誰も疑わず 検証せず 盲目的に鵜呑みにして満足するだけである

目先の満足ばかりを追求する煩悩まみれのバカは無責任なのだが その自覚すら誰にもない それは誰も論理客観的検証をしていないからである

「考えない」からバカなのであって

バカとは「考えない」ヒトのことを指すのである

主観的にどんなに強く「思って」も 「衝撃を受けて」も むしろそうした主観によってこそ論理客観的検証能力を失い 同時に人間としての倫理も喪失するのである

 

Ende;

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「普通のヒト」

2020年08月05日 12時01分29秒 | 意識論関連

「普通の人」がなぜ過激化するのか<歪んだ正義>(1) -大治朋子(毎日新聞)

スタンフォード監獄実験にせよ スタンレー:ミルグラムによる服従心理実験にせよ これらヒトの危険性というものは特殊な異常者だけが特異に暴力性を発揮するわけではなく そもそもヒトという種の生物は先天的に「暴力を振るえば解決だ」という行動バイアスが存在しているため 環境に依存する形で誰でも異常行動が発揮される可能性がある

民主化デモなどに乗じて暴動に発展してしまうのも普段は「普通の人」として振る舞っている人の中に一定の割合で破壊行為を引き起こす人が存在しているからである

梅沢富美男が「こんな奴は死刑にしちまぇ!」と怒鳴り散らせば多くの「普通の人」から同調や人気を得ることが出来るのは 「普通の人」は刑罰というものが社会安全性にとって具体的合理性が存在していないことなど考えたこともないからである

野生環境下において暴力凶暴性というのは生存にとって有利な行動であり 野生生物の多くは凶暴なのであり 暴力性というものはヒトの社会内部においては合理性がないが 先天的な習性として「暴力で解決だ」という観念(錯覚)が働くことで 実証不能の観念をでっち上げ非合理な「正義」(暴力を解決だとしている時点で論理的には正義ではない)を振り回すようになるのである

 

ヒトは個人の主観的好き嫌いがある

これは不可避であり 「欲望自体を欲することはできない」ことは昔から言われていることである

個人の主観的な好き嫌いというのは論理客観的根拠が伴う必要性がなく 主体的な選択が不可能なものであり これは「人間としての本質的意識」ではない

ヒトというのは誰しもが自分の意思で産まれてきたわけではなく 育ってきた社会や時代といった環境もまた選択不可能なものであって 単に「ヒトという種の生物」でありさえすれば自動的シーケンシャル自然(運命・因果律的)に人間性や倫理が発揮されるわけではない

多くのヒトは 先天的習性や環境依存的に植え付けられた価値観を鵜呑みにし 自発的に論理客観的検証などしたこともないため 環境に依存する形でしか行動が決定しない

平和な環境であればヒトの大半は平和に暮らすことは出来るが 環境が異なれば暴力という非合理な行動をすることも珍しいことではない

そもそも環境に依存した形での「かりそめの平和」でしかないからだ

主観的な好き嫌いでしか行動が決定していなければ 平和な状況なら平和に同調するが 環境が悪くなると 突如として悪い環境に依存して暴力性を発揮するようにもなる

ここには主体的な「考え(客観的論理検証・理性)」が働いていないからである

つまり 理性こそが人間としての意識の本質であって 本能由来の感情や個人的な好き嫌いというのは選択不可能な無意識に過ぎない

とは言え 理性が純粋状態であれば何も「感じる」こともないので これは何も選択することもできない

大脳辺縁系を損傷した人がこれに該当する

大脳辺縁系を損傷していない場合 ヒトの多くは主観的感情として「感じる」ことこそが意識の本質だと錯覚しているので 既存の自己の主観的感覚だけでしか行動が決定することがない

感情は理性より行動優先順位が高いのである

ヒトの意識の9割は無意識と言われているが 罰こそが社会安全性にとって唯一最大の効果的対策だと「思って」いるだけで 罰というものが社会安全性にとって決して合理的有効性が存在しないことを理解しているヒトはほとんどいないことからも ヒトの多くは自発的には何も「考え」てなどいないのである

こうした大衆の無意識性を認識していないからこそ 過激な暴力的犯罪というものが起きる温床となってしまうのである

「一つの大きな事象の影には 無数の小さな事象が隠れている」

これはハインリッヒの法則というもので 危険学や失敗学では基礎的概念である

紛争やテロ 大量殺人などの大きな事象の影には 無数の一般大衆の無意識性が隠れているのであって 事象の規模だけで区別していたのでは重大事象の根源的原因究明までは辿り着くことは出来ない

 

ヒトの多くは「ヒトという種の生物は 人間としては欠陥品である」などと言うと 主観的に嫌な気分に陥り 耳を貸さなくなる

その逆に 「ヒトには先天的に人間性が組み込まれているはずだ」とか「人間は叡智界に属している」などという論理的根拠のない実証不能の観念に酔いしれ 主観的に満足安心さえしておけば 言っている奴を主観的に好きになり 信じ込もうとしたがるのである

エマヌエル:カントの「純粋理性批判」や リチャード:ドーキンスの「利己的な遺伝子」といった話は 論理的思考の苦手な大衆の人気は得られるが 科学的根拠は全くなく 論理的反証の全てを一切無視した「お伽話」にしかなっていないのだが ヒトの多くは多数からの人気さえあれば論理客観的根拠を伴った科学や哲学だと勝手に錯覚するのである

何せカントの「純粋理性批判」というのは 欲望である好奇心や探究心を理性として扱うトンチンカンな批判を展開し 更には理性を超越した悟性だの純粋統覚などといった応用性も実証も不可能な屁理屈によって実証不能の謎の「叡智」なるオカルト観念が結論という 到底哲学とは言えない話を大衆やマスコミは現状の哲学権威に迎合同調する形で鵜呑みにしているという大失態を誰も自覚していない

人間性を伴った人間としての意識とは 様々な感情や価値観の中から統合的に優先されるべきものを主体的(感情に左右されず)に選択する論理客観的検証性(理性)によって行動選択することであり 理性なくして人間性も倫理もヘッタクレもありゃしないのである

論理客観的に検証するというのは 気分的には良くはならないため 主観的満足感が得られない話は多くのヒトは信じようともしない

信じたいかどうかという主観的好き嫌いによって ヒトは論理客観性を簡単に放棄するからである

そもそも主観的好き嫌い自体は主体的自己選択不可能なものであって 意思ですらないことを理解していないから 主観が優先してしまうのである

主観が促す錯覚を錯覚であると認識理解するのは客観的論理検証性(理性)である

主観的好き嫌いを意識の本質だと錯覚しているからこそ 理性が働かなければ主体的な意思や意識ではないことを論理的に理解認識することもできなくなるのである

人間社会にとって最も優先されるべきものは安全性であり 安全性を優先しない倫理など存在しないのである

にも関わらず 論理客観的根拠もないオカルト話を鵜呑みにしていて哲学もスッタクレもあったものではない

安全性というものは論理客観的根拠がなければ保証されないものであって 国土交通省による航空機の安全性検証も 厚生労働省による医薬品認可の厳密さというのも 徹底した検証に基づいて行われなければならないのであり それが哲学になった途端に急に論理客観的厳密さを欠いてしまって良い話にはならない

何か哲学というものを 理論的根拠をすっ飛ばしても構わない聖域か何かと勘違いしているのではないか

そもそも哲学というものを単なる文芸(芸術)と混同しているのではないか

ただの文芸芸術なら主観的好き嫌いだけでも構わないが 哲学というのは論理客観的根拠に基づいた真理の探求であって 主観は二の次でなければならない

人間性の本質とは 社会安全性への配慮が大前提であり どんなに大多数が気分的に満足しようが 人気があろうが 金が儲かろうが それらは人間性の論証には全くならない

人間性というものは 論理客観的に検証すれば誰でも得られるものであって 過去にどのような過ちを犯そうが どんなに悪趣味であろうが関係がない

しかし 子供時代の生育環境が悪いと自発性が育たず 論理客観的に検証することも困難になり 犯罪者に陥りがちな性質がある

刑罰という国家権力を用いた恐怖心によって行動を抑圧しても そもそも自律的な社会的責任判断選択が出来ないことの方が問題なのであり どんなに厳罰化をしても自律のない奴なら「バレなきゃ怖くない」とばかりに平気で犯罪もやらかすし そもそも通り魔のように「自分など死刑になれば良い」などと自暴自棄な観念に陥っていたのでは死刑はむしろ「願ったり叶ったり」にしかならず テロリストの多くも「これさえ実行すれば人類の救済だ」などと勝手に錯覚している相手に刑罰は意味がない

 

 

本当に社会安全性にとって最も必要な行動選択とは何かを考えたことのない人は 目先の懲罰感情を満たすことだけが「解決」だと錯覚している

懲罰とは すなはち暴力であり 動物的な先天的行動バイアス(条件反射)に過ぎず これは意識ではなく無意識である

感情というのは意識ではなく 無意識なのであって 振り込め詐欺に騙されるのも主観的感情の強度程度に左右される形で糞しょうもない嘘でも鵜呑みに出来るようになるのである

エマヌエル:カントの純粋理性批判を 客観的論理検証の苦手な大衆や 現状の「哲学者」として扱われているヒト達が鵜呑みにするのも 「人間は叡智界に属しているのである」などという論理的根拠のないファンタジーで気分的に満足することで 論理客観性を簡単に喪失してしまうからである

社会にとって最も重要なのは安全性である

安全性が担保されていなければ如何なる「業績」も意味がない

安全性とは論理的に担保されるべきものであって 気分的安心とは全く別物であり 大衆の多くがこの区別を出来ないのは 気分的安心満足という主観を意識の本質だと錯覚しているからである

科学や哲学は論理客観的な真理を追求するためのものであり

論理的安全性の根拠が伴わない「叡智界」などというファンタジー妄想に惑わされていては倫理もスッタクレもない

社会安全性を優先しない倫理など存在しないのである

「真理の追求」というのは「本当に安全なのは何なのか」を論理客観的に検証することでもある

にも関わらず「理性を超越した検証も実証も何にも出来ない上に根拠も示さず絶対に知覚出来ない謎の叡智」を根拠に論理客観的検証をすっ飛ばして良い理由になど全くならない

カントの純粋理性批判を「近代哲学の最高峰」などと形容していた哲学界の組織腐敗を 誰も気づくことすら出来なかった頭の悪さを自覚すべきである

 

ヒトは 暴力を発揮すると満足する

興奮して暴力を振るいテストステロンを「消費」するとセロトニンが分泌され副交感神経系に作用することで気分的満足感が得られるという 大脳辺縁系の先天的構造があるからである

こうした構造というのはヒトに限らず脳を持つ様々な生物において普遍的に存在する本能習性であって 機械手続き的な条件反射に過ぎない

機械手続き的条件反射であるということは 自律的な選択可能性が存在しないということでもあり これは人間としての意識ではなく 単なる「ヒト」としての動物的行動バイアスに過ぎず 到底人間としての目的行動選択を行う「意識」とは言えないのである

主観的気分が満足すれば 社会安全性の論証になるわけではない

しかし ヒトの大半は気分的満足や安心さえしておけば安全性の論証か何かと勝手に錯覚する先天的習性があり これこそがヒトという種の生物における先天的な人間としての欠陥である

危険学や失敗学という論理客観的検証において いちいち刑法罰を一時停止させなければ実効的合理性のある原因究明や再発防止につながらないのは ヒトという種の生物の先天的行動バイアス(感情)では合理的行動選択にならないからである

にも関わらず 刑罰という社会制度が温存され続けているのは ヒトという種の生物の先天的行動習性の全てには必然的合理性が存在するはずだという観念が働いているからである

こうした観念というのは 生物の遺伝的進化における結果的な「生存における必然性」だけを抽出することで でっち上げられた遺伝的進化万能論に基づくものである

フランシス:ゴルトンの優生学に対する有効な論理反証が誰も出来ないのも リチャード:ドーキンスによるご都合主義的な仮説に大衆人気があるのも 遺伝的な進化を絶対的に万能なものであるという観念があるからである

生物や その遺伝的進化には目的などない

遺伝的進化というものは「結果的に死ななかった」個体への淘汰に過ぎず 「生存にとって必然性のある形質や行動習性を持った個体だけが生き残った」という結果以上の意味などないのである

遺伝的進化というものは コンピューター上でシミュレーション可能なシーケンシャルなものであって 目的意図が介在する必要性も 必然性も 合理性もないのである

単に大量繁殖して「生き残る」ことだけが目的であるならば人間としての目的意識や合理的行動選択など必要なく ゴキブリか何かで充分なのである

ゴキブリに人間性や倫理は通用しない

大量に繁殖して変異を繰り返し あらゆる薬剤への耐性まで獲得して「生き残る」などの環境に適応能力があれば 死なずに「生き残る」ことにとって有利なのである

生存とは ヒトにおいても結果に過ぎず それは目的ではない

個体の生存を目的にしてしまえば 他人を危険に曝してでも「生き残る」ことも正当化されてしまうことになる

「ヒトは どこから来て どこへ行くのか」という問いかけには意味がない そもそもルーツが何であるかは主体的選択不可能なものであって 選択不可能である時点で現時点での合理的目的行動選択とは無関係なのである

ルーツなんぞにこだわるからこそ「生き残る」ことを目的にしてしまうのであって フランシス:ゴルトンの優生学というのは結果的生存や遺伝的進化には目的があるはずだという生物学上の実証不能の観念に基づいたものである

回避可能な危険性を放置すれば人間性や倫理に適さないが 回避不可能な危険であれば人類が絶滅しても致し方ないのであり 「一つのパンを10人で分け合えば全員死ぬ」からといってパン(資源)を独占してまで生き続けたところで その生き残ったヒトには人間性など存在しないのである

現実社会においては むしろ「10個のパンを一人で独占」しているのであって 過剰な死に対する恐怖心(主観・本能)によって他人を危険に曝しているに過ぎない

誰にも人間性の存在しない社会で「生き残った」ところで それが人間としての存在において意味があるわけではない

それはもはや平気で共食いをするゴキブリと違いなどないからだ

 

 


Ende;

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光学関係のトピック

2020年08月02日 22時04分01秒 | 日記

キヤノンサイエンスラボ for kid's -global canon

キヤノンの子供向け科学教室

球面収差の補正の仕方とかも紹介しているので 写真に興味があれば大人でも楽しめると思う

凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹

キヤノン露光装置50周年サイト -global canon

こっちにも子供向けサイトはあるんだけど Android8.1上のChromeでは動かなかった

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ソニー 開発中の電気自動車 走行の様子を初めて披露 -NHK

ソニーが自動車こさえてたよ

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「実際には、太陽系の共通重心が太陽の中心に重なることはほとんどない」 -ビジネスインサイダー

学校で習った話と違う…

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光を99%吸収 最も黒い深海魚が発見される -NewsWeek Japan

黒いはキモいは【閲覧注意】だよ

ちっちゃい子供に見せたら夢に出て夜中に泣くぞ

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虹色チョコレート -gizmodo

記事では「作り方はわからない」と書いてあるんだけど ファナックの微細加工機で回折格子を作ってシリコン型に反転してからチョコ流したら虹色に光るんじゃないかと思ったことがある

都立産業技術研究所にファナックの微細加工機の時間貸しがあるので 興味があったら試してみてはどうか

出来る保証は何もないが

あ クラウドファンディングで企画通らないかな

そういや展示会でファナックが回折格子のサンプル置いてたけど あれ借りれないのかな

借りれないならファナックでやって欲しいんだが

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関学,右円偏光を発するプラスチックを開発 -オプトロニクス

植物は右円偏光の光で効率良く育つんだとか

なんのこっちゃようわからんが

プラスチックフィルム延伸によって生ずる直線偏光だと効率が落ちるってことなのかしら

 

Ende;

コメント
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