「普通の人」がなぜ過激化するのか<歪んだ正義>(1) -大治朋子(毎日新聞)
スタンフォード監獄実験にせよ スタンレー:ミルグラムによる服従心理実験にせよ これらヒトの危険性というものは特殊な異常者だけが特異に暴力性を発揮するわけではなく そもそもヒトという種の生物は先天的に「暴力を振るえば解決だ」という行動バイアスが存在しているため 環境に依存する形で誰でも異常行動が発揮される可能性がある
民主化デモなどに乗じて暴動に発展してしまうのも普段は「普通の人」として振る舞っている人の中に一定の割合で破壊行為を引き起こす人が存在しているからである
梅沢富美男が「こんな奴は死刑にしちまぇ!」と怒鳴り散らせば多くの「普通の人」から同調や人気を得ることが出来るのは 「普通の人」は刑罰というものが社会安全性にとって具体的合理性が存在していないことなど考えたこともないからである
野生環境下において暴力凶暴性というのは生存にとって有利な行動であり 野生生物の多くは凶暴なのであり 暴力性というものはヒトの社会内部においては合理性がないが 先天的な習性として「暴力で解決だ」という観念(錯覚)が働くことで 実証不能の観念をでっち上げ非合理な「正義」(暴力を解決だとしている時点で論理的には正義ではない)を振り回すようになるのである
ヒトは個人の主観的好き嫌いがある
これは不可避であり 「欲望自体を欲することはできない」ことは昔から言われていることである
個人の主観的な好き嫌いというのは論理客観的根拠が伴う必要性がなく 主体的な選択が不可能なものであり これは「人間としての本質的意識」ではない
ヒトというのは誰しもが自分の意思で産まれてきたわけではなく 育ってきた社会や時代といった環境もまた選択不可能なものであって 単に「ヒトという種の生物」でありさえすれば自動的シーケンシャル自然(運命・因果律的)に人間性や倫理が発揮されるわけではない
多くのヒトは 先天的習性や環境依存的に植え付けられた価値観を鵜呑みにし 自発的に論理客観的検証などしたこともないため 環境に依存する形でしか行動が決定しない
平和な環境であればヒトの大半は平和に暮らすことは出来るが 環境が異なれば暴力という非合理な行動をすることも珍しいことではない
そもそも環境に依存した形での「かりそめの平和」でしかないからだ
主観的な好き嫌いでしか行動が決定していなければ 平和な状況なら平和に同調するが 環境が悪くなると 突如として悪い環境に依存して暴力性を発揮するようにもなる
ここには主体的な「考え(客観的論理検証・理性)」が働いていないからである
つまり 理性こそが人間としての意識の本質であって 本能由来の感情や個人的な好き嫌いというのは選択不可能な無意識に過ぎない
とは言え 理性が純粋状態であれば何も「感じる」こともないので これは何も選択することもできない
大脳辺縁系を損傷した人がこれに該当する
大脳辺縁系を損傷していない場合 ヒトの多くは主観的感情として「感じる」ことこそが意識の本質だと錯覚しているので 既存の自己の主観的感覚だけでしか行動が決定することがない
感情は理性より行動優先順位が高いのである
ヒトの意識の9割は無意識と言われているが 罰こそが社会安全性にとって唯一最大の効果的対策だと「思って」いるだけで 罰というものが社会安全性にとって決して合理的有効性が存在しないことを理解しているヒトはほとんどいないことからも ヒトの多くは自発的には何も「考え」てなどいないのである
こうした大衆の無意識性を認識していないからこそ 過激な暴力的犯罪というものが起きる温床となってしまうのである
「一つの大きな事象の影には 無数の小さな事象が隠れている」
これはハインリッヒの法則というもので 危険学や失敗学では基礎的概念である
紛争やテロ 大量殺人などの大きな事象の影には 無数の一般大衆の無意識性が隠れているのであって 事象の規模だけで区別していたのでは重大事象の根源的原因究明までは辿り着くことは出来ない
ヒトの多くは「ヒトという種の生物は 人間としては欠陥品である」などと言うと 主観的に嫌な気分に陥り 耳を貸さなくなる
その逆に 「ヒトには先天的に人間性が組み込まれているはずだ」とか「人間は叡智界に属している」などという論理的根拠のない実証不能の観念に酔いしれ 主観的に満足安心さえしておけば 言っている奴を主観的に好きになり 信じ込もうとしたがるのである
エマヌエル:カントの「純粋理性批判」や リチャード:ドーキンスの「利己的な遺伝子」といった話は 論理的思考の苦手な大衆の人気は得られるが 科学的根拠は全くなく 論理的反証の全てを一切無視した「お伽話」にしかなっていないのだが ヒトの多くは多数からの人気さえあれば論理客観的根拠を伴った科学や哲学だと勝手に錯覚するのである
何せカントの「純粋理性批判」というのは 欲望である好奇心や探究心を理性として扱うトンチンカンな批判を展開し 更には理性を超越した悟性だの純粋統覚などといった応用性も実証も不可能な屁理屈によって実証不能の謎の「叡智」なるオカルト観念が結論という 到底哲学とは言えない話を大衆やマスコミは現状の哲学権威に迎合同調する形で鵜呑みにしているという大失態を誰も自覚していない
人間性を伴った人間としての意識とは 様々な感情や価値観の中から統合的に優先されるべきものを主体的(感情に左右されず)に選択する論理客観的検証性(理性)によって行動選択することであり 理性なくして人間性も倫理もヘッタクレもありゃしないのである
論理客観的に検証するというのは 気分的には良くはならないため 主観的満足感が得られない話は多くのヒトは信じようともしない
信じたいかどうかという主観的好き嫌いによって ヒトは論理客観性を簡単に放棄するからである
そもそも主観的好き嫌い自体は主体的自己選択不可能なものであって 意思ですらないことを理解していないから 主観が優先してしまうのである
主観が促す錯覚を錯覚であると認識理解するのは客観的論理検証性(理性)である
主観的好き嫌いを意識の本質だと錯覚しているからこそ 理性が働かなければ主体的な意思や意識ではないことを論理的に理解認識することもできなくなるのである
人間社会にとって最も優先されるべきものは安全性であり 安全性を優先しない倫理など存在しないのである
にも関わらず 論理客観的根拠もないオカルト話を鵜呑みにしていて哲学もスッタクレもあったものではない
安全性というものは論理客観的根拠がなければ保証されないものであって 国土交通省による航空機の安全性検証も 厚生労働省による医薬品認可の厳密さというのも 徹底した検証に基づいて行われなければならないのであり それが哲学になった途端に急に論理客観的厳密さを欠いてしまって良い話にはならない
何か哲学というものを 理論的根拠をすっ飛ばしても構わない聖域か何かと勘違いしているのではないか
そもそも哲学というものを単なる文芸(芸術)と混同しているのではないか
ただの文芸芸術なら主観的好き嫌いだけでも構わないが 哲学というのは論理客観的根拠に基づいた真理の探求であって 主観は二の次でなければならない
人間性の本質とは 社会安全性への配慮が大前提であり どんなに大多数が気分的に満足しようが 人気があろうが 金が儲かろうが それらは人間性の論証には全くならない
人間性というものは 論理客観的に検証すれば誰でも得られるものであって 過去にどのような過ちを犯そうが どんなに悪趣味であろうが関係がない
しかし 子供時代の生育環境が悪いと自発性が育たず 論理客観的に検証することも困難になり 犯罪者に陥りがちな性質がある
刑罰という国家権力を用いた恐怖心によって行動を抑圧しても そもそも自律的な社会的責任判断選択が出来ないことの方が問題なのであり どんなに厳罰化をしても自律のない奴なら「バレなきゃ怖くない」とばかりに平気で犯罪もやらかすし そもそも通り魔のように「自分など死刑になれば良い」などと自暴自棄な観念に陥っていたのでは死刑はむしろ「願ったり叶ったり」にしかならず テロリストの多くも「これさえ実行すれば人類の救済だ」などと勝手に錯覚している相手に刑罰は意味がない
本当に社会安全性にとって最も必要な行動選択とは何かを考えたことのない人は 目先の懲罰感情を満たすことだけが「解決」だと錯覚している
懲罰とは すなはち暴力であり 動物的な先天的行動バイアス(条件反射)に過ぎず これは意識ではなく無意識である
感情というのは意識ではなく 無意識なのであって 振り込め詐欺に騙されるのも主観的感情の強度程度に左右される形で糞しょうもない嘘でも鵜呑みに出来るようになるのである
エマヌエル:カントの純粋理性批判を 客観的論理検証の苦手な大衆や 現状の「哲学者」として扱われているヒト達が鵜呑みにするのも 「人間は叡智界に属しているのである」などという論理的根拠のないファンタジーで気分的に満足することで 論理客観性を簡単に喪失してしまうからである
社会にとって最も重要なのは安全性である
安全性が担保されていなければ如何なる「業績」も意味がない
安全性とは論理的に担保されるべきものであって 気分的安心とは全く別物であり 大衆の多くがこの区別を出来ないのは 気分的安心満足という主観を意識の本質だと錯覚しているからである
科学や哲学は論理客観的な真理を追求するためのものであり
論理的安全性の根拠が伴わない「叡智界」などというファンタジー妄想に惑わされていては倫理もスッタクレもない
社会安全性を優先しない倫理など存在しないのである
「真理の追求」というのは「本当に安全なのは何なのか」を論理客観的に検証することでもある
にも関わらず「理性を超越した検証も実証も何にも出来ない上に根拠も示さず絶対に知覚出来ない謎の叡智」を根拠に論理客観的検証をすっ飛ばして良い理由になど全くならない
カントの純粋理性批判を「近代哲学の最高峰」などと形容していた哲学界の組織腐敗を 誰も気づくことすら出来なかった頭の悪さを自覚すべきである
ヒトは 暴力を発揮すると満足する
興奮して暴力を振るいテストステロンを「消費」するとセロトニンが分泌され副交感神経系に作用することで気分的満足感が得られるという 大脳辺縁系の先天的構造があるからである
こうした構造というのはヒトに限らず脳を持つ様々な生物において普遍的に存在する本能習性であって 機械手続き的な条件反射に過ぎない
機械手続き的条件反射であるということは 自律的な選択可能性が存在しないということでもあり これは人間としての意識ではなく 単なる「ヒト」としての動物的行動バイアスに過ぎず 到底人間としての目的行動選択を行う「意識」とは言えないのである
主観的気分が満足すれば 社会安全性の論証になるわけではない
しかし ヒトの大半は気分的満足や安心さえしておけば安全性の論証か何かと勝手に錯覚する先天的習性があり これこそがヒトという種の生物における先天的な人間としての欠陥である
危険学や失敗学という論理客観的検証において いちいち刑法罰を一時停止させなければ実効的合理性のある原因究明や再発防止につながらないのは ヒトという種の生物の先天的行動バイアス(感情)では合理的行動選択にならないからである
にも関わらず 刑罰という社会制度が温存され続けているのは ヒトという種の生物の先天的行動習性の全てには必然的合理性が存在するはずだという観念が働いているからである
こうした観念というのは 生物の遺伝的進化における結果的な「生存における必然性」だけを抽出することで でっち上げられた遺伝的進化万能論に基づくものである
フランシス:ゴルトンの優生学に対する有効な論理反証が誰も出来ないのも リチャード:ドーキンスによるご都合主義的な仮説に大衆人気があるのも 遺伝的な進化を絶対的に万能なものであるという観念があるからである
生物や その遺伝的進化には目的などない
遺伝的進化というものは「結果的に死ななかった」個体への淘汰に過ぎず 「生存にとって必然性のある形質や行動習性を持った個体だけが生き残った」という結果以上の意味などないのである
遺伝的進化というものは コンピューター上でシミュレーション可能なシーケンシャルなものであって 目的意図が介在する必要性も 必然性も 合理性もないのである
単に大量繁殖して「生き残る」ことだけが目的であるならば人間としての目的意識や合理的行動選択など必要なく ゴキブリか何かで充分なのである
ゴキブリに人間性や倫理は通用しない
大量に繁殖して変異を繰り返し あらゆる薬剤への耐性まで獲得して「生き残る」などの環境に適応能力があれば 死なずに「生き残る」ことにとって有利なのである
生存とは ヒトにおいても結果に過ぎず それは目的ではない
個体の生存を目的にしてしまえば 他人を危険に曝してでも「生き残る」ことも正当化されてしまうことになる
「ヒトは どこから来て どこへ行くのか」という問いかけには意味がない そもそもルーツが何であるかは主体的選択不可能なものであって 選択不可能である時点で現時点での合理的目的行動選択とは無関係なのである
ルーツなんぞにこだわるからこそ「生き残る」ことを目的にしてしまうのであって フランシス:ゴルトンの優生学というのは結果的生存や遺伝的進化には目的があるはずだという生物学上の実証不能の観念に基づいたものである
回避可能な危険性を放置すれば人間性や倫理に適さないが 回避不可能な危険であれば人類が絶滅しても致し方ないのであり 「一つのパンを10人で分け合えば全員死ぬ」からといってパン(資源)を独占してまで生き続けたところで その生き残ったヒトには人間性など存在しないのである
現実社会においては むしろ「10個のパンを一人で独占」しているのであって 過剰な死に対する恐怖心(主観・本能)によって他人を危険に曝しているに過ぎない
誰にも人間性の存在しない社会で「生き残った」ところで それが人間としての存在において意味があるわけではない
それはもはや平気で共食いをするゴキブリと違いなどないからだ
Ende;