燕三条にある武田金型製作所で
マジックメタルと称して金属の切り抜き文字の作例があるんだけど
隙間が0.3mmしかないので押し込むと消えて見えなくなるという
これ ちょっとでも錆びたら永久に動かなくなるヤツや
アルカリ性オイルに浸しておくとか
ホカロンで脱酸素した密閉容器に入れとくとか
何かメンテナンスが必要だと思う
https://mobile.twitter.com/godhandtool/status/853055779149979648
Ende;
燕三条にある武田金型製作所で
マジックメタルと称して金属の切り抜き文字の作例があるんだけど
隙間が0.3mmしかないので押し込むと消えて見えなくなるという
これ ちょっとでも錆びたら永久に動かなくなるヤツや
アルカリ性オイルに浸しておくとか
ホカロンで脱酸素した密閉容器に入れとくとか
何かメンテナンスが必要だと思う
https://mobile.twitter.com/godhandtool/status/853055779149979648
Ende;
遺伝的進化というものは「死なずに繁殖を継続」できた変異個体への収斂の結果でしかない
「死なずに繁殖を継続」さえできれば 暴力だろうが嘘だろうが洗脳だろうが封建的序列だろうが統率協調性だろうが何でも構わない
一面的に特定の集団組織内部における利他的行動習性の存在を「立証」したところで それが「自律的な社会的責任判断選択」の立証には全くならない
そもそも先天的本能習性自体が「自律」ではなく 単なる無意識な条件反射や気分感情によって促される行動バイアスに過ぎない上 自分が属する特定の集団組織の利益だけを優先するからこそ「社会的責任」を負わなくなる大きな要因でもある
従って 先天的本能習性で人間性を立証することは構造原理的に最初から不可能なものであり
「ヒトには先天的に人間性が組み込まれているはずだ」などという仮説には何の科学的根拠もない衆愚迎合に過ぎない
衆愚は「自分には先天的な人間性が組み込まれているはずだ」とでも盲目的に信じ込んでいさえすれば安心満足なだけで 論理客観的な科学的根拠なんぞ全く興味がないため 「信じたい話」だけを信じようとする以上の何の「考え」も判断もしないのである
バカの多数決 バカの民主主義なら「バカ主義」にしかならない
Ende;
風疹ワクチンの無料接種が4割にも届いていないため 3年間延長するんだそうな
オイラの世代(50歳台)は無責任なクソヲヤヂが多いもんだから 妊娠可能な世代の事なんかどうでも良いと思っている奴が多いのかも知れない
コロナ禍で病院に行くのが怖いというのもあるかも知れないが オイラは抗体検査で陽性判定されたのでワクチン不要と診断された
妊婦が感染すると胎児に重篤な疾患を生ずることもあるので オイラ世代のクソヲヤヂには強制的に接種しちまった方が良いんじゃねぇかと思う今日この頃である
参考:東京都感染症情報センター
Ende;
環境資源が充分に足りていて ヒトだけの社会であれば共生的行動選択をした方が合理的である
しかし 実際の遺伝的進化過程というものは 限られた環境資源の奪い合いによる生存競争であり 決してヒトだけの社会だけで淘汰収斂による進化プロセスしか働かないわけではない
むしろ生息環境が安定していれば進化は促されずに何億年でもほとんど形質や習性を変えずに存続し 遺伝的進化は促されることはない
遺伝的進化が促されるプロセスというのは 絶滅しない程度の極限環境でこそ生ずるものであり 集団組織的な統率協調性というものは部族間での資源や縄張りの奪い合いによる過酷な生存競争の中で促されたと考える方が自然である
オミクロン株の発生プロセスや 多剤耐性菌の発生プロセスもまた絶滅ギリギリの極限環境でこそ促されるものであり 仲良く助け合いだけで生き延びられるような「ぬるま湯」的環境であれば進化は促されることはない
絶滅ギリギリの強烈な淘汰圧力が働かなければ収斂進化には至らないのである
「ぬるま湯」的な仲良しこよしでも全員生き延びられるような環境なら進化なんぞ生じない
だからこそヒトは ここ数万年ほとんど進化しなくなったのである
ヒト以前の祖先の生息環境下において働いた淘汰圧力による収斂進化の結果として組み込まれた先天的本能習性というものが ヒトの共生社会において全てが合理的に適しているなどという都合の良い構造や過程や理屈は存在しないのである
大衆の多くや バカな生物学者共は遺伝的進化任せにしておけば 目的に合理的な進化にほとんど「成功」するものであるかのように錯覚しているため 「進化で月経の痛みがなくならないのかしら」などというプロセスもメカニズムの根拠も存在しない収斂進化を勝手に妄想するのである
そんな都合の良い進化なんぞ起こらねぇよ
Ende;
限られた集団においては互恵的・共生的行動の方が繁殖の継続において有利に働くとしても
実際の遺伝的進化というものは自然界における生存競争が介入するのであって 限られた環境資源を奪い合う上においては互恵的・共生的である必要性はない
特定の集団組織 例えば「部族」などにおいて 他の部族から土地(縄張り)などの環境資源を奪い合う際にも 部族集団内部での統率的協調性は有利に働くものである
他の部族との共生や利益の調停など考慮に入れず 一方的に環境資源を独占した方が一時的な繁殖においては有利に働くのである
また 統率協調性というものは あくまで封建的な順位序列による服従忖度性によって促される盲目的なものであり 個人の主体的な考えに基づく他部族への配慮や共生性は必ずしも持続可能性に供しない
たとえば 天候不良などの急激な環境資源の枯渇が起きた場合には 限られた環境資源を暴力的に奪い合う能力が高い部族集団の方が生き残りには有利になる
自然界というのは あくまで過酷な生存競争であり 限られた環境資源を暴力などの「力」で奪う能力の方が有利に働くのである
ヒトという種の生物は その集団統率的な協調性によって 大きな「力」を発揮することが可能であるものの それは自然界における過酷な生存競争においては暴力的支配の方が有利に働くことになる
実際に文明から隔絶された土着の民族では 部族同士の争いは絶えることなく 紛争による死亡率は年間1%に達する
年間「1%」というと大した数字ではないような錯覚を促すが 50年生きていれば1/2の確率で紛争で殺されるのである
文明から隔絶されていれば武器にさしたる違いはないので 部族間相互のパワーバランスによって不必要なまでに相手を殲滅駆逐するための損失は必ずしも利得を上回らないために 年間1%程度の犠牲で済んでいるものの
一旦銃や爆弾を手に入れてしまえば大量殺戮が簡単にできるようになるため 殲滅駆逐の相互暴走を招くことにもなるのである
銃や爆弾といった「道具」が問題なのではなく そもそもヒトというのは過酷な自然環境下における生存競争において殺し合いや奪い合いによって生き残った生物の末裔として 先天的本能習性としての封建的服従統率性(生物学上の「社会性」)が組み込まれているのであって 「大量殺戮兵器の開発」という急激な環境変化に適応できなかったからこそ 一方の武器が枯渇するまで殺戮の激化に歯止めがかからなかったのである
なぜ未だにミャンマーのような非武装民衆への弾圧や虐殺が起きるのかと言えば 軍隊という封建的な絶対服従統率を旨とした集団組織を構成する兵隊個人に自律的な社会的責任判断選択の「意思」や「意識」が働かないからである
兵隊は自分で物事を判断したりはしないし 行動責任も負わない
これは日本大学の組織腐敗や 原発事故の原因も同じである
学生や企業でのイジメも同様である
略奪独占の言い訳に良く引き合いに出される話に 「一つのパンを十人で分け合えば全員死ぬ」という理屈があるが 現実の世界は十個のパンを一人で独占している」のが真実である
本当なら分け合えば充分に足りるものを 先天的な遺伝子レベルに組み込まれた貧乏性を発揮して独占するための略奪を正当化するから社会持続可能性が崩壊するのである
日光いろは坂のニホンザルに餌を与えてはいけないという
なぜなら 一度餌を与えてしまうと 与えられることが当たり前になり ヒトに危害を加えてまで略奪をするようになるからだ
最初から餌など与えなければニホンザルは略奪などしないのだが いわば「環境に適応する」形で略奪をするようになるのである
自然界においては 環境資源が豊富な程凶暴な生物への収斂が生じるものであり ヒトもまた農耕技術を獲得したことで環境資源を豊かに出来たが故に暇を持て余して侵略や略奪紛争を拡大を招いたのである
農耕技術の開発というのは 本来なら分け与えるて共生することにも応用可能な「豊かさ」をもたらすはずのものだが ヒトという種の生物が持つ先天的な遺伝子レベルの貧乏性によって必要以上の奪い合いに発展してしまうことに陥るのである
軍備にかかる経費を 貧困対策に充てれば 貧困なんぞ一気に解消する
客観的に見れば 無駄な相互威嚇のために弱者を切り捨てているのである
「国益」と称して資源や技術の奪い合いばかりに囚われ 地球全体の利益への配慮が蔑ろにされているのである
個人において 他人との比較による劣等感から 茫漠とした社会への報復感情を勝手に抱いて無差別殺人に暴走する事例があるが
これは国家レベルにおいても同じことが言える
独裁国家というのは 国家レベルでの劣等感から武力威圧による優位性を妄想することで無駄な軍拡競争に陥っているのであり
国家であろうとも 結局は国家という集団組織を形成している個人の意識の低さの反映に過ぎず 意識がないから武力威圧(懲罰的報復)が目的にすり替わってしまうのである
中野信子が「頭が良い」とみなす基準は「金儲けに長けている」かどうかである
金儲けという利己的能力を人間としての価値であるかのようにしておけば 衆愚からの人気を得ることは簡単である
金銭的な豊かさというものは人間としての価値基準には全くならず 独裁者であろうと略奪者であろうとペテン師であろうと金銭的には豊かにはなれるのである
人間としての基準とは 自律的な社会的責任判断選択が行えるのかどうかであって 金儲けは人間性の論拠には全くならない
自律的な社会的責任判断選択をしたからといって 衆愚から人気を集められるわけでも 金儲けに成功するわけでもない
原発の津波に対する危険性を回避したところで それは東京電力という組織の利益にはならず 社会的には「当たり前のこと」をしたまでである
その「当たり前のこと」を放棄したのは 「組織の利益を優先し 組織内部での地位権益を保守するという利己的利益も保守したから」である
自分が属する組織集団にとって有利になる行動選択をしておけば 自分が属する集団組織の利益や優位性にもなる
だから 組織に属する個人は集団組織にとって有利になる行動選択をするようになるのであり それこそが社会全体の利益に対する責任判断選択を放棄する動機ともなるのである
衆愚というのは利己的利益追求を社会的な悪だと認識しながらも 自分の利益追求に関しては無罪だと「思って」いる
だから中野信子は衆愚人気が得られるのである
逆に 利己的利益よりも むしろ社会的には不利になり得る可能性もある自律的な社会的責任判断選択こそを人間性の論証だと言えば 衆愚のご機嫌を損ねて人気を失うのは必然的結果である
衆愚は何の責任も負うつもりはない
何の責任も負うつもりがないから「衆愚」なのである
「衆愚」の人気取りや多数決で物事が決定しているからこそ 社会の諸問題は一向に解決しないのである
衆愚が求めているのは 主観的な安心満足だけであって 論理客観的な社会安全性や公平性ではない
だからこそ優生学などというオカルト観念に対する論理反証が全く周知されないのである
自分を優秀な存在だとみなすためには 誰かを劣った存在だとみなしておく必要性に駆られ 弱者を差別排除するためには優生学は都合が良いから遺伝的進化を万能だとみなしておかなければならないのである
これらの「みなし」は論理的根拠がなく ただの衆愚妄想・大衆観念に過ぎず 衆愚の主観的気分を安心満足させるだけであって むしろ「ヒトという種の生物の先天的危険性や欠陥」を無視させる無責任で卑劣なものである
Ende;
遺伝的進化というものは生存と繁殖の継続に適応した個体種の結果だけであり 繁殖の継続さえ達成されれば如何なる「手口」も赦される
寄生であろうと暴力であろうと嘘でも何でもアリなのが生存競争であり 特定条件環境下における断片的な利他行動や道徳性はヒトという種の生物の先天的人間性の論証には全くならない
道徳における「罰すれば赦される」とか「禊(みそぎ)」の概念には合理性が伴わない
赦す赦さないというのは主観であって 道徳というのは個人の主観的な感覚についての「感想」でしかなく 論理的な人間性の論証にはならない
ヒトという種の生物は先天的には公平や平等を嫌う性質があり 神だの王だの教祖だの権威に忖度服従して気に入られようと「甘え」ることで安心する習性がある
道徳の観点からは 多数迎合こそが「正しい」ことであり 少数異端を排除することは正当化されることにしかならない
道徳における尊厳とは 順位序列を受け入れ 多数派に同調迎合することでしかないのである
兵隊の道徳は「上官の命令に絶対服従すること」であり 「自律的な社会的責任判断をすること」ではない
兵隊は上官に逆らうことは「許されない」から逆らわないのであり 罰を恐れる恐怖心から条件反射的無意識に命令に従うのである
従って道徳というものは人間性とは無関係な主観的安心満足を論じているに過ぎない
人間性とは 論理客観的な根拠を伴う安全性や公平性に基づいた判断であって 先天的本能習性に無意識に流されることのない主体的行動選択によって促されるものである
自律なくして人間性を論ずることはできないのであり 「先天的道徳性」なんぞが人間性の論証になどなるわけがないのである
先天的行動習性というものは 複雑な条件反射に過ぎず 意識の本質とは無関係なバイアス(偏り)に過ぎず 到底「適応的」な合理的行動を促すものではない
特定の環境条件下において適応的に進化が促された行動習性だとしても それは環境条件が違う場合には適応できなくなるものでもある
意識とは 環境条件の違いや変化に対して柔軟に対応するために備わったものであり 先天的本能習性という行動バイアス(偏り)は 本質的な人間としての意識とは言えないのである
ヒトの多くは犯罪者に対して報復的懲罰を加えて満足しようとするが これは犯罪に対する合理的な再発防止にはつながらず 結果的に犯罪の再発を傍観放置するという非合理な行動選択を促すものでもある
単なる許容的な「赦し」が道徳的であると言うのであれば 再発防止を優先する犯罪被害者の願いは道徳とは無関係である
主観的な「赦す 赦さない」が再発防止などの「解決」につながるわけではなく 具体的に実効性のある合理的対策にまで言及してこその「人間としての意識(人間性)」だと言えるのである
被害者が加害者を赦そうが赦すまいが そんなことはどうでも良い話であり 被害者側の個人的感想の一面に過ぎない
犯罪や事故の再発防止のための 合理的根拠を伴った「本当の解決」を見極め識別する理性なくして人間性を論ずることは出来ない
「進化的ゲーム理論」というのは予めプログラミングされた条件反射的行動選択だけで道徳性の印象を勝手に妄想しているに過ぎず 行動バイアス(偏り)という条件反射で人間性を論証しようとすること自体が根本的に間違っているのである
行動の「偏り」だけでは何の進歩もなく 知能とは到底言うことはできない
様々な環境条件に適応できる知能なくして人間性もヘッタクレもあったものではない
条件反射的な無意識行動だけで人間性を論証しようなどという時点で発想がバカ過ぎてお話にならない
「赦したから人間性」であることの論拠には全くならない
衆愚の大多数は「ヒトという種の生物には先天的に道徳性が組み込まれている」とでも信じ込んでいれば安心満足感が得られるであろうが
それは現実に起きている虐殺や犯罪などのヒトの暴力性から目を背ける現実逃避であり ヒトという種の生物が持つ危険性を無視した身勝手な「お花畑」である
先天的本能習性というものは常にシーケンシャルな条件反射であり また 主体的選択可能性のないものであり 遺伝的進化という自然現象の「結果」以上の意味を持たない
「欲望そのものを欲することはできない」のであり 先天的本能習性の全ては本質的な選択可能性を持たない機械的シーケンシャルな条件反射である
ヒトは「信じたいものだけを信じようとする」先天的性質があり これもまた選択不可能な思考バイアス(偏り)に他ならない
主観的に信じたいものだけを信じて安心満足しているだけなら これはもはや振り込め詐欺に唆されて喜んで金を振り込む「カモの正義」でしかあるまい
スタンレー:ミルグラムによる服従心理実験が ヒトの盲目的権威服従性を「立証可能」なのは それが実験室という特定条件環境下であるが故にシーケンシャルに「立証可能」なのであり これは同時に服従心理実験環境下において被験者の大半は自律的な社会的責任判断選択を行わないことをも「立証」しているのである
繰り返すが ヒトは環境条件によっては簡単に自律的な社会的責任判断選択をしなくなるという 人間性としての欠陥も同時に立証しているのである
実験室という特定環境下における行動なら 利他的行動も抽出可能であるが 実験室で利他的行動を抽出してもヒトが常に自律的な社会的責任判断選択を行うことの立証にはならぬ上
服従心理実験環境下においてはむしろ自律的な社会的責任判断選択を放棄することが立証されているのである
実験室などの特定環境下の行動からは自律的な社会的責任判断選択を常に行わないことが「立証」されている以上 ヒトの先天的行動習性からは「人間性の反証」しかされていないのである
もっと単純に考えて もしヒトという種の生物に先天的な人間性が組み込まれているのだとすれば 独裁的腐敗組織体制による虐殺や差別弾圧が起きることへの説明が一切つかないのである
利他的だの協力的だのといった行動を抽出しても それは集団組織内部における統率協調性の立証にはなっても むしろ統率協調性こそが盲目性を発揮させ独裁腐敗組織の温存や虐殺の根源的要因として働いているのである
ヒトという種の生物は 別に「人間性」を目的として進化したわけではなく あくまでヒトという種の生物において結果的に「人間性」を発揮すること「も」可能になったというだけの話に過ぎず
「ヒトという種の生物でありさえすれば自動的自然に常に人間性が発揮される」ような都合の良い衆愚が望むような「お花畑」的現実逃避の論拠にはならない
ある環境では利他的行動を採ったとしても 環境が変わったら虐殺をするのであれば これは人間性の論証どころか むしろ反証にしかならない
人間性とは何かと言えば 環境条件に左右されることなく 「自律」的に社会的責任判断選択を行う「本質的意識(自己客観性を持った論理検証性)」に拠るものであり これはヒトという種の生物の先天的本能習性とは全く別のものであり
むしろ先天的本能習性こそが個人の「自律」性を喪失させてしまう最も大きな要因であり
「自律」的な社会的責任判断選択を行う上においては主観的気分が悪くなる判断選択も行わなかればならないものでもある
衆愚がナチズムに傾倒している環境においてナチス政権に反対を表明することも
東京電力社内において原発の津波に対する脆弱性を主張することも
暴力的な生徒による集団的なイジメを諌めることも
決して主観的安心満足感が得られるようなものではない
人間としての社会的責任判断選択というものは 必ずしも主観的に気分が良くなるとか 利益になるような保証のない判断である
先天的本能習性という行動バイアス(偏り)というものは あくまで大脳辺縁系が気持ちよくなる安心満足への偏りによって促されるものであって 自律的な社会的責任判断選択を抑制することはあっても 促すことはないものである
イジメを止めることで自分がイジメの標的にされる「恐怖」に抗うことが 「自律的な社会的責任判断選択」には求められるのであり これは先天的行動バイアスで促されるようなものではないばかりか むしろ積極的に自律判断を放棄する方向にしか働くことはない
日本大学における組織腐敗が傍観放置温存されたのも その内部において左遷される「恐怖」心という先天的行動バイアスが働いていたからであり 本能習性こそが個人の自律的な社会的責任判断選択を放棄させ続けた根本原因でもある
ミャンマー政府軍兵士による民衆弾圧や虐殺も 軍隊内部における恐怖心こそが暴力的独裁を支えているのである
何でこんな簡単な理屈が理解できないのか よっぽど頭の悪いバカしかいないとしか考えられない
Ende;
ヒトもイヌも哺乳類であるため 産まれてくると初期的に親を盲目的に信頼し服従する先天的習性がある
これが成体になるに従い群れ集団の内部へと信頼服従対象が転移することで 生物学上の「社会性(封建的順位序列による社会形成習性)」を発揮するようになる
生物学上の「社会性」というのは 順位序列による封建的な社会を形成するだけであり これは狩猟などにおいて有利に働くことで繁殖の継続に適した結果 先天的な本能習性として組み込まれたものである
ヒトであれイヌであれ 怖い相手に忖度服従し 多数で迎合同調しておくことで安心満足する習性が見られ これが組織腐敗の大きな要因ともなるのである
イヌはその場限りに怖い相手に服従忖度し 勝てそうにない相手には簡単に腹を見せて服従忖度(甘え)する態度を採る
ヒトの場合にも同じ習性があるため 軍隊のような厳しい訓練をさせれば兵隊は独裁者の民衆弾圧や虐殺にも便利に利用できるようにもなるのである
こうした行動バイアスが促されるのは 盲目的に服従忖度することに快楽を感じるように脳(大脳辺縁系)が出来ているからであって 洗脳状態のヒトというのは洗脳状態こそが快楽であり 「信じたい」というバイアスが働いているからこそ安心満足感によって盲目性を発揮するのである
すなはち ヒトという種の生物には先天的に「盲目的に怖い何かを信頼していたい」という行動習性が存在しており それゆえ個人が自律的な社会的責任判断選択を行うという人間性の根幹を簡単に放棄するようにもなるのである
服従信頼対象は何でも構わなくて 自分が属する集団組織のトップでありさえすれば テロリストであろうと独裁者であろうと日本大学の理事であろうと学級内のイジメの首謀者であろうとヤクザや暴力団のボスであろうと 結局何でも構わないのである
スタンフォード監獄実験が「ヤラセ」だったという説が浮上しているが それはむしろ被験者達が権威の指示に従って統率協調的に不誠実な嘘をついたことの証明でもあり むしろスタンレー:ミルグラムの服従心理実験の結果と合致するものでもある
ミルグラムの服従心理実験を読んだ「感想文」の中には 根拠も示さずに「それでも権威に服従しない社会は崩壊する」などと勝手な決めつけをしているものもある
衆愚というのは科学的な論理客観的根拠なんぞどうでも良くて 主観的に安心満足で「信じたい話」ばかりを信用したがるだけなのである
真実と嘘やデマの区別がつかないから「衆愚」なのである
ミルグラムの服従心理実験の被験者は 自分の頭で物事を考え判断することの重要性を訴えているのであり これは国会原発事故調査委員会報告書における「根源的原因」としての「個人が自律的な社会的責任を負わなかったこと」と同じである
ヒトの多く 衆愚というのは自分で物事を考え判断することを忌み嫌い 多数派や 多数派によって承認されている権威肩書の意見を唯々諾々と鵜呑みにし 盲目的に信頼して安心満足する習性がある
こうした本能的習性というものは 狩猟採集生活をしていた祖先の生息環境下においては 環境資源としての「縄張り」の奪い合い紛争において有利だったという「結果」である
ヒトは紛争によって 他人を暴力的に攻撃することが先天的に快楽習性として組み込まれているのである
そういう習性を持った個体は 何の疑いも持たずに他人集団を攻撃することができるため 生存や繁殖の継続において有利に働いた結果である
フォートナイトなどの銃撃戦殺人ゲームが流行るのも 銃乱射事件や放火殺人事件などが流行してしまうのも 他人に危害を加えることに快楽を感じるという感覚的な欠陥が存在しているためである
これは 「刑罰で解決だ」という発想にも共通するものである
論理客観的には犯罪者に懲罰を与えても 原因究明にも再発防止にもならないことは当たり前の話なのだが 報復や懲罰こそが主観的満足感を得られる先天的習性による錯覚が あたかも論理客観的根拠を伴った真実であるかのように「感じ」られてしまうからである
ノルウェーの「リゾート刑務所」における再犯率の激減からも 懲罰というものの非合理性は統計的に「立証」されているのであり こうした客観的事実を無視して既存の制度に執着したがるのは 自分の主観的感覚こそが意識の本質だと錯覚している「無意識な傲慢さ」に因るものである
犯罪者に懲罰を与えないということに対し ヒトの多くは不安を「感じる」ため 主観的に「感じる」ことを拒絶する安心感を 論理客観的安全性と勘違い錯覚することで刑法懲罰という「因習」への異常執着(中毒)をするのである
それこそ自暴自棄な無差別殺人者であれば 死刑はむしろ「願ったり叶ったり」にしかならない
「俺のような奴は死刑になったら良いんじゃ!」などと主張している通り魔を 望み通りに死刑にすることが「解決」になるわけがないのである
梅沢富美男的に「こんな奴は死刑にしちまぇ!」とでも主張しておけば衆愚人気を得ることは簡単であろう
そういう短絡的で安易な「解決」の方が 何も考えない衆愚にとっては安心満足感を得やすいからである
司法裁判における判事の判決というのは 判事の主観的「心象」 すなはち気分的安心満足感によって更生の余地があるかどうかを判断しているだけであって 何か科学的な根拠に基づいた統計的証明に基づいて判決を下しているわけではない
もし統計的証明に基づくのであれば 幼児性愛犯罪の再犯率の高さに基づけば社会復帰は困難であると判定すべきであって 「強盗殺人よりも罪が軽い」かどうかと「更生するかどうか」は関係がないのである
無差別殺人犯が更生するか しないかは 実際にはほとんどが死刑になっているために統計的根拠は全くないのである
「へずまりゅう」や田代まさしのように釈放されれば平気で再犯を繰り返すバカも後を絶たないが 司法手続き上は一旦決まった判決は覆ることがない
なぜ他人の迷惑に配慮が出来ないのか その原因究明と再発防止こそが あらゆる迷惑で不公平な犯罪行為において共通する「本当の解決策」であって 厳罰化で満足するというのは社会的責任を放棄した身勝手な満足でしかないのである
「禊(みそぎ)」などと称して自分に罰を科せば罪が解消するかのような感覚も 実際には錯覚に過ぎず 合理性が何もない
間違えたのであれば それは「悔やむ」ことが重要なのではなく 間違えた原因を論理客観的に徹底究明して再発防止に役立て 「教訓」知識としてむしろ共有すべきことなのである
勝手に自分を罰して満足しても 間違いの再発防止にはならない
「ヒトである以上間違えないヒトなどいない」という観点からは 「誰しもが間違える可能性を持っている」という謙虚な態度で他人の「失敗」から学ぶ必要がある
ヒトは他人に罰を与えると満足する
それは 他人を蔑むことによって自分が正当化できたかのような錯覚を「感じる」からである
自然界の過酷な生存競争において 「勝つ」ことは生き抜く上においての必要性は存在するが それは「生存」においての必然的結果だけであって 「生存」や「繁殖の継続」以上の結果以外は何ももたらさない
殴り合いで「勝て」ば それは相手よりも強いことにはなるため 殴り合いで勝った方が繁殖した方が より強い遺伝子を遺すことになるため 生存競争においては有利に働いた結果として ヒトも含めて動物は争う本能習性が存在するのである
集団組織的に犯罪者などを差別排除しておけば満足安心できるのは それが「勝った」という快楽によって「正義を全うした」ような錯覚を得られるからである
オバマ政権はビンラディン容疑者を 容疑者のまま殺害して「正義の鉄槌を下した」と主張したが ビンラディン容疑者を殺害してもテロの根源的原因や再発防止には全くならない
テロリスト達は自分達の個人的で方向性のない報復感情を満たすためにテロリストに志願するのであって 特定の首謀者を殺害しても首謀者の代わりはいくらでも出てくるのである
個人の通り魔もまた同じことであり 放火殺人を模倣する形で通り魔同士で共感共鳴することで満足感を得ようとするのである
集団組織的テロリストにせよ 個人による通り魔にせよ 彼らは社会に対する茫漠とした報復感情を 無差別殺人という「懲罰」によって「解決」できるという錯覚によって実行するのである
「自分が生きていて楽しくないのは 社会が悪いからだ」という身勝手な観念から 無差別殺人に暴走するようになるのである
個人的に楽しいと思えることがあるならば 世間的評価や報酬は求めない
「個人的に楽しい」という脳内麻薬の自給自足ができていれば 外見的には禁欲的でいることもできるからである
衆愚の大半は「ハーメルンの笛吹き男」に追随しておけば満足で安心できるものだが 人間性や倫理の本質とは「個人が自律的な社会的責任を負うこと」であって 衆愚迎合や権威服従は人間性の論拠には全くならないのである
読書猿だのPhaだのといった衆愚「人気」の多数は真実の論理客観的論証には全くならない
単に「気分が良くなる 信じたい話」に同調している衆愚の多数決こそが 嘘やデマであることの方が圧倒的に多いのである
イマヌエル:カントの「純粋理性批判」や フリードリヒ:ニーチェの「迷言」の数々が 未だに国立大学で「哲学」として分類され リベラルアーツと称して一般教養過程で教えられても 学力偏差値が高いだけのバカ学生共は誰も疑問に思うことなく唯々諾々と鵜呑みにするだけである
偏差値の高い「一流大学」でありさえすれば 教えている内容の全てが論理客観的根拠に基づいた真実であるはずだという「感覚(錯覚)」によって バカ学生共は簡単に鵜呑みにするようになるのである
これは「哲学」に限ったことではなく 生物学における遺伝的進化の説明においても 「○○のため」という「目的」に基づいて遺伝的進化を「考えた」「選んだ」と「説明」している形式の全ては チャールズ:ダーウィンの進化論を逸脱した非科学的観念でしかない
ダーウィンの進化論というのは 生物やその遺伝的進化には目的があるわけではなく あくまで生存や繁殖の継続において必然的に適した結果以上の意味はないというものであって 遺伝的進化に「目的」だの「意図」だの「戦略」だの「考え」だの「選んだ」だのといった「説明」の全ては科学的には「典型的な間違い(遠藤秀紀)」なのである
遠藤秀紀は「ヒトという種は生物として欠陥品」だと主張しているが そもそも「生物としての欠陥」が存在しない生物など存在しないのであり 単に特定生息環境下において生存や繁殖が継続できて現存生物種でありさえすれば「生物」なのであり ライオンが西表島では生きられないことからも 「一切の欠陥を持たずに あらゆる環境下において繁殖を継続可能な生物」など存在しないのである
その意味においては遠藤秀紀もまたダーウィンの進化論を完全には理解していないのである
Ende;
大阪の心療内科クリニック放火殺人事件で警察は「犯人の動機の解明」だとか言っているのだが
殺人犯の動機を解明して何かの役に立ったことないだろ
どうせ殺人犯の動機なんてのは身勝手な個人的観念であって 裁判判決で「身勝手な動機」だと糾弾するだけで 何ら合理的な原因の究明にはならない
重要なのは「どうして身勝手な動機で非合理な暴力破壊をするようになるのか」 殺人犯に共通する普遍的原因を究明しないことには本当の再発防止にはならんだろ
無差別殺人犯の類いというのは 方向性のない漠然とした社会への不満を勝手に募らせ 暴力破壊で何かが解決するかのような感覚(錯覚)に基づく主観的満足感を満たすために暴力破壊に暴走するんであって 殺人犯個人の動機なんぞクソの役にも立たない
自暴自棄な大量殺人犯なんてのは 国家権力による刑罰なんぞを怖れてはいないので 厳罰化は意味が全くない
私も個人的な感情だけであれば いくら論理的根拠に基づいて説明しても誰も理解せずに 相変わらず当たり前のように生物学権威が「○○のため(目的)に進化を(考えて)選んだ」などという間違った説明を続け しかもそれをマスコミの誰も疑問にも思うことなく呆然と垂れ流し続けている現状には呆れて憤慨するばかりである
だが 憤慨して「頭にくる」のは私個人の主観的感情論であって 理解出来ないバカが大半であることは私の責任の範囲外であるから 別に社会に方向性のない報復をする必要性はない
報復も懲罰も何の合理的「解決」にもならない
本当の合理的「解決」とは 実効性のある具体的な再発防止策を見つけ出すことであり 被害者を出さないようにすることを最優先すべきであり 如何なる懲罰も報復も意味がないのである
ヒトという種の生物は 腹を立てて暴力威圧しておけば気分的に満足する習性があるが それは暴力的に暴れると後から副交感神経が優位になってセロトニンが分泌されて気分が良くなることから中毒的にヒトは暴力依存に陥る先天的習性があるだけであって 野獣のように怒り狂っても何ら合理的な「解決」には一切ならないのである
ヒトは 主観的に気分が良くなって満足感さえ得られれば それこそが「正しい」ことだと錯覚する先天的な認知的欠陥が存在するのである
それは進化の過程で生存価や繁殖の継続において適応した必然的結果ではあっても 合理性や目的の論証には全くならない
個人の主観的感情や欲望というものは それだけでは本当の意味での意識の論証にはならない
私の個人的感情にも意味がないし 無差別殺人犯の身勝手な報復感情にも 無差別殺人犯を死刑にしたいと「思う」ことに意味がない
それはヒトとしての動物的な意識ではあっても 人間としての本質的な意識ではない
これを論理的に理解できないからこそ 論理客観的根拠に基づいた真実と嘘やデマを区別できずにバカが治らない
Ende;
東京都での感染確認者数39人 何となく増えてきた
都内の50代医師がオミクロン株に感染確認され 感染経路は不明の市中感染だという
何だかキナ臭くなってきた
3回目のブースター接種が進めば重症者数や死者数は抑えられるので なるたけ感染拡大を遅らせたいんだそうな
「進化さえすれば弱毒化する」だとかいう論理的根拠のないデマを鵜呑みにしていたら 「感染拡大して変異を促進させた方が進化して弱毒化する」かのような解釈をしだすバカも出てくるので 本来なら感染症の専門家が「弱毒化する保証はありません」と宣言すべきである
Ende;
オミクロン株は 肺での増殖する率が従来株の1/10なんだそうで
肺炎による重症化率は下がっているという
従来株よりは弱毒化はしていると言って良いだろう
ただ 重症化しないわけではない上に 感染力が強力であるため 重症化する絶対数は減らないばかりか むしろ増えてしまう可能性まであるというから厄介である
遺伝的進化というのは全てが「成功」する保証のないものであり 宿主との共生に「成功」できる論理的な根拠はない
一般的にウイルスは弱毒化する傾向があるとは言われているものの 必ず宿主との共生進化に「成功」する論理的根拠はない
論理的根拠がないのに一般的傾向や 遺伝的進化の結果だけを抽出してきて「必ず弱毒化する」などと言うのは「臨床の妄想」である
現存種というのは遺伝的進化に「成功」した例だけであって 過去に「失敗」した絶滅種はほとんど証拠が残らないのであり 現存するウイルスだけから「必ず弱毒化する」とは断言できない
実際に既存の弱毒鼻風邪コロナウイルスが強毒変異を引き起こしたからこそSARSだのMARSだのSARS-Cov-2だのと大騒ぎになっているのであって ウイルスの全てが常に弱毒化するわけではなく 宿主との共生に「失敗」する絶滅株が出てくる可能性も決して0ではない 遺伝的進化というのはカオスであり 目的のようなものは存在しない 単なる「自然現象」に過ぎないのである
生物史の中で幾度となく繰り返されてきた「失敗」による大絶滅を無視して あたかも進化の全てが「成功」するかのように錯覚するから臨床に限らず遺伝的進化に不必要な期待をかけたがるのである
免疫の低下した人に感染すると変異が促進されてしまう傾向があるそうなので 感染者数は可能な限り低く抑えておく方が厄介な変異も含めて起きづらくなることは確かだという
免疫が低下している人の体内だと ウイルスが完全に排除し切れない状態が長く続くことになるため 耐性ウイルスへの収斂に「成功」してしまうことになり その「成功」が宿主との共生にも「成功」する保証はない
ワクチン接種による重症化率低下はかなり期待できるそうだが アレルギーなどによって接種が出来ない人を守るためにも感染拡大は抑えておくことが社会的責任としてある
「俺は重症化しなそうだから感染しても構わない」という緩みは法手続き的には許されていても 社会的には許されるものではない
◇
飲み薬のパクスロビドは効果は高いのだが下痢や味覚障害の副作用があるという
効果の低いモルヌピラビルは副作用も低いが妊婦に使えないという
ワクチンで身体がダルくなるとか 飲み薬で味覚障害とか ウイルスと似たような副作用が出るメカニズムってわかってるのかしら
多分まだわかってないんだろう
人体の生体機能の全てが解明されているわけではなくて わかっていることもあれば わかっていないこともある
わかってないからウイルスやヒトの全ゲノムがわかっているのに症状の原因はわからないから決定的治療法がみつからない
学校では既にわかっていることだけを教えているもんだから「わかっていないことも存在する」という事実をみんな見逃してしまうようになり あたかも学術権威の肩書さえあれば「全てを知り尽くしている」かのように錯覚して盲信するようになるのである
全てがわかっているなら 研究する必要はないのである
Ende;
「アポロニウスの円上のどこから見ても必ず同じ高さに見える」というのだが
条件があって 2つの塔の海抜標高の比率に基づいた円であることと
観測地点も標高海抜0メートルであることが必要
従って 「必ず同じ高さに見える」わけではない
Ende;
感染経路の追跡ができないオミクロン株の市中感染が大坂で起きているそうな
オミクロン株はデルタ株よか感染力が2倍から4.2倍とも言われているので 拡がり始めると一気に感染者が増えるという
オミクロン株はデルタ株よかは重症化リスクは低いという話だが
多剤耐性菌の発生プロセスと同じプロセスでワクチンや治療薬に対する耐性を獲得しつつあることは むしろ私の想定予測の方が当たっているのである
そもそもデルタ株というのは武漢で最初に確認された初期株よりも若年層での重症化リスクが上がっているので デルタ株よりも重症化リスクが低いといってもオミクロン株が初期株よか重症化リスクが下がって弱毒化しているわけでもないらしい
◇追記:オミクロン株は肺での増殖する率が1/10だというので 従来株よりは重症化率は下がっているという ただ 感染力が高いので重症患者の絶対数は減らないばかりか増える可能性まであるというので厄介
---------------ここからは想像の話になるのだが----------
そもそも何で重症肺炎を引き起こすのか そのメカニズムが解明されて ゲノム編集技術で「重症化しない感染力の強力なウイルス型ワクチン」を人為的に作り出すことができたら良いのかも知れないが
人工ウイルスが変異してもっとややこしい事態に陥る可能性もあるので 変異しないようにする技術も確立しないとダメだろう
ウイルス型のワクチンってのは商品としての医薬品扱いにならないので 製薬会社の利益にならないので作らないかも知れない
そうなると 政府系とか国連系の公的研究機関しか「開発」されることはないんだろう
下手すると 製薬会社は重症化のメカニズムを隠蔽する可能性もある
重症化しないようにするための技術や知見が周知されてしまうと会社の利益にとって不利になる可能性がある
会社の利益のために患者の健康を蔑ろにする可能性が 資本主義に限らずヒトの集団組織にはある
東京電力の原発事故と同様に「組織の利益を優先し 個人が自律的な社会的責任を負わない」という事例は数え切れない
もし 重症化を抑える技術や知見が発見されたのに会社がそれを隠蔽しようとするのであれば 内部告発でもなければ周知されることはないかも知れない
「組織の体質」というものは 組織を構成する個人の意識に依るものであって 組織内部の多数によって責任が薄まるわけではない
想像の話ではあるものの 想定はしておいた方が良い話ではある
-------ここからは想像の範疇ではない------------
ヒトという種の生物は 集団組織的に利益を独占したり 他人を騙すことや危害を加えることが平気でできるものである
特定環境下における断片的な利他的行動を抽出してきて「ヒトには先天的に人間性や道徳が組み込まれている」などというのは 単なるバカ生物学者や社会心理学者共による衆愚迎合に過ぎない
ヒトという種の生物は 先天的には卑怯で暴力的で利己的な野獣の子孫であり 人間性や倫理というものは自己客観性を持った論理検証性という「考え」や「理性」なくして発揮されるものではない
弱肉強食の自然環境下においては 卑怯であることや暴力的であることや利己的であることは 生存や「繁殖の継続」においては有利に働き 遺伝的進化における淘汰圧力として収斂進化を促すものなのであある
ピアプレッシャー(同調圧力)による道徳性というものは 衆人環視下でしか発揮されることのないものであり 到底「自律的な社会的責任判断選択能力」の論証にはならない
同調圧力というものは 自分が属する集団組織への迎合性や服従忖度も発揮する動物的な「習性」であり 主観的気分感情が行動と直結し 自己の行動を客観的に検証するべき「本質的な意識」が働いていないからこそイジメや組織腐敗が傍観放置温存されることになるのである
子供のイジメの場合は まず大人が見張ることであり 同時に社会全体における安全性や持続可能性や公平性についての自発的論理思考を促す必要がある
軍隊を文民が統制しないとミャンマーのような虐殺は簡単に起こるものであり 兵隊というのは要するに自分で行動責任を負わない幼稚で短絡的な「服従者」でしかないのである
ヒトは 自律的に社会的責任判断選択などせずに 多数や権威に迎合同調忖度服従しておいた方が気分的に楽で満足感が得られる先天的習性(行動バイアス)が存在しているのである
「ヒトには先天的に人間性や道徳が組み込まれている」などという話の方が主観的には気分が良く 安心満足できるのかも知れないが 主観的満足や安心は科学的論拠には全くならない
主観的感覚には錯覚が混入する可能があり 錯覚を錯覚だと認識し 真実との区別するためには論理客観的な「考え」が必要であり
論理客観的な「考え」なしに人間性も発揮されることはない
「Pha」とかいう読書マニアの主観的好き嫌いが科学的論証になるわけではなく 多数の衆愚人気も何の論証にもならない
多数でありさえすれば「正常」であることの証明にはならず
むしろ多数人気というのはヒトという種の生物に普遍的に存在する認知的欠陥に由来する錯覚が原因である可能性の方が高い
自浄効果を全く発揮できなかった日本大学も 民主的に選ばれたナチス政権も 多数を短絡的に「正常」だと主観的に安心満足していた錯覚が作り出したものである
マントヒヒが「工夫」しただの 昆虫が擬態を「思いついた」だの「考えた」だのといった遺伝的進化の「説明」は 全て科学的な根拠のないこじつけであり 遠藤秀紀の言う「典型的な間違い」である
NHKは科学番組で散々こうした「典型的な間違い」に基づいた「説明」をしてきたのであり これを訂正も周知もしないというのは社会的に無責任であり 不誠実である
自分達の不誠実を隠蔽黙殺しておいて「受信料をよこせ」などと主張する権利はない
そんなの当たり前の話だろ
Ende;
従来生物学においては 遺伝的進化に対して「意図」や「戦略」や「考え」や「工夫」といった目的に基づいて主体的・能動的に進化を選択できているかのような「説明」をしてきたが
これらは全て遠藤秀紀が言う「典型的な間違い」である
生物とは 環境と適応調和し繁殖を継続できた個体種だけが現存生物種として存在しているという結果であって
生物に目的などない
遺伝的進化というものは あくまで生息環境への適応を繰り返した果てに生じた「自然現象」であって 意図や目的や考えや工夫が介在する余地は全くないのである
衆愚やマスコミの多くは自然現象に過ぎない遺伝的進化任せにしておけば 自動的自然に全てがうまくゆくかのような妄想を抱き
人智を超越した実証不能の謎の「目的意識」によって自動的自然にヒトが進化するかのような妄想を抱く傾向が見られるが そんなものは論理的に存在せず 科学を逸脱したファンタジーに他ならない
現存生物は 環境に適応調和して繁殖を継続することが出来ているが これは意図的に合理的形質や行動習性や本能を主体的に選択したわけではなく あくまで「繁殖を継続できた」個体種以外が全て死滅した結果に過ぎない
遺伝的進化というものは あくまで偶発的に環境に適応調和して繁殖を継続できた個体種以外が全て死滅し 残った現存種だけを抽出してきて「遺伝的進化を意図的に考え合理的に選択した」わけではない
遺伝的進化に「考え」だの「思いつき」だの「工夫」が介在する余地は論理的に全く存在しないのである
にも関わらず生物学権威の多くやマスコミ衆愚は論理的理解を全くせずに 「進化を選んだ」といった話を何の疑いも持たずに鵜呑みにし 「自然ってすばらしいわ」などといった主観的形容に酔いしれるだけである
自然環境の保全というのは 主観的に「自然は素晴らしい」かどうかで行うものではなく 論理客観的に自然環境なくしてヒトの存続も不可能であるから必要性があるわけで 「素晴らしい」と称して自動的自然に何でも自然現象に過ぎぬ遺伝的進化任せにでもしておけば全てが解決するかのような妄想を抱くことによって 主体的に自然環境を保全しようとする「意識」が薄れてしまうのである
遺伝的進化などによって人智を超越した謎の目的意識が働き ヒトが能動的に自然環境を保全なんぞしなくても「素晴らしい自然環境」や「遺伝的進化」によって必ず「正しい結果」が得られるかのような都合の良い妄想を抱くことによって 衆愚は安心満足し 従来の生活様式を変容させようという主体的選択への意欲を喪失し 目先の金儲けを「頭が良い」などと形容し 持続可能性のない環境資源の浪費を継続して自滅への道を変えることをしなくなるのである
地球という自然環境において ヒトは特別に必要な存在ではない
地球環境にとってはむしろヒトは暴走的に異常繁殖している「赤潮のようなもの」に過ぎない
だからこそのパンデミックである
自然環境におけるウイルスの「役割」とは 異常増殖した個体種の数を抑制する働きがあり 赤潮などの環境破壊を復元させる「役割」を持っているのである
ウイルスのよる特定種の異常増殖が抑えられなかった場合には 特定種のみの異常増殖による環境破壊によって持続可能性を失い 結果的にウイルスのいない生態系は破滅したという結果 存続出来た生態系においてのウイルスの「役割」として遺ったのであり 別にウイルスが「生態系を存続させよう」として自らの形質を選択したわけではない
ウイルスが生物の範疇に含めるかどうかの議論があるが ウイルス以外の「生物」であっても地球環境という宿主なくして存続は不可能であり ウイルスにとっての生息環境としてのヒトなどの生物なくして存続できないウイルスもまた同じことであり さしたる違いはない
現存する生物種による生態系バランスというものは あくまで膨大な「失敗」の果てに偶発的に遺った奇跡的な結果であって 一旦環境破壊によって失われた生態系というのは取り戻すのに再び膨大な「失敗」を繰り返す必要性が出てくるのである
それは安定性や持続可能性や恒常性を失ったカオスの世界である
ゴキブリだらけになったかと思えば そのゴキブリを捕食するネズミなどが異常増殖し そのネズミを捕食する生物が異常繁殖しては再び生態系がリセットされるような異常な世界に陥る危険性も考えられる
それはヒトにとっては感染症まみれの地獄でしかない
気候変動の観点からも 現在の温暖な気候というのは地球史上では非常に稀な状況であって だからこそ巨大文明社会を築いて異常繁殖の原因にもなったと言える
動物は 主観的に「怖い」ものを避けようとはするが 主観的に「安心満足」なものはむしろ積極的に求めようとするものである
鹿が列車の前照灯を見つめて動かなくなることで轢き殺されることや
蛾が炎に飛び込み焼け死ぬことや
ネコが自動車の直前を横切って轢かれることがある
ネコにとっては自動車が近づいてからでなければ恐怖を抱かず 直前になってから発作的に自動車の前を横切るものなのである
このように先天的行動バイアスというのは急激な環境変化に対して適応することはできずに情動のままに生存にとって適さない行動に陥ることも珍しくはない
ネコが先天的に自動車の直前を横切らないように「進化」するためには 自動車の直前を横切る習性を持ったネコが全て轢き殺されて死滅する必要がある
「収斂」進化とは そういうものだからだ
若しくは 自動車の直前を横切る習性を持ったネコの断種をすれば自動車の直前を横切らないネコへの品種改良も可能であろう
遺伝的進化の全ては淘汰圧力による「収斂」なくして起こらないものであって 目的にとって都合よく合理的に全ての進化が「成功」すると思うのは「典型的な間違い」である
ヒトは バクテリアから進化はしたものの 別にヒトという種の生物そのものには何の目的もなく あくまで「人間」として次世代へと社会を引き継ぐ持続可能性や安全性や公平性を目的として行動選択すること「も」可能なだけであって ヒトという種の生物種自体には目的などないのである
だからこそテロや通り魔や独裁による民衆弾圧などの非合理な行動を採るバカも後を絶たないのである
ヒトは先天的に認知的欠陥が存在するため 権威の命令に盲目的に唯々諾々と服従することを人間としての「社会性」だと勘違いし 懲罰などの暴力で何かが「解決した」ような錯覚に溺れて合理性のない因習に囚われ自浄効果を失うのである
ヒトの先天的な認知的欠陥というものを 遺伝的進化のメカニズムを応用して「品種改良」することは可能かも知れないが 当然ながら人道には反する卑劣で人間性を欠いた行動であることは言うまでもない
そもそもヒトは 文明社会を構築することで自然環境における過酷な生存競争から逃れたことで ここ数万年は外見や性格のバリエーションは拡大したものの 淘汰収斂が起きなくなったことによって遺伝的な進化はしなくなったのである
遺伝的進化というのは自然現象であり 単に「繁殖を継続」したという結果以上の何ももたらすことはない
だからこそ ヒトは本能欲望のままに異常増殖して地球環境資源を喰い尽くして絶滅しようとしているのである
自分の本能欲望を制御してこその人間性であり 欲望を主体的に「選択」しないことには人間性も知性もヘッタクレもなく 到底「知的生命体」とは言えないのである
無責任な社会心理学者は生物学者は特定環境実験下における利他的行動だけを根拠に人間性の立証だと言い張るが 腐敗した組織内部において「組織の利益を優先する」こともまた利他的行動であって 自律的な社会的責任判断選択なしに人間性を立証したことにはならない
自律的な社会的責任判断というものは 腐敗した組織の中では排除の対象にしかならない
本当の人間としての社会的責任判断というものは 決して本能的に気分が良くなる行動だけではなく 本能欲望に抗う主体的選択 自己客観性や論理検証性なくして発揮されることはない
日本大学の内部では 理事に逆らうことで左遷されることを怖れて唯々諾々と服従し 組織腐敗を放置されたのであり 先天的本能習性のままに組織腐敗を傍観放置し温存させたのである
現代のように情報化が進んでいなかった時代には 嘘は生存にとって有利に働き 嘘つきや不公正な集団に迎合同調忖度服従するような卑劣な奴ほど生き残りには有利だったのである
生き残り有利であれば 必然的に卑怯者への収斂進化が促されることはあっても 正直者への収斂は起きないのである
そもそも 何が嘘やデマで 何が真実なのかも見分けがつかないバカの多数決では 正直者は排除の対象にしかならない
卑怯な嘘つきに騙されていることもまた 結局は同罪なのである
荒唐無稽なデマかどうかを見分ける上においては 複数の信用できるメディアも読んでみることは有効だが 生物学界や哲学界全体がバカが牛耳っている場合には この限りではない
科学的真理とは 多数決で決定するものではなく 論理客観的根拠に基づいて判断されるべきものであり 衆愚人気は根拠にはならない
実際に松沢哲郎は「チンパンジーの行動習性から人間としての社会性を立証できるかも知れない」という論理客観的根拠のない荒唐無稽な予測で衆愚人気を集め マスコミもこぞって「立証できたら素晴らしいですね」などと評価したのである
その実態はと言えば チンパンジーの利他的行動実験を継続すると「自分には利益にならない」と知った途端に利他的行動は採らなくなり 結局何も立証できていないのである
結局松沢は ヒト以外は「目先の利益以外には興味がない」という結論を導き出しており 「行動習性から人間としての社会性」は何一つ立証どころか むしろ反証にしかなっていないのである
松沢は更にはぐらかそうとして「想像力があるから人間だ」などと言い出したが 振り込め詐欺師が被害者を騙す上においても「想像力」は働いているのであり 想像さえすれば人間性の論証にならないのは当たり前の話である
チンパンジーというのは子供のうちは従順で凶暴性が出ないが 成体になれば鋼鉄製のケージに入れておかなければならない危険な野獣であり いかなる断片的行動結果を都合よく集めてきても人間性の立証など原理的に不可能である
たとえヒトであっても 特定環境下で利他的行動を抽出してきたこところで 既にヒトが行ったナチスやポルポトによる大量虐殺の反証になど一切ならないのである
ヒトが衆人環視下で嘘をつかないのは 衆人からの同調圧力によるものであって 決して自律的な責任判断選択によるものであることの論証にはならない
たとえ衆人環視下であっても アイヒマン実験では他人に危害を加えてしまうのが「ヒト」という種の生物である
スタンフォード監獄実験でも同様である *:後述
腐敗した組織の内部では 組織に迎合同調しておいた方が気分的・本能的に安心満足だからである
こうした先天的な「社会性(封建的統率協調性)」というものが 「人間としての社会性」の論証にならないことは ちょっと考えれば誰でもわかる簡単な話である
本能習性というのは それに従っていることが安心満足なのであり 主観的に安心満足だからこそ組織腐敗は放置され 個人の自律的な社会的責任判断選択が放棄されてしまうのである
学術権威という肩書に同調迎合し 唯々諾々と盲目的に服従し 忖度していたほうが主観的には安心満足であろう
自律的に物事の真偽を検証判断しない方が責任逃れができるものだと「思って」いた方が楽であろう
ヒトとは先天的に そういう無能なバカになる習性が存在しているためである
*:スタンフォード監獄実験には疑惑が生じていた だが 逆に言えば権威の命令に唯々諾々と服従して不誠実な嘘を演じたことの立証にはなる
Ende;