紙とさまぁ〜ず24時からに時間変更してるじゃん
いつからだよ
どうなの課の裏にぶつけてきやがった
まあ森川葵は24:30以降だと思うので良いけど
◇追記:火曜日の25:35に戻りやがった なんなんだ(憤)
Ende;
紙とさまぁ〜ず24時からに時間変更してるじゃん
いつからだよ
どうなの課の裏にぶつけてきやがった
まあ森川葵は24:30以降だと思うので良いけど
◇追記:火曜日の25:35に戻りやがった なんなんだ(憤)
Ende;
Chromeの仕様変更で画像をクリックしても小さな画像が表示されるだけで何のメニューもドロップダウンしなくなった
Chromeの取説ってどこにあるの?
追記:あった あったけど 「長押しでメニューをクリック」としか書いてない
戻った
何だったの?
Ende;
凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸
ハビタブルゾーンにドワーフスターが入れられれば2000万ポイント超えられた
ギリギリセーフ
同一軌道上に重たい星を入れても意外と安定することがある
軽い惑星が重たい惑星より少し内側の軌道を取ると 内側なので公転速度が速いので重たい惑星に追いつきそうになるのだが 追いつきそうになると軌道が僅かに外側に逸れて減速し始め しばらくすると逆に重たい惑星に追いつかれそうになるのだが 今度は軌道が僅かに内側に逸れて加速し始め いつまでも軌道が安定している状態が続く
ことがある
一つでも惑星軌道が安定しないとすぐゲームオーバーになるので 一般的にみたら無理ゲーに該当するんだろうな
3000万超えたわw
1000年までいかなかったけど6000万超えたわw
1000年達成
もっといくのかな
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とか言っている中野信子は発言責任を負わないサイコパス
現状の「脳科学者」共は「自由意志選択など存在しない」などという主張に何の異議も唱えないキチガイばっかりなので 衆愚人気があるからといって鵜呑みにしてはいけない
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怖い話 -ダヴィンチ
いわゆる「グルーミング」ってやつだな
この手の痴漢行為ってのは子供だとよくわからないみたいだから 経験談を周知しておいた方が良いと思う
高校生になっても全裸写真とかネットで送っちゃう娘がいるくらいだから 主観的気分だけで物事を判断せずに 論理客観的に判断する癖をつけさせておく必要があると思う
情に訴えて騙す手法は振り込め詐欺師と基本的に同じ
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電線マニアの石山蓮華ちゃんて 「れんか」じゃなくて「れんげ」ちゃんなのね
というか 女優さんだったのね
↗石山蓮華 -Instagram
電線専業だと思ってた(どんな仕事だよ)
凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸
XV-02シャーシってセンターデフ仕様にもできるのね
凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸
ウエラブルのクーラー 1万円
アイスノンで良いだろと思ったら ヨドバシでは売り切れてた
凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸
タマゴ焼き作ったらほぼバナナになった件
Ende;
今年は水難事故による死亡者が例年の5割増しで急増しているという
コロナ禍で外出経験の少なくなった子供がポカミスをやらかすのが増えたのかも知れない
農業用のため池というのは面積に対して深さを稼ぐために岸の斜面角度がキツくつくられており 一旦水中に落ちると藻や苔でヌルヌルなのでバキバキに鍛え上げた水難救助隊員でも自力では這い上がることが全くできなくなるという
水難救助隊員が溺れる様子 -Yahoo NEWS
この↑動画は子供達にも見せた方が良い
岸からロープ的なものとか 手がかりになるものを水中に垂らしておいたら良いんじゃないかと思うんだが 何か掴むものがあれば助かる確率は格段に上がるはず
立ち入れないようにフェンス作ったって 入る子供は入るぞ 子供は冒険が大好きなんだ 落ちても助かる方法論も用意しておいた方が良いと思う
それとは別に
河川の流れというのは水平方向に一定に流れているものだと勘違いしがちだが 実際の水の流れというのは上下方向にも渦を巻くことも多く 流れの激しい場所で水が白く泡立っているとライフジャケットを着ていても浮力が失われて水中に引き込まれるんだそうだ
水の重さとヒトの重さはほぼ一緒なので 量から考えたらヒトが水の流れに勝てるわけがないのだ
伊集院光とかマツコデラックスとかが何十人も廊下いっぱいにギュウギュウに動いていたら 誰も勝てる奴なんかいない
流れが激しいとほんの30センチの水位でもヒトは簡単に足をすくわれる
水の流れをナメてはいけない
死ぬよ
実際死んでるし
Ende;
「人類は絶滅しない」と言われると 大衆観念的には「自分の子供達も死なずに済むんだな」的解釈をしがちなようだが
「絶滅していない」っていうのは80億人中79億9990万人死んでも10万人でも生き残れば「絶滅していない」って意味だからな
文明社会の人々が全員死んで 文明から隔絶された少数民族の人達だけが生き残ったとしても「絶滅していない」って意味だからな
「進化すれば月経の痛みがなくなる」だとか「進化すれば人間性が先天的に組み込まれる」とか 勝手に錯覚している奴は多いらしいが それは科学じゃなくて根拠のないデマだからな
医師免許持っているにも関わらず「ウイルスは必ず弱毒化する」などと断言するバカが後を絶たないくらいだから 何が真実なのかは論理客観的根拠に基づいて自分の頭で考えて判断しないとデマや嘘に簡単に騙されるぞ
ウイルスは一般的に弱毒化傾向があるのは確かですが 都合良く常に弱毒化がリニアに起きる保証があるわけではなく 強毒化したり弱毒化したり カオスな変異の中である程度長い期間を通じて結果的に弱毒化することが多いというだけであって 現存するウイルスがどのようなプロセス過程を経て弱毒共生化したのかは 本当は誰も見たことがない
ましてや「宿主が死んでは困る」などという後天的都合は遺伝的要素には影響を及ぼさないし 「毒性が強いと弱毒化しない」などというのは科学を逸脱したデマでしかない
読書猿みたいに「学校の勉強は認知的ワクチン」だとか言い出す奴に衆愚人気が集まるようだが 科学的には何の根拠もないからな
言葉巧みに読み手の気分が良くなるような話による衆愚迎合的人気の多数決は 科学的に真理であることの論証にはならないからな
生物学者共はおしなべて「ヒトには人間性が組み込まれている」的な解釈をこじつけて衆愚人気を集めようとする傾向が強いが
ヒト同士が環境資源の奪い合い競争においても封建的統率協調性を発揮していない証拠なんぞ全くないからな
むしろ奴隷制度だの封建制度だの ヒトの歴史は差別迫害の歴史であって 差別迫害による淘汰圧力によって促される収斂進化というものは 加害者側への収斂シフトだからな
ヒトの先天的本能習性の全てが共生的であるかのような「こじつけ」をしておいた方が衆愚人気は得られやすいが そうした都合の良い気分の良くなる話を鵜呑みにしているから犯罪とか紛争の根源的原因を見失うことになる
いくら説明しても理解しないバカなんか 懲罰的に殴って観念的に「わからせて」おいた方が簡単だと主観的には「思う」ものだが それはあくまで「現場の正義」にはなっても根本的解決にはならないからな
ヒトという種の生物は 論理客観的根拠や証拠に基づいて根源的原因究明や再発防止策を立てるよりも 短絡的に懲罰的暴力で他人の行動を抑圧する方が主観的満足感が得られるために 論理的再発防止を後回しにし続け 結局悲惨な「人災」を繰り返している「バカ」なのである
ヒトが先天的にバカなのは「結果」である
だが バカを自覚しバカげた失敗を繰り返さないようにする知能が働いてこそ バカを脱することができる
それが「人間としての目的」である
ヒトはバカのままでいた方が気分的には楽である
それこそが精神の怠慢というものである
「できそうにないことは やらない方が良い」(フリードリヒ:ニーチェ)的な話を都合良く解釈し やるべきことすらやらずに主観的(先天的)満足安心しているからこそ バカが益々酷くなる
「できそうにない」かどうかは主観的感覚や印象であって 論理客観的根拠ではないからな そのくらい自分の頭で考えて判断せぇ!
もうバカ過ぎて話にならんわ
Ende;
必要以上の名声だの評価 富といったものに異常執着するのは 本質的には自発性がなく 他人との比較でしか物事の価値を量ることが出来ないからである
「へずまりゅう」だのプーチンだのの欲望に際限がないのは 本質的自発性がなく 他人との比較における優越感でしか物事の価値観を量ることができないため 他人を蹴落とし 社会を破滅へと向かわせてでも物質的富や権力欲へと必要以上の執着をするようになるのである
他人との比較による優越感には際限がないのである
他人と何かを比較しても そもそも脳神経接続が他人とは存在していないため いくら比較しても本質的には何も満たされることがなく 無限に権力だの物質的富ばかりを求める無間地獄に陥ることになる
独裁者が暴力的最終解決に陥るのは いくら権力や物質的富を獲得しても本質的な自己は全く満たされない不満を 自分以外の社会の所為だと「思って」いるからである
暴走族でも暴力団でもロシア軍でもミャンマー軍事政権でも 組織の中で「生きるため」の順位序列競争が優先されれば 他人への迷惑には一切配慮が働かなくなる
「へずまりゅう」が自律的な社会的責任判断選択をしないのも 無責任な社会集団の中で「生きるため」を優先しているためである
それらは 「悪いのは自分ではなく 社会環境の所為」だと「思って(錯覚)」いるからである
仏教ではそれを「外道」と言う
仏教修行の説話では 基本的に全部自分から主体的に「行」を求めて実践している
利他の行を追い求めた雪山童子は 鬼に「目玉をよこせ」と要求されると自らの手で自分の目玉をえぐりだし鬼に渡すという かなりエグい話である
「死ぬだろ」と思うようなエグい修行の喩えだが 何に人生を賭けるかは本人の主体的意志によるものであり F1レースでスピードを追求して事故で死んだとしても それは本望というものであろう
加藤英明が 猛毒のパフアダーを素手で捕まえるのに失敗して死んだとしても 加藤にとっては必ずしも不幸ではないだろう
他人から見ればバカみたいな人生だが 当人が望んで死ぬ分には他人には人畜無害であり 自己責任である
セーレン:キェルケゴールが真理を追求して野垂れ死にしようとも 真理のために人生を賭けることもまた本望であろう
嫌な話をする相手は 人によっては鬼にも見えるかも知れない
鬼が現れ「目玉をよこせ」と言われれば 大抵の人は「そこまでは無理」だと思うであろう
それはカルト宗教の信者に対して「お前さんの信じている教祖はキチガイだぞ」と言われているようなものであり 自己過信の罠によって本当は糞の役にも立たない嘘やデマを本気で信じているとしても それが嘘やデマだとは全く「思わ」ないものなのであり 反射的に拒絶するばかりである
だが 真理を追求することを「行」として選んだからには 自らの手で「目玉のように大切にしているもの」であっても真理のためには全てを差し出さなければ 真理に辿り着くことはできないのである
本当の事を知りたいのであれば あらゆる嘘やデマや根拠のない「常識」の全てを棄てなければ 真理を見極めることはできない
嘘やデマや根拠のない「常識」の全てを棄て去れば 「前以上に見えるようになる」のである
雪山童子の喩えとは そういう意味である
理屈は簡単である 嘘やデマや根拠のない「常識」の全てを棄て去れば 後に残るのは真実のみである そんなのは必然でしかない だが ヒトはどうしても真理以外の嘘やデマや根拠のない「常識」によって視野を奪われ 目の前にあるはずの真理すらも見えなくなるものなのである
視野を奪うのは本能や欲望である それらはそもそも自分では選択不可能なものであり 自由意志でも何でもないのであって 何が本当の自由意志なのかも見極められないバカが真理なんか見えるわけがないのである
だが こうした修行というものは 自らが自発的に望んでやらなければ意味がない
他人から強要されていたり 評価承認欲しさのウケ狙いでは修行にはならないのである
世間的評価だの人気だの 損得勘定だの勝ち負けを基準にしていれば 結局他人との比較による価値観の罠(生物学上の「社会性」)からは逃れることができない
真理を追求するのか しないのか それは「あなた次第」だが 真理よりも目先の安心満足(実証不能の観念)を優先するというのであれば それはもはや真理について語る資格はないのである
Ende;
腐敗した組織の中で「生きる」ことを優先すれば 自律的な社会的責任判断選択は優先されなくなる
東京電力福島第一原子力発電所において 組織の中で「生きる」ためには個人は自律的な社会的責任など放棄せざるを得なかった
日本大学田中英寿体制において 組織の中で「生きる」ためには 理事長や幹部達の言いなりに同調迎合忖度服従せざるを得なかった
これらと同じで 今のロシアにおいてはプーチン政権の中で「生きる」ためには ウクライナ侵攻に反対すれば投獄される以上 人道的立場など選択する余地などないのである
ヴァルター:ベンヤミンは ナチス政権に反対したことで スイス山中で自決を余儀なくされた
一方 マルティン:ハイデガーはナチスに迎合して「生き」延びた
「生きるため」にはナチスに迎合することも正当化可能となるのであるが それが果たして「人間としての社会性」に適すると言えるであろうか?
学級内でイジメが起きた際に イジメを止めようとすればイジメの標的にされる
無意識な少数の暴力者に対し 大多数のヒトは主観的に「怖い」相手には逆らわず 傍観放置し暴力者集団の存在を温存することに加担するのである
イジメというものは 学校に行ったことがあればまず全員が経験したことがあり その8割は傍観放置しているのである
ウチの甥っ子は 小学生時代にイジメを止めに入ってイジメの標的にされたことがある
学級内での少数派に過ぎないイジメ集団に対し 大多数の傍観者の誰も助けてはくれない状況下において イジメを止めることは 学級内で「生きる」上においては不利になる
「生きるため」には 他人を蹴落として 差別して 資源や富を独占することは正当化されてしまうことにもなるのである
だが そうした利己的行動選択というものは 結局は社会全体の持続可能性や安全性を損ない 人類全体の存続に関わる重大な結果に至る可能性をもはらんでいるのである
どんなに弱者を切り捨て 利己的利益を追求したところで ヒトは必ず死ぬのであり いかなる利益も死ねば何の意味もなくなる
今 現在 生きている 生き続けていることの意味 必要性 理由とは何かと言えば 自分が生き続けていることに楽しみを持っているからである
しかし その楽しみというものは 必ずしも純粋に個人的な楽しめることを持っているわけではなく ヒトはどうしても他人を蹴落とし 誹謗中傷し 懲罰的正義を振り回して他人に多大な迷惑をかけることによって あたかも自分の優位性を「感じ」ることにしか楽しみを感じないことの方が多いものである
他人との比較に依らない 個人的で純粋な楽しみとて これもまた主観的な「感覚」であることに違いはないが 比較に依らぬ点において純粋であり 社会の公平性や安全性にも配慮が働く要因ともなる
純粋に個人的な楽しみがあるのならば それは他人との比較において優越を感じる必要性がない
順位序列にこだわる必要性がないのである
そもそも 「楽しみ」とは主観的で個人的なものであり 他人と比較して「自分の方が楽しいはずだ」という感覚は錯覚に過ぎない なぜならば他人と自分の脳とは神経接続が存在せず 他人が楽しいと思っていることが 自分が楽しいと思っていることとの楽しみの強度程度の比較など構造原理的に不可能だからである
他人との比較においての優位性に中毒になるのは ヒトは集団の中で優位に立たなければ「生きて」ゆく上において不利になるため 必要以上の優位性や比較による序列順位への執着が本能的に働いてしまうためである
ヒトの祖先がチンパンジーのようなサルだとすると サルはその場限りの利己的利益のことしか意識が働かないため 集団組織全体の安全性とか持続可能性とか公平性といったものには何の興味も持たないし そんなものに興味を持っても集団内部で「生きる」上においては有利にはならない
東京電力福島第一原子力発電所において 個人が自律的な社会的責任判断をしようとしても それは組織の内部において「組織の利益にならない」ために 組織の中で「生きる」上においては何の有利にもならなかったのである
それは ロシア国内において 国際社会全体における社会的責任として武力行使に反対しても ロシア国内において「生きるため」には何の有利にもならないのと同じである
プーチンだろうが田中英寿だろうが 本当は順位序列など存在せず 誰もネコでもネズミでもなく ヒトであることに何の違いもないのだが 権力権威という抽象化された順位序列の観念情動によって ヒトは相手が理不尽な要求をしてくるバカであっても 大多数のヒトは傍観者に徹し 何の批判精神も持たず 唯々諾々と腐敗組織の温存に加担するバカなのである
ヒトの生物学的な 本能習性としての「社会性」とは イヌ同様に順位序列に基づく封建的な統率協調性であって 「人間としての社会性」とは全く別のものである
軍隊というのは 動物的な本能習性としての「封建的統率協調性」を用いた盲目的服従性を利用した集団であり 故に戦争のようなバカげたことにも便利に利用可能であると同時に 盲目であるが故に軍隊のトップになった場合には 自分が盲目的に順位序列を受け入れたという「常識(学習データ)」に基づいて あらゆる人にまで順位序列を強要し 武力暴力によって抑圧する「正義」を振り回さなければ気分的に満足できなくなってしまうのである
軍隊に文民統制が必要なのは 軍隊というものはその内部に平等とか公平とか民主的判断というものが全くない 封建的順位序列による盲目的服従による指揮命令系統だけで構成された集団だからである
プーチンは元KGBである
つまり 兵隊だった
兵隊というのは命令に服従することが評価業績になる
イヌが飼い主の指示に従うことに喜ぶのと同じで 順位序列が上の相手との共感共鳴によって快楽を感じる習性を利用することで 介助犬や救助犬のように 飼い主に都合の良いように行動を統制することが可能となる
しかし イヌというのは 野犬の群れで育てば野獣にしかならない
KGBという野蛮な暴力組織の中で「業績評価」を得ようと「頑張って」いたが故に プーチンは順位序列への異常執着性を「学習」してしまったのである
プロパガンダという嘘をついてまで国民からの支持を得ようとするのも 国際社会の中での協調性を持たないのも 過去の「業績」評価を絶対的な「常識(正解データ)」として 価値観の全てに「学習」してしまったのが原因である
こうした構造はヒトラーでも同様である
日本大学田中英寿でも ミャンマー軍事政権でも 暴力的に権威性を振り回す相手に服従迎合した者というのは 暴力的権威に服従することが「正義」として「常識」になってしまっているため それ以外の選択可能性が著しく失われて無意識になり バカになっているのである
構造的には「虐待の連鎖」と同じである
これは決して特殊な例ではなく プーチン政権の場合は規模が大きいだけであって 宮台真司でも養老孟司でも「へずまりゅう」でも見られるヒト全般に見られる普遍的な習性傾向でもある
「私は教科書に墨を塗らされた」だの 「自分の頭で考えるのは10年早い 丸暗記しろ」だの 「迷惑者はザラにいる」といった過去の社会経験を「正解データ(常識)として「学習」することによって 行動学習的に自律的思考(人間としての意識)が抑制され 無意識なバカになるのである
過去に自分が受け入れた行動という「結果」に対し これを事後正当化する形で連鎖し続けないと 過去に自分が受け入れた選択を否定しなければならないため ヒトは簡単にバカになる仕組みが脳に普遍的に存在しているのである
こうした情動の仕組みによる無意識な状態のことを 認知的不協和を解消する形で「洗脳」と言うのである
人工知能AIの「学習」において 回路が単純化された状態を「蒸留」と形容する
Microsoft社のTwitterAIが SNS上の数多のヘイトスピーチを「正解データ」として「学習」した結果 ヘイトスピーチに同調するよう回路にバイアス(偏り)が生じるようになった
これも一種の「蒸留」であり 「洗脳」である
AIというのは生物の脳を模したものであり ヒトの脳の挙動と似たような結果ももたらすことが良くあり 偏った「正解データ(常識)」を「学習」することによって 簡単に洗脳(蒸留)状態にも陥るものでもあり これはヒトの脳でも基本的な仕組みは同じである
虐待が連鎖するのも 脳が洗脳的に虐待状態を「学習」してしまうためである
「生きるため」には 多数派に迎合することは不可欠であり イジメは傍観放置し 権威や「怖い相手」には逆らわず 多数派に同調することで安心満足して 自分からは何の考えも持たずに既存の社会に唯々諾々と迎合することが「常識」となる
「身勝手」とは 必ずしも個人的なものとは限らず 多数で身勝手な観念を共有 共感 共鳴 同調することも珍しくはない
何を持ってして「身勝手」なのかと言えば それは論理客観的根拠を伴わぬから「身勝手」なのであり 真理は数で見極めるものではない
どんなに多数でユダヤ人などの少数派を迫害しても 身勝手であることに変わりはない
聖書であれクルアーンであれ それらはヒトが書いたものであって どうしても伝言ゲーム的な間違いが混入する可能性を排除することはできない
科学も同じである
既存の科学的理論や知見の全てが「正しい」保証はなく 所詮は学術権威もヒトである以上は間違いが混入する可能性は否定できない
宗教の場合は間違いを訂正する仕組みがないが 科学の場合は常に更新できる余地があるからこそ より「正しい」理論や知見へと高めることが可能となるのである
しかし ヒトは権威に教えられたことを疑うことをしなくなる性質があり だからこそ宗教はいつまでもカースト制度などの理不尽な因習までをも「連鎖」し続けてしまうことになるのである
ヒトは 一度自分が既に信じた内容に 疑いを持つことを嫌う習性があり 振り込め詐欺に騙されている人が「いや、自分は絶対に騙されてなどいない」と言い張るのも 虐待が連鎖するのも 脳の基本的な「学習」システムの欠陥によって促される行動である
たとえ虐待であっても 冷静に考えれば「子供にとっても社会にとっても良くない」ことは理解可能なものである
論理客観的に「考え」れば バカを脱することは可能なのである
私が「バカ」と形容しているのは あくまで「考え」ることが可能でありながら「考えない」ことを指しているのであって 先天的な学習障害のようなものを指しているわけではない
自閉症と診断されて 発話言語が苦手な人であっても 文章を書けば一般人以上に理路整然とした考えを持っていることは良くあることであるが 既存の学力偏差値基準においては発話言語が苦手だと評価にはならない
書字が先天的に読み書きできない人というのもいて 文章がほとんど読めないにも関わらず 発話言語は常人以上に理解可能であるために噺家になった人もいる
これら読み書きソロバン的な特定能力基準というものは 本質的知能の基準としては全く意味を為さないものであり コンピューターで例えれば「I/O」のような入出力回路の障害であって 主処理としてのCPUやシステムソフトウェアの問題ではないのである
プーチンやヒトラーは発話言語能力に障害はなく むしろ演説なら得意である
振り込め詐欺師が言葉巧みに他人を騙せるのも 発話言語能力だけなら非常に高いからである
だが 独裁者や詐欺師は主処理としての知能に致命的な問題があり 故に社会的迷惑問題となるのである
Ende;
ヒトというのは どうしても物事を単純化して判断する傾向があり
敵と味方という単純化した二元論で「正義」を振回せば物事が解決すると錯覚しがちである
ロシア人に対する入国制限というのは あくまでプーチン政権に対する対抗措置であって ロシア人という民族国籍に対する差別排除措置ではない
その点については 日本国政府として公に周知しておくべきことでもあろう
ロシア人でもウクライナ侵略に賛同していない人なら海外に出てしまっているのであって むしろ日本などのロシア以外の国にいるロシア人は「敵」ではない
ヒトという種の生物は チーム分けをして優劣を決定して順位序列を作るのが先天的本能として存在しているために スポーツ競技やサバゲーや「フォートナイト」のような勝ち負け(損得)に一喜一憂してゲームとして楽しむこともできるのである
これは かつてヒトの祖先が環境資源の奪い合い競争に勝ち抜いた結果的習性であって ヒト以外の天敵や獲物の獲得以外でも統率的協調性は有利に働くものでもある
敵と味方に分かれて明確な区別が出来ないと 勝ち負け競争が成立しないため ヒトは勝ち負け競争がしたいがために物事を単純化して差別をしたがるものなのである
ゲームはあくまでゲームであって 国際秩序に「ゲーム理論(勝ち負け損得勘定)」を持ち込むというのは不謹慎極まりない無責任な発言である
イジメにおいても「イジメられる方にも問題がある」ことにしておけば イジメをする上において都合が良いからそういう嘘をこじつけるのである
本当はイジメる標的なんぞ誰でも良いのであって 無差別殺人犯の屁理屈とさしたる違いはない
要は 集団統率的な協調性を発揮したいことが本能的に優先していて 差別や序列というのはそのための屁理屈として無意識に事後正当化としてこじつけている「エピソード記憶」に過ぎないのである
イジメなどの暴力的差別集団の場合 イジメの標的など本当は誰でも良いため 集団の中でイジメの標的にされないためには率先してイジメをし イジメ集団の中での序列を高く保つ「必要性」が出てきてしまう
イジメ集団の中では 「どれだけ卑劣なイジメができるか」が序列の基準となり それを競争することに陥るため イジメは最終的には殺害にまで暴走的に発展してしまうこともある
まあ 要するにバカだからなんだが こうした頭の悪さというのは腐敗した組織集団の内部では逆らうことが出来ずに唯々諾々と洗脳的に傍観放置しなければならない状態に陥ることが ヒトには普遍的に見られる
本来権威肩書があろうがなかろうが ヒトであることに違いはないにも関わらず 少数の権威肩書の理不尽な横暴を 多数の無為な傍観者によって温存してしまうことに陥るのは 権威肩書という抽象化された序列順位を「常識(正解データ)」として「学習」してしまうことによって 本来民主的に決めるべき事柄ですらも独裁者に対する恐怖心によってヒトは簡単に独裁体制の横暴に逆らわなくなるのである
数の力は必ずしも合理性が伴うわけではなく 多数が理不尽な横暴を傍観放置して許してしまうことは 何ら珍しいことではないのである
真理は数では決まらない だから議論が必要になるのである
見解に間違いが混入していたとしても 論理客観的議論によって磨かれれば より高次の真理に近づくことが可能となるが ヒトはどうしても感情的に強く出てくる圧力に屈服しがちで 「怖い」相手には逆らわなくなり それが権威肩書という抽象化された順位序列によってより強く発揮されることにもなるのである
そして 同時に 自分にとって都合の悪い話をする「嫌な相手」には耳を貸さなくなり 議論そのものが成立しなくなってしまうことも珍しいことではない
ヒトは自分の頭で物事を考え判断するよりも 何も考えずに主観的印象や情動だけで物事を判断しておいた方が安心で満足感が得られるものなのである
それは エサをくれる都合の良い相手にだけ媚びへつらうイヌの行動習性と何ら変わりはない
Ende;
「自分の人生に嫌気が差した。事件を起こせば刑務所に戻れると思った」 -長久保浩二容疑者
ネットカフェ立てこもり事件の容疑者 10年前も人質立てこもり -NHK
立てこもり中毒かと思ったら 刑務所中毒だった
Ende;
川村正二
ヒトの色覚には多様性がある
色覚多様性によって絶滅を免れた可能性
フィンセント:ファン:ゴッホは赤緑色盲だったという説がある
水の中では4色型
陸上の夜行性生活では2色型
森の中では3色型
2色型の方が狩りには向いていた
オマキザルもヒト同様に2色型と3色型がいる
4色型もザラにいるのではないか
⇨色覚型に違いがなくても 植物の多い田舎の環境で育った人と 都市で育った人では色分解能に差が出るという 脳が違う以上色覚に限らずあらゆる感覚には違いがあるのが必然
白目
視線がコミュニケーションに重要
霊長類88種 強膜(白目)がより白いのはヒトのみ
大脳新皮質容積と強膜面積に相関が見られる ⇨サンプル数が少な過ぎやしないかい?
生き残りのための生存戦略 ⇨また言ってる 後天的な都合は遺伝的要素に影響を及ぼさず 戦略的選択は不可能である
橋彌和秀(はしやかずひで) 九州大学
アイコンコンタクトでオキシトシンを分泌
結城雅樹(ゆうきまさき)北海道大学
顔文字が日本では目の違いで表現するが 欧米では口の違いで表現する
^_^ T_T ゜_゜
:D :P :) :(
文化の違い ⇨欧米人から見ると一般的に東洋人は不機嫌そうに見えるという話を聞いたことがある 日本人から見るとインド系の人の目つきが怒っているみたいに見える傾向もある 脳内の「正解データ」の違いだろうな
Ende;
養老孟司は自身の支離滅裂な話を正当化するために
「私は教科書に墨を塗らされたんですよ どうせ世の中間違っていない本なんかないんだから 間違っていたら墨を塗れば良いんだな そう思っています」
などと主張したことがある
「間違っていない本なんかない」からといって 論理整合性のない支離滅裂な話を一切訂正しない無責任性が正当化できるわけではない
迷惑系ユーチューバーの「へずまりゅう」が「迷惑者はザラにいる」と称して自身の迷惑行為を正当化できているという身勝手な勘違いと同じものである
「社会環境が悪い」という環境依存要因を持ち出して自分の自律的な社会的責任判断選択を放棄するための言い逃れになると思っているバカは非常に多く 自分の無責任性を正当化できるかのような都合の良い話だからこそ無責任性を正当化するのに都合が良いから養老孟司や長谷川眞理子は衆愚人気があるのだ
養老孟司にせよ長谷川眞理子にせよ 何か世の中の間違いを具体的に指摘しているかのような話はしているものの 個人の自律的責任判断については全く言及しておらず 読み手は社会の問題を自分事として認識することなく 結局何が悪いのは何も理解することなく 主観的気分として安心満足して「自分は頭が良くなった」と勝手に勘違いしているだけである
ヒトは 世間的成功を人間の価値か何かだと勝手に勘違いし 自律的な社会的責任判断よりも問題の責任が社会の方にあると思っておけば 気分的に安心満足して「信じよう」とする
「ゲーム理論」なんぞを持ち出して まるで環境要因だけで戦争が起きるかのような話をしておけば 衆愚は何かを理解したかのように錯覚し 鵜呑みにし 具体的に何が本当の問題なのかは全く自覚しなくなるのである
「まちがったっていいじゃないか にんげんだもの」的に自分の頭の悪さを事後正当化できる話で満足し 自分の頭の悪さを正当化したり なかったことにしておけるような話ばかりを主観的に「好き」になることで 「信じよう」とするのである
ヒトは間違えることがある
間違えることそのものは致し方ないことだと言えるが 間違えたことを事後正当化したり はぐらかしたり なかったことにして良いわけではない
香港警察やミャンマー政府軍による民主化組織弾圧においても 民主化デモに乗じた暴動破壊も起きたからこそ武力による治安統治が正当化されてしまったのである
ロシア軍によるウクライナ侵攻においても ウクライナ国内における親ロシア側との対立による暴力の応酬があったからこそ ロシア軍による介入の「理由」にされてしまった
理不尽な権力に対して戦うことは必要だが 暴力破壊で戦って満足するのではなく あくまで論理客観的な根拠に基づいた合理的な「真理」を見極めることが あらゆる「人災」の再発防止において最も重要なのである
民族国籍に優位性のようなものを持ち出してしまえば ヒトは簡単に分断され 差別による懲罰的暴力の応酬によって殺し合いは激化の一途を辿るものである
そして 「味方」や「仲間」同士による一致団結した統率的協調性を発揮することによって まるでラグビー競技の勝ち負けのような「ゲーム理論」的損得勘定に基づいた紛争にまで快楽を感じ 本当の目的を忘れて間違った行動選択によって暴走破綻への泥沼へと陥るものなのである
かつてソビエト連邦はナチスを撃退したが それはあくまで「現場の正義」であり 事態の収拾において役立っただけであって
警察が暴走族を何人捕まえようとも 暴走族などという迷惑行為の根源的原因究明にも 再発防止にもならないのと同様 ナチス撃退もナチス体制という腐敗体質が形成されるメカニズム構造の分析にはつながらず 結局ナチスような侵略戦争をも引き起こすことになってしまっているのである
ヒトは「自分だけは絶対に大丈夫だ」「自分達だけは絶対に正義なんだ」と思い込みたい習性がある だからこそ自分達の何が問題なのかを見失い 意味のない暴力を振り回しておくことで安心して何も考えなくなるものなのである
梅沢富美男のように「こんな奴は死刑にしちまぇ!」と怒鳴り散らして死刑を繰り返しても 通り魔のような不条理な殺人事件の原因究明にも再発防止にもならないのである
「メタ認知」などと称して「サルの正義」をこじつけておいて 「人間としての行動判断」を見失っていて 一体何が「メタ認知」だと言えるのであろうか 頭が悪いにも程がある
Ende;
「ヒトには先天的に人間性が組み込まれている」
「ヒトには強い凶暴性はない」
「極刑を持って罪を償うことこそが尊厳」
これらの話には合理的根拠は何もなく 大衆観念的な「納得感(主観)」を衆愚に与えて真理を撹乱するだけである
ヒトという種の生物が どのような条件下において殺人や紛争に至るような凶暴性を発揮するのかは 必ずしも全てのヒトが同じ条件で発揮されるというものではない
「本当につまらない理由」で殺人を引き起こすヒトもいれば どんなに虐げられても暴力で反撃しないヒトもいる
それは 単なる先天的な個体差だけで語れるものではなく 本人の意志 本人の主体性による自律的な社会的責任判断選択能力にも依存するものである
加藤英明は爬虫類が大好きで 動物全般にも興味を持っており 生態系全体が破壊されれば個体種の減少や絶滅が引き起こされることを危惧している
これは あくまで加藤個人が主体的に環境保全を望んでいるのであって 世間多数からの評価承認が欲しくて環境保全活動をしているわけではない
環境保全という公益的活動は「善い行い」であるが 公益的であるということは必然的に加藤本人にとっても「善いこと」であるが故に環境保全活動をしているのである
個人というのは あくまで社会の中の存在であり 公益的な善行も結局は「自分のため」でもある
泥まみれになって危険な生物の捕獲や駆除をすることは 決して楽なことではないが 環境が破壊されれば自分がこれからも生き続ける社会全体の損失にもつながることから環境破壊への強い危惧を抱いているのである
「どうせ世の中 自分の事しか考えていない奴ばかりだ」などと言い出すバカは多いが 「自分の事」と「社会的公益」は不可分であり 別のものだと「思って」いるからバカなのである
自分が産まれてきた社会や時代は選択不可能だが どのような時代や社会を望み どうすれば自分がこれらも生き続けるに価する社会に変えられるのかは選択可能性が残されている
80億ものヒトが存在する以上 個人の判断選択が社会に与える影響はほとんどないが 決してゼロではない
1/80億の一人としての意志を貫くか それとも既存の社会構造や制度や因習や常識といった「正解データ」を鵜呑みにして「悪いのは他人や社会だ」と責任逃れをするかで行動は大きく異なる
自律的な社会的責任判断選択をするか否かは 主体的に社会に関わる意志が存在するかどうかに依るものである
誤給付金をちょろまかそうとするバカもいれば 原発の危険性を傍観放置するバカもいれば そもそも多くのヒトは学生時代にイジメを傍観放置し 社会的責任を放棄していたバカである
個人的に「死にたくない」 「損をしたくない」 「嫌な思いをしたくない」 「怖い相手に逆らいたくない」といった利己的情動によって選択したあらゆる自分の過去の行動結果を 事後正当化する形で「世の中誰もがそういうものである」と決めつけておいた方が 自律的な社会的責任なんぞ負わずに済むと「思って」いるからこそ ヒトは簡単に無責任な行動選択をできるようになるのである
「損をしたくない」という情動は 同時に過剰な利益を求めることでもある
過酷な弱肉強食の自然環境下においては 過剰な資源(利益)を蓄財しておいた方が 有事の際には生存にとって有利に働くため ヒトは他人から奪ってでも過剰蓄財をする習性を持った個体種への収斂進化が引き起こされているのである
弱者を切り捨ててでも自分が助かることを優先するという利己性は ヒトに限らずあらゆる生物に見られる行動である
「ゲーム理論」とは 要するに「勝ち負け」や「損得勘定」で行動が決定することを意味する
それは同時に 「勝てそうな相手なら 暴力で抑えつけて資源を略奪した方が得」という意味でもある
それはもう「強盗の論理」でしかない
スポーツ競技や「フォートナイト」のような「ゲーム」では あくまで予め決められたルールや規制条件の中だけで勝ち負け競争を主観的に「楽しむ」ためのものである
ヒトは 統率協調的に他集団との競争に勝つことが本能的に好きであるため スポーツなどの「ゲーム」を楽しむことで 本能的欲望や快楽を満たして満足する術を発明したのである
「欲望そのものを欲することは出来ない」が 欲望をどのように「楽しむ」かは選択可能性が存在しているのである
ゲームは所詮抽象化された成績評価にしかならないが エンターテイメントとして賞金がかかればプロスポーツとして成立することもある
商売的に成功したからといっても ゲームをやるそもそもの理由とは 主観的に「楽しい」からであって 観客もまたプレイヤーに共感して「楽しい」から応援し 観戦に費用を支払うのであって これら一連のエンターテイメントというのは 主観的な「楽しみ」を目的とした芸術分野の一つである
将棋やラグビーで勝とうが 多額の賞金で世間的に成功しようが 将棋やラグビーというのは基本的には主観的な「楽しみ」が目的であって 論理客観的に直接社会に役立つ知能や能力の論拠には一切ならない
脳科学者共はやたらと将棋棋士の「直感」ばかりを採り上げて知能の論証のように言い張るのだが 将棋でいくら成績を上げても 社会的に役立つような理論や構造の発見につながることはなく 将棋が単に社会的認知度が高いことで稼ぎが大きく「世間的成功」になっているだけの話に過ぎない
ラグビーなどのチーム競技における統率協調性といったものについても それが競技の成績にどんなに影響するとしても ヒトの先天的な統率協調性という本能習性が人間性の論拠になるわけでもなく あくまで先天的本能習性を主観的に「楽しんで」いるだけであって 論理客観的な人間性の論証に使えるわけではない
ヒトは 世間的に成功している者や 多数人気を短絡的に人間としての優秀さであるかのような「解釈」をしたがるものだが これは論理客観的な根拠を伴わない大衆観念であり こうした大衆観念的「優秀さ」の錯覚を あたかも「人間としての価値」にすり替える形で脳科学者や生物学者共は大衆をはぐらかしているのである
チーム競技における統率協調性というものに対して 大衆は体育会系集団への勝手な幻想を抱き 封建的序列による忠誠忠実な服従性に「美しさ」という快楽を感じ その主観的快楽によって人間性のようなものであるかのように錯覚する習性がある
軍隊や兵隊は危険な仕事であっても逃げることなく立ち向かってくれる「尊さ」はあるものの それはあくまで結果に対する「尊さ」であって 統率協調性そのものの尊厳の論証にはならない
なぜならば 暴力団やテロ集団や暴走族 半グレ 残虐なゲリラや海賊 日本大学田中英寿体制や東京電力福島第一原子力発電所における原発の津波に対する脆弱性放置など あらゆる非人道的集団組織においてもヒトの先天的統率協調性というものは働いているものだからである
実際に香港警察やミャンマー政府軍は民主化組織の弾圧にも利用可能なものであり 警察や軍隊でありさえすれば常に正しい結果しかもたらさない保証は何もないのである
「組織の利益を優先し 個人が自律的な社会的責任を負わなかった」ことこそが原発事故の最も根源的な原因であり 故に畑村洋太郎は原発事故を「人災」と認定したのである
個人が自律的な社会的責任を負わなかった屁理屈なら いくらでもこじつけることは可能であろうが それらのこじつけの全ては環境依存要因であって「組織の体質」だの「トップが悪い」だの「制度や構造の問題」ばかりであり これらは全て「個人の自律的な社会的責任判断」を介さない環境要因でしかない
長谷川眞理子がウクライナ侵攻について語った内容の全ては こうした環境依存要因を並べているだけであって 個人の自律的判断選択については何一つ論じていない
チンパンジーの殺し合いの話であれば チンパンジーに理性など存在していないから全てを環境要因だけで語っても構わないが ヒトの殺し合いにまで「サルの正義」を持ち込み こじつけるというのは不謹慎で無責任にも程がある
ヒトの多くは自分で責任を負いたくないという感情が働くため 責任放棄のあらゆるはぐらかしであっても情動的な「共感」によって容認してしまう習性があり 組織腐敗の責任の全てを組織幹部などのトップになすりつけ 組織を構成している大多数の個人には責任がなかったかのような「解釈」も簡単に鵜呑みにしてしまうものなのである
アドルフ:ヒトラー一人でナチス独裁政権の全てを作り出したわけではなく ナチス政権というのはそもそもドイツ国民によって民主的多数決によって承認されたものなのであり ヒトラー個人だけを批難しても プーチン個人だけを批難しても無駄で 体制そのものに共感共鳴同調迎合服従忖度し 媚びへつらい唯々諾々と従う大多数の組織を構成する個人の自律的な社会的責任判断の欠如こそが 腐敗した暴力組織が傍観放置され 結果的に暴走破綻にまで至ってしまう最も根源的原因なのである
多くのヒトは 生物学者や脳科学者共の支離滅裂なはぐらかしを論理客観的には理解しておらず 権威肩書の主張でさえあれば何の疑いも持たずに簡単に鵜呑みにし 主観的に安心して満足することで何も考えなくなる
自分の頭で何も考えず ただ権威の命令や主張を唯々諾々と鵜呑みにするバカの方が 封建的序列による統率協調性を発揮し 環境資源の奪い合い競争においては有利に働き 何も考えないバカの遺伝子の方が拡がりやすかった結果として ヒトは先天的にはバカなのである
だが 自分の先天的な頭の悪さ 認知的欠陥の存在を理解し自覚していれば バカにならずに済むのである
Ende;
呪いを次世代に引き継ごうとする上司と、自分の代で断ち切ってくれる上司、どちらが部下から尊敬されるでしょうか。
↗大人が今の若者を嘆くのは、呪いに侵されてるから -東洋経済
⇨呪いを断ち切ろうとすれば「裏切り者」として排除され 出世はできず 「上司」になることはできない
原発の津波に対する脆弱性を主張した東電社員は 会社に居づらくなって東電を辞め 遠く離れた四国で農業に就いているのである
従って 「尊敬される上司」そのものが構造的にあり得ないのである
日本大学田中英寿体制に共感共鳴同調迎合忖度服従するようなバカでなければ 左遷されて辞めざるを得なくなる
権威に盲目的に唯々諾々と服従し 組織にとって都合良く卑屈に権威に媚びへつらうバカでなければ組織には馴染むことができない
本来組織内部では少数派であるはずの権力者に対し 組織の大多数を構成している個人に主体的な問題意識がないから組織腐敗は進行し 長期にわたって傍観温存され続けてしまうのである
ヒトという種の生物は先天的には平等が嫌いで 卑屈に媚へつらう卑怯者でなければ「生きて」ゆくことができない生物なのである
先天的本能に抗うのは 主体的な論理客観性である
過酷な弱肉強食の自然環境下においては 過剰に利益を蓄積しておいた方が生存価においては有利に働くため ヒトは先天的本能としては利己的利益を優先し組織に阿り 唯々諾々と服従忖度して「人間のクズ」になるものなのである
組織の利益を優先しておいた方が 組織の中では有利な地位立場を得られるため ヒトは自律的な社会的責任なんぞ負わなくなり 何も考えずに不条理で非合理な因習や規則を世代間で「連鎖」してしまうものなのである
こうした「連鎖」を断ち切るのが「人間としての意識」であり「論理客観的自発検証性」なのである
それは決して先天的本能習性ではなく あくまで主体的な「考え」によってのみ発揮されるものである
Ende;
アメリカの銃乱射事件が銃では防げないのと同様に
核兵器は抑止力として機能することはなく むしろ独裁者のワガママのために利用されるだけである
「懲罰こそが唯一絶対的な犯罪抑止だ」とか「軍拡競争が安全保障だ」という倒錯を 人類は自覚すべきである
Ende;