書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

○自然とは怖いもの。

2014年09月02日 15時44分47秒 | 意識論関連
 ツイッター上で気になったツィートがあったので、少し掘り下げてみる。

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良心や罪悪感なんて存在しないよ
法律が怖いから、みんなそれらしく振る舞うだけだ。
アニメヲタクがどーたらこーたら言ってるおっさん連中も、法律がなかったら小学生レイプするだろ

蓮@残響
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 「法律が怖いから、犯罪を犯さない。」というのは、当人に社会的責任の意識がなく。「怖い」という気分感情が行動に直結している短絡的帰結です。

 小さな子供に対して、「道路に飛び出してはいけない理由」を論理的に理解させることが困難である場合。便宜的に「叱る」ことにより、「道路に飛び出すと、怒られるのが怖いからやらない。」といった行動抑制(他律)を植え付ける手法が採られます。

 しかし、この手法は論理的説明が理解出来ない幼児に対しての便宜的、方便としての手法でしかありません。

 「怖い=法律に従う」という短絡的行動抑制というのは、国家権力を親と見なして服従する形での他律的行動抑制であって。こうした気分感情が行動抑制と直結していれば、「法律がなければ何をしても許される。」という帰結に至ります。

 中東由来の一神教においても、「神がいないのであれば、何をしても許される。」という観念を良く耳にしますが。「法律さえ守らせておけば、全てがうまくゆく。」というのも結局は宗教と同じ観念に過ぎないのです。

 神だの法律国家権力による抑圧、人工的権威や恐怖、力によって行動抑制をさせるという手法こそが。むしろ「自分がそう育てられたから、同じことをする。」という一種の「虐待の連鎖」と同じ短絡的帰結なのです。

 良心というのは、先ず自分自身が自律的に社会というものを大切にしようとする意欲がなければ働くことはないでしょう。親大人達から「あれはダメだ、これもやるな。」と規則で縛り上げて抑圧ばかりされた人にとって、社会とは「自分にとって都合の悪い嫌なもの。」としてしか認識出来ず、結果的に「法律がなければ、何をしても良い。」という帰結に陥りがちです。

 しかし、自発的に「これなら一生続けることが出来る。」ような純粋行為を持っている人にとっては、社会というのは安全で持続可能なものであって欲しいと願うようになるのです。

 ですから蓮@残響さんに対してのリプライ(返事)は140文字制限下の便宜的な説明でしかありません。

 こうした便宜的説明というのは、仏教では「方便」と呼び、自発的考えを促すための認知行動療法的手法のようなものであると思って頂けると良いと思います。



 「自律とは、自発の中にあり、他にはない。」

 これは定理です。自発的に社会を守りたいと思わなければ、持続可能性も安全性も「糞喰らえ。」だと思うに違いありません。

 それは、むしろヒトという種の生物において自然なことであると考えた方が良いでしょう。

 自分自身がこの世界において楽しいと心から思えることがなければ、社会を守ろうとは思わないでしょう。

 この場合における「楽しい」とは、単なるその場限りの興奮や熱狂のようなものではなく。あくまで他人からの評価や比較に依存せず、個人が持続的に楽しむことが出来るような楽しみでなければなりません。

 宗教家達は「自分を必要としてくれる人に感謝しろ。」と言い張ります。それならブラック企業の社畜達はブラック経営者に感謝しなければなりません。そんな短絡的でバカみたいな話は聞きたくもありません。

 東京電力というブラック企業では、「津波の影響を考慮に入れたら、日本のどこにも原発など造れないんだよ。」と称して社畜達に原発の危険性を放置するよう促したそうです。

 保身だけを考慮すれば、この就職難の昨今いつ起きるかもわからぬ災害を考慮して上司のご機嫌を損ねてプー太郎になるよりも、「素直」に服従しておいた方が気分的にも「怖く」ありませんし、その場限りには安全性だったと言えるでしょう。

 しかし、こうした服従というものは、本当の意味での「素直」だと言えるでしょうか。

 ナチス政権下のドイツにおいては、ユダヤ人を迫害することが求められました。ポーランド アウシュビッツ ビルケナウ絶滅収容所の吏官アドルフ:アイヒマンは、600万人のユダヤ人を殺鼠剤で死体に変換する計画を立案し中佐という階級を得ることに成功しました。

 環境に流されて、環境から受けた価値観を鵜呑みにし、自律的に物事を考えない人が行き着くある種の究極的終着点だと言えるでしょう。

 環境から受けた価値観を鵜呑みにしているというのは、自分自身の内部に主体的価値観を持たないことによる思考停止が促す錯覚や妄想の類に過ぎないのです。



 では、どうしたら主体的価値観である、「これなら一生続けられる。」ものが見つかるのか。それには実際に自分自身でやってみないとわからないのです。

 しかし、主体的価値観を持たない人の多くは、「どうせ一生続けたいと思うものなんか、自分には見つからない。」と短絡的に決め付けてしまうでしょう。こうした「決め付け」や「諦め」といったものは、脳に思考停止を促し、その場限りに脳に快楽を与えることが出来るための、一種の逃避に過ぎないのです。

 こうした自分自身の主体的価値観が何かも考えなくなることで、それ以外のあらゆる自発的論理検証性も同時に喪失することに陥ります。

 この場合における論理検証性とは、あくまで自発性を伴う論理検証性を指すのであって。ペーパー試験の論理検証性テストの成績とは無関係です。テスト試験の場合には、成績順位という「他者から与えられる脳への報酬。」に対する条件反射であり、テストで成績が良ければ他人より優位に立てたような錯覚によって気分的に満足しているだけであって。本質的な自発的論理検証性とは無関係だからです。

 「他者から与えられる脳への報酬」という、環境依存的結果に流されていることには、主体性も自由も存在しません。

 なぜ自由ではないのか、それは「結果」だからです。

 本当の意味で自由だと言えるのは、主体的「目的」意識を持って、自発的に選択することであって。その場限りの気分的感情や欲望に流されることではないのです。



 東南アジアや南米の熱帯雨林や、アフリカのサバンナに住む原住民達には、さしたる法律や規則というものはありませんが。彼らは彼らなりに自分達の社会に責任を持ち、社会を持続させてきたからこそ、現存するのであって。「法律がなければ何をしても許される。」という短絡的なものではないのです。

 空キレイだな。

 猫かわいいw

 蝶捕まえたった。

 唐揚げんまい。

 そんな些細な幸福を、幸福であると感じるためには。近所の子供達がレイプされていたり、ガソリン飲まされて燃やされたりしない社会である必要性が自ずと出て来るものなのです。

 欲望というのはその場限りにコロコロ変わるものであって、そうしたその場限りの脳の行動バイアスに流されていては、本当の意味での自由などというものは論じることが出来ないのです。





Ende;
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2 コメント

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Unknown (れん)
2014-09-03 12:56:56
そんな正しく自由な世界には、自分の居場所は無いと確信している。
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返信 (inui-takashi)
2014-09-03 15:12:26
それは「今の気分」であって、その場限りの感情論だけで自分を定義しちゃいけないよ。

ゆっくりで良いです。焦らないこと。
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